168. 背後には気を付けた方がいいです(本編)
ひとまず、ネア達はルドヴィークと一緒に失神したアフタンをテントに連れ帰ることにした。
その際にアルテアは血を落していないかどうか周辺を捜索してから戻ることになり、元々地面に落ちるようなことがないよう調整していたそうだが、ネアは少しだけ心配になる。
役に立つだろうかと、ディノに取り押さえて貰ってから虎の子の失せ物探しの結晶をスプーンで千倍にして食べさせてやると、もの凄い形相で睨まれてしまった。
ネアですらじゃりじゃりするくらいの量を丸飲みにしたのだから、一粒くらい我慢するべきだとネアは思うのだ。
そう言って窘めたところ、ぐいっと頬っぺたを引っ張られたのでディノに叱って貰った。
この虐めを撲滅する為に、ネアはいつか白けものを撫で回しの刑で打ち負かしてやろうと心に誓う。
「…………おや、まぁ」
そうしてテントに戻ると、息子が今度は白過ぎる魔物を連れ帰ってきたレンリは、そう言って目を丸くしてしまう。
しかしこのあたり、驚くだけで済ませた姉と、仮にも将軍職に就いていたくせに失神してしまったアフタンとでは精神の強度が違うようだ。
「…………なんて上等な神様だろうねぇ。こんなに綺麗な神様がいるんだねぇ。有難い、有難い」
「……………母さん」
息子のプラードは嬉しそうにディノを拝んでしまった母親をぎょっとしたように見やり、不思議そうにその姿を見ているディノに顔を青くした。
「……………ネア」
そして魔物も急に拝まれてしまって怖かったのか、ネアの背中にへばりついて不安そうな顔をする。
やはりこの魔物は、対処出来る問題に偏りがあるようだ。
「ディノ、草原にぽいっと落とされた私を助けてくれて、乾いたほかほかのこの着替えと美味しい朝食を振る舞って下さったばかりか、しばらく面倒を見て下さろうしてくれた恩人さん方です」
「………うん」
「こういう場合は、どうするのが正しいでしょうか。婚約者としてのやり方はわかりますか?」
「…………私の婚約者を守ってくれて有難う?」
慣れないご挨拶をぽそぽそと口にしたディノに、ルドヴィークとレンリが目を丸くする。
ちょうど目を覚ましたところで、プラードから背中を叩かれていたアフタンも驚いたように口が開いてしまった。
「良く出来ました!そして、迎えに来てくれて有難うございます」
「ご主人様………」
褒められた上に嬉しそうに微笑みかけられたので、魔物はきゅんとしたようだ。
婚約者だと名乗れたのも誇らしかったようで水紺の瞳はテント内の灯りを映してきらきらしていた。
「………どういたしまして。あなた様の大事な婚約者様がご無事で良かったですよ」
やはり、母親というものの、或いは女性特有の強さがあるのだろう。
つい先程までディノを拝んでいた人が、今度は懐深い年長者のような笑顔できちんとお礼の言えた魔物に優しい言葉をかけてくれる。
空気が柔らかくなったことを察して、ネアはさくさくと進行することにした。
迎えに来てくれたディノから、来るのが遅れた理由の一つに、ウィームでの悪夢で銀狐が弱ってしまったこともあると聞いたからだ。
本来であれば、ノアがいればもう少し早くこの島の結界をこじ開けられたらしいのだが、ディノ一人で島の内部を損なわないように開封するのは大変だったらしい。
島のどこにネアがいるのか分からず、細心の注意を払って結界に穴を開けたのだとか。
ここまで長期間封鎖されていた空間を開くと魔術的な気密が云々と聞かされたが、ネアにはいまいち飲み込めなかった。
(狐さんは、ヒルドさんが見ていてくれるみたいだけど、早く帰ってあげたい……)
「みなさん、短い間がゆえに寧ろ騒がしくなってしまいましたが、たいへんお世話になりました。拾っていただいたお蔭で凍えずに済みましたし、よくわからない怖いものの餌食にもなりませんでした。私の魔物は薬の魔物なのですが、何かお礼になるようなご入用の薬はありますでしょうか?」
お礼の品物は幾つか考えていた。
金庫の中には、有事の際に物々交換する用の贈答品や、ほこりの宝石もある。
しかし、稀人の話を聞き、この山間の草原での暮らしを少しでも覗いてしまえば、魔物の薬のように現実的で役に立つものをあげたくなったのだ。
因みに、小さなチョコレートの箱も添えるつもりだが、それはまだ内緒である。
「………君の魔物は、薬の魔物なのかい?」
少し緊張はしているが、ルドヴィークの声は穏やかなままだ。
ネアが、高位の魔物であるディノをテントに入れて嫌ではないかと尋ねた時にも、彼は微笑んで頷いてくれた。
やはり君は稀人だったねというのが、彼の感想のようだ。
そこには厳しい自然と向き合いながらもその在り様を受け入れてきた人の強さが垣間見え、ネアはあらためて素敵な人だなと思う。
この人の心の中にある泉は豊かだろう。
そう思わせてくれる人間に出会えたことが、何だかとても素敵なことに思えた。
「ええ。薬の魔物なのです」
だからここでも、彼は果たして本当にそうだろうかとは言わない。
きっぱりと言い切ったネアに対して、短く頷いてから、微笑んで家族を振り返った。
「兄さん、欲しい薬はあるかい?せっかくだから、家族の助けになるものをお願いしてみようか」
「勿論、みなさんで決めていただきたいのですが、先程のお話ではこれからお国が少し揉めそうな感じがするのです。そういうお話を聞かせていただいたので、そんな場面で有用なものでも良いのではないでしょうか」
そう言えばレンリは、国を直してくれるような薬があればいいんだけれどねぇと、皺の影も美しい顔で悲しげに小さく微笑んだ。
長らく続くものが揺らぐのは怖いだろう。
変化を特性とするような土地ならいざ知らず、ここは変わらないことの美しさを誇るような場所だ。
(そういう意味で、港町の方とは事情が違うような気がするのに………)
しかし、その全ての特性を持って、一つの国なのである。
動乱のうねりにただ飲みこまれてゆくだけの辺境の土地の者達が、一番胸が痛いのかもしれなかった。
最年少のルドヴィークと、最年長の母親のレンリが動じなかったこともあって、兄と叔父のペアはようやく落ち着きを取り戻したようだ。
ディノが初めて見るテントの中を不思議そうに見回していることや、テントの中で飼われているパンの魔物の地方版のような、砂小麦の魔物に気付いてきゃっとなっていたので、そんな無垢な姿に毒気を抜かれたらしい。
砂小麦の魔物はこの地方だけに住む、謂うところの固有種なのだそうだ。
最初ネアはクッションかと思って腕を乗せてしまい、ブーブーと鼻を鳴らされて怒られてしまった。
小麦色の一斤そのままの食パンのような不思議な生き物で、お尻に兎の尻尾めいたものがある。
パンの魔物と違うところは、水をかけると溶けるところだ。
ただし、乾くとまた復活するらしい。
ディノはその生き物が怖いらしく、足元に纏わり付かれてブーブーやられるとすっかり怯えてしまった。
ネアの見立てでは、きっと砂小麦の魔物は王様に会えて大興奮なのだと思うので、何ともシュールな光景である。
ややあって、薬師である長兄が一つ提案した。
「傷薬だろうか。………何か戦火が及ぶようなことがあれば、やはりそういうものの質が良いことが明暗を分ける可能性がある」
「そうだな。だが、もし土地そのものが損なわれたらどうする?」
そう返したのは、戦場を知るアフタンだ。
「そうねぇ。土地を豊かにするようなお薬があれば、もし牧草が燃えてしまってもどうにかなるかしら」
「だが、母さん。あまり大地に負荷をかけるのは、例え良いことであっても自然ではないんじゃないかな」
「確かに、ルドヴィークの言うこともそうね。そうなるとやはり、傷薬かしら」
「そういえばさっき、驚く程に深い傷が瞬く間に治ってたぞ………」
「叔父さん、先程は相手が人外者だっただろう?」
「そ、そうだな。……………というか、あの方もこのテントに来るのか?」
(そう言えば、アルテアさんの戻りが遅いような)
失せ物探しの結晶を与えた筈なので、ネアは心配になってテントの入り口の方を振り返った。
すると、羽織ものになっている魔物がアルテアの事情を教えてくれる。
「ネア、アルテアはこのテントには入れないよ。アイザックとの間に約束事があって、アイザックの側の人間にはあまり関われないようだ」
「まぁ、そういうご事情だったのですね」
頷いてから、ネアはルドヴィークがこちらを見ていることに気付いた。
静かな瞳でこちらを見ている彼に、ネアが薄々気付きかけていることを言える筈もない。
この土地で行われている騒乱の全ては、高位の魔物達の遊興の一部だなんて。
「よくわかりませんが、魔物さん達にも担当分布があるようなのです。よって、アルテアさんはこちらに入れないそうですが、お外で我慢して貰いましょう」
「色々と規則があるんだね」
「そ、………そうなのだな」
ルドヴィークは興味深げに、そしてアフタンは困ったように頷いた。
目の前の魔術可動域六ぽっちの人間が、先程そんな魔物にミートパイチーズ入りを所望したのを見ていたのかもしれず、今や白過ぎる魔物が羽織られている。
よって、先程からネアをどう扱ったらいいのかわからないようだ。
そして、そう長くはかからず、家族の意見がまとまった。
「君、やはりお願いするのは傷薬にしようと思う。家族を失うのが一番怖いからね」
「はい、ルドヴィークさん。傷薬ですね。ディノ、お礼をしたいのでご家族分の傷薬をお願い出来ますか?」
「わかったよ」
なぜか、魔物は少し複雑そうな目をしていた。
ネアが首を傾げるとふわりと微笑んで頭を撫でてくれたが、まずは羽織ものを解除しなければ格好いい保護者感は皆無のままだ。
しかしそのまま羽織もの魔物のまま、ディノは素敵な青い小瓶に入った傷薬を四本作ってくれた。
それをネアが受け取り、あえてネアの手を介してのお礼の品となる。
「こうしなければ、ディノが差し上げたことになってしまうので、あくまでも私の手からお渡しする必要があるんですよね?」
「そうだね。私はネア以外に何かを渡すつもりはないからね」
「あらあら、それでもこうして薬を作ってくれる優しい魔物だと思うのです」
「ご主人様…………」
少しだけ高位の魔物らしくすましてみせたディノは、褒められてもじもじすると、早々にまた羽織りものに戻ってしまった。
ルドヴィークは、ネアの手から受け取った薬瓶に触れると、そっとその表面を指で撫でた。
繊細だが外での仕事にも慣れた、味わい深い働く人の手だ。
唇の端をふんわり持ち上げ、ルドヴィークは嬉しそうに微笑む。
「備えがあるということは、大切な者がいる僕達にとっては幸福なことだ。愛する者を失くすことだけが、何よりもただ辛い。………稀人の君、そして高位の方よ、どうか心からの感謝を」
流れるようなお辞儀にはこの土地特有の作法があるようだ。
舞にも似たその優雅な動きに、幾重にも重ねた羊毛の布がひらりと翻り、ネアは微笑んで頷く。
そして、ルドヴィークの真似をして、助けてくれて有難うと頭を下げてみた。
(せっかく知り合ったのだし、とても魅力的な人達だけれど、あまり踏み込まないようにしなくては)
ネアがそう思うのは、ここが、アルテアとアイザックの遊ぶ、あのチェス盤の上だとわかったからだ。
だとすれば、アルテアから関わるなと言われたからではなく、ネア自身の危機管理としてこれ以上の縁を深めようとは思わない。
なぜならばネアには、不確定要素で損なえない大切なものがたくさんあるのだから。
選ぶことで捨てもする人間は何とも冷酷だ。
(せっかくこんな風に素敵な人達に出会えたのだけど、自分の領域を弁えなくては……)
「短い間だったけれど、まるで少しだけ娘が出来たみたいで幸せだったわ。やっぱり、女の子はいいわねぇ」
「………母さん、稀人をご近所の女の子か何かと同じように思ってないか?」
「あら、あんただって、ルドヴィークの下にこんな妹がいたらなぁって言ってたじゃないの。………その洋服も持ち帰ってもいいのよ?まだこの先も寒いでしょうに」
「いえ、皆さんは過分なものを好まずに品物をとても大切にされている方だと思いましたので、これはお返しします。ただ、とても素敵な衣装ですっかり気に入ってしまったので、戻ってからこんな色のストールをきっと探してしまうでしょう。私に、そんな素敵なお気に入りを作って下さって、有難うございました」
借りた衣服を魔物に取り寄せて貰った服に着替え、お借りしたのものはディノに魔術で綺麗にして貰った。
ここに留まるならお洗濯も出来るが、すぐに発つとなると洗って返す余裕もない。
しかし魔物が綺麗にしたことで、なかなかクリーニングともいかない毛織り物が織り上げた当時のままのふわふわに戻ったと、とても喜ばれてしまって幸せな気持ちが増えた。
「では、お世話になりました!」
素敵な家族に手を振ってテントを出ると、すぐ側の大岩の横にアルテアが立っていた。
先程までの傷付いていた姿が蘇り、ネアは脇腹の傷が綺麗になったかどうかべりっと服をめくって確かめてやりたくなる。
そちらに歩いてゆけば、ふっと陽光が翳り魔術の道に入るのがわかった。
「アルテアさん、体の具合はどうですか?」
「お前が千倍にしたんだろ。消毒液を飲まされたような後味が最低な以外の副作用もないな。それと、お前は何でここにいるんだ」
「むぅ、ご説明がまだでしたね。……実は夢の中で、アルテアさんのお屋敷にあったチェス盤を見まして、目の前でアルテアさんの駒がかつんと倒れたのです。思わず倒れた駒を元通りにしてしまったところ、あの盤面に大きな穴が開いて吸い込まれてしまいました。………夢だと思ったのですが」
ネアがそう項垂れると、ディノは何とも言えない目でアルテアを一瞥した。
「いや、今回はと言うかいつもだが、俺は繋げてないぞ?」
「そうなると奇妙なことだね。ネアは自室にいたのだし、そこに道を繋げてしまうような魔術的要素はない。君との契約だって、そのような効果を及ぼすものではないだろう」
「お前にも分からないなら、俺に分かる筈もないな。また妙な厄介事を貰ってきていないだろうな?」
「む!厄介事を貰ってきてしまったのは、お怪我をしたアルテアさんではないですか」
ネアの言葉に、アルテアが魔物らしく目を眇める。
あれだけの怪我をしたのは、プレイヤーがゲーム盤の中に入る時の規則に準じた状態になっており、その状態で攻撃を受けたのだそうだ。
「…………虐められてしまったのでしょうか?」
「やめろ」
「それとも、痴話喧嘩的な………。む。黙りましたね」
追求させるつもりはないという表情は冷ややかだが、ネアもアルテアが元気になればそこまでの興味はないのだ。
「踏み込むなよ。ここは俺の領域だし、お前はこの土地の余分だ」
「踏み込む意欲はありません。きっと、使い魔さんはまたいつものように悪さをしていたのでしょう。しかし、今回はひどい怪我でしたので心配してしまいました。どうか、ご自身の力量を見極めて遊んで下さいね」
「おい………」
「そして、ディノ。今回の感じが、調子に乗って遊んでいて怪我をする例です。決してこのようなことをしてはいけませんよ?」
「ネアから離れて国遊びなんてしないよ」
「ムグリスの時に、お湯に飛び込むのも同じことです」
「ご主人様………」
「お前、よくもそれとこれを同じ括りにしたな………」
「む?さして変わらないのではないでしょうか?」
アルテアがどうして怪我をしてしまったのかは謎だが、魔物という生き物は時に激しく遊ぶようだ。
ましてや、相手があの底知れぬ瞳をするアクス商会の代表ならば、きっとネアには想像もつかないような事件があったのだろう。
「しかもよりにもよって、アイザックの駒に拾われやがって」
「理不尽なことで責められると、パジャマについて考えたくなります」
「やめろ」
その時、ネアは気遣うように優しく頭を撫でた魔物に目を瞠った。
見上げた魔物の水紺の瞳は、淡い霧の中で熾火のように光り、触れれば切れそうなくらいに鮮やかだ。
「………君は、あれで良かったのかい?」
「ディノ?」
「私に、あの者達が何にも損なわれないようにして欲しいと望むことも出来たのに、君はそうしなかっただろう?」
少しだけ困ったようにそう問いかけるディノは、どこか寄る辺ない微笑みを浮かべている。
視線で示されたのは、魔術の道と結界で空間を断絶しているものの、まだここから見える先程までネア達がいたテントだ。
こうして、霧がまた出てきた山の方から見下ろせば、先程までのことこそ夢だったのではないかと不思議な気持ちになる。
「…………ディノ、違いますよ?」
「違う………?」
「ええ。私があの方達にそのようなものを差し上げなかったのは、ディノに遠慮した訳でも、私の願いを言えなかった訳でもありません。残酷で我が儘な人間らしく、自分の欲のままに取捨選択をしてしまったのです」
「………彼らを気に入っていたのに?」
悲しげにそう問う魔物は、よく分からないらしくて首を傾げる。
擬態をしていない真珠色の髪が肩から流れ落ち、片側に寄せての一本結びにしているラベンダー色のリボンが揺れた。
この魔物は、ご主人様がいなくなってしまった朝に、初めての贈り物であるこのリボンを引っ張り出してきたらしい。
けれど今日は、三つ編みには出来なかったようだ。
そう思うと、何だか可愛くなった。
「ここは、アルテアさん達が手をかけている場所です。そこに介入するとなると、まずはアルテアさん達と揉めてしまいますよね?」
「………アルテアはいいんじゃないかな」
「あら、アルテアさんとて使い魔さんですから、こちらに悪さをしない時には放任する方向なのです。魔物さんにもそれぞれ習性がありますし、それを押さえ込んでも良いことはなさそうですから」
「…………お前、本気でその認識なのか」
あまりにも身も蓋もない言い分に、アルテアですら驚いたようだ。
しかしそれこそが、取捨選択なのである。
「リーエンベルクの方や、お知り合いの方に悪さをしたらブーツでぺしゃんこにします!」
「…………いや、ならないからな」
「ですので、全てを封じ込める程に私は横暴ではないという事なのでした。先程の方達はとても好きだと思いましたが、残念ながらアルテアさんと先に出会ってしまっていますし、今度は美味しいミートパイを作って貰う予定なのです」
「…………それが大部分だろ」
「むぅ。大きな要素ではあると、言わざるを得ません」
そこでネアは、なぜか拗ねた魔物から一本結びを投げ込まれる。
この技は日々腕を上げており、今やピンポイントでネアの手のところに握りやすい部分が飛んでくる始末だ。
とは言え今日は一本結びなのでばさばさする。
「そして、国の問題も絡むようであれば、どこでどう繋がって、エーダリア様達にご迷惑をおかけするか分かりませんしね。……ルドヴィークさんは、そのような私の狡さはお見通しだったことでしょう。より多くをと望む方でもありませんでした。なので、その鋭さに甘えてしまったのです」
「…………いや、万象の傷薬ってだけでも、恩寵もいいところだからな。俺の駒が動かし難くなったのはまず間違いない」
「そう言えば、アイザックさんの駒に、羊飼いさんがいるとお話しされてました。それがルドヴィークさんのことなのでしょうか?」
「…………ああ。あいつは、あんななりだがエーダリア並みに魔術可動域があるぞ」
「…………なんと。でも確かに、何か特別な方だなという感じはしたのです。お話しているだけで、心がじんわりと暖かくなるような」
「…………ネアが浮気する」
「むぐぅ」
荒ぶる魔物に持ち上げられてしまったネアは、ちょうどいい高さにきたアルテアの頭を撫で撫でしてみた。
素敵な深赤の髪が気に入ったのと、怪我をしたばかりなので労わろうの会である。
さっと顔を上げたアルテアが眉を顰めたばかりか、ディノからも不満の声が上がってしまった。
「…………なんのつもりだ」
「アルテアさんが、あんな風に怪我をしているのを初めて見たのです。胸がぎゅっとなりました」
「女の剣で俺を殺せるものか」
「………女性の方に斬られてしまったようです。ノアと同じくらいの傾向の痴話喧嘩…」
「そんな訳あるか。ただの駒だ」
「と言うことは、もしかして聖女さんな女騎士さんに斬られ…」
ネアがそう言ったのは、ルドヴィーク達からそんな女性の話を聞いていたからだ。
しかし、アルテアはそうは思わなかったらしい。
「ヘルディナを知っているのか?」
「む?噂を聞いただけで、存じ上げてはおりません」
鮮やかな瞳でこちらを見下ろし、アルテアはふっと唇の片端を持ち上げる。
「ヘルディナが俺を斬るなんてことは有り得ないな。あいつは忠実な駒だ。本命の駒の盾になるまでは、望まない動きをさせるつもりはないし、自分の駒の管理は徹底している」
(では、誰がアルテアさんにあんなに深い傷を負わせたのだろう。………幾ら擬態をしていても、やはり高位の魔物さんには違いないのに………)
そしてアルテアは、聖女とも呼ばれる女騎士については、かなり自分の意に沿うという自信があるようだ。
その高慢さと非道さに、魔物らしい心の動きを見る。
「暇潰しは構わないけれど、傷を負うのであればこの子との契約を考慮はしたのかい?」
「あくまでも、設定上で損なわれたものだ。魂まで響かせる欠損にはしてないぞ」
「それならいいけれどね。それと、君のその有様は、もしかしてこの島にドーミッシュがいるからかな」
「…………ドーミッシュ、………だと?」
ネアには分からない誰かの名前で、魔物達は思わしげにこちらを見た。
はたはたと霧の風が強まってきたようで、足元を流れてゆく雲の影が髄分と早くなった。
「そやつは、どなたなのでしょうか?」
ネアがそう眉を顰めると、ディノが魔物らしい目をして小さく息を吐く。
「夢を司る魔物の一人だよ。元は大きな力を持つ魔物であったが、千年程前に階位落ちして今は伯爵の魔物だ」
「ほわ、夢の魔物さん………?」
「夢の魔物と呼ばれていたのは千年前のその頃までだね。彼の力に興味示したとある魔物が、その力の一部を奪ってしまったんだ。それ以降、力の一端が他の魔物の手の内にある。一概にドーミッシュだけを夢の魔物だと言えなくなったんだ」
「会話の流れ上、そのとある魔物さんがとてもアルテアさんな気がします」
「うん。アルテアだ」
ディノがそう頷いた途端、アルテアは少しだけ視線を揺らした。
押し隠してはいるものの、驚いたようにディノを見ている。
「おや、まさか私が知らないと思っていたのかい?」
「……………ドーミッシュがお前に言ったのか?」
「いや、彼とはそこまでの関わりはなかったよ」
「お前の取り巻きの一柱だったのにか?」
「いや、ドーミッシュはギードやグレアムと共にいることが多かっただけで、私にはさして興味がなかったんじゃないかな」
「…………じゃあ、………いや、かつてのお前ならさもありなんというところか」
「全てを繋いで知っていたとまでは言わないが、高位の者達がどこでどんなことをしているかくらいは知ろうと思えば知れたからね」
「…………その、ドーミッシュさんという方の一部を奪ってしまった犯人は、秘密だったのですか?」
ネアはよく分からないなりに、会話から拾い集めた要素で推理してみた。
そう言えばアルテアがどこか嫌そうな顔をする。
「こいつが知ってるなら、秘密でも何でもないな」
「やられてしまったご本人は、犯人がアルテアさんだと言ったりもしないのでしょうか?」
「ネア、高位の魔物が自分の司る要素を剥がされるのは最高の屈辱とされるんだ。相手が悪食でも、高位の魔物は誰が犯人だか言わないだろう」
「…………悪食という表現があるのは、………もしかして食べてしまうからですか?」
「実際に血肉を啜らずとも、そういうことになるね」
「まぁ………」
「アルテアは、元々悪夢を前兆の一つとする魔物だし、夢での侵食を得意としていた魔物だ。恐らくその要素を強化しようとしたのだろうね」
「夢ほどに獲物が無防備な界隈もないからな」
そう微笑んだ魔物に、ディノはそうだろうかと首を傾げる。
「夢から踏み込むと、すぐに死んでしまわないかい?」
「…………それは、お前の精神圧が異常だからだ。まぁ、ウィリアムもやったら殺すだろうな」
これについてはアルテアが説明してくれた。
ひたひたと箱の縁から水を浸透させることの出来るアルテアと違い、ディノやウィリアムは大量の水をざばりと注いでしまい、箱が一瞬で潰れてしまうのだとか。
魔術の質や、得手不得手もある能力なのだそうだ。
「…………成る程な。ドーミッシュならあり得る。あの女が取り乱したのも、夢からの啓示が下ったか、悪夢からの半覚醒のまま外に出されたか。………ったく、厄介な奴が入り込んだな」
「彼は、夢からの侵食が可能な魔物だ。結界で閉じていても、これだけ外部の人間が出入りする島なのだから、簡単なことだろう」
「ってことは、こいつが夢から引き摺り込まれたのは、ドーミッシュの影響だな。俺が約定に基づき、魔物としての要素のほとんどを屋敷に置いてきているからか」
「む………。その魔物さんが、私を巻き込んだのですか?」
またしても面倒なお相手の出現だろうかとぎりぎりと眉を顰めたネアに、ディノが大丈夫だよと微笑みかけてくれる。
「成る程ね。アルテアに罠をしかけたのだろうが、今のアルテアが、魔物としての要素の大部分を外に置いてきていると知らなかったのだろう」
「………その要素とやらを置いて来れることこそが、本日最大の謎になりました。でも、ローンさんのように尻尾や耳を交換出来る世界ですものね………」
すっかり謎に包まれたネアに、ディノがその経緯の推理を教えてくれた。
「アルテアが自分の要素を離していたせいで、魔術証跡から一気に侵食をかけたところで君が誤認識されたのだろう。たまたまその時の君は眠っていて、ウィームにはドーミッシュの系譜のものでもある悪夢が訪れていた。君とアルテアの間には契約があるし、アルテアにはドーミッシュの物であった力がある。恐らく、その全てを誤って繋げてしまい、偶然にも君が捕まってしまったんじゃないかな」
「むぐぅ。圧倒的な事故率を誇る己が恨めしいです」
「…………もしかしたら、君が見た夢や悪夢の中に、アルテアを思わせる要素があったのかもしれないね」
そう言われて、ネアはわかったような気がした。
「確かに寝る前に少しだけ、アルテアさんがあのチェス盤のようなものに、私のお知り合いの方を乗せてしまったら嫌だなと考えていました。悪夢が来ていたので、そんな要素を汲み取られてしまったのかもしれません」
「ネア、危ないからこれからはアルテアの夢など見てはいけないよ?」
「………美味しいお料理と、白もふさんについて考えると、必然的にその流れでアルテアさんも出てくるのです。でも最近は、毛皮の会が楽しみ過ぎてウィリアムさんや、美味しいヒルドさん……いえ、ヒルドさんの夢は見ないのでした」
「ご主人様が浮気する…………」
「おい、まさかまたあの妖精の粉を口にしたんじゃないだろうな?!」
「……………黙秘権を行使します」
とても状況が不利になったので、ネアはだんまりを決め込んだ。
そして、ふと視線を投げた先の地面に、ふわふわの子鹿のような生き物を発見してぴたりと動きを止めた。
「…………なんという足の短さ。愛くるしいです」
「ネア?」
固まってしまったご主人様の視線を辿り、ディノは目を瞠った。
そのまま、ひやりとするような酷薄な眼差しになる。
視線の先で、子鹿がぴみゃっと飛び上がり震え出した。
「…………ディノ、あの短足子鹿さんをご存知なのですか?」
「…………あれがドーミッシュだよ。まさか、本来の姿でここに来るとはね」
「ほわ!ドーミッシュさん!もふもふ!!」
「いけないよ、ご主人様。彼は伯爵位の魔物だ。先程までそう話していただろう?」
「…………むぐ」
持ち上げられたままばたばたした人間は、すぐさま魔物に叱られてしまった。
しゅんとしてそちらを見ようとしたところ、今度はさっとアルテアに視界を遮られる。
「おのれ、許すまじ!視界不良にする虐めですね!!」
「お前の好きな白い毛皮じゃないだろ」
「さりげなく、白もふさんの売り込みもしてきました。なんと狡猾な使い魔なのだ!!」
「おい、自分から関係者だと知らしめているぞ?」
「その関係者特需で、あの子鹿さん、………いえ、ちびこいだけで大人に違いないので小さいという意味の方の小鹿さんを撫で…」
「ご主人様?」
「むぐぅ」
現場は大変な混乱を見せ始めていた。
恨みのある魔物の背後から忍び寄ったが人間に発見された魔物と、うっかり忍び寄られた魔物、そしてなぜか同席する羽目になった魔物の王様に、小鹿を撫でまわしたい人間が揃い、かなりの修羅場と言えよう。
仲間である二人の魔物は恐らく敵であるので、ネアは小鹿と目を合わせてこちらに来るのだと念じてみたが、すかさず使い魔に視線を遮られてしまう。
ここから先は厳しい戦いになりそうだ。