香辛料と黒煙の魔物
「あれ、わざと?」
クッキーを食べながらゼノーシュに訊かれ、ネアは首を捻った。
この街のお菓子は美味しくないらしく、眉が八の字で大変に可愛…可哀想だ。
「どれのことですか?」
「仮面の魔物。契約交渉変だったよ」
「あら、聞こえていたんですね」
「うん。僕、見聞の魔物だし」
「そうでした!……半分くらいわざとですが、少し本気でしたので、悲しいです」
ネアがそう告白すると、ゼノーシュは首を傾げる。
ディノは昨晩からの労働が祟り、ネアの膝を枕にしてふて寝していた。
あの魔物おかしいよと呟いていたので、変態が変態を知る、という訳だ。
「嫌な条件を出して、諦めて貰おうとしたの?」
「と言うより、アルテアさんの目的は、八つ当たりの引っ掻き回しです。ある程度場が賑わい、会話が弾み、遊んだ感が出れば帰ると思いました。案の定、ディノに構って貰ったらさっさと帰りましたし」
「……また来ると思う」
「あの方、暇なのでしょうか?」
「一人の魔物はだいたい暇だから」
「それは、少し寂しいですね」
窓の外は、朝からの霧雨で薄闇に包まれていた。
昨日は、雨から雲混じりの晴れと天気を変えたが、今日はどうだろう。
森林公園の散策時に雨でなくて良かったと、ネアはしみじみ思う。
特製液が、あっという間に洗い流されてしまうからだ。
「ネア、エーダリア嫌い?」
ふと、ゼノーシュがそんなことを訊いた。
「嫌いではありませんよ。男性としては大変に面倒な方ですが、上司としては素晴らしい方です。ただ、ディノを任せるとなると、……何だか嫌ですね」
「ネアは、ディノが好き?」
膝の上の物体がぴくりと動く。
ネアは微笑んで、その真珠色を撫でた。
「好きです」
「……結婚する?」
「しません。公私混同はしない主義です。ディノは大事な私の魔物ですが、だからこそ多少寂しくても、幸せな私生活を送って貰いたいですね。やはり、女性の方がいいと思うようになりました」
「………膝の上、可哀想だよ」
言われて視線を落とすと、何やら小さく震えてる。
寒いのだろうかと、ネアはストールをかけてやった。
「女性がいいなら、ネアでいいと思う」
「ものすごく大きな括りですね!しかしながら、ディノを任せられるとなると、足癖が悪く、誰かを椅子にしても心が痛まない、苛烈な女傑でなければ」
「………ネア、ディノのこと嫌い?」
「いえ、大好きですよ?」
腑に落ちない顔で美味しくないクッキーに戻ったゼノーシュに、ネアはその巻き髪を撫でてやった。
「そう言えば、黒煙さんは直毛でした」
「……ネアは、直毛が好き?」
「いえ、どちらかと言えば遊びがある髪の毛が自由で好きです。でも、ディノもゼノも、アルテアさんも癖っ毛ですよね」
「髪には魔力が溜まるから、魔物の器質も出るみたい」
「素直ではない気質……」
確かに、一番うねりが強いのはアルテアだ。
ディノは所謂ゆる巻きであるし、ゼノは癖っ毛。パーマをかけたようなウェーブヘアはアルテアのみである。
「器の質の、器質ね」
「魔力の器と捉えるのですね」
そこでふと、ネアは黒煙が直毛であることを思い出す。
「黒煙さんは、猪突猛進型か……」
昨晩、この屋敷には変態の襲撃があった。
『ご主人様っ!もう一度踏んで下さいっ!』
そんな叫び声と共に、窓にそれなりの質量のものが張り付く。
かなりホラーだが、ネアは自分の部屋ではなかったので、一度起きた後、すみやかに二度寝した。
エーダリアの部屋だったので、とうとう開花したか、ディノが靡いたら嫌だなくらいの感想しかなかったのである。
けれどもすぐに叩き起こされ、部屋を間違えた変態の引き取りを要請された。
勿論、忠実な魔物の手によってすぐに遺棄されている。
しかし、ここからが変態の真骨頂だったのだ。
(ディノに捨てて来られて、その後も七回も懲りずにやって来るなんて、……強い)
ゼノーシュもかなり驚いていたが、ディノが支配階級なのは魔物にとって一目瞭然だそうで、普通はあのレベルであると、跪いて顔も上げられないらしい。
それが捨てられても叩き出されても、懲りずに駆け付けてくるのだ。
げに、ストーカーの恐ろしさよ。
振り切った心に、常識や階位など、何の意味もないのだ。
明け方近くにとうとうディノも限界が来たらしく、聞いたこともないような国に棄ててきたそうだ。
森蜥蜴と猿しかいない山奥だそうなので、野生観察が出来るかもしれない。
大自然に触れさせることによって、心の澱みが晴れればいいが。
ディノは手に激辛香辛料の匂いがついたらしく、かなり落ち込んでいたので、ネアも夜明けに起き出し、手を洗ってやった。
落ち込むと何も出来なくなる癖は、この魔物の悪いところだ。
そして今、ネアの膝を枕にして草臥れてしまっている。
腕を回して、ネアの腰を抱くようにしてへばりついているので、ネアはソファにもたれかかる際に、背中にあるディノの腕ごしに背もたれに寄りかかることになる。
背筋が伸びて、大変に良いストレッチになった。
気持ちいいので重宝している。
「でもまぁ、月の羅針盤が手に入りましたしね」
追い返す際にむしり取ってきたのか、ディノは四回目のときに銀色の羅針盤を持ち帰ってきた。
慰謝料として有り難く受け取ったものの、香辛料臭が堪らないので、エーダリアに預けてクリーニング中である。
エーダリアはそれを、香辛料の達人のグラストに委託している。
今夜には使えるようになるそうで、いよいよグリムドールの鎖の探索に出られそうだ。
エーダリア達が手に入れた文献からも、鎖の扱い方が既に判明している。
(この仕事が終わったら、南国に行ってみたいなぁ)
すっかり、エスニックが食べたい気分になってしまった。
ディノは辛いものは大丈夫だろうか?