お誕生日合宿と灰色けもの
ネアはその日、無事にリーエンベルクを抜け出して安堵の息を吐いた。
泣き叫んではいないが、ムグリスになってポケットに忍び込もうとした毛布妖怪と、けばだって爪を立ててくる狐妖怪から逃げおおせ、連れ出してくれた魔物をちらりと見る。
「………お料理合宿なのに、まるで駆け落ちのようになりました」
「例えを変えろ」
ネアを叱りつけた使い魔は、抱き上げたネアを持ったままリーエンベルクの壁を飛び越える。
その状況を客観的に見れば、少々犯罪寄りと言えなくもない。
「では、誘拐犯の魔物さんと、誘拐される被害者でしょうか?」
「無理に例えるのをやめろ。それと、転移で舌を噛むなよ」
「アルテアさんの転移は滑らかなので安心なのです。ウィリアムさんの転移も最近ふわっとになりましたしね」
「お前は、まだウィリアムと出かけてるのか………」
「まだという言葉が付く意味がわかりません。毛皮の会の仲間なので、これからもお出かけしますし、またテントに泊めて貰うのです」
その言葉に、アルテアは眉を持ち上げて鮮やかな赤紫色の瞳を眇めた。
そうすると、見る者が見ればぞくりとするような凄艶な表情になる。
本日はこれから合宿なので、アルテアは、白いシャツに漆黒のジレ姿だ。
漆黒の艶のあるクラヴァットがこなれた感じで、キーチェーンのような装飾品は雪の結晶石に似ている。
「…………まさか二人きりじゃないだろうな?」
「あら、前回も二人でしたよ?」
「前のは謹慎の一環だろうが。まぁ、お前の危機感のなさは最初からだがな」
「そこまでの事ではないと思いますよ。ウィリアムさんは確かに少しだけ面倒………絡み難い時期がありましたが、今は前のように大好きなお兄さん感が戻ってきました!」
「親族枠だとしてもだ。それと、言い直しても大して変わってなかったぞ」
「むむぅ」
そんなやり取りをしながら転移の薄闇を踏み、ネアはアルテアの屋敷に迎え入れられた。
今回はいきなり玄関ホールに転移されてしまったのでがっかりしたが、どうやら屋敷の外観を見せたくない理由があるらしい。
「外観観察禁止なのはなぜでしょう?」
「本宅だからだ。お前に知られるとろくなことにならない」
「ほこりにお城を取られてしまったからですか?」
少し心配になってそう尋ねたが、元々お城は魔物としての嗜みでしかなく、アルテアはお城派でなく、この規模の屋敷を自分好みに整える方が好きなのだそうだ。
「と言うことは、ここは元々本宅なのですね」
床に下ろして貰えたので、ネアは、しゃっと玄関まで駆けてゆくふりをしてみた。
その途端がしりと腰を掴まれて捕獲される。
「おい、外に出ようとするな。見たら目を潰すぞ」
「むが!アルテアさんは、意外に大人の冗談の分からない頭の固い方です。ふざけただけではないですか!」
「やめろ………」
玄関ホールは素晴らしかった。
淡い淡い水色の石造りの空間に、わずかに青みのあるクリスタルめいた宝石で作られた見事なシャンデリアが下がっている。
二階に抜ける螺旋階段は二重螺旋になっており、白緑の翡翠で本物のような蔓草の装飾が息を飲む程だ。
玄関ホールの真ん中には小さな泉があり、風景を切り取って置いたみたいでネアは目を丸くする。
湖畔には水仙やヒヤシンスのような花が咲き乱れ、エメラルドグリーンの澄んだ水を湛えていた。
「………泉が」
「影絵を加工した花器だ」
「もはや、花器とは何なのか思考の迷路に入りました」
そこを抜けながらネアは二階を見上げた。
本宅と聞けば、かなりプライベートな空間なのだなと思うと、最近見た夢を思い出した。
「最近アルテアさんを見ると、素敵なパジャマ姿が浮かぶのです」
「…………夢だったんじゃないのか?」
「意外性と、お洒落なパジャマの着崩し具合にぐっときたので、憧れて自分でもやってみましたが、やはり体格が違うのでうまくいきません」
「お前、本当はかなり目が覚めてただろ?」
「む?」
ネアが最近お気に入りなのは、夢で見たアルテアのパジャマ姿だ。
ぱりっとしたシンプルな白地に、淡い灰色のストライプ柄のシャツタイプのパジャマを、パジャマ玄人らしく袖を何重かに折り上げて襟元を少し開けてある。
一瞬見ただけだが、中々に睡眠ライフをお洒落に過ごせそうなので憧れの装いなのだった。
「とても素敵だったので、今度やってみて下さい。お部屋で披露して欲しいのです!」
「なんでだよ」
そしてまず入ったのは、厨房の手前にある客用の応接室のようなところだ。
とは言え、書きかけのメモを挟んだ本のようなものもあるので、あまり他人を入れていないような部屋なのかもしれない。
ネアは、通された部屋をくるりと見回した。
(…………なんて素敵なのかしら)
青みがかった灰色の壁に、淡い青緑のモールドの効いた何とも上品で素敵な部屋だ。
男性的な色の中に繊細さがあり、掠れたような白灰色の家具が美しい。
家具に使われた木材は一部が乳白色に結晶化しており、そのバランスが何とも味わいがあるのだ。
「飾り棚の後ろ側だけ、白地に藍色の繊細な蔓草模様の壁紙が貼られているのですね。………ほわ!あのカーテンレールは、植物のような優美な形になっています!」
「家具は逃げないから落ち着け…………」
「り、理想のお家!!」
「そんなに気に入ったなら、ここに住むか?」
「むぐ………。むぅ、………か、通いで」
「……………まさか本気で乗る気か」
アルテアは若干引いていたが、床板も掠れた風合いの青灰色の木の床だが、見事な艶が出ていて裸足で歩きたくなる。
ヴェルリアにあった屋敷は高級リゾートホテルのような上品な絢爛さであったが、こちらの屋敷は何とも住み心地のよい空間だ。
天井は高く、窓から差し込む日差しは薄曇りの柔らかな光だ。
木漏れ日がレースのように床に落ち、アルテア好みらしく丁寧に設計された庭の美しさを際立たせている。
「ざ、財産目当てですが、……そして、才能が目当てでもありますが、ずっと使い魔さんでいて下さいね」
「…………お前なぁ」
完全にアルテアが呆れてしまったので、ネアは大人しく隣の部屋についてゆき、やっと本題に取り掛かることにした。
その部屋を抜ければ、そこはもう厨房だ。
冬の湖の青さを水彩で表現したような、不思議な青い石で作られた部屋で、相変わらず調味料棚やお鍋の揃えなど、玄人仕様の厨房である。
ネアがアルテアの厨房で好きなのは、使用感のないぴかぴかのキッチンではなく、丁寧に使い込んだ感じがあるところだ。
そしてアルテアはなぜか前髪を搔き上げると、眼鏡をかけた。
「む。変身しました」
「刺激のある素材を扱うからな」
「やはり、アルテアさんは眼鏡が似合いますねぇ。何と言うか、見慣れた方の寛いだ姿のようで艶っぽくなります」
「…………花は持ってきたのか?」
「はい!こちらの薔薇ですよね」
「いい状態だな。……にしても、よくこの状態のものを売ってたもんだ」
本日ネアがアルテアの屋敷に来たのは、サムフェルで購入したいい夢を見られる薔薇を一つ使い、お祝い用のシュプリを作る為だった。
そのシュプリはなんと、飲めば贈り主との共通の思い出の中から、とびきりに幸福なものを夢で再現してくれるのだ。
ただの夢ではなく、共通の思い出なのが素敵で、ネアは是非にとお願いした次第である。
その花を購入したことを何かの折で話したところ、そういうものを作れることを教えて貰ったのだが、まさか作るのに協力してくれるとは思ってもいなかった。
ただし、それには合宿が必要な理由があった。
「夢見の薔薇と、幸福の結晶、……それと、これは扱いが厄介ではあるが、欲望を司る雫を結晶化したものだ」
「ほわ…………。これが、危ないので持ち出せないと言われたものですね?こやつが危なくなければ、私の厨房で作れたのに、ぐぬぬ………」
「ほお、ここじゃ不満か?」
「…………大好きだと言ったら、このお家を譲ってくれるのですか?!」
目をきらきらさせて見上げると、ぞんざいに頭をはたかれてネアは唸り声を上げた。
「何という乱暴者でしょう!ご主人様の頭頂部を大事にして下さい!」
「お前な、主人を名乗るなら、それなりに対価を取るぞ」
「その対価として、素敵なケーキやゼリーを要求して差し上げているのでは?」
「…………さっさと作業をするぞ。定着の時間がかかるからな」
「むぅ、話を逸らされました…………」
ネアは、素敵な白い陶器の保管瓶のようなものに入れられたメレダイヤのような欲望の雫の結晶とやらを覗き込んだ。
アルテアから、事故るので決して触るなと言われているものだ。
「これを触るとどうなるのでしょう?」
「やるなよ。絶対にだ」
「どうなるのだ」
しかし、余程に扱いが難しいものなのか、アルテアですら白い手袋をしてからピンセットのようなもので結晶を取り出していた。
ここまでとなると、今度は逆に飲料に入れても大丈夫なのだろうかと不安になる。
アルテアはその小さな結晶を用意した瓶に入れ、ネアが持ち込んだ夢見の薔薇も瓶の中に入れる。
そこに冷たく澄んだ水を入れ、この二つのものが混ざり合ってからシュプリに入れ直し、後追いで幸福の結晶を入れて仕上げにするらしい。
(…………異世界版のサングリアのようなものかしら)
今のところは美味しい飲み物というよりも実験のようだが、美しい薔薇と煌めく結晶なので見た目としてはとても素晴らしい。
作業はアルテアがしているので、ネアは、厨房の作業台に頬杖を突いてその様子を観戦していた。
魔術でこの仕込みシュプリとネアを紐付けるので、ネアが側にいる必要もあるのである。
「わ!結晶がしゅわしゅわしてますよ!」
「この配分が難しい。結晶が薔薇に浸透したところで、薔薇を取り出してシュプリに漬けるからな」
「ほほう。………アルテアさんは、どこでこんなことを調べてくるのですか?」
頬杖を突いたままアルテアを見上げると、作業用にかけていた眼鏡を外し、手袋を外しながら首を傾げていた。
「………幾つかのレシピと一緒に、聞き出したものの一つだった筈だ」
「その聞かれた方は、ご無事ですか?」
「さあな」
「………合意の上の提供ではなかった気がしてきました」
その言葉に唇の端で少しだけ笑って、アルテアは薔薇と欲望の雫の結晶が入った瓶はひとまずそのままにし、厨房の奥に歩いてゆく。
「さて、………浸透を待つ間夕食だな。何が食いたいんだ?」
「美味しいやつです!そして鴨を!」
「どれだけ好きなんだよ」
そう言いながらも、アルテアが状態保持の保管庫から鴨肉を出したので、ネアは容易く弾まされてしまう。
「鴨肉様!」
「これを使うなら、前菜は滑りのいいものだな。ガンガリスを開けるなら、……サラダにリエットとチーズ、………クリームソースのパイも食べられるか?」
「勿論です。でも、ガンガリスという名前の食料は初めて聞きました」
「秋を司る祝福の、紅葉と豊穣の酒だ。麦と一緒に寝かせた葡萄を使う、甘い葡萄酒の一種だな」
「私は大好きですが、アルテアさんが甘めのお酒をご自宅に持ってるのは意外ですね。でも、凄く美味しそうなので嬉しいです」
「………まぁ、持つだけなら幾つか揃えてるからな」
本宅を荒らされないように鎮めの儀式を行うつもりなのか、晩餐はネアの好きなものばかりだった。
喜ばしく奉納をいただくことにして、ネアはコンソメのジュレと生海老の素敵な前菜をいただく。
添えられたのはしゃきしゃきに千切りにされたコリンキーで、軽く炙られた食感がしゃきしゃきにほくりといった感じで堪らない。
開封されたガンガリスは、じゅわっと染みるような甘酸っぱさが堪らない、甘みも強いが後味がさっぱりという不思議な葡萄酒だった。
「素敵な麦穂色の葡萄酒ですね。微かに口の中に香ばしさが残るのは、麦の香りでしょうか。少しだけ、氷河のお酒の味に似ていますね」
「だから、お前は好きだろうと思った」
「これは何でしょう?ぷちぷちしてます」
「夏の終わりに出る、夏酔いの実だ。味は魚卵に似ているが、香草の一種だな」
「………確かに、柑橘系の香りがしますね」
夏酔いの実は、後味がライムの香りになるキャビアのような不思議な食材だった。
たくさんの葉物を彩りよく入れたサラダに、淡白なフレッシュチーズと半熟卵をとろりとかけ、この夏酔いの実が散らしてあるのだ。
綺麗な赤色なので彩りも良い。
ほろりとお肉が柔らかくなった鴨コンフィはもはや定番だし、小ぶりなパイの中にお野菜のクリーム煮が入ったさくさくとろりの食感に、ネアははふはふと舌鼓を打つ。
「通いなら、来週はいつ来ればいいですか?」
「お前、いくらなんでも安すぎるぞ………」
「よく懐いた使い魔さんの為に、一緒にご飯を食べて差し上げようという優しい気持ち故です。因みに、このクリームパイはまたあっても良いと言い残しておきますね」
「そうそう何度もこの屋敷には上げないからな。お前は少し考えろ」
「…………む。確かに、本宅に私が徘徊したら、お付き合いされている方に誤解されてしまいますものね。危うく破綻の原因になってしまうところでした……」
ネアがそのことに気付いてしょんぼりすれば、アルテアはなぜか嫌そうに目を細めた。
「つまらない勘繰りをするなよ?」
「そういう話題は何だか気恥ずかしいですよね。私は空気を読める大人なので、もう言いませんから」
そう優しく微笑みかけたのだが、なぜかお皿に切り分けたリエットを強奪されてしまった。
怒ったネアは、アルテアのお皿から残っていた鴨を強奪する。
むしゃむしゃとそれを食べながら睨みつけると、アルテアは飄々とした眼差しでそれを黙殺した。
「アルテアさんに虐められたので、白もふさんを撫で回しの刑にします」
「……………おい、あの獣は……関係ないだろ」
「しかし、アルテアさんの管轄なのですよね?撫で回して、抱っこして寝ます」
「最後のは何なんだ………」
「素晴らしい毛皮感を楽しむには、いかに肌に触れさせるかではないでしょうか。そうなると手で撫で回すことは勿論、頬ずりをしたり、襟元に押し込んだり…」
「シルハーン用だろうが、襟元には押し込むな」
「む?しかし、あのむくむく毛皮を襟元に押し込むと、肌にむくむく毛皮が当たって素敵な気持ちになるのです。ポケットのように服の上から触れ合うなど勿体無いの極み。素肌で直接に触れてこその素敵毛皮ではないでしょうか?」
アルテアは一瞬黙ってから、酷く嫌そうな顔をした。
「…………まさか、あの……獣でもやるつもりか?」
「あの獣というのが白もふさんであれば、本当は布面積の小さな装いで抱っこして寝たいのです。こう、ぎゅっと…」
「やめろ」
「大丈夫ですよ。白もふさんはとても懐いていて、尻尾の付け根をこしこしするとふにゃんとなります」
「やめろ、嫌がってただろうが」
「そんなことはありません。あまりの気持ち良さに最後は頭をぐりぐりしてくるではないですか。私の撫で回しは神の手なので、ムグリスディノもよく倒れるくらいなのです」
「…………何の拷問だよ」
「疑い深い使い魔さんですね!わしっと押さえ込んでお腹撫で回しの刑にすると、うっとりしてふきゅんふきゅん鳴くようになり、そこでも逃さずに撫で続けると、最後は丸まってしまってぴくぴくします。その、団子状で震えるのがとても愛くるしいので…。…………なぜに叩かれたのだ」
「二度とやるな」
「あらあら、信じないのであれば今度白もふにも施して差し上げましょう!」
そこでなぜか唐突に薔薇を引き上げる時間になったので、ネアは食事を途中にしてついて行った。
アルテアはまた眼鏡と手袋を装着し、調理用の特殊ピンセットのようなもので薔薇を瓶から取り出すと、結晶の効果が浸透した薔薇は塩の結晶のような感じに変化していた。
「…………綺麗ですね」
「見た目もいいから、祝い事には映えるだろう?」
「はい!」
そしてそこからが更に不思議な行程だった。
アルテアが出してきたのは、ネアが持ち込んだシュプリだ。
ラベルが控えめでシュプリ自体も淡いシャンパン色なのでこの効果がとても合うのだが、アルテアが片手でその栓に触れるとコルクはまるで見えない手にぐっと押されているように綺麗に抜けた。
すると、薔薇もまるで自分から瓶の中に入り込むように狭い間口からするするとシュプリの中に落ち込んでゆく。
そこにすかさず幸福の結晶を二粒ほど落とせば、薔薇が収まったシュプリはぼうっと淡く輝き、逆再生を見ているかの如くコルク栓も元通りになってシュプリを綺麗に封印した。
「か、完成ですか……?」
「本来なら、祝福の効果が定着するまでは、このシュプリの瓶をお前が一晩抱いている必要がある。だが、屋敷そのものに同一空間の魔術を敷いているからな。この屋敷の中にいるだけで仕上げになるんだ」
「まぁ、アルテアさんだからそんな風に楽が出来るのですね!」
「ま、後は待つだけだ。明日の朝には出来るだろ」
「はい。有難うございます」
「さて、対価に何を得るか考えておかないとだな」
アルテアにそう意味深な眼差しを向けられて、ネアはおやっと首を傾げた。
「この美味しい晩餐で充分ですよ?」
「何でお前が受け取る側なんだよ」
「あら、アルテアさんはとてもよく懐いており、私を餌付けするのが使い魔さんの対価だった筈です。それとも、白もふさんを一日お預かりして、可愛がって差し上げましょうか?」
「いや、俺の報酬の話をしていたんだからな?」
許されないことに、ネアは使い魔から頬っぺたをぐいっと摘まれた。
アルテアの頬っぺたを背伸びして摘むには、手を伸ばす前に邪魔されそうなので、腰肉を掴む。
「むぐ!掴む余裕があまりありません!」
「ほお?随分と俺と遊びたいようだな?」
「おのれ、負けるものか!」
ここで嫌がらせに腰を摘まれたネアは、狡猾な人間の策略を如何なく披露した。
取り扱い注意を厳命された欲望の雫の結晶が入った容れ物に駆け寄ってアルテアをぎょっとさせ、にやりと笑う。
「やめろ、洒落にならなくなるぞ?!」
「では頬っぺた摘みの罰として、もふもふになって下さい」
「あのなぁ………」
「でなければ、今度白もふさんをお腹撫で回しの刑にします。うちの魔物は最近とても良い子なので、お願いすれば白もふさんを連れて来てくれる筈なのです!」
「…………くそ、…………五分だけだぞ?あいつと連携されると最悪だからな」
(…………あら?)
突然のことに、ネアは驚いてしまった。
ここでは、淑女の顔を不細工にする攻撃をしかけたアルテアを反省させるだけのつもりだったのだが、思いがけず落ちてしまった。
これはもう、ディノに捕まる云々以前として、案外もふられたいという欲求が強くなってきた可能性もある。
「白もふ!白もふ!」
「…………その掛け声をやめろ。何でその指定なんだよ」
「あら、アルテアさんと言えば白もふでは?」
まだバレていないと思っている残念な選択の魔物は、ここで一つだけささやかな抵抗を示した。
ふわりと姿を変えて見せてくれた獣姿は、ふわふわ艶々の見事な灰白の狼だったのだ。
あくまでも、自分と白けものの関連付けを避けるいじましさに、ネアはほろりとなったくらいだ。
「灰色けもの!」
そしてその灰白の狼は、欲望にぎらついた目をした容赦というものを知らない人間に襲いかかられた。
「…………お前、本体が俺なのを忘れてただろう?」
五分後、すっかり息を切らして喘鳴の息となったアルテアの手で、ネアはべりっと引き剥がされた。
不満の声を上げてじたばたするネアを、アルテアは荷物のように小脇に抱え上げたまま、食事の続きに戻る。
微かに目元を染めているし、少し足が縺れているが、撫で回しの後遺症だろうか。
「擬態した段階で元はなんであれ、それはもう、もふもふけものなのです!皆さんそうなりますからね」
ネアの知見は、銀狐とムグリスディノだ。
ああなってしまった魔物を、元の艶麗な人形の魔物と一緒にするのは無理があるのだと達観させてくれたのは銀狐との生活のお陰だ。
やはり、擬態してしまった獣の要素が強くなるのだろう。
「…………成る程な。そういう認識なのか」
いささかげっそりしてしまった選択の魔物は、いつもの艶かしい色香や悪どい眼差しを欠いてしまい、どこか不憫な感じになっている。
一服してくると五分程姿を消したりもしたので、お腹撫でではしゃぎ過ぎたことを恥じているらしい魔物に暖かい気持ちになったネアは、その後は穏やかな晩餐の時間を過ごすことに尽力した。
あれこれお喋りしながら飲んでいると、途中ではっとしたようにチェス盤めいたものを動かしに行ったので、ネアは追いかけていって覗き込んでみた。
「…………これは何でしょう?」
「国を動かす魔術盤だ。生まれた時にこの駒に紐付けた魂は、ここからでも動かせるようになる。今はこれで、アイザックと賭けをしていてな」
「………と言うことは、今倒された駒には誰かの魂が?」
「もう少し早く落とすつもりだったが、アイザックの奴、辺境の田舎騎士を上手く育てたもんだ。とは言えこの騎士も、腕は良かったが身内に甘いのが災いしたな」
ネアは、その裏側に透けて見えた誰かの非業の顛末に少しだけひやりとしたが、やはり魔物とはそういうものなのだろう。
ウィリアムが言うように、それぞれに司るものの資質があるのだ。
「………駒に愛着が湧いてしまったりはしないのでしょうか?」
「手入れの為に会いもするがな。駒は駒だろう」
「アルテアさんの側は、女騎士団長さんなのですね」
「こいつは手はかけたが捨て駒だ。進める駒は、こちらの下位の騎士と聖職者になる。……アイザックの奴は、まず間違いなくこの暗殺者の駒と、羊飼いか、豪族を使うだろうな」
「お互いに、好みの駒があるのですね?王女様と王子様の駒は綺麗な装飾です」
「辺境の島国だが、この国はもう王制に限界を迎えつつある。来年には、この駒も落とすだろう」
その島国の人々は、自分達の人生や生死が、遠くから盤上を眺めている魔物達の手のひらのものだと知ったら、一体どう思うのだろう。
「不愉快そうだな。気に食わないか?俺はウィリアムとは違うからな」
ふいにそんなことを言われ、ネアは目を瞬いた。
「…………ウィリアムさん?人間が大好きだからですか?」
「あいつはかつて、自死しかけたことがある。本来は俺より先に派生していた魔物だ」
「………そうなのですか?」
「派生したその夜に自ら命を絶ったが、終焉だからこそ死にきれずに再生した。その選択で、結果先に派生したのが俺だ」
それはとんでもない告白だったが、ネアは首を傾げた。
どうしてアルテアは、唐突にそんなことを教えてくれたのだろう。
「………なにゆえそのお話になったのでしょう?」
「ウィリアムは、先代達の破滅を自分事にして絶望したが、俺にはその手の感傷はない。つまりのところ、これは所詮駒で、ただの暇潰しだな」
(…………だからなんだ)
だからウィリアムは最初の日のことを感慨深げに語り、自分より前に派生したというディノの側に何かと寄り添ってくれる。
そして、アルテアがそのことを語ったのは、感傷的になりがちな人間のネアに、自分との違いを理解させる為だろう。
最近のネアに対して、少し釘を刺したくなったに違いない。
とは言え、そんなアルテアがウィリアムを年長者として連れ回したと聞いている。
(あらあら………)
「ノアは、まだ生まれてなかったのですか?」
「あいつは派生は早かったが、目を覚ましたのはかなり後だ。何年かはずっと寝てたぞ。………おい、その妙な笑顔はなんだ」
ネアは微笑んで首を振った。
結果年下になってしまったウィリアムの面倒を見て偉かったねとは言わないのが、賢い大人なのである。
そして、話題を少し戻す。
「人外者の方はそのようなものです。高慢で残酷ですが、それが私の害にならない限りは野生の獣さんと同じことなので、私が自分用の感想以外に答えを用意する必要のないことなのです。それに、人間もしたたかで強欲ですからね」
高位の人外者達は人間を容易く玩具にするが、人間とて彼らを利用し、上手く力を借りて生きているものだ。
強い者には強い者の理があり、弱い者には弱い者の知恵がある。
なのでネアがそう言えば、アルテアは少しだけ瞳を揺らしてから黙り込んだ。
「………喋り過ぎたな。アイザックには言うなよ?」
「そんな風に見なくても、邪魔をしたりもしませんよ?この駒は、現状私にとってもただの駒ですし、人間として認識してしまっても、私は取捨選択が出来る冷酷な人間なのです」
「それで、俺達の暇潰しを取るのか?弄ばれる同族よりも?」
「むぅ。そこは残酷なようですが、知り合った順番もありますからね」
「………お前は相変わらずだな」
「知らない方々の人生よりも、近しい方々の方が大事なもの。人間とはそういう生き物なのです。でも、どうか私の大切な方々をこのような盤上には上げないで下さいね」
馬鹿なことをと突き放すようにひたりとこちらを見下ろしたのは、吸い込まれそうに暗く鮮やかな魔物の瞳だ。
「私など、アルテアさんの感覚からすれば、あっという間にいなくなってしまうのですから、せめてその間くらいは我慢して下さい」
「…………それは困るな」
「…………む?」
微かに苦笑する気配があった。
直後、頭をくしゃくしゃにされ憮然としたネアは少し暴れ、片付けを始めたアルテアに邪魔だからあっちに行けと浴室を案内される。
片付けを手伝おうとしたが、お皿を割られたくないとすげなく断られてしまった。
お風呂から出てくると、アルテアは不思議な研究室のような部屋に入っていた。
沢山の瓶が並び、画家のアトリエのようにも見える部屋だ。
「おやすみなさい。それと、今日はディノのお誕生日祝いを作るのを手伝ってくれて、有難うございました」
「ああ。俺は明日の準備がある。一人で寝られるのか?」
「むぐ!子供ではありませんよ!」
試すような微笑みで艶めかしくそう問いかけられ、ネアはぷんすかしながら用意された部屋に向かった。
魔術可動域で子供だと馬鹿にし過ぎだが、ネアとて良い大人なのだ。
「ほわ、…………夢で見たパジャマが」
入浴してちょっと酔い回りがきたのか、ふらふらとしながら部屋に入ったネアは驚いた。
大きな寝台の横にある椅子には、ネアが夢で見た憧れのパジャマが置いてあったのだ。
ぱっと駆け寄って大喜びで取り上げたネアは、いそいそと持ってきた寝間着を脱いで用意されたパジャマに着替える。
ぱりっとした肌触りが清廉で、何とも素敵な気持ちだ。
男物なのか裾と袖が余るのを何度も折り返し、何と粋な気遣いだろうと幸せな気持ちで寝台に入る。
(さっき案内された時に見た感じたより、実際に寝てみると寝台が大きいな……)
枕カバーからはいい匂いがして、窓の向こうからは風の音や梟の鳴き声など、優しい夜の音が聞こえる。
「………美味しいご飯に素敵な知識、この理想のお家。………むぐふ。良い使い魔を得ました。これも日々の行いの賜物ですね」
自画自賛の言葉を呟き、ネアはぱたりと眠りに落ちた。
ガンガリスが意外に強かったらしく、少しほろ酔いだったのかすやすやと寝てしまう。
眠りの淵で、なぜか一度、誰かに頭をはたかれたような気がした。
朝起きると、なぜか隣にアルテアが寝ていて個別包装信仰者はむっとした。
最近はたくさん撫でられて寂しがり屋になったのかもしれないが、ご主人様の領域は侵さないで欲しいものだ。
文句を言ってやろうともそりと起き上がったところ、目が覚めたアルテアから、ここはアルテアの寝室で、ネアはアルテアの寝間着を着て寝てしまったのだと、ネアの方が不法侵入者として叱られる羽目になる。
お気に入りのパジャマを奪われたからか、寝台に正座させられて朝からお説教されたネアは、寝台からの起き上がりに仕損じたフリをしてアルテアを一回踏み潰しておいた。
早朝から本気で叱られたので、心の狭い人間はむしゃくしゃしていたのだ。
「むぎゃ?!何をする!」
しかし、跨いだついでにぎゅっとお腹を踏んだ足を掴まれて引き倒されたネアは、アルテアの上に勢いよく尻餅をついてしまった。
自損事故でアルテアもぐはっとなっていたが、ネアは心臓が止まりそうになったのだ。
「おのれ、悪い奴め、弾んで圧死させてくれる!」
「上で弾むならもう少し下がれ」
「あら、ディノやウィリアムさんから、魔物さんを上から押し潰す際には、お腹の上がいいのだと推奨されましたよ?」
「悪いが、俺は内臓を潰される趣味はないからな。ほら、もっと下だ」
「腰骨の上は座るにはいいのですが、弾むと私のお尻が痣だらけになるので却下です」
「やり方を教えてやろうか?」
「…………ほわ、上から圧迫されるのは嫌いではないのですね」
「…………おい、何でその解釈にした」
仏頂面になったアルテアはそそくさと逃げてゆき、その後もあれこれネアを虐めつつも朝食を作ってくれた。
お祝いのシュプリも無事に完成し、ネアはこれからは隣国で一仕事と邪悪に微笑んだアルテアにリーエンベルクまで送って貰った。
艶やかな漆黒のスリーピース姿は不穏さが際立ち、いかにもよからぬことをする気配なのだが、まあ仕方ないと諦めよう。
「暫くは国外だ。舞踏会までは騒ぎを起こすなよ」
「まぁ、騒ぎを起こす側の方に言われたくはありません。アルテアさんも、また捕まったりしないで下さいね」
「お前に案じられたくはないな」
「おのれ」
帰ってきたご主人様をぎゅうぎゅう抱き締める魔物に抱えられたまま、ネアは使い魔を見送った。
ネアはとても寛大な人間なので、アルテアが積極的に灰色けものになったことと、あの夢は予知夢だったのかアルテアが本当にパジャマを着て寝ていたことは、みんなに黙っていてあげようと思う。