夕墨の部屋
リーエンベルクには、大小合わせて七百以上の部屋がある。
現在使用されているのが、本棟の二十七、ネアの住む離宮内の別棟の十一。
旧王家の礼拝堂は使用されているが、謁見の間など、もはや用を成さない部屋も多い。
大広間さえ使わないエーダリアが、この北の王宮を有効に利用しているとは、とても言えなかった。
探検してみようと言い出したのは、ゼノーシュだ。
衛兵用の控室のような場所ではなく、騎士棟にある元王族の部屋を使用しているグラストと、廊下の先に続く部屋の多さが気になったらしい。
掃除や管理などは、家事妖精達が行っている。
七百もの部屋を管理するなど、人間に出来る仕事ではない。
自分の暮らす部屋だけでも精一杯どころか、定期的に家事妖精に助けて貰うばかりのネアは、家事妖精を心から尊敬している。
「大広間には、首なしの貴婦人が出るって」
「宮殿のお話としては大変に興味深いですが、警備上は駄目なやつなのでは?」
「中庭に、厩舎に住んでいた馬の亡霊なら出ますよ」
ヒルドがさらりと付け加えたので、ネアはこれまでに登場した亡霊たちの数を数えてみた。
「……数十人もの知らない方が、同じ屋根の下にいたのですねぇ」
(そして、十五体も首がないのは、宮殿だからだろうか…………)
ヴェルクレア統一戦争の際には、この宮殿にも死体部屋があったのだから、血生臭い歴史があることはわかる。
わかるが、その血生臭さを今なお持続する同居人がいるとなると、話は別だ。
(こんな話をしている部屋が、物騒な過去を持っていたりしなくて良かった!)
ここ夕墨の部屋は、終戦前に、統一戦争の勝者である南の王族こと、ヴェルリア王族との密談が持たれた部屋だと言われている。
墨がかった茜色を基調としており、前の話題を出したゼノーシュが、普段使わない部屋でお茶をしたいと開拓した部屋だった。
「因みに、私は亡霊というものをよく存じ上げないのですが、その方達は、悪さはしませんか?」
浴室に入ってきたり、盗み食いをされたら堪らない。
心配になったネアは、ヒルドにそう尋ねてみる。
「現在の使用者に害を及ぼさないような術式が、リーエンベルク全域にありますので、どうぞご安心下さい」
「そうなのですね。…………とは言え、別宅内部に他人がいても気にならないのは、さすが元王族という感じですね……」
「別宅?」
ヒルドが不思議そうにしたので、ネアは眉を寄せた。
手に持ったままだったカップをテーブルに戻しながら、認識の違いがあったのかなと考える。
「エーダリア様のご自宅は、王都にあるのですよね?」
「王宮内のご自身の領域を放棄して購入したもののことでしょうか。ですが、王都にある屋敷の一つという程度のご認識でおられるでしょうね。塔のみに在席していた頃は、自分の執務室で暮らしていたようですよ」
それは、人間として駄目になるブラックなものではなかろうか。
「王都のお屋敷には、あまり帰っていらっしゃらないんですか?」
「あちらは、利便性の高い拠点の一つというご認識です。自宅、という意味では、このリーエンベルクが、エーダリア様ご自身の領地内にある住まいであるかと」
「…………なんと」
ここでようやくネアは、このウィームの領主とやらに会ったことがないという事実を認識した。
これだけ自由にちょろちょろしているのだから、どこかで名前を聞いてもいいものだったし、ましてや、ウィームの中心にあるこの王宮に住んでいるのだから、推して知るべしだった。
「エーダリア様は、ご領主としての統治はされているんですか?」
「統括として決定を必要とするものは、全て見られていますよ。現在は塔の仕事が中心になりますので、平常時は代理妖精が代わりに…」
「代理妖精?!」
(妖精がそんなに万能だなんて…………)
ネアは、妖精の汎用性の高さにぽかんとしてしまった。
妖精は、領主業務すら代行してしまうというのか。
最も身近な家事妖精は、ぼんやりとした影のような存在だ。
黒煙の魔物の煙状態のときより、さらに儚い霧のようなもの。
まだ形を得ていない状態の妖精で、家事妖精としての研鑽を積めば、形がはっきりしてくるのだそうだ。
姿形のはっきりしていたベテラン妖精は、国家統一の際に中央に引き抜かれたらしい。
「代理妖精は、……そうですね、私もその括りではありますが、各機構の要職に、主人の代理として就く妖精のことです。主人と同等の権利を持ちますが、誓約で絶対の忠誠を誓っておりますので、主人の不利益になるようなことはしないのです」
「待って下さい、ヒルドさんは、第一王子様に仕える妖精さんですよね?」
「ええ。私は、限定的にはではありますが、第一王子の代理としての権限を有しております」
「限定的にというのは、やはり王家の方の権限は特殊だからでしょうか?」
「その通りです。決して代行が許されない権限もありますからね。それに、そう畏まらなくても、第一王子には、他にも数人の代理妖精がおりますよ」
だから彼は、エーダリアにあれだけ近しいのだと、ネアは得心した。
第一王子の代理人として行動していれば、ただの付き人より余程自由がきく立場なのだろう。
「ようやく理解しました。だからヒルドさんは北の王宮に、これだけ長く滞在出来るんですね」
中央としてみれば、監視と管理の役割も兼ねて送り込んでいるのだろう。
そう考えていると、小さく笑ったヒルドが、ネアの推理の一部を訂正してくれる。
「私はあくまでも、参考たれ、手助けを許すという立場です。王家と塔は別の組織ですから、あくまでも外部機関としての介入ですよ」
(善意のストッパー役、という訳なのだろうか……。ここが暴走すれば、王家もまずいというような……)
そんな事を考えていたら、ゼノーシュに袖を引かれた。
「ネア、僕、首なし騎士に会いたい」
「あら、浮気ですか?」
「違うよ!僕が大好きなのは、グラストだけだもの!!」
力いっぱい否定したそのちょうどのタイミングで、まさかの当人が部屋に入ってきた。
びっくりしたゼノーシュが固まり、同じようにグラストも固まる。
「………浮気してない!」
「まぁ。……………逃げてしまいましたね。グラストさん、追い掛けてあげて下さい」
「浮気、というのは?」
「この王宮に出る、首なし騎士に会いたいと言ってただけの、可愛い願望ですよ。でも、そんなお喋りを聞かれてしまったので、本命の大好き騎士は、グラストさんだと自供してしまったのでしょう。是非、追い掛けてあげて下さい」
「わ、わかりました!」
頬を染めて走って部屋から逃げていったゼノーシュを、グラストは慌てて追いかけてゆく。
大柄な体格に似合わず俊敏なのは、彼が優秀な武人だからなのだろう。
「ゼノのお父さんっ子具合が、こんな風に少しでも報われるといいんですが。そして、グラストさんは、虎みたいで恰好いいですしね」
「おや、ネア様は虎がお好きですか?」
「大好きです。虎と雪豹が、好きな動物第一位です」
「私が生まれ育った島には、虎もおりましたよ」
ネアはびっくりした。
ヒルドが自分の履歴について語るのは珍しい。
思わず座り直して、前のめりの姿勢になってしまう。
「大きかったですか?やっぱりこの世界の虎も、黄褐色と黒なんでしょうか?」
「この世界の虎は、灰色に黒の縞模様になります。北方の国には、青白色に灰色の縞のものもいるようですが」
「…………なんてことでしょう。どこかで絶対に見なければ!」
「私の故郷の島は随分と遠いですが、王都の動物園にはおりますよ」
「動物園が!そして、ヒルドさんの故郷は、遠いところにあるのですね」
小さく、ヒルドは表情の一端を緩ませた。
それはまるで自嘲するかのような苦みのある微笑みだったので、
ネアは、彼の履歴が決して穏やかなものではないのだと知る。
「ええ。森と霧に囲まれた、小さな島国です。その島の精霊王と我ら妖精は、長い時間上手く共存しておりましたが、やはり世代が変われば失われてゆく絆もあるのでしょう。今でも故国を愛してはおりますが、帰ろうとは思いませんね」
窓の外は、季節の変わり目の雨が降っている。
雨と霧の日々が続き、それがやがて雪に変わってゆくのだそうだ。
本日ディノは、そんなウィームの冬に備えて、ネアのコートをオーダー先に引き取りにいっている。
あの動いていた毛皮がどう仕立てられるのか、ネアは不安で堪らない。
「大切なものが変わってしまったその先で、ヒルドさんにとって、大切なものや場所はありましたか?」
そう尋ねたのは、不安がなかったから。
こんなに穏やかに語る人にとって、この場が不幸である筈などない。
(望まない場所で、こんなに、愛情深いひとでいられる筈がない)
案の定、ヒルドは微笑んだ。
「そうですね。長く生きてきて良かったと思う程度には」
「良かった。自分の行く先で、いつかそう思えることが、人生の醍醐味ですものね」
座った椅子に広がった透けるような羽が、淡い光を帯びて微かに揺れる。
こうして光を放つときにだけ妖精が羽から落とす鱗粉が、一般的に妖精の粉と呼ばれるものだ。
「…………ネア様は、私が肯定すると確信の上で、問われましたね?」
「大切なものを持たない方が、あんな風に誰かを慈しむことは出来ないと思ったので。無遠慮な質問だったら怒って下さいね。ヒルドさんは、全て呑み込んでしまいそうなので……」
「…………あなたは、元の世界に帰りたいと思うことはありますか?」
いつか、誰が、この質問をするだろうとは思っていた。
自分でも何度も自分と話し合い、
そして、いつの間にか考えることもなくなっていた。
だから、ネアは一片の曇りもなく否定する。
「いいえ」
「何の未練もないと?」
「あの世界での私は、大切な家族の残したものを辛うじて守りながら、小さな箱庭のようなところで生きていました。不幸ではありませんでしたし、幸せなこともありましたが、ここに居る時のようには心が動きませんでしたから。……だから、大切なものがあるということの恩寵は、もはや何にも代え難い、失いえないものです」
告白の後には柔らかな沈黙が落ち、ヒルドは一度深く頷く。
彼自身にも、馴染みのある思考の動きだったのかもしれない。
「あなたにとってのそれは、ディノ様なのでしょうねきっと」
「ではきっと、ヒルドさんにとっては、エーダリア様なんでしょうね」
ネアがそう返せば、ヒルドは珍しく言葉を失った。
「私の主人だとは思いませんでしたか?」
「その方を存じないのもありますが、エーダリア様だと思っていました」
「そう、……ですね。ではどうやら我々は、お互いに厄介な者に心を傾けたようだ」
そう微笑んだ妖精は、ちらりと視線をネアの背後に投げて、更に微笑みを深めた。