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167. 週末は羊と過ごします(本編)



夢を見た。



そんな夢の中でこれは夢だと認識していて、ネアは一度見たことのあるチェス盤を見下ろしている。

ゆらゆらと霧や陽炎の立ち昇る不思議な魔法のゲーム盤で、精緻な彫刻の駒が美しい。

白と黒、見慣れた色分けのその盤面には、人間には想像もつかない残酷さが揺蕩う。


そんな、ネアがかつて見守っただけだったチェス盤の上で、とある駒が一つ倒れた。


カツンと音を立てて、その駒は盤上に転がる。



夢の中でネアが蒼白になったのは、その駒が左右に一つずつしかない特別な駒だったからだ。

左側にあるのは、漆黒の駒。

髪が長い男性の姿を模したもので、盤上にはあるものの、ゲームに使用する区画とは離れた盤上の左隅の特別な場所に置かれている。

そして、倒れた駒も同じように盤上の右隅にあったものだ。

でもそれはネアが見た時のことで、今は盤上の戦いが行われる区画の上で無残に倒れている。


白い駒は、白い髪の男性の姿を模していた。


そう、つまりその二個の駒は、このチェスで支配されたとある国に、実際に自らも訪れることが出来るプレイヤーを模した駒なのだ。


ネアは咄嗟に、その白い駒を持ち上げてもう一度立たせた。

そんな風に手を出してしまっていいのかわからなかったが、そうせざるを得なかったのだ。

もしその先に見知った相手がいるのであれば、その駒をそのままになど出来る筈もない。

しかし、そんな風に素人が手を出してしまった報いはすぐに訪れたようだ。


ふいに部屋の中だというのに突風のようなものが吹き荒れると、ネアはぽっかりと開いたチェス盤の中の暗闇に引き摺りこまれてしまったのだ。




「ほわ!…………むぅ、嫌な夢を見ました」


がばりと跳ね起き、なんだ夢かと男前に手の甲で額の汗を拭ったところで、ネアの微笑みは凍りついた。

いつもの部屋のいつもの寝台で眠った筈なのに、ネアが目を覚ましたのはよりにもよって、見知らぬ草地だったのである。


朝靄で少し湿った草地に座ったまま、ネアは呆然と周囲を見渡す。

メェーと鳴いているのは羊なので、ここは牧草地なのかもしれない。

そして、こちらを見て目を瞠ったまま固まってしまっている青年と目が合った。



さあっと、二人の間を霧が流れてゆく。



「………あの、……………大変申し訳ないのですが、目を覚ましたらここにいました。こちらは、どこなのでしょうか?」


相手も固まってしまっているので、ネアはおずおずと話しかけてみる。

羊飼いのような服装にも見えるが、異国風のたくさん布を重ねた不思議な衣装では、彼がどんな立場のどんな人間なのかはわからない。

ただ、柔らかな色彩を幾重にも重ねた装いが、とても美しいことだけはわかった。



「…………迷い子かな」


微かな沈黙と躊躇を挟み、そう呟いた声は思っていたより穏やかで理知的だ。

赤紫のふくよかな色の髪に、綺麗な水色の瞳をしている。


あたたかな砂色の肌は砂漠の民のようだが、また少し色合いが違う。

雪花石膏のような北方の白さをしめすヴェルリアの人々の肌の色で、ネアの周囲の魔物達もそのような肌色の者達が多い。

一部のヴェルリアの民と、ドリーは少しだけ健康的な肌色寄り、ネアが以前に出会った風竜のサラフは蜂蜜色の肌だ。

この青年の肌の色は砂漠の民よりは幾分白いが、褐色寄りのそちらの人種とは、そもそもの色味が少し違う。


(不思議な肌の色だわ。砂色ですべすべしていて、灰色がかっているのにほんのりピンク色も感じられて、あたたかみがある……)



「かも知れません。夢の中で穴に落ちまして、気付いたらここにいました。お家に帰りたいので、場所がどこなのか知りたいのです」

「ここはランシーンの国の、カフタルという高地だ。………その、君は?」


ネアはよろよろしながら立ち上がり、現在地を教えてくれた青年にぺこりと頭を下げた。

お尻が冷たくて風邪を引きそうなので、何だか惨めな気持ちになる。


「ヴェルクレアという国から来ました。………その、ご存知でしょうか?」

「確か、遥か西の方にある大きな大陸の中の国だった気がする。………ここは島国だから、時々商船が立ち寄って水や食料などを買ってゆくんだ。………それと君、裸足だね」

「…………む。べしゃべしゃするのはその所為でした。状況を理解することと、お尻が冷たいのとで言われるまで気付きませんでした」

「夜着のままじゃないか!ここは、もうすぐ雪が降るんだ。すぐに温めよう」


驚きから先に立ち直ったのは、青年の方だったようだ。

朝露でしっとりした牧草地に横たわってしまったせいで何とも惨めな感じになってしまったネアを、慌てて自分のテントに連れ帰ってくれる。


青年がネアを連れ帰ったのは、草原の騎馬民族が住んでいそうな大きなテント風の住居だった。

玄関部分がきちんと独立していて、一つのテントに複数人が住んでいるような造りだ。



「ルドヴィーク?!そのお嬢さんはどうしたんだい?!」


連れてこられたネアを見て、驚愕の声を上げたのはふくよかなご婦人だ。

優しい麦わら色の髪を複雑に結い上げ、ルドヴィークと呼ばれた青年と同じように、素敵な布を幾重にも巻き付けた何とも異国風の装いをしている。


こちらの民族衣装は、クリーム色のウール地のような素材の布で、一番下に一枚鮮やかな色を羽織り、その上から淡い色彩のものをグラデ―ションのように重ねてゆく手法のようだ。

ネアの薄い知識では、草原の国の遊牧民という印象の装いである。

青年に対しては騎馬民族風の印象だったのは、彼が腰に大ぶりな半月刀を下げているからだろう。



「多分、迷い子だ。妖精に悪さをされたのかもしれない」

「まぁまぁ、なんてこと、裸足じゃないの!すぐにお湯を持ってきて!!」

「ルドヴィーク何があったんだ………?おい、このお嬢さんはどうしたんだ?!」

「何だ、何の騒ぎだ?!」


その後わらわらと二人の男性が増え、ネアは囲まれてしまって途方に暮れる。

皆一様に身長が高く、異国風の装いに囲まれると威圧感がある。

そして、チーズ粥らしき美味しそうな匂いに、お腹がぐーっと鳴って真っ赤になった。


「はっはっは!こりゃいい。迷い子は空腹らしいぞ!」

「…………お恥ずかしい限りです」


しゅんとして項垂れたネアに、一番最後に出てきた眼帯の男性は、笑いながら肩をばしばしと叩いてくれた。

中々の威力なので体がぐらぐら揺れてしまい、それに気付いた青年の母親が男性を叱りつけてくれた。


青年の母親の服が少し大ぶりだったこともあり、ネアは青年の服と、その母親のストールを借りて無事にほかほかの服に着替えると、お湯を使わせて貰って身綺麗にしてから、袋に入れて首飾りの金庫に保管してあった冬用の戦闘靴を履いた。

思いがけないところで久し振りに履くことになったが、衣裳部屋ではなく念の為にと金庫の中に入れておいて正解である。



「それにしてもあんた、装飾品を着けたまま寝るのかい?」

「いえ、今回は気象性の悪夢が来ていると事前に注意があったので、上司の指示で身の回りのものを少しだけ入れた首飾りをしたまま寝ていたのです」

「そりゃ、しっかりした備えだ。その上司には感謝してもしきれないねぇ」

「ええ、何の連絡手段もないままここに飛ばされてしまったら、怖くてどうしたらいいのかわかりませんでした。それに、こんな親切な方々に助けて貰えて、私は本当に運が良かったです……」

「それにしても、魔術庫を持ってるってことは、あんたも魔術師か何かなのか?」


そう尋ねたのは、ルドヴィークという名前の青年の兄にあたる人物で、青年の母親の次に飛び出してきた男性だ。

端正な顔立ちだとは思うのだが、顔のほとんどが髭で覆われてしまっているのでいささか厳めしく見える。

プラードという名前で薬師をしているのだそうだ。


「いえ、………残念ながら魔術可動域が低すぎて、魔術師にはなれないのです。なので、不用心にならないようにと持たされていました。そして、も、という言い方をされるということは、こちらには魔術師さんがいるのでしょうか?」


ネアは少しひやりとした。


先程、取り急ぎ情報をまとめたいからと、カードを開いてメモをしている風にディノにメッセージを送っておいたのだ。

あれから十五分程経っているが、まだ魔物から返答はない。

魔術仕様の通信端末は見られても構わなかったが、あのカードはかなり高価なものなので、身分を隠す為にも、もしもの時の為にも、あまり知られたくなかった。



「ああ、ルドヴィークは魔術師だ。この国では羊飼いはみんな魔術師だからな」

「まぁ!そういうお国なのですね。何だか素敵な魔術師さんだという気がします」


ネアが異国文化にはしゃいだせいで、青年は少し照れたように微笑んだ。

こうして家族のやり取りを見ていてもわかるが、彼等は仲のいい家族のようで、そんな家族の中で育ったことでルドヴィークは優しい青年になったのだなと感じる。


家族構成は、母親のレンリと、兄のプラード、そして母親の末の弟である叔父のアフタンである。

叔父のアフタンは半月前までは王都の将軍だったそうだが、先の戦いで片目を負傷しこの家に戻って来たのだそうだ。

実際、片目には痛々しく眼帯をしており、治癒魔術の符を当ててはいるものの更に半月はこのままなのだそうだ。


「この国の山と山間の草原には魔物が多く出る。精霊達は人間を惑わせるし、妖精は子供達を攫う。羊飼いは羊を守る為に魔術が得意である必要があるんだ。それだけだよ」

「と言うことは、そのような困った生き物達から皆さんの財産である羊さんを守っていらっしゃるのですね。そんなお仕事をされているのに、見ず知らずの私を助けて下さって有難うございました」


得体のしれない者が自分達の土地の中に居たのだ。

さぞかし怖かっただろうと思って頭を下げれば、ルドヴィークは苦笑して手を振った。


「君はとても呆然として少し泣きそうだったし、人間なのも、魔術可動域がとても低いのもわかったからね。うちは、母さんも魔術階位が低くて苦労した人なんだ。魔術の気配が薄い人間は、見てすぐにわかる」

「まぁ、ご苦労されたのですね。………私もよく、魔術可動域のせいで子供扱いされてしまうのです」


ネアが悲しげにそう告白した途端、なぜか家族たちは顔を見合わせた。

一拍置いてから、ルドヴィークにおずおずと質問される。


「君の可動域は、どれくらいあるんだい?」

「…………六です」

「六十か。それなら、出来ないことも多いだろうけれど、申請して成人扱いにして貰うことは…」

「ごめんなさい。そのままただの六なのです。六十あったら、喜びに小躍りしてしまいます」

「…………ろく?!」


大きな声を上げて驚いたのは、叔父のアフタンだ。

元将軍をしていたというだけあり、精悍な鷲のような黄褐色の瞳は鋭い。

陽光が射すと鈍い金色にも見えるその瞳は、どこかドリーを思わせた。

長い淡紫紺の髪を複雑に結い上げ、身持ちを崩したインテリ学者のような雰囲気を醸しつつも、その肉体は武人らしくがっしりとしている。

こちらの国では、男性は長い髪を結い上げる文化のようだ。


「…………六です」

「あんた、よく生きていけるもんだな。ルドヴィークの隣にいて大丈夫か?」

「抵抗値は高いらしくて、使えないばかりの弊害なのです。でも、この通り丈夫に生きていますよ!」

「そうか、だから妙なところに吹き飛ばされちまうんだなぁ」

「…………ほわふ」


プラードにしみじみとそう言われ、ネアはしゅんとした。

そうなのだ。

またしても見知らぬ土地に引き落とされてしまっているので、本人的にもかなりのショックなのである。


「………もしかしたら、夢見で繋がった相手に呼ばれちまったのかもね」


そうネアの頭を撫でてくれたのはレンリだ。

いつもの魔物達が撫でてくれる感触とは違い、いかにも人間のお母さんに撫でられていると言う感じがする。

胸をほこほこにする魔法の手だ。


「妖精や魔物が、夢から人間を操ったり、こうして迷わせてしまうということはたまに聞くことだ。今回はたまたま僕が通りかかったけれど、普段であればあの場所は、昼過ぎまで人気のない牧草地だからね」

「……………偶然だったのですね」

「昨日の夜に、山の向こうの平原で大きな戦があったんだよ。最近は国王軍と、海沿いの町の商人達で大規模な交戦が続いていてね。手負いの軍人が山に入ることもあるから、夜明けと同時に見回りをしていたんだ」

「将軍に続けってな」

「やめろよ、プラード。俺は逃げた訳じゃないぞ。正式に除隊したんだからな?」

「王族達が、傷物には用はないと判断したのが幸いだ。このままじゃ、あの王家に殉死しなきゃいけなくなる」


何やら事情があるようだぞと首を傾げたネアに、ルドヴィークが説明してくれる。


「この国では、千年続いた王家の支配にそろそろガタがきていてね。港町の商人達は、王政を廃したいと思っている。叔父さんは、粛清や見せしめも厭わない王家のやり方に反対だったから、目の怪我を口実に役目を解かれて喜んでいるんだよ」

「そのようなご事情があるんですね。………と言うか、私に話してしまっても良いことなのですか?」

「ああ、そうか君は知らないんだよね。この国ではね、稀人に出会ったら、己の抱える問題を隠さず話すと道が開けるっていう伝承があるんだよ。島国だから、そういう信仰が古くからあるんだと思う」

「稀人…………」

「魔術的な階層を経て訪れる、異人や客人のことだ。本来はこの土地にいない者達にのみ適応されるから、迷い子の君はまさにそうなんだろうね」


穏やかな声で語られる言葉に、ネアは土着の信仰の不思議な余韻に胸を震わせる。

ウィリアムと訪れた砂漠や、水竜の問題で訪れたカルウィもそうだったが、文化圏が変わるとその世界はまた違う色合いに見えるのだ。


「私は、残念なことに魔術可動域六のひよっこですが、こんな風に暖かな場所に入れて貰い、美味しいチーズ粥とバター茶をご馳走して貰ったので、お迎えが来たら何かとびきり上等なお土産を考えて貰いますね!」


ネアがそう言えば、家族達は顔を見合わせて優しい目をした。

きっと、迎えが来るまでにはかなり時間がかかりそうなので可哀想にという同情の視線のやり取りなのだが、ネアとしてはもう少し早く帰るつもりなのである。


(この週末の内に戻れれば、仕事に穴を開けずに済む筈………)



「好きなだけここにいていいんだからね。安心おし。それと、町に伝令を送って君の国の使節に繋げて貰おうか?」


優しくそう尋ねてくれたレンリに、ネアは微笑んで首を振った。


「ひとまず、魔術通信の反応があるかどうかもう少し試してみます。その間、ここに置いていただいてもいいですか?私のいる国もあれこれ派閥争いがあるので、出来れば穏便に戻りたいのです」

「そりゃそうだ。そういう事情を考えてやってなかったね。家に戻る算段が付くまではここにいていいからね。男ばっかりだけど、お嬢さんが嫌がるようなしょうもない男はいないから安心しな。何かされたら、私が叩きのめしてやるからね」

「……母さん」

「母さん、そんなこと言うと怖がっちまうだろ」

「………レンリ姉さん」

「ふふ、そんなに素敵に優しいことを言っていただけるなんて、幸せ者です。ご迷惑をおかけしてしまいますが、どうぞ宜しくお願い致します」


稀人を大事にするこの土地らしく、少々のお手伝いをしては欲しいが、身の振り方が決まるまでは好きなだけここにいればいいという。

早々に方針が定められたのは、彼等が働く者達だからだ。

朝日が昇り霧が薄れ始めると、草原の民の暮らしはやるべきことがたくさんある。




「まだ落ち着かないだろう。少し休むかい?」


ルドヴィークは微笑んでそう聞いてくれる。

やはり、青年ではあるが森の大木のように落ち着いた眼差しが頼もしい。


「いえ。お食事をいただいてお腹も心もほこほこなので、お手伝いします!魔術可動域六なりに、何か出来ることはありますでしょうか?因みに、妖精狩りと竜を斃すのが得意です!」

「…………いや待て、魔術可動域六なんだろ?!」


アフタンが慌ててそう割って入ったが、ルドヴィークは不思議な客人だなぁと笑っているくらいだ。

長い間羊飼いをしながら山と草原で暮らしていると、不思議なことや奇妙な生き物は幾らでも見るらしい。

将軍職に就きこの地を離れていたアフタンの方が、そういうものからは縁遠くなってしまっているのだと言う。


「じゃあ、僕等と羊たちの見回りに一緒に出ようか。疲れたら戻ればいいし、明るくなったこの草原を見るのもいいんじゃないかな。昨日は戦があったから叔父さんも一緒に見回る。王都のことや、商船のことは叔父さんに聞けるかもしれないしね」



かくしてネアは、見ず知らずの土地で羊の見回りをすることになった。



「わぁ、………何て広いんでしょう!見渡す限りが草原です」


ルドヴィークと相乗りで長毛種の馬のようなものに乗せて貰い、草原に出てゆけば、そこは凛とした山々に囲まれた見事な草原であった。


切り立った山々に囲まれた平地ではあるが、ここも既にそれなりの高地であるらしく、牧草地だが決して豊かな土地ではないのだと分かる。

しかし、まだ霧を這わせごつごつとした岩が剥き出しになった斜面に咲く可憐な花や、遠くに見える冠雪の美しい山々を見ていると、その清廉さに心が洗われるような気がする。

なだらかな曲線を描く草原には、茶色と砂色の羊達が無心に草を食んでいた。


「見える限りの土地が、ハラッカ家のものだ。とは言えこの辺りは魔獣や魔物も多いから、あまり好んで奪おうとする輩はいないけれどね。この国の羊飼いはね、魔術階位が高い順に高地に住むんだよ。当代の羊飼いが代替わりすると、また頭目達が集まって暮らす場所を入れ替えたりもする」

「引き受けられる方がより多くという、助け合いの仕組みなのですね」

「まぁね。………ここは一番上の牧草地だ。実りは少なく、危険も多いけれど、僕はここが好きだから良い場所に暮らせて幸福だよ」

「美しいところです。………上手く言えませんが、胸を打つようなひたむきさを感じる美しさですね」


ネアがそう言えば、ルドヴィークは嬉しそうに微笑んだ。

青年らしい純朴で端正な面持ちが、彼が穏やかな声で語り出すと一瞬で印象が変わる。

豊かな力と深い叡智を持つからこそ、彼はこんなにもどっしりとしているのかもしれないと、そんな風に思わず感嘆してしまうような人なのだ。


灰色の空から、はらはらと粉雪が舞った。

アフタンの見立てによれば、少しだけ雪が舞ってもまるで積もらない程度の雪雲なのだそうだ。

この荒涼としてはいるが美しい土地に降る粉雪は、絵のような美しさで胸を引き絞る。



飛影がくるりと揺れて空を見上げれば、立派な鷹が一羽、上空を飛翔していた。

一声鋭く鳴いて旋回すると、伸ばしたアフタンの腕に舞い降りる。

ご褒美の肉を貰ってご機嫌で食べている内に、アフタンは鷹の足に仕込まれた書簡を読んで顔を顰めた。

予めこの鷹の訪れを知っていたのか用意していた紙を取り出すと、不安定な手元で感心してしまうくらいに素早く返信を書き連ね、鷹の足に括りつけられた銀色の管に入れる。


腕を振り上げると、鷹はまた一声鳴いてから大空に飛び立っていった。



「昨日の戦のことかい?」

「ああ。何か人外者絡みの事故が起きたようだ。ヘルディナが取り乱し、戦況は混乱を極めたらしい」

「ヘルディナ様か。高位の人外者からの託宣を受け、その力を借りた救世の騎士だね。叔父さんの大嫌いな」

「………あまり言ってくれるな。国王軍の象徴にされた聖女とは言え、俺は得体のしれない魔物の言うがままに戦うことには賛同しない。人ならざるものの助言は有難いものだが、それだけを盲信するとなると話は別だろう。確かにいい女だし人望もあるが、原動力が愛する魔物に傅く為じゃあな」


ネアが稀人だからか、隠すことなくそんなやり取りをする二人の言葉で、ネアは何となくこの国の状態が飲み込めてきた。

仮にも将軍という立場にあった人がお役目をぽいとしたのには、色々と深い事情があるらしい。

要するにこの国の国軍と、その象徴とされる聖女は、ここにいるアフタンという将軍を失望させてしまったのだろう。

言動を見ているとかなりの役職にあった優秀な武人という感じがするので、ネアは戦況の行く末が見えたような気がして複雑な気持ちになる。


国が傾くともなれば、きっとこの美しい土地も荒れてしまうのだろう。



そんなことを考えながら馬に揺られていると、不意にがくんと馬が揺れた。


「………何かいるね」

「…………あの雲の下のあたりか」


男達は眼差しを険しくし、ルドヴィークの馬の前に、アフタンが盾になるように馬を割り進める。

ぎょっとしたネアだったが、問題の地点はかなり遠くにあるようで、二人が羊達が混乱している気配のする一画と話している場所は、遠すぎてわからなかった。



「………獣、いや人型だな。魔物か………?」

「害意は感じないけれど、羊達が随分怯えているから高位のものかもしれない」

「前にお前が話していた山の精霊じゃないのか?」

「いや、あの精霊は髪が長かったから違うだろう。………それに、見たことがないような服装だな」


二人は緊張した様子で言葉を交わし続けているが、目視ではそこまで見えないネアは何とかその人型の不審者を見付けようと目を凝らしている内に目がしわしわしてきた。

このような土地で暮らす人々は目がいいのだろうかと悲しく思っていると、ネアの様子に気付いたルドヴィークが慌てて教えてくれた。


「ああ、ごめんね。君にはまだ見えないだろう。この山と草原の霧は魔術が濃いんだ。君の可動域だと近付かなければ見えないと思うよ」

「…………なぬ。悲しい現実にぶつかりました」

「それと、敵意がないようだから様子を見に行くつもりだ。一度テントに帰るかい?」

「いえ、悪いものだと困るので、お二人が一緒に向かわれた方がいいでしょう。お邪魔にならないようにしていますので、このまま乗せて行って下さい。或いは、足手纏いにならないようにその辺りに隠れていましょうか?」

「稀人にそんなことはさせられないよ。では、怖いかもしれないが掴まっていてくれ」

「はい」


ざっと勢いよく走り出した馬に、ネアは今まで二人がどれだけのんびりと馬を走らせていてくれたのかを思い知る羽目になった。

もさもさした長毛種の馬だったのでのんびりな性格かと思っていたが、まさに風を切るように走ることが出来るらしい。


(す、凄い!!)


どっしりとした蹄で土を蹴り霧の這う山肌を駆け抜け、あっという間に先程の地点まで辿り着く。

そしてネア達が見たのは、石を削って作った祠のようなものの横に寄り掛かり、荒い息を吐いている一人の男性だった。

こんな場所に不似合いな漆黒のスーツ姿に、洒落たコートを着ているようだ。

こちらが近付いてくるのは気付いていたようだが、逃げずに留まったものか、逃げる余力がなかったものか。


そして、その人物を見た途端にアフタンがあからさまに動揺した。



「………ルドヴィーク、下がれ」

「叔父さん?」

「ここは俺が押さえる。急いでテントに戻って、鎮めの儀式の準備をして来い」

「………悪しき神か」

「ヘルディナに託宣を与えておられる御方だ」


(…………聖女様を唆しているという、悪い魔物さんなのだろうか?)


アフタンの声は、辛うじて平静を保っているといってもいい程に震えていた。


憤りを隠せないくらいにこの魔物が嫌いなのだろうかと思ってそちらを見たネアは、アフタンの額に滲んだ汗を見て、彼が心から怯えているのだとわかった。

恐れなど知らないような言動の人だったがこうして人外者と向き合うのは苦手なのか、或いはこの魔物が余程恐ろしい生き物なのかどちらかだ。


ネアは擬態用の色付けボールで変装してこなかったことを後悔しつつ、ルドヴィークの背中の後ろから、ちらりとそちらを覗いてみた。

視線が合わないように、その魔物の視界に入るところに来てからはルドヴィークの影に隠れていたのだ。



「……………む。見覚えのあるお洋服です」



ネアが嫌な予感にそう呟くと、脇腹を押さえて顔を顰めていた魔物がはっとしたように視線を上げた。

そしてそのまま、ネアの見慣れない容貌の男は、目を瞠って凍り付いてしまう。



「……………お前、何でここにいるんだ?!」

「むぅ。見たことのないお顔の方なので、実は知り合いではないのかもしれません」

「おい、どうし……………っ、くそ…………」


立ち上がろうとしてしまってから、魔物は再び膝を突いてしまった。

どうやら本格的に重症のようなので、ネアは慌ててじたばたすると馬から飛び降りる。


「駄目だ!危ないよ!!」


慌てたルドヴィークがネアを捕まえようとしたが、この魔術可動域六ぽっちの人間は意外に現場慣れしていてすばしっこいのである。

ずしゃっと湿った地面に飛び降りて、ネアは祠の横の魔物に駆け寄った。

何とも言えない目でこちらを見上げているのは、鮮やかな赤紫色の瞳だ。



「………アルテアさん」


困ったように名前を呼べば、小さく頷いた。

一昨日、合宿終わりに見送ったままの服装の男性は、ネアが見たことのない美しく男性的な容姿に擬態している。

血よりも深い深紅の長い髪を結い上げ、その複雑な編み込みがはらりと崩れて頬にかかる様子は扇情的だ。

でもやはり、その瞳を見れば目の前の男性がアルテアであることは一目瞭然だった。


「シルハーンはどこだ?」


小さく咳き込みながら脇腹を押さえてない方の手を差し出したが、そちらの手も血に汚れていることに気付き、アルテアは小さく舌打ちした。

血に汚れた手袋を歯をつかって器用に脱ぎ捨てると、もう一度手を伸ばされる。


「すぐに助けてさしあげるので、ちょっと我慢していて下さいね」


ちょうど、ネアは大慌てで金庫の中をひっくり返しているところだった。

先程奥の方からブーツを引っ張り出したので、物の配置が変わっていたのである。


「助けを求めてるんじゃない。さっさとこっちに来い。どうせお前はまた、何かしでかしたんだろう」

「なぜに叱られたのだ。解せぬ」

「ここが…………っ、ここが、………ウィームからどれだけ離れてると思ってるんだ。そもそも、この問題には介入しないんじゃなかったのか?」

「言っていることがわからないので黙って下さいね。私は純然たる迷子なのです。そして、さあ、見付けましたよ!」


笑顔になったネアが取り出したのは、ディノ特製の傷薬と、加算の銀器である。

しかしなぜか、かなりの大怪我をしているにもかかわらず、アルテアはそのスプーンを見た時にあからさまな絶望の目をした。


「やめろ」

「まぁ!どうして駄々を捏ねているのでしょうか。傷薬が貴重になるかもしれないので、こうして少しずつ使うのです!スプーンさん、千倍で!」

「いや、十倍で充分だろうが。何でそのおかしな数字にした?!」


荒ぶってしまったせいでげふげふと咳き込んだアルテアに、ネアはすかさずしゃがみ込むと、えいやっとスプーンで無理矢理傷薬を飲ませてしまった。

飲ませてしまってから、そういえばこの薬はかけるものだったと思い出したが、魔物は基本丈夫なのでどうにかなるだろう。


咳き込む口元には血がしたたり、ネアは胸が苦しくなる。

以前の悪夢の時のディノもそうだったが、脆弱な人間の目に、こうした大きな傷はあまりにも怖いものだ。

それなのに、薬を飲むのを嫌がるだなんてどれだけ高慢なのだろう。



「……………そして、死んでしまいました」

「……………ふざけるな。服用薬の味じゃなかったぞ?!」

「ふむ。一度倒れましたが、無事に元気になったようです。優しいご主人様がいてくれて良かったですね。お礼は、ミートパイで構いませんので、チーズも入れたやつを作って下さい」

「お前な………」


スプーンの威力で、すぱっと全快してしまったアルテアに、ネアは笑顔になった。

叱ろうとして手を上げかけたアルテアが、嬉しそうに弾んだネアになぜか片手で顔を覆ってしまう。



「……………まずは、何でお前がここに居るのかを説明しろ。話はそれからだ」


そこでアルテアが視線を巡らせたのは、新たな魔物が登場したからだ。


「ネア!」

「…………それと、お前の保護者が来たみたいだな。………この島は、俺とアイザックで、外部の介入が入らないように何重にも閉じてあったんだがな………」

「ほわ!ディノ!!」


何とも複雑になるタイミングで、どこからともなく転移で飛び込んできた魔物に、ネアはもみくちゃにされる。

綺麗な真珠色のまま飛び込んできたので、背後の様子がとても思いやられた。

それでも嬉しくて、持ち上げてくれた魔物の首に手を回して抱き着いた。

ぎゅっと抱きしめれば安堵に心が緩むので、やはり落ち着いていたつもりでも不安だったのだと実感する。

その途端に、狡いと呟いてくしゃくしゃになるのだから、この魔物も相変わらずだ。



「…………念の為に言うが、お前の連れの一人が倒れたぞ」

「アフタンさん?!」



どうやら、ディノを目にしたところで、アフタンの精神は限界を迎えたらしい。

きゅっと失神してしまった叔父を、ルドヴィークが馬を寄せて必死に支えていた。


「ディノ、あの方々は私の恩人さんなので、馬から落ちないように助けてあげて下さい!」

「わかったよ」



ネアはほっと胸を撫で下ろしつつ、かなり遠巻きにしてこちらを見ている羊達を眺めた。

状況が落ち着いてしまうと、あらためて疑問を感じたりすることもある。



どうしてネアは、この国に夢から引っ張り落とされたのだろうか。

そしてまずは、恩人達を無事に家まで送り届けなくてはならない。







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