海渡りと海の賢者
「エーダリア様!チキンが焼けましたよ!」
ネアの声に、浅瀬に夢中の元婚約者は片手をおざなりに上げて、後で行くと合図をした。
ウィリアムに付き添って貰い、夢中でぺらぺら竜を観察しているようだ。
「まったくもう。夢中ではないですか」
「俺が連れ戻して来ましょう」
グラストが笑顔でそちらに向かい、それを見送ってから、チキンを頬張っていたゼノーシュがはっとした。
慌ててチキンを持ったまま、グラストを追いかけてゆく。
「ありゃ?もしかして嫉妬かな」
「ゼノが可愛くてチキンが美味しいです」
「ったく、ソースはこっちだぞ」
「ほわ?!スパイシーチキンだけでお皿いっぱいいけそうなのに、味を変えてくれるソースなるものが!」
グラストを追いかけるクッキーモンスターを眺めてほこほこしていたネアは、思いがけず言葉通り二度美味しいチキンに、弾んで喜びを示した。
その途端なぜか、左右後ろから三人の魔物に取り押さえられる。
「むぐ、喜びを示すのも禁じられるのは何故なのだ」
「そりゃ、君が水着だからだと思うよ」
「使い魔さんとうちの魔物を、ノアと一緒にしてはいけませんよ。その程度、道端の石っころにしか見えないただれた風なアルテアさんと、正統派には何の興味もないディノです」
「…………わーお。今ちょっと、二人が気の毒になった」
「む?」
首を傾げたネアに、魔物達はなぜかじっとりとした目を向けた。
そこにゼノーシュが戻って来る。
「ネア、竜は追い返した!」
「あら、ゼノ。竜は禁止なんですね」
「グラストは竜の頭を撫でたんだよ!僕も怒った」
「ごめんな、ゼノーシュ」
「もう竜を撫でたら駄目だからね」
ぷんすかしているゼノーシュに、グラストは笑って白混じりの水色の髪を撫でてやっている。
そうなると、グラスト大好きのゼノーシュはくしゅんと落ち着いてしまうのだから、グラストもこの魔物が可愛くて堪らないのだろう。
息子を見るように目尻を下げて、頬を染めている可愛い魔物に微笑みかける。
「む。…………と言うことはまさか」
ここでさっと鋭い視線を戻したネアは、観念した魔物達から、薄っぺら竜がとても穏やかでキュンと鳴く可愛い生き物だったと知らされる。
さぞや可愛くなくて凶暴なのだろうという雰囲気作りをされたので、うっかり興味をなくしてしまった人間は足を踏み鳴らした。
「平ぺただと聞いてヒラメやエイを想像したのに、愛くるしいなど反則です!私も撫でたかったのに!」
「駄目だよ、ネア。竜はもう充分だろう?光竜にも怖がられてしまったばかりだから、気を付けないとだよ」
「………ディノがご主人様の心を抉ります。今日は爪先を踏む気が起きそうにありません」
「ご主人様?!」
悲痛な声を上げた魔物につんとそっぽを向いて、ネアはアルテアが持って来てくれた三種類のチーズとハム、ベリージャムのサンドイッチに手を伸ばす。
しょっぱいと甘いの素晴らしいハーモニーで、永久に食べれそうだ。
「トリッパの煮込みもあるぞ」
「………トリッパ………」
「ネア、これも美味しいよ」
「ゼノの食べてるのは何でしょう?もはや、全種類食べるまで視線が定まりません」
「これはね、ズッキーニの花と夏野菜のゼリー寄せみたいだよ。ゼリー部分の味がしっかりしてて美味しい!でも、このチキンが一番好き。チーズソースが美味しいね」
「ゼノと同じ意見です。他にも神の食べ物はありますが、やはり焼きたてチキンは、海辺ではしゃいでいる感じがして食べていて楽しいですね」
焼きたてのスパイシーチキンを齧る。
かりかりじゅわっとした香ばしさに、はふはふしながら齧ってから、美味しい皮目の味付きのところを食べきれば、内側のお肉にはソースをかけて味を変える。
角切りトマトがたっぷり入った、酸味のあるトマトソースと、マイルドなチーズソース。
どちらも堪らなく美味しい。
「ふふ、ディノはこのトマトソースが好きな味ですね」
「うん。ネアはチーズソースかな」
「はい!しかし、一定間隔でトマトソースも食べたくなる不思議な連鎖です」
波竜が追い払われてしまってがっかりしていたエーダリアだが、グラストとウィリアムに挟まれてあつあつのチキンを齧っていた。
バルバの時に知ったことだが、ガレンの魔術師として現場に出ていた頃は野営などに加わったこともあるそうで、元王子のエーダリアは、野外の食事でも気にせず楽しんでいる。
「アルテアさんは食べてますか?」
「その台詞は、お前達の食べる早さを抑えてからにしろ」
「大変申し訳ないのですが、それは難しいかと………」
「無理なのかよ」
「むぅ。焼きっぱなしの使い魔さんにも、お昼を与えなければなりません。はい、どうぞ」
きちんと切り分けてから、ひょいっとフォークで差し出されたチキンに、アルテアは目を丸くした。
しかし、ふっとネアの周囲を見回して目を細めると、ぱくりと齧り付く。
その途端、ネアからの施しを止め損ねた魔物達が背後で荒ぶり出した。
「ネア、魔物に手ずから食べ物を与えるなんて、困ったご主人様だね」
「しかし、使い魔さんはチキン焼き人形と化しており、生産効率を下げない為に大事にしなければなりません」
「ネア、あまりアルテアを甘やかしたら駄目だってば!」
「そう言うノアだって、あつあつの美味しいチキンが食べたいでしょう?」
「おい、待て。今のはまさか、肉を焼かせる為なのか」
「まだ手を休められては困るので、食べる合間に労わる所存です」
ネアがそう宣言すれば、ウィリアムがおやっと目を瞠ってから苦笑した。
浅瀬で竜と戯れてきたからか、上に着たシャツの前を開いており、袖を捲り上げている。
夏らしくとても爽やかな姿なのだが、やはり人間の見目麗しい男性のそれと違い、魔物らしい凄艶さがある。
「ネア、アルテアは一応は魔物だから、焼きながら食べられる筈だぞ」
「なんと、それは知りませんでした!」
「そんな訳ないだろ。普通に両手が塞がってるだろうが」
微笑む表情で睨み合ったアルテアとウィリアムに、その二人の隙間を縫うようにゼノーシュが手を伸ばしてサンドイッチを取ってゆく。
エーダリアはグラストと先程の竜の話をしており、ネアと目が合ったノアはこちらに苦笑してみせた。
「ネア…………」
「………そして、模倣犯が出ましたね」
やれやれと思っていたところで横から声をかけられてそちらを見れば、なぜか両手にグラスを持ってみたディノに半眼になった。
しかし、時々は甘やかしてやりたくなる大事な魔物が目をきらきらさせてこちらを見ているので、ついつい籠絡されてしまったご主人様は、チキンを切り分けてから食べさせてやる。
差し出されたチキンを目元を染めてぱくりと食べてから、そっとグラスを置くと魔物は顔を覆ってよろよろと椅子に座り込んでしまった。
「………ディノ、今のは自損事故ですよ?」
「ずるい。可愛い………」
「くしゃくしゃになるのは構いませんが、海遊びの後なので、しっかり水分を摂って下さいね。脱水症状には気を付けなれけばいけません」
「ずるい…………」
脱落した魔物の頭を撫でてやりたかったが、チキンを押さえたりして手が汚れているので諦めよう。
しかし、視線を戻したネアは、困ったことにどこか寂しげな気配を漂わせたウィリアムと目が合ってしまった。
「………むぐぅ。もはや、鳥の親か介護だと思えば」
仲間外れにされた風の空気をうっかり受信してしまったネアは、懐くと幼気な鳥の雛のようになってしまう魔物という生き物に呆れつつ、またチキンを切り分けてから、フォークでウィリアムにえいやっと差し出した。
一瞬目を丸くしてから、ウィリアムは体を屈めて上品にチキンを食べてくれる。
そしてその後なぜか、片手で目元を押さえた。
「ネア、僕を忘れてるんじゃないかな」
「はいはい、ノアもですね」
「うわ、雑な感じ出すのやめて!」
「次は、そっちのソースでいいぞ」
「おのれ、使い魔さんめ!食べさせるには難易度の高いソース付きを指定してきましたね!」
しかし、現在ネアは介護士となっているので、仕方なく高齢の魔物達に餌を与えることにした。
まずはノアのお口にチキンを雑に押し込み、アルテアには、指定されたトマトソースではなく、とろりとしていてたれにくいチーズソースに漬けたチキンを口に入れてやる。
「む。やはり難易度が……」
しかし素人介護士にはやはり難しかったらしく、アルテアの唇の端にソースをつけてしまった。
慌てて反対の手を伸ばして指先で唇の端を拭ってやったのだが、アルテアは余程嫌だったのか動かなくなってしまう。
その様子を見ていたゼノーシュが、サンドイッチを持ったまま首を傾げた。
「………ネア、アルテアを攻撃すると、チキンが焦げちゃうよ?」
「ふむ。やっぱり、素人に介護は難しかったですね」
「………鳥の親ではなかったのか?」
「エーダリア様もご覧の通り、鳥の親という感じではなく、どちらかと言えば介護寄りでした。案外難しいものですね」
「アルテア殿、一人で焼かせてすみません。俺も手伝いますよ」
お昼くらいはお休み気分で過ごして欲しかったのだが、食事をある程度済ませたグラストがアルテアに声をかける。
その声で我に返ったのか、アルテアはふっと苦笑して首を振った。
(あらあら、…………)
その仕草に、ネアはエーダリアと顔を見合わせた。
やはりアルテアは、グラストにはついつい感じのいい魔物になってしまうようだ。
ある意味、グラストの無効化能力が桁外れなのかもしれない。
(さすが、グラストさん………)
ウィリアムともよく軍備や警護の話をしているし、ノアだと分かっていても銀狐にもとても優しい。
「ゼノのグラストさんは、さすがですね」
「うん。だから、竜は追い払わないと」
「………ふぁい」
「でも、ネアは竜の媚薬の効果を戻して貰った方がいいよ。あった方が安全だもの」
「…………む?」
ここで一つ、とんでもない事実が判明した。
ネアの中にある竜の媚薬の効果が、現在、何者かにより封じられているらしい。
鋭い目で周囲を見回したネアに、分かりやすく三人の魔物が反応する。
「あはは、徹底してるねぇ」
「笑い事ではありませんよ、ノア!竜の媚薬の効果が封じられていなければ、バーレンさんも逃げなかったかも知れないのです!」
「飼うわけにいかないのに、懐かせても可哀想ではないか」
エーダリアにはそう窘められたが、怒ったネアにばすばすと叩かれて、ディノは目元を染めたまま、渋々効果を戻してくれたようだ。
「確かにもういいかもね。火竜も光竜もいなくなったことだし」
「お一方は完全にいなくなってしまったので、そう言われてしまうと胸が痛みます……」
「ほら、そうやって心を傾けてしまうからだよ」
「なぜに叱られている風にされたのだ」
能力封鎖は、先の事件でバーレンとエルウィンと遭遇してから打たれた手であるらしい。
彼等がしようとしていたことを考え、下手に竜の媚薬で懐いてしまってネアが陰謀に巻き込まれないようにしたと言われてしまえば、ネアも疑いの眼差しのままとは言え頷くしかない。
「今のディノので元通りですか?アルテアさんとウィリアムさんの分も外れています?」
「蓋を外したから大丈夫だよ。くれぐれも、悪用しないようにね」
「注意事項がおかしいです………」
そこで、ふわりと転移の空気の動きがあった。
はっとして振り返った先に、綺麗に転移を踏んだヒルドがいる。
羽が陽光に透けて、上等なステンドグラスのように煌めいた。
「ヒルドさん!」
「ヒルド、早めに出れたか。ダリルだな?」
「ええ。その代わり、今日は一時間早く上がりたいそうですよ」
「そう来るだろうと思った」
ダリルは、今日は早目に上がって夜の打ち上げの準備をしたいのだそうだ。
その代わりに、お昼は仕事を引き受けてヒルドを送り出してくれたのだとか。
慌ててリーエンベルクに戻ろうとしたグラストにも、ヒルドは微笑んで首を振っている。
(エーダリア様達は、想定済みだったみたい)
そんな関わり合いが何だか素敵で、ネアは嬉しくなった。
いつだって、素敵なものが手の届くところにあるというのは何だか誇らしい。
それは例えば、エーダリア達が何だかとても分かり合っているということだったりする。
こちらを見たヒルドは、水着姿のネアを一瞬無言で見つめてから、お似合いですよと、そつなく褒めてくれて輪に加わる。
視線がなぜか違う方向を見ていたが、日差しが眩しいのだろうか。
「ヒルドさん、チキンが素敵なのですよ!ただでさえ美味しいのに、ソースが二種類もあるんです」
「おや、では試してみましょう。アルテア様、いただかせていだきますね」
「ああ。適当に食え」
ヒルドは丁寧に頭を下げてから食事を始めたが、ノアはひらひらと手を振る。
「気にしなくていいよ。アルテアには迷惑かけられたんだし。今回の食事当番は迷惑料みたいなものでしょ」
「では、遠慮なく」
「いや、迷惑料なら、お前達に支払う義理はないからな?」
「となると、やはり私によく懐いているからなのでは……」
「お前は黙って食べろ」
介護したばかりなのに邪険にされたネアは、むむっと眉を顰めてから、ひっそりと隣でまた両手を塞いでいるディノの為に、ゼリー寄せを口に入れてやった。
「あれだけ騒いだんだ。きちんと海老も食え」
「わ!先程の海老さんです。青い方ですか?」
「ああ、お前が採った方だ」
「青い貴婦人か…………」
エーダリアが驚いて見ているのは、さっと香草蒸しにして半生の部分も残した、青い殻の見事な海老だ。
檸檬を搾り、溶かしバターに塩と香辛料を入れたものにつけて食べる。
「美味しいです!」
ロブスターもかくやという大ぶりな海老だが、みんなで一口ずつ食べてあっという間に完食してしまった。
特にグラストが気に入ったようで、これは美味いなと呟いている。
「これもだな」
「海老様!」
アルテアが採ってくれた方の海老はシンプルな塩焼きになって出され、これもまたほくほく甘くてぷりっとした味わいにネアは身を震わせる。
二匹目の海老を独占させて貰ったので、ネアは、網焼きサザエは男性陣に譲ることにした。
ノアとヒルドで一つ、ゼノーシュとグラストで一つ食べて貰い、ネアはサザエが苦手だというエーダリアから、サザエ型の魔物と戦った話を聞かせられる。
鮑については高位の岩の精霊だと発覚し、蒸してから煮込む手の込んだ料理の方がいいと言われたので、ほこりへのお土産となった。
「お魚は………」
「これは海に返してこい。セレスティーアのところの兵士だ」
「…………兵士さん。………鯛ではなく、兵士さん」
「ほら、魚は精霊なのだから食べない方がいいよと言っただろう?」
「しかし、ディノ。食べてしまえば普通のお魚と同じかと思ったのです!とは言え、白もふさんに嫌われたくないので、海に返してきますね」
黄色いバケツを持って波打ち際までぽそぽそと歩いて行ったネアは、精霊だという鯛的な生き物を放流した途端に、バケツの中に逃げ込んできた生き物に目を丸くした。
「………ちびらっこ…………」
ふわふわの黄色い毛皮を持つ手のひらくらいの生き物で、ラッコに似ており貝などではなく胡桃ほどの宝石を抱いている。
ぶるぶると震えてバケツにへばりついているのは、どうやら保護色だと思ってのことのようだ。
(…………海の方から逃げてきたという事は、他の生き物から逃げて来たのかしら?)
不思議に思って顔を上げたところで、すっと隣にディノが立った。
「………ディノ?」
「君はここにいるように。………ノアベルト」
「任せて。飛び出さないように捕まえておくから。あっ、取られた」
慌てて駆け寄ってきたノアベルトに手を伸ばされたネアだったが、横から別の誰かにひょいっと抱えられてしまう。
さわりと揺れた白い髪に、遠くのエメラルドグリーンの海の色が鮮やかだ。
「ウィリアムさん……」
「海渡りだな。この島の気配が気になって、覗きに来たのだろう」
「海渡り………?」
抱き上げてくれたウィリアムに視線で指し示され、ネアは海の色が変わっている方に目を凝らした。
最初はよくわからなかったが、見ている内にそこに誰かがいるとわかって、ぎくりとする。
(…………大きい!)
海の上にそびえるように、巨大な二本の足が見えた。
空気に淡く青い影を乗せたような色彩で、まるで陽炎のようだ。
もやっとした曖昧で透明な輪郭なので、もし近付いてもぶつかるまでは気付かないかもしれない。
人間のものと獣ものを足したみたいな足だが、あまりにも大き過ぎてネア達の視界に入るのはどんなに頑張っても膝下までとなる。
それより上は、雲の上に隠れてしまっているのだろう。
「ディノは大丈夫でしょうか?」
ネアの大事な魔物は、その生き物と相対するかのように水面を歩いて近付いていた。
途中で立ち止まってくれたが、海渡りとやらが足を蹴りあげたら吹き飛ばされてしまいそうな位置ではないか。
「ああ。問題ないから、心配しなくていい。シルハーンがいてくれて良かった」
「そんなに凄いやつなのですか?」
「海渡りはね、海の魔物の配下で、ぼんやりとした意識しかない生き物なんだよ。僕達だけだと、意思疎通も出来ないから通り過ぎるのを待つしかないけど、シルの場合は精神圧でどかせるからね」
ノアもそう説明してくれたが、ネアはいまいち飲み込めずに首を傾げる。
「ディノ、だからなのですか?」
「在り方の問題なんだ。シルハーンは万象としての力を振るえば、ああいう曖昧な者にも影響を与えやすい。俺やノアベルト、アルテアでは、排除することは簡単でも畏怖で退かせることは出来ないからな」
「まぁ、ウィリアムさんでもなのですか?」
「ああ。海渡りは、風や波で崩れても海さえあればまたすぐに形成される、形があってないような魔物だ。だから、死や終焉に対する認識がとても薄くてな」
「ほら、あれだけ大きいから、静かに立ち去らせないと津波を起こすからね」
ノアのその言葉に、またぞくりとした。
「となると、歩いている時も被害が出るのですか?」
「いや、攻撃を受けたりする時以外は実体化しないものなんだ」
「まぁ、普段は見えないことも多いしね」
(…………こんな生き物もいるんだ)
ネアは呆然として、海の上に静かに立っているディノと、その向こうにそびえている海渡りの足を眺める。
たぷんと、波が打ち寄せる音にはっとして、それまで波が止まっていたことに気付く。
波がまた動き出したのだと悟った時にはもう、海渡りの足は反対側へ歩き出していた。
ウィリアムの言うように、歩いて行くその足元には、波も立たず質量も感じられない。
(良かった。ディノも無事だわ)
ディノは、またゆっくりと水面を歩いてこちらに戻って来た。
魔物らしい力を振るったのか、ふわりと真珠色の髪が揺れ、一歩進むごとに足元の水面が淡く藍色に光る。
まとわりつくようにゆらりと立ち上るのは、虹のような不思議な靄だ。
いつもの服装ならさぞかし神々しい光景だった筈なのだが、残念ながら今日は水着姿なのである。
「ディノ、大丈夫でしたか?」
ウィリアムに下ろして貰ったネアは、駆け寄って腕の中に入れて貰う。
そうすると、なぜか魔物は微かに目元を染めた。
「高位の魔物がいるとわかったので、海の魔物だと思ったようだ。ここは閉ざされた島だから入れはしないが、高波を起こすと厄介だからね」
「追い払われて、怒っていませんでしたか?」
「さあ、海渡りはあまりはっきりとした感情は持たないんだ。どちらかと言えば、不穏な気配がしたから立ち去ったという感じかな」
「良かったです。あの大きなものにディノが恨まれたら嫌ですから」
ぎゅうと抱きしめてそう言えば、魔物はなぜか震えてしまった。
怖かったのかなと不憫になって手を引いてやったところで、ウィリアムの足元に置き去りにしてきてしまったバケツが目に入る。
「は!ちびラッコ!」
「ちびらっこ…………?」
「はい。お魚さんを放流した際に、バケツに逃げ込んで来た子なのです。もしかしたら、海渡りさんを怖がっていたのかもしれませんね」
慌てて戻ってバケツを覗き込むと、ちびラッコは白っぽい魔物に囲まれて震えていた。
恐怖のあまりに取り落としたのか、抱えていた宝石はバケツの底に沈んでいる。
「みなさん、ちびこい子なので、怖がらせてはいけませんよ!……ちびラッコさん、もう海渡りさんはいなくなりましたので、海に戻りますか?」
ネアにそう問いかけられたラッコは、こくこくと頷いているので人間の言葉がわかるようだ。
一緒に覗き込んだノアが、驚きの声を上げる。
「わーお、それって海食いだね」
「海食い………。ラッコさんではないのですか?」
「海の表面を食べる妖精だよ。海の賢者とも言われてる」
「海の………賢者」
思わず凝視してしまったのは、水族館のお土産のぬいぐるみのような可愛らしいやつだ。
賢者と言うよりは、ファンシーさが際立つ生き物である。
「むぅ。……珍しそうなので、エーダリア様に見せてあげてから海に放しましょう」
ネアがそう言うと、ノアはエーダリア達を呼びに行ってくれた。
振り返ると、海渡り騒動の合間にやっと落ち着いて食事をしていたらしい我関せずなアルテアと、そもそも食事をやめなかったゼノーシュはわかるが、なぜかエーダリアとグラストは、少し森寄りに移動して背伸びしている。
こちらに来たエーダリアにその理由を聞いてみたところ、飛翔などのずるをせずに海渡りの膝より上を見る事が出来れば、特別な海の魔術を授かるという伝承があるのだとか。
「海には、厄介でもあるが、そのような祝福を持つ生き物が多くいてな。他にも海の賢者など……………これは、海の賢者だな」
説明しかけたところでの、まさかのご本人登場にエーダリアは瞠目した。
ふるふるとしてこちらを見るので、ネアは説明してやった。
「はい。同じ色のバケツを保護色として逃げ込んできた、ちびラッコこと、海の賢者さんです。海に返す前に、エーダリア様にも見せてあげようと思いまして」
「ヴェルリアの海軍に勤めていても、その生涯で海の賢者に出会える可能性は殆どないそうだ。…………私も初めて見た」
「これは、……噂に聞くより可愛らしいものですね」
エーダリアとグラストが覗き込み、また囲まれてしまった海の賢者は、同じ妖精だからか、少し離れたところにいるヒルドの方に助けを求めるような視線を送っている。
「モギュ」
「ほわ!鳴きましたよ!」
「ネア、また何かを貰うといけないから、君は離れていようか」
「解せぬ」
「エーダリア、この子の代わりに海に返してくれるかい?」
「あ、ああ。構わないのか?」
「ネアに、これ以上他の生き物が懐くと困るからね」
「そうか。では、私が海に返してこよう」
「おのれ、何たる仕打ち!恩着せがましく海に返せば、祝福を貰えたかもしれないのに!」
「魔術を手にしても、可動域の低い君には使えないだろう?」
「つ、使えなくても戦利品なのです!見て下さい、エーダリア様のはしゃぎっぷりを!あのちびラッコは私の獲物だったのに、勝手に交流を深められてしまいました!」
案の定、恐ろしい白っぽい魔物の囲みから遠ざけてくれたことに感謝したのか、海の賢者は、海に戻してくれたエーダリアに祝福を授けたようだ。
余程嬉しかったのか興奮した様子で何かを話しているエーダリアに、一緒に波打ち際までついて行ったヒルドが微笑んでいる。
「ネア、海で道を探す魔術を授けられたぞ!」
戻ってきたエーダリアにそう報告され、ネアは死んだ魚の眼で応答した。
「エーダリア様が楽しそうで何よりです………」
「す、すまない。お前も欲しかったのだな」
「ネア様、海の妖精は執着心が強いものが多く、あれは雄でしたので、あまり縁を持たない方が良いかと」
「むぅ。ヒルドさんに言われてしまうと、なぜか素直に諦めようと思います………」
「ご主人様……………」
説得合戦に負けたディノがしゅんとしたが、ひと騒動終わったので、ネア達はパラソルの下に帰った。
食事の残りはあらかたゼノーシュがお腹に入れており、氷菓子に移るようだ。
そしてネアは、座ろうとした椅子を占拠する悪人を発見した。
「アルテアさん、それは私の椅子です」
「どれでもいいだろ。向こうに座れよ」
「譲れません。ゼノを正面から愛でられる特等席なのです」
「そんなに座りたいなら、膝にでも座るか?」
そう嘲笑ったアルテアに頭にきたネアは、どすんと使い魔の膝の上に座って絶句させてやった。
しかし、その途端に荒ぶったディノに持ち上げられてしまう。
「ネア、また勝手に浮気してる」
「言い方!」
「君が椅子にしていいのは、私だけだよ。いいね?」
「む!そちらからでもゼノのお向かいとなりますので、やぶさかではありません。氷菓子を食べる間だけ椅子になって下さい」
「………うん」
「自ら提案しておいて、被害者のような顔をするのはなぜなのだ」
食後には、全員参加の真剣なビーチバレーを一度だけやってみたが、全員の身体能力が高過ぎて一人だけ混ざってしまった庶民はこてんぱんにされた。
必死にボールを追いかける姿が面白いということで弄ばれてしまったネアは、怒りのあまり地団駄を踏む。
心がささくれ立ったので、帰り支度の間は黙々と波打ち際で砂をザルで振るっていた。
魔物達には祟りもののようで怖いと不評だったが、打ち上げられていた結晶石をたくさん発掘したので良しとしよう。
かくして、リーエンベルクの第一回海水浴は幕を閉じた。
帰り際に高波に攫われた魔物が二人いたが、その程度なら、事故なく楽しかったと締めてもいいだろう。
ご機嫌のエーダリアがあちこちで自慢したせいで、この夏のガレンでは、海渡り探しと海の賢者探しが流行したそうだ。