リーエンベルクの夏休み 1
リーエンベルクは夏休みに入った。
これから三日間は、リーエンベルクを閉じて、ウィームの夏季休暇に合わせてのんびりするのだ。
ウィームの夏季休暇そのものは一週間以上あるが、リーエンベルクが全機能を休ませるのはこの三日間のみである。
その間は無人になるリーエンベルクをダリルが守り、エーダリア達の休み明け以降も家事妖精達は交代で休みを取れる仕組みだ。
そしてネア達は今日、シュタルトの西側にある山岳地帯に隠された、ウィーム王家の隠れ家に遊びに来ていた。
実はここは、以前ネアがカインで拾ってきた絵本より発見された、ウィーム王家の指輪を持つ者にしか入れない特殊な空間である。
王族の避暑地や、有事の際の隠れ家として作られた場所で、ウィームが最も潤沢な魔術に湧いていた時代の遺物なのだ。
指輪がエーダリアの手元に戻ってから発見され、ノアが手伝い少しずつ内部の調査と修繕がなされていたのだとか。
「………素晴らしいですね」
思わずそう呟いたネアが眺めるのは、深い針葉樹の森に囲まれた湖のほとりに建つ、小さな古城のある隔離空間だ。
ノア曰く、一度造り上げた城を魔術を浸透させてあえて使い込み、その後取り壊すことで影絵としてだけ残したかなり贅沢な空間らしい。
湖も森も、それを司る者達に用意させた幻の景観で、実際にはもう存在していない。
城を取り壊すのと同時に森は移動させ、湖も他の土地に移したのだそうだ。
その話を聞くだけで、当時のウィームにどれだけの力があったのかよく分かる。
「実はここ、作るとき僕も協力したんだよね」
「まぁ、ノアも参加したんですね!」
「その当時の湖の魔物とは仲良くしてたからね。幼馴染のウィームの王妃の為に、いい避暑地を作るんだって張り切ってたなぁ」
「湖の魔物さんとその王妃様は、仲良しだったのですね」
「王妃が小さい頃に湖で溺れてから、ずっと仲良しだったみたいだね。ほら、祝福に満ちた湖だから、星の光をよく蓄えて綺麗だよね」
「だから、あんな風に光るのですね!」
この避暑地を訪れたのは、エーダリアとヒルド、ノアに、ネアとディノだ。
グラストとゼノーシュは、グラストの屋敷に滞在するらしく、ゼノーシュは白いケーキを作って貰うのだと喜び勇んで出かけていった。
「ダリルに良い通路を併設させましたので、リーエンベルクから指輪の承認で入れるようになったのが大きいですね」
「その通路の、特殊な承認魔術を設定したのは僕だからね!」
「ええ、ネイにも感謝しております。やはり、こういう内側だけで生活の出来る避難場所があるというのは、エーダリア様のような立場の方にとっては心強いですから」
「まぁ、僕やシルもいるし、そんな風に使う機会はないんじゃないかなぁ………」
そう呟いて笑ったノアに、ヒルドもふわりと微笑みを深めた。
それでも保険が欲しくなるのだろうと、ネアは微笑ましい思いで二人を見守る。
「…………統一戦争の時に、この指輪があればまた違う結果だったのかもしれんな」
見事な湖水水晶の階段を見上げてそう呟くのは、ウィーム王家の最後の一人であるエーダリアだ。
最後の一人だからこそ、エーダリアはこんなにウィームが安定しても後継者を残すことには積極的ではない。
無関心を勝ち取った今の王家や、好意的なヴェンツェルがいなくなった次の世代に、その子供が自由でいられる可能性が限りなく低いからなのだそうだ。
(そういう意味で、エーダリア様は現実的なのだわ)
今エーダリアの側にいる人外者達は皆、エーダリアが大事だからこそこの場にいる者達だ。
ヴェルリアでネアが出会ったガヴィという代理妖精が特殊な例で、人外者達は本来、家や一族には仕えない。
ヒルドも、ダリルも、そしてノアも。
それは、エーダリアが死ねば失われる加護なのだ。
その先のことを見込み、エーダリアは自分の後継者として、王家の血を引かないただのウィーム領主をと考えている。
そうなれば、出身の王族を持たない弱みは出てくるだろうが、それよりはある程度独立した権限を持たせるのが、この元婚約者の悲願である。
いずれ、ヴェンツェルが王となってからのその時代に、周囲から批判の出ない経緯でウィームにある程度の自治権をと、気の長い計画を立てているようだ。
ダリルが書いている筋書きなので、ネアはいずれ成功するのだろうと確信している。
「でも、その時に失われていたものだからこそ、奪取されずに今こうしてエーダリア様の手の中にあるのでしょう」
「しかしな、ヒルド。そうなったことで失われたものも多い。前の世代でこそ、生かされるべき場所だったのは確かだ」
壮麗な天井画には、豊かな時代を偲ばせる見事な風景が描かれている。
その豊かさを思えば、胸が潰れるような思いなのだろう。
エーダリアは、ただ単純に殺されていった血族の為ではなく、戦争で失われたウィームの豊かさや、壊されてしまった品物や記録についても考えるのだろう。
それは多分、そういうものを愛する者だからこそ、痛む心なのだ。
「あらあら、では私がこう言いましょう。この指輪とお城がエーダリア様を守ってくれるのならば、それだけでもう充分なのです」
「ネア………」
「私はこの世界でも新参者ですし、過去のこの土地や、過去の方を存じ上げてもおりません。由縁もない私からすれば、寧ろエーダリア様の避難壕になり得ることの方が喜ばしいことです」
身も蓋もなく感傷を切り捨てたネアに、エーダリアは小さく苦笑した。
ヒルドの方を見て、そうだなと呟いてから短く頷く。
胸を苦しくする過去から戻ってきたエーダリアに、ネアが腕を組んできりりと厳しい顔をした。
「ふむ。どうにもならない局面がきたら、エーダリア様達はここに放り込めばいいのですね!出してくれと暴れても、数年もすれば諦めて大人しく暮らしてくれるでしょう」
「わーお、ネアは強制的に避難させるつもりなんだね」
笑って茶化したノアの隣で、エーダリアはなぜか青ざめている。
「あら、私の大切なものなのですよ?またしても失われては困るので、誰かに悪さをされそうになったら隠してしまうのが道理。人間の業でしょうか」
「い、いや、それを簡単に宣言するのも、実際にやりそうなのもお前くらいだぞ………」
「む?私にここに幽閉されるのがお嫌でしたら、危ないことはしないで下さいね」
「そもそも、お前達がここに来てからその種の個人的な危機に瀕したことはないな………」
「私の身の回りの方に悪さをするやつは、ぺしゃんこにしてやります!戦闘靴で踏み潰してから、百万倍激辛香辛料で…」
「その笑い方では、お前の方が悪役にしか見えんな………」
すっかり怯えてしまったエーダリアはヒルドの方を振り返っていたが、まず間違いなくそちらも過激思考の保護者だと思う。
ヒルドから視線をノア、そしてディノと移し、エーダリアは多分老衰で死ねるなと呟いた。
ネアは誇らしげに頷いたが、もしくは心労だなと続けて呟かれて眉をぎりぎりと寄せた。
「エーダリア様、そんなことを言うとバーレンさんの鱗をあげませんよ!」
「う、鱗?!」
「はい。ダナエさんがバーレンさんを寝惚けて蹴り飛ばしてしまったそうで、その時に剥がれた鱗があったからと、送ってくれたのです。エーダリア様が竜好きっ子なのを覚えていたそうですよ」
ネアとしてはエーダリアが疲れていそうな時にでもカンフル剤代わりにあげようと思ったのだが、つい喋ってしまった。
もう手を差し出されているので、渡してやるしかない。
ついついムキになってしまった己の浅慮さを恥じつつ、ネアはエーダリアの手に淡い銀白の鱗を乗せてやった。
「………白銀なのか!」
「バーレンさんはすぐ擬態してしまうようですが、本来は銀白に淡い金色の煌めきのある竜さんだそうです。とは言え、だいたいいつも瞳の色と同じ青い竜の姿をしているそうで、ご本人は青い竜に生まれたかったみたいですよ」
「竜にも、そういう欲求があるのだな」
「ダナエさんのように霞になることにも憧れがあるそうで、練習してみたけど出来なかったのだとか」
「あの竜は、アリステル派の聴取で聞いていたのとは、随分印象が変わるな」
「ふふ。それはきっと自分より人生経験が豊富なダナエさんに会ったからでしょう。バーレンさんはきっと、本当は誰かを導くのではなく、誰かに教えを請うたり、甘えたかったのかもしれませんね」
ネアはそこでちらりと、ノアと話しているディノを見た。
ディノにも言えることだが、人外者達はその艶麗な見目から想像もつかないようなことを望みとすることがある。
長命老獪であれど、彼らにも無垢な欲求があるのだ。
バーレンが光竜として背負っていたものを、ダナエに出会ってやっと下ろすことが出来たのだろう。
(踏まれて懐いてしまうくらいなのだから、甘えたがりだったのではないだろうか……)
そう言う意味では、同じ嗜好の魔物がべったりなので、ネアは想像し易いのだ。
そしてその魔物は、ご主人様と目が合ったので大喜びでこちらにやって来た。
「体当たりするかい?」
「開口一番なぜなのだ」
「爪先……」
「ディノ、せっかくの夏休みなのですから、ご褒美も少しお休みにしましょうか」
「…………ご主人様が虐待する」
「むぐぅ」
各自金庫を持っているので、誰一人として荷解きという概念を必要としないメンバーはそれぞれ泊まる部屋を確認した後、究極に自堕落な避暑生活が始まった。
インドア派の集まりは、この休暇は特に何もしないというとても罪深い理由で消費すると決めたのだ。
まずはこの朝からお昼までをだらだらと過ごし、少し遅めの昼食をみんなで作る。
その後は少しだけ散策してからまた夕食までだらだらし、遅めの晩餐はお酒を交えて楽しく過ごすのだ。
なんと幸福な一日だろう。
明日もここに泊まるのだが、することはほぼ変わりない。
「午後はボール持ってきたから」
しかし、誇らしげにそう言うノアに、エーダリアは少し遠い目をしている。
エーダリアの読書時間は、狐のボール遊びで削られそうな予感だ。
この避暑地の書庫を読み漁ることをずっと前から楽しみにしていたので、どうかお手柔らかにしてあげて欲しい。
「ディノ、お昼まではのんびりお城を探索して、午後は少しだけ泳ぎの練習をしましょうか」
「うん。海ではあまり泳がなかったからね」
「ええ。波があるところだと危ないので、こういう綺麗な湖があるといいですよね」
海遊びではビーチバレーでネアの心が傷付いたので出来なかった海底探索の代わりに、ここでは湖底探索をしてみようと思っている。
水が限りなく透明なので湖底まで見通せるのだが、湖の底から見上げる水面はさぞかし綺麗だろう。
「では、またお昼に」
そう手を振って解散すれば、エーダリアは書庫に駆け込んで行った。
ノアもついて行って狐姿で隣で寝て過ごすようで、そちらをノアに任せられるヒルドは、豊かな森の見える部屋でゆっくりと過ごすのだそうだ。
きっちりとして見えるヒルドが、休暇は部屋から出たくない派であることに、ネアは多大なる親近感を覚えている。
探索班はまず、一階の大広間から調べてゆくことにした。
ちょっとした古城ツアーの開始だ。
「わぁ!」
最初の部屋である大広間に入ったネアは、思わず声を上げてしまう。
まるでおとぎ話のような花々の溢れる初夏の森を模した室内は、胸いっぱいに空気を吸い込みたくなるような、朝霧纏う夜明けの情景だ。
よく見れば木々や花々は彫刻で、囀る小鳥達は壁画の中に住んでいる。
足元はふくよかな青緑の森の結晶石で、たっぷりと束ねられた重厚なカーテンは雪のように白い天鵞絨だ。
「おや、あのカーテンはアイザックの品物だね。彼自身の色を付与した、珍しい品物だよ」
「だから、青白く輝くような複雑な色合いなのですね。とても素敵なカーテンです」
「シャンデリアには、先々代の星の魔物の守護がかけられている。確かに、豊かな時代のものだったのだろう」
「なんて素敵な広間なんでしょう。疲れた時には、この広間に立っているだけでも心が落ち着きそうです」
ウィームの全盛期には、この広間で舞踏会をしたのだろうか。
それとも、ウィーム人らしく身内だけで伸びやかに楽しんだのかもしれない。
王と王妃がダンスを踊ったり、子供達がここでダンスレッスンをしたりしたのだろう。
ネアはしばし、ただ立ち尽くしてその広間を堪能し、ぺこりとお辞儀をして部屋を出た。
「さて次は、この廊下を出て真っ直ぐに歩くと可愛らしい扉があり、森側にある温室に繋がっているそうです」
「温室があるんだね」
「観賞用にもなる食料庫なのだそうですよ。謎めいているので楽しみにしていました」
「食料庫だとすれば、菜園のようなものなのかな」
「我々の厨房の、畑みたいなものかもしれませんね」
靴音の響く湖の結晶石の廊下を進めば、水晶で作られた繊細な扉が現れた。
森の結晶石や宝石で、森の中にある緑のトンネルを覗き込むようなデザインに装飾されていて、ステンドグラスめいた光の影を廊下にちらちらと落としている。
何とも可愛らしい扉に嬉しくなってそっと開けてから、ネアはぱたりと扉を閉じた。
「ネア………?」
「…………牛さんがいました」
「牛?」
「綺麗なラベンダー畑と葡萄園があって、綺麗にお花の咲いている香草畑と、……牛さんに鶏さんがいます」
そう言われてディノも扉を開けてみたが、またすぐにぱたりと閉じてしまった。
顔を見合わせた二人は、温室とは何だったのだろうという気分でえいやっとその中に入ってみることにした。
「ほわふ………」
そこには、豊かな農地が広がっていた。
牧草地には牛たちがのんびりと草を食んでおり、鶏は鶏小屋も外も自由に行き来きしている。
山羊に羊、鳩や兎もいるようだ。
どこまでも続く広大な畑は、果樹園や香草畑だけでなく、豊かな麦畑まである。
雑木林には森の味覚が溢れ、春の森の横には夏の森があり、秋の森には栗まで落ちていた。
「成る程、確かに生きた食料庫だね」
「こんな場所があるなんて!この避暑地に人が訪れなかった間、ここはどうやって手入れされていたのでしょうか?」
「一度に全てを収穫してしまわない限り、魔術が上手く循環して一定数を保つようにしてある。これは恐らく、ノアベルトの魔術の一種だね」
「まぁ!ノアは凄いんですね!」
「不変の呪いの一つだ。例えばあの麦畑は、何度収穫してもすぐに元通りになってくれるのだろうが、畑を他のものに利用する為に潰そうとしても、何度土地を均しても翌朝には元通りに麦が茂ってしまっているのだろう」
「………呪いを応用しているなんて、魔術は奥が深いですね………」
(むぅ。本来なら、新鮮な牛乳やチーズも味わえるのだけれど………)
残念ながら、切羽詰まらない限りそこまでの玄人技を展開する者はここにはいない。
ネアとて、専門家の付き添いなくいきなり乳搾りが出来る自信はないので、今回はのんびりとした牛達を見守るだけになりそうだ。
(アルテアさんがいれば、何でも出来そう……)
そう考えてふと、選択の魔物とは何だろうかという気持ちになる。
アルテア自身も、いくら使い魔とは言え乳搾りの為に呼ばれたくはないだろう。
せめて、タルトくらいの創作的なものを頼むべきだ。
「乳搾りは素人だけでは難易度が高いですが、卵を貰ったり、お野菜を収穫したりは出来そうですね!ここで少し収穫遊びをしてもいいですか?」
収穫癖のあるご主人様がはしゃぎだしたので、魔物は目元を染めて頷いた。
ネアがうきうきとして弾めば、この魔物はとにかく嬉しくなるのだ。
それから二人は、ジャガイモに新鮮な卵、栗に葡萄に苺と沢山の収穫を楽しんだ。
元々持ち込んだ食材もあるので、ジャガイモは軽く潰してから、みじん切りの玉ねぎとすりおろしチーズと合わせてフライパンで焼き、かりかりじゅわっと美味しいフリーコにしよう。
「ニョッキも作れそうですね。お野菜のオムレツや、新鮮なサラダも美味しそうです」
あちこちで収穫をしてすっかりお腹が空いたネアは、収穫物を入れた籠を抱えて温室を出る。
大変な手入れ作業をせずとも整っているこんな食料庫なら、一日中いても楽しめそうだ。
「卵が好きなのかい?」
ディノがそう尋ねるのは、ネアが可愛い卵を嬉しそうに撫でているからだ。
「あんな風に、可愛らしい藁の巣に入っている卵を見たのは初めてだったので、何だか嬉しくなってしまいました」
「鶏は、巣を作るんだね」
「ディノの巣とは、少し形が違いますね」
ほんわりと温かな卵に触れれば、大事に食べようという気持ちになる。
前にお店で教えて貰ったのだが、こうして卵が呼吸している内に摘んだ新鮮な香草と一緒の籠に入れておくと、微かに香草の香りがつくのだそうだ。
「この紐はなんだろう………」
ディノが見付けたのは、温室の入り口の横にある棚にしまわれた縄のようなものだ。
上質な革のベルトがついており、何かの作業道具なのだろう。
他にも竜革の手袋や、銀製のスコップに青玉の枝切り鋏など、様々な道具が硝子戸の奥に見える。
かちゃりと観音開きの扉を開け、ネアはその道具に触れてみた。
「この入り口のところにかけてあるということは、牛さんを牽引したりするのに使う為かもしれませんね。ほら、革のベルトにぱちりと止める留め金がついているでしょう?これを牛さんの首に…」
ネアはここで、魔物が目をきらきらさせていることに気付いた。
ぎくりとしてから、何気ない素振りで視線を手元に戻す。
「因みにこれは牛さん用なので、ディノを捕まえるのには使いません」
「ご主人様…………」
ぺそりと項垂れた魔物の三つ編みを引っ張ってやり、食材を置いておくべく厨房に向かえば、既にヒルドが来ており厨房のタイルに描かれた動物の絵を見ていた。
「おや、収穫を済ませていただいたのですね」
「はい!あんな素敵な食料庫があるなんて、それだけで楽しくなってしまいますね。………ところで、ヒルドさんが見ていたそのタイル絵の動物は何なのでしょう?」
厨房の一角には、水回りにだけ素敵な連続模様のタイルが貼られている。
一見草木模様のようだが、よく見るとデザインの中心には二足歩行のムグリスめいた動物の絵があった。
「ムクムグリスの一種ですね。この、夏の森に住む夏ムクムグリスは乱獲により絶滅してしまったそうですが、この城が建てられた頃は多く生息していたのでしょう」
「………夏ムクムグリス」
「ネア様くらいはありますから、かなり大きいですよ。毛皮が珍重され、商人達に狩られてしまったそうで」
「こんなに素敵なもふもふがいなくなってしまったんですね」
「寒い地方には、雪ムクムグリスがまだ生息しているそうですよ」
「はい!そやつなら今度ウィリアムさんが見せに連れて行ってくれるそうです」
「ご主人様が浮気する………」
「あら、ディノにとって、ムグリスなら仲間ではないですか。それに、眺めに行くだけなので一過性のものです。お部屋で飼ってしまわないのでそちらの方が良くありませんか?」
狡猾な人間の言葉で、魔物は混乱してしまったようだ。
そもそも自分はいつの間にムグリスの仲間になってしまったのだろうかと、水紺の瞳を瞠って途方に暮れてしまっている。
その無防備さが可愛くて、ネアは微笑んだ。
しかしその直後、ムギーという声が聞こえて振り返れば、またしても自分以外の毛皮生物と戯れようとしているネアに、けばだって荒ぶる銀狐がいる。
その後ろに立ったエーダリアは、どこか遠い眼差しだ。
友人が、ただの愛玩毛皮合戦に参入してしまうのが悲しいのだろう。
「あらあら、家族相当の狐さんとはまた別の毛皮ですよ。それはそうと、フリーコを作りますが、狐さんはお好きですか?」
優しく問いかけた人間の策にはまり、ぱっと歓喜の表情になった銀狐の尻尾がふりふりっと揺れる。
「素敵な食料庫があったので、ニョッキとオムレツも作れそうです」
そこまで言えば、もはや銀狐の尻尾はぶりぶりと嵐のように振り回されていた。
エーダリアとヒルド、ディノにも悲しい目で見つめられているが、足を踏みならしてご機嫌でお料理を強請っている。
「では、お料理しましょう!」
銀狐は厨房の調味料棚の上に配置され、総監督的なポジションから皆の働きを見守ることなり、ネア達はそれぞれに下拵えに取りかかった。
ヒルドはある程度の料理なら出来るがあくまでも食べられる範囲であり、焼くか炒めることしか出来ない程度のエーダリアに、ご主人様の手足となって働くばかりのディノなので、ここはネアが指揮を取る必要がある。
「よし」
美味しいご飯の為に腕まくりをすると、ネアは幸せな戦いに没頭した。
野菜の下拵えはヒルドとエーダリアがやってくれたので、ネアは、素人には面倒なところを片付けてゆく。
ディノには卵をとく作業を任せてみたが、まるで劇薬を混ぜるような手つきで行ってくれた。
「ディノ、ニョッキを作りますよ」
「うん。………これが、生地なのかい?」
最近のお料理で生地という言葉を会得した魔物は、早速使い始めたようだ。
ちょっと得意げに言うので、ネアは微笑んで頷いてやる。
ヒルドが茹でてマッシャーで潰してくれたジャガイモに、粉と塩を入れてエーダリアが練り上げてくれたものだ。
このあたりまでは工作なので、指示さえ出せば器用な二人にも簡単だったようだ。
「さて、ディノにお仕事です。生地を寝かせる為に必要な時間をずるするので、魔術でどうこうして下さい」
「分かったよ!」
ご主人様には出来ない自分の得意な分野の作業依頼に、魔物は張り切って一時間程の老化魔術をかけてくれた。
対象物に一定の時間の負荷をかける加算魔術は、割とこちらの世界ではポピュラーに料理に転用されている。
お料理以外では、扉や橋などを腐らせて壊したり、薬草などを急成長させるのに使うものだ。
最初ネアは、敵を老化させたりするのだろうかと思っていたが、魔術階位や魔術の理が壁となり、そこまでの高度な攻撃魔術としては活用し難いらしい。
そして実はこの魔術、大技派のウィリアムが得意とする、数少ない精緻な魔術でもある。
「では、私が生地を切り分けるので、ディノはフォークでぐっと押して下さい。ほら、このくらいが目安ですよ」
「うん」
「狐さんは、肉球を誇示されてもこの作業には使えません。毛だらけニョッキになってしまいますからね」
ディノが仕上げをしたニョッキ達は、ヒルドが上手に茹でてくれた。
その隙に、ネアはニョッキのチーズクリームソースとオムレツを作る。
腹ペコなのでフリーコまでさくさく焼いてしまったネアは、ぽつんと待っていたエーダリアには、ニョッキをソースと絡めるという重要任務を申し付けておいた。
かくして、素敵な昼食が出来上がった。
あつあつのオムレツやフリーコを切り分け、ニョッキを木のスプーンで自分のお皿に取り分ける。
持って来たバターたっぷりのブリオッシュは、薄く切ってかりかりに焼いてオムレツやフリーコと合わせて食べた。
「オムレツのソースは何なのだ?」
「バルサミコ酢とトマトのソースですが、酸味が足りない方用です。塩胡椒だけでも素朴で美味しいですよ」
エーダリアはバルサミコ酢ソースのオムレツ、ヒルドとノアはフリーコ、ディノはニョッキ派であるらしい。
普段はバランス良く食べるエーダリアやヒルドも、大皿から分け合う食事になると、それぞれの好みが出てくる。
「ノアは応援していただけでしたね」
「だってほら、ネアが肉球を否定したからね」
「毛がお料理に入ってしまうではないですか!」
「じゃあさ、夜は僕が肉を焼くよ。肉だけは上手く焼けるんだ」
「む!美味しいお肉は正義ですので、それならお任せしますね」
今回の昼食は到着したばかりなので手早く片付けてしまったが、夜にはヒルドが素敵なビシソワーズを作ってくれるそうだ。
幼い頃のエーダリアの好物で、これだけは完璧に覚えたらしい。
エーダリアはゆで卵とオリーブでサラダを作れるそうなので、ネアは梨とチーズでリゾットを、ノアの使う牛肉を少し貰ってマスタードとセロリのタルタルを作ることにした。
(デザートには、甘く煮た栗でカップケーキでも作っておこうかな)
苺は、ジャムにするべくお砂糖をかけて寝かせてあるので、これは明日の朝食に生かそうと思う。
煮る時に出る泡を紅茶に入れると美味しいので、後でディノに作ってあげよう。
「それでだな!侵食の系統の魔術に、こんな術式があるとは知らなかったのだ」
食べながら話すのは、エーダリアが発掘した古い魔術書の内容だ。
「ありゃ、それって砂糖の得意魔術じゃなかったっけ」
「砂糖の魔物か!」
「そうそう。でも、侵食の魔術なら、僕も得意だよ。その術式ならさ、外側を水よりも空気の輪にした方がいいかな」
「しかし、エーダリア様は空気の属性の扱いはあまり得意ではありませんよ」
「だ、だが、折角だしな。やってみるぞ」
「ネイが提示したものと、後はご自身が得意なものでの補填をご相談してみてはどうですか?」
指南役にそう言われ、エーダリアははっとしたように顔を上げた。
確かにここには、白持ちの魔物が二人もいるので、見付けたものを会得する以上のことが出来るのだ。
「では、事象系の魔術でこの陣を強化出来ないだろうか?」
「そうなると、僕よりシルだね。シル、事象系なら何だと思う?」
「そこまで深く形を作らなくてもいいよ。認識を侵食に紐付けて、視認させればいいだろう」
「視認か………!それは考えたこともなかったな。だが確かにその手法で確立出来れば、今迄捕まえ難かったものにも、魔術の効果を付与出来るな………」
ここで首を傾げたのはネアだ。
「音の魔術はよく聞くのですが、見て効果を及ぼすようなものが少ないのには理由があるのですか?」
「視認魔術は、人外者の固有魔術の領域なんだ。だけど、エーダリアは調整や浸透が得意だからね。出来ると思うよ」
「そういう意味では、休み明けの祟りもの討伐には注意するのだぞ。恐らく、視認性の固有魔術を持っている」
エーダリアにそう言われ、ネアは目を丸くした。
物語やおとぎ話ではよく出てくる敵の能力だが、こちらの世界で遭遇するのは初めてだ。
「だ、大丈夫なのでしょうか?目隠しした方がいいですか?」
「お前は一番危ういだろうな……」
「確かにネア様には酷な任務になるかと………」
「ほわ………。そんなに怖いやつなのですか?」
「ああ、あれはねぇ。………ネアの好きな餅兎に似てるもんねぇ」
「…………もちうさ」
よく飲み込めずに眉を顰めたネアに、ノアが教えてくれた。
「本体は屋敷の形をしてるんだけど、移動時にはふわふわの動物に擬態してるんだ。しかも、もの凄く可愛いって認識させてくるから、討伐で追い詰められたら多分その姿で逃げようとするんじゃないかな」
「…………どうしましょう、エーダリア様。倒せる気がしません」
「だからアルテアが…………いや、当日はその点も考慮している。くれぐれも、祟りものに籠絡されぬようにな」
「むぎゅ」
ネアは、悲しい気持ちでニョッキを噛み締めた。
染み込んだクリームソースがじゅわっと口の中に広がって素敵な味わいだが、もちうさもどきを倒すとなると気持ちは晴れない。
次の任務で生還出来るのか、不安になってきたのだ。
この前に廊下で出会った白もふを思い出す。
アルテアにお願いして、どうにかあの獣を同伴して貰えないだろうか。