169. 目撃者になりました(本編)
「ドーミッシュ、アルテアとは何をしても構わないけれどね、この子は私の指輪持ちなのだから、巻き込まないようにしておくれ」
もふもふと震えている夢を司る魔物にそう話しかけたのは、ディノだった。
ご主人様がじたばたするので、先手を打ってしまおうという作戦に出たらしい。
極端に足の短い小鹿は震えながらこくりと頷き、ネアを見てからまたこくりと頷いた。
「今回は、君が敷いた魔術のどこかから、この子が繋がってしまい、この土地に零れ落ちたようだ。この子はアルテアを使い魔にしているから、アルテアを損ないたいときにはそのことに注意するように」
またこくりと頷き、小鹿はアルテアを見上げてキヒッと笑った。
アルテアの背中が強張ったので、とても不快な思いをしたようだ。
その後にネアの方を見上げた小鹿は、恨みのある魔物を使い魔にしてしまった人間に、きりっとした目を向けてこくこくと頷いてくれる。
ちびちびした尻尾を振っているので、とても感謝してくれているようだ。
「プリュ!プリュッキュ!!」
「…………くそ、やっぱりお前だったのか」
そして、ネアには分らないちび鹿語による会話が始まった。
アルテアが普通に応答しているので、この言語もわかるのだなと驚いてしまう。
魔物とは何なのか、また思考の迷路に落ち込みそうだ。
「プリュ!」
「…………言っておくが、あの王女はアイザックの駒だぞ?俺はどうなっても知らないからな」
「…………プリュ?!」
アイザックの事は怖いのか、小鹿は震え上がってからうろうろと円を描くように歩き始めた。
あまりにも足が短いので、時々下草に躓いてつんのめっている姿の破壊力に、ネアはどきどきする胸を押さえて熱い溜息を吐いた。
「あざとい可愛さです。少し腹黒そうなところも、こちらに害がなければ新しい魅力ですね」
「アルテア、あの獣を出したらどうだい?」
「それより、さっさと連れて帰れ」
「白もふ!白もふ!」
「やめろ」
ご主人様の様子がおかしいと察した魔物がそう声を発したが、アルテアはまず間違いなくそれだけは避けたいところだろう。
因縁の相手の前でネアにまで白けものコールをされて、露骨に顔を顰めていた。
その間に、小鹿魔物はディノに何かを尋ねているようだ。
「プリュ、プリュッキュ」
「うん。そういうことは好きにしていいよ。ただし、使い魔の契約だからこちらに響かないようにね」
「プッキュウ………」
「そうだね、………この子は、アルテアの作る料理が好きなようだよ。それと家?」
「プッキュ!」
「ひとまず、我々はヴェルクレアに在籍している。アルテアの統括になるが、あまり目立ったことをすると人間達が騒ぐだろう。特にウィームに害を為してはいけないよ。この子が望むなら、私は君とて排除するつもりだからね」
「プッキュ、プリュ!」
「うん。そうするのがいいだろう。………確かに、アルテアも不本意そうではあるのかな」
「キヒッ」
「その笑い方をやめろ」
ネアにはやはりさっぱりだが、どうやら話し合いは、使い魔にされているアルテアを見たことで、夢を司る魔物は溜飲を下げて一件落着となるらしい。
たいそう可愛らしい鳴き声にネアは胸がざわつくばかりだが、ふと、小鹿のお尻のあたりから一本の細い糸が出ていることに気が付いた。
「ディノ、鹿さんから糸が出ています」
「ああ、夢の糸だ。ドーミッシュは、あの糸であらゆる夢を繋げているんだよ」
「むむ。………何やら、ちょきんと鋏で切ってしまいたくなる糸ですねぇ」
「プリュギュ?!」
ネアがそう言った途端、小鹿は垂直跳びで跳ね上がり、じわっと涙目になるとぶるぶると震え出した。
そのまま、もの凄く目まぐるしくうろうろした後、ディノにぺこりとお辞儀をして、ネアには這い蹲らん程の土下座をしてから、ぽふりと転移で消えてしまう。
「む。………なぜ慌てて逃げたのだ」
「ネア、あの糸はドーミッシュがこの世界に存在する為に必要なものなんだよ………」
「ほわ。謎生物でした」
「いや、俺もさすがに、あの糸を切ろうとは思わないぞ?」
「そう言われてもピンとこないのです。やはり、魔物さんは謎めいています………」
ネアは、悲しい思いで小鹿が消えた方向を眺めた。
これはもう、リーエンベルクに帰ってから悪夢の問題が片付いたら、ディノをムグリスにして撫でまわすしかない。
それか、お庭の毛皮館のちびまろやココグリス達を、悪夢は怖くなかったかしらという体で、慈愛の微笑みで誤魔化して撫でまわすのだ。
「小鹿さんがいないので、もう帰りたいです」
「ネア、こちらに落とされたのがドーミッシュの力の余韻であれば、君は悪夢が晴れるまではリーエンベルクには帰らない方がいいだろう」
「まぁ………。何か問題が出そうなのですか?」
「夢の性質に引き摺られやすくなっているからね。その日の内に悪夢に触れるのは良くないと思うよ」
「………しかしそうなると、みなさんは大丈夫でしょうか?前回の悪夢の時、エーダリア様達は心強かったのですが、今回何か怖い思いをしてしまったであろう狐さんが少し心配なのです」
「そこまでのことでもないだろう。ヒルドにボールを取り上げられる夢を見たようだからね」
「…………ボール」
「それで、ヒルドから離れなくなったようだ。夢と現実を混同して、謝っているつもりらしい」
「………そういうことであれば、そちらはそちらで頑張っていただきましょう。ただし、何か不都合があれば、週末とはいえ手を貸して差し上げたいです。お願い出来ますか?」
「では、君の端末が使い易いように、通信が可能なくらいの距離にいようか。ここからではさすがに繋がらないだろうからね」
ネアはそこで、エーダリアにその旨をカードから伝えつつ、魔術板を使って誰かと会話を始めたアルテアを振り返った。
小鹿魔物がいなくなってせいせいした様子だったが、文字を書き連ねながら溜め息を吐いているので何か問題があったのだろうか。
「アルテアさんは、まだこちらに残って続きをするのですか?」
「………ん?ああ。この状態を維持出来る薬の効果が切れるまではな。元々、俺とアイザックがこちらに踏み込める時間には制限がある。規定時間をだいぶ無駄にしたからな」
その言葉でネアは、合宿の夜にアルテアが工房めいた場所にいた理由がわかった気がした。
あの時のアルテアの手元に、飲み薬的な小瓶があったことを思い出したのだ。
「今度は、斬られてしまわないよう、女性の方は大事にしてあげて下さいね」
「お前には関係のないことだ」
そう冷たく吐き捨てたアルテアは刺々しかったが、ネアは大事な言葉を伝えずにはいられない。
「ミートパイ………」
「来週まで待て。数日前に色々と作ってやったばかりだろうが。それと、もう半日もすれば山の向こうで大規模な交戦になる。巻き込まれても俺は助けないぞ」
「むぅ。事故になったばかりなのに、困った使い魔さんですねぇ」
ネアは呆れて呟いたが、手を振ってしっしっと追い払う暴挙に出た後、アルテアはその場からふわりと姿を消してしまった。
あれだけの怪我をしたばかりだが、まだ元気に悪さをするようだ。
「困った使い魔さんです」
「ドーミッシュがいなければ、そこまで問題はないだろう。君が見たアルテアの怪我は、ドーミッシュがこの国の王女に手を貸したらしい」
(アルテアさんの方が国王軍側についているという認識だったけれど、王女様は港町の方々の側にいるのかしら。何か色々と事情があるのかもしれない………)
ネアはあくまでもチェス盤上でその図式を眺めただけなので、この国にも国らしい複雑さがあちこちにあるのだろう。
そう考えれば、家族と対立する形で戦っている王女なら、きっと強い女性なのだろうなとネアは思う。
「そんなことも出来る小鹿さんなのですか?」
「アルテアを自分の司る夢に繋げることで防壁を薄くしてから、その王女に傷付けさせたらしいね」
「プリュム!」
「ほわ、鹿さん!………む。ぽこんと顔だけ出してから消えました。何を言っていたのですか?」
「………アルテアは、その敵方の王女を惑わせる為に………籠絡したのだそうだ。告げ口かな………」
(あのひと鳴きでそんなに喋っていただなんて、何と不思議な生き物かしら)
そう言えば、最初にアルテアと会話していた時も鳴き声と話したであろう内容の配分がおかしかった気がする。
「悪い魔物ですね。しかし、刺される程度ではなくあそこまでしっかり斬られてしまうのですから、この国の女性は強いのかもしれません」
ネアはふと、そんな王女の激情もまた、アイザックの策の内であるような気がした。
どういう訳か、その種の欲望の入り乱れる界隈であれば、アイザックの方が抜け目ないような気がしてしまうのは、彼が欲望を司る魔物だと聞いているからだろうか。
そして、あえてアルテアがいなくなってからそんな告げ口を置いてゆく小鹿魔物もなかなかに癖者だ。
あんな稚い生き物から何かを剥いでしまったと知りネアは少し悲しく思っていたが、これなら対等に張り合える気がする。
「ディノ、あの小鹿魔物さんは他の姿もあるのですか?」
「人型にもなれるが、今の姿が本来の姿になる。人型の場合は、鹿毛色の髪に黒い瞳の姿になるよ。白持ちではあるが、白手袋だからね」
「白手袋?」
「そう。手袋をはめたように、手首より先が白い姿を取るんだ。とは言え、色は残っているけれどもう公爵ではない」
「やはり、色々な魔物さんがいるのですね…………」
ネア達が立っている空間は、他の者達には見えない特殊な魔術の道だ。
世界中には様々な魔術の道が張り巡らされており、その土地によって影の道だとか、幻の道など呼び方も違ってくる。
階位によって歩く道が違うので、ディノと一緒の時に他の生き物に遭遇することはなかった。
ディノの使う道を歩ける階位の者は、そうそういないのである。
そこからランシーンの国を見渡せば、山尾根の向こうの平原に、きらりと光るものが見えたような気がした。
(甲冑や武器が反射したのだろうか………)
来年には、この国の王家は落ちるという言葉が心の奥で揺れる。
やがてはあちこちで戦火が上がるのか、或いはもっと呆気なく大きなものが変わってしまうのかもしれない。
それを裏で糸引く者達がいるとして、人間が画策する陰謀とて同じこと。
そう考えてしまうネアは冷たいのかもしれないが、頭を使うのは、腕の中のものを守る程度の我が儘でいいのである。
夜深いその怨嗟の中を歩いたことがある人間には、清廉な理想論というものはそもそもない。
「ネア、この土地を離れるよ。それとも、まだ見ていたいかい?」
ディノにそう尋ねられて、ネアはおやっと水紺色の瞳を見上げた。
魔術の道の中にも風は吹くのか、柔らかな高地の澄んだ風に真珠色の髪が揺れる。
「私が、この場所を気に入ったことがわかってしまいました?」
「うん。名残惜しそうに見ていたからね」
「………不思議に胸を打つ光景なのです。もう少しだけ見てから、どこか通信のし易い場所に行きましょう」
そう言いながら、ネアは手を伸ばして魔物の髪を撫でた。
びくっとしてから目元を染めておろおろする魔物に、申し訳ない気持ちで言葉を重ねる。
「ディノ、今日はまた怖がらせてしまいましたね」
「………そうだね。もしかしたら君は、他者の運命の余波を受け易いのかもしれないね」
「他者の運命の余波を………?」
「元よりこの世界の者ではない存在は、こちらの世界には君しかいない。その他の者達は皆、異世界から来たと名乗っていようと同じ世界のどこからか来た者なんだ」
「それは、そのようなことが可能なのはディノだけだからなのですよね」
「うん。………だから君には、この世界で君に紐付く運命がないんだ。それ自体は特別に困ったことではないけれど、無色透明な存在だからこそ、強い運命を持つ者に君の運命が煽られるのかもしれない」
「…………まぁ」
そんな告白をした魔物は、どこか打ちひしがれたような悲しげな溜め息を吐く。
どうやら、自分のせいだと思っているようだ。
「でも、もしここで私が誰かに虐められても、ディノの指輪や皆さんの守護があれば、怪我をしたりはしないのですよね?」
「勿論だ。けれど、恐ろしさはまた別のものだろう?」
「ええ。怖いことはやはりありますが、でも、離れていても守られることは変わらないので、ディノがいてくれて頼もしいですね」
「………君は、私を責めないのかい?」
「ふふ、すぐに迎えに来てくれましたよ?」
「ごめんね、一時間以上もかかってしまった………」
「世界の反対側から、アルテアさんとアイザックさんが結界を張って固めてしまっている島に、たったの一時間ぽっちで来てくれました」
「ネア…………」
「それと、緊急時ですので、私の髪の毛に潜まされたディノの髪の毛から、今回も見ていてくれたのでしょう?」
「君がテントに向かう辺りからね。その前は、……君がいないのは悪夢の展開だと思ってしまって、少し時間を無駄にしてしまった」
「それでは、きっと怖い思いをしたのでしょうね。お部屋に帰ったら、ムグリスになって貰い、たくさん撫でて差し上げます!」
「……………ムグリスに」
「ふかふかお腹を撫でると、ムグリスディノは可愛いですから」
「ご主人様…………」
魔物はすっかり恥じらってしまい、ネアを抱えたままぷるぷるしていた。
「撫でるのなら、頭や背中でもいいんじゃないかな?」
「あら、お腹の毛皮が一番もふふわなのです。お腹撫でをするだけで、ディノが大好きだなという気持ちでいっぱいになるんですよ?」
「……………ずるい」
大きな雲の影が流れていった。
霧が少しうねっているので、また風が強くなってきたのかもしれない。
また少し粉雪が舞い、ネアは最後にこのひたむきな美しい草原の空気を胸いっぱいに吸い込む。
「ディノ、そろそろ行きましょう」
「もういいんだね」
「はい。思いがけず素敵な人達に出会った、不思議な一日でした」
そう綺麗にまとめた筈のネアは、次の瞬間には漆黒の帆船が見える港に立っていた。
賑やかでいかにも港町という気がするが、やはりヴェルリアの港に比べると少しのどかに思える。
「まだ、………同じ国にいるような気がします」
「結界の穴を抜けるからね。覆いそのものを壊すと、君に影響が出る可能性があったんだ」
「…………ディノ?まだ他にも考えていることがありませんか?」
ここで少しだけ、ネアは魔物がまだきちんと笑えていない気がした。
この魔物は意外に溜め込む派なので、ネアは面倒臭がらずにきちんと尋ねてみる。
すると魔物は、少し躊躇ってからぽつりと呟いた。
「………君は、アルテアを助けに行こうと思ったのかな」
「私の見た夢の話ですね?……ええ、多分、傷付いて助けが必要であれば、私は助けに行くと思います」
「アルテアも、君を望んだのかもしれないね。今回は特殊な例だが、高位の魔物は願いや召喚がよくかかる存在だ。あまり不用意に繋がらせないようにしているものだし、アルテアは選択なのだから、どんな状況でも望まないものは繋がらせないだろう」
「もしかして、そのことが少し腑に落ちませんか?」
「君は、私がそうなったら助けに来てくれるのかな?」
あまりにも無防備に問いかけられ、ネアは思わず顔を覆ってしまいそうになった。
まさかのここで、クッキーモンスター的な甘え方をしてくるとはさすがのご主人様でも想定していなかったのである。
「勿論です!ディノが困って呼んでくれればどこにでも行きますよ?途中で祟りものの列車に捕まってしまいましたが、家出の時だって迎えに行ったでしょう?」
「…………ネア」
「ふふ、さては、ご主人様に救助されるという初めて体験を、私がアルテアさんにしてしまったのがもやもやしたのですね?」
魔物は少し迷ってからこくりと頷いた。
「君はすぐに浮気をしてしまうからね」
「言い方が!」
「今回は毛の多い生き物もいたし」
「ちび短足な鹿さん魔物ですね。……でもね、ディノ。私は、ディノが知らない間に怪我をしていて助けに行かなくてはいけないような、そんな風になるくらいには離れたくないのです」
「ご主人様!」
「ですので、今回のことはちょっぴり離れた方向けのお話ですから、ディノに適応されてしまうと寂しいのです。ディノは、そんな風に私を寂しがらせてしまいますか?」
「ずっと側にいるよ」
容易く転がされた魔物にぎゅうぎゅう抱き締められ、ネアはほっと安堵の息を吐く。
今回はたまたま迷い込めての救助だが、そもそも魔術可動域が六の人間が、そうそう高位の魔物の修羅場に乗り込めるとは思えない。
よって、ディノにはこの手法を試されては困るのだ。
「………そして、ディノ。あのお店に売っているストールが欲しいです!一度魔術の道から出て買ってから移動してもいいですか?」
「弾んでる。可愛い…………」
ネアが港町の店で見付けたのは、ルドヴィークが羽織っていたような毛織物のストールだ。
複雑な模様が織り込まれているが、地色とほとんど同じ色なので遠目には一色に見える。
それがまた上品なのと、柔らかなクリーム色ベースなのも堪らない。
ディノに擬態して貰うのと、ネアにも視覚効果をかけて貰い、お店に駆け込んで二つのストールで迷いつつも、ささっと買い物を済ませた。
このような土地だから割り増し価格かなと思ったが、品質の割に随分と安い。
もう一枚買いたいくらいだったが、必要以上を持たない人々の暮らしを見たばかりのネアは、ぐっと我慢した。
「おや、ネア様」
そしてそこで、隣でそのストールを大人買いしていた競合相手から声をかけられる。
「………む。どなたでしょう?」
「おや、この姿ではわかりませんでしたね。ではこちらで」
隣に立っていたのは、背の高い赤髪の老紳士だ。
ルドヴィークやアルテアの擬態のように長い髪を結い上げる、この土地の人々の特徴を模している。
しかし、そんな老紳士が見せてくれた名刺には、アクス商会代表であるアイザックの名前があった。
「…………アイザックさん」
ネアが後ろめたくなるのは、不法侵入している気分になるからだ。
しかしアイザックは、苦笑してから、アルテアから話は聞いていますよと安心させてくれた。
「すぐに出るつもりでしたが、このストールだけはとディノにお願いして飛び込んでしまいました」
「ええ。こちらの国の毛織物は、品質がここまで高いのに安価です。山間の集落の照度ですと、こんな同色模様の織り込みも苦ではないのだとか。かく言う私も、これは仕入れのようなものですからね」
「むむ、だからの大人買いだったのですね。私が欲しいものを手にした後でいらっしゃったので、一足先にお店に入れて良かったと心から安堵していました」
「アイザック、結界を損なったことについてはすまなかったね」
「いえ。あの地点でしたら問題ありません。事前に連絡をいただけたので、助かりました」
そんな会話にネアは驚いた。
「アイザックさんにご連絡してから、結界に穴を開けたのですか?」
「君はアイザックに獲物を卸しているし、アクスからもよく品物を買うからね」
「まぁ、私の為に?何だかディノが格好いいです。…………ほわ?!ディノ!」
ご主人様からの初格好いいを頂戴した魔物は、その場でくしゃりと潰れてしまった。
両手で顔を覆って感動に打ち震えているが、ネアは納得がいかない気持ちでいっぱいだ。
すると、アイザックが片手を顎に当てて小さく頷いた。
「ふむ。こうして獲物の息の根を止めてゆくわけですね」
「…………ディノは狩っておりません」
「…………ずるい。ネアが虐待する」
「異議申立てをします。褒めただけですので、虐待はしていませんよ?」
しゃがみ込んだ魔物をべしべしと叩けば、魔物は更に弱ってしまった。
「可愛い。甘えてきた」
「むぐぅ」
「成る程。時には過剰摂取させることで、より中毒状態を固定させるとは。なかなかに良い調教をされていらっしゃいますね」
「調教ではありませぬ……」
蹲る魔物を引っ張り上げて立たせると、ネアは公開処刑にされた現場からそそくさと立ち去ろうとした。
それを引き止めたのはアイザックだ。
「そういえば、そろそろ良いものが見れますが、ご覧になってゆきますか?」
「ほわ。………何かあるのですか?」
「ええ。良い出し物がありまして、そろそろ通りかかる頃かと」
「………出し物という名前の、心を抉る争い事ではありませんよね?」
「ネア様は皮肉が効いていらっしゃる。私はその手の嘘は申しませんよ。激情もまた私にとっては良いものなのですが、商人としてそれが顧客の皆様の要求に合うかどうかは考慮しております」
「となると、私が喜びそうなものというご認識なのですね?」
「ええ、勿論」
せっかくのアイザックの提案なのと、先程ストールのお会計をしている時に確認したカードから、エーダリアがこちらは悪夢が去ったので身の安全を第一にゆっくりと戻ればいいと言ってくれたこともあり、ネアはその誘いに乗ってみることにした。
幸いというか不幸にも、ディノは絶賛よれよれ中なので引っ張るだけで嬉しそうについてくる。
そして、アイザックがネア達を案内したのは、大通りから小道に入る曲がり角のところだった。
人通りはあるものの、注意をひかない魔術を敷いたネア達は、誰かの目に留まることはない。
「ほら、あちらにいらっしゃる女性が、この国の聖騎士と呼ばれる女性です。お忍びのようですが、我々人外者の目を欺くには稚拙な擬態ですね。こちらからは少し見えるように手配いたしましょう。……どうぞ、その肩をご覧下さい」
「…………ほわふ。…………ふぁさっとなっている素敵毛皮こと、襟巻き竜がいます」
ネアは、初めて見るファーマフラー状の生き物に目を輝かせた。
それまでは、灰色のフードを被った黒髪の女性がいるようにしか見えなかったのだが、アイザックがひらりと手を横薙ぎにして何かをした途端、映像が切り替わるようにその場所にいる人物の姿が変わって見える。
装いや髪型まで変化して見えるのだから、視覚上で擬態解除をするような特殊技術があるのだろう。
そうして見ることが出来たのが、その生き物だった。
豪奢な毛皮の襟巻きのようだが、今は少しだけ頭をもたげているので竜だと分かったのだ。
鮮やかな深紅の髪を左右のお団子に結い上げた、可憐というよりは美貌という面立ちの女性の肩に、その髪色を引き立てるような薔薇色の毛皮で愛らしく乗っかっている。
「見るだけなら、ネア様のご要望に応えられる生き物かと。あの種は滅多に外には出られませんので、良い機会だと思いまして」
「数の少ない生き物なのでしょうか?」
「見目は良いのですが、ネア様にとっては良い生き物とは言えないかもしれませんね。親族殺しの聖人にのみ憑く竜なのです。更にあの淡い薔薇色の個体は、禁じられた恋情に身を焦がす者にのみ現れる雌竜ですね」
「………出現難易度が高いということだったのですね」
寧ろ、よくそれだけ設定条件の厳しい生き物がいるなという部分も謎だったが、様々な生き物がいる世界なのだと納得するしかない。
ご主人様の趣味嗜好を把握済みとは言え、今回は毛皮と竜の組み合わせに少しだけ危機感を持ったのか、隣のディノが少しそわそわしたので、見た目は可愛いけれどそういう生き物は苦手ですと言えば、ほっとしたように頷いてくれた。
通りの向こう側で、擬態した女性騎士の顔が輝く。
商店の二階から、同行者とおぼしき男性が降りてきたのだ。
少女のように瞳を揺らした騎士の姿に、お相手は好きな男性なのかなとネアは微笑ましくなった。
男性は尊大な態度で女性騎士が望むままに手を取らせたが、恋人達の甘い触れ合いというよりは、高位のものがその御手に触れることを許したという雰囲気である。
(……………ん?)
そこでふと、聖女とも呼ばれる彼女が心を傾けている相手が誰なのか、つい先ほど聞いたばかりだったなと思い至った。
ネアがそのことに気付くのと同時に、女騎士の隣に並んだ明らかに人外者という美貌の男性が、こちらに気付いて動きを止め、露骨に顔を顰める。
「おや、気付かれてしまいましたか。まさかご一緒されているとは思いもよらず」
しれっとそう呟いたアイザックが、優雅に一礼すると、ネアを手で招いて踵を返した。
「アルテア様がご一緒のようですので、撤退いたしましょう」
「…………アイザックさん、今のはもしかしてアルテアさんへの嫌がらせでは……」
「いえ、まさか。彼は、ネア様や我が君に工作の様を見られるのは嫌うでしょう。わかっていれば、このようなことはしませんよ」
うっかり遭遇してしまったので、さっと踵を返した風のネア達の背中に、アルテアからかなり嫌そうな視線が注がれているのがわかる。
お相手の綺麗な女性が一緒だったので、ネアは何だかいけないものを見てしまったような気持で胸がどきどきした。
「見られたくなかったのかな……」
「何だか、密会を見てしまったような背徳感ですね。美男美女でお似合いでした。……むぎゃふ?!」
どこからともなく飛来したペンが頭に直撃したので、ネアはじっとりした目で振り返った。
ディノが懲らしめようかと聞いてくれたが、今はアルテアも擬態しているので、陰険な人間は機会を窺って仕返しするのだと伝えておく。
ペン投げの犯人は、一緒にいる女性騎士をたいそう困惑させつつ涼しい顔で立ち去っていったので、ネアはその日にたまたま連絡をくれたウィリアムにあれこれ告げ口することで溜飲を下げた。
とは言え、翌日にいそいそとミートパイを持ってきた使い魔は、飲み会でこっそり加算の銀器で一万倍にしたお酒を飲ませてやったので、ご主人様に物を投げてはいけないという教育にはなったと思う。
ネアはお土産に買ってきたストールを仕事中のひざ掛けに愛用し、あの島の人々がその後どうなったのかは聞かないようにした。
時折、瞼の裏側であの清廉な高地の情景が揺れる。
灰色の空に千切れ飛ぶ粉雪と、険しい山肌に草原と羊。
その土地に住んでいた心優しい人々が、どうか健やかでありますようにとネアは願った。