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秘密の小部屋と妖精の粉



人生には、手痛い失敗がある。

ネアがそんなことを考えているのは、現在ヒルドと、リーエンベルクにそんな場所が存在するとは知らなかった秘密の部屋に閉じ込められてしまったからだ。



「むぎゅ。………狐さんに意地悪しようとしたら、天の報いを受けました」


ネアがそう反省しているのは、ボールで我を失う銀狐が最近冬毛に戻りつつあることを受けて、お気に入りのボールを這いつくばらなければ取れない棚の下に隠そうとしていたからだ。


棚の下のボールを取るとき、銀狐はふかふかのお尻をきゅっと上げてネアの胸を苦しくしてくれる。

その愛くるしい姿を見たくて、意地悪していたことが神様の癇に障ったのだろう。


「いえ、あのような場所に隠し部屋があるとは、誰も思わなかったでしょうからね」


そう呟いて天井を見上げたのはヒルドだ。

彼は、通りかかった廊下で、淑女らしからぬ行いでボールを棚の下に隠しているネアに遭遇し、その後、棚の脚を掴んで秘密の小部屋に落とされたネアを助けようとしてくれたのだ。


その結果二人は、リーエンベルクの地下室に落ちてしまったのである。

落ちる際にヒルドの綺麗な羽がくしゃっとなり、ネアは悲鳴を上げてしまった。

羽は破れたりはしなかったものの、少しへしゃげたので悲しくなったネアは、先程から両手で挟んで平面に戻そうと試みているところだ。



「…………それとネア様、羽はもう大丈夫ですからお手を」

「このまま手のひらアイロンで伸ばしましょう!ヒルドさんの綺麗な羽が、私を守ろうとして下さったせいで皺々になったら困ります」

「落下の際に女性を守るのは当然のことですよ」


ヒルドは少し目元を染めているが、綺麗な羽がよれたから口惜しいのだろうと、ネアは悲しい気持ちになる。


今、二人がいるのは貴人用の部屋だった。


地下らしく窓などはないが、この部屋ばかりは状態保持の魔術で綺麗に整えられており、水と食料さえあれば暮らしてゆけそうな程だ。


「外側の迷路に出れそうですか?」

「あまり踏み込まない方が良いでしょうね。この部屋にある唯一の扉には、格子窓があります。恐らくここは、リーエンベルクで身分の高い者を軟禁する為の区画かと」

「ほわ…………。ぞくりとしました」

「となると、外側の通路の向こうにも、そのような施設や、関連の場所がある可能性が高い。幸い内部には命の気配がありませんが、魔術汚染や怨嗟が残っていると宜しくないですからね」

「…………ディノが助けに来てくれるのを待ちますね」

「早く、ネイを洗い終えるといいのですが、………今回は紙容器の精を踏みましたからね」

「………一時間半くらいでしょうか。ヒルドさんのご予定は大丈夫ですか?」

「この後は暫く部屋に戻る予定だったのですよ。後ろに仕事でも控えていれば、もう少し早く発覚しそうなものですが。………エーダリア様も、魔術書を読まれていると他のことには見向きもしませんからね」

「使い魔さんを呼びますか?」

「………いえ、やはりリーエンベルクの内部構造ですから、出来れば身内で処理をしたいですね。もう暫くお付き合いいただけますか?」

「ヒルドさんが一緒なら怖くありません!では、ディノかエーダリア様がカードに気付いてくれるまで、ここでお喋りしていましょう」


二人が落ちて来たのは、狭くはないが広くもないという部屋で、扉にある格子戸から外通路が見える。

外通路は黒色半透明の黒曜石のような石材で出来た石回廊になっており、ヒルドが灯した魔術の火を反射してきらきらと輝いていた。

他にも扉があることが確認されているが、生き物の気配はないらしい。

ネアにはよく分らない魔術の術符を飛ばし、ヒルドはこの地下が迷路のような広大な地下通路になっていることを発見した。

リーエンベルクの階段で降りられる地下と、魔術基盤のある地下との間にある空間だろうということだが、ネア的にはあまりの広大さに驚いてしまう。


おまけにこの部屋では、通常の魔術通信端末では通信が出来ないようだ。

なのでカードから救助要請をしたのだが、残念ながらディノは銀狐をお風呂に入れており、エーダリアは届いたばかりの魔術書を読み耽る休憩時間中なのだ。

特に遠くに飛ばされた訳ではないので危機感は薄いが、どちらかがネア達からの救助要請に気付くまではこちらで待機となる。


先程まで天井を調べようの会も活動していたが、こちらからは出られない仕組みのようなのだ。


「………よく見ると、このお部屋はまだ使われたことがないのかもしれませんね」

「確かに、未使用のものばかり置かれているので、あくまでも備えとしての設計かもしれません。基盤から魔術を吸い上げ、自動で管理される空間なのでしょう」

「むぅ………。綺麗な部屋ですし調度品も高価そうですが、小さな机と寝台しかないと、閉じ込められた方は退屈しそうですね」

「おや、そう考えると、私はネア様が一緒で幸運でした。しかし、今度この先の区画を調査した方が良さそうですね………」


地下室は、しんとしていた。

実際にここが地下にあたるのかどうかは不明だが、少なくとも廊下から下に落下したので、今のところは地下室という認識である。


音を吸い込むような薄暗さと壁の厚さに、ネアは一人だったらまず間違いなくホラー展開な脳になって、かなり取り乱しただろうなと息を吐く。

ヒルドがいてくれて本当に良かった。



その時、カタリと音がした。



「………っ!」


ネアはぎくりとし、ヒルドは広げていた羽を閉じ気味にするとそれでネアを覆うようにする。

音がした方に視線を向け、鮮やかな瑠璃色の瞳を鋭くした。

ばくばくする胸に呼吸の音を抑えようとネアは意識を集中したが、その音の正体はすぐに知れた。


壁にある仕掛け模様が、魔術の歯車で入れ替わったのだ。

見えていた太陽の彫刻が月に入れ替わり、二人は顔を見合わせる。


「………成る程、窓がないのでこのような仕掛けなのですね」

「………心臓が止まりそうなくらいにびっくりしました」


ネアは竜なら倒せても、心理的なホラー展開と蜘蛛は駄目なのだ。

この地下室にはそちらの二大要素の可能性があり、先程から気持ちが落ち着かない。


少しふるふるしていると、ヒルドにひょいと抱えられた。


「ほわ……」


びっくりしているネアを小さな子供にするように膝の上に抱え上げて、ヒルドは穏やかに微笑む。

ヒルドの羽を持ったまま動かされたのでぎくりとしたが、羽は特に折れることもなくぺらりと曲がる。

やはり、使わない時は布のように柔らかくもなるらしい。


「これで安心ですから、もう少し肩の力を抜かれて大丈夫ですよ」

「………びくびくしているのが伝わってしまいました。しかし、重くないでしょうか?」

「おや、ネア様は軽いですし、私もそこまで柔ではないですよ?」

「ヒルドさん………」


ほっとした微笑みを浮かべ、ネアは少しだけ甘えることにした。

こういう時、魔術可動域の低さが役に立つこともあるものだ。

まだ子供のようなものだと扱われても、甘えてしまえる。



「そして、今気付いたのですが、ディノは私の髪の毛に仕込みをしていた筈なのです。こちらから何か出来ないでしょうか?」

「ふむ。それがどのような扱いなのか存じ上げていないので何とも言えませんが、触れてみるなどされてみますか?」


後頭部の髪の毛の一筋であることはわかっているのだが、少々厳しく利用制限していたので、現在も稼働しているのか、そもそもどんな運用なのかも分からない。


ネアは、一度手のひらアイロンを解除してから、髪の毛を束ねる要領でぎゅっと手で押さえてみたが、特に違和感があったり特別な感じがある髪束はわからなかった。


ヒルドも触れてくれたので、ネアは他人に髪の毛を梳かれるこそばゆさにそわそわする。

ディノならば、よくご主人様の髪の毛を乾かしたい魔物になるので慣れてしまったが、それ以外の相手となると何だか落ち着かない。


「やはりあの方の魔術となると、私が見たくらいではわかりませんね。ネイならば或いは分かったかもしれませんが。……ネア様、寒くはありませんか?」

「少し冷んやりしてきましたね。でも、寒くなった場合は火織り毛布も持っています!」

「それは頼もしいですね」

「ふふ、死者の国でのことがあったので、一通りの備えを首飾りの中に入れているのです。元々、ディノのとんでも魔術で容量は大きめでしたが、こうして災害対策道具も入れられるのは心強いです。………ヒルドさん?」


ネアがむがっとなったのは、ヒルドの指先が耳朶に触れたからだ。

少し慌てているネアにくすりと微笑んで、ヒルドは、どうしてそこに触れたのか教えてくれる。

膝の上に抱き抱えられているので、ネアからはその表情が見えない。

だが、背中に当たるヒルドの体や、頭の上に落ちる吐息の温度で彼がご機嫌なのはわかった。


「これを、着けてくれているのですね」


しゃらりと耳元で揺れたのは、ヒルドがくれた耳飾りだ。

ネアにとっては戦闘靴と同じような区分のもので、大切に扱っている宝物の一つ。


「………はわ、耳飾りですね?今日は夏暮れの妖精さんにお会いするお仕事でしたので、つけていたのです。私を守ってくれるものとしていただいたので、お仕事で外に出る時は着けていますよ」

「ええ。あなたを守る為に。妖精の耳飾りは視覚的に目に留まり易いので、残念ながら身元を隠したい時や、その庇護を隠す時には向きませんがね」

「光竜さんの時は確かにそうでした……。それに、この前のラベンダー畑の事件の時には着けていたのですが、ノアからはもっと主張する為に髪を纏めていた方が更に良かったと指導を受けてしまいました」


あの日はノアが心配のあまりに珍しく過保護モードだったので、ネアはその機にノア的な危険回避策を幾つか教授されている。

ディノの擬態もそうだが、何かあってから回避するのではなく、予め回避するための方策も必要なのだそうだ。

人外者には意固地なところがあり、手を出してからでは諦めない者も多いのだという。


「私の耳飾りであれば、ある程度の妖精の介入は防げます。ただ、直接貴女を私自身に紐付けた訳ではないので、私と同位の妖精となると少し厄介ですからね」

「もしかして、タリィさんはそのくらいの妖精さんだったのですか?」

「彼女は下位のシーだった筈ですよ。オリーブのシーは、望まれる者として大きな力を振るう妖精の一つです。妖精のままであれば厄介な存在だったでしょうね」


(だから、ディノはあんなに警戒していたんだわ)


魔物達から何度も聞かされたのだが、高位の妖精に気に入られることほど厄介なことはないのだそうだ。

絡め手を好みじわりと浸食してくる妖精の気質は、高位の魔物にとっても警戒に値する脅威であるらしい。

ネアがヒルドにどれだけ懐いていても魔物達が荒ぶらないのは、ヒルドの一番がエーダリアだからということに加えて、彼がその最も懸念すべき妖精達を退ける階位の妖精だからなのだそうだ。


そういう意味でも守られているネアは、とても恵まれているのである。



「妖精さんは、認知度などでも力の在りようが変わるのですよね?」

「ええ。私が司るもののように、ある程度誰もが認識出来るものだと力を維持し易いですね。とは言え、森や湖の系譜ですとアルビクロムなどの空気ではいささか不利となります」

「まぁ、工業などもさかんですし、黒煙の街だからでしょうか」

「硝煙とも相性が悪いので、王都の主要な者達とはあまり宜しくない。そう言う意味では、彼等が同じ国の者で良かったと言わざるを得ません」


ヒルドが、アルテアの喫煙を嫌厭する一端はそこにある。

自身の力を削ぐ煙草の煙を嫌がっているのが表向きの理由なのだが、同時にアルテアの吸っている煙草はことさらに厄介なものであるらしい。

原材料がガレンの魔術師だったこともあるそうで、エーダリアが遠い目をしていた。

多くいる人間が注視するべき魔物の中でも、やはりより多く暇潰しで人間を損なってきた魔物の一柱なのだなと、ネアはその話を聞いた時に思ったものだ。


(最初に出会った時にも、人間の皮だけみたいなものを横に置いてたし、この前のチェスも……)


他にもそのような魔物はいるのだろうが、近隣を行動域にしている高位の厄介なものであった白夜は、ほこりが上手に下僕にしてくれている。

ネアが巻き込まれそうな危険を一つ回避したということで、ディノやノアはほこりの可能性にかなり期待しているようだ。

ダリルもそうだが、御し難い資質の力のある者を屈服させる知人は、たいそう心強い。


「ヴェンツェル様と、エーダリア様もいいご関係ですしね」


(そういう意味では、エーダリア様もその手の方々に好かれるような……)


ダリルを代理妖精にしただけでも、かなりの逸材と言えよう。

おまけにヒルドを庇護者に持ち、塩の魔物とだって契約してしまっているのだ。

ノアについては、いつの間にかネアよりも深い関係になっているので、さすがだなとあらためて上司を見直してしまったくらいだ。


「今の王と宰相とは現実的な方々ですから、ヴェンツェル様が表向きは発言権を得ているウィームには興味がないようです。彼等からすれば、第一王子は上手く第二王子の心を掴んで操作しているという認識ですからね」

「やはり、王都の意向としては、第一王子様が主軸なのですか?」

「ええ。望ましいことですよ。第五王子は成長すると発言力を増しそうな方ではありますが、あの方はヴェンツェル様を兄君として立てる意向にありますからね。そこは、ロクサーヌが上手く指導している。妖精の立場からすれば、婚姻の相手まで自由が利かなくなる王位継承者は好ましくないのでしょう」

「綺麗に均衡が取れているみたいでほっとしました!………あまりこの手の問題には向いていないのですが、バーレンさんの件で少し考えたりもしたのです………」

「ふむ。………そうなりますと、ネア様が気を付けられた方がいいのは、第四王子のジュリアン様。ただしこの方は前回関わられて、現在はディノ様やウィリアム様からの報復を負われていますので、少し安心でしょうかね。………そして第三王子の、オズヴァルト様ですね」


ネアは少し驚いた。

第三王子の名前を聞いたのが、初めてだったからだ。

アリステル派の存在を聞いたときに、その死に様々な政治的な思惑が絡んだことを聞き、前任者の話があまり入って来ないのは、ネアが弱小歌乞いとして運用されているからだけではないのかなと考えていたところだ。


聞かない方がいいのだろうかと思っていたその人の名前を、ネアはひっそりと心の中に書き留める。

先代の歌乞いが死んだその日に何があったものか、国内でもその話題はどこか禁秘に近しい部分が垣間見える。


「第三王子様のことは、あまり耳にしてきませんでした。現在は、公務から退かれているのですよね?」

「心の病を理由に表舞台からは退かれていますが、元はあの方も王位継承者の有力候補だった方ですからね。裏も表も穏やかで清廉潔白という王族は、やはり珍しい。王都の澱に辟易した者達からすれば、あの王子は希望のようなものだった時代もあったのです」

「過去形で語られたのは、…………心を壊してしまったからでしょうか?」

「難しいところですね。彼に期待していた人々が、アリステルの死によって彼に失望したのは事実です。善良さは常々指導者には不向きな要素とされますが、それでもその善良さで進むのであれば、彼等は己の理想を折らないだけの強さを持つべきであった。それが叶わず、御旗を折ったことで失望されたのです」


ヒルドの言葉は厳しいが、事実その通りなのである。

善良さに限らず、己の理想がその場の属性に合わないものであるのならば、周囲の者達以上の力を持つ必要があるのは確かだ。

そしてネアは、善良さだけで王族の役目を果たそうとしたその王子が、今のところはあまり好きではない。

エーダリアや、恐らくヴェンツェルがその最たる実践者だと思うが、守り導く者として就くのであれば、己の理想を時には自分の手で汚さなければいけないものだと、一般人でもわかるのに。


「いっそ狂気的な善良さくらいの方が、ご自身の心を損なうことはなかったかもしれないと思ってしまいます……」

「ええ。ネア様の仰る通り、他者を廃絶するくらいの信念であれば、善良さも武器となったでしょう。しかしあの方は、弱者に寄り添って胸を痛めるような方でしたし、迂闊なほどに公平過ぎました。ヴェンツェル様の言葉ですと、良き者であろうとすることで自分を愛している人間なのだそうです」

「お兄様からだと少し厳しめの判定ですが、その言葉を聞くと色々想像出来そうな気がします」


人間であるネアは、さらりとそう切り捨てられる。

しかしヒルド曰く、妖精達はやはり少しだけ彼を惜しんだのだそうだ。


「我々妖精の一部は、無垢さを好みます。私のような者は簡単に切り捨てられましたが、無垢なものが穢れた土地で息を細くしてゆくように見ていた妖精も多い。あの方とアリステルは、その資質に見合った者達からの支持も多く得ていました」

「でもそれは、お二人や、第三王子派の方々の力にならなかったのですね?」

「そういう資質の者ばかり集めてしまったんですよ。善良だからこそ脆い。そんな者ばかりを」


そう言い切ったヒルドは珍しく苦々しかった。

ネアはふと、そんなヒルドももしかしたら、長命な人外者としてその無謀な善良さを惜しんだのだろうかと考えたりもする。

或いは、同じように一人の王子を守ろうとした者として、第三王子の周囲の者達の迂闊さが悲しかったのだろうか。


それは滅ぼす側の目線であったとしても。

それでも、どうかこんなことをさせないでくれと願う気持ちが生まれることはある。

切り捨てられる者も哀れだが、切り捨てる者に心が残っている場合も苦しいだろう。


「そういうことを覚えておかれた方がいいでしょう。もしどこかで遭遇してしまった場合、あの方の善意は、その足元を危うくしかねないものであるということをどうかお忘れになりませんよう」


ヒルドの一言には万感の思いが込められていた。

善なるものを警戒せよと言うのは不本意なのだろう。

だが彼は、それを言わなければいけない立場であるし、その王子も他者の境遇を変えてしまえるだけの相手なのだ。


「安心して下さい、ヒルドさん。私は、自分の宝物を危うくするようであれば、正しさも善良さもぽいっと捨てられる邪悪な人間なのです」


ネアが微笑んでそう言えば、ふわりと笑う気配があった。


「あなたで良かった」


そう呟く妖精の声はひどく穏やかだ。


「エーダリア様が良き友人として心を添わせた方が、私が庇護するのが、ネア様で良かった。ただ幸福に生きてゆくにはやはり、不安要因の多い足場になりますからね。ネア様のその強さと、悪しきものを上手く取り込める強さがあってこそ、我々はあなたを安心して傍に置けるのでしょう」


ヒルドがそんなことを考えたのは、ここが特殊な空間だからなのだろう。

権力の暗部であったろう部屋の中で、彼は多分政治的なものの悪しき部分に思いを馳せたのだ。

出会ったばかりの頃、清濁併せ呑めるのだから遠ざけないで欲しいとネアが感じていたことがあった。

しかし最近は、そのような歪んで凝り落ちた部分もきちんと話してくれるのが嬉しい。



「………ヒルドさん、私は、エーダリア様がこの前のカスティリオのお仕事を、私に任せてくれたのが嬉しかったのです」


ネアはぽつりとそのことを告白した。


「ああ、あの事件も少し後味の悪い過去の因縁を含んでいましたからね………」

「町の魔術師さん達が魔物狩りをしていたことも、過去に歌乞いさんがあの町で亡くなったことも、皆さんはご存知でした。不確定なことや後味の悪さがある中で、そんな仕事を任せて貰えたのが誇らしかったのです」

「実はあの事件は、ネイは反対だったのですよ」


苦笑して教えて貰ったことに、ネアは目を瞠った。

平素であれば、ノアの方がそのようなところには寛容なのだ。


「まぁ。…………もしかして、ノアが嫌がったのは、タリィさんでしょうか?」

「私も仕事でなければ、あなたをそういう者に会わせるのは嫌でしたが」


声に微笑みを滲ませてそう言うと、ヒルドは体を捻って自分を見上げているネアの前髪におもむろに口付けを落した。

時折こうして見せてくれる愛情深い仕草に胸が温かくなるのは、ヒルドが普段はきっちりとしているからだろうか。

厳しい保護者に褒めて貰えたような、そんな特別感がある。


「しかし、ディノ様が大丈夫だろうと仰って」

「…………ディノが?」

「ええ。珍しいことですが、ディノ様の方から問題ないと言われたので私も驚きました。あの方は多分、ネア様がそのような仕事も受けたいと思われていることをご存知だったのでしょう。本来であれば、契約の魔物こそ、あのような不安要因は嫌がるものですからね」

「ふふ。そういう話を聞いてしまうと、ディノが頼もしく思えます。もしかしたら、あのお仕事の時にもあれこれと頼もしかったのは、そういう事情だったのかもしれませんね。それと、ディノだからこそ安心していた部分もあるのでしょう」

「と、申されますと?」

「タリィさんは、理不尽さも人外者らしい綺麗な人でしたし、私は何でも自分事化してしまうちっぽけな人間なので、家族という存在を失くしたタリィさんに親近感を覚えて同情をしましたが、……こうぐっとくると言いますか、同性の方でも何て素敵な方だろうという風に心が動く感じの妖精さんではなかったのです」

「おや、それは意外でしたね。ネア様はオリーブ料理が好きなので危ないだろうと、ネイだけではなく私も考えていたのですが……」

「お料理のオリーブはとても好きなのです。………ただ、そのオリーブが妖精さんとして具現化してしまうと、私の目には少し健全過ぎて嗜好が合わないというか、………因果の成就の精霊さんとそのお付きの方々を見た時のような、魅力的だけれど私はいいや感が出てしまうのです………」

「成程…………」


あまりにも我儘な人間の言い分に、ヒルドは少し驚いていたようだ。

しかし、弱小な人間という立場からも言わせて貰えば、やはり好みの系統というものがあるのである。

恐らくディノは常々ネアのそんな嗜好を見てきたので、オリーブの妖精は大丈夫だろうと考えていた節もあると思う。

ネアがお庭の毛皮館に夢中になっても荒ぶる魔物にとっての着眼点は、ご主人様が浮気をしそうかどうかという部分が大きいのだ。



「ですので、ヒルドさんが大好きな感じの妖精さんだったのは、とても幸運なことでした!今のところ、素敵な妖精さんは他にも見ましたが、ヒルドさん程に、ずっと見ていたいくらいに綺麗な妖精さんはいないのです。多分、私の嗜好的にものすごく大好きという雰囲気なのだと…………ほわ、ヒルドさん?」


突然ヒルドが片手で顔を覆ってしまったので、ネアは仰天した。

良く見れば羽が淡く光っており、ネアは再び手のひらアイロンしていた羽から、そうっと手を離す。

指先にきらきら光る妖精の粉がついていて、美味しい記憶が蘇って口がむずむずした。


(男性なのに、綺麗と言い過ぎてしまったのだろうか………)


慄いてもいるのだが、指先を舐めたいという相反する衝動に、ネアは胸が苦しくなる。

今ここでぱくりとやってしまえば、誰にも気付かれないような気がした。


「むぐぐ…………」

「おや、指先についてしまいましたね。私はあまり、妖精の粉を落す方ではないのですが……」

「た、食べません!」

「私は構いませんよ?幸いにも、こうして二人きりですし」


己の食い意地と戦うネアに、ヒルドは思わぬところで寛容さを見せた。

ストッパーがなくなってしまったネアは、とは言えヒルドの目の前で手のひらを舐めたりしないという、淑女的ハードルがあったことに心から感謝する。

それがなければ、一瞬で陥落していたことだろう。


ネアがその後挙動不審になったので、ヒルドは苦笑してネアの手のひらをハンカチで拭いてくれた。

食欲に打ち勝った筈なのに、史上最高に美味しい粉が回収されたネアはがっかりしたが、あまりにもしょんぼりしたので可哀想になったのか、おもむろにヒルドが自分の指先で羽をなぞり、その指先でネアの唇に触れた。


「ふぎゅ」

「これは、二人の秘密に。魔術干渉の気配を感じますので、どうやらそろそろ迎えが来そうですね」

「…………ごめんなさい、ヒルドさん。おいしいれふ」


お迎えに来る魔物に見付からない内にと、ネアはぱくりと唇を噛む。

はむはむしながら美味しさを噛み締め、素晴らしい妖精の羽を美味しいもの認識してしまったことをヒルドに詫びた。



「ネア、大丈夫だったかい?!」


頭上から心配そうなディノの声が聞こえる。

ぱっと顔を上げると、ちゃんと手順を踏めば上に扉が出現するらしく、こちらを覗き込んだ銀狐も尻尾を振っていた。

エーダリアの姿は見えないので、まだ魔術書に夢中なのだろう。



ネアとヒルドは顔を見合わせて安堵に微笑むと、小さな秘密を一つ胸の奥にしまい込んだ。



しかしネアは、その夜の夢で美味しい妖精の粉をお腹いっぱい食べる夢を見て魔物の腕を齧ってしまい、早々に秘密がばれてディノに叱られる羽目になってしまった。


最高の媚薬とされる妖精の粉を、最高甘味認識するネアはとても特殊なのだそうだ。

いつ媚薬としての効果が出るかわからないと怒られたのだが、ネアはそんなところでも、自分の側にいてくれる妖精がヒルドであることに密かに運命に感謝している。



世にも美味しい妖精の粉に出会える人生など、そうそうないと思う次第だ。







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