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エスメラルダ


エスメラルダは女公爵だ。

ガーウィンに古くから続く公爵家の、今代の当主である。


とは言え実際には、統一戦争より伯爵まで爵位格下げになっており、初代当主の名前をつけられているが、エスメラルダがこの名前を呪わなかったことはない。


絶世の美女と謳われ、五人の夫がいたと今でも語り継がれる初代エスメラルダは、その叡智と美しさでガーウィンの五賢者と言われる才覚ある男達から求婚され、面倒なので全員を夫にしてしまったという豪傑だ。


仮面の魔物と渡り合い、ガーウィンの鐘楼の至宝を守った話。

死者の王から、門番の小さな息子を取り戻した話。

逸話にも事欠かず、ガーウィンには今も初代エスメラルダの壁画が残されている。


そんな女公爵エスメラルダの名を継ぐ、今の自分は何なのか。



幼い頃から一度も、美しいと言われたことは一度もなかった。

頭がいいと言われたことはあったが、視野が狭いと叱られることも多く、いつだって勉学でも領政でも、領主になったあの男には適わなかった。



『あらあら、でも幼馴染で競争相手だなんて素敵じゃない?そういう殿方が、案外運命の人だったりするものよ?』


そう微笑んだのは、年老いてもなお若かりし頃から美しかったと評判の母だ。

父も涼やかな美貌で名を馳せており、どうして自分だけがこんな容姿で生まれたのかがよくわからない。


『ロスベルはいい男だからなぁ。我等とはガーウィンに対する意見は異なるが、頭のいい男なら悪くない。お前の薔薇の頭脳で打ち負かして惚れさせてやれ』


父親はいつも、エスメラルダのことを薔薇色の頭脳と褒め称えた。

確かに若い頃はガーウィンでロスベルに次ぐ頭脳を持つ才女として持て囃されたが、その頃のエスメラルダはもう二番手ですらなかったのに。


ロスベルの弟の子供達が、類稀なる才能を示し始めたのは構わない。

特別な家柄の特別な子供達だ。

しかし、ガーウィンの頭脳と言われる者達の順列で、今やエスメラルダより上に座する者達には誰だかわからないような庶民出の若者達もいる。

もはや、才女エスメラルダですらなくなって久しい。

しかしその頃のエスメラルダはまだ、一般的に見ても女性として意識される年齢ではあり、まだ両親も生きていた。



それから、何年経ったことか。

いつの間か両親は他界し、エスメラルダに微笑みかけて励ましてくれる人はいなくなった。



(街でロスベルと会っても、闊達な意見など交わさなくなった)



もはや彼にとってエスメラルダは愉快な同輩でもないし、大人になって随分と経てば立場に見合った取り巻きも増える。


ロスベルの周りにはいつも才気溢れる若者達や、ガーウィンの重鎮が集まり、エスメラルダの周りにいるのは、三流の没落貴族に相応しいつまらない野心家ばかり。

大成もしなかった惨めな女公爵に相応しい、せいぜいこの醜い女を利用してやろうとする薄汚い者ばかりだった。



(ひとりぼっちだわ)



世界は不愉快で薄暗く、息苦しいばかりでなんと不平等なところだろう。

女公爵と呼ばれる度にどこかで交わされる密やかな失笑や、伴侶どころか友人すらいないのだと囁かれる我慢のならない声。

周囲の同年輩の女達は、皆子供がいる頃合いで、子育ての話に花を咲かせている。


でも、両親がエスメラルダに相応しいと考えた者達とは会話が合わず、価値観や趣味すら合わなかった。

結果、誰もが疎遠になり、エスメラルダは絢爛豪華な社交界で、ガーウィン第二席の椅子に座りながらもいつも孤独だったのだ。



『この前のイブメリア?ええ、友人達と宴三昧でしたのよ?あらあら、私とてイブメリアくらい羽目を外しますわ』



扇を振って微笑み、その微笑みが擦り切れそうで胸の奥で血が流れる気がする。



ひとりぼっちだ。


そしてこの虚飾のどれだけ惨めなことか。


でも、そうしなければ息が止まってしまう。


この華やかなドレスを着ておいて惨めだと知られたら、もう二度と息が出来なくなってしまう。



(………………神よ)



神でなければ、魔物でも妖精でも、何でも構わないから。

でも彼らは美しいものばかりを好み、決してエスメラルダなどには振り向かない。

そんな細やかな奇跡さえも得られない。




その年の夏至祭で、ロスベルの結婚が決まった。



相手は身分違いの教区の孤児院に勤めていた女性で、まだ若く、どこか素朴な感じのする可憐な少女である。

いっそ才気溢れる絶世の美女とでも結ばれてくれれば良かったのに、彼が選んだのはそこに真実の愛があると一目瞭然の、ごく普通の女だった。


彼を本気で愛したことなどないけれど、もしかしたら自分の手が届いたかもしれない最後の奇跡が失われ、エスメラルダはその晩一人で泣いた。

本気で愛したことすらない男も手に入らない、そんな自分の夢の終焉が惨めだった。



そんな折のことだ。



「ここに、竜の外套があると聞いたのだが」



ある晩、少女めいた馬鹿げた趣味である夜の庭園の散歩のその帰り道で、エスメラルダは息を飲む程に美しい男性に出会った。


彼が声をかけてきたのはよりにもよって満開の薔薇の茂みの横で、小さな薔薇の精達の淡い光が弾け、きらきらと輝いている。

そんな充分過ぎる背景を背にし、月光のような深い色合いの銀髪と青い瞳は夜の宝石のよう。

まだ少女だった頃のエスメラルダが、夢の中で何度も思い描いた、お伽話の中の王子様との出会いのようで。


声を失ったエスメラルダに、彼は少しだけ不思議そうな顔をして、そこに立っていた。



「…………竜の、外套?」

「ああ。そう呼ばれるものに心当たりはないか?確かにここから、竜の外套の気配がする。あれはな、俺の父親が作ったものなのだ」

「………お父上が?……でも、あれは光竜の至宝だと聞いていますわ」

「俺は光竜だ」



その時、驚き過ぎてエスメラルダは何も言えなくなった。

ただ、胸が潰れそうな思いで、その美しい竜の姿を見ていることしか出来なかった。

気の利いた言葉一つ、言えなかったのだと記憶している。



それは、エスメラルダの運命を変えた夜だった。



やがてその竜は、エスメラルダに様々なことを語るようになった。

人生で最も不愉快な夜にこの国の王妃から下賜された竜の外套を、エスメラルダが何の対価も必要とせずに譲り渡したことがきっかけで二人は仲良くなったのだ。


仲良くなったのだと、エスメラルダは信じている。


多分。



「まぁ、竜の王冠?」

「ああ。王宮のどこかにあるようだ。あの王妃が、我々の一族を滅ぼした妖精の島を侵略したと聞いて、竜の外套を着てあの中を歩いてみたのだ」

「…………あの方にお会いしたの?」

「いや、王妃自身には興味がない。あの島を蹂躙したのは王妃自身ではないし、それに、私が光竜であった世代はまだ、あの妖精達とも確執がなかった。一族の若者達が妖精の娘達を嬲り殺しにしてしまい、報復を受けて種族的な確執が出来たのは数世代後のことなのだ」


そう言うくせに、焦がれるような目をするのは何故なのだろう。

エスメラルダは微かに焦り、何か彼の興味を引き戻すようなことを言わなければと必死に思案した。


「では、その王冠を取り戻せばいいのだわ。私はね、アリステル派に属しているの。彼等に王冠の在り処を調べさせましょうか?この国で虐げられた者達に正当な居場所と権利を取り戻し、高慢な王家に牙を剥く、……まぁ、愚かな理想なのだけど」


もし、その愚かな理想すらないのだと知ったら、この光竜はどうするのだろう。

こうして何か特別感のある企みに加担し、自分は優れた人間なのだと、考えのある聡明な女なのだと、ただそう主張する為だけの所属なのだ。

意味などない。

意味があると思わせれば、それで良かった。


「アリステル派?」

「先代の国の歌乞いの名前よ。このガーウィンから出た王子の婚約者で、鹿角の聖女の再来と呼ばれた美しく優しい子だったわ。それなのに、この国の第一王子と、ガレンとの密約により殺されてしまった哀れな子なの」


実際にはアリステルに好感を持ったことなど、一度もない。

死んだと聞いた時にも、そうなるだろうなと冷めた感情で受け止め、しかし対外的には何て惨いのだと涙を流してみせた。

何となく、美しく清純なものを支持していることが、この身を高潔に見せてくれるような気がしたからだ。


しかし、今はその隠れ蓑が役に立つかもしれない。

アリステル派の活動について話をし、共に戦わないかと誘えば、彼は考え込むように目を細める。

都合のいいことに、彼のお目当の竜の王冠とやらは第一王子の周囲にあるようなのだ。


「君は、国家の転覆を狙っているのか?」

「いいえ。そんな恐ろしいことは望んでないわ。ただ、あの第一王子の横暴は目に余るというだけ。元より、このガーウィンはヴェルリアとは気質が違うのよ。だから、本来は一緒になるべきではなかったのでしょうね。ヴェルリアの意向が強すぎる第一王子ではなく、この国が平和になってから生まれた第五王子が後継ぎになるべきよ」


その主張も、アリステル派の誰かが口にしていたことである。

エスメラルダ自身は、自分の身を救いもしない国家のことなどどうでも良かった。

これだけまとまった国が内戦など起こす訳がないし、自分達がどう足掻こうと恐らく第一王子の王位継承も変わるまい。


そういうものなのだ。

世界は。



「………それが君達の望みなら、俺が手を貸してみようか」

「………バーレン様?」

「俺は、自身の目的を優先してはしまうが、途中までの道は同じでも構わないだろう」



そして、運命は転がり出してしまった。



愚かな女公爵が、この美しい竜と少しでも長く一緒に居たいと願ったばかりに。

そしてその為のまっとうな理由を、ただの一つも作り出せなかったばかりに。



勿論、アリステル派の仲間達からは感謝された。


やはりガーウィンの女公爵だと、エスメラルダの評価を変えた者もいる。

しかしそれも、うっかり王妃の不義を目にしてしまい、その口止めとして下賜されたあの竜の外套のお陰。

対外的には、政治的な密約の報酬という体にされているが、本当はただそれだけのことなのだ。


あの舞踏会の夜、竜の外套を手に戻るエスメラルダに、ロスベルはお前も中々に抜け目ないなと苦く呟いた。

その舞踏会には彼の新妻も来ており、対抗派閥のエスメラルダが王妃と謎めいた取引きをしたことで、夫を案じるような不安げな顔をしていた。

その後、どれだけの密偵に探られたことだろう。

そうして何もない背後関係を探られる程に、エスメラルダは惨め過ぎて泣きたくなった。


あんなもの、どれだけ素晴らしい至宝でもさっさと捨ててしまいたかったのだ。

しかし、歯を食いしばって倉庫に放り込んでいた外套のお陰で、今のエスメラルダにはバーレンがいる。



(いいえ。いないのだわ)



多分彼もまた、ただ遭遇しただけの通り過ぎてゆく風。

わかっているのだ。



(だってほら、今日も彼は誰かを探しにゆくのだ)



竜の外套を着て、計画の打ち合わせのある夜ですら、どこかを彷徨い歩いている。

ただの探索だと言うけれど、彼はなぜかとある夜からご機嫌になった。

その機嫌の良さが、どれだけエスメラルダを怯えさせるか知りもせずに。



「まるで、待ち人を見付けたかのようね」

「いや、どうだろう。探していたのは別のものだ。けれど、ずっと昔からの知り合いを見付けた。………運命とは、不思議なものだな」



だとすればきっと、運命とは残酷なものなのだ。



その特別の先にはいつも、エスメラルダの居場所などないのだから。

そしていつもいつも、空っぽになって涙を流すのだ。



「人間が、彼と対等に話すのは不愉快なのですけれどね」

「あら、私は竜ではないけれど、それでもこの計画には必要な柱の一つでしょうに」


ある日、最近彼とよく一緒にいるエルウィンからそんな嫌味を言われた。

この竜はさも冷静沈着な参謀のような物言いの割に、いささか短慮で高慢が過ぎる。

しかし、エスメラルダの作り上げたエスメラルダは、このような場面でも怖気付いたりはしないのだ。

寧ろこういう場面でこそ、更に高慢に火竜を見下し、婉然と微笑む余裕がなくては。


それが張りぼての渾身の演技でも、その偽物の自分こそがエスメラルダの全てだった。


そんなある日、バーレンから話があると言われて久し振りに二人で会った。

彼がどこを住処としているのかはわからないが、この計画が動き出してからは、仲間達との会合で会うばかりで、以前のように二人で庭園でお喋りをすることもなくなっていたのだ。


「エスメラルダ、俺が君達をまとめられるのも、ウィームの音楽の祝祭への工作をする前の夜までだ。事が動き始めてからは、王冠の側にいようと思う」

「あら、それでもう充分ですわ。あなたがいたからこそ、我々は指導者を得てまとまり、ここまで来れたのです。………どうか、あなたの願いが叶いますように」

「君には世話になった。………どうか、壮健でな」

「ええ」


それは彼との別れの日が決まった会話だった。

おまけに彼は現場で動いてくれるので、実質、二人で会えるのはこれが最後だろう。

でも、その晩のエスメラルダは泣かずに堪えた。

泣いてしまえば、この聡明な光竜は気付いてしまうと思ったのだ。


ではせめて、彼の願いが叶うようにこの企みを最後まで完遂させよう。

エスメラルダが彼と繋がっていられるのは、この作戦が続くその時までなのだから。






「やれやれ、まさか悪名高いガーウィンの女公爵が、ここまで下らないご婦人だとは思いませんでした」


薄暗い部屋で、麗しい容貌の青年が呟く。

ゆらゆらと揺れる灯りにぼんやりと目を開き、ここはどこだろうと考えた。


(…………私は、一体どうして?)


そう考えて思い出した。

バーレンがどこからか捕まえてきた高位の魔物と、その魔物が連れて来た雇われの魔物と一緒に組み上げた、今回の作戦の要となる術式があった。

その試作を発動させたウィームで、火薬の魔物の代わりに罠にかかった女がいたのだ。


転移でその場から逃げ出した女を、エスメラルダ達はそれぞれの持つ情報網を使って捜索していたのだ。

そして誰よりも早くその行方を掴んだのは、エスメラルダだった。


不可思議なことに、その女は王都で第四王子を訪ねており、正規訪問ではないので困惑した衛兵が控え室に待たせている間に姿を消したらしい。

第四王子派まで絡むと厄介な話だが、あの王子派にも優れた間者はいるだろう。

こちらの動きを探っている可能性もあるので、一番顔の広いエスメラルダが、第四王子派の貴族の一人と接触することになった。


そして王都まで足を運んで。



(それから、何があったのかしら)



記憶はそこで途切れているので、焦点の定まらない目で、正面に立った男を見上げる。

エスメラルダはなぜか床に転がされており、蔑むような目で彼から見下ろされていた。



「あなたは守りが堅いかと思っていましたが、僕にとって勝手知ったる第四王子の近くにいらっしゃるとはね。赤毛の身代わり人形は稚拙な撹乱だと思っていましたが、まさかあなたのような大物がかかるとは」


そこで彼は一度笑ったようだ。

そこに滲んだ悪意と嘲笑に、エスメラルダはよくわからないままにぞっとする。


「……大物でもありませんでしたか。ただの、虚栄心だけで動いた愚かな女でしたね」



(…………思い出した。これは、リーベルだわ)



ぼんやりとしたまま、何とかその名前だけは頭の奥から引っ張り出した。

また意識が朦朧として、思い出した名前の主が何を得意としていたのかを悟り、背中を冷たい汗がつたう。



「や、やめて………」


声を張り上げたつもりだったが、嗄れた囁き声しか出なかった。

しかしリーベルには聞こえたのか、わざとらしくこちらを見て微笑みを深める。


「申し訳ありませんが、竜の外套に纏わる情報を師が望んでいましてね。僕としても、あなたのような情けない人間の、怖気の走る自分語りなど興味はないのですが。さて、それでも仕事ですからもう少し喋っていただきましょう」


悲鳴を上げて暴れたつもりだが、手足はもう動かなかった。

たるんだ皮膚の上を涙が流れ、唇は意思とは関係なくこれまでのエスメラルダの言動を垂れ流してゆく。

リーベルが指示したままに、バーレンとの出会いだけではなく、竜の外套を手に入れた経緯まで事細かに語っていた。



(…………こんなのはあんまりだわ)



隠したいことも、惨めな本心も、重要な情報だけではなく、その全てを曝け出される。

バーレンに会った夜に、運命がやっと自分に微笑んだと思ったことや、彼が俯き加減に微笑むとどれだけ美しいのか。

リーベルの伯父であるロスベルに対する、複雑な思いも。


心が引き裂かれるような思いで、その全てを事細かに語った。

あの舞踏会の夜に、王妃が密会していたのを見てしまったのは、自分が恋をする青年を追いかけてのことだったのだと。

だからその恋敵である美しい王妃から下賜された、そんな竜の外套など大嫌いだったことも。



泣きながら語り、逃げ出した女は問題ないと仲間達に伝えさせられ、翌日の作戦決行の折には彼等にとって有利な発言をするように操られて。



心はもうひび割れ、希望は死んだ。

ああ、あの祝祭の日。

自分の裏切りに目を剥く仲間達に、裏切り者の人間を罵って倒れてゆくあの火竜。

バーレンはどこだろう。

やはり、裏切り者だとエスメラルダを憎むのだろうか。





「………あの光竜を、愛していたのだな」



数日後、更迭されるエスメラルダの部屋に訪れたのは、ロスベルだった。

豪奢な部屋だが、高貴な罪人を監禁する為の部屋で、内側からは扉も窓も開かない。


もはや、涙も流れなかった。

だらしなく俯いた姿は、まるで醜い老女のようだろう。

しかしそれが真実なのだ。

エスメラルダはもう随分と年老いた。

こんな姿を、ロスベルに見られるだけでも死にたいと思う。



「そなたの代わりに、同じ血筋を汲むガーウィンのアーミッシュが女公爵の地位に就く。伝統ある女公爵の名前をここで断つ訳にはいかないからな」


名前も知らない女だった。

遠縁もいいところなのだろうと考えて、エスメラルダは少しだけ馬鹿馬鹿しくなる。

公爵とは名ばかりであり、実際にはもう大した爵位ではないのだ。

伯爵相当の代役など、誰でもいいのだろう。


「それと、これはゼベル……私の甥からだ」


この先、生涯閉じ込められる屋敷に護送されるその日、ロスベルは一つの小さな石塊をエスメラルダに渡した。


「星鳥の卵だそうだ。よく分からないが、一人では寂しいだろうと、…………感傷的な若者だ」



(…………星鳥?)


それは確か、宝石を生む鳥だった気がする。

しかし、終生外に出ることも敵わないエスメラルダにとって、もはや宝石など意味のないものだ。



一言も喋れないままエスメラルダは終の住処に運び込まれ、部屋の片隅に放置していた石塊からは、いつの間にか雛が孵ったらしい。



「ピ!」


ある朝から、汚らしい茶色い生き物が、エスメラルダを付いて回るようになっていた。

何を食べるのかはよく分からないが、何日も無視し続けていても死にはしないので、勝手に食べているのだろう。

花瓶の水を飲んだり、洗濯室で水を飲もうとして泡だらけになったりしている。



「ピ……」

「うるさい!」


時々癇癪を起こしたエスメラルダに蹴り飛ばされても、その汚らしい雛はめげずに後をついてきた。

こんな煩わしいものは窓から捨ててしまおうと思ったある日、エスメラルダはふと、この雛がさして可愛らしくもないのだと気付いた。



(まぁ。………宝石を生む鳥のくせに、何て不細工なのかしら)



でっぷりと太っているし、顔もどこかふてぶてしい。

しかしそんな雛は、窓から投げ捨てられるとは思いもせずに、初めてエスメラルダに持ち上げられたことで歓喜に体を震わせて大はしゃぎしていた。



「馬鹿な鳥だこと。こんな風にされてもなお、まだ私に掴まれて喜ぶの?」

「ピ!」

「窓から投げ捨てられたら、きっと死んでしまうわよ」

「ピ?」

「ほら、そんな小さな体、あの硬い地面に落ちてすぐに潰れてしまうわ」

「ピ!」



掴んだ手のひらに、ほんわりとした温もりが伝わる。

小さな瞳をきらきらとさせて、鳥の雛はエスメラルダを嬉しそうに見返してきた。

ふわふわの毛は、乱暴に持たれて歪んでしまっているのに、きっと羽がひきつれて痛いだろうに、その雛は嬉しそうだ。



「…………醜い鳥。私にお似合いだわ」



涙が溢れた。


ぽつぽつと落ちてきた涙に、鳥の雛は大慌てしている。

必死にエスメラルダの手を小さな嘴でつつき、大丈夫だろうかと何度も声を上げてこちらを覗き込む。



「馬鹿な鳥だこと。………まったく、仕方がないわね。今日は私の朝食を分けてあげましょう」

「ピ!」

「幸いにもね、私は生涯監禁の身であれ、食べ物と住処には困らないようね」

「ピ!!」



その夜は、エスメラルダに可愛がられて有頂天の鳥と一緒に寝た。

潰してしまいそうで怖かったのだが、もはや雛が離れなかったのだ。

エスメラルダが離れると、小さな瞳に涙をいっぱいに溜めて項垂れている。

そんな姿を見るたびにエスメラルダは、生まれて初めてただの自分を必要とされる喜びで胸が熱くなった。



春が来た。


庭の満開になったミモザの木を眺めていると、同居人がエスメラルダのドレスを選んでやって来た。


「エスメラルダ!……僕は、こっちの色が好き。エスメラルダは黄色が似合うよ」

「もうこんなおばあさんなのよ。その黄色は派手だわ」

「そうかな。エスメラルダは何色を着ても綺麗だけど、僕は黄色がいい」

「まったく、頑固な鳥君だこと」

「やった!エスメラルダ大好き!」



あの茶色い雛は、一年で成鳥になった。

星鳥というものが大人になると人型を持つのだと、エスメラルダは知らずに驚いたものだ。

そして星鳥とは、自分の住処と生活を守る為に、共に引き篭もってくれる相手を伴侶にして、かなり過剰な愛を注ぐらしい。

結果エスメラルダは、くしゃくしゃの茶色い髪と淡い菫色の瞳を持つ美しい青年と一緒に暮らすことになった。



鳥の姿が人型になったことで、こちらの様子を定期的に調べに来る監視官が動転し、翌日にはロスベルが愕然とした面持ちでこの屋敷を訪れた。

慌てて甥に連絡を取り、星鳥というものがこのような成長過程を経るのだと初めて知ったようだ。

その甥が住むウィームなどの魔術が潤沢な森林があるところならいざ知らず、ガーウィンでは星鳥の生態など誰も知らなかったのだ。


「僕のエスメラルダに近付かないでよ。早く帰って、二度と来ないで!」


自分の巣に見知らぬ男が入ってきたので、星鳥はたいそう怒り狂った。

美しい青年が醜いエスメラルダを抱き締めて自分を威嚇するのを見て、ロスベルは目を丸くして帰っていったものだ。



あれから、何年経っただろう。



エスメラルダに星鳥の卵を持たせたゼベルというウィームの騎士は、当時新婚だったのだそうだ。

あの事件のあらましはリーエンベルクでも話され、その時に、兄であるリーベルの行いに眉を顰め、エスメラルダを不憫に思ったらしい。

確かにそれは、若者の感傷からの自己満足の為の善意であった。

星鳥をと思ったのは、ウィームの歌乞いがその少し前に、星鳥の卵を孵したからだとか。

つまり彼は、星鳥がこのように成長し、やがてはエスメラルダの伴侶になるだろうと見越していたのだ。


「…………私は、生涯その騎士に感謝するでしょうね」

「エスメラルダが、他の男のことを話すのは嫌い」

「ふふ。困った鳥君だわ」

「名前で呼んでよ。僕に、エスメラルダがつけてくれた名前、大好き」

「グレース」

「うん!」


グレースというのは、本来は女性の名前である。

しかしエスメラルダには、ふわふわの茶色い雛が雄だとはわからなかった。

可愛らしく鳴くので雌だろうと思ったが、星鳥には雄しかいないのだそうだ。

恩寵という名前を貰った茶色い雛は、その晩は何度も走り回って喜んだものだ。


あれからもう、随分遠くまで来たような気がする。



(あの光竜は、今はどこにいるのだろう)



あの後、バーレンは、探し人に会えたと聞いた。

しかしそれは望んだ相手ではなかったようで、その後どうなったのかは知らされていない。

死んでしまったのか、エスメラルダの大嫌いな竜の外套を持ってどこかを彷徨っているのか。



「エスメラルダ、今日もどこにも行かない?」

「あらあら、私はどこにも行けないのよ」

「勝手に出て行こうとしたら、僕が連れ戻すからね。出て行くときには、僕も連れてって。それで、誰もいない家でまた二人で暮らすんだ」

「ふふ。それなら追い出されるまでは、ずっとここにいましょう。お金の心配もなく、グレースと暮らせる素敵な終の住処だわ」

「追い出されたら宝石を売ればいいよ」

「ええ、そうね」



膝の上に乗せられた頭の、ふわふわの茶色い髪を撫でる。

幸福のあまり恐ろしくなることもあるが、毎日は穏やかで安らかなばかりだった。



あの日、竜の外套を下賜されたこと。

そして、あの夜にバーレンに出会ってしまったこと。

そして、エスメラルダという名前のぱっとしない女公爵に産み落とされたこと。



その全てを、今は神に感謝している。

グレースに出会う為であれば、エスメラルダは何度だって、この惨めな人生を繰り返すだろう。







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