アザミの精と買い物家族
サムフェルで、揚げ物を食べさせてくれるお店を目指していたネア達は、思いがけない人物に遭遇した。
「む。何やら見たことのある人影がありますね」
「追いかけてきたのかな………」
お店の前にやけに目立つ男性が立っているなと思っていたら、ネア達の訝しげな視線に気付いたのかぱっと振り返った。
「あ、良かった!ここにいたんだ。エーダリアが食べ物の店を覗けばどこかにいるだろうって言ったくせに、見付けられなかったからね」
「と言うことは、エーダリア様も来ているのですね?もしや、何かあったのですか?」
揚げ物屋さんの前に立っていたのは、灰色の髪に擬態したノアだ。
ノアまでこの色合いの髪色に擬態してしまうと、ディノとネアで並ぶとお揃い感がなかなかにある。
一人だけ造作のレベルが違うので、ネアは灰色狼に紛れたムグリスな気持ちになってしまうのであまり推奨していない。
因みにとても目立つ美貌はそのままだが、無邪気なお嬢さん達などがいない場所なので、サムフェルでのノアは、高位そうだが何者だろうという誰何の眼差しを集めるばかりだ。
「エーダリアの気に入った魔術書に、夏霞の香が必要だっていう魔術陣があってね。どうせ買うなら、サムフェルに行こうよってなったんだけど、合流したいのにエーダリアは動かなくなっちゃうし、ヒルドもヒルドで自分の買い物してるしなぁ……」
「むぅ。お買いもの地獄なのはわかります。私ですらそうなのですから、エーダリア様にとっては宝の山なのでしょうね」
エーダリアとヒルドは、入場権利のあるノアの同伴者としてここにやって来たらしい。
あまりにも稀少な品々の揃えに前後不覚になっている同行者の代わりに、ノアがネア達を探してくれていたようだ。
離れていて大丈夫なのか不安になったが、ノアが離れていても魔術の糸で繋いでしっかり見ているからと、魔術の遠隔操作に長けた者らしい言葉で安心させてくれる。
「そろそろ、お昼にしようかなと思っていたところだったのです。この串揚げ屋さんにいるので、エーダリア様達のきりのいいところで合流しませんか?」
「うん。そうしよう!……………食事が終わるまでに合流出来るのかな」
「むぅ。半刻以上経ってしまうと、我々もここにはいない可能性が……」
「だよね。じゃあ、一度エーダリアとヒルドを捕まえてここに来るよ。並ぶお店みたいだし、君達は先に入れたら食べてていいからね。でも、一緒に食べたいから、急いで戻ってくるよ」
「ノアのその言い方を聞いていると、デート慣れしている感じが如実に出ていますね」
「ありゃ」
そこでネア達はお店に並ぶことになり、ノアはサムフェルの魔力に囚われてしまった二人を回収に行った。
二人の性格をよくわかっているようで、まずはヒルドを押さえてからエーダリアを引き摺ってくるとのことなので、お店に入れる頃には全員揃うだろう。
「思いがけず、みなさんと一緒になりましたね」
「うん………」
久し振りに二人きりでお出かけだったこともあり、魔物は少しだけしょんぼりしているが、まず間違いなく食後は別行動になる筈なので安心していいだろう。
その通りなのだろうが聞かれてしまうと失礼な話なので、こそっと耳打ちして教えてやれば、耳を押さえたままくしゃくしゃになってしまった。
艶麗な魔物を蹲らせてしまったことで、周囲の商人やお買い物客達から、一体何をしたのだろうという目で見られるのが悔しい。
「ご主人様が虐待する………」
「なぜなのだ」
「わーお、ネアってばシルに何をしたのさ」
「早かったですね、ノア。こちらは内緒話をしていただけですよ。勝手にくしゃっとなってしまうのが、ディノの最近の流行なのです。あら、…………エーダリア様?」
「光竜のナイフの柄が売っていたんだ………」
「まぁ!そんな凄いものも置いてあるんですね……」
ノアに連れ戻されたエーダリアが、この世の苦悩を一身に背負ったような目をしているのは、予算オーバーだがかなり欲しいものを発見してしまったからのようだ。
光竜の骨を使ったナイフの柄は、骨董屋でも目玉の商品であるらしい。
偶然にもバーレンの鱗を手に入れたばかりである元婚約者は、その柄に、竜の鱗を鍛えたナイフを差し込んで光竜セットにしたいようだ。
「うーん、あれって本物かなぁ。買い付けの際に商品履歴は魔術で洗い出すけどさ、代々一族で受け継いできた品物であっても、本当に光竜かどうかは怪しいよね」
「そ、そういうこともあるのか?」
「光竜だったらさ、もっと清廉な気配というか胸に染みる感じが残っていそうなものなんだよね。他の竜なんじゃないかな」
「………ノア、エーダリア様がとても心配なので、午後のお買いものでは一緒にいてあげて下さい」
「うん。そうしよっか。元々買う筈だったものも、まだ持ってなさそうだしね」
「あ、ヒルドさんも来ましたよ!」
ここで、ノアが呼びに行った時に丁度お会計中だったというヒルドも合流する。
丁寧に梱包された細長い木箱を持っているが、何を購入したのだろう。
ヒルドがエーダリアを放っておいて買い物をしていることなど想像出来なかったので、ネアは興味津々で木箱を眺めた。
「これですか?」
ネアの視線に気付いたヒルドが微笑み、そっと木箱の表面を撫でる。
あまりにも大切そうに撫でるのだから、かなり気に入って購入したのかもしれない。
「素敵なものでしょうか?」
わくわくと尋ねたネアに、ヒルドは微笑みを深めた。
サムフェルではシーだとわかると捕まって売られてしまう可能性もあるそうで、長い外套を着ている。
その姿で木箱を持っていると、旅人に見えなくもない。
本人曰く、捕まらないくらいの技量があるが、無駄な騒ぎは避ける主義なので着ているのだそうだ。
「私にとってはこの上なく。昔愛用していた剣を見付けまして。まさかこのようなところで出会うとは思いませんでした」
「………それは、…………こちらに来る前のことですか?」
「ええ、私の国があった頃に」
「まぁ、それってもしかして!」
「ヒルド、それは本当か?月光の剣を見付けたのか?!」
思わぬ発言が飛び出し、エーダリアも慌てて距離を詰める。
感慨深いのか、あまり多くを語らずに頷いたヒルドに、ネア達は顔を見合わせてわっと笑顔になった。
ヒルドは、自身で鍛え上げた剣とは別に、王家に代々伝わってきた月光の剣を持っていた。
捕らえられた時に、取り上げられるくらいならと海に投じたその剣が、こんなところで主人の元へ帰ってきたのだ。
声もなくはしゃぐネアとエーダリアの横で、魔物達はまったくもうと苦笑しながら音の壁を展開してくれている。
ここは、どこの誰がいようとも注視されないが、素晴らしい品物があるとなると話は別だ。
ヒルドの月光の剣は、そういう強欲な商人達が欲しがるものにあたる。
ヒルド達の一族が森と湖より紡いだ宝石に、月の魔物とシー、月の精霊が祝福を授け、更にその上から湖の結晶で覆ってから鍛えたという特別なものだ。
柄は光竜の王族の骨を使い、鞘にはヒルドの一族の王族の血と、森の結晶の様々な種をふんだんに使っている。
「わーお、そんなことってあるんだね。縁の道がどこかで出来たんだろうね。良かったね、ヒルド」
「そうかもしれませんね。…………色々と、今迄にないことがありましたからね」
「でも、そんなに素晴らしいものであれば、物凄いお値段だったのでは……」
ヒルドが財政難になったら嫌なので、ネアは、ほこりから貰った宝石を取り出すつもりで首飾りに手をかける。
その姿に苦笑してから、ヒルドは短く首を振った。
「剣が、主人だと決めた者以外には錆びついた姿のままでいるものですから、私財を投げ打ってでも買い戻すつもりでいたものの、思いがけず安価でしたよ」
「そうだったのですね!なんて偉い剣さんでしょう!」
「一度主人を決めると、主人が死ぬまではそれ以外の者を選ばない剣でして。………随分と、待たせてしまった」
「ふふ、きっとお互いに探していたのかもしれません。今は箱の中で安心して寛いでいますね」
大切な人に良いことがあるのは嬉しいものだ。
にこにこと笑顔でそう宣言すると、ヒルドはふわりとネアの頭を撫でてくれた。
ネアは、箱の中の剣に、もうヒルドの一族はいなくなってしまったが、ここにはヒルドにとって新しく守るべき主人がいるのだと教えてあげたくなった。
しかしそれはきっと、帰ってからヒルドがゆるりと語るのであろう。
「ちょうど、私達の番になりましたね」
そこで順番が来て、ネア達はお店に入った。
順番待ちでいきなり同行者を増やされるとむっとするので、ネアはあらかじめお店と後ろのお客さんには、五人客だと伝えてある。
とは言え後ろに並んだお客様達は、ネアのその言葉よりも、明らかに高位の生き物であるディノを見ることに夢中だったようだ。
サムフェルの会場に入ってから、その種の危険な視線は度々感じているので、ネアはディノに自分の身を守るように手を打たせている。
(大事な魔物の髪の毛を引っこ抜かれて、売りものにされたら嫌だもの)
つまりのところ、そういう興味の視線なのだ。
先程、櫛屋の前ですれ違った高位そうな美しい精霊の女性も、あちこちからあの髪が手に入れば売れるだろうかという視線を向けられて辟易とした様子だった。
サムフェルでは、高位の人外者が多く交差する。
その為に、人外者達は擬態していても、自衛の為に造作まではいじらない者が多い。
その弊害でもあるのだが、商人達の逞しさは天晴としかいいようがなかった。
「へぇ、これはいいお店だなぁ」
揚げ物屋さんの中は、入ってびっくりの空間だった。
ネアが呆然としたまま声もなくディノに手を引かれている中、エーダリアもあちこちを見回しては移動から遅れかけ、最終的にはノアに腕を引かれていた。
「………湖の上を歩いていますよ」
「これは敷物だね。誰か腕のいい紡ぎ手が、湖の表面をそのまま紡いだのだろう」
「ほわ………。そして、天井にはオーロラがあります」
「それもヴェールとして紡がれたものだ。やはりサムフェルに店を出すだけあって、優れた商人達から贔屓にされている店なのだろう」
「青みがかった黒いテーブルや椅子が、この素敵な空間に合って素晴らしいですね………」
外から見ていた時には小さな仮設店舗だったが、扉の奥には広い空間が併設されていたようだ。
扉を開けばそこは清廉な湖の上で、その上にテーブルが置かれ、客達や店員が行き交う。
天井にはオーロラがまたたき、香ばしい揚げ物の香りがするというまったくもって奇妙な空間だった。
ネア達が案内されたのは、湖の端の、菫の咲き乱れる岸辺にほど近い席だった。
湖の色に菫の花も楽しめるので、かなりお得な席だと言わざるを得ない。
「魔術調整をかけておくから、ヒルドは外套を脱いでも大丈夫だよ」
「ネイ、助かります」
「おや、ノアベルトもかけたんだね」
「シルと僕でかければ万全でしょ!さっき、精霊の最高位を見かけたから、念の為にね」
「最高位の精霊さんは、何の精霊なのですか?」
「精霊の最高位は死の精霊だよ。魔物は万象、妖精は闇、竜は光だったんだ。でも、最高位の精霊ともなると、ほとんど気体だから、あんまり意志とかはないけれどね」
ノアにそう教えて貰って、ネアは首を傾げる。
気体である死の精霊は、サムフェルに何を買いに来たのだろう。
そう尋ねると、ディノが教えてくれた。
「系譜の者の買い物に同行したのだろう。かろうじて同種族であれば意志疎通は可能だからね」
「そんな凄い死の精霊さんが荒ぶることはないのですか?」
「精霊はね、低階位から姿を持っているくらいの階位までは、感情的な生き物だ。けれど、気体になってしまうと途端に我欲をなくしておだやかな生き物になるんだよ」
「何でしょう。激しく生きて、色々浄化されていくのでしょうか」
「そうかもしれないね……。魔物よりは派生の理由が明確な生き物だけれど、精霊はその性質こそ不可解な生き物なんだ」
「不思議ですねぇ………」
なお、光竜を失った竜族は、一番の古参として水竜がいるものの、彼等が一番強いという訳ではない。
様々な種がおり、竜族自身もその性質を確認しきれていない為に、竜種全てを統括する竜族と言うものはいないのだそうだ。
有力な一族の王達が寄り合い、様々なことを話し合う会はあるらしい。
「統括や支配には向かない気質だろうけれど、ダナエも三席までには入る竜だと思うよ」
「む!ダナエさんはそんなに強いのですね!」
「水竜の王と同じくらいに長命だし、体を春闇に変えられる能力は稀なものだ。本来そのような曖昧な体の古い生き物達は、曖昧さだけに偏るものなのに、ダナエは立派に具現化出来るだろう?」
「なんと…………。そう考えると、ダナエさんとバーレンさんのお二人は、最強の相棒ですね」
「あ、ダナエからカードで連絡が来たんだよね。僕は、それっていいことだと思うよ。実質、悪食のダナエが暴れてもバーレンなら押さえられるだろうしね」
あまりにも豪華なペアなので、ネアは是非塩の魔物の転落物語を書いた作家に、その竜達の物語も書いて欲しいなと思った。
食いしん坊とその抑制者というだけかもしれないが、塩の魔物が不幸になるだけの話をあれだけ壮大に書けたくらいなのだ。
「お二人は、より素晴らしい人生を求めて世界中を旅するのだそうです。次は、どこかの国で、蒲公英の綿毛が荒れ狂うお祭りに行って、綿毛が美味しいかどうか試してみるそうですよ。なお、ダナエさん曰く、バーレンさんは少し小食だとのことでした」
「綿毛って美味しいのかな………」
「口の中が、もさもさしそうですよね………」
魔物達は謎の味覚にしゅんとしてしまい、メニューに注意を戻した。
揚げ物の内容自体は普通だが、このお店の売りは油の精の祝福を受けた、格別に素晴らしい揚げ油なのだそうだ。
素人にはちょっとよくわからないが、きっとさくさくで美味しいのだろう。
「私は、茄子とベーコンに、チーズとジャガイモの串と、オリーブとひき肉のトマト煮込みの丸い揚げ物、ほくほく香草仔牛の薄揚げにします!ふわふわ白パンに、流星で磨いた白い葡萄ジュースで」
「卵とチーズ………」
「ふふ、ディノは卵揚げがあって良かったですね。こちらは燻製ではなく、味付き卵のようですよ」
「味付き卵………」
未知の卵料理に挑む魔物はきりっとしているが、どこか不安そうな目をしている。
でもそれだけだとお昼には足りないので、ネアは他には何を頼むのか事情聴取に入った。
その間に、エーダリア達はそつなくオーダーを固めている。
「串揚げと、仔牛の薄揚げが有名みたいだね。僕はね、……」
「チーズと川魚に、仔牛、鶏肉とトマトだな。パンは固めのもので、麦酒ではなく白葡萄酒で」
「では私は、仔牛と、海老のものと、茄子と夏野菜のにしましょう。クロワッサンと、紅茶で」
揚げ物はスピード勝負でさっと届き、あつあつのままタルタルソースか、アンチョビソースでいただく。
ディノの卵のものは、卵に味があるのでそのまま齧っても美味しかったそうで、魔物はこの串揚げを三本も食べた。
その様子を見ていたノアやエーダリアも挑戦してしまったのだから、卵串揚げ恐るべしである。
ネアとヒルドはマイペースに好きなものを堪能し、食後の飲み物もいただいて幸せな時間を終えた。
「この後、お前達はどうするのだ?」
「まだまだ見ていないお店があるので、そちらをひやかしに行きます。布屋さんに注文したポーチが出来上がるまでまだ少しありますし、たいへんに謎めいた上げ下げ屋さんにも行きたいのです」
「上げ下げ………屋?荷物の運搬代理とかではないのか?」
「いえ。それが、翼のある生き物さんに跨らせて貰い、ふわっと上空に上がって戻って来てくれるのです。主に飛行魔術に悩む方向けの体験を売るお店なのですが、翼を失くしてしまったけれど過去の栄光が忘れられない方や、一度だけでいい風になってみたい!という方にも大人気のようで、一度お客さんを上げ下げしているのを眺めてみようと思っています」
「わーお。これだから商人は。何でも売りものにするんだから、大したものだよね」
「因みにノアには、既にチーズボールというお土産を買っていますので、エーダリア様とヒルドさんは、見付けても買い与えないで下さい」
「チーズ、…………ボール」
塩の魔物の目がすっかり野生の眼差しになってしまったのをちらりと見て、エーダリアとヒルドは厳しい目でこくりと頷いた。
隣にジャーキーボールもあったが、二種類も買うとカオスになるのでやめておいたのだ。
チーズボールとは、一見普通の犬用ボールだが、はぐはぐ甘噛みしていると無限にチーズの味がして美味しく夢中になれるボールだ。
遊んで欲しいあまりに荒れ狂うペット用のものだが、厳めしい姿の魔術師や、筋骨隆々とした竜が買っていったりと、かなり多くの者達がペットの永久ボール運動に苦しんでいたらしい。
ネアはこれを、ノア用に予備を含めて二個と、有事用に三個買ってある。
有事用は獣系の敵に襲われた時に投げてみようと思っているのだが、お気に入りの獣を捕獲するときにも使えるかもしれない。
「私達は、星屑屋を見てみる予定だ。お前が買ってきてくれたシロップの質がかなりいい。他の材料も見てみたくなった」
「そういえば、恋を叶えるシロップも売っていましたよ?」
「……………いや、魔術の道具でいいんだ」
「それと、我々は当初の目的であった、夏霞の香も探さなくてはいけませんからね。やはり別行動が宜しいでしょう。ただ、ネア様。くれぐれも人魚は買われませんよう」
「ヴェルリアの海で追いかけられて以来、人魚さんはすっかり苦手です。ウォルターさんも、当分見たくないと仰っていました………」
五人は美味しい昼食を食べ終えて解散した。
昼食代は、いいことがあったからとヒルドが奢ってくれ、ディノはそういう奢られ方が初めてだったので驚いたように目を瞬いていた。
エーダリア達と別れてから、ネアは魔物におずおずと今回の奢り方について尋ねられる。
「いいことがあると、誰かに食事を奢るものなのかい?」
「そうですね。気分がいいので、みんなに美味しいものを食べさせてあげようということは時々あります。幸せの御裾分けのようなものですね」
「踏んで貰った日も……」
「いえ、そういう日は御裾分けしなくて結構です。自分の心の中で喜びを噛み締めて下さいね」
「わかった」
危うく、ご褒美の度に御裾分けをされて公開処刑にされかねなかったご主人様は、ふうっと額の汗を拭った。
「ディノ、見付けましたよ。上げ下げ屋さんです。…………ほわふ」
「今持ち上げているのは何だろうね」
「立派な翼の生えた、…………樽?」
「樽の精かな。酷使された樽は、ああして翼が生えてきて逃げ出してしまうんだよ」
「ここで酷使されているような気がしなくもありませんが、樽には乗りたくないです………」
「うん。やめようか」
「むぐ。樽でさえなければ……」
人だかりの向こうでは、大きく力強い翼の生えた樽に、いそいそと跨るご老人がいる。
選択の魔物に翼を捥がれたのだと話しているが、それはまさかネアの使い魔的なやつだろうか。
樽に括りつけられた手綱を握って、ばさりと大空に舞い上がる。
そしてまさしく、異世界版翼のある生き物による高い高いの要領で、舞い上がったり急降下したりを繰り返し、一定数できちんと元の場所に戻ってきた。
アトラクションだと思えば乗り物が樽でも仕方ないと、自分を納得させてネアはその場を立ち去る。
その後二人はあちこちの店を覗いて歩き、健康志向の祝福がある道具を売るお店では、足や膝に負担をかけない柔らかい革の室内履きを購入し、どうしても食べ物がない時に齧ると一番食べたいものの味になる団栗も五個購入した。
「………ご主人様」
「あら、どうしました?」
まだ見ていないお店もあるが、きりがないのでそろそろ布屋に戻ろうかなと思っていると、反対側の店の並びを見ていた魔物が、ネアの影にさっと隠れてしまう。
何か怖いものでも見たのだろうかと思ってそちらを見れば、ネアも瞠目した。
そこに居たのは、艶やかな紫色の全身にびっしりと棘を生やした生き物だった。
生き物に棘が生えているというよりは、のっぺりとした土偶のような生き物で全身棘だらけの、棘の精のようなお姿である。
「…………なにやつ」
「ネアの話してた棘人間ではないのかい?」
「私も実物は見たことがないんですよ。しかし、話に聞いていたのとよく似ていますが、こちらの方は女性のようですね」
ネアも知らない生き物だとわかると、魔物は勇気を振り絞ってご主人様を守る体勢に入った。
さっと持ち上げられて頼もしい奴めと微笑んだネアは、あの生き物は決して狩ってはならないと言われて半眼になる。
「棘人間を狩ったりはしません…………」
「どうやら、樽に乗りたいみたいだよ………」
「確かに、あちらの方をじっと見ていますね」
その顛末はあまり見ない方がいい気がしたので、ネア達はその場を離れて布屋に出来上がったポーチを引き取りに行った。
道中、愛くるしい俵型の毛皮生物を売っているお店があり、ネアが立ち止まって動かなくなる事件が勃発したが、荒ぶった魔物がご主人様を抱えて持ち去った為に、ネアはキュイキュイ鳴いて飼って欲しいとせがむ俵毛皮達と引き離された。
「むぐ!ポケットの精ならポケットで飼えるのに!」
「君はポケットの中を温めて貰わなくても、温かいコートを持っているだろう?」
「淡い緑色の子が最高に愛くるしかったのに………」
「ご主人様、あれでも一応は精霊なのだから、安易に手を出してはいけないよ」
「むぅ。精霊さんだと知るとぞくりとするのは、もはや変えられないのでしょうか………」
ポケットに忍ばせておき握り締めると喜んでキュイキュイ鳴くポケットの精は、冬場にコートのポケットに潜ませるといい、カイロ代わりの生き物なのだそうだ。
片手で握り締めやすい俵型の形をしており、何とも言えない癒し効果のあるマシュマロボディなのである。
だが確かに、ポケットに突っ込んだまま忘れてしまうと、悲しみのあまりポケットを齧り出すと注意書きがあったので、精霊らしい一面も持っているようだ。
「ところでディノ、どうして精霊さんには、精霊という呼び名のものと、精までしか言って貰えない子がいるのでしょう?」
「階位と、その性質の違いがあるんだよ。精霊は自然から成り立つものだからね。まだ精霊と呼ぶには若い種族のものは、精で呼び名を止めるんだ。他にも、精霊に区分されていても妖精に近いものだとか、幾つか理由があるんだよ」
「むむぅ。奥が深いのですね………」
戻ってきた布屋では、店主がいい笑顔で出迎えてくれた。
高価な材料を注文したこともあるが、新しく高位の顧客を得たこともご機嫌の理由であるらしい。
通常期は、ザルツにある音楽堂の裏手に店を構えているそうなので、ネアは今度また列車の旅をしたときにでも行ってみようと思う。
「まぁ、何て可愛らしいんでしょう!想像してたより、ずっと素敵です!」
受け取ったポーチは素晴らしい出来だった。
しっとりとした起毛素材のポーチの肌触りも素晴らしいし、がま口部分も綺麗に縫製されていて、ぱちりと閉まりやすいのに開ける際に苦労することもない。
そして、雨上がりに晴れた日の夜の色という美しいものを紡いだ糸は、ふくふくむくむくの愛くるしいムグリスディノのシルエットを、見事に表現していた。
あまりの可愛さにそのシルエットを見ているだけで心が和む。
しゃきんといきり立ったちびこい三つ編みもきちんと表現され、これはもうお気に入りのポーチになるしかない。
ネアがきゅっとポーチを抱き締めると、魔物もきゃっとなるので、ディノ的にもこのポーチは嬉しかったようだ。
「ネア、棘人間がいたんだよ!」
帰り際、目抜き通りのところでエーダリア達と幸運にも合流出来た。
サムフェルは夕方で閉じてしまうので、お互いに時間ぎりぎりまでいたことになる。
「…………ああ。実際に見ることになるとは思わなかった」
「ネア様もご覧になったのですね。近くの店の店主によると、アザミの精なのだそうですよ」
「とげとげさんは、アザミの精だったのですね。あのお姿ですと、どうやって座ったり寝たりするのでしょう………」
「それが、あの棘の皮は脱げるそうでして。あの姿は、アザミの精なりの正装なのだそうです」
「…………やはり、奥深いですねぇ」
「脱げるんだね………」
感慨深く棘人間について語り合うネア達の横で、なぜかノアが立ち尽くしている。
もしやまた過去に一悶着あった女性でもいたのかなとネアが眉を顰めると、気付いたエーダリアが声をかけてくれた。
「…………どうした?」
おそるおそる声をかけられて、蒼白になったノアが涙目で振り返る。
かなり怯えているので何事だろうと身構えたネア達に、塩の魔物は震える指でとある場所を指した。
「………ねぇ、あれってさ………」
ノアが指差した方を見た途端にぴゃっとなったディノは、ネアの背中に隠れると震え出してしまう。
エーダリアとヒルドは、何とも言えない目をして残念な魔物達を見守っていた。
(人面魚……………なのだろうか)
ノアが見付けてしまったのは、ふくふくとした鱒のような魚の頭が可愛らしいコグリス仕様になったものだ。
にゃーんと鳴きそうな朗らかな猫顔のお魚は、それを買い付けてきたらしい大柄な商人の手によって水槽ごと運ばれている。
たぷたぷと揺れる水に合わせてゆらゆらと動きながら、そのコグリス顔の魚は怯える魔物達の方をじっと見ていた。
「あの顔だと特に怖くはないですね」
「ああ。寧ろ、なぜあの顔になったのか気になるな」
「ネイ、隠れるのは構いませんが、外套を引っ張らないで下さい」
その帰り道、ネア達は、怯える魔物を宥めすかして帰宅することになった。
サムフェルの会場を抜けウィームに転移すると、余程怖かったのか、ノアは銀狐になってヒルドの外套の下に潜り込んでしまったくらいだ。
リーエンベルクに戻ると、怖くてボールを追いかけて遠くまで行けなくなった銀狐は、エーダリアの足元でチーズボールをはぐはぐするばかりになり、ディノは一人で顔を洗えなくなった。
明日から、祟りものの館討伐があるので、ネアは少し心配である。