表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
477/980

サムフェルと大事なポーチ


その日、ネア達はサムフェルに来ていた。

サムフェルとは夏市場のことで、市場に入れる資格がある者にしか開かない扉の向こうに広がる幻の市場である。

その入場制限はかなり厳しく、各種族の第十二席までと、相応しい品物を持つ商人から紹介を受けて買い手としての資格を得た者である。



エーダリアもとても来たがっていたのだが、避暑地でとても素晴らしい魔術書を見付けてしまったようで、今日は書庫に引き篭もってしまった。

本来なら、リーエンベルクを開く前に戻り、無人の内にリーエンベルクの基盤を調整する予定だったらしいが、こうなってしまうと手がつけられないそうで、ヒルドも一緒に残ることになった。


更には人面魚を恐れるノアも、他の誰が側にいるよりも人面魚について知っている者に一緒にいて欲しいと、エーダリア達の側から離れないようだ。

となれば、もし人面魚が現れたら守って貰うつもりなのだろう。


ディノもかなり怖がってしまっているので、人面魚が現れたら水から上げてしまって地面にでも放置すれば滅びるとネアは言ったのだが、魔物達はかなり警戒しているようだ。

万が一この世界にも人面魚がいたらどうなるのだろうと、ネアは少し心配だった。


避暑地に残るエーダリアからは、夏星の雫のシロップを二本頼まれ、ネア達はサムフェルに向かった。




「ディノ、夏星の雫とは、例のやつですか?」

「うん。それだと思うよ。一粒を煮出してしまうから、そこまで希少性は高くないけれどね」

「煮出す…………」


希少性の高い宝石が煮出されてしまうことはショックだったが、そうして抽出されたエキスならば多くの人々に行き渡るのかもしれない。



そして、二人が訪れたのは、とある森の中にある大きな樫の古木だ。

盛り上がった根の瘤が立派だし、天蓋のように茂った枝葉も見事なものだが、どう見てもただの木にしか見えない。

しかし、その幹には営業中ですという看板が

かかっていた。



「どうやって入るのでしょう………」

「この木の向こう側に併設させた空間なんだよ。このまま進んで大丈夫だからね」

「むぅ。幹にごつんとなって、鼻がへしゃげたりしませんか?」

「資格のない者はそうなるけれど、君は私の同伴者だからね」

「ちょっとドキドキしますが、わかりました!」


そう言いながらも、門をくぐる間だけ持ち上げてくれた魔物の三つ編みをしっかりと握れば、魔物は頬を染めて可愛いと呟いている。



「さぁ、入るよ」



ディノは、そのまま真っ直ぐに入った。

ひんやりした霧の中を歩くような感覚があり、短いトンネルのようなものをくぐり抜けるよう。

次の瞬間そこはもう、賑やかなサムフェルの中であった。



「ほわ…………」


ディノに地面に下ろして貰いながら、ネアはこの奇妙な夏市場に魅入られた。



(なんて奇妙で、なんて美しいのかしら)



まだ全容が見えないが、二人が出たのはサムフェルの目抜通りであるらしい。


森の中に寄生するような不思議な市場は、この目抜通りだけは少し開けている。

左右に大きな木が立ち並びまるで並木道のようだが、並んでいる木は様々だ。

花盛りの木蓮や木槿があると思えば、かなり雰囲気のある柳の大木などもある。

店舗も様々な形があるようだが、やはりこの目抜通りに店を構える者達はそれなりに有名な者であるらしい。


こうして短い時間を見渡しただけでも、様々な商人やお客がひっきりなしに挨拶に来ているようなので、ここは彼等にとっての社交場でもあるのだろう。


「ディノ、………あれは何ですか?」

「死霊屋だね。砂漠や海の底から、死者の国に行きそびれた死霊を集めてくるんだ。禁術使いの魔術師や、死霊を好む精霊くらいしか買わないよ」

「ほわふ…………」


その店は小さいなりにもしっかりとした店舗で、漆黒の壁の店の中には青白い顔をした様々な服装の死霊達が、きらきらと光る青い紐で繋がれて立っていた。

ボラボラに似た造形に蜥蜴の尻尾のある生き物が、二人ほど選んで買ってゆくようだ。


ネアは少しだけ怖くなって、その店の前を通る時はディノの手を掴んでいた。

魔物は恥じらってしまうが、これなら安心だ。


死霊屋の隣には、大きなブナの木の枝に色鮮やかな鸚鵡を止まらせたターバン姿の商人がいる。

良い使い魔だと話しているので、あの鸚鵡達が使い魔になるらしい。

その奥には水晶の飾り棚が美しい煙管屋があり、さらに奥の木蓮の木の下には可愛らしい青と緑のストライプ柄の屋根を持つ屋台風の店舗があって、深緑の背の高いバケツに入った様々な花を売っていた。


「ディノ、まずはおつかいを済ませてしまいたいのですが、あのお花屋さんを見てみたいです!」

「うん、そうしよう。君が喜びそうなお店だね」

「はい!」


ふんだんに活けられた花を眺める新しいお客に、花屋の店主はあれこれと説明してくれた。

明らかに高位の人外者であるディノと一緒なので、良いお客に違いないと判断したのだろう。


「こっちはね、良い夢を見られる薔薇だ。望む夢を見られるから、自分へのご褒美に買ってゆく者が多いよ。ただし、溺れると身持ちを崩すから、うちでは一度に五本までしか売らない」

「まぁ!素敵な薔薇なのですね。確かに、こういうものがあれば夢中になってしまう方もいるでしょう。ディノ、これを買いますね」

「…………見たい夢があるのかい?」


ディノは少しだけ心配そうだったが、もふもふ天国と、雪菓子食べ放題、そして去年のイブメリアの劇をもう一度見るのだと言えば安心したようだ。

夢でも浮気を心配されるのだから、大変に遺憾である。


(それか、家族の夢を見るのかなと心配されたのかしら?)


確かにネアもそれを考えたが、もしそんな風に夢の中で出会ってしまえば、また心の奥の方にある傷が開いてしまいそうな気がする。

家族については、このような道具の力に頼らず、自分で思い出して懐かしむ程度の明瞭さが一番なのだ。


そのお店では更に、夏の通り雨の後に出る夜の虹に触れて結晶化したオリーブの小枝を買った。

磨り硝子のような質感で綺麗に結晶化しており、陽光にあたるとプリズムのように光る。

とても綺麗に光を散らすので、窓辺に置いておこうとネアは嬉しくなった。


「さて、まずはエーダリア様のシロップですね。どのあたりのお店に売っているのか、ディノはわかりますか?」

「砂糖屋か星屑屋だろうね。この季節の市は星屑屋が大きいから、恐らく星屑屋だろう」

「と言うことは、他の季節の市場もあるのでしょうか?」

「冬の市場はあるよ。冬市場の場合は、満月の夜に開催するんだ」

「とても素敵そうですね。でも、収穫の多そうな春と秋がないのがちょっと不思議ですね」

「そちらの系譜は、とにかく忙しいんだ。豊かなことも楽ではないと話しているのを聞いたことがあるから、こうして離れた場所に商品を卸しに来るのが難しいのだろう。不定期に開催されることもあるから出会えた場合は幸運なんだ」

「むむ!そう聞くと、いつか行ってみたいですね」

「春の市場は五年前だけれど、秋の市場は六十年前だったかな。そろそろ開催されるといいね」


ただでさえ、この闇鍋のようで万華鏡のような市場に、ネアは大興奮なのだ。

更に季節ごとにそのような催しに出会えるかもしれないと思えば、楽しくなってしまって少しだけ弾んでしまう。

にこにこと魔物を見上げれば、ディノはなぜだか誇らしげで幸せそうに目を細めた。


「不思議だね。………君と来てみれば、もう楽しいんだ」

「ふふ。私はこれからこの市場を堪能し尽くす予定なので、そう言って貰えると安心して大はしゃぎ出来ます!ディノ、サムフェルに連れてきてくれて有難うございます」

「うん」


二人は、この目抜き通りにあるという星屑屋を目指した。

お店の位置を尋ねたラムネ店の店主曰く、見れば一目でわかるということなので少し歩いてみる。

道を尋ねがてら買った飴玉のように丸いラムネ菓子は、口の中に入れるとしゅわりとライチの味がして解け、最後に爽やかな程度に薔薇の香りが漂った。


「あれかな」

「あれだという気がします。しゅわりと光っていて、とても綺麗ですね」


お目当てのお店は、大きな百日紅の木の下にあった。


見事な萌木色の絨毯を地面に敷き、テント風の仮設屋根のようなものを建てている。

屋根の木組みからは大小の鳥籠が夥しい程にぶら下がっていて、その中には様々な星屑が閉じ込められてぺかぺかと光っていた。

店主のご婦人が腰かけた絨毯の上には木箱が並び、その上には専用の布袋の上に置かれたシロップが、華奢で優美な香水瓶のようなものに入って売られている。

店主の奥には大鍋が幾つもあって、どうやらそこでは星屑が煮出されているようだ。


さっそく店の前まで行ってみれば、他の客達が買い物をするのを見ているのも楽しい。

ある男性は、自分の店に飾るのにとベガから零れた星屑を見事な銀色の篭で買ってゆき、それを見ていた男性も、負けじとアルタイルの星屑を二個も買っていった。

そんな二人の男性の影で座り込んで真剣に悩んでいた女性は、恋に効くという流れ星を幾つか買うようだ。

情愛の水色に、愛欲の赤、魅縛の紫を買っていったのでかなりの効果をもたらすに違いない。


「夏星の滴のシロップを二本下さい」

「はいよ。うちのシロップは新鮮で質がいいからね。くれぐれも、棚の奥にしまい込んで忘れたりしないように」

「はい。おつかいですので、このシロップを必要とされている方にもそのように言い含めておきますね。わぁ、何て綺麗な色のシロップなんでしょう!」

「そりゃそうさ。夏星は夏の草花の色を映すいい星だ。でも、これだけ色が澄んでいるのは新鮮だからなんだよ」


夏星の滴のシロップは、澄んだ水色と淡い黄色、そして鮮やかなピンク色の三層になっていた。

実際の夏星の滴も中心からこのように色が混ざり合う綺麗なものであるらしい。

様々な効能があるが、一番強固であるのは繁栄の祝福で、小さなものを豊かに茂らせたり、枯れた土地を豊かにしたり、或いは少ない効果を潤沢に浸透させるのだそうだ。


「この硝子管に入った星屑の欠片は、どう使うのでしょうか?」

「夜光灯だよ。振ると星屑が明るく光るんだ。中に入っている星屑の種類で光の色が違うから振ってみるといい」

「振ってしまっても、商品は摩耗しませんか?」

「光るのは星屑の性質だからね、何かを消費したりはしないんだ。硝子管が壊れるまで使えるよ」

「まぁ!」


すっかり嬉しくなったネアは、ペンライトのような硝子管をしゃかしゃかと振ってみた。

中に入っている宝石片のような星屑達は、振られることでぺかりと輝き出す。

ディノと一緒に片っ端から振ってみて、紫陽花色のものと、夏らしい檸檬色にエメラルドグリーンのものを買った。

これを暗くした部屋に置くと、星屑達が天井に星空を映すのでプラネタリウムとしても使えるそうだ。

これは思っていたよりもずっと安かったので、思いがけない掘り出し物を見付けた感じで嬉しい。



「ディノ、これを買えただけでもいい一日だと先程の小枝でも思ったのに、また幸福度を更新してしまいました!」

「ネアは光るものが好きなのかい?」

「やはり光っていると特別感がありますよね。でも、こういうものでなくても………ディノ、大きな水槽があります………」

「おや、人魚だね。観賞用に買う者もいるが、人魚は貞節を求める生き物だから扱いが難しいんだ」

「ほわ………」


小花が咲き乱れる若干野性的な道だが、賑やかな王都の大通りのように人々の通り道となっている目抜き通りのその反対側に、水晶の大きな水槽を目玉商品にしているらしい人魚屋があった。


一番大きな水槽に入っているのは、鮮やかな檸檬色と朱色の美しい人魚で、今も数人のお客がうっとりと見惚れている。

サイズは様々であるようで、店頭には金魚鉢のようなものに入って売られる人魚や、試験管のような容れ物に入って売られる最小の人魚がいる。

特に、試験管サイズの入れ物のものは、ベラのような色鮮やかな尾が目を惹き、何本も買ってゆくお客も多い。


「この管入り人魚は、淡水でも育ちますし、月に一度スプーン一杯の砂糖を与えるだけで済みますので、餌代もかからないのでいいお土産になりますよ。ただし、他の人魚と一緒にすると喧嘩が始まりますので、くれぐれも同じ水槽に入れませんよう。複数買いされる方は、かならず水槽を分けて下さいね」


そんな店主のうたい文句を聞き、ネアはハムスターや小鳥のような扱いなのかなと首を傾げる。

しかし、小さくて色鮮やかで綺麗だが、やはり人型をしているのでネアは少し気が引けた。


僅かにしゅんとしたネアに、ディノはあの小さな人魚は人型はしていても、知能程度は食卓に上るお魚くらいなのだと教えてくれる。

だからこそ人々は罪の意識なく水槽で愛でられるそうで、ヴェルリアの王宮にもこの人魚を収集していることで有名な文官がいるのだとか。


ネアは、ヴェルリアで目玉を差し出されてたいそう恐ろしかったので、人魚はすっかり苦手になっていた。

大きな水槽の人魚を遠くから見るだけで人魚屋には近付かず、ディノが、ご主人様が好きそうだと言って見付けてくれた糸巻屋に直行する。



「ほら、ここは珍しい糸ばかり売っているようだ」

「む!この糸は何でしょう?透明な濃紺で微かにきらきらしていて、ものすごく綺麗な糸ですね」

「夜の系譜のものだね……」


何とも素敵な糸をさっそく発見し眺めていると、鷹のような目をしたご老人が出てきて、その糸の説明をしてくれた。


「そいつはね、雨上がりに晴れた日の夜の色を紡いだものだ。まだ月が上がる前の色だけを紡いでいるから、星の光しか内包してないのさ。雨のお蔭で夜の色が澄み渡り、何ともいい色になっているだろう?」

「こんな糸を見たのは初めてです!お隣の白い糸も珍しいものなのですか?」

「ああ、隣は死者の王の靴跡を紡いだものさ。昨今、この糸を紡げる職人は少なくなったから、かなりの希少商品だね」

「ウィリアムさんの………」

「ウィリアムの………」


そんなネア達の呟きで、店主は、このお客達は死者の王の知り合いだと察したらしい。

顔色を白黒させながら、ネアが最初に目をつけた、雨上がりに晴れた日の夜の色を紡いだという糸を少しだけ値引きしてくれた。


店を出ると、魔物が少しだけ困ったようにネアの頭を撫でる。


「もっと買えばいいのに。いくらでも買ってあげるよ?」

「ふふ、こうして少しずつ揃えて行く感じが狩りをしているようで楽しいんです。この量ですのでお洋服などには使えませんが、糸巻屋さんに教えて貰った布屋さんで、可愛いポーチにして貰おうと思いまして」

「ポーチ……」

「ええ、小さなものを入れておく、長財布のようながま口のポーチです。そこにこの糸で刺繍を入れて貰おうという魂胆なのです!」

「どんなものを刺繍するんだい?」

「この夏の思い出として、ムグリスディノの刺繍にします!あの愛くるしい姿に出会えた記念にしましょうね」

「ご主人様………」


ディノとしては複雑だろうかと心配だったが、ご主人様が自分の姿を模したものを品物で作ると知り、ディノはすっかり喜んでしまった。

嬉しそうに目元を染め、ネアと一緒に布屋さんを探してくれる眼差しもきらきらしている。


「あれじゃないかな」


張り切ってしまった魔物に先導され、ネアは布屋さんのある一本奥に入った区画に足を踏み入れた。


「ほわ………。こちらは少し暗くなりますが、雰囲気があってとっても素敵ですね」


見事な木々の枝葉が茂っているお陰で、少しでも中に入ると随分と薄暗くなる。

その代りに、立派な木の枝にはいくつものランタンが下がっており、ぼうっと店々を照らしていた。

数えきれないほどのランタンが灯り、まるで星空の様に幻想的に森の中を煌めかせる。

そこに微かな木漏れ日の影が落ち、何とも秘密めいた空間を作り上げていた。


「この辺りは、陽光で変質しやすいものの店も多いようだね」

「星屑屋さんや糸巻屋さんはこちらでも良さそうですが、あの二店舗は中々の繁盛店のようでしたので、あえて表通りにお店を構えているのかもしれませんね」

「向こうの木の奥が布屋のようだね。ここは、煙屋かな……」

「煙………」


瓶詰にされて売られているのは、様々な煙だ。

特別な香料をいぶした煙などは初心者用のようで、罪人を火刑にした時の煙や、高名な魔物の煙草の煙、煙の精霊の切れっ端に、各戦場の煙の詰め合わせ。

随分玄人好みのお店だなと思って通り過ぎれば、その隣は影を売るお店でびっくりした。


(影を失くした人用の、代理の影なんてあるんだ………)


反対側には骨売りがいる。

魔術の道具に使う各種骨や、失くした骨の再生なども請け負ってくれるそうだ。

明らかにウィリアムの系譜の者に違いない骸骨仕様の生き物が、腕周りに支障があるのか熱心に相談をしていた。

骨売りの店の隣には、魔術用の紙を売る立派な店がある。

濡れもの厳禁という看板が出ていて、水の系譜のお客様もご遠慮くださいとのことだった。


「布屋さんはこちらですね!」


そんな並びにあるのが、糸巻屋の紹介してくれた布屋だ。

布や織物を扱う店は何店舗かあるそうだが、こちらの店は、商品数はそこそこだが品揃えが良く、買った布を他の商品と合わせて小物に加工してくれるのが売りだ。

これについては、お薦めの布が素人に駄目にされるぐらいなら、加工も承るといった店側の矜持もあるのだとか。


「専用の夜柳の棚があるということは、随分昔からある店なのだろう」

「その棚は、稀少なものなのですか?」

「今はもうなくなってしまった木でね、夜の帳を養分に育つ石の柳だったんだ。木材のように加工出来る上に、夜闇に浸すだけで中のものを最良の状態に保つ素材だったからね、あっという間に全ての夜柳が世界中から消えてしまったそうだよ」

「悲しいことですが、夜柳さんは優秀過ぎたのですね………」


衣料に美術品や古書の保管、魔術符から高価な香木に剣や杖などの保管棚としてまで。

状態保持の魔術を常用出来ない階位の者達にとっては、この夜柳の保管棚はまさに喉から手が出る程に欲しいものだ。

そんな夜柳を布見本の保管棚として持っているこの布屋は、それだけ古くから布屋を営んでいるのだろう。


(木炭のような色で、化石になった木みたいに硬くてすべすべしている。綺麗な木だったのだろうな)


カウンターのような横広の棚は、布見本を収納した十センチ程の底の浅い抽斗がいっぱいある。

それぞれの抽斗には流麗な金色の文字でしまわれている布の特徴が書いてあり、“麻布”や“絹”という無地布の素材や、“花柄”“水避けの祝福”“火避けの祝福”などあれこれと区分がある。

“なめし皮”といった抽斗もあるので、毛皮のようなものの取扱いまであるのだろう。


その全てを開けてみるのも魅力的だったが、それを始めると帰れなくなる自信があったネアは、素直に店員さんに欲しい布の条件を伝えてみることにした。

声をかければ、ご店主らしい髭の男性がこちらにやって来る。

こういう場合、明らかに高位というディノの容貌は頼りになるものだ。


「どのような布地をお探しでしょう?」

「白か白灰色のような色味のもので、刺繍をお願い出来る程度の厚さの、天鵞絨のような布地はありますでしょうか?」

「ふむ。布見本の棚の一番左側の上の抽斗ですな。どのようなものを作られる予定ですか?」

「糸巻屋さんからとても素敵に加工してくれるとお薦めされたので、こちらで制作までお願いしようと思っています。十センチ強から十五センチ程度の幅のポーチを作っていただきたいのです」

「マチはつけますか?」

「封筒型ボタンやファスナーであれば、マチはいりません。がま口型があれば少しだけ作っていただきたいです」


ネアの要望がかなり固まっているからか、利用予定の白い布が高価であるからか、或いはやっぱりディノのお蔭か、店主は灰色の目をきらりと光らせた。

乗り気なようで、ネアの注文にも熱が入る。


「糸を見せていただいても?」

「ええ。こちらの糸なのです。ポーチの真ん中か、デザインによっては下側の端っこに、真ん丸ムグリスに三つ編みのシルエットを刺繍して下さい」

「………ムグリスに三つ編み……。何か、特定の個体があるのですね」

「はい。ディノ、ちょっとだけ参考擬態をお願いします」

「え…………」

「ディノポーチを作るのですから、やはり最高のものでなくては」

「ご主人様!」


容易く乗せられてしまった魔物は、ぼふんとムグリスディノになると、夜柳のカウンターの上にきりっとした眼差しで乗っかってくれた。

モデルになるからと意気込んでいるのか、三つ編みもしゃきんとしている。


「…………これはこれは」

「この愛くるしい姿に出会えた記念に、刺繍を入れた小物を作りたいのです。出来ますでしょうか?」


店主は美麗な魔物がいきなりムグリスになったので驚いていたようだが、ネアは、ムグリスディノが綺麗な真珠色だったことに気付いた。

白い糸はウィリアムの靴跡しかなかったので諦め、ポーチの方をムグリスディノの手触りを少しだけ思い出させてくれるような起毛素材で、かつ白い色にしたかったのだと、イメージの元がわかってしまったかも知れない。


「形としてはこの上なく刺繍しやすい形状でございますね。このような感じで宜しいですか?」

「まぁ!そっくりです!ディノ、ムグリスディノがいますよ!」


店主は注文用紙を取り出すと、さらさらっと素敵な羽ペンでムグリスディノのシルエットを描いてくれた。

ぱっと笑顔になったネアに、ディノも驚いたように自分の形を眺めて頷いている。


結局ネアは、ほんのり青い白色の夏の朝靄を織り上げた天鵞絨に、白銀に近い艶消しの淡い金色の金具をつけ、がま口タイプのポーチを作って貰うことにした。

金具が少し高かったので悩んでいたのだが、隣で目をきらきらさせている魔物の手前、安価な方でとは言い辛くなってしまったのだ。


お金を支払い糸を預けると、二時間程で仕上げてくれるそうだ。

その間に他のお店を見て回り、珍しい食べ物の屋台などで昼食も済ませてしまおう。

ポーチの出来上がりを思ってほくほくするネアは、ポーチの注文書を書いている間にディノが何種類かの布を買っていることに気付いた。


「ディノもお買い物をしたのですね」

「珍しい布や、質の良いものが多い。いい店を紹介して貰ったね」

「はい!」


ディノの買った布は、仕立て屋に預けてあれこれ作って貰うのだそうだ。

アルテアがシシィを知っているのは驚かなかったが、ディノは誰に頼むのだろうとネアは少し不思議になる。

しかし記憶を辿ってみれば、ラムネルの毛皮を持ってきてしまった時にも、仕立て屋という言葉が出ていたので、御贔屓の仕立て屋さんがいるに違いない。



こうして布屋を出た二人は、その二軒隣の縄紐屋で少しわしゃわしゃした。

魔物にお気に入りの縄を購入されてしまったネアは、期待に満ちた目を向けられてたいそう慄く。

あんなに綺麗な縄を魔物の腰に結ぶのは、さすがにいたたまれない気持ちになりそうだ。



「さて、お昼を食べるところを探しながら、向こう側も見てみましょう!ディノは、何か食べたいものはありますか?」

「向こうに揚げ物屋があるみたいだよ」

「ディノが食べたいものを主張してくれるのは珍しいので、是非そのお店に行ってみたいです!」

「ご主人様!」

「ガーウィンで食べた串揚げも美味しかったですものね」

「卵を揚げたものはあるかな……」

「あらあら、さてはあの串揚げがお気に入りですね」


ディノは、ガーウィンの天上湖で食べた卵の串揚げが忘れられないようだ。

ネアには卵を燻製にする工程に自信がないので、もしここで入るお店に似たような商品がないようであれば、アルテアにお願いしてお料理して貰おう。


そう考えて、嬉しそうに揚げ物屋さんを目指す魔物の三つ編みを握った。


今のところ、魔物はとても楽しそうだ。

その横顔を見て、ネアも更に楽しい気分になった。












評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ