リーエンベルクの夏休み 2
午後になって、湖での水泳教室に出たネアは、まだしょんぼりしていた。
夏休み明けに、祟りものになった屋敷型の魔物の討伐があるのだが、よりにもよって、その魔物がふわふわ動物に擬態すると知ってしまったからだ。
万が一逃げようとする祟りものが、前評判通りに愛くるしい餅兎そっくりに擬態などしてしまったら、抱き締めて守ってやってしまうかもしれない。
そうなれば、きっと裏切り者としてウィームを追われ、時々お屋敷になる素敵なもちうさとの逃避行になってしまう。
「ネア、今度の仕事が不安なのかい?」
「ふむぎゅ。………私に、もちうさもどきを駆除出来るでしょうか」
「そこなんだね。すぐに毛皮に浮気してしまう、困ったご主人様だ」
「これはもう、アルテアさんに先日の白もふさんを貸して貰うしかないのでは……」
「そういう意味では、ダリルの発案は手堅かったのかな………」
「ディノ?」
淡く微笑んで首を振った魔物が儚げだったので、ネアは手を伸ばして頭を撫でてやった。
すると甘えたくなったのか、頭を手のひらにぐりぐりと押し付けられる。
何だか可愛くなったので頬っぺたに口付けしてやれば、魔物はくしゃくしゃになって地面に蹲ってしまった。
「むぅ、まだ泳ぐ前に沈んでしまいました」
「…………ずるい。可愛い」
「ほらほら、そんなところに蹲っていると、椅子にしてしまいますよ」
「…………椅子になる」
「しまった。ご褒美でしたね…………」
仕方なく一度だけ地面に蹲っている魔物の背中に腰掛けてやれば、頬を染めてご機嫌になったようだ。
もじもじしているのは、新しい椅子の形を発見したからのようでとても怖い。
「さぁ、水泳教室をしましょう。湖は素敵な水温で泳ぎやすそうですよ」
「入ってみたのかい?」
「ふふ、着替えの時以外はずっとディノと一緒だったでしょう?私はまだなのですが、さっき狐さんが食後の運動で、ヒルドさんが湖に投げたボールを飛び込んで取りに行ってました」
「ノアベルトが………」
「ええ。ヒルドさんが念の為に狐さんで水温を調べてくれたようです。ちょうどいいみたいなので、楽しみですね!」
「ノアベルトで…………」
湖には、瑠璃色の夜の結晶石で桟橋が作られている。
そこにタオルの入った籠を置き、温かなお茶を入れた水筒も並べておく。
影絵の中に残された湖なので、魚の影はあるが実際には存在していない。
危ない生き物もなく遊べるのが、この湖の良いところだ。
「ではこの浮き輪を基地にして、ちょっと泳いでみましょうね」
「…………ずるい」
「水着になる度に言われるので、もはや慣れました!さぁ、湖に入りますよ」
「…………可愛い」
相変わらず、水着のネアを直視すると目元を染めてしまう純情な魔物を連れて湖に入れば、何とも気持ちのいい水温だった。
元々避暑地なので暑くはないのだが、この湖は湖底に温泉が湧いているところがあり、温水プールのような水温なのだ。
一時間もすると、暫くバシャバシャと泳ぎを頑張った魔物は浮き輪に掴まってふにゃんと草臥れていた。
休み休み練習していたのだが、あまり根を詰めても良くないので、このくらいにしておこう。
「………あまり進まなかったね」
「あら、それでも一メートル多く泳げるようになりましたよ?」
「うん。でも、まだ戻ってはこれないから」
「でも、いつの間にか往路は泳げるようになってしまったディノが、私は凄いなと思うのです!」
「みんなが泳げるのはどうしてなのだろう……」
「と言うかまだ、アルテアさんは本当に泳げるかどうか試してませんでしたね。今度、足の立たない深さの水に浸けてみましょうか」
「ノアベルトは泳げるよ」
「あらあら、やっぱりお友達のノアが気になるのですね?そう言えばさっきも、素敵な犬掻きで………」
そこでネアは、とんでもない可能性に気付いてしまった。
はっとして笑顔になったネアに、ディノは首を傾げる。
濡れた真珠色の髪が何とも扇情的なのだが、どこか無防備にも感じる姿だ。
「ディノ、ムグリスディノなら、泳げるかもしれませんよ!」
「え…………」
「ノアも、狐さんの時は颯爽とボールを咥えて泳いでました。となればきっとムグリスも……」
「ムグリスは泳ぐのかな………」
「少なくとも、ひんやりするので眠ってしまうことはないような」
そこで、歴史に残る挑戦が行われることになった。
ムグリスディノが波に流されると怖いので、ネアの足がつくところで浮き輪の輪っかの中での挑戦になる。
やはりお腹のむくむく毛皮が素敵な真珠色のムグリスディノは、ちびこい三つ編みをしゃきんと立てて早くも臨戦態勢だ。
浮き輪の上にぽてんと乗り、飛び込む瞬間を待っている。
「いいですか?溺れても私がすぐに手で掬い上げるので………ほわ?!ディノ?!落ちた!」
ぼしゃんと音がした。
ネアの言葉に頷いてしまったムグリスディノは、浮き輪の上で短い足がつるりと滑り、そのまま水の中に落ちてしまったのだ。
ネアは一瞬動転したが、すぐに奇跡を目撃することになる。
「う、浮いてますよ!ディノ、毛皮がむくむくで水を弾くのか、浮いてます!」
「キュ!」
ムグリスディノは、水面に落ちた葉っぱのように、ラッコ体勢の仰向けでぷかりと浮かんでいる。
体型的に顔を下にすると首を持ち上げられずにそのまま水死しそうで怖いが、この体勢なら大丈夫そうだ。
仰向けで浮くと短い手足はしゃきんと上を向いたまま、水を掻くことも出来なさそうだが、取り敢えず浮くのは間違いない。
「凄いですね、ディノ。バタ足をしなくても、素敵に浮いてますよ」
「キュ!」
「あらあら、ご機嫌ですね」
「キュキュ!!」
初めて労せず浮いていられることが余程嬉しかったのか、その後もムグリスディノはご機嫌でぷかぷかと浮いていた。
もう三十分程付き合ってやり、ネアは泳げたとはしゃぐ魔物と城に戻った。
それなりに長く湖にいたので、湖底探索は明日に持ち越しだ。
軽くシャワーを浴びて水気を魔術で飛ばしたら、夕暮れまで素敵なお昼寝タイムに入る。
戻った部屋で自堕落に寝台でごろごろしていると、巣のないところでは一人で寝れない魔物が、ブランケットと枕を持って隣の部屋からもそもそと出てきた。
「ご主人様…………」
「むぅ、致し方ありませんね。これまた広い寝台なので、お隣を許可します。しかし、ご主人様は贅沢に転がっているので、轢かれないようにして下さいね」
「ご主人様!」
喜び勇んだ魔物が隣にいそいそと上がってきて、ネアは大事な魔物を轢き殺さないようにと少し端っこに移動する。
しかしそこで、はしっと腰を掴まれて離脱防止をされてしまった。
「む、ご主人様の捕獲は禁止ですよ?」
「あまり端までいくと危ないだろう?」
「落ちたりはしないのです。………それと、なぜにお腹を撫でられているのだ」
「ネアもよくこうするからね」
「それは、あくまでもお腹の一番柔らかくて無防備な毛皮を堪能する為です」
「嫌かい?」
「ちょっと消化が良くなりそうですね」
「ご主人様…………」
なぜか魔物は少し落ち込んだようで、その隙に寝落ちしたネアは、安心してすやすやと昼寝を堪能した。
お腹を撫でられて腸の働きが良くなったのか、すこぶる快調で目を覚ます。
「………む。どこなのだ」
しかしそこは、眠った筈の部屋とは違うところだった。
薄暗い部屋はとても広いが、その広さが居心地の悪くない素敵な空間だ。
むくりと起き上がると、床は少しざらりとした白灰色の石だ。
微かに宝石質な半透明さがあり、のっぺりとした印象にはならない。
家具は全て同じような色味でトーンを落とし、灰紫色がかっている。
白に白灰色で織模様のあるカーテンに、壁いっぱいの書棚と、よくわからない薬棚のようなもの。
テーブルの上にはグリーンを主体とし、ライラックに似た菫色の花と赤紫色のオールドローズを生けた花器がある。
(…………ここは、)
寝台なのは間違いない。
真っ白なシーツに、お揃いらしい白地に色味を違えた白で織模様のある素晴らしい枕カバー。
夏用のブランケットはさらりとしたもので、淡い青灰色に、くすんだ白で花の蔓が絡んだような複雑で精緻な織模様がある。
反対側のサイドテーブルには、乳白色半透明の素晴らしく優美なデザインの燭台があり、使い込まれた蝋燭には火が灯っていた。
ここはどこなのか、窓の外は夜明け前のような明るさで、部屋の住人はその明かりで本を読んでいたらしい。
ぼんやりと目を開いてそこまで確認すると、ネアはぽてんと枕に頭を落とした。
よくわからないが、特に危険はなさそうなので眠気に負けることとしよう。
不本意ではあるが、人間とは長らくこうして眠気に負けてきた生き物なのである。
「………おい、目が合っただろうが。何でそのまま寝た」
「むぐ。おやすみにゃさいなのです……」
「っつーか、どこから来た?」
「…………むぎゅ。避暑地の寝台で、………おひるねして……てたのでふ」
「…………またろくでもない思考で通路を繋げやがったな。何か考えてただろう?」
「…………白もふさんを、あの雪豹アルテアによく似た白けものを抱っこして寝たいです」
「お前、そこだけはっきりと喋り過ぎだからな?どんだけなんだよ……」
「………お腹のもふもふが………」
「やめろ」
「尻尾の…………付け根の、お尻ももふもふで最高でした………。ぐぅ」
「お前、それは二度と喋るなよ?!いいな?」
寝落ちしかけたところで、がくがくとゆさぶられて、ネアは頭にきた。
「むがふ!黙るのだ!ご主人様はお昼寝中です!」
「…………俺の寝台だからな。っつーか、隣で寝るな!」
「いい匂いがしまふ。おやすみなさい………」
ネアはそこでぱたりと戦線離脱し、もしゃもしゃと頬っぺたを触られたので、荒れ狂った。
頬っぺたに悪さをした手を抱えて押さえ込んだまま眠ったのだが、何だかあれこれと文句を言われた気がする。
抱えた手をがじがじと齧れば、恐れをなしたのかその声も大人しくなった。
「ネア、」
「…………ほわ」
「良かった、こちらに戻って来たね。ただでさえ契約で道が出来ているのだから、あまり執着を向けてはいけないよ?特にアルテアは、夢を通路とする魔物でもあるから」
「…………むぐ。白けものさんのことしか考えてなかったのですが、また迷い込んでました?」
「そのようだ。ほら、こちらにおいで」
暫くして、ネアはディノに揺り起こされた。
ちらりと時計を見たが、まだ一時間は眠る予定なので、ネアは大人しく魔物の腕の中に収まった。
居心地的には大の字に遥か及ばないが、眠気の方が優先されたのだ。
そして、一時間後に気持ち良く目が覚めた。
「すっきりしました!なぜか夢にアルテアさんが出てきたのですが、夢の中でも寝ていたのであまり覚えていません」
「ネアが浮気する………」
「所詮夢ですよ、ディノ。水遊びをした後はお昼寝という罪深い一日でしたが、そろそろ夕食の準備に取り掛かりましょうか?」
「まだ早いのではないかい?」
「顔を洗ってから、外のテラスで夕日を見ながら飲み物を飲み、陽が落ちたら準備に入るのでこんなものかなと」
「もう少し、こうしていてもいいけれどね」
少しだけ残念そうな魔物を撫でてやり、ネアは気持ちのいい冷たい水で顔を洗った。
頬っぺたに枕の痕がついたりしない魔物は、寝起きから完璧な美貌で真珠色の髪をふんわりと波打たせている。
その美貌に気後れしたこともあったが、今はもうこの魔物は、目が合うと嬉しそうに微笑む大事な魔物になった。
じわじわと浸透してきたこの魔物の喜びや安堵が、二度とこの魔物を一人ぼっちにしたくないという深い執着に変わったのはいつからだろう。
(………咎竜の頃か、その少し前かしら)
何となく無下にしていた頃のことも思い出してしまい、ネアは大人しく待っていた魔物のリボンを綺麗に結び直してやった。
ディノは、唐突に大事にされたので訳が分からずにふるふるしている。
こちらを直視出来なくなってしまった幼気な魔物を連れてテラスに出れば、ちょうど素敵な夕焼けが湖に映るところであった。
程よく雲もあり、何とも幻想的な夕暮れの色に染まる。
ノアが教えてくれた祝福の強い湖は、昼と夜のあわいの色にきらきらと煌めいている。
「ウィリアムさんと砂漠に行った時には、とても静謐なのに、得体の知れないお店が立ち並ぶ異国の路地裏に入ったみたいに、何だか賑やかでそら恐ろしい気配がしましたが、ここは、ただ静かで穏やかなのですね」
アイスティーのグラスを持ち上げてそう言えば、隣の椅子に座ったディノが小さく微笑む。
「そうだね、砂漠は地上に見えているものだけが全てではないからね。砂の中にも砂の系譜の者達の街があり、砂に飲まれた国や村も沈んだまま彷徨っている。海とさして変わらないだろう」
「そう言われると分かりやすくなりました!確かに海も海面は凪いでいても、海の中には沢山の生き物がいますものね。砂だと感じると想像し難くて思いつきませんでしたが、やっと腑に落ちた気がします」
「砂漠はとても気に入ったようだね」
「ええ。ウィリアムさんのテントも素晴らしかったですよ。あまりすぐにディノと行くとウィリアムさんが拗ねてしまいそうですから、暫くしたらディノとも夜の砂漠でクルツに乗りたいです」
ネアがそう言えば、ディノは不思議そうに目を瞠った。
「ウィリアムが、……拗ねるのかい?」
「ええ。だってウィリアムさんは、他の人がお勧めしていない自分の得意分野の一つとして、砂漠遊びを紹介してくれたのだと思うのです。それを、私がディノとばかり行くようになったら、むしゃくしゃするのではないでしょうか?少なくとも私は、今までディノに水泳教室をしてきたのに他の誰かに習い始められてしまったら、悲しくて不貞腐れると思うのです」
「………君以外の誰かと、泳ぎの練習をしたりしないよ」
「ふふ、私はそう言われるととても嬉しいので、砂漠は、ウィリアムさんに連れて行って貰いますね」
「ウィリアムと………」
「でも、次回からはディノも謹慎ではなくなるので、みんなで行けたらいいですね」
「ご主人様!」
ずる賢い人間は毛皮の会については触れなかった。
何しろそれは、毛皮に触れ合うご主人様に荒ぶる魔物の目を盗んで、毛皮生物に触れ合う会だからだ。
「でも今は、夏市場に行くのが楽しみなんですよ。ディノ、忘れないで下さいね!」
「うん。朝からだけれど、疲れないかい?」
「ふふ。そんな楽しみに向かうのに、疲れたりしません。寧ろ、明日の夜はワクワクで眠れないかもしれません!」
既に持って行く鞄も決めてあるのだ。
金庫も勿論あるのだが、あえてお買い物用のトートバッグめいたものを肩がけにしたい欲求に身を投じる予定である。
「……弾んでる」
期待値にぶるりと身震いして、椅子の上で弾んだネアに、魔物はまた打ち震えてしまった。
二人はそこで、夜空に星が煌めき出すくらいまでお喋りを楽しみ、夕食を作るべく屋内に入った。
そして屋内に入るなり、ネアはノアからエーダリアへの愚痴を告げられた。
「ネア、聞いてよ!エーダリアがボールを雑に投げるんだけど」
「あらあら、でもそこはノアの方が大人なので、エーダリア様に読書の時間を与えて差し上げては?」
「え、……じゃぁ、誰が僕とボールで遊んでくれるの?」
「…………ディノ、後で魔術で動かしてあげてくれますか?」
「…………うん」
ノアはご機嫌になったが、ディノはしゅんとしてしまった。
ノアのボールへの執着は、やはり悲しい気持ちになるらしい。
「すまないな、助かった……」
ネアにそう詫びたのはエーダリアだ。
魔術仕掛けのボールにするには、書庫には貴重な資料があるので難しく、投げるにしてもへろへろっとしたボールしか投げられないのだそうだ。
狐はそれでは満足出来ず、延々とボールを持って来る。
そのせいで中々魔術書を読み進められず、とても苦労したのだとか。
「激しい運動をさせて、夜はぐっすり眠るように疲れさせておきますね」
「ああ。午前中はまだ寝ていてくれたのだがな………」
こそこそと話をしているエーダリアとネアの向こうで、ディノはノアからボール遊びの重要性を語られてしょんぼりしていた。
「そろそろ、夕食にしますか」
そこに階段から降りて来たのはヒルドだ。
髪を下ろして寛いだ姿で、ネアはなぜだかヒルドがそんな風にのんびりしていたことにほっとした。
エーダリアもそうなのか、少しだけ唇の端を持ち上げている。
「ノアが、素敵にお肉を焼く約束ですよね」
「うん、任せて任せて。まだ火はあまり得意じゃないけど、鉄板があるから魔術で火が見えないように加熱するからね。何肉がいい?」
「牛さんと、鴨さんと………」
「ネアは鴨好きだなぁ。あれ、ネアも牛を使うんだっけ?」
「はい。お酒に合うように、タルタルを作ります!」
「わーお、僕それ大好き!」
「あら、ディノも大好きなんですよ」
そんなことを話しながら、みんなで素敵食料庫に収穫しに行ったりもして、夜の料理大会が始まった。
ネアがリゾット用の梨をむいている横で、卵を茹でるだけのエーダリアは真剣にお鍋を見ている。
エーダリアが扱う加熱物はゆで卵だけだが、まるで魔術陣を組むような真剣な目だ。
「まぁ、ノアはお料理姿が似合いますね」
白いシャツの袖をまくって、氷色混じりの白い髪を濃紺のリボンで結んだノアは、かなり料理慣れした男性のようで素敵に見える。
ノアが得意げにした分ディノがしょぼくれたので、ネアはディノに対して助手がどれだけ必要な存在なのかを説いておいた。
「わ、こちらも既に美味しそうです!」
ネアがそう覗き込んだのは、ヒルドの作ってくれているビシソワーズだ。
いい香りがして、その匂いにうっとりとする。
「ええ。冬場は暖かいままお出ししたりしてましたね」
「冬場に、温かいものも飲んでみたいです!」
「おや、ではまた肌寒くなってからお作りしましょう」
「はい!」
美味しいものは、しっかり予約しておくネアなのである。
冬場のほかほかポテトスープも押さえたので、ご機嫌でリゾット作りに邁進した。
「エーダリア様のサラダは、どこかのレシピなのですか?それとも、ご自身のお気に入りなのでしょうか?」
「ああ、これはヴェルリアにあった店の定番メニューなのだ。ガレンに詰めていた頃は食事が偏ったからな。パンなどと合わせてこのサラダをよく買って帰った。作るようになったのは、ウィームに来てからだな」
と言うのも、ウィームは今回のことのようにリーエンベルクそのものを閉じる全員休暇が多いからだろう。
自分で料理をしてみる機会が増えたに違いない。
「ふふ、ウィームは家事妖精さん達のお休みも多いですものね。皆さん自分の時間も取れて幸せそうです」
「入れ替わりの多い職場ではない。生涯仕えてくれる者も多い分、働きやすい職場でなくてはな」
「エーダリア様は、良い領主様なのですね」
そう言われて少し照れたエーダリアを、ヒルドが微笑ましそうに見ている。
この二人がこうして同じ場所で伸び伸びと過ごせるようになったのは、ここ一年にも満たないことなのだと、ネアはふと思い出した。
そう考えると気持ちがほかほかしたので、リゾットをより丁寧に作ることにする。
(…………私もそうなのだわ。一年前はまだ、将来や未来には何の期待もしていなかった。……こんな風に誰かとお料理をするなんて……)
考えかけて小さく微笑んだ。
そもそも、ここは想像もしなかった不思議な世界なのだ。
気持ちは時々こうして立ち位置を確かめ直すが、そうしても理解しきれないくらいに想像の外側の世界にいる。
また少し嬉しくなって微笑んでしまう。
それはまるで、手に入れた特殊な魔術書を何度も袋から引っ張り出して確かめているエーダリアのように。
ネアもこの幸運を何度も確かめて、ほくほくとする。
「はーい、肉は焼けたからね!」
「ほわ!美味しそうです!」
「スープも冷えましたよ」
「………サラダはもう少し待ってくれ」
「大丈夫ですよ、エーダリア様。リゾットももう少しかかります」
「では、我々はテーブルセットをしていましょう」
「はい、お任せします」
やがて料理が出来上がると、シュプリや葡萄酒なども並びなごやかな晩餐が始まった。
デザートのマロンケーキは、もう少し後から焼き上がる予定だが、緻密な作業が得意なノア特製の魔術仕掛けで焼いているので、目を離していても焦げたり生焼けになったりはしない。
「……これは確かにいい焼き加減だな」
「ほら、言ったでしょ!肉だけは上手く焼けるんだよね。ほら、これだけ出来れば後はどうにかなるしさ」
「塩加減が絶妙です!さすが塩の魔物さんですね!」
そう言いながらもネアは、一人だけ少し大きなスープボウルでビシソワーズを飲んでいる。
最初に飲んでから気に入ってしまい、このような運用になったのだ。
サラダも、ゆで卵とオリーブに、スパイシーなクリームドレッシングが良く合って食べ応えがあって美味しい。
繋がっていてきちんと切れてないマッシュルームが少し残念だが、細かく刻んだドライトマトも入っていて何ともいいお味のバランスである。
実際のお店では、山羊のチーズや小さな茹で海老なども入っていたそうだ。
「このリゾットも美味しいですね。梨が良い甘さで、食が進みます」
「タルタル………」
「あらあら、ディノはタルタル専用機になりましたね」
「うん」
お酒が入ってくると、色々な話も進む。
そこで話題に上がったのは、ネアの世界の夏休みについてだ。
「むぅ。あの世界の夏休みは、やはり海に行ったり、避暑地に行ったり、……後は、私は参加したことはないのですが、度胸試しで少し怖い話をして盛り上がったりもしますね」
「へぇ、怖い話なんてするんだ」
「夏休みで時間があるので、元気いっぱいな若者達は、森の廃墟に血まみれ夫人を探しに行ったり、荒地に棘人間を探しに行ったりしていたようですよ」
「………前から思っていたが、お前のいた世界はなかなか危険なところなのだな」
「あら、そうでもないと思いますよ?」
「その、………寝台の下の隙間に、真っ白な子供がいるのだろう?」
エーダリアが口にしたのは、ネアがこの世界に来たばかりの頃に口にした怖い話だった。
「そやつは世界的に有名でしたね!」
「えー、何それ、妖精?」
「死霊さんに近いのですが、もしかしたら、物の怪のようなものと混ざっているのかもしれません」
「襲ってくるのかい?」
「ええ。ある日突然出会ってしまい、襲われてしまいます。由縁や理由があっての祟りのようで、調べて手を打ったつもりで安心していてもまた出てくるので、きっと無差別なのでしょう。他にも、地下水道に潜んで殺戮を繰り返すピエロや…」
ネアが言葉を切ったのは、ディノにひしっと抱き締められたからだ。
魔物は若干ふるふるしている。
「ネア、無事で良かった」
「まぁ、怖くなってしまったのですね」
「僕さ、それよりも棘人間が気になるなぁ……」
「棘人間は、そのまま棘だらけの人なのですよ。確か、悪い精霊さんだった筈です。棘人間に触れられると、その人も憎しみまみれの棘人間になってしまうのだとか」
「わーお、感染型だ」
しかし、魔物達が一番震え上がってしまったのは、人面魚の話だった。
合成獣を嫌うこの世界の魔物達は、その話にぴゃっとなると、部屋の窓際にあるカーテンに包まって震えている。
「じんめん…」
「ネアもうやめて!」
「魚…………」
邪悪な人間がその言葉で脅せば、魔物達は抱き合って震えている。
とても面白かったので、ネアは今度アルテアとウィリアムにも試してみようと思う。
ほかほかカップケーキを齧りながら隣のヒルドの袖を引っ張ると、優しい妖精は綺麗な瑠璃色の瞳を細めてこちらを見てくれる。
「ヒルドさん、妖精さんには苦手な生き物とかはないのですか?」
「どうでしょうね、我々はあまり。それよりも、煙草の煙や、汚染された水辺等の方が不得手ですね」
「ほわ、確かに妖精さんらしい感じです!」
「そう言われてみると、竜はボラボラが苦手だが、精霊にはあるのだろうか」
「言われてみれば、精霊は元々気性が激しいので、特に種族的なものは思いつきませんね」
ちょっとしたことでも荒ぶりやすい精霊の場合、元々好き嫌いでも暴れるので、どこまで種族的にかなり嫌いという範疇なのかが見え難いのだそうだ。
その晩、魔物達はすっかり怯えてしまい、銀狐は一人で遠くに行けなくなったので、ボール遊びはやめてエーダリアの足元にへばり付いていたそうだ。
お陰でエーダリアは気持ちよく読書が楽しめたそうで、幸せな一夜だったとか。
ヒルドも剣を磨いたり、読書をしたり、夜の森を歩いてのんびりと過ごしたらしい。
「ご主人様………」
「ご主人様は入浴したいです」
「魚…………」
「むぐぅ」
面白がって脅かし過ぎたせいで、ディノはすっかり怯えてしまい、ネアは仕方なく入浴する時にも目隠しをさせた魔物を浴室に置いておく羽目になった。
寝る時もぎゅうぎゅうと抱き締められて寝苦しかったので、今度からは脅かし過ぎないように注意しようと思う。
魔物達が魚嫌いになっては困るので、ネアはその翌日、人面魚は悪さをした魔物の前にしか現れないと教えておいた。
しかし、二人とも少しも元気にならなかったので、どうやら魔物達は過去に悪さをしてきた自覚があるようだ。
なお、人面魚について他の魔物にも話してみたところ、アルテアは依頼したお魚のパイ包みを料理中だったこともあり、ネアは頭をはたかれた。
頭にきたので、美味しい木苺のムースを追加で申し付けておく。
ウィリアムはあんまり出会いたくないなぁと呟いていたが、さほど怖がってはなかったようだ。
ただし、得体の知れないものは危ないので、もしそんなものを見付けたら自分を呼ぶようにと厳しく言いつけられた。
ゼノーシュは、魚である以上はまずは美味しいかどうかだと思うと即答したので、ネアはやっぱりクッキーモンスターが一番頼もしいと考えている次第だ。
ディノがすっかり魚を怖がるようになった避暑地での最終日は、湖の中などもってのほかであり、湖底探索は出来なくなってしまった。
ネアはがっかりしたが、自損事故なので我慢するしかなかった。