163. 魔物のお口の中に入ります(本編)
本日ネア達が挑むのは、ウィーム領内に現れた館型の祟りものを調伏するお仕事である。
屋敷の魔物というものがおり、その屋敷の魔物が、ガーウィンの高官からヴェンツェル王子宛の密書を持っていた教会騎士を食べてしまったのだそうだ。
その密書の入った箱というのが中々に厄介なものであり、それを食べた屋敷の魔物は祟りものになってしまったという経緯なのである。
その箱には、人間しか触れられない呪いがかけられており、屋敷の魔物の胃には優しくなかったようだ。
本来、祟りもの討伐と言えばもう少し華々しいものだが、一概に公に出来ないのはその密書入りの箱を取り戻すことも任務の内に入っているからだ。
その箱が人間にしか触れられない物である為、今回は前線部隊にネアが加わることとなった次第である。
(………髪色の擬態はしても、後はそのままなんだ)
ネアがそう思って見ているのは、隣に立っているアルテアだ。
今回は、ガレンとウィーム、そして統括の魔物で挑む初めての共同作業になる。
集合場所に集まった段階でガレン側の魔術師達の顔が死んでいるのは、明らかに高位の魔物が複数人いるからで、出来れば少し遠くに行きたいと瞳が訴えている。
しかし、そんな部下達からの声なき声に気付かないふりをして、エーダリアは粛々と進行した。
「………で、我々は魔物の領域の外側から、調伏魔術で魔物を固定する。グラスト達は、祟りものの観測と、その報告を頼む」
「ガレンエンガディン……………」
「そうだな、術式の補填属性だが…」
「いえ、その、………まだ死にたくはないので、もう二歩ほど下がっても?」
意を決してそう願い出たのは、よりにもよってディノの隣に立たされてしまった壮年の男性魔術師だ。
深緑のケープ姿なので、魔術師と言うよりは森の隠者のような出で立ちに見える。
魔術師のケープがなければ、普通にその辺にいそうなお父さん的柔和さがあり、ネアは滅多に出会えないその視覚の優しさに感謝した。
誰も彼もが際立った美貌の視界よりも、庶民の心に響く優しい同胞ではないか。
ネアは本来、こういう感じの契約の魔物が欲しかったのだ。
「マルティ、お前の隣にいる魔物は、隣の歌乞いがしっかりと捕まえているだろう?」
「し、しかし…………」
マルティと呼ばれた祟りものの外殻を剥がす専門家という謎の魔術師は、いつもの青みがかった灰色の髪に擬態していても、ちょっとばかり美貌が飛び抜けて高位な感じのディノを怖々と見ている。
なのでネアは、好感を抱いたその魔術師の為に、魔物の三つ編みをわしっと掴むと安全アピールをしてみた。
「ご安心下さい。私の大事な魔物は、とても優しく従順な魔物さんです。この通り、三つ編みをリード代わりにしてあげると、たいへん喜びます」
「ネア、私は君以外の誰かに髪に触れさせるつもりはないよ?」
「あらあら、少し人見知りしてますね。迷子にならないように、紐で繋ぎますか?」
「ご主人様!」
ぱっと頬を染めてもじもじした魔物に、マルティと呼ばれた魔術師はまた違う意味で慄いたようだ。
少し青ざめてこくりと頷き、ささっとエーダリアの側に近寄った。
(そうか。変態は変態で怖いのが普通なのだ……)
少し悲しくなったネアは、三つ編みを握って変態な魔物とこの世に二人きり感を味わった。
みんなに白い目で見られても、これは大切な魔物なのだ。
「くれぐれもその三つ編み離すなよ?」
「む!嫌なやつめ!」
「は?」
追い討ちをかけるようにアルテアにまであっちに行け的なことを言われたので、ネアは意地悪な使い魔から顔を背けた。
こちらは、森歩きには相応しくない優雅な漆黒の装いで、何ともいかがわしい魔物らしい美貌である。
因みに、今回の仕事は足場が悪くなる可能性があるということで、ネアは珍しくパンツスタイルだ。
お尻が隠れるくらいの長さのポンチョ型の可愛い防護ケープを羽織っても、勿論、魔術の神秘で夏なのに暑くない。
「………おい、また勝手に暴走してるな?」
「むが!髪の毛をくしゃくしゃにする意地悪を重ねられました。これはもう、白もふさんを私に譲ることでしか罪を償えませんよ!」
「ご主人様…………」
「むぅ。………白もふさんを飼わないと約束していたのを忘れていました。やっぱり白もふさんは、撫で回すだけで良いです」
「何で会える前提なんだよ」
「アルテアさんは悪いやつですが、私にはたいへん懐いているので、もう一度白もふさんのお尻を…むが?!」
いきなり口を塞がれたネアは、頭にきて手袋に包まれたその手に噛み付いてやろうとしたが、狡猾にもアルテアはさっと手をどかしてしまった。
「ほら、駄目だよご主人様。アルテアなんか齧っても美味しくないだろう?」
「ディノの言い方だと、アルテアさんが食材のようですね。反撃しただけなので、お腹に入れるつもりはありませんよ?」
早々から脱線してゆくネア達を眺め、エーダリアは溜め息を吐いた。
それに気付いて、ネアもさっと口を噤む。
「すみません、エーダリア様。白もふさんのふかふかお尻を思い出して脱線してしまいました」
「…………お前!」
きりっとしたネアがそう謝罪した途端、なぜかディノは震え出し、アルテアは呻き声を上げて蹲ってしまった。
そしてネアは、ゼノーシュに叱られることになる。
「ネア、アルテアを弱らせちゃったら困るんだよ」
「しかし、白もふさんのお尻の話ですよ?」
「それだけなのかなぁ………」
「と、兎に角だな、お前達は祟りものの内部に入るのだ。くれぐれも用心するように」
「はい!…………餅兎に化けても惑わされないように、気を引き締めて参ります」
幸いにも、魔術師達は森の中で蹲ってしまった統括の魔物が気になるようで、話を脱線させたネアを責める風はなく、そちらをチラチラと見ている。
擬態はしていても、白灰の髪色からかなり高位の魔物だと推測される姿なのだ。
魔術師達がこそこそと囁き合っていたことによれば、あの美貌は伯爵位以上だなとのことだが、実際には公爵なのである。
(というか、公爵な魔物さんは三人もいる………)
そこまで考えてネアはふと、今回祟りものの口の中に入るのがネア達だけである理由について少しだけわかった気がした。
もしかしたら、潤沢な魔術を持つ高位の魔物を抑えにしつつも、その特異性が露見しないようにと身内チームにしてくれたのかもしれない。
「では、各自持ち場に」
「はい。行ってきますね」
「ああ。宜しく頼む」
ばいばいと手を振るゼノーシュや、エーダリアにグラストとはここからは別行動だ。
ネアは蹲っているアルテアの手を引っ張って立たせると、ディノと三人で特殊な惑わせの結界に閉じ込めてある祟りものを探しに行った。
かさかさと落ち葉が鳴る。
まだ夏なのに緑の葉が落ちているのは、この森の中に祟りものがいるからなのだそうだ。
「森が可哀想な感じです」
「祟りものは、健やかなものを損なうからね」
祟りものとはいえ白持ちの魔物であるので、この結界の中に迷わせていられるのはせいぜい半日程なのだとか。
館の魔物が祟りものとなり自我を揺らがせていることで、本来であれば引っかからないような結界に足止めされていてくれる。
視線を上げれば、鬱蒼とした森の切れ目には家の屋根も見えた。
そのことに不安を覚えて、ネアは祟りものが近くにいないかと周囲を見回す。
「思っていたよりも近くに民家もありますし、早く退治してしまいたいですね」
「この辺りには家はない筈だよ。………おや、あれがアイクだね。やはり、人間にしか見えないような魔術を展開していたのか」
(と言うことは、ディノには見えてなかったのかしら?)
「アイクさん…………?」
「屋敷の魔物と呼ぶ者の方が多かった。魔物ではあるが、迷い家に向ける意識より派生した、精霊に近い珍しい魔物なんだ」
「精霊さんに近い魔物さん………」
「気質や気配など、魔物としては規格外だね。公爵の階位は実力に見合ったものではなく、白持ちであっても恐ろしい魔物ではなかった。ただ、………祟りものになるとどうなのかな」
「祟りものになると変化があるのでしょうか?」
「精霊はな、祟りものになると爆発的に階位を上げたり、性質や魔術を特殊なものに変化しやすい」
「そうなると少し怖いですね。そして、使い魔さんがやっと復活しました」
「お前な、…………口に出すなと言っただろうが」
「む?何のことですか?」
「…………いや、もういい」
なぜか使い魔がしゅんとしているので、ネアはその背中をぽんぽんと叩いて慰めておいた。
何か悪いことを言ってしまったかなと記憶を辿り、白もふを欲しがってしまったことで嫌な思いをさせたのかなと反省する。
アルテアが連れていたということは、あの獣はきっと、アルテアの可愛がっている獣なのだろう。
(………私も、誰かにムグリスディノを取られそうになったら、もやもやするに違いないから……)
鈍感な人間は、ここでやっと他人様の心の痛みに気付いたので、慌てて挽回の策に出る。
「そう言えば、もう白もふさんのことは忘れました。白いもふもふは卒業したのです」
「ご主人様!」
「これからは、ムグリスディノと、ウィリアムさんが見せてくれるであろうもふもふだけで生きてゆきます。白もふよさらば」
アルテアの為を思って独り言のように言ってやったのだが、アルテアはなぜか嫌そうな顔をしてこちらを一瞥した。
今更こんなことを言われても、ついさっきまで欲しがっていたので信用されないのだろうと、ネアはこれからも態度で示してゆこうと己を戒めた。
(また会ってしまっても、何とか興味がないふりをしなければ!もう狙ってないと理解して貰う為には、かなりの覚悟が必要とされるに違いない……)
やはり、あれだけ魅力的なもふもふなので、アルテアでさえ夢中になってしまう、凄い白けものなのだろう。
他人様のものは取らない主義なので、ネアは己にその旨をきっちり言い聞かせた。
「そして、お屋敷魔物さんが激しく近いのですが、普通に扉から中に入ってもいいのでしょうか?」
「エーダリア達の魔術拘束が、上手く効いているようだね。このまま入って問題ないだろう。ほら、そろそろ扉が開くよ」
「…………まぁ、扉が?」
さくさくと落ち葉や下草を踏んで近付いてゆけば、森の中に突如として現れる、瀟洒な白壁のお屋敷が見えてきた。
まさかこれが魔物だとは思うまいという自然さで、そこにお屋敷がある。
成る程確かに自然な感じで玄関の扉が開いていて、もしネアが森で迷った旅人だったとしても、訪ねるのを躊躇わないくらいの手頃な大きさの屋敷なのがまた憎い。
家庭的で優しい雰囲気の窓辺には、花柄のカーテンが揺れているという狡猾さに、ネアは餅兎に化けるだけのことはある相手だと頷いた。
「……あのカーテンはないな」
「あのくらい隙がある方が、中に入りやすいのだと思いますよ」
「ネアは、ああいうのが好きなのかい?」
「私の好みにはくど過ぎますが、優しい奥さんが住んでいそうで、来訪しやすい雰囲気は流石だと思います」
扉へのアプローチは低めの階段で、また入りやすい。
可愛らしいマーガレットの鉢植えまで置いてあり、ネアは、ほほうやるなと声を出してしまう。
(今の所生き物感が皆無なのだけど、ディノやアルテアさんに反応したりはしないのだろうか)
この家でしかないものが魔物だと言われても、今のところネアにはまるで実感が湧かなかった。
そのまま、ネアを挟む形で擬態した魔物達も一緒に階段を上がり、半分程開いた木の扉の間から屋内に入る。
この、扉が全開ではない感じがまた油断を誘うのだ。
扉が開けっ放しで何かあったのかと懸念させる不穏な感じの開き方ではなく、掃除か荷物の搬入などでたまたま訳あって開けっ放しですという雰囲気は、どこで研究してきたのだろう。
「…………ふぁ」
屋敷の中は、普通の家と変わらないような空間だった。
丁寧に磨かれた木の床に、玄関ホールの奥には二階に上がる為の螺旋階段もある。
壁の色は穏やかな若草色で、全体的に親しみやすさを基調とした家のようだ。
これが魔物なら、ここはその魔物のお口の中ということになる。
そう考えるとぞっとしたが、要は見知らぬお家の中で密書を入れた箱を捜す任務だと思えばいいのだ。
そう考えたネアだったが、両隣りの魔物達を見てぎくりとした。
「…………二人とも、具合が悪そうですね」
「他の魔物の体内に入ったのは初めてだよ」
「不愉快どころの騒ぎじゃないな」
「あら、精神的な嫌悪感なのですね。体調不良でなくて良かったです……」
「ほら、さっさと探し物を見付けろ」
「なぜに叱られる風なのだ。私とて………むぎゃ?!」
その時、急に床がずるんと波打った。
悲鳴を上げたネアを、素早くディノが抱き上げる。
「外側から干渉されていたことに気付いたようだね。少し揺れるから、しっかり掴まっておいで」
「す、少し?!」
「いや、かなりだな。………来るぞ」
「むぎゃ!!!」
それはまさに、館ごと急斜面を転げ落ちるような大騒ぎだった。
がっしゃんがっしゃんと家ごと振り回され、ネアは早くもぐったりしてしまう。
階位が下の魔物にこんな騒ぎに付き合わされる羽目になった魔物達の目も死んでいるが、密書を発見するまでは、一撃で滅ぼしてしまうという訳にもいかないのだ。
人間の手でしか触れられず、人間の指示でしか破棄出来ない。
それは、密書の箱に呪いの転用として条件付けされた、箱の中身を守る為の盾であり、今や何とも厄介な負の遺産となっている。
「ディ、ディノ、この状態でこやつのお腹の中にいて大丈夫なのですか?!」
「扉は閉まっているね。このまま、探し物をするしかないだろう。ゼノーシュが見ているから、すぐに術式を締め直すように提言する筈だよ」
「この中からは通信は出来ないそうですが、ゼノがいれば心強いですね!」
魔物が上手く持ち上げてくれているので舌を噛んだりはしないが、それでもがくがくなるのまでは防げなかった。
結界的なもので弾かれているようで実害はないものの、机や箪笥が吹き飛んでくるのでかなり心臓に悪い。
しかし、その中でなぜかアルテアは吹き飛んできた箪笥の中を調べていた。
頑張ってお仕事をしてくれているのかなと感動していたら、抽斗から引っ張り出したのは小さな鋏のようなものだ。
「ほぉ、やっぱりここにあったか」
「おや、ルディガエルの鋏だね」
「前に、こいつを持った商人がアイクに食われたという話があってな、来た甲斐があった」
それがどんな物騒な品物だが知らないが、使い魔がきちんと仕事をしていないので、ネアはむむっと眉を顰めた。
幸いにも揺れは収まったようなので、ネアは魔物の三つ編みを引っ張ると、床に下ろして貰う。
先程、話を脱線させたばかりのネアはあまり強く言えないが、これはお仕事なのだ。
「でも、危ないからそれは離さないようにね」
「三つ編みを………」
「どこを捜すんだい?」
「とりあえず、今の大騒ぎで内部がめちゃくちゃになりましたので、エーダリア様に教えて貰った形の箱を目視で探します」
「あちらに、少し変わった魔術展開のものがあるよ」
「む?」
魔物に教えて貰い、本棚から落ちて積み上がった本の下から引っ張り出したのは、小さな白銀色の洗濯バサミのようなものだ。
「………箱ではないですね」
「………これは魔物のものだね。もしかしたら、雲の魔物の雲バサミかな。百年くらい前に落としたと騒いでいたから」
「その魔物さんは、品物を落とし過ぎではないのでしょうか」
「よく居眠りをしているからね。そうすると、雲から落としてしまうらしいよ。本人も時々落ちているみたいだし」
「…………ご本人まで」
とりあえず、雲バサミとやらは回収しておくことにした。
いつか雲の魔物に悩まされたら、これと煙管を物質に取って交渉しよう。
「それと、こちらにも何かあるね」
「むぅ…………」
その床に落ちたカーテンの中から引っ張り出されたのは、薄汚れたぬいぐるみだ。
少しぞくりとしたので、カーテンの中に戻しておいた。
どうかこのまま安らかに眠っていただこう。
「………きっと、今まで食べてきた方々の持ち物なのでしょうね」
「内部に溜め込んでしまうんだね。邪魔ではないのかな」
「その、………食べたものは消化は出来るのですよね?どこかのお部屋に死体が沢山あったりはしませんか?」
「…………困ったね、そういう可能性もあるのか」
「おうふ…………」
ディノも屋敷の魔物の消化事情は知らなかったようなので、ネアは用心することにした。
新しい部屋を開ける時には、少し目を細めておこう。
「これはどうだい?」
「箱ではなく、クッキー缶ですね。念の為に開けて…………クッキーがみっしり入っています」
「どうしてこんなものから、特殊な魔術が感じられるのかな」
「何か物騒なものが入っているより、何だか恐ろしいものな気がします………」
「それは手斧だから違うかな、こちら側にも………眼鏡だね」
「眼鏡がここにあるということは、やはり本体は無事に消化されたのかもしれません。少しだけほっとしました」
「随分な品物の数だ。もしかしたら、単純に惑わされたというよりも、これが迷い家だと分かっていて入り込んだ魔術師達がいたのかもしれない」
「だから、特殊な品物がごろごろしているんですね!」
屋敷の魔物ことアイクは、迷い家というものに向けられる畏怖や憧憬から生まれた魔物だ。
迷い家の伝承は、人里離れた山間や森の奥に、見たことのない瀟洒な屋敷があるという導入から始まり、そこに迷い込んでしまった旅人は命を取られてしまうというもので、土地によってその形状は古城だったり、テントだったりと様々だが、その種の言い伝えが凝って生まれた魔物なのだそうだ。
つまり、この魔物を発見した魔術師達が、討伐や調査を目的として侵入した可能性もある。
「そして、これだけの物をお腹の中に溜めていたくせに、一発で祟りものになってしまった、密書の箱はとんでもないものなのでしょうか」
「確かにそうだね………」
「おまけに、使い魔さんがいつの間にかいません。食べられてしまったりはしていませんよね?」
「アルテアなら大丈夫なんじゃないかな」
ネア達がいるのは応接間と、その続き間である書斎めいた書棚のある部屋だったが、アルテアの姿はないようだ。
(もしかして、鋏を見付けて満足してしまったのでは………)
しかし、その場合はこちらはより一層働かなくてはいけないので、ネアはひとまず密書の箱探しに没頭した。
沢山のガラクタや不思議道具を掻き分け、その部屋を探し終えてから、隣の部屋の探索も経て辟易としたので、趣向を変えてみようと階段を上がって二階の部屋の扉を開けてみる。
「…………ほわ」
「ネア?」
「子供部屋のようです。こういうお宅で子供部屋があるとぞくりとしますね………」
しかし、ここで逃げ出す訳にはいかないので、ネアはガチャリと扉を開けて子供部屋に入ってみた。
いつも以上にしっかりと三つ編みを握り締めたまま部屋を捜索してみると、おもちゃ箱の隣に、オルゴールのような小さな細工装飾のある木箱が転がり落ちている。
「見付けました!」
喜び勇んだネアが拾い上げようとしたその瞬間、伸ばした手をディノに押さえられた。
「ディノ………?」
「魔術が変質しているから、君は触らない方がいい」
「………良くない状態なのですか?」
「かなり、ね」
ディノの声は静謐だが厳しい。
見上げた魔物の目が怜悧に鋭い色だったので、ネアはディノがゆっくりと伸ばした手をさっと押さえ込んだ。
「ネア…………?」
「ディノが怪我をしたり、良くない影響を受けたら困ります。無理そうなら触らないで下さい」
「しかし、ここは魔物の内部だ。手ではなくとも、拾い上げなければ持ち帰れないだろう?」
「幸い窓の近くですし、壁を破壊してそこから他のものでつついて外に落とせば良いのです!」
「ご主人様…………」
「と言うことで、まずはそこの壁にばりんと穴を……」
そもそも、この祟りもの自体も調伏してしまう予定なので、ネアが組み立てた計画には一切の慈悲もない。
あくまでもアイクを建物として扱うネアに、魔物はふるふるしながらこくりと頷いた。
「そんなことをしたら、また大暴れだろうが」
「むぅ。働いてなかった使い魔さんが戻ってきました」
「選択の断絶で包んでやる。それで持っていけばいいだろ」
後ろから声がかかり振り向けば、戸口のところに寄りかかってこちらを見ていたのはアルテアだ。
漆黒のスリーピースのスーツもきちんと着ているし、手袋に帽子まで装着しているのに、なぜかそうされるとしどけない感じがして、少しだけどきりとする。
「ディノ、アルテアさんが可愛い系の所作を取り入れてきました。あざといです」
「おや、働いてなかったからかな」
「そんな訳あるか」
「それと、アルテア。この箱にかけられているのはシーの呪いだ。恐らくそれを守護として転用したのだろうが、理の系譜の呪いだから、君であれ手をかけるのは難しいだろう」
「………くそ、シーの呪いか。ろくでもないものを使いやがって」
「これを施したのは、随分と腕のいい魔術師のようだ。とは言え、シーの呪いなど早々手に入るものではないだろうから、品物として代々受け継がれたものなのだろう」
「となると、やはり壁を……」
「…………うん。でも、持ち帰るのは難しそうだから、ひとまずは判断を仰ぐにせよ、最終的には壊すことになりそうだね」
「壊すことは出来るのでしょうか?」
「それなら問題ないよ。あくまでも、触れるということに対して発動する反応なんだ」
そこでネア達は、アルテアが場を固定した状態でディノが壁に穴を開け、ネアが部屋に落ちていた積み木を床を滑らせて箱にガツンとぶつけて押し出す方式で、問題の密書箱を外に弾き出すことにした。
棒のようなものでつつくとなると、物を介しても箱に触れてしまうこととなるが、物をぶつける分には触れているということにはならない。
変質した魔術を警戒し万全を期した結果、とても原始的な方法となってしまった。
「では、穴を開けるよ」
「はい!」
「お前、くれぐれもおかしなことはするなよ」
「むぐぅ。積み木をしゃっと投げつけるだけなのです」
ディノは、よくある攻撃魔法の定型のように手を翳したり、詠唱をしたりはしなかった。
ただ、ひたりとその部分を見つめただけだ。
高位の魔物らしい万能さなのだが、いささかタイミングが読み辛い。
ガシャン、と壁が抉り取られた。
思っていた爆発のような派手な破壊ではなく、元々壁に切れ目を入れておいて圧力をかけたみたいに、比較的お上品に壁が外側に崩れ落ちる。
ぎしりと、屋敷の床がたわんだ。
しかしそれもすぐに抑え込まれ、ネアは手を横に薙ぐようにして積み木を密書箱に投げつけた。
がつっと音がして、箱が崩れた床のぎりぎりの所で止まる。
「むむ!」
ネアはすかさず次の積み木を床を滑らせ、密書箱はスコンといい音を立てて外に吹き飛んだ。
落ちた先は、ディノが結界で囲んでくれるそうなので、着地点の地面は汚染されるかもしれないが、密書箱を見失ったりはしない作戦である。
「やりました!」
「頑張ったね、ご主人様」
「では、これで…………むが?!」
がくんと足元が揺れ、ネアは積み木滑らせの間、腰を掴んでいてくれた魔物の手でさっと持ち上げられた。
最近のディノはご主人様から手を離さない方針のようだが、ネアとしても魔物のお口の中である今回ばかりは有難い。
「外側の術式も緩んだな。出るぞ」
帽子を片手で押さえたアルテアが、壊れた壁の所からひょいと外に飛び降り、そこにネアを抱えたディノが続く。
飛び降りた瞬間、ぐおんと鐘を鳴らしたような音がしてぶわりと風が巻き起こった。
その風に煽られて周囲の木々はみしみしと音を立てたが、その風はネアには届かないようだ。
風に千切れ飛んでばらばらと落ちてくる木の葉を見上げながら、ネアはふうっと息を吐いた。
「エーダリア様に通信をかけますね。祟りものさんは、…………いない」
ディノに抱えられたまま振り返ったネアは、先ほどまで瀟洒な屋敷があった場所ががらんどうになっていることに驚愕した。
まるで夢でも見ていたかのように、屋敷の姿はなく、そこには静かな森が広がっている。
屋敷があった場所には見事な木々がそびえ、下草が茂って山百合まで咲いていた。
どう考えても、そこに建物があったとは思えない有様だ。
「…………ほわ」
「大丈夫、姿を変えて隠れているだけだよ。覆いをかけているからすぐに見付けられるから、まずはこの箱をどうにかしてしまおうか」
「はい!エーダリア様をお呼びしますね」
「アルテア」
「ああ。アイクは探しておく。元々、それが俺の仕事だからな」
祟りものになった高位の魔物を処理するのは、この土地の手入れをするアルテアの仕事だ。
ふらりと茂みのほうに消えてゆくアルテアを見送り、ネアは、エーダリアに魔術通信で密書箱にかけられた魔術が変質している旨を伝えた。
「ひとまず、状態を確認されるとのことでした。エーダリア様でもどうにもならなければ、壊して欲しいみたいなので、お願いしますね」
「うん。ただ、触れさせないようにした方がいい」
「ええ。そうお伝えしますね」
屋敷の魔物が姿を消した今、森の中に唐突にぼこんと落ちている崩れた家壁は、何やらとても奇妙なものに思えた。
地面に落ちた密書箱は、積み木の一つと一緒にその崩れた壁の上に転がっており、硬い壁の上に落ちたが壊れたりはしていないようだ。
その時、がさりとすぐ側の茂みが音を立てた。
「……………む」
ネアは、その茂みの下からもそもそと這い出してきた生き物とぱちりと目が合ってしまう。
「ご主人様?」
「…………淡いクリーム色で目をうるうるにした、愛くるしいもちうさに出会いました」
「え…………」
ネアは一目見て、そのふわふわ兎に心を奪われた。
つまり、これが視認魔術効果の恐ろしさというやつで、まず間違いなく屋敷の魔物が擬態した姿だという気がする。
それはわかっているが、あまりにも愛くるしいのでじっと見てしまうのだ。
「………もちうさ」
「キュイ!」
クリーム色の餅兎は、涙目で首を傾げて、もちもちボディの短い前足を縋るように差し出す。
「ちょ、ちょっと理性が吹き飛びそうです…………」
「やはり、視認の固有魔術か。………ネア、これでどうだい?治ったかい?」
「まだ、絶賛愛くるしいままです」
「となると、固有魔術なだけでなく、理の要素もあるのか………」
困ったように眉を顰める魔物に抱えられたまま、ネアは、屋敷の魔物の恐るべき力に心から慄いていた。
世の中には、邪悪に愛くるしい生き物達がまだまだいるようだ。
取り敢えず、滅ぼすにしても一度抱き締めさせていただきたい所存である。