三人の魔術師 2
「ネア、帰り道はしっかり掴まっておいで」
「…………はい」
花の魔術師であるリシィに、自分には籠絡出来ない男はいないと言われた万象の魔物は、思ってもいないような反応をした。
不愉快な奴めと腹を立てるのではなく、いきなり荒ぶるのでもなく、お相手の決め台詞をさも聞こえなかった風に聞き流してしまったのである。
その言葉を言われたのはネアの方なのだが、魔物がそんな反応を示してしまえば、こちらも困惑するしかないのが悲しいところだ。
そのままの言葉を返すなら、残念ながらうちの魔物は色々と特殊なので無理だと思いますと返事をするしかないが、それだとまるで喧嘩を売っているようで上品ではない。
「ディノは私の魔物ですので、お渡しする訳にはいかないのです」
なのでネアはこう返事をしてみたのだが、こちらもこちらで宣戦布告にしか聞こえない。
自分で言ったものの辛くなってしまったネアは、現在、弁の立つ味方を切実に求むという気分であった。
しかしここで使い魔を召喚してしまうと、更なるカオスになりそうなので諦めるしかない。
頭を抱えそうになったネアに、魔物はご主人様専用の微笑みを浮かべた。
「帰ろうか」
「………そうするのが良さそうです」
「それと、転移防止の魔術を敷いてあるようだ。強引に通るよ」
「む。………それはまさか、強引にばりんとやると、その魔術を敷いた方はお亡くなりになってしまうというものでは」
「仕方のないことだからね」
「もっと穏便にここから退出する方法はないのでしょうか?」
「では、禁止魔術を解くように、意志を剥いでしまおうか?」
「それはそれで、人格が崩壊するやつですね!」
海からの風がさあっと吹いた。
遠くに見えるオリーブの森がしゃわりと葉を鳴らし、銀色に波打つ葉裏を光らせる。
「リシィ、もうやめな。その魔物はまずい」
不意に、そう言った者がいた。
視線をそちらに向けたネアは、タリィが困ったような目をして、自分を視界に入れようともしなくなってしまった魔物に手を伸ばそうとしてた同僚を叱りつけるのを見た。
怪訝そうに振り返ったリシィは、どこか苛立ったように片手でばさりとスカートを押さえてから、タリィを睨む。
「タリィ、あなただって伴侶が欲しいのでしょう?」
「その魔物は君の伴侶にはならないよ。………それは薬の魔物なんかじゃない。もっと、…………よくないものだ」
「そのくらい、造作を見れば私にもわかるわ。その上でこの魔物に決めたのよ。ハリィ、雨の檻を解いては駄目よ」
「うん。だから、ちゃんと交代でね」
「ハリィ…………」
タリィの声はどこか悲し気だった。
深々と溜息を吐いてから小さく項垂れると、澄んだ緑色の瞳で悲しげに遠くを見渡す。
どこか遠い時間を感じさせる眼差しにふと、ネアはこの女性が人間ではないような気がした。
(こういう表情をする人はみんな、人外者だった)
そして、思えばリシィもハリィも美しい女性であるのに、どこか中性的な容姿のタリィと並ぶと、その印象が霞んでしまっていたことを思い出した。
そちらを見て困惑していたネアを抱えたまま、ディノが微かに体の位置をずらしたのがわかった。
「もうこれ以上は繋がない方がいい。歪んでゆくばかりで、土地を悪くするだろう」
そう呟いたのはディノだ。
その言葉にはっとしたタリィは、自分の方を見た魔物をなんと思ったのだろう。
ネアは、ディノがタリィにはそんな風に声をかけてあげたことに驚くのと同時に、この魔物が露骨に倦厭しているのは、寧ろこのタリィであることにも驚く。
(今、あえて体の位置をずらして、あまりそちらを見ないようにして話したような……)
そのせいでネアからはタリィが半分しか見えなくなってしまったので、違和感に気付いたのだ。
心配になって少し見上げれば、魔物は何を勘違いしたのか三つ編みを持たせてくれた。
持ち上げられて三つ編みを持たせられると、いかにも専門的な変態に寄る気がするので、ネアは持たされた三つ編みを持ち上げの際に邪魔にならないように持っています風で手にする。
その隙に、何を決めたのだろう。
きゅっと唇を噛み締めてから、オリーブの魔術師は小さく頷いた。
また風が吹き抜け、今度はその風がスカートの裾を揺らさないことで、ネアはこの風が自然の風ではなく魔術の風なのだと理解する。
事情がわからなくてすっかり傍観者だが、このタリィには何か秘密があるようだ。
(そしてそれを、ディノは知っているみたいだわ)
「タリィ、…………何の話をしているの?」
そう思ったのはネアだけではないようで、ハリィが可憐な唇をすぼませて、怒ったようにタリィの腕を引っ張る。
そんな同僚に悲しげに微笑んだタリィを見た途端、ネアは最も大事なことに気付いた。
そのことに、すっと血の気が引いた。
(…………そう言えば、この雨の魔術師さんの髪の色は何色なのだろう?)
瞳の色や、肌の色は。
そしてそれは、たおやかな美女だという印象はしっかりと受ける、リシィに関しても同じように。
ぎくりとして、またディノを見上げると、大丈夫だよというように微笑んで頷いてくれた。
であれば、それを認識出来ないことはおかしなことではないのだろうか。
「これからの話だよ、ハリィ。………大事な妹達。ごめんね、私は君達を守ってやれなかった。もっと早くに、君達の行いを諌められたら、君達を失ってしまった時にもっと早くその現実と直面出来たら、………こんな風に唐突に突き放すこともなかっただろうに」
「…………タリィ?」
不安を覚えたように、リシィが声を上げる。
一度ハリィと顔を見合わせてから、二人でタリィに駆け寄ると、その腕を掴むようにしてその瞳を覗き込んだ。
ぱたりと落ちたのは、澄んだ涙だった。
その一滴の涙はあっという間に魔術の風に攫われてゆき、タリィは鮮やかな緑色の瞳を凛と妹達に向ける。
理由はわからずとも、予感はあるのだろう。
こちらから見えるリシィの瞳には、微かな恐怖にも似た色があった。
タリィの名前を呼んで腕をぐいぐい引っ張っているハリィが、途方に暮れた小さな子供のようだ。
(…………妹達と呼ぶということは、姉妹だったんだ)
初めてそのことを知ったネアの視線の先で、タリィは苦しげに息を吐く。
「ごめん。………叱ってやれなくて。そして、守ってやれなくて。……ごめん。もうここから離れて、自由になっていいよ。…………行くべきところへ行って、その先に長い時間が横たわるのだとしても、どうか安らかになっておくれ」
「タリィ?」
「お姉さま?」
不安そうな細い声が、途中で不自然に途切れた。
声の余韻が、ざあっと風に流れて掻き消されてゆく。
自分達に起きていることを理解した様子もない内に一瞬で体が崩れて灰になり、鮮やかな深緑色のドレスが、淡いラベンダー色のエプロンが、同じように塵になって風にほどけて消えていった。
ざあっと、風が鳴る。
残っているのはもう、タリィ一人だけだ。
「………き、消えてしまいました」
思わず三つ編みを引っ張ってそう訴えれば、魔物はさらりと頷いた。
「彼女達は死者だよ。正確に言えば、死者を魔術でこの土地に繋いでいたので、そこにいる魔術師の使い魔のようなものだった」
「……………亡くなっていた方だったので、ディノは話そうとしなかったのですか?」
「それだけではないが、魔物を喰らう亡者だからあまり好ましくはないね」
「ほわ…………」
タリィは項垂れていた。
一人で、綺麗に元通りになったラベンダー畑の前で俯いて涙を落してから、その涙を振り払うように顔を上げて空を仰いだ。
その畑の一画にだけ、ラベンダーの埋まっていない剥き出しの土の場所が広がっている。
たった今まで、リシィが手で触れて土を確かめていた場所だ。
(………綺麗な青空の日で良かった)
ネアがそう思うのは、多分この日のことが、タリィの心にはずっと心に残るからだ。
ネアが雨音を恐れたのとは違って、タリィはそこに紐付く光景を厭うことはないような気がした。
この女性は多分、そういうものを逆に抱き締めてゆく人のような気がする。
「………………タリィさん」
ややあって、そろりと声をかけたネアに、タリィは少しだけ顔をこちらに向けて苦笑してみせた。
その途端になぜか、ディノがきつくネアを抱き締める。
「……………ごめんね、君には何がなんだか分らないだろう。町の住人達も、私がこのことを禁秘としてしまったから、妹達が亡くなっていることまでは誰も言えなかった筈だ」
「ええ。………お二人が亡くなっていたことは存じ上げておりませんでした」
もういなくなってしまった妹達が立っていた場所を眺め、タリィは深く息を吸ってから目元を指で拭う。
そして、その日のことを教えてくれた。
「…………二十年前のことだよ。…………あの子達はね、美しい魔物を伴侶とすることに執着していてね。それはなぜかと言えば、あの子達の幼馴染の女の子が、美しい魔物の伴侶を得たからなんだ」
「それで、そのような関係をいいなと思ってしまったのですね?」
「そんな生易しい執着ではなく、もうどこか妄執のようなものだったのだろうね。こういう小さな町で、魔術師として美貌と才能で名を馳せた自分達よりも、取るに足りない農家の娘だと思っていた女の子が、それはそれは美しい魔物の夫を得て、ザルツの大通り沿いに立派な屋敷を構えたのだから」
「同じ女性の目線で見れば、確かにそれは、羨ましくなってしまうかもしれません。持っているものというよりも、幸福であるということが」
「………ネアみたいに、その幸福そのものを望んでくれればどれだけ良かったか。それならせめて、自ら破滅の道を歩みはしなかったろうに」
あえて呆れたように言いながらも、タリィの声には深い愛情が滲んでいた。
ネアは、三人の魔術師が姉妹だとは知らなかったが、きっとそんな妹達のことを、タリィはとても愛していたのだ。
愛情を受け取る相手が消え去るその苦しさを思えば、ネアはタリィの背中にそっと手を置いてあげたくなる。
しかし残念ながら、ネアは魔物にがっちりと抱き締められていた。
(………ディノは、どうしてこんな風に警戒しているのかしら)
微かな疑問がちらりと揺れる。
しかしそれは、帰り道にでも聞いてみよう。
「あの子達は幼馴染の結婚に憤慨して、自分達にも美しい魔物の伴侶をと息巻いた。そしてその時に、偶然にも美しい魔物の青年を連れたガレンの歌乞いが、この地に任務で訪れたんだ」
「…………その方が、先程話していた方なのですね」
「ああ、そうだ。あの子達は、あれこれ手を尽くしてその魔物を歌乞いの男から引き離してしまった。リシィが話していたように、花を司る魔術師は誘惑に長けている。その時は………不幸にも、上手くいってしまったんだ」
刹那の魔術に惑わされ、魔物の青年は歌乞いとの契約を解除してしまった。
魔物を失った魔術師は、慌てて事態を報告する為にガレンに戻ろうとしたが、事態の発覚を恐れてリシィとハリィはその魔術師を殺してしまったのだそうだ。
自分の歌乞いが殺されてから我に返った魔物の怒りと悲しみはすさまじく、町近くにあった壮麗な姉妹の館を焼き尽くし、リシィとハリィを殺して自害してしまったという。
「タリィさんは、…………ご一緒ではなかったのですね」
「私はその夜、愚かにも隣町に出て恋人と飲み明かしていた。姉妹達がろくに知りもしない魔物にうつつを抜かしているのが面白くなかったんだ」
町に戻り、事の顛末を知ったタリィは慟哭したという。
自分がいれば助けられたかも知れないと泣きながら取り縋ったその体に、妹達の魂が残っていると気付いたのは、幸福なことだったのか、或いはそれこそが悲劇の始まりだったのだろうか。
「私は、魔術で妹達の魂を繋ぎ、驚いたことに何も覚えていなかった二人とこの町で暮らした。町の者達の中には眉を顰める者が多かったが、魔物に殺された人間は死者の国には行けない。死者の日に戻って来ることも出来ないからと頭を下げれば、彼等も渋々承諾して許してくれた。………でも、困ったことになぜか、あの二人には自分達でももう理由がよく分らないままに、魔物の伴侶を得なければという欲求だけが残ってしまったんだ」
リシィとハリィは、魔術師としての様々な力を繋ぎ、あちこちに罠をしかけたり、旅人や観光客などの中から自分達で手の届く範囲の獲物を物色しては、伴侶にどうだろうと捕まえて来たのだそうだ。
しかし、相手が死霊だと分かると魔物達も逃げてゆこうとする。
そうすると、彼女達は死霊らしい混乱の中で、その獲物を殺してしまうのだった。
「死んだ魔物を取り込み、ますます力を増した妹達は、生者と変わらないくらいの姿を保つまでになった。普段はしっかりと町の為に働いているので、町人達ともそれなりに上手くやっていたつもりだったけど、……やはり、妹達が魔物を食べていることは、皆知っていたのだろうな………」
そう項垂れたタリィに、ディノは静かな声で同意する。
「人間程に、異形の気配を感じやすい生き物はいない。ただの死霊が悪しきものになりつつあることを、無意識に察している者達もいたのだと思うよ」
(エーダリア様達ですら、力を持った魔術師が魔物狩りをしているとしか認識していなかったようだけど、きっと同じ町で暮らしている人達は、無意識に異変に気付いていたのかもしれない………)
良くないことが起きている。
その無意識の確信には、ネアも覚えがある。
「…………あなたが来た時、どうしてガレンは妹達が好むような魔物を寄越したのだと、怒りにも似た思いを感じた。あなたがネアを大事にする素振りを見せれば見せる程、妹達は苛立っているようだったし、あなた程の魔物を取り込んでしまったら、私にももうあの二人を制御しきれなくなる。そう思ったんだ。………けれど、あなたが妹達の手に負えるような魔物ではないと気付いたとき、とうとう全てを終わらせる時が来たと諦めがついた」
ぱたりと、最後の涙が柔らかな畑の土に落ちた。
「あのままであれば、あなたは妹達を消してしまっただろう。契約の魔物は、自分の歌乞いを害するものを許しはしない。……………私は、あの日と同じ恐怖を、妹達に二度も味合せたくはなかった」
(そうか。だから自分の手で、その繋いでいたものを解いてしまったんだわ………)
ネアは、少しだけ不思議だったのだ。
ディノはあんな様子だったが、どこかタリィの方から積極的に全てを終わらせた感があった。
でもそれはきっと、大事な妹達に自分達が殺された日のことを思い出させたくないという、彼女なりの回避策だったに違いない。
タリィ自身もどこかで終わらせなければと思っていたものが、終わらせるべき時を得てやっと終わったのだ。
「すまない、ネア。嫌な思いや、怖い思いをさせただろう?」
「いいえ。私には終始私の魔物がいて心強かったので、大丈夫ですよ。………タリィさんは、大丈夫ですか?」
「…………どうだろう、…………暫くはしんどいだろうな。でもそれは、今まで自分が苦痛に向かい合ってこなかったからなんだ。今日からは、妹達がここにいないことを受け入れながら生きていこうと思う」
涙の気配を振り払うように、そう微笑んだオリーブの魔術師は美しかった。
「タリィ!」
「……………レルミヤ?」
するとそこに、いつの間にここまで来ていたものか、近くの木立の陰から、ぱっと駆け寄ってくる一人の少女がいる。
「…………タリィ、泣かないで!寂しかったら、今晩はうちに泊まる?」
目を瞠ったタリィの足に抱きついてきたのは、可愛らしい黒髪の少女だった。
まだ子供の域を抜けていないむちむちとした薔薇色の頬が可愛らしいが、あと数年もすれば美しい少女になるだろう。
そんな少女を抱きとめて、タリィはどこか困ったような顔をしたまま、嬉しそうに笑った。
「ネア、………この子はね、オリーブ農家の娘なんだ。いつか、リシィやハリィを凌ぐような立派な魔術師になるよ。可動域は七十程しかないが、手先がとても器用で妖精達にも慕われていてね」
「……………ななじゅうしか」
「ネア?」
「いえ、………それは頼もしいですね。そして、あなたの側にそのように素敵な方がいてくれて、何だかほっとしてしまいました」
「………………うん。そうだね、有難う」
また、不思議な風がラベンダー畑を渡ってゆく。
しかし今度のものは淡くキラキラとしていて、元通りになった畑にラベンダーの祝福が戻ってきたものなのだそうだ。
ディノが土を戻したばかりのところは綺麗な土だけの状態になってしまっているが、きっとここにもまた新しい苗を植え、来年には綺麗な花を咲かせるのだろう。
オリーブの実の収穫はこれからが最盛期だ。
枯れたものや失われたものの上に新しいものが芽吹くこの場所であれば、きっとタリィはまた大事なものを見付けて、また健やかに生きていけるようになると、ネアはなんだかそんな風に思ってしまう。
町に戻れば、人々が待ち構えていた。
どうやら町の人々は、今回のガレンの任務を怖々と遠くから見守っていたようで、この黒髪の少女はそんな町から、大好きなタリィの為に抜け出して駆けつけたらしい。
手を繋いで町に帰った二人を、町の人々は泣いたり少し怒ったり、ほんの少しだけ怖がったりとしながら様々な反応で受け入れてくれた。
勿論、問題があった以上は全ての人々が好意的ではないが、それが社会で暮らしてゆくということなのだと思う。
依頼主にあたる畑の持ち主とも話が出来て、無事に任務完了を伝えることが出来た。
過去の一件があるからか、歌乞いと魔物という組み合わせを見ると、町の人々は何やら後ろめたい気分になるらしい。
とても丁重に扱われ、特産品のお土産を幾つか貰って何度もお礼を言われてしまう。
「ディノ、少し気になったのですが、あのタリィさんは普通の人間なのでしょうか?」
帰り道で、ネアはそのことを魔物に尋ねてみた。
町の中で人々に囲まれると、ディノは少し安心したようにネアを地面に下してくれたし、あまり悪目立ちしないように擬態もしたようなので、あの擬態は三人の魔術師向けのものだったに違いない。
「彼女は妖精から人間に転化した者だ。ごく稀に、その土地や集落に留まり続ける為に、自分の種族を離れて守り人になる者がいる。そういう存在だよ」
「だから、妹さん達を繋ぎ止める程の力もあったのですね。と言うか、妹さん達も妖精さんだったのですか?」
「いや、あの二人は人間だった筈だ。身寄りのない子供を引き取ったのか、才能のある子供を町の人々が守り人に預けたのか、経緯はわからないけどね」
「そうして、三人で暮らしていたのですね………」
「守り人の願いだったからこそ、人間達もその行いを許したのだろう。あのような守り人がいる土地では、守り人が失われると、その加護も消えてしまうことが多いからね」
「確かにそうなると、あまり強く諌めることも出来ませんね。タリィさんが、荒ぶらず、あのようにご自身で納得出来る方で良かったです」
そう言って、町で貰ったお土産の篭の中からオリーブ油の瓶を手に取れば、なぜか魔物にひょいっと取り上げられた。
「…………ディノ?」
「あの魔術師に、何も悪さはされなかったね?」
「む。…………もしかして、タリィさんのことですか?」
「そうだよ。ネアの事を気に入っていたようだから」
「…………その、わかっているとは思いますが、タリィさんは女性なのです」
「でも、あの魔術師は、同性を好むそうだ」
「……………ほわ」
「ノアベルトに、出がけに注意されたんだ。ネアは多分彼女の好みだろうから、高位の魔物のものだとしっかりわからせないと、手を出されるかもしれないって」
「…………だから、ディノは擬態がふわっとしていたのですね?」
「うん。君に手を出されたら嫌だからね」
「…………そのような嗜好の方は存じ上げていますが、直接にお会いしたのは初めてです」
ネアは思いがけない危険と魔物が戦っていたのだと知り、ふるふるした。
偏見は特にないのだか、まさかそういう事情だとは思わなかったのだ。
「という事は、ノアはタリィさんをご存知だったのですね」
「手練れなのだそうだ。何度か恋人を取られたことがあるらしい」
「…………手練れ」
「自分に気の無い相手を落とすことに長けているらしい」
「…………ほわふ」
何とも言えない気持ちでそんな真実を知り、ネアは思考がまとまらないままリーエンベルクに連れ帰られた。
「お帰り、ネア。良かった、無事に帰ってきたね!」
「ノア、待っていてくれたのですね?」
リーエンベルクでは、どれだけ心配したのかノアが転移の間で待っていてくれた。
基本ディノの転移は自由なので、外から戻る時もあるが、今回はここで待っていると予めディノに伝えてあったらしい。
その隣に一緒に並べられたエーダリアとヒルドの視線が虚ろなのは、その心配の内訳を知らされたからだろうか。
「エーダリア様とヒルドさんも!ここで待っていてくれたなんて」
「…………お前が戻ってこれなかったら、迎えに行くと聞かなかったからな」
「だって、あの妖精は本当に危ないんだよ。もしネアが捕まったら、ヒルドを連れて迎えに行く予定だったんだ。まずは、同じ妖精のヒルドで脅さないとね」
「………思ってたより深刻な感じでした」
ネアは、ノアがここまで心配になってしまう、タリィの技量とはどんなものなのかで怖くなる。
塩の魔物をこれ程までに怯えさせるとは、一体どれ程なのか想像するのも怖い。
(は!それよりも…………)
しかし今はそれよりも、報告するべきことがあった。
「エーダリア様、あの町にいた魔術師さんなのですが……」
そこでネアは、今日あったことを報告した。
今は昼食休みである上司は、神妙な顔で聞いてくれている。
歩きながら会食堂に移動し、その道中でも色々と話をした。
エーダリアは、確信はなかったものの、二人の魔術師が既に亡くなっていることは知っていたようだ。
あえて言わなかったのは、亡者として繋がれていたのか、完全に使い魔になって別の存在になってしまっていたのかの確証がなかったからであるらしい。
「………そうか。ようやく旅立ったのだな。………あの二十年前の事件は、ガレンでも大きな騒ぎになった。断罪しようにも二人の魔術師は殺されてしまった後だったし、その先に呼び戻されたとしても、一度報復された者には二重に罪を科せない決まりでな」
「あの事件は王都でも噂になりましたよ。歌乞いを持つ魔物達は、あの界隈に近付かないようになりましたし、その引き剥がす手法が悪用されないようにと、注意喚起もありましたね」
そのヒルドの言葉に、ネアはひやりとした。
「ディノ………」
その言葉にネアは魔物を見上げたが、魔物はふわりと微笑んでくれた。
「大丈夫だよ、あれは誘惑の魔術の応用だからね。普通の魔物であっても、元々その対策をしていれば回避出来るものだ。それに、こういうことなら、恐らく人間達以上に魔物が手を打つだろう」
「そうそう。体を重ねると…」
「ネイ?」
「ごめんって。僕はただ、どんな魔術が悪用されたのかネアに教えようとしただけだって、ヒルド………痛い!」
ヒルドに耳を引っ張られてしまったノアから視線を戻し、ネアは魔物に微笑みかけた。
「…………良かったです!一瞬、どこかで悪用されてしまったらと思って怖くなりました」
「それに、君は私の指輪を持っているからね」
「一安心ですね。これで安心して、貰った美味しいオリーブ油を使って、お昼にパンを…」
「ネアは、あのオリーブのものを食べないようにね」
「…………む?」
「念の為に避けておこう」
「…………エーダリア様、ディノに虐待されます」
ネアはふるふるして上司に訴えたが、エーダリアはさっと顔を逸らしてしまった。
ヒルドとノアも、なぜかディノの方針に賛成のようである。
搾りたての新鮮な早摘みオリーブオイルの楽しみを奪われたネアは荒れ狂ったが、結局、オリーブオイルだけではなく、オリーブ漬けまでも取り上げられてしまった。
頭に来たので、夜は強制的に魔物をムグリスに処し、撫で尽くしの刑にすることとなる。
恐れ入った魔物は意味を成さないことを呟いて途中で逃げてゆき、真夜中にどこからか早摘みオリーブオイルの上等な瓶を買って来てくれた。
ご主人様から食べ物を取り上げてはいけないと、しっかり覚えていて貰いたいと思う。