166. 普通の話をします(本編)
「手に負えないというのは、どういうことなのでしょうか?」
ネアはまず、それがどういうことなのかを確かめることを優先した。
血の気が下がるような気がして指先が震えそうになるので、もしかしたら酷い顔色なのかもしれない。
けれど、これはネアにとって大事な問題なのだ。
怖いからと言っておろそかにする訳にはいかない。
正面に座ったウィリアムは、静かな表情のまま一つ頷き、ネアの目を真っ直ぐに見つめる。
「まず、今回のことは、俺とゼノーシュ以外には話さないように」
目を瞠ったまま呆然としているネアに、ウィリアムは穏やかな声で、言葉を重ねる。
「シルハーンが弱っているということだ」
しかしその言葉は、ナイフのような鋭さでネアの胸を切り裂いた。
「…………やはり、ディノは弱っているのですね」
「俺の言葉だと誤解されそうだな。薄められ、欠けていっていると言うのが正しいかもしれない」
「……………話すなと仰るのは、エーダリア様や、ヒルドさんにもでしょうか?」
「ああ。高位の魔物が弱るということは、人間の組織にとっては不利益ばかりではない。ある種、御しやすくなるからな」
「で、でも。エーダリア様達はそのような考え方をされるとは思わないのです」
「ネア、エーダリアは組織の長だ。本人の思想や性格がどうであれ、利用出来るものは全て利用しなければという事態に巻き込まれることも想定される。知らせないでやった方がいい」
その言葉の厳しさと、長命の者らしい優しさにネアははっとした。
知らせるなではなく、知らせないでいてやれとウィリアムは言うのだ。
(そうか。………それが望まないことであれ、利用しなければいけないことはある)
だからネアは、その言葉を噛み締めて小さく頷く。
「僕は、ノアベルトは大丈夫だと思うんだけどな」
そう呟いたのは、ゼノーシュだ。
ウィリアムは少し難しい顔をして首を捻る。
「俺は、今のノアベルトをそこまでよく知らないからな。以前の彼であれば、絶対に知られてはいけない魔物の一人だったが、そちらは状況を見て話しても構わないとは思う。ただ、その時は俺から話そう」
「その、………昨日の段階で、ノアにはディノを診ては貰っているんです。疲労ではないかと言われていますが………」
「うーん、そこまでだと判断をつけたのか、それ以上を飲みこんだのか難しいところだな」
それ以上に話も沢山しているのだが、ネアは少しだけ考えてから、あまり深くまでは告白しないことにした。
昨晩ノアと話して、お互いの価値観が違う方向を向くということがあるのだと知ったばかりだ。
まずは聞く体勢で受け止めてから、自分と同じ目的の人と話した方がいいのかもしれない。
ノアであれば、意見が違った程度で済むかもしれないが、万が一ウィリアムと意見が大幅に食い違った場合、少し厄介なことになりそうな気がする。
「…………そういえば、ノアから、以前は考えなしにディノに酷いことをしたと告白されたことがあります。ウィリアムさんが心配しているのは、ノアのそういう部分ですか?」
「そう言えるのであれば大丈夫だろうが、ひとまず状況が落ち着くまで待った方がいいだろうな。魔物であっても、その捉え方は様々だ。…………俺の見立てが間違っていないなら、ノアベルトは身を削ったことで幸福を得た魔物なのだと思う」
「身を、削った?」
「ああ。心臓を無くしてからの方が、愉快に生きていられると話していた。王族としての責務は、ノアベルトには負担だったんだ。そんな男だから、今回の事も前向きに捉えてしまうかもしれない。……………だが、ネアは嫌だろう?」
そう問われて、ネアは少しだけ驚いた。
(…………そういうことは、この人でも理解出来るのだわ)
ネアにとってウィリアムは、優しく頼りになる年長者のような魔物だ。
しかし、その柔和さや理知的な部分から零れるように、繊細な心の機微を理解しないのではという部分もある。
それはとても魔物らしい魔物であるという部分で、だからネアは今のウィリアムの言葉に驚かされてしまった。
自分と近しい思考だと思っていたノアではなく、ウィリアムの方がわかってくれるのかと。
「力を弱めてゆくことで、シルハーンは扱い易い魔物にはなるだろう。特異性が欠ければ、本来であればネアの好むようなものなのかもしれない。だから今回のことは、見る者にとっては悪い事ではないと思う事なのかもしれない。でも、君はそれでは嫌だろう?」
「ええ。私は嫌です」
ネアは、もう一度言葉を噛み砕いてくれたウィリアムの為に、きっぱりと頷いた。
勿論、望んでやっていることなのであれば、当人にはメリットも確かにある筈なのだ。
しかし、だからといってこんな状況を招いただけの欠損を、ネアが許せる筈もない。
そう考えてしまった時、ネアは自分の強欲さが悲しくなった。
ここでネアこそが、ディノがどんな選択をしてもそれが彼の望みならばと、受け入れられる存在であるべきなのに。
「それがどんなことであれ、どういう理由の、どんな現象であれ、私は自分の大切なものが損なわれやすくなることに同意は出来ません。絶対に嫌です」
そう言い切ったネアに、ウィリアムは少しだけ安堵の表情になった。
「…………そう言ってくれて良かった。俺のような魔物や、………世界の調律としては、あまりいいことではないんだ。だから、俺としてもシルハーンが損なわれるのは困る。意見が合って良かったよ」
「むぅ。意見が合わなかったらどうなるのか、少しぞくりとしました」
「はは、説得しただけだから怖いことはないさ。それと、特にアルテアには言わないようにな」
「そうですね。信用するしない以前に、アルテアさんはしでかす気質です」
「それもまぁ、選択の資質ではあるけどな。………さて、それがどういうことなのかということだったな。ゼノーシュ、説明して貰えるか?」
ウィリアムにそう振られて、ゼノーシュが頷く。
心配そうにネアを見上げながら、どうして今回ディノが体調を崩してしまったのかを説明してくれた。
「最近ね、ディノが少し色が……落ちているんだ。それって、魂や命が薄くなっているってことだから、心配になって調べたの。そしたらね、………少しずつ削れていっているみたい」
「……………ディノが?」
「うん。それがどうしてなのかとか、どういうことなのかまでは僕にも分らないけれど、減っているっていう感じなのかな。でも、呪いや攻撃の証跡もないし、削り取られた部分がどこかにある様子もないから、もしかしたら、ディノ本人が何かをしているのかなって、ウィリアムに相談したんだ」
「…………色が、…………私は、今回ディノが具合を悪くするまで、そんなことには少しも気付きませんでした………」
一番近くに居た筈なのに気付けなかった不甲斐なさに、胸が痛くなってそう項垂れると、すかさずゼノーシュが慰めてくれた。
「多分、ネアにはわからなかったと思うよ。魔術的な部分が大きいし、僕達の色や気配って、心の動きで随分と変わるんだ。ネアと一緒の時のディノは、幸せそうだからね」
「でも、…………。いえ、後悔は後からします。まずは、どうしなければいけないか、ですよね」
「ああ。そう立ち直って貰えると助かる。ネア、少し苦労するかもしれないが、シルハーンと話してみて貰えるか?」
そう言ったウィリアムに、ネアは力強く頷いた。
寧ろ、この話を聞いてしまった時からずっと、今すぐ部屋に駆け戻ってディノと話したくて堪らなかったのだ。
あの、今は少し弱ってしまっているという大事な魔物の側から離れたくない。
「ただ、一つだけ誤解がないように言っておくが、今の状態でもシルハーンは、俺よりは強いと思う。だから、すぐにどうこうという不安は持たなくていい。だが、万象というもの自体がそもそも揺らぎのあるものだし、不完全さも資質とするものだからな。万象の普遍性や永続性が弱まると、あまりいい状態とは言えないということなんだ」
「…………はい。あまり焦り過ぎて取り乱さないように、でも、しっかりと話をしてきますね」
「すまないな。万象そのものが自分の意志で成していることとなると、俺でもどうにも出来ない。それに、この世界でシルハーンの意志を覆せるといったら、ネアくらいしかないからな」
(それはつまり、ディノが欠けていっているのは、私も理由の一端なのだろうか)
そう考えると、心の奥が震えそうになる。
唇が強張ってしまって上手く返事が出来ないでいれば、ウィリアムは小さく微笑んだ。
「すまない。俺はやはり、言葉選びが上手くないな。言葉裏でネアを責めたわけじゃない。もし王がまた困ったことをしているようであれば、諌めて踏み止まらせることが出来るくらいに、あの人の心に近しいのは、ネアだけだと言いたかったんだ」
ウィリアムはひとまず一度戦場に戻り、何かあればすぐに駆けつけてくれるということだった。
部屋を出る前に一度ぎゅっと抱きしめてくれて、ネアは不覚にも泣きそうになる。
これから魔物と大事な話をするので、心を波立たせないように、冷静でいなければならないのに。
一人で、見慣れたリーエンベルクの廊下を、自分の部屋まで歩いて帰った。
窓から見える中庭の木々や花壇の花は、少しずつ夏の盛りを超えて、秋のものへと変わり始めている。
ネアですら驚いてしまうくらいなのだが、あともう少しでネアがこの世界に来て一年が経とうとしていた。
あまりにも目まぐるしく、極彩色の万華鏡のような不思議な世界で、あっという間にここまで来てしまったけれど、それは即ち、ディノという魔物に出会ってからの一年でもあったのだ。
(だから、…………いつの間にか私は、こんなにもこの世界に馴染んでいたんだわ)
様々な事件があり、あっという間に過ぎ去っていった日々だった。
この世界に来てあまりにも多くのものを手にしたネアだったが、どれだけ強欲な人間だとしても、唯一無二のものはもう決まっているのだ。
その、たった一つのもの。
その尊さを思いながら、病院に連れて行かれる小さな弟の背中を思う。
或いは、土の中に埋葬されてゆく、両親の棺を。
失われるということ以上に、残されることの苦しさが堪えたのだろうかと思うのは、ネアが自分本位な人間だからなのだろう。
だから。
だから、こんな風に胸が潰れそうな思いをするのだろうか。
部屋に帰ると、ディノは所在なさげに一人で窓辺に佇んでいた。
その横顔の美しさに見惚れかけ、やはり精彩を欠いているような瞳の力のなさに息が苦しくなる。
しかし、ネアが帰ってきたことに気付いて瞳を輝かせて振り返った魔物は、いつも通りの魔物に見えた。
「話は終わったのかい?」
「ええ。もうおしまいなので、今日はずっと一緒にいましょうね。体調はどうですか?どこか不自由なところや、不愉快なところはありませんか?」
「大丈夫だよ」
そう微笑んだ魔物に、ネアはふと昨晩見た夢を思い出した。
真夜中にディノが箱を開ける。
そしてそこに、きらきらと光る美しい宝石を投げ込むのだ。
(……………まさか)
それは夢だと思っていたけれど、同じような構図でこちらを宥めるように微笑みかける魔物の姿は、あまりにもその時の情景に酷似しているような気がした。
その時は夢だと思ったけれど、もしそれが夢ではないのだとしたら。
小さく息を飲んで視線を巡らせたネアは、夢で見た方向を視線で探った。
その辺りには、ディノの宝物入れでもある抽斗もあり、収納用のスペースとなっている。
ネアが夢で見た箱と、抽斗の大きさがほとんど同じだと思えばじっとしてはいられなかった。
つかつかと歩いてそちらまで行けば、魔物は少し困ったような顔で追いかけてくる。
「ディノ、私に隠し事はしていませんか?」
「ネア?」
静かにそう尋ねると、魔物は酷薄な魔物らしい美しい微笑みを浮かべた。
それはやはり昨晩の夢の中のディノと同じ、君は知らなくてもいいのだと微笑んだ魔物の色だ。
しげしげとその微笑みを見返してから、ネアはおもむろに全ての抽斗を開け始めた。
「ネア、どうしたんだい?」
困ったようにディノが隣に並んで、覗き込んでくる。
それには答えず無言で抽斗を開け続けたネアは、たった一つだけ開かない抽斗を発見してしまった。
ちょうどこのあたりは、昨晩の夢でディノが宝石を放り込んでいた高さと位置に合致する。
「ディノ、ここの抽斗を開けて下さい」
「どうしてこんなものが見たいんだい?」
「これは、私には見せたくない秘密なのですか?」
「………いや、そういうものではないよ」
頑固な目でじっと見上げたネアに、ディノは水紺の瞳を僅かに揺らした。
表情は崩さないものの、幾つかの選択肢を天秤にかけたようで、ややあって、ネアが手をかけている抽斗にそっと触れる。
そうすると、その抽斗はするすると開いた。
「………………これは」
ネアが驚いてしまうのも無理はないだろう。
その抽斗には、想像していたような宝石ではなく、不思議に光る虹色の液体がたぷたぷと入っていたのだ。
限りなく透明なのに底は見えず、まるで抽斗の深さより遥か深くまでこの液体が収まっているようにさえ思える。
ゆらゆらと淡く煌めき、えもいわれぬ色彩を波立たせる。
そうしてその色を見てから魔物に視線を戻せば、病み上がりで少し疲れたのかなと思っていた魔物の色の鮮やかさは、全てこの抽斗に入っているような気がした。
「ディノ、これは何なのでしょう?どうしてこの抽斗を隠していたのですか?」
そう尋ねたネアに、魔物は少しだけ微笑みを曖昧にして、小さく小さく、そうだねと呟く。
話し出したいけれど話したくなさそうに、ゆっくりと言葉を選ぶように。
「最近、色々なことがあっただろう?君は色々なものを見て、色々なものに触れた」
「ええ。…………そのことと、この抽斗は関係あるのですか?」
「それで、君が欲しがっていたものを考えたんだ」
「私が、…………でしょうか?」
「うん」
ネアは、たぷたぷと煌めく虹色の水が入っている引き出しを見下ろし、首を傾げた。
そうしている今も、この抽斗の中はこんなにも輝いているのに、魔物の髪の毛はくすんでいるような気がして心臓が痛くなる。
「………君は普通のものが欲しかったのだろう?」
「確かに、不相応ではないものが好きです。でも、特別なものも好きですよ?」
「そうなのかい?」
そう尋ね返した魔物の瞳は、無防備で不思議そうだ。
その澄んだ水紺の色にもまた、以前のような怖いほどの深さはない。
「…………ディノ、もしかして、………自分の何かを削り落としていたりするのですか?」
ぱっと思いついてその言葉を発してから、ネアは自分の言葉に愕然とした。
胃がぐっと押し潰されるようで、急に喉が狭くなったような息苦しさを覚える。
ディノは淡く微笑むと、それ以上は何も言わなかった。
ただ愛おしそうにネアの髪を撫で、また嬉しそうに目を細める。
その表情を見て、ネアはこの魔物はネアに褒めて貰えると思っているのだと、やっとわかった。
「ディノ!」
「…………うん」
「こ、……………こ」
「ネア?」
すとんと頷いた魔物の瞳が穏やかで、ネアは声が出なくなってしまった。
ぷるぷる震える指で抽斗の中を指せば、ディノはまた一つ頷く。
「こ……………」
「ネア、………大丈夫かい?」
はくはくと短く息を刻んで、自分の吐き出す吐息の熱さが目に沁みた。
じわっと涙目になったネアに、ディノは驚いたように頬に手を添えてくれる。
「…………ネア?具合が悪いのかい?」
「こ…………」
「こ?」
「こ…」
「こ…」
「この!お馬鹿魔物っ!!!!」
怒り狂ったご主人様にびしいっと脳天を叩かれたディノは、呆然としてこちらを見ていた。
引っ叩かれた頭を押さえて、目を丸くしている。
「………………ネア」
「それはつまり、私の大好きなディノが、私の大事なディノを削り取っているということではありませんか!」
「でも、…………もしかして、君は嫌なのかい?」
「嫌に決まっているのです!」
「普通のものが良かったのに?」
「普通のものが良かったのですが、普通じゃないディノにしたのです!ディノの嗜好や趣味が変わるのは構いませんし、普通一般の価値観を持つのは大賛成ですが、減るのは我慢なりません!今のディノは、私の大事な魔物破損犯です!!」
「ご主人様……………」
しゅんとして項垂れた魔物は、ふるふるとしている。
少し涙目だが、ここで甘くすると道を踏み外してしまうのがこの魔物なのだ。
それに、ネアは密かに、魔物がこちらの言葉を受け流してしまうのではなく、驚いて落ち込んでくれたことに安堵していた。
そんな自分の狡猾さが、少し情けなくもなる。
「では、例えを出しましょう。もし私が、ディノの好みの括れた腰にならんとして、こっそりお腹のお肉を削ぎ落として捨てていたら、どう思いますか?わざと怪我をしているのではなく、ディノが喜ぶからだと頑張ってお肉を削ぎ落とすのです」
ここで、ネアは少しだけ意地悪をした。
色々な例えがある中で、あえて残虐な表現のものを選んだのだ。
そして、その効果は絶大だった。
ぱたりと、澄明な雫が落ちる。
床に落ちる前に空中で煌めいて消えて、それを何度も繰り返す。
ぱたぱたと涙が溢れ、ディノは目を瞠ったまま泣き続けていた。
無言ではあるが、若干号泣気味な魔物に手を伸ばすと、ネアはその頭を撫でてやった。
丁寧に撫でてやり、それから少しだけ微笑んで返答を促すように首を傾げる。
魔物は慌ててネアの腰を押さえてきたが、あくまでも例えであって、実際に削ってしまった訳ではないのだ。
「…………そんなことをしているのかい?駄目だよ、私は細い腰なんか好きではないから」
「むぐ、それはあくまでも例えでしたが、今の言い方では私の腰が残念なようです」
「ご主人様………」
「つまり、ディノのしているこれは、私に置き換えるとそういうことなのです。ディノは私より出来ることが多いので、実際に肉体は傷付かないかもしれませんが、同じように損なわれているのです。今すぐ元に戻して下さい!」
「戻す…………」
「戻すのです!」
躊躇う様子に怒ったご主人様が腰肉を削る素振りを見せると、まだ泣いていた魔物は震え上がった。
少し躊躇ってからネアの腰を撫でて減っていないことを確かめてから、こくりと頷いた。
とてもお利口なので、ネアはふわりと微笑んだ。
そうすれば、魔物は今更まだ目元を染めてもじもじするのだ。
(…………なんて愚かで、なんて恐ろしい生き物なのかしら)
ネアは、この世界の人魚が嫌いだ。
自分の目玉を抉り取って差し出す求愛は、恐ろしく、胸が痛くなる残忍な光景である。
どこの誰がこの生き物にこんな愛し方を教えてしまったのかと、ネアは胸が悪くなるような思いで、血の滴る手を差し出す人魚達から目を背けていたものだ。
そして今回、ネアが大事な魔物に見た恐ろしさも、そんな種類の怖いおとぎ話のような危うさだった。
それはもしかしたら美しく甘美なものかもしれないが、ネアはそんな玄人向けの愛情などいらないのだ。
ただ翳りなく幸せなものを、この世界に来てやっと手に出来たのだから。
「戻すのにも、時間がかかるのですか?」
「………戻すのは、簡単なものなんだ。皮肉なものだよ。自分のものなのに、捨てることの方が難しいのだから」
その言葉に滲むのは多分、羨望なのかもしれない。
だとすればこの魔物は、普通になりたかったのだ。
そして、ディノは、きらきらしている虹色の液体に指先を浸した。
その途端、虹色の液体はじゅわっと吸い込まれるかのようにディノの体に吸い込まれた。
感動の場面だと思うのだが、ちょっと何だかなという映像だったもののネアは気にしないことにする。
魔物の体とはどんな仕様なのか不安になったが、気にしたら負けだ。
「…………戻りました?」
「…………うん。普通ではなくなってしまったね」
「ふふ、でもこれが私の大事な魔物なのです」
三つ編みを引っ張って魔物を屈ませると、すいっと背伸びして、ネアはしょんぼりした魔物の唇に軽く口づけた。
きちんと行いを正せた時のご褒美は、たくさん与えるのが躾の基本だ。
「…………っ?!」
しかしその途端、魔物は声なき声を上げて逃げ出すと、巣の中に飛び込んで隠れてしまった。
くしゃくしゃになって悶えている魔物を一瞥し、ネアはふすんと胸を張って頷いた。
(…………良かった)
本当は、あまりにもショックで泣きそうになったのだ。
一瞬だけ、この魔物が過保護にし過ぎるその感覚が分かった気がしたくらいに。
(だって、この世界にはたくさんの怖いものがあるのだから)
ディノにもどうにもならなかった、シーの理の呪いに、咎竜の呪い。
万象の魔物とは言え、知らないことだって沢山あった。
怖いものや苦手なものも見付かって、たくさんの身を紐付けるものが出来た今、この魔物はどれだけ危うくなったことか。
(それなのに、自分を削って弱めていたなんて……)
そう考えたら、苦しくて怖くて、あの何にも分かっていない綺麗な目で、少し精彩を欠いた色落ちした瞳で微笑んだディノを、ネアはもっと叩いて揺さぶりたくなった。
だけど、そんな一方的な思いでディノを責め立てたネアは、こうして折れてくれた魔物より遥かに残酷だ。
高慢で、我が儘で、自分のことばかり。
「ねぇ、ディノ。いなくなっては、嫌なのです」
くしゃくしゃの魔物が逃げ込んだ巣の横に座って、ネアは優しい声で話しかけた。
「私はかつて、大事な人達がいなくなってしまったことがあるんです。だから、薄まってしまわないで下さい」
そう言えば、巣の中からぴょこんと魔物が顔を出した。
泣いた後にくしゃくしゃになったので、かなり乱れていて可愛らしい。
「ネア、私はいなくならないよ?」
「でも、無用心です!どんな時も、鉄壁の損なわれない魔物でいて下さい。不安にさせられてしまうと、逃げ出したくなるのです」
「逃げ出したく………、なるのかい?」
「失われるのを見るくらいなら、手離してもいいので健やかにいて欲しいと考えてしまいかねません。私は極端で頑固な人間なのです」
「どうであれ、私は失われない。だから、手離すことは許容出来ないな」
「む。そこは強く来ましたね。でも、そのくらい追い詰められてしまうので、こんなことはもうしないで下さいね」
「ネア…………」
そろりと手を伸ばした魔物が、ネアの頬をそっと撫でる。
くしゅんとしてから、ネアはその手のひらに頬を寄せた。
「ごめん、怖かったんだね」
「ええ、とても怖かったです。なので今日は、椅子になっても構いません」
「すぐになるよ」
若干食い気味の返事の早さが少し恐ろしかったが、今この繊細な話題に触れると、また普通とは何か問答になるので、ネアはぐっと堪える。
もそもそと巣から出てきた魔物はひょいとご主人様を持ち上げ、ネアはその肩に顔を埋めた。
綺麗な真珠色の髪はふくよかな艶やかさで、宝石質な光を内包したような美しい色合いは、記憶の中の魔物のものだ。
嬉しくなってその髪色に見入る。
「ディノ、我が儘でごめんなさい。ディノにも願いや理想があると分かってはいても、それを踏み躙ってしまうとしても、今回は譲れませんでした。………どうか、我が儘な私の為に、特別で頑丈なままのディノでいて下さい。大事な魔物が欠けてしまうと、胸が苦しくなるんです」
「…………君は、時々そうやって私の望みを叶えてゆくね」
「これが、ディノの、…………望みなのですか?」
「私はね、…………君にそうやって必要とされたかったんだよ。君が譲れず、手離したくないもの。君が焦がれるものでもありたい」
「………でもということは、他にも望みがあるのでしょうか」
「君がここにいれば充分だと、そう思っていた筈なのにね」
柔らかく体が沈む。
ネアを抱えたまま長椅子に座った魔物は、そのまま甘えるようにネアの首筋に顔を埋めた。
微かな熱と甘さを孕み、その不安定さがとても危うい。
「私がそんな風に望まないのは、自分が普通ではないからだと思って?」
「…………そうだね。私は竜ではないし、君の喜ぶような毛皮の生き物でもない。……それとこれは違うと君は言うけれど、………それでも時々、君を喜ばせてあげられない身の上が、呪わしくなる」
「ディノ…………」
「ムグリスになると、君は喜ぶだろう?だから、私が少しでも普通になれば、もっと喜んでくれるかなと思ったんだ」
そう呟く魔物は、とても貪欲で、尚且つ優し過ぎるのだろう。
でもネアは、自分を削って差し出されるのはまっぴらなのだ。
「ムグリスディノを大好きなのは、あれがディノだからなのですよ」
「………私は、君が好む普通さという意味では、自分が飛び抜けて厭われていたことを知っている。君が、あの姿を喜ぶのは、私が無力な存在になるからではないのかい?」
その言葉に、ネアはひやりとした。
きちんと説明しないで軽々しく持て囃し過ぎたせいで、この魔物はネアの真意を取り違えたのだ。
「ごめんなさい、ディノ。………違うんです!私がムグリスディノを大好きなのは、ディノが着てくれると私が大喜びするあのコートと同じです。あくまでも外側のものであって、そういう資質のものを願ったのではないのです」
「でも、ネア。………私は、君が望むものと、………あまりにも違う。それは、君にとっての負担にならないだろうか」
こちらを見る魔物の瞳は澄んでいる。
かつて荷が重いと捨てようとしたその美しさが、いつの間にかネアにとっての当たり前の取り分になっていた。
「いいえ。私の理想とは違う、そして他の誰とも違うディノだからこそ、ディノは私にとっての、大事で大好きな私の魔物なのです。ムグリスディノは、そんな最強の魔物に、むくむく毛皮にもなれるという素敵なおまけがついたようなもの。ディノが困ってしまうなら、ムグリスディノを望む思いなどぽいします!」
そう宣言すれば、ディノは慌ててムグリスディノになるのは嫌じゃないよと、教えてくれた。
寧ろ、ご主人様がとても喜んでくれるので、ディノも幸せな気持ちになるらしい。
あくまでも今回のことは、そちら側の基準に魔物としてのディノも揃えようとしてのことだったのだ。
「君は毛皮が大好きなのに、その要素が増えても、それが一番になる訳ではないんだね」
「もふもふは嗜好品です。私には、私を幸せにしてくれるディノがいるので、安心してもふもふを愛でたり、美味しいものを食べたりして過ごせるという、つまりのところ、ディノがいることに甘えている証拠なのです。そんな風にとても最高に素敵なので、どうかもう、無茶をしないで下さいね」
「…………あれは、私に甘えているのかい?」
「ええ。ディノが元気でいてくれないと、もふもふに触れても幸せになれない仕組みなんですよ」
その後もネアは、魔物とじっくりと色々な話をした。
ご主人様に何かをしてあげたくなった時には、ムグリスディノになってお腹を撫でさせてくれるだけで充分だし、ただ当たり前のように一緒にいるのが一番の幸せだと重ねて教えてやる。
違う生き物なのだ。
あの人魚とは違うと思っていたけれど、やり方を間違えればそうなってしまうかも知れない。
都度こうしてお互いの認識を擦り合わせる回数の多さに困ってしまうこともあるが、多分こういうことはまたあるだろう。
それが、人間ではない生き物を選んで慈しむという対価なのだと思う。
すぐに、ディノが元に戻ったことをウィリアムとゼノーシュにも報告した。
二人からは、魔物を説得出来たことをとても褒めて貰えたが、原因となってしまったのが自分なので少し複雑だと言えば、いい関係を築けているので言うことを聞かせられたんだろうと、ウィリアムは優しく褒めてくれる。
ディノがいつの間にか削れていたことに気付いてくれたゼノーシュには、最近出来たゼリーの専門店で見付けた様々なベリーのゼリーの詰め合わせを贈っておいた。
ウィリアムにはまた今度会えた時の為に、お湯で溶くだけの美味しいスープセットを買ってある。
そして、そんな話し合いをした翌日、魔物は白けものを捕獲してくるという暴挙に出た。
「ほら、君の好きな白い獣だよ」
「ほわ…………アルテアさんが。少しぐんにゃりしてますが、まだ生きてますか?」
「この姿で君に悪戯をしようとしていたのだろう。物陰に潜んでいたところを、意識を酩酊させる魔術で捕まえたんだ。好きなだけ撫でるといい」
「むぅ。何だか少しズレている気がしますが、もふもふを堪能します!」
「可愛い、甘えてる………」
どうやらディノは、ネアがもふもふに酔いしれる姿を見ても、これはご主人様が安心して自分に甘えている状態なのだと脳内変換される洗脳が完了したようだ。
作戦通りなので、ご主人様は悪い微笑みを浮かべる。
しかし、やはり自分を制御しきれないのか、割り切れない感情もあるようで、一定時間以上もふると拗ねてしまうようだ。
抱き枕にするのは駄目らしく、ネアが白けものを寝台に持ち込もうとするとたいそう嫌がった。
(一緒にいる時に、撫で回すだけならいいみたい…………)
でも、それだけでも大きな進歩だった。
この様子なら、毛皮ツアーの時もすんなり出して貰えそうだ。
そう考えていると、動けるようになった白けものが逃げ出そうとしたので、尻尾の付け根を撫でて動けなくしておいた。
「ふふ、愛くるしいですね!」
「う、浮気…………浮気じゃなくて、甘えてる、可愛い」
「むぅ、洗脳が解けかけている被験者のような感じになってきました。ご主人様は、絶賛甘えていますよ!そして、普通じゃない今のままのディノが良いのです!」
「じゃあ、今夜は飛び込みをしてもいいよ」
「自らの発言で事故りました。世知辛い世の中ですので致し方ありません」
「ネアは、飛び込みが大好きだね」
「解せぬ」
遠い目になりながらも、ネアはとあるお願いを切り出すタイミングを逃して、少しだけ困っていた。
この流れで言えそうだったが、ご褒美の話になってしまったので、また後で切り出してみよう。
九月には、ネアにとって一年で一番大切なイベントがある。
その為に、アルテアの屋敷に秘密の合宿に行かなければならないのだ。
念の為にその日は、ノアやゼノーシュに見張っていて貰おうと思う。
結局、この強欲な人間は自分のことは何一つ諦めないで、大事な魔物を捕まえているのだ。
ノアにそう話したところ、望まれるということに勝る喜びはないのだから、沢山欲しがればいいのだと言って貰った。
試しに、ムグリスディノのお腹撫でを満足がゆくまでやらせて貰ったところ、魔物は倒れてしまうくらいに喜んだので間違いではなさそうだ。
しかしなぜか、アルテアは本気でやめさせようとするので、嫉妬は醜いと窘めておいた。