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林檎のオアシスと砂漠のテント


「今日は一日宜しくお願いします!」


ネアがそうお辞儀をしたのは、リーエンベルクに迎えに来てくれたウィリアムだ。



ネアの後方には、毛布にくるまって荒んだ瞳をするディノがおり、その肩にはけばだった銀狐が乗って荒ぶっている。

一緒に見送りに来てくれたヒルドにむぎむぎと何かを訴えているが、ウィリアムに直接攻撃をしかける勇気はないらしい。


「ああ。せっかく休みを取ってくれたんだ。楽しんでくれると嬉しい。では、シルハーン。ネアをお借りしますよ」

「…………朝食までには、必ず連れ帰るようにね」


ディノがそう言うのは、今回の砂漠遊びは夕方から夜明けを楽しむ会だからである。

この時期の砂漠に日中出るのは現実的でなく、この季節ではなくとも日中は熱いだけなのだそうだ。

なので素敵に赤く染まる夕暮れの砂漠を堪能し美味しいご飯を食べ、満月と満天の星を眺める夜の砂漠ツアーを楽しみ、少しだけテントで仮眠を取ってから、翌朝の夜明けの砂漠遊びとなる。

リーエンベルクに戻って来て朝食はいただくが、朝帰りになるので、念の為に翌日の仕事には代休を使わせて貰うことにした。


薬を作るのはディノなのだが、どうも戻ってきた日は拗ねているディノを宥めることに時間を割かれそうな気がしたからだ。


今回の話を聞いたエーダリアもとても羨ましがったのだが、国外ということもあり事前調整が追い付かずにお留守番となっている。

今も、部屋の奥からとてもお土産が欲しそうにこちらを見ているので、何か探してこようとネアは考えていた。


「では行ってきますね。ディノ、私が留守の間は、エーダリア様とヒルドさんの言うことをきちんと聞いて下さいね。狐さんと寝台に寝ても構いませんが、お部屋を散らかさないようにして下さい」

「…………ご主人様」

「ムグリスになってついてくるのは禁止です。ムグリスには、砂漠の熱気は良くないでしょうから」

「ひどい……………」

「大丈夫ですよ、シルハーン。彼女に危険なことがないよう、しっかり俺が面倒を見ますから。それに、これは悪夢のときの謹慎の残りなんですよね?」

「ウィリアムなんて…」

「ディノ?罪を重ねてはいけませんよ?」

「ひどい…………」



かくして、ネアは砂漠の半日ツアーに出発した。



(悪夢の時に約束してたから、随分と先になってしまったけれど)



転移での現地入りだったのだが、ウィリアムはあえて公共の転移門を一つ経由してくれた。

素晴らしいモザイクが施され、魔術陣にも似た幾何学模様のある瑠璃色の門を抜けると、違う文化の土地にやって来たのだという感覚がひしひしと伝わってくる。

その門を見せてくれたウィリアムにお礼を言ったところで、ネアは目の前に広がる砂漠の美しさに声を失った。



見渡す限り、どこまでも薔薇色の砂丘が広がっている。



砂漠は夕焼けに照らされ見事な薔薇色に染まっているが、夕日の映り込みが弱い部分はクリーム色に近い薔薇色で、何層にも連なる砂の山の陰影がえもいわれぬ美しさだ。

空は淡い藤色から紺色への変移を辿るところで、気の早い星々が上の方でまたたいている。


遠くの砂丘を歩くのは、駱駝を連れた商隊だろうか。

夜空と薔薇色の砂丘にシルエットが際立ち、まるで一枚の絵のように見える。


右手には木々の生い茂るオアシスの入り口があり、訪れる者達を潤す為か、モザイクで装飾された噴水には豊かな水が湧き出していた。

その水辺に、旅人とおぼしきクゥトラをつけた男性が佇んでいる。

一緒に居る駱駝に噴水の水を飲ませているようだが、その駱駝の頭に止まった鸚鵡が中々にシュールだ。



「凄いです…………。砂漠を実際に見たのは、初めてで……」



暫く見惚れてからそう呟けば、ウィリアムはこの時間も一番美しい時間だからと微笑んでくれる。

今は鮮やかな薔薇色が勝っているが、刻々と砂漠は色を変えてゆき、完全に日が落ちると見事な紫紺に染まるのだとか。


「今夜は満月だから、その紫紺の砂丘の頂だけがぼんやり青白く光る。運が良ければ、砂の歌い手達に会えるかもしれないぞ」

「砂の歌い手さんですか?」

「ああ。誰もいない夜の砂漠を歩くと、どこからか音楽が聞こえてくる。音の出どころはわからないが、砂漠には楽を奏で踊る人々の影が映る。滅びた国の彷徨える亡霊だとか、魔物の罠だとか言われているが、実際には砂の歌い手と呼ばれる妖精なんだ。音楽を辿って彷徨う人間の恐怖心や、逆に美しい歌声や音楽に感謝する人々の喜びを餌にする」

「一人で遭遇したら怖いかもしれませんが、ウィリアムさんが一緒なので見てみたいです!」


そんな風に話している間にも、ゆっくりと砂漠は色を変えていった。

少し歩こうかと言うウィリアムに手を引かれ、まだじわっと熱い砂漠の砂の上を歩く。

さりさりと爪先が沈んでゆくので歩きにくいが、ウィリアムに砂歩きの魔術を展開して貰えば、爪先が砂に沈まなくなった。


ざあっと砂塵が吹き抜ける。


こちらも砂が目や口に入らないように結界を展開して貰っているので、口の中がじゃりじゃりしたりもしないが、そのような備えなく砂漠を歩く者にはなかなかの障害だろう。

遠くを見渡せば、砂にけぶる砂丘が幾つか見え、そんな淡く砂色に霞む色合いがまた、この素晴らしい情景に変化をつけていた。



「こういう過酷な土地にしては珍しく、砂漠には死の気配が少ない」

「そうなのですか?………何と言うか、行き倒れる人がいそうな気がしてしまいます」


遠くを見て静かに呟いたウィリアムは、首を傾げたネアにその訳を教えてくれる。


「砂漠は、死者を回収していくような隊列や、死者そのものを喰らってしまうような生き物が多い。砂漠で死んだ者は、それがどれだけまっとうな死に様であろうと、あまり死者の国まで辿り着けないことが多いんだ。………だから、俺にとって砂漠はとても静かな場所に感じる」

「そういう理由なのですね。………亡くなった方達にとっても、過酷なところなのでしょうか」

「かもしれないな。隊列に回収されると、ほぼ永劫に砂漠を彷徨うことになる。家族や友人に見付けて貰えれば死者の国に行けるとされているが、隊列と言っても様々な隊があってな。そこから救い出される死者は滅多にいない」

「前に話してくれた、呪縛を司る魔物さんの隊列も、その中の一つなのですね?」

「ああ。捕えた死者を囮にして新たな生者を取り込んでゆく、呪縛の妖精の隊列もある。砂猫の魔物の隊列は、賢人や魔術師だけを集めた隊列だ。力のある魔術師が行き詰ると、その隊列を探して油や酒と引き換えに、過去の偉人達の知恵を借りに行くというな」

「まぁ、そんなところもあるんですね!砂猫さんは、にゃんこのお姿なのでしょうか?」

「ああ、ネアの好きそうな毛皮の魔物だと思うぞ。ただ、老人の声で、性格は腹黒い商人のような者だから、気質はあまり好ましいとは言えないかもしれない」

「…………可愛くないにゃんこ」


思いがけない出会いへの夢が砕け散り、ネアはしょんぼりする。

小さく笑ったウィリアムが、その代わりにと違う生き物を紹介してくれた。


「砂狐の魔物は可愛かったんじゃないかな。耳が大きくて、狐の時のノアベルトぐらいの大きさだ。砂嵐の前兆だが、時々嵐から取り残されてオアシスで迷子になっていたりする」

「ほわ!砂狐さん!」

「砂牛という砂塵の妖精もいるぞ。牛という名前だが、鹿に似ている馬ぐらいの大きさの生き物なんだ。砂漠で迷った者をオアシスまで届ける代わりに、その者の幸運を一つ奪うとされている」

「う、奪われては困るので、見てみたいけれど会えません………」

「だから砂漠の民は皆、安価な宝石を一つポケットに忍ばせているそうだ。オアシスが見えてきたら、躓いたふりをして宝石を落して大袈裟に騒ぐと、砂牛はその宝石を持ち去って姿を消してしまう。その時には、大事な財産がと騒ぎ立てるといいらしい」

「ふむ。狡賢い人間の知恵ですね!うっかり幸運を奪われたら嫌なので、そのお話を聞いておいて良かったです!」


話しながら砂漠を歩いている内に、涼しい風がどこからともなく吹いてきた。

陽が落ちるのと同時に、砂漠の気温はぐんぐんと下がり始める。

その温度差は面白いくらいで、ネアは瞬く間に変化してゆく世界を楽しんだ。


空を見上げると角のある雀のような生き物が飛んでゆき、きらきらと淡い夜色の光の尾を引いている。

淡いヴェールを翻すようにして一瞬姿を見せたのは何だろう。

砂漠の国の踊り子のような絢爛豪華な衣装が美しいが、妖艶な褐色の肢体にきらりと光る緑色の目が鋭く見えた気がして、背筋がぞくりとした。


「色々な者達がいるだろう?ここは遮るものがないからな、こういうあわいの時間には、人外者達の交差が激しい」

「先程の、綺麗な女性の方もですか?」

「ああ、黄昏のシーだな」

「む…………」


ネアは少し引っかかりのある肩書きだったのでぴくりとしたが、ウィリアム曰く、黄昏の妖精には王族相当の者が複数名いるそうだ。

良く考えればシーという肩書は王族のそれなので、ロクサーヌのように女王でもある妖精が人間の領域にいることは珍しい。

人の集まるところに需要のある紅薔薇だからこその隣人であり、本来、種族を取り纏める立場のシーは、その一族の城に住んでいると知ってネアは目を開かれる思いだった。


(そっか、偉い妖精さんの全てが人間と関わり合って生きている訳ではないのだわ)


「だが、あわいを司る者は人間にはあまりいい存在ではないからな。ネアは、関わらない方がいい」

「そうですね。綺麗な方でしたが、目の印象があまりにも強くてどきりとしました。うちの魔物がおかしな由縁を持っていない限り、二度とお会いすることはなさそうです」

「………リンシャールは、以前アルテアと関係があった。彼と砂漠に行く際には注意しようか」

「心に刻みます………」


アルテアが相手となると、ディノとはまた違う感じで拗れている可能性がある。

そう考えかけて、そもそもネアの知る魔物達の中には、お相手の女性との間に複雑な事情がなさそうな魔物の方が少ないことに悲しい気持ちになった。


(ディノは無頓着で恨まれそうだし、ノアは言わずもがな。アルテアさんは飽きて捨てる時とかに恨まれそうで、ウィリアムさんは自分でも知らない内に傷付けていそうな……)


安心していられるのはゼノーシュと、最近知り合いになった森の賢者くらいだ。



「………葉っぱさんに、この景色を見せてあげたいです」

「ん?葉っぱ?」

「ええ。祟りものの列車に乗った時に、一緒にいてくれた森の賢者さんなのです。葉っぱ姿の方で、トトラさんというお名前なのですよ。ディノとノアも仲良しになりました!」

「………トトラに会ったのか」

「まぁ、お知り合いなのですか?」


ここでネアは、思わぬ繋がりに驚いた。

薄らと藤色から藍色へと色合いを変えてゆく砂漠を歩きながら、存在感を増してゆく月明かりに浮かび上がる終焉の魔物の白さに見惚れながら、話の続きをせがむ。

擬態下手ということで他の者達には見えないようにしているそうで、姿を擬態しないでいるウィリアムは、ふわりと風になびくケープと純白の軍服が美しい。

悪夢の中で見た軍帽姿をもう一度見たいなと思っていたら、こちらを見て淡く微笑んだ。


「トトラという森の賢者は、最古参の森の賢者の一人なんだ。森の賢者の中にはその厳しい性質を司る賢者もいるが、トトラは慈悲深く無垢な部分を司る賢者だ。昔、風竜の子供達が森の精霊に襲われた時にトトラが助けてやったことがあるそうで、風竜には代々子供にトトラと名付ける一族がいる」

「まぁ!素敵なお話ですね。ご本人は知っているのでしょうか?」

「うーん、どうだろうな。その後再会したという話は聞かないから、知らないかもしれない」

「今度、みんなでお手紙を出す際に教えてあげてもいいですか?」

「ああ。トトラなら、喜ぶだろうな」

「ウィリアムさんご自身もお知り合いなのですか?」

「ああ。トトラが持つ森の秘宝は、俺に属するものなんだ。何度か会ったことがあるよ」

「むぅ。あの銀色のベルですね………」


ネアがそう言えば、ウィリアムは珍しく焦ったような顔をした。

両肩にしっかり手を乗せられて、顔を覗き込むように言い含められる。


「ネア、あのベルだけは、貰わないようにするんだぞ?」

「一晩の宿とご飯のお礼に差し出されたことがありますが、丁重にお断りしました」

「………危なかったのか」

「ウィリアムさん、さすがに私も、あのベルはそうそう使いません……」

「そうだよな」


ウィリアムは微笑んで頷いてくれたが、どうにも信用されてない気がする。

一番深い夜の色が滲むように広がる天上を見上げながら、ネアはむむぅと眉を寄せた。


「はは、すまない。つい、心配になってな。………さて、砂漠の色も落ち着いたことだし、美味しい夕飯をご馳走しよう」

「その後は、星空の下でテントですね!」

「ああ。雲や水蒸気などの遮蔽物のない砂漠は、夜になると温度が逃げやすい。かなり冷えるから、温かくするようにな」

「はい!火織り毛布を持ってきました」


憧れの砂漠のテントなので、弾むような足取りになったネアに、ウィリアムはふわりと頭を撫でてくれた。

頭頂部を滑っていった大きな手に、ネアはふと、今日のウィリアムは何だか昔の彼の様で一緒に居ても窮屈ではないことに気付く。


(こっちのウィリアムさんの方が好きだけど、また少し他人行儀になってしまったのかしら?)


じっと見上げると、ん?と眉を持ち上げてこちらを見る瞳は、冴え冴えとした白金だ。

どこまでも排他的な色彩の魔物なのに、こうして手を繋いでいてくれる。

何だかそのことが嬉しくなって、微笑んで首を振りつつ繋いだ手をぎゅっと握ると、なぜかウィリアムは視線を彷徨わせた。

そうきたかと呟いているが、何のことだろう。



「ここが、サナアークのオアシスだ。前に話した、先代の林檎の魔物が亡くなった土地から派生したオアシスの一つだな。そこかしこに、かつては深い森だったと示すものが残っているだろう?」


ウィリアムが連れてきてくれたのは、砂色の城壁に囲まれたオアシスだった。


オアシスの中には見事な林檎の木が茂り、季節を問わず硝子細工のような紅い林檎の実をつけている。

風にその林檎が揺れると、リィンという物悲しい音が響くのだ。

結晶化した大木の残骸が転がる街には、煉瓦造りの瀟洒な建物が並ぶ。

窓の周りや扉の部分には、瑠璃色で複雑な模様が描かれていて、壁を這う蔓薔薇がぼうっと燃えるように淡く光る。

見慣れた文化圏の建築とは違う異世界感がある佇まいに、ネアはしばし見惚れた。


「寺院を中心としたオアシスの町だ。寺院に祀られているのは、先代の林檎の魔物と、白百合の魔物だな。町の外れには森の精霊の王子の祠もあるが、そちらは石を積んだだけの簡素なものなんだ」

「家々の扉には、必ず百合と林檎の模様が描かれているのですね………」

「ああ。今もここがオアシスとして残るのは、あの二人の力のお蔭だからだろう。かつて、サナアークには千年王国があり、ヴェルリアの王宮もかくやという見事な王都があったが、今はもう砂に埋もれてしまった」


語る声は淡々としている。

けれどもどこかに寂寥を添わせ、ネアは砂の底にあるという千年王国の王宮を思った。

その時代の誰かが、今も砂漠の隊列で彷徨っていたりするのだろうか。



「さて、串焼きとこの地方特有のクレープの店がある。そこでいいか?」

「く、串焼き!」


素敵なケバブの登場が見込まれ、大はしゃぎのネアにウィリアムが小さく笑う。

この町に入る為に彼が纏った擬態は、砂漠の国の魔術師のような見慣れない美しい装いだ。

幾重にも重ねた複雑な漆黒の衣装にあでやかな極彩色のターバンを巻き、しかしながらこの辺りは厄介な魔物や妖精も出るということで、あえて瞳の色はそのままにしてある。


「………ウィリアムさんは、服装を変えるとがらりと雰囲気が変わりますね」

「よく言われるよ。終焉や死は、幾通りも姿を持つものだからだろう。例えばシルハーンは、あまり彼らしさを変えない。それは、万象というものが、多面性こそあれ、変わりがないことを象徴するものだからだ」

「むむ。分かるような気がしますが、小っぽけな人間めには、深くまでは理解出来ていない気がします」


正直にそう告白したネアに、ウィリアムは優しく微笑んだ。


「いや、ネアはそれでいいんだろうな。ネアにとってのシルハーンは、彼がどういうものなのかではなく、彼自身なのだろう」

「だとすれば、私にとっては皆さんがそうなのです。ウィリアムさんも、アルテアさんや、ゼノ、ノアも」

「はは、俺達は幸運だな」

「………幸運、なのでしょうか?」

「ああ。司るものが永らく揺るぎない魔物は、それ以外の何者にもなれないものだ。だから俺達は擬態をして幾つもの名前を名乗って暇潰しをするし、他の生き物達と交わろうとする。司るものの資質ではなく、ただの自分を認識する相手を得られることは、そうそう得られる恩恵じゃない」


さも特別かのように言われれば、ネアは少し考えた。


「しかし、そのような価値観は、私一人のものでもありません。同じ魔物さん同士なら対個人でしょうし、世の中には沢山の人がいると思うのです」

「そう思うか?じゃあそれは、俺達と対等に関わり得る者で、俺達に損なわれることなく、敵対せず好ましいものだろうか」

「………あ」


ウィリアムの言いたい事がわかって、ネアは頷いた。

どこにどんなひとがいようと、それが自分の知らないままの誰かや、自分にとって不愉快な誰かでは意味がないのだ。

ウィリアムが幸運だと言ってくれたのは、とても現実的な部分だったのである。


「それなら、私もウィリアムさんに出会えて幸運です。逃さないように、大事にしますね!」

「………ネアは、時々全力で揺らしにくるな」

「あら、腕を引っ張り過ぎましたか?」

「いや、…………ほら、あの店だ」

「わ!なんて可愛らしい建物なんでしょう!イブメリアのクッキーのようですね」



そのお店は、砂色の壁に描かれた精緻なつる草模様が、アイシングでレース模様を描いたクッキーのように見えた。

飾り窓のついた扉をくぐれば、何百ものランプを並べてある何とも幻想的な店内だ。

ランプの火は魔術の火なので、煤が出たり熱かったりもしない。


感じのいい店員はウィリアムの瞳を見て少しぎくりとしたものの、様々な生き物が立ち寄るオアシスの住人らしく、騒ぎ立てもせずに席に案内してくれた。

この土地の料理を知っているウィリアムがネアの要望を聞きながらあれこれ注文してくれて、テーブルの上はあっという間に美味しそうな料理で埋まる。


「ほわ………」


ネアが目をキラキラさせて眺めるのは、羊と牛のものの二種類を頼んだ、こんがり焼けたケバブ的な串焼きだ。


その他にも、この地方の有名なクレープのような料理があり、石釜に薄く伸ばして焼いた生地にお肉や野菜を包み、ぴりりと辛い香辛料の効いたソースにつけて食べる。


少しずつ取ってもらった伝統料理は、ひよこ豆とスパイスのディップと、中に挽肉と山羊のチーズを入れて揚げた一口サイズのお団子のようなもの。

オリーブとアーモンドと一緒に蒸した鶏肉は、素焼きの帽子のような形の入れ物に入っていて、ネアは驚いてしまった。


セロリのような香りの野菜を細かく刻み、オリーブ油とレモン汁、クミンに塩胡椒で和えたさっぱりしたサラダは、この辺りではどんな料理にもついてくるのだとか。

頼んでもいないのに出されて、ウィリアムは苦手なんだよなと苦笑していた。


食後には、この地方特有の濃い珈琲が出るからと、棗椰子のシロップをかけた揚げドーナッツを頼んでくれる。



「こういうお料理を食べる機会はあんまりないので、凄く嬉しいです」


ネアがご機嫌なのは、羊の串焼きが思っていたよりも甘辛くて美味しかったので、一口目から至福の境地に突入したからである。

ウィリアムが苦手だというサラダも、クミンの風味がややきつめだが、口の中がさっぱりして嫌いではない。


一杯だけ土地の地酒もいただき、ネアは良きにはからえの素敵な気分でお店を出る。

砂漠の街の不思議な熱気に浮かされるように沢山お喋りしたが、ウィリアムは自分のことも話してくれたので気恥ずかしい気持ちにはならなかった。


一言で言うならば、とても陽気な気分だ。



「ウィリアムさん、お月様が凄いですよ!落ちてきそうなくらいに大きいです!」

「ダイアナが近くに降りているのかもしれないな。ほらネア、転ばないように手を」

「この風は、どこから吹いてくるのでしょう?」


素直にウィリアムの手を取りながら、ネアは林檎の木の森を揺らす風に目を細めた。

外はすっかり夜になっていたが、月光でけぶるように明るい。

噴水の水音に、災厄避けの香を焚く甘い香りがして、胸の奥が感傷にざわざわする。


ふと、ノアと出会ったラベンダー畑のことを思い出した。



(と言うことは、ここにも感傷を掻き立てるような魔術があるのだろうか)



「砂漠の向こうから渡ってくる風だ。さて、テントまではクルツに乗ろうか」

「クルツ?」

「馬に似ているが、種族としては竜にも近い。夜の砂漠を走る、砂の妖精の一種なんだ」

「謎めいています」



そのままクルツ乗り場に来たネアは、不思議な生き物の姿に驚いてしまった。

牛の角のある綺麗な女性がその生き物を貸し出しており、お客を運んだクルツは、黒い蝶の姿になって戻ってくるのだそうだ。


「これが、クルツさん………」


クルツが怯えないようにと、ウィリアムが自分だけでなくネアのあれこれも調整してくれて、二人は鱗のある馬に乗った。

鞍の代わりに何層にも織物がかけられており、手綱は色鮮やかな編み紐になっている。

クルツは漆黒の体のあちこちに鱗があり、足は爬虫類と大型の鳥類の間のような不思議な造形の生き物だ。

額に見事な角が生えているのが、漆黒のユニコーンのようで美しい。


ウィリアムがこれまた不思議な水晶の硬貨で支払いをしてくれ、二人はオアシスの街を出た。



月明かりの砂漠をゆっくりと歩く。

砂を踏む音と、クルツの手綱についた鈴が鳴る音。


砂漠は深く青く、紫紺色のその底は暗く、頂は月光に青白い。

雪原とはまた違う静謐さに、ネアはその豊かな色に圧倒された。

熱帯雨林などのような強さはないのに不思議なことだが、とても力強く鮮やかに感じるのだ。



ウィリアムはあえて無言でいてくれ、ネアに夜の砂漠の美しさを堪能させてくれた。

クルツでは後ろに座ってくれているので、背中にウィリアムの体温を感じることで、安心して砂漠ツアーを楽しめている。



「………向こうに、隊列が見えます」


ネアが見付けたのは、何頭もの駱駝を連れた大所帯のキャラバンだ。

ネアを背後から抱え込むようにしてそちらを覗くと、ウィリアムは小さく笑った。


「大丈夫だ。あれは、生者の隊列だよ。恐らく、夜の内に進もうとしているんだろう」

「転移をしたりはしないのですか?」

「ああ。この辺りはヴェルクレアなどに比べて土地の魔術量が少ない。あの人数で転移をかけるのは無理だろうな」

「ずっとこの砂漠を進むのは大変そうですね。でも、こういう場所に来たのは初めてなのに、郷愁というか、感傷のようなものを覚えて憧れに近い気持ちもあるのです」

「そういう場所なんだ、砂漠は。だから、この辺りに生まれた者達は、生活がどれだけ困窮しても砂の街を離れようとはしない。他所の土地に暮らすと、胸が潰れそうになると言ってな」



この夜の砂漠を、どこまでも歩けたら素敵だろう。

月明かりの下、こうしてクルツや駱駝に乗って。


ネアでさえそう考えるのだから、やはり砂漠というのは強烈な魅力を持つ場所なのだろう。



「お、テントが見えて来たぞ」

「ほわ!素敵すぎてびっくりしました!」


砂漠の真ん中に、大きな白いテントが立っている。


中央に支柱を設けて円形に広げる立派なテントで、その周囲には三本だけ木が生えていた。

崩れた遺跡のようなものが少しだけあり、剥き出しの壁画が何とも雰囲気がある。

まさに、砂漠の真ん中にある秘密の隠れ家という感じがした。


ウィリアムがクルツから降りれば、テントにはぼうっと灯りが入る。

その途端に、テントは秘密の隠れ家から、おとぎ話に出てくる魔法のテントに早変わりした。

美しくて秘密めいていて、こんな贅沢な風景の中に滞在出来るだなんて、どれだけ素敵だろう。

わくわくし過ぎて胸が苦しくなったネアは、蝶になってオアシスに戻るクルツに手を振った。



今晩は、このテントに泊まるのだ。





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