165. 魔物が体調を崩しました(本編)
その日のディノは、朝から元気がなかった。
髪の毛も少しだけぱさぱさしていて、瞳にも力がない。
疲れが溜まったのだろうかと心配になったネアは、仕事を早々に切り上げさせると、午後の予定をキャンセルして寝かしつけることにする。
慣れてはいても、体を折りたたんで入る巣に寝かせるのはどうかと思ったので、ネアの寝台に入れてお気に入りの毛布をかけてやると、ディノはすとんと眠ってしまった。
(やっぱり、髪の毛の艶もなくなっているような……)
とは言え充分に美しい真珠色の髪の毛なのだが、良く見てみればいつもの髪の毛より宝石質な透明感が欠けているような気がする。
心配になったネアは、自分の部屋で寝ていたノアを起こして連れてくると、ディノの様子を見て貰った。
「ありゃ、疲れたのかな?」
ノアは、寝入り端だったのにすぐに来てくれた。
そのことが嬉しくて、ネアは頼もしい塩の魔物の袖を掴む。
上手くは言えないが、もっと前から知っているウィリアムやアルテアよりも、ノアはいつの間にか家族になってしまったような存在だ。
やはり時々その真意を窺う魔物達とは違い、どこか無防備に信頼しているところがある。
「病気だったりするのでしょうか?」
「うーん、病気という病気じゃないけど、少し熱があるみたいだ。体調不良の軽度のやつだね。でも、シルは慣れてないかも知れないから、眠ることで治癒をかけているんだと思う」
「も、もしかして、昨日ムグリスディノになって、お湯で泳いでしまったからでしょうか?」
「わーお、シルってばそんなことしてるの?」
「ええ。タライの中のお湯を見ていたら、どうしてもぷかりと浮きたかったようで……」
「ムグリスなのに」
「ええ。冬の系譜のムグリスなのにです。………その後、ほかほかになって眠ってしまったのですが、ウィリアムさんに起こして貰えたので、大丈夫だと思っていたのです。やっぱり弱ってしまったのでしょうか」
「うーん、特定の病気の気配がないから何とも言えないけど、暫くは無理させない方がいい気がするよ」
「……………ふみゅ」
項垂れたネアに、ノアは顎先に指をかけて顔を持ち上げてくれた。
そのまま、ネアの眉間の皺をぐりぐりと指先で伸ばしてくれる。
むぐぐと上目遣いに見上げれば、軽く額に口づけをしていった。
こういう仕草のあたりが、女性とのやり取りに慣れたノアらしい。
「ほらほら、疲労だと思うから元気を出して。魔術的な浸食や攻撃は感じないよ。………でも何だろう、少し薄くなったね」
「薄く…………?」
「まぁ、疲れてるのかな。少ししたら目を覚ますと思うから、目を覚ましたらもう一度診察してあげるよ。ゼノーシュが戻ってくると、もう少しちゃんと診れるかな?」
ノアは部屋に居てくれることになったので、ネアは銀狐のお腹を撫でてやったり、控えめにボール遊びをしてやって午後を過ごした。
昼食に出ずに部屋に籠ったので、心配してくれたエーダリア達から状況確認があり、魔物が疲れて眠ってしまったのでと答えると、そういうこともあるのだなと驚かれる。
(疲れて眠ってしまうことくらい、誰にでもあることなのだけど)
現にディノだって、今迄もプールの後はぐっすり眠ってしまったりする。
だから不思議ではない筈なのだが、今回は少しだけ状況が気になった。
ぐっすり眠っているディノを見つめる。
寝台の上に頬杖をつくようにして、結んでいたのをほどき、寝台の上に流した真珠色の髪に触れた。
少しでもゆっくり休んで欲しいのに、目を覚ましてもう大丈夫だよと言って欲しい。
矛盾する心を持て余し、仰向けで眠ってしまった銀狐のお腹を撫でる。
頑張って起きていてくれようとしたのだが、今朝は朝帰りだったのでこちらも疲れ果てているようだ。
ノア曰く、銀狐になって無心でボール遊びをしたいくらい、酷い事件があったらしい。
デートで揉めたのかなと思っていたら、塩の魔物としての召喚などで煩わしいことがあったようだ。
(そう言えば、ノアも需要の多い魔物さんなのだった………)
今更ながらに、そんなことに気付く。
デートなどで遊び呆けているか、銀狐になってボールを追いかけている印象ばかりだけれど、ノアにも本来司るべき領域があり、それにかかる責任や作業があるのだろう。
世界の各地にある塩の魔物としての城も、時々訪れては手をかけているそうだ。
そんな塩の魔物は今、ネアの爪先の上にお尻を乗せて眠っている。
本当に消耗すると誰かにくっつきたがる魔物なので、生来の寂しがり屋なのかもしれない。
だからネアは、丁寧に丁寧に銀狐もたくさん撫でてやった。
(二人とも、眠ってしまった)
そっと、指先を伸ばしてディノの唇の近くに寄せた。
触れる吐息は特別熱くもないし、呼吸も苦しそうではないのが救いだ。
(目を覚ましたら、今日は大事にしてあげよう)
光竜の事件の後、丁寧に過ごした時間もあったのだが、避暑地やサムフェルなど、いつもとは違うことも多分にあった。
そう考えかけて、とは言え静かなばかりの日常などなかったに等しいのだと、ネアはくすりと微笑む。
いつも大騒ぎでてんやわんやで、それでもゆっくりとじんわりと。
この世界は隅々まで美しく、奇妙で恐ろしく、胸が弾む程に楽しい。
そんなことを考えて少し感傷的になっていたら、寝返りを打とうとした銀狐が、反対側に体を捻ろうとしたものの力が足らず元の方向にばすんと体が戻ってしまう事件があった。
薄眼を開けて恨みがましくこちらを見るので、ネアは頭を撫でてやってから窘める。
「狐さん、自分の力が及ばなかっただけなので、私が邪魔した訳ではありませんよ?」
そう言っても不審そうに背中を見るので、誰かに寝返り防止措置を取られたことがあるのかもしれない。
「…………ネア?」
その時、待ちに待っていた声が聞こえた。
ふつりと瞳を開いて、まだどこか眠たそうに、ディノがこちらを見ている。
「良かった、目が覚めましたね!」
「…………眠ってしまっていたのかな。おや、君はここにずっといたのかい?」
ゆっくりと半身を起こし、ディノは寝台に寄りかかっていたネアに手を伸ばした。
その手を取りながら、ネアはひとまずほっと胸を撫で下ろす。
「いつもと少し様子が違うので、心配になってしまいました」
「そうだったんだね、私なら大丈夫だよ」
「でも、疲れているのでしょう?」
「………疲れている?」
「ええ、心配で診て貰ったところ、ノアが疲労かもしれないと言っていました。病気のように、どこか具合が悪かったりする部分はありますか?」
「ああ、そういうものではないんだ。少し調整が変わったから、あちこちに疲労が溜まったのかもしれない。それだけだよ」
「………調整が、変わったのですか?」
ネアは首を傾げて精一杯にそれは何だろうというアピールをしたが、魔物は微笑んで頷いただけで、その調整とやらが何なのかを教えてはくれなかった。
ただ、艶麗に微笑んで大丈夫だよと頭を撫でてくれるばかりの優しさに、ネアは言葉にならない不安を募らせる。
思わず指輪を見てしまい、ちゃんとそこにあることにほっとしてしまった。
「………何かして欲しいことはありますか?」
「してくれるのかい?」
ふっと綻ぶのは、どこか魔物らしい艶めいた問いかけだ。
まったくもうと思いながら、ネアはまた熟睡してしまった銀狐のお尻の下から爪先を引き抜き、寝台の上によじ登るとディノの隣に並んだ。
「内容によってですが、特別にして差し上げます。甘やかしたい気分ですから」
「…………上に乗ってもいいよ」
「むぅ、狩りの最終形態のやつですね?疲れているときに負担になりませんか?」
「ご主人様………」
「仕方ありません。甘やかして差し上げます」
「ご主人様!」
はしゃいだ魔物の上に乗っかりながら、ネアは体重のかかる場所に注意した。
体調を崩したばかりなので、内臓などは圧迫したくない。
「…………ネア、どうしてそこに跨ったんだい?」
「む?腰骨の上の方が、内臓に優しいのではないでしょうか」
「もう少し上においで」
「むぅ」
なぜか目元を染めた魔物に上に引っ張り上げられ、ネアは現在体重がかかっている位置にどんな内臓があるのか気になってしまう。
少しだけ頑張って足に力を入れて体重を軽くしてみたが、魔物が気付いてえいっと足を崩されてしまう。
「むが!内臓が心配なのです!!」
「君が乗っているくらいで損なわれるものなどないよ」
「まぁ、私とて立派に質量はありますよ?」
「羽のように軽いのに?」
するとここで、魔物の視線が横に逸れた。
何だろうと思ってその視線を辿れば、寝台の端っこにふかふかの狐の両前足がかかっている。
どうやら、登ってこようとしているようだ。
「ノアベルト?」
「私が一人でいると不安だろうと、狐さんも一緒に心配していてくれたのですよ」
「そうなんだね。………もしかして登れないのかな」
「あらあら、筋力が落ちてしまったのでしょうか………」
心配になってご褒美を解いて近くまで行って覗き込んでみると、銀狐は前足で寝台にぶら下がったまま寝てしまったようだ。
爪でうまく引っかかったまま、すやすやと眠っている。
一緒に覗き込んだディノと、ネアは顔を見合わせた。
「これはもう、起きたときに筋肉痛になるやつなのでは」
「この体勢で眠れるんだね………」
「うりゃ」
ネアが前足をつつけば、銀狐はムギャっとなって落ちて行った。
しゅたっと着地してから何があったのか理解出来ず、首を傾げてけばけばになっている。
「狐さん、ディノが目を覚ましましたよ」
ネアがそう声をかけた途端にぴしりと尻尾を立てたので、無事に目的を思い出したらしい。
再度寝台登りに挑戦すると、二人の元にとてとてとやって来た。
いつも寝台は聖域扱いのディノなのだが、心配されていたと話したので、今回は侵入を許可するようだ。
「ノアベルト、少し調整があっただけだから、問題ないよ」
そう説明され、銀狐は尻尾をふりふりする。
そのまま寝台の真ん中まで来ると、なぜかくるくるっと回ってから、横倒しになった。
「む!ここで寝ようとしていますね」
「…………ノアベルト、ここは駄目だよ」
「換毛期はやめていただきたい」
二人がかりで追い出された銀狐はけばけばになったが、その代わり長椅子を開放されてまたぐっすりと眠ってしまった。
部屋には帰らない方針のようだが、ネアはまだ少し腑に落ちない部分があるので実はいてくれて嬉しかったりする。
(と言うか、起きたらもう一度診察してくれるのではなかったのだろうか……)
「さてと、続きをしようか」
「むぅ。もう一度乗っかるのでしょうか」
「途中だったからね」
「寧ろ、あの技は跨った段階でいつでも終わりに出来るものなのでは………」
「ご主人様………」
午後はとても穏やかに過ぎて行った。
昼食を摂っていないのでネアは心配したが、ディノはお腹は空いていないようだ。
もし食欲がないようであれば、食べやすいものを作ろうかと言えば、ぴっとなってから目をきらきらさせるので、夕食にはお粥を作ってあげようかと思っている。
以前に、アルテアが呑み明けで作っていたお粥が、味わい深くて食べやすくて良さそうだ。
ということで、晩餐の準備をしている厨房に用意する食事の調整のお願いをしに行くことにした。
ディノには銀狐と部屋でお留守番いただいて、ネア一人でさくっと行ってくることになった。
魔物は難色を示したが、ネアがもう、ディノを部屋から出したくなかったのだ。
通信でも良かったのだが、昼食に引き続きのお願いとなるので直接話そうと思ってのことだった。
胃もお腹も元気なネアは、お粥と一緒にいつもの食事も食べるつもりでいるので、ネアの分のパンと、ディノの食事を減らして貰おう。
因みにこういう場合、余ってしまった分のお料理はゼノーシュのお腹に入ってしまうので、ゼノーシュがいない日以外では、リーエンベルクの食事は基本余ることはない。
(デザートは、ゼリーやシャーベットなら貰っておいて、食べさせよう………)
エーダリア達にも、出来れば会って話をしておきたい。
不必要に心配させるのも悪いし、とは言え今日はゆっくり休ませたいからだ。
そういうことを考えながら、胸の底でぞわぞわする不安を抑え込む。
(こんな疲れ方をするなんて想像がつかなかっただけで、二日酔いで潰れたり、火が怖くて眠れなかったりするものだもの)
無意識に早足になりながら、厨房に寄ってから、執務終わりのエーダリアにも会えた。
必要なら明日も休むようにと言われ、ヒルドからの看病する者が倒れないようにという伝言もを貰った。
無事に用事を全て終えてから、早く部屋に帰ってあげようと引き続き早足で廊下を歩いていると、廊下の合流地点で反対側からこちらに向かって来ていたゼノーシュと遭遇する。
「ネア」
柔らかな夕暮れの光に照らされたゼノーシュは、心配そうに檸檬色の瞳でネアを見上げた。
「良かった。会いに行こうと思ってたんだ」
「まぁ、会いに来てくれて嬉しいです。もしかして何かあったりしましたか?」
「ディノ、…………病気なの?」
その言葉で、どうしてゼノーシュがこちらの棟を歩いているのかがわかったネアは、ほっこりとした。
ディノが心配で様子を見に来てくれたようだ。
「エーダリア様達からお話がいったのですね?ノアに診て貰ったところ、疲れが出たのではないかということでしたし、今は起きて元気そうにしています。でもやはり、少しだけ髪の毛の艶が落ちているので、今夜はお腹に優しいお粥を作ってあげて、ゆっくりとさせようと思っているのです」
「そっか。じゃあ……大丈夫そうだね」
「実は、ゼノにも診て貰いたかったのですが、ディノは大丈夫だと言い張るんですよ!」
「朝ごはんの時にこっそり診てあげる」
「ゼノ、有難うございます!」
ゼノーシュが診てくれれば一安心なので、ネアは小さく息を吐いた。
ゼノーシュの目も万能ではないが、病気や呪いの一般的なものなどであれば、発見することが出来るのだ。
その代わりに、呪いの中でも理の気質が強い高位のものなど、見聞の魔物とて発見出来ないものもある。
館の魔物の調伏の際に、あると思って見ればある程度見えたりもするので、認識の魔術を剥がせるかどうかなのだと教えて貰った。
専門家の診察を取り付けて一安心していたネアは、つんつんと袖を引かれて首を傾げる。
「ネア、明日少し時間ある?」
「ゼノ?」
そう尋ねられて、ネアは目を瞠った。
真っ直ぐにこちらを見るゼノーシュの瞳は、見慣れた可愛らしいクッキーモンスターの瞳の筈なのに、何だか底知れぬ深さがあるようで胸の奥がざわざわする。
「少しなら、今日でも大丈夫ですよ?」
「ううん。ウィリアムも来るから、明日がいいな」
「ウィリアムさんも、………ですか。そういうことなら、早い時間の方がいいかもしれませんね」
その名前を聞いた途端、ネアは急に辺りの空気が薄くなったような気がした。
つい昨日、ウィリアムからディノのことで話したいのだと言われたばかりだったからだ。
しかしウィリアムは、知人の魔物が鳥籠の気配のある土地で負傷したとのことで、そちらに呼び出されてしまって、そのままになっていたのだ。
(もしかして、そのことと、今回のディノの体調不良は関係があるのだろうか?)
そのまま、宙ぶらりんだった言葉が、急に質量を増したようだ。
なぜか、すぐさま部屋に駆け戻って、大事な魔物の手を握りたくなった。
「朝食の後でも大丈夫?」
「ええ。私はいつでも。ゼノのお仕事は、大丈夫ですか?」
「僕、明日はお休みだから。じゃあ、ウィリアムに伝えておくね」
その為だけに来てくれたのか、手を振って戻ってゆくゼノーシュの後姿を、ネアは声もなく見守った。
いつもとは違うことが続き過ぎて、胸がまた苦しくなる。
(私は今、どうしてその話がディノのことなのかって、訊けなかったのだろう)
怖かったからなのか、そんな大したことではないと笑い飛ばしたかったからなのか。
きらりと差し込む夕日が、午後に少しだけ降った雨の雫を窓辺で煌めかせる。
冬が長いウィームの秋は、雨や霧の日も多い。
また夜半過ぎには雨が降るのだろうかと考えて、ネアは久しく感じなかった雨音への不安を覚えた。
「…………ネア?」
部屋に駈け戻ると、人型になってディノと話していたらしいノアが驚いて振り返った。
すぐさまこちらに来たディノが、眉を下げたままのネアをふわりと抱き上げる。
「どうしたんだい?怖いことでもあったかな?」
「ディノが、私のいない間にまた眠ってしまわないようにと、急いで帰ってきました」
「おや、君が料理をしてくれるのに、寝てしまったりなんてしないよ」
「具沢山で、食べやすいけれど栄養たっぷりのお粥でいいですか?」
「うん。楽しみだね」
「ディノが前に気に入ってくれた、鶏だんごも入れましょうね」
そう言えば、嬉しそうに微笑むディノはいつも通りだ。
何度も執拗に確認して、触れて確かめてもやはり、いつも通りに見えた。
その後ネア達は、厨房でお粥を作り、リーエンベルクの晩餐の素敵なお料理と合わせてちぐはぐな食事を楽しんだ。
鶏だんごのお出汁の効いたお野菜沢山のシンプルなお粥をはふはふと食べている魔物を見ながら、ネアはあれこれとたわいも無い話をする。
今日は寂しがり屋のノアも一緒で、三人で楽しくお喋りをした。
不思議なことに、いつもはただ魔物を甘えさせてやっていた筈のネアが、今夜ばかりは魔物達に一生懸命に甘えてるような気分になる。
こんな時にふと、ディノはやはり長命高位の生き物らしく、一歩引いた形でネアを庇護していてくれたのだなと実感してしまった。
だから、先程のように何でもないよと口を噤んでしまう魔物に対面すると、ネアは自分がちっぽけな生き物になった気分でいっぱいなのだ。
体調不良なだけだとしたら、叱って問い詰めるようなことも出来ないので、会話の端々からその温度を窺うばかり。
ネアがそんな風にそわそわしているのが分かるからか、ディノは妙にご主人様を甘やかしたがった。
魔物曰く、心配し過ぎていてうろうろするネアはレインカルみたいで可愛いとのことなので、荒ぶったご主人様は少しだけ暴れてしまう。
「ノア、さっきはディノと何を話していたんですか?うちの魔物は、体調不良を隠していたりはしません?」
「ありゃ、心配になっちゃったかな?ネア、シルは大丈夫だよ。ただ、………あれこれ考えて過ぎているみたいだから、僕が話を聞いていたんだ」
「あれこれ………」
ノアと話が出来たのは、ディノがお風呂に入っている短い間のことだった。
のぼせて倒れないようにと、本日は長風呂禁止令を出してある。
そしてその僅かな隙に、ネアは自分が部屋にいなかった時に、二人が何を話していたのか聞いてみた。
「そう。シルはああ見えて我が儘だからね」
「あら、常日頃から荒ぶる魔物です」
「でもほら、シルは魔物の中では寛容な方だよ。気質がということではなく、指輪を与えた者にこれだけの自由を与える魔物は珍しい」
「………ええ。ディノは困ったところも沢山ありますし、魔物らしい酷薄さもありますが、私にはとても優しい魔物なのです」
「でもね、その優しさも君を少しでも大事にしたいっていう、彼の我が儘なんじゃないかな。そんなんだから、シルは考え過ぎるんだよね」
「そう言うということは、………今回のことは、知恵熱みたいなものなのでしょうか?」
そう考えると少しだけ安心出来た。
もしそんな理由ならば、きっとウィリアムはそんなディノの懊悩を知ってしまい、ネアにもう少し優しくするようにと忠告してくれたりするのかもしれない。
病気や呪いでないのなら、ネアはもう怖いとは思わないだろう。
大事な魔物が、元気でいてくれれば何だって。
「そうだね、謂うところの知恵熱みたいなものかな」
そう微笑んでくれたノアに、こつんと親愛の頭突きをされる。
おでこを押さえて目を丸くしたネアに、ノアは小さく笑った。
「むぐ。…………知恵熱から、そのまま体調不良になったりしませんか?」
「僕から言えることはね、そうやって心配してあげると、その内に心配させるからって止めるんじゃないかなってことかな」
小さく息を飲み、ネアは青紫色の鮮やかな瞳を覗き込む。
「…………ノアは、ディノがどうしてこうなったのかご存知なのですか?」
「何となくね。でもね、シルはそういう事を誰かに言ったりはしないんだ。意外なところまで話してくれたりもするけれど、絶対に話さないこともやはりあるからね」
「そうなると、本当のことは謎のままなのではないでしょうか?」
「そういうものなんだよ。だって、僕たちは司るものを持つ魔物で、その資質によって良いところも悪いところもある。だから僕も時々は沢山の生き物を殺すし、無作法な召喚を許さなかったりする」
それはきっと、昨晩のノアが訪れた場所のことなのだろう。
「ノアが苦しいのも大変なので、今日はこちらのお部屋に泊まりますか?」
「………ネアって、時々全力で捕まえにくるよね。でも大丈夫だよ。今日は午後からずっと一緒だったから、気分が良くなった。だから今のはね、僕達は僕達なりに、人間とは違う領域で判断をつけることもあるよってことかな」
(…………ノアは、受け入れられる人なのだわ)
そこでネアは、珍しく同じ方向に向かない価値観を見付けた。
ネアとは、思考の動き方がよく似ていることも多いノアだが、ここはどうやら違うようなのだ。
多分、ノアはディノの現状に不安を抱いていない。
そこには確かに何かの変化があるのだと理解して、そこまでは教えてくれても、一緒にそれを直そうとは考えてくれない人なのだ。
(と言うことは、今起きていることは、ディノ自身にとっては望ましくないことではないんだわ…………)
だからノアは、それを必ず止めるべきだとは思わないらしい。
「…………梯子を失くしました」
「はは、そう思っちゃうかな。………じゃあさ、このまま沢山心配してあげたらいいと思うよ。そうするとそれで多分、上手くいくよ」
「むぐ。…………今でももう、胸が苦しくて、ふぅふぅするくらいなのです」
「ネアは、シルが大好きなんだね」
「むぅ。………それは否めません」
「だってよ、シル」
「ほわ?!」
ちょうどお風呂上がりに部屋に戻って来たところで、ご主人様の告白を聞いてしまった魔物は大はしゃぎでネアを抱き締めた。
あまりにもはしゃぐので、ネアは一喝して大人しくさせなければいけなかった程だ。
でも、心のどこかで、ふつりとまた不安が揺れる。
この朗らかでいつも通りの光景の全てが、ネアをほっとさせる為だけの偽物のように思えてしまって、そんなことを考えてしまう馬鹿馬鹿しさにひやりとする。
「今日は心配をかけたから、隣に寝るよ」
「なぜにディノの方から言うのかは謎ですが、はい、お隣にいて下さい」
「ご主人様!」
「それと、髪の毛を梳かしてあげましょうか?」
ふっと、目を細めてディノは微笑んだ。
嬉しそうに、そして老獪な魔物らしくどこか男性的な色で。
「今日の君は優しいね」
「ディノに、元気でいて欲しいという下心があるのです」
「それだけかい?」
「む?」
「…………いや、それでもう充分だったね」
また、不思議な言葉が一つ零れ落ちる。
その意味に首を傾げて、その続きをうやむやにしてしまう悪い魔物に持ち上げられた。
腕もしっかりとしているし、体も熱くはない。
そんなことを確かめる為だけにいつもより多めに触れれば、魔物はかえって弱ってしまった。
特に首筋から手を差し込むのは駄目だと言われて、ネアはしゅんとする。
(さっきの表情は、まるで褒めて貰いたがっている時みたいだったわ)
明かりを消した部屋の中で、天井に映る夜の光を眺めていた。
風の音に虫の声がして、まだまだ夏の気配もあるのに、少しずつ季節が移り変わってゆくその気配に耳をすませた。
「ディノ」
「なんだい?」
隣に寝ている魔物に呼びかけると、すぐに返事があった。
「また、心配して貰おう的な悪さはしていませんか?」
「おや、困った心配性のご主人様だね。謹慎にされるのはもうたくさんだから、そういうことはしていないよ」
「呪いや、病気を隠してもいませんか?」
「それもないよ。ほら、こっちにおいで。どこも悪くはないのだから、そんなに悲しい目をしないでおくれ」
「むぎゅ」
抱き締められて眠るのは、息苦しくて大嫌いなのに、その晩だけはなぜかとても安心した。
若干、片方の腕はどこにどう設置すればいいのか苦心したが、最終的にはどうにでもなれと自由にしておく。
夢の中で、雨が降っていた。
ざあざあと、あの日の電話が鳴る前のままの音で。
「………………ディノ?」
ゆらゆらと、白い影が揺れる。
夢の中で、部屋の片隅で奇妙な行動をとる魔物を見た気がした。
ゆらりと壁側まで歩いてゆき、箱のようなものにきらきら光る美しい宝石を捨てている。
(これは、夢なのかしら?)
ネアの声に振り返った魔物は、こちらを見て凄艶な程の美貌で淡く微笑む。
けれども何も言わず、ただゆるりと首を振るばかり。
(ディノ…………?)
「君は何にも心配しなくていいんだよ。さぁ、お眠り」
優しい手が頬に触れる。
瞼が重くなり、ネアの意識は曖昧になる。
ただ、その箱の中身がきらきらと輝いていることが、息が止まりそうなくらいに腹立たしかった。
翌朝目を覚ますと、ネアは眠った時と同じように魔物の腕の中にいた。
やはり昨晩のあれは夢だったのだろうなと思いながらふと、この世界の夢には意味があることが多いということも思い出す。
であればあの夢は、ネアに何を伝えようとしたものなのだろう。
「………ディノ、朝食の後、ゼノとウィリアムさんと少しだけ任務の話をします」
「わかった」
「ディノはお留守番していて下さいね。すぐに部屋に戻りますから」
「ネア…………?」
「ご相談ごとなので、秘密会議なのです」
「……………ネアが虐待する」
「あらあら、同じ建物の中にいますよ?」
「ずるい………。ウィリアムとゼノーシュは一緒なのに………」
「まぁ、初めてディノの狡いという言葉が、少しだけ正常作動しました!」
「ご主人様………」
悲しみに暮れる魔物に半刻で戻るので、決して一人でどこかに行ってはならないと言い含め、ネアは部屋を出た。
(何だか変な夢を見てしまったな)
そう考えながら、約束した部屋に向かう。
するとそこには、厄介ごととやらは片付いたのか、少しだけ疲れた様子のウィリアムがいる。
既にテーブルの上に飲み物や軽食が乗っているので、少し前から来てくれていたようだ。
「やあ、ネア。昨日は大変だったな」
「………はい。でも、今日は随分と元気になりました」
「そうなのか?…………ゼノーシュ?」
「…………でも、随分と減ってたよ」
その言葉に、ネアは目を瞠って正面に座るウィリアムとゼノーシュを見つめた。
「減っていた?」
囁くほどの声でそう問いかけたネアに、ウィリアムはどこか痛ましい顔をした。
「すまないな、ネア。今回のことは、俺達の手には負えそうにもない」
そして、とんでもないことをネアに告げたのだ。