バーレ・イーフェリオン
バーレ・イーフェリオンは、光竜の魔術師長の三番目の息子だった。
魔術の向上にしか興味のない父親は口数が少なく、兄達とは折り合いが悪い。
しかし、その父の作り出す特別な品物を見ると、バーレ・イーフェリオンはわくわくしたものだ。
「お前はまだ子供だからなぁ」
そう微笑んでくれる一番目の兄は、光竜の騎士をしている。
今年の夏には光竜の王女と結婚して、王家の仲間入りをする予定だ。
質実剛健の気質が災いし乱暴だと誤解されることも多いが、実はとても繊細で優しい兄なのだ。
そんな兄を好いてくれた王女のことも、バーレ・イーフェリオンは大好きだった。
「バーレンは魔術が好きだからな。早く大きくなるといい、俺が色々教えてあげるよ。咎竜をぼこぼこにして、心穏やかに暮らす方法だ」
「お前なぁ。バーレンをお前のような狩り好きにするなよ……」
「そんなことないよな?この前も、咎竜の鱗で作った魔術篭を見せたら目をきらきらさせてたぞ」
「はは、それならあいつの作っている竜の外套が出来たら大はしゃぎだろ」
二番目の兄は魔術に長け頭が良くて穏やかなのだが、狩りになると性格が変わるので、光竜の王宮ではたいそう変わり者の竜だと言われている。
けれど、そんな癖のある二人の兄は、バーレ・イーフェリオンこと、バーレンの自慢の兄だった。
バーレンはまだ小さいので屋敷にいて、父は王宮で食事を済ませて来ることが多いので、兄達の帰りを待って晩餐となる。
仕事の話や魔術の話、咎竜に、二番目の兄が毛だらけになる呪いをかけた話。
そういうことを賑やかに話しながら、バーレンは兄達に魔術の指南をして貰う。
筋がいいと褒められ、バーレンは、ゆくゆくは王宮で魔術を使う仕事に就こうと考えていた。
二番目の兄にそう言えば、上司になったら厳しくするぞと笑って頭を撫でてくる。
あの、幸せな日々。
幼い頃に死んでしまった母親を思えば悲しいこともあったが、きらきらと、ただ豊かに煌めく賑やかな日々がどこまでも続くと思っていた。
しかし、そんな兄達に可愛がられ健やかに過ごしていた日々は、ある日唐突に終わってしまった。
仮面の魔物の逆鱗に触れた父が、その報復として子供を奪われたのだ。
反撃し、斃される父を見ながら、バーレンは小さな悲鳴を上げる。
森に薬草を見に行った父に会いに来て、突然森竜の卵にされてしまったバーレンは激しく混乱した。
(酷い、出して!ここから、出して!兄様!!)
泣き叫んで卵の中でもがいていたが、所詮卵なので実際には動けもしない。
そのままどこかの森に放り込まれ、バーレンは卵のままその森で一晩を明かした。
朝になって目を覚まして初めて、夜に卵のまま眠ってしまったことに気付いた。
あまりにも無防備でぞっとしてしまったが、夜明けと共にぱりんと卵が割れる。
(………出れた)
割れた卵のかけらをおでこに乗せたまま這いずり出して、バーレンはすっかり変わってしまった自分の体に驚愕する。
毛皮に包まれてはいるが、蛇のように手足のない体でどうやって動けばいいのか、どうやって生きていけばいいのか、全く見当がつかなかったのだ。
その日は一日中泣いていた。
父が死んでしまったのはわかったし、自分がこれからどうなるのかわからなくて、怖くて仕方なかったのだ。
あまりにも泣くので、通りがかった森狼が色々なことを教えてくれた。
這いずり方や木登りの仕方、それに食べ物のことや、水場のこと。
でもバーレンが、本当は光竜なのだと主張すると、それは卵の時に見た夢なのだろうと笑って取り合ってくれなかった。
悲しくて悔しくて泣きながら、バーレンは、何とかひと月を見知らぬ森で過ごした。
(この森は大嫌い)
色が鮮やか過ぎて目眩がするし、湿度が高くてジメジメする。
毎日のように雨が降り、ようやく晴れ間が出たかと思えばうだるような暑さになる。
鳥が毎日煩く鳴いていて、兎の姿の生き物は意地悪だ。
優しくしてくれた森狼も、翌日に出会った時にはとても獰猛になっていて、バーレンを見つけると食い千切ろうとした。
慌てて逃げながらまた泣いて、兄達の名前を沢山呼んだ。
(王子達なら凄く強いから、助けてくれるかもしれない)
父の姉が王家に嫁いでいるので、王子達は従兄弟にあたる。
王家の血を引く光竜はとても強いので、あの二人ならこの場所を突き止めてくれそうだ。
それに、バーレンとは大の仲良しである。
そしてそんなある日、バーレンは森の中に初めて見る人間の少女を見付けた。
捕まえられたら大変だと思って逃げ回っていたが、彼女は森の生き物達に興味津々で優しそうだ。
どこから来たのかいつの間にか森に現れ、もう一人派手な服を着た男性の同行者がいるが、そちらは木々の枝葉でよく見えない。
(何でこんなところに人間の女の子がいるんだろう?)
怖いけれど興味が湧いて、バーレンは少しだけ近付いてみた。
そして、驚愕したのだ。
(兄上の気配がする!)
その少女からは、優しい二番目の兄の気配がした。
その事に驚いて、バーレンは慌てて這い寄る。
(助けに来てくれたの?兄様に言われて来てくれたの?)
必死に呼びかけるけれど、この姿では人間に分かるような言葉が発せずに声が届かないのだ。
涙目で追いかけてやっと先回りすると、その少女の目の前に垂れ下がった。
目を丸くしたのは、いきなり目の前に落ちて来て驚いたのだろう。
けれど、すぐに微笑みかけてくれた。
腕を組んだ同行者に何か声をかけていたが、バーレンは心の中で呼びかけるのに必死でその言葉はよく聞き取れなかった。
(見付けてくれた!僕だよ。僕はここにいるよ!)
バーレンは歓喜して身を震わせたが、次の瞬間、こちらに気付いた少女の同行者に追い払われてしまう。
手荒く追い払われてびっくりしたバーレンだが、相手が白髪の魔物であることに気付き、ざっと血の気が引いた。
震え上がって、その魔物の顔もよく見れないまま泣きながらそこから離れた。
(せっかく会えたのに………)
一度身を隠してからそう考えたら、また勇気が湧いてきた。
家に戻りたいのなら、ここで負ける訳にはいかない。
そう覚悟を決めたバーレンは奮起してその少女を追いかけたが、今度は空の上に鯨が現れてしまった。
鯨の水を浴びたら、首の骨が折れてしまう。
慌てて避難している間に見失ってしまい、次にその姿を見付けたのは、彼女が立ち去る間際のことだった。
(行かないで!)
一生懸命に追いかけたけど、ここからでは遠過ぎる。
どうやら彼女は、また新しく現れた知り合いの魔物に連れられて、どこかに帰るようだ。
その魔物も草木の影に隠れてよく見えなかったけれど、時々白い色が見えるので高位の魔物なのだろう。
さあっと青白い魔術の光が走る。
転移を踏まれてしまい、バーレンは絶望した。
その時のことだ。
彼女はおもむろに歌う小枝に手を伸ばすと、その枝葉を毟り取ったのだ。
あまりの強さに驚愕したのは、バーレンですら、その歌う小枝がとんでもない生き物だと知っていたからだ。
このじめじめとした雨の森に住む生き物達は、なぜかあの葉を食べようと、日々試行錯誤していた。
けれどもそれを成し遂げた者はなく、みんな逆にあの葉に食べられてしまう。
きっと、特別な祝福がある代わりにとんでもなく強いのだろう。
噂では、あの葉っぱを食べると奇跡が一つだけ起こるらしい。
それを今、彼女は事も無げに毟り取ったのだ。
歌う小枝が悲鳴を上げ、一枚の葉がぽろりと地面に落ちる。
そしてその時、こちらを見た彼女が微笑んで手を振ってくれた。
(助けてくれた!)
彼女はその直後連れ去られてしまい、バーレンは全力でそこまで這いずってから葉っぱの横に飛び込むと、地面に落ちて喘鳴の息を吐いている葉っぱを、意を決してぱくりと食べた。
(苦い!苦い、苦い、苦い……………)
あまりにも苦くて、硬くて、バーレンはもしかしたら毒だったのかもしれないと涙を流す。
(でも、あの人はさっき、僕に手を振ってくれたんだ)
彼女はバーレンに手を振ってくれた。
あれはきっと、この葉を何とかしてバーレンに渡そうと必死に合図をしてくれたのだろう。
だってあの人間の少女からは、誰よりも頼もしい家族の気配がしたのだ。
光竜が他の生き物に気配を残すことは稀である。
そもそも他の種族の平定役の光竜なので、伴侶以外の相手に気配など残さない。
唯一の例外は、その相手に好意を向け、他の光竜達にこの相手を傷付けてはならないと示す為に口付けで淡い祝福を授ける場合だ。
そんな印をつけた人が来てくれたのだから、これが救いでなくて何だと言うのだろう。
だからバーレンは、こんなところで負ける訳にはいかない。
硬い葉っぱで口の中を切りながら、泣きながら食べて、その夜、バーレンは熱を出して寝込んでしまった。
やはり死ぬのだろうかと考えながら、木の上に横になり、零れ落ちそうな程の星空を見ていたら、朦朧とした意識のまま家族のことを思った。
優しい兄達に、怖い父。
もういないけれど子守唄の歌声を覚えている母親と、仲良しの従兄弟の王子達。
眩しくてあまり見れなかった王様に、父親の同僚の将軍達。
会いたくて会いたくて、さあっと柔らかな雨の降り出した森で、雲に隠されてしまった星空を見上げながら涙を流していた。
そして、目を開くと朝が来ていた。
体がもぞもぞするので、寝ぼけたまま手を伸ばせば、懐かしい自分の手がそこにある。
「僕の手………」
ぎょっとして首を捻って体を見れば、そこにいるのは光竜としてのバーレン、元の姿をした自分ではないか。
「も、元に戻った!!戻ったんだ!!」
大はしゃぎして飛び上がり、がさっと木の枝から落ちてしまったが、今のバーレンには翼があるのだ。
すぐさま、ばさりと翼を広げて大空に舞い上がる。
「飛んでる!僕、もう一度飛べるようになったんだ!!」
しかし、光竜は元々翼の力ではなく、魔術で空に浮かぶものだ。
すぐに飛翔形態を切り替え、翼を閉じて空を泳ぐ。
体に受ける風に目を細めて、気持ちのいい青い空に笑顔になった。
「お家に帰るんだ!」
そう呟いて、兄達の名前を呼んだ。
きっと彼女に気配を残していた二番目の兄は、得意の魔術を使ってあの救い手を差し向けてくれたのだろう。
そう考えると少し不安になる。
無理をしていないだろうか?
元気でいてくれるだろうか。
あの後で仮面の魔物に遭遇したりして、怪我をしていないだろうか。
心配になって何度も家族の名前を呼んだが、空間を広く渡る筈の声は届かず、誰からの応えもなかった。
それから先のことはあまり思い出したくない。
バーレンがたった一ヶ月くらいだと思っていたあの森での時間は、実際はとんでもなく長い時間だったらしい。
バーレンが入れ替えられた森竜はとても特殊な種類で、卵が孵るまでに千年近くかかるものなのだそうだ。
おまけに生まれてからも何ヶ月も眠るので、森竜自身が眠ったと思う程に眠ったときは、かなりの時間を経過していることが多い。
優しいと思っていた森狼に追いかけられたのは、きっと違う個体だったのだろう。
どれだけの時間が経ったのか。
バーレンが戻った時にはもう、光竜の国が滅び、見たことのない新しい森が広がっていた。
聞けば、バーレン達の数世代後の光竜が妖精と争い、戦に負けて滅ぼされてしまったのだそうだ。
誰か一人くらい生き延びていないかとそれから百年以上かけて探して回ったが、世界中のどこにも、光竜は見当たらなかった。
(夢を見た)
あの、仲間を探して彷徨った日々。
そして、仲間が生きているかも知れないという期待を持って、竜の王冠の側で策を巡らせた時間。
けれど、誰もいなかった。
バーレンが仲間だと思っていたのは、ネアが契約している白持ちの魔物だったのだ。
それなのに、精霊王を倒してまで王冠を奪った者の話を聞いた時、王族の誰かが生き延びていて王冠を取り戻しに来たのかと思ってしまった。
たった一人で精霊王の宝物庫に乗り込み、竜の王冠だけを奪う青い瞳の者など、他にはいないような気がした。
それはもしかしたら、願いだったのかもしれない。
夢を見るように、焦がれるように、いつかどこかで一人ではなくなる自分を思い描いていた。
その願いが断たれた時は、あまりの落胆に座り込んでしまいそうなくらいだった。
(………しかし、今回のことで、あの森で助けてくれたネアに再会することは出来た)
運命の巡り合わせとは、何と奇妙なものだろう。
あの雨の森で彼女に授けられた歌う小枝の葉は、呪いや災厄を解き、生涯でただ一度だけの逆転の奇跡を起こしてくれる木の葉だったそうだ。
ふらりと立ち寄った塔の街で出会った竜の占い師から、その木の葉こそが仮面の魔物の呪いを破ったのだと教えられた。
その時は家族には二度と会えないと知ったばかりで心が動かせなかったが、失望が薄らげば、その少女を探しておけば良かったと後悔したものだ。
しかしその数百年後、竜の王冠を巡る捜索の中で出向いたウィームに、彼女はあの時のままの姿でそこにいたのだ。
驚いて彼女のことを調べれば、彼女はネアという名前のウィームの歌乞いだという。
魔物の指輪持ちだそうで、外套で姿を変えて話を聞き出したバーレンに、小さな森の生き物達はあれこれとその歌乞いのことを教えてくれる。
(そうか、高位の魔物の伴侶であれば、これだけ長い時間を生きていても不思議はない)
魔物は伴侶を己の資質に紐付けるものだ。
不始末で死なせてしまうことがほとんどだが、うまく長生きすればこれくらい生きる者もいるだろう。
何度も様々な生き物に姿を変えて彼女の様子を見に行き、少しずつ色々なことを知ってゆく。
リーエンベルクの住人であろう、過保護な者達と一緒だと音の壁を張られてしまうことが多かったが、それでも様々なことを知ることが出来た。
狐のような生き物を飼っていること。
寝具売り場であれこれ買い占めるのだから、寝ることが好きなのだろう。
幸せそうに食べること、甘いものが好きなこと、時々列車に乗ること。
そして時折、刃物のような鋭さで、軽やかに森を飛び回り妖精や魔物を狩っていること。
その時のネアの瞳はいつも、冴え冴えと銀色の刃のように淡く煌めく。
恐ろしいが奇妙にも静謐な深みがあり、死ぬとわかっていても溺れてみたいような不思議な色だ。
途中でウィームを調べているのか彼女を調べているのかわからなくなり、今日こそは兄のことを尋ねてみようと思って出かけた日、街中で通行人の中に紛れてすれ違った彼女にはもう、懐かしい兄の気配は残っていなかった。
そのことになぜか酷く落胆して、バーレンは話しかけるのをやめた。
外套を返してくれた人間曰く、ウィームの歌乞いは、冷酷なウィーム領主のお気に入りなのだと言う。
そして何故か、ヴェルリアの王宮で再会した仮面の魔物は、彼女のことになると、その言動を曇らせる。
仮面の魔物との再会はこれもまた偶然で、王宮の中に見知らぬ侵入者がいることに気付いたアージュが、擬態していたバーレンを罠にかけようとしたのが切っ掛けだった。
その者の資質となる魔術を返した相手に対しては、術を破られた対価を支払わない限りは再び術をかけられない。
それは、強大で圧倒的な技を持つ者にこそ適応される魔術の理で、逆に言えば代名詞と言える程の大きな魔術を持たない下位の生き物には適応されない。
これもまた運命の采配のように、バーレンは自分を森竜に入れ替えた仮面の魔物を、魔術返しで捕まえたのである。
ふと、思う。
もしかしたらあの一連の出来事の全ては、バーレンが竜の外套を取り戻したことで、物事を正しく整えるという、光竜の固有魔術を動かしたのではないだろうか。
それか、竜の外套に染み付いた父の怨念のなせる技か。
不思議な大波に攫われるように運命に流されて、バーレンはまた一つ、不思議な繋がりを見付けてしまう。
(………ネアは、アージュと使い魔契約をしていた)
バーレンの運命を狂わせた仮面の魔物と、バーレンを奇跡の葉で救ってくれたネアの間には、使い魔の契約の糸が見えた。
アージュは巧妙に隠していたようだが、不審に思ったバーレンがウィームの歌乞いの命を欲しているかのようなことを言ってみたところ、その糸が淡く光って見えたのだ。
やっと再会した恩人は、仮面の魔物の主人だった。
また一つ、落胆が積み上がる。
彼女の契約の魔物とアージュの間にどんな力関係があるのかはわからないが、どうであれ、バーレンが力を貸しているアリステル派にとってはかなりの障害となるだろう。
評判としては可もなく不可もないという地味な歌乞いだが、二人もの魔物を得た人間が無害な筈もない。
では、どうするべきか。
考えに考えた末、バーレンはネアのことを諦めた。
今は、生き残った仲間に会えるかもしれない大事な時であるし、かつて兄と知り合いだったのだとしても、もはやその祝福も消えた。
それに、仮面の魔物を仕えさせている人間を信用する訳にはいかない。
強く、しなやかで銀灰のナイフのような目をする少女。
どう考えても、そんなネアはいつか自分の敵になるような気がした。
であれば、自分に気付いていない今しかないのではないか。
そしてとうとう夏至祭の夜、バーレンはネアを殺しに行った。
警戒されないように小さな海竜の子供に擬態して、足元から近寄る。
ふわりと飜るドレスの裾に、振り撒かれた花の香り。
楽しそうな声が聞こえて、どこかでわあっと歓声が上がる。
一番目の兄と王女が出会った夏至祭を思い、バーレンは感傷的な気持ちになった。
(彼女はもう仮面の魔物の仲間なのだ。下手をすれば、仮面の魔物を動かしているのは、彼女の方なのかも知れない)
ネアは、幸せそうだった。
バーレンはもう白持ちだと知っているとても高位な契約の魔物と、よく見かける代理妖精に連れられて歩いている。
弾むような足取りに纏わりつくように、その足元を歩いた。
(殺してしまうべきなんだ)
もう二度と、仮面の魔物に何かを奪われる訳にはいかない。
そして仲間を探す為の作戦も、決して頓挫させる訳にはいかない。
でもそうすると、あの森の中で、微笑んで手を振ってくれたネアのことが思い出された。
雨に閉ざされた森の中で必死に祈り、やっと現れた救いだった。
彼女がいたからこそ、バーレンは元の姿に戻れたのだ。
入れ替えられた影響から完全な光竜とは違うものになってしまったが、それでもこうして本来のバーレンの姿を取り戻せたのは、あの日彼女が手を差し述べてくれたからだった。
(でも、もうあんなに昔のことだ。ネアも忘れてしまっているだろう)
しかし、もしここで彼女を殺せば、バーレンは過去に繋がるものの最後の一つまでも失くしてしまうような気がして、どうしても手が出せなかった。
(…………あ、)
その時、ネアがこちらを見た。
思わずさっと視線を逸らしてしまったが、あの森で見たのと同じ、灰紫の瞳がきらりと光る。
森竜にされてもそれだけは変わらなかった、光竜のバーレンの青い瞳。
その瞳と同じ色の鱗を持つ海竜の子供になったバーレンを見て、ネアは何を思うだろう。
しかし次の瞬間、バーレンは容赦なく首元を踏みつけられた。
その衝撃で意識を失くしていたようで、なぜかヴェルリアで目を覚ます。
「………生きてる」
擬態した海竜の子供の姿のまま、バーレンはヴェルリアの港に転がっていた。
海竜だからここに捨てられたのだろうかと考えながら、慌てて体を調べる。
幸いにも踏まれた以外の損傷はなく、首元に術式模様のような痣は残ったものの、何かを奪われたりはしていないようだ。
(……………攻撃されただけ、か)
よく考えれば、当然のことなのだ。
足元にあれだけ近寄れば、誰だって危険を察して排除しようとするだろう。
けれどそれは、バーレンにとっては妙に落胆する事件であった。
もはや姿は変わってしまったし、そもそもあの時は擬態していたのだが、そのくせになぜか、自分に気付いてくれなかったことに落胆したのだ。
そこでひとつ、バーレンは理解する。
殺しに行ったつもりだったのに、自分は心のどこかでまだ、ネアにあの日のことを思い出して貰いたかったのだ。
兄と知り合いなのか、そうでなかったのだとすれば、どうしてあの時自分を助けてくれたのか。
そんなことを、ネアと話してみたかったのだと。
首元の痣を鏡に映せば、それはまるで印のよう。
自分が彼女を殺そうとしたように、彼女も自分を殺そうとしたのだと考えると、まるでそれは二人を向かい合わせる印のようで、少しだけ心がざわついた。
そう考えてしまった自分に困惑して、彼女にだけは見えないように首元に惑わせる術界をかける。
その後も、何度かネアとは遭遇した。
元より彼女を廃することも想定した計画であったし、彼女は、バーレンがああやはりと思うくらいの軽快さで、込み入った陰謀の上を身軽に歩いていた。
やはり、彼女は強い。
強く、そしていつもナイフのような灰色の瞳をきらきら輝かせている。
その姿に胸がおかしな音を立てた。
そしてなぜ、その姿に魅了されるのかにようやく思い至った。
バーレンが知り過ぎてしまったネアの立ち振る舞いや言動は、性別こそ違えど、バーレンの二番目の兄の気質にとても良く似ているのだ。
そう考えてしまった時にはもう、彼女を傷付けることは出来なくなっていたのだろう。
全てが終わった後、せめて最後にと考え会いに行ったネアは、ウィームに残らないかというようなことを言ってくれた。
とても心が揺れたが、彼女の竜というものに対する価値観は愛玩犬とさして変わりないと判明する。
危うく庭の小屋で飼われるところを、ほうほうの体で逃げ出す羽目になった。
しかし、その全てが終わってしまえば、またバーレンは一人きりだった。
こうして目を覚ませば、あまりの虚しさに身体中の力が抜けてしまう。
(…………もう一度ウィームに戻れば、どうなるのだろう)
あの時、なぜか目が合った途端に震えが止まらなくなった妖精もいたが、自分をネアから逃してくれたような好意的な魔物もいたし、小屋の件すら解決出来ればあそこで暮らせたら楽しいかもしれない。
そう考えてみたが、ネアは竜を鞭で躾けるつもりだったことを思い出し、彼女にそんな間違った教育をした誰かを恨みながら首を振った。
それに契約の魔物はバーレンの滞在を許さないだろうし、あの場所にはアージュもいる。
となるとやはり、バーレンは一人きりなのだ。
(…………耳の奥で、雨音が聞こえる)
よく聞けばそれは波音なのだが、なぜかあの雨の森の土砂降りの雨音が聞こえるような気がする。
体を休めていた砂浜にもう一度くたりと座り込んで、どんよりとした空を見上げた時のことだった。
「危ないよ」
ふっと耳元で声が聞こえ、バーレンはぎくりとする。
その直後、体の周囲にあった黒い靄のようなものが急速に実体化し巨大な竜になると、バーレンを背後から襲おうとしていた鯱の魔物をぱくりと食べてしまった。
「こんなところで眠ってると、危ないよ。鯱の魔物は満月の夜だけ浜辺に上がってくるからね」
そう言ってこちらを見たのは、白と夜空の色をした見事な竜だった。
立派な片角は純白で、澄んだ桜草色の瞳をしている。
「…………君は」
「ダナエ。春闇だよ」
「春闇の竜か!…………実体化した春闇の竜は、初めて見た」
「うん。友達だから宜しくね」
「…………友達?」
「そう。ネアに言われたんだ。もし光竜を見かけたら、それはもう友達だから食べたら駄目だって。だから、友達だね」
「…………ネアに?」
「うん。君は、バーレンだよね?」
「あ、………ああ」
肯定したものの、まだよく飲み込めずに首を傾げてしまう。
「光竜って、長いけど細いんだね。ネアに言われなかったら、食べてたかも」
「…………食べ……?」
「うん。何でも食べたくなってしまうんだ。男性はあまり食べないんだけど、光竜は珍しいから齧ってたと思うな」
「齧らないで貰えるか」
「友達は食べないよ。バーレン、鯱は食べる?」
「しゃ、………鯱は食べないな」
「そう。じゃあ、少し待ってて。沢山上がってきたから、食べてしまおう」
そう言われて振り返ったバーレンは驚愕した。
静かな島の誰もいない浜辺だと思って休んでいたが、まさかこのような魔物の住処だとは思わなかったのだ。
本来なら海に入るはずの鯱の魔物達が、まるで空気を泳ぐようにして海から上がってくる。
淡い水色の炎を纏い、その数は少なくとも五十はいた。
「お、おい!幾らなんでも、この数は…」
「満腹には少し足りないかな。でも、鯱は瑞々しくて美味しいんだよ」
「そ、そうなのか……………」
そしてバーレンが唖然としている内に、ダナエという竜は全ての鯱の魔物をあっという間に食べ尽くしてしまった。
飄々とした感じで戻ってくると、ぺろりと口元を舐める。
その仕草の獰猛さにひやりとした。
これは多分、同族も食べる悪食の竜だ。
「甘いもの食べたいな。一緒に氷菓子食べに行かない?」
「氷菓子………?」
「あれ、食べたことないのかな?」
「食べたことはないな………」
「じゃあ行こうよ。人型になれる?」
「ああ。…………氷菓子」
「一緒にご飯を食べると、より仲良くなれるんだって。この前は、それでネアの友達と少し仲良くなれたんだ」
「…………そうなのだな」
「氷菓子の後はクレープかな」
「…………は?」
「うん。行こう」
その後バーレンは、会ったばかりの春闇の竜に連れられて、七軒の店を回る羽目になった。
いきなり友達扱いをされて困惑していたからなのだが、ついついダナエの食事に付き合わされて大量に食べてしまい、最後の店を出る頃にはバーレンは足がもつれていた。
ダナエは竜なのだからと言うが、バーレンがここまでの料理を食べたのは初めてなのだ。
氷菓子は気に入ったが、それにしても量というものがある。
悪食だと酷く警戒していたダナエは、面倒見よくふらふらのバーレンに肩を貸してくれる。
人型になったダナエには見覚えがあった。
ウィームでネアと一緒にいるのを見かけたが、その時バーレンはすぐに王都に戻らねばならず、あの竜は誰なのだろうと思っていた相手だった。
そのことを話せば、その日はみんなでバルバをしたのだと教えてくれた。
「君も食いしん坊だね。秋になったら、ネア達と食事をするんだよ。一緒に行こう」
「い、いや、………俺は無理だろう」
「どうしてだい?」
あまりにも不思議そうにするので、リーエンベルクから逃げてきた理由を話せば、ダナエは難しい顔をして黙り込んだ。
「ネアが竜を飼う権利はあげないよ」
「…………は?」
「君も野良竜なんだね。でも、竜を飼えるようになったなら、こちらが先だから、君は諦めてくれるかい?」
「………いや、俺は飼われたくはないんだ」
「なんだ。じゃあ、ネアにそう言ってあげるよ」
「君は、………飼われたいのか?」
「飼う方でもいいかな。ネアは可愛いし、食べたくない貴重な女の子なんだ。それに、アルテアの料理は美味しいから」
「アルテア?」
「知らないなら、今度紹介してあげるよ。美味しい料理を作ってくれる、………友達?」
と言うことは、その人物は料理人か何かなのだろう。
ふと、どこかで聞いたことがある名前のような気がしたが、ダナエ曰く、ネアの専属料理人のようなのでそれで知っているのかも知れない。
「そう言えば、子供の頃に光竜に会ったことがあるよ。光竜の騎士だったかな。他の光竜を食べようとして怒られたんだ。でも翌日、空腹なのかと言ってたくさんの食べ物を持って来てくれた」
「光竜に会ったことがあるのか!」
「ブラジフィ……なんか、そんな名前だったね」
「ブラジュ・フュース。………銀髪に淡い水色の瞳ではなかったか?」
「ああ、その竜だと思うよ。背が高くて、髪が長い?」
「…………光竜は皆、深い青色の瞳をしている。髪は淡い金髪か銀髪なのだ。淡い水色の瞳はとても珍しく、父が受けた魔術障害の余波だと言われていた」
「もしかして身内なのかい?」
「……………兄上だ」
「おや、それは奇遇だね」
そしてその春闇の竜は、バーレンの兄は、悪食の竜の討伐に来て出会ったのだと教えてくれた。
けれどダナエがまだ子供だったので、殺しはせずに作られた料理を食べるということを教えてくれたらしい。
子供が三人いて、その子供は絶対に食べないようにと言い含められたそうだ。
そして、一番目の兄とダナエの会話からわかったことだが、その頃にはもう、二番目の兄は、咎竜との戦いで命を落としていたらしい。
「聞いたのはそれくらいかな。食べ物がたくさん必要だから、あまり一箇所に留まれないんだ。でも、優しい竜だったね」
「………兄上は怖がられることが多いが、とても優しい竜なのだ」
「そう言えば、君はどうして、ネアにお兄さんとのことを聞かなかったんだい?」
「彼女は、他の光竜を知らないようだった。二番目の兄は、魔術を使い他者を従えるような術式を得意としていたからな。直接知らないのであれば、そうした術式を添付されただけの可能性もある」
「成る程ね。ネアがお兄さんのことを知らないとわかって、がっかりしたんだね」
「…………ああ。そうなんだろうな」
「それなのに首の痣を見せたのは、踏んだことを思い出して欲しかったから?」
「………何でもいいから、彼女を前から知っていたということを伝えたかったんだろう」
それは今でもよくわからない。
隠したいくせに、気付いて欲しくて。
思い出して欲しいくせに、覚えていないなら投げ出したくなる。
まるで、どうして上手く生きられないのかを悩んでいたネアのよう。
「………自分でも情けない。まるで子供のようだな」
「子供の気持ちが残っているんじゃないかな?きっと、その森でネアに呼びかけた時のバーレンが、まだどこかに残っていたんだよ」
そう言われて得心した。
バーレンがネアに向けた思いの複雑さは全て、幼い子供の抱える懇願と苛立ちに似ていた。
竜の王冠と、ネアとの再会。
今回の事はその二つに呼び起こされてもがいていた、幼い自分の見た夢だったのだ。
それに気付かされた時、やっと、あの雨の森で泣き暮らした日々がふわりと幕を閉じた気がした。
ネアに踏まれた痣を治癒で消しているバーレンを見ながら、それはもういらなくなったんだねとダナエは穏やかに笑う。
この竜は、バーレンが初めて出会う、自分と同じくらいに生きている竜だ。
バーレンの卵だった時間を抜けば、より年長の竜ということになる。
聞けば一人きりで旅をしているらしい。
悪食の為にどこにも定住は出来ず、春を追いかけてどこまでも旅をするそうだ。
「旅か………。もう随分と旅をしたが、結局願いは叶わなかった」
「それならまた別の旅をすればいいよ。悲しい事もあるけれど、素敵なこともあるから」
「ダナエも、悲しいことがあるのか?」
「好きな子が出来てもね、みんな結局は食べてしまうんだ。でも、やっとネアが仲良くなれたよ」
「そ、そうか。食べてしまうのだな」
「そう言えば、流星の森に行ったことはあるかい?あの森は、願い事が叶う流星雨の夜があるそうだよ」
「………願い事?」
「叶わなかったのだろう?また新しい願い事をしてみるといい」
「新しい願い事か」
空を見上げて考える。
もしまた願い事を持つとすれば、自分は何を願うのだろう。
ずっと彷徨い続け、一族の生き残りを探し続けてきた。
父の作った竜の外套は手に入れたが、仲間はいなかった。
しかしそれは、流石に願い過ぎだったのかもしれない。
であれば次は、もっとささやかな願い事を。
「………居場所を作りたいものだな」
「じゃあ、一緒に来るかい?」
「え………?」
「今日わかったんだ。連れがいると、お店で沢山食べても怖がられないみたいだ」
「その為なのだな………」
「それに友達だし、君は居場所を探すのだろう?旅をすれば、気に入るところが見付かるかもしれないよ」
そう微笑まれ、バーレンは胸が潰れそうになった。
誰かに共に行こうと言われたのは、初めてだった。
それはもしかしたら、仲間探しに取り憑かれたバーレンに聞く耳がなかっただけなのかもしれないが、覚えている限り、誰かに手を差し伸べられたことはなかった。
平伏され、力を貸して欲しいと望まれることはあれ、ただのバーレンに向けた誘いは一度も……、
(……………いや、あれは忘れよう)
一瞬、手を差し伸べてくれたネアの姿が蘇ったが、あれは庭の小屋で飼う為なのでなかったことにしよう。
なので、バーレンに手を伸ばしてくれたのは、ダナエが初めてだ。
「………暫く、一緒に旅をしても構わないだろうか」
「勿論だよ。ただ、時々調伏対象にされかけるから、騒ぎになった時には他人のふりをするといいよ」
「…………そうしよう」
その後の旅は、バーレンが初めて体験することばかりになった。
その日々でだいぶ心が頑丈になったと思い、秋になってからダナエと一緒にネアとの食事会に行ってみたが、そこでバーレンはまた強烈な体験をすることになる。
しかしそれは、また別の物語だろう。
因みに、ネアに光竜との接点がなかったか聞いてしまったダナエのお陰で、二番目の兄は傘にされていたことが判明した。
兄の傘になった後の活躍を聞き、傘になった兄の勇姿が描かれたウィームのポストカードを貰ってとても複雑な気持ちだが、何だか兄らしい姿でもあるので、せめて最後に会えれば良かったのにと残念でならない。
そして、その話を聞いた日から、バーレンには新しい夢が出来た。
光竜ともなれば、その遺骸を使った品物や魔術が世界各地に残っているだろう。
中には兄のように、意識を残している者もいるかもしれない。
ダナエに、世界中を探してみようと思うと告げれば、それなら当分一緒に旅をするかと問われた。
確かにダナエは世界各地を彷徨っているし、その時にはもう既に、彼はバーレンにとってもかけがえのない友人になっていた。
いつか、仲間に会えるだろうか。
そう考えて、流星の森で願いをかける。
新しい願いを話したネアからは、失せ物探しの結晶を大量に貰っていた。
同族のかけらと、失せ物とでは違う気もするが、何だか嬉しくてその袋は大事にしまってある。
次の願い事こそは叶うかもしれない。
そう考えて、バーレンは微笑んだ。
そして、どうやら近くの集落を襲ってしまったらしい友人を連れ戻すべく飛び立った。