調香の魔物とご主人様の憂鬱
調香の魔物が死んだ。
もう充分に年老いていたので、老衰なのだろう。
その報せを聞いた時、ネアは鋭く息を吸って、とても深く長く吐き出した。
ネアがその魔物の下に通っていたことを、私は知っている。
足しげく通い、帰ってくるころには笑顔でいることが多かった。
あらかじめ此方に話を通し、調香の魔物には手を出さないよう約束までさせて、
いつもいい香りを纏って帰ってきた。
「ほら、いい香りでしょう?檸檬の香りの香木と、妖精の粉に、林檎の香りを合わせたそうです」
そう、嬉しそうに話してくるりと回ってみせると、
部屋には調香の魔物の作品の香りが満ちた。
「いい香りだね」
ネア、君は時々とても残酷になる。
調香の魔物は、魔物としても珍しい成合の魔物だ。
元は妖精の王であったものが、戦乱で焼け落ちた森の中で魔物に成った。
一説には、鶺鴒の魔物であった伴侶が、再び生まれてくるのを待っているのだとか。
調香の魔物は、とても美しい。
朝焼けの色の羽と、黄金の瞳を持っている、うら若い青年の姿をしている。
雨だれの声を持ち、木漏れ日の微笑みで、どんな人間の心も寛がせてしまうのだと言う。
ネア、
ネア。
君は時々、あまりにも自然に背を向けて、ふわりといなくなりそうな気がする。
その時にさえ微笑んで、この手を振り切ってゆきそうな気がする。
調香の魔物が死んでしばらくしたある日、
北の離宮に小さな小包が届けられた。
奥に届けられるまでの検閲に少し時間がかかり、藍色の箱は角がくたびれていた。
その箱に記された宛名の文字を辿り、懐かしい香りのそれを掲げて、
ネアは寂しそうに微笑む。
調香の魔物からの贈り物だった。
その翌日、ネアが自分の生まれた世界について、少し話してくれた。
こんな季節には南瓜頭の魔物が出るらしく、それが懐かしいのだそうだ。
南瓜の魔物であればこの世界にもいるので、さっそく捕りにいくことにする。
脆い南瓜の頭がすぐに崩れてしまうので、生け捕りにする力加減が難しい。
夜までかかってようやく一匹を捕獲するのがやっとだった。
「ネアが、僕を守ってくれたの。勇ましかったよ!」
回廊沿いのサロンの一室で、ゼノーシュがそう話している声が聞こえてくる。
今日はネアと一緒に街に出て、とても楽しいことがあったようだ。
彼の騎士の答える声が続き、懸命に話を続けるゼノーシュの嬉しそうな声が耳についた。
南瓜の魔物は、ネアのお気には召さなかったようだ。
山に放してくることになったけれど、代わりに手を洗って貰えた。
香りのいい石鹸で泡をたてて、丁寧に隅々まで洗ってくれる。
大事にされているようで嬉しくて、その日はずっと唇の端が緩んでしまった。
石鹸の香りは人間の商店が作った売り物の香りだ。
調香の魔物の香りとは違う。
ネアは、季節ごとの音や香りの、その全てを貪欲に楽しんでいる。
ばりばりと踏む色とりどりの落ち葉や、鉄板でバターと塩で焼く茸。
真夜中に星を見に行こうと言い、色鮮やかな秋の実を喜ぶ。
干した果実の焼き菓子に、秋の終わりの霧の朝を好み、冬に備える鹿達をじっと見ている。
ネアが好きなのは、晩秋から冬にかけてと、春と初夏。
この世界の切れ端を宝物のように集めて、とても大切にする。
それはみんな私自身の欠片でもあるけれど、私はそれに成り替わることは出来ない。
「ネアは、好きなものがたくさんあるんだね」
いつだったかそう言ったら、ネアは淡く微笑んだ。
「確かに世界には美しいものがたくさんありますし、私は強欲ですが、」
鈍い薄紫色のドレスが、しっとりと霧を纏う。
彼女はなぜか、こちらを見て微笑みを深くした。
「たった一つの特別な宝物を守る怪物が、この世で一番幸せだと思っています」
だとすれば、私は幸せなのだろうか。
その宝物がこの指先からすり抜けようとしても、怪物はそれを呑み込めるのだろうか。
「ディノ、贈り物です」
ある日、ネアが白い封筒をくれた。
少し厚みがあって、ひっくり返してみると蜜蝋で封印されている。
鳩と柊、そしてリボンの印章が繊細で、崩したくないと密かに思う。
「印章、作ったの?」
「ええ。何かと便利なので作りました。それは今度から、私のサイン代わりですからね」
「どんな意味があるんだい?鳩は、ネアの瞳の色?」
「皆さんがそう言ってくれるので、鳩を私の象徴にしました。どこにでもいて、食べると美味しい平凡な子ですけどね。リボンは、ディノの象徴です。柊には、私の生まれた世界では、保護するという意味の花言葉があるんですよ」
「………リボンが、私なのかい?」
「ええ。今のところ、私の中のリボンの印象は、全力でディノです!見かけるとつい買い与えたくなる、貯蓄の敵ではありますが、たくさんあっても似合うから仕方ないですね」
蜜蝋の封印を指でなぞった。
やはりこれは傷つけたくない。
丁寧に開けようと思って、癒着面に小さな大気の刃を入れる。
ついでに蜜蝋そのものの保護もかけておくことにして、風化の拒絶を添付した。
中から現れたのは、一枚のカードだった。
大きな飾り木にたくさんのオーナメントがついている絵で、オーナメントの部分に仕掛けがある。
電光石が埋め込まれていてちかちかと光ったり、妖精の魔法で触ると色が変わったりした。
蚕の魔物の飾り糸や、銀細工と硝子細工の繊細なもの。
そして、飾り木の先端についている星の飾りには、氷の結晶石が使われていた。
触ると、ふわりと香りが立ち昇る。
「………この香り」
「その星飾りの氷の結晶石は、液体を結晶石にすることが出来るので、香水を使うのが流行っているそうなんです。せっかくだから、ディノの好きな香りを調べて、調香の魔物さんに作ってもらったんですよ」
最後のお客になってしまいましたね、とネアは寂しそうに微笑んだ。
「だから、あの魔物のところに通っていたの?」
「ええ。それと、カードの他の仕掛けを、調香の魔物さんの奥様にも手伝って貰いました」
「他の仕掛け?」
あの魔物に伴侶がいたのは、初耳だった。
鶺鴒を追い掛けていたと聞いたけれど、もう諦めてしまったのだろうか。
「飾り木の下にある、私のメッセージを指でなぞってみて下さい」
艶消しの金色の文字で、ネアのメッセージが書かれていた。
“私の、大切な魔物へ”
震えそうになる指でそっと撫でれば、オルゴールのような音楽が鳴り始める。
「調香の魔物の奥様は、鶺鴒の魔術師という名前の、凄腕魔術師さんなんですよ!彼女の調合したインクは、こうやってある条件を満たしてやると、音楽を奏でるんです」
「鶺鴒の魔術師…………」
「ディノは知りませんか?お年を召されてもあんなに瑞々しくお綺麗な方でしたので、若いころはさぞかし噂の美女だったでしょうね。他の魔物に求婚されていたのを、調香の魔物さんが、“彼女は、俺の運命の女だ!”って名乗り出て略奪したのだそうです。おしどり夫婦で有名で、一緒に居ても、とても幸せそうで素敵なご家庭でした」
その時わかった。
ネアの浮かべる寂しそうな微笑みは、調香の魔物に向ける愛おしさではないのだと。
「寂しいのかい?」
「そうですね。あんな風に思い合う夫婦が、離ればなれになるのは悲しいことです。お二人の年齢がもう少し近ければ、調香の魔物さんが、あと五年でも長生きしてくれれば、二人はまだ一緒にいられたのに」
「そうか。ネアは、その夫婦が好きだったんだね」
「私はただの顧客でしたが、それでも幸せの御裾分けをいただきました。大好きなご夫婦だったんです。………いつか、ディノにも会わせてあげようと思っていたので残念です。奥様も、私への納品を最後に魔術になってしまわれたそうですので……」
ごく稀に、卓越した魔術師が魔術そのものに還元されることがある。
体と魂を捨てて魔術に成ることで、その魔術師の固有魔術を、誰にでも使える魔術として開放することが出来るのだ。
人間の魔術の歴史の中には、後世の礎になった者達としてのその事例を数多く見ることが出来る。
「有難う。こんなすごいもの貰ったのは初めてだよ。私の宝物にしよう」
「ふふ。宝物にしてくれると嬉しいですが、また祝祭の日にもカードを贈りますし、新年のお祝いもあげます。来年にはディノの新しいお誕生日もあるから、大きめの宝箱が必要ですよ?」
「ネアも入る?」
「密閉されると死んでしまうので、止めて下さいね。……おっと、」
隣りに座ったネアを持ち上げて、強引に椅子にしてもらうと困った顔をされてしまった。
カードごとネアを抱き締めて、指先で辿る音楽をもう一度鳴らす。
「…………綺麗な音楽ですね」
「ああ。綺麗だね」
甘やかすことにしたのか、髪を梳いてくれるネアの手には、私の魂を切り分けた指輪がある。
(そろそろ、もう一つ増やそうか)
指輪を増やすと考えたら、ひどく安堵した。
魔物から指輪を贈られるその意味を、ネアはまだ知らない。