160. 運命には分岐点があります(本編)
港にある老舗のリストランテでは、ルイユソースに加えて、この店特製マスタード添えのブイヤベースが名物料理である。
通は、前菜には同じマスタードを使った新鮮野菜と食べるカルパッチョを頼み、パンではなく茹でたジャガイモと一緒に食べるのだ。
店に入る前に、港から牛達が放たれるのを見て、ネアはあまりの迫力に青くなってしまう。
エルウィンが心配になり、思わずディノにもう一度調整が問題ないか尋ねてしまい、魔物が拗ねる場面があった。
なので現在、ネアは三つ編みリードを持たされている。
「ここですね。海鴎亭。気軽に入れるお店ですが、老舗のリストランテですのでお二階は高級なメニューも出される、個室になっているそうです」
「一階でいいのかい?」
「ええ。折角ですから、観光地らしいお食事を一度試しておきましょう」
ネアとディノはそこで、仕事合間のお昼ご飯を摂ることになった。
しかし、本来ならば一般客と同じ一階でわいわいといただく筈なのに、その後、なぜか二人は二階の個室でブイヤベースをすすっていた。
「………あの、お二人の顔色がおかしいのは、なぜなのでしょう?」
ネアがそう問いかけるのは、向かいの席に座ったアルテアとウィリアムだ。
お店に入る直前で無言ですっと合流してきた二人は、暗い眼差しでネア達をこちらの部屋に連れ込んだのである。
ネアは暫く食事を優先した。
途中、窓の向こうで大騒ぎがあり、このリストランテ内でもばたばたと足音が聞こえたので王宮前広場での騒ぎが起きたのだろう。
その時は我慢して粛々とカルパッチョを堪能し、今やっとブイヤベースを食べ始めたところだ。
そしてここで、不可解で陰気な空気に我慢出来なくなったのである。
ネアにびしりと切り込まれたアルテアとウィリアムは、途端に何とも言えない顔をした。
「ネア、あの竜と…」
「……いや。お前は食べたらさっさとウィームに帰れよ」
「不自然過ぎるのだ」
ネアに一喝され、魔物達は視線を彷徨わせる。
いい大人と言うか、長生きし過ぎている魔物達のくせに何と残念なのだろう。
ネアに叱られてまず最初に気を取り直したのは、ウィリアムの方だった。
ふわりと情けなさそうに苦笑し、ことりとフォークを置いた。
「いや、実はあの光竜と接触したんだ」
「まぁ、…………どこで会われたのですか?」
「………王宮内だ。ヴェンツェルが罠を張ってたからな」
「ご自身でそう言うことは、アルテアさんもいたのですね。………おや?」
ネアが首を傾げたのは、昨晩の段階でアルテアはこの一件から手を引くようなことを話していたからだ。
だが、どう見てもこの様子からすれば、遭遇したのは今日のことだろう。
「野暮用でな」
「ディノ、元使い魔さんの暫定私の魔物さんが、ぼろぼろの言い訳をします」
「おや、排除しようとして逃げられたのかな」
「シルハーン…………」
「いや、それは本来お前の仕事なんだからな」
二人の魔物に荒んだ視線を向けられて、ディノは器用に海老を食べながら綺麗な瞳を微笑みに緩めた。
「どういう訳か、あの光竜はネアの事を知っているらしい。どんな由縁があるのかわからない内に、殺してしまおうとする筈がないだろう?」
「………そうか、お前は俺達が手を出すのを分かっていて、その余裕なんだな」
「うーん、シルハーンにはお見通しでしたか」
「さては、バーレンさん撲滅委員会ですね!ヴェンツェル様やダリルさん方が事件を解決しようとしてるので、現場を荒らしてはいけません!」
「あのなぁ、どう考えてもおかしいだろうが」
「…………む?」
「そもそも竜が、他の種族を利用すること自体がおかしい。竜は竜と、或いは単独で行動するのが常だ。他の種族と共闘するにせよ、旧知の者に限られる。それなのに、そこまでして今回の計画を遂行した奴が、お前の周りでだけ調子を崩す」
「ふっ。それは私の対竜能力のいたすところですね」
「ネア、しかし彼は、昨日も君が出歩いているという噂を聞いて、そこに現れたんだよな?」
「竜の媚薬でしょうか?或いは、飛び蹴りで強さを示したので、懐いてしまったのかもしれません」
ネアはそう言って自画自賛で頷いたが、アルテアには顔を顰められてしまった。
とても不愉快なので海老を奪うことにする。
略奪した海老をばりばり食べながら睨みつければ、やっとネアの力量に恐れ入ったのか小さく溜め息を吐いている。
「言いたかないが、あいつが俺を仮面の魔物だと認識したのはここ最近のことだが、これ幸いと利用しながらも、さして興味は示さなかった」
「まぁ、あまり構って貰えなかったのですね。寂しかったのですか?」
「やめろ。………で、あいつが隠れて調べていたのが、ウィームの歌乞いのことだ。お前が蹴倒す前のことだろうが」
そう言われてこてんと首を傾げたネアだったが、少し置いてから言われたことを理解した。
「自分の人生を狂わせた魔物さんより、私に夢中だったという事でしょうか?ディノ…」
「竜を飼うのは禁止だよ」
「し、しかし懐いていますし、悪さをした奴めであれば捕まえても取り締まられないのでは…」
「ネア、あの竜は王冠を狙っているのだろう?エーダリア達に迷惑がかかるのでやめようか」
「おのれ、珍しく正論で攻めましたね!では、この事件を早く解決するのだ!」
荒ぶる人間を鎮めつつ、魔物達は顔を見合わせると、申し合わせたように説得に入る。
先鋒はウィリアムのようだ。
「ネア。まず第一に、あの竜の目的が竜の王冠なら、持ち主である王子はそれを許容出来ないだろう?王冠を諦めるように説得出来るならまだしも、竜程に頑固な生き物はいないぞ?」
「ウィリアムさんなら、竜さんの良さがわかると思っていたのですが……」
「今回の竜は、既に問題を起こしているだろう?サラフ達とは違うからな」
「むぐ。…………それと、お話の途中ですがマスタードのお代わりです」
「お前な、ちょっとは食べるのを止めるとかないのか」
「ブイヤベースはあつあつでこそ!そしてお味のアクセントになるソースは勿論のこと、本日美味しさに目覚めたばかりの特製マスタードは欠かせません」
頑固にマスタード皿を持ち上げたネアに、ディノがすかさず店員さんを呼んでくれる。
してあげたい精神の塊のこの魔物は、ご主人様が満足に食べられないことに対する忌避感があるのだ。
貪欲過ぎる人間に閉口気味な魔物達をしんみりさせつつ、すぐにお代わりのマスタードを店員が運んできた。
(…………む)
その際、店員さんのエプロンの裾に目を向けたネアはすぐに異変に気付いたが、ここで騒ぐと、にこにこ笑顔の女性店員さんを巻き込むのでひとまず黙った。
そして、なみなみとマスタードが盛られたお皿を置いて店員さんが退出し、自分の取り皿にマスタードを取り分けてから口を開くことにする。
「ブイヤベースは各自注文していますので、つまみ食い禁止ですよ?狙っていても渡しません!」
がたりと椅子が揺れた。
白身魚にマスタードをたっぷりつけてご満悦のネアは、さっと盾になってご主人様を背中の後ろに押し込んだ魔物にむむっと眉を顰める。
幸いにもお魚は口の中に入れた直後だったので、むしゃむしゃと美味しくいただいた。
「くそ、竜の外套か!」
アルテアの声に、ばさりと布を翻す音。
むぐむぐと白身魚を嚥下したネアも、ようやく臨戦態勢に入る。
(くっ、ブイヤベースの中には、まだ口をつけてない種類のお魚的なやつが!)
とても悔しいがここは優先すべきことがあるので諦めよう。
渋々ディノの背中から顔を出して視線をそちらに向ければ、部屋の窓側に擬態を解いたバーレンが立っている。
「これは驚いたな。よく、ここに入り込めたものだね」
「竜の外套は、他者を傷付ける目的さえ持たなければ、決してその擬態を悟られることはない。古の魔術の理を編み込んだものだ」
「随分と曖昧で狡猾な条件付けだね。魔術の理を上手く扱ったものだ」
ディノにそう言われ、バーレンは薄く微笑みを浮かべる。
あの港で見た美しいケープのような外套を羽織っており、どうやらこれが竜の外套だったようだ。
さすがに魔物達も注視していなかったちび蜥蜴になって、店員さんに取り付きこの部屋に入り込む手法からすると、竜の外套はサイズ変換も可能であるらしい。
「それは光栄だな。この外套を作ったのは俺の父だ。材料となった糸を勝ち得たことで、そこにいる仮面の魔物に殺されてしまったが」
「なぬ?!すぐに謝って下さい」
「おい、なんであいつ寄りなんだよ?!」
アルテアに文句をつけられつつ、ネアはこちらを見たバーレンの青い瞳を覗き込む。
それは窓の向こうに広がるヴェルリアの青い海とは違い、もっと北方の海の色を思わせた。
(…………やっぱり、ううん、でももしかして)
「………バーレンさん、昨晩歌っていましたか?」
ネアがそう尋ねれば、バーレンは青い瞳を瞠ってから、少しだけほろ苦く微笑む。
「…………どうして君はいつも気付いてしまうのだろうな」
「やっぱり、あの歌はバーレンさんだったのですね」
そのやり取りに、昨晩その歌を一緒に聴いたディノとアルテアは驚いたようだ。
「決行前夜に気楽なもんだな………」
「元々、俺と彼等とは目的が違う。共に在ったのは君が離脱したあの夜までで、以降、彼等とは別行動になった。俺が手を貸した者とも、主導するのはあの夜までだと約束していた」
「………俺は聞いてなかったようだな」
「君は仮面の魔物だ。無理やり働かされていた上に、その力である程度の逃げ道を作ってきた君を、そこまで信用する必要があるか?」
「ま、ないだろうな」
「そう言うことだ」
(………目的)
図らずもその言葉が出てきて、ネアは好機を得た。
「バーレンさんは、竜の王冠が欲しいのですか?」
突然そんなことを言い出したネアに、アルテアが眉を顰める。
ウィリアムも驚いたようにこちらを見たが、バーレンは微笑みを深めたようだ。
穏やかでさえある瞳を揺らして、どこか諦観の滲んだ声で答える。
「俺があの王冠を欲することはない。あれは王位を安定させ、国を守る祝福のものだ。国を持たないどころか、王族でもない俺が今更手に入れても、何の意味も成さないではないか」
「は?!」
短く驚愕の声を上げたのはアルテアだ。
ウィリアムも瞠目しているが、ディノはどこか腑に落ちたような表情をしている。
先程ディノが、バーレンが王冠に拘る気持ちが分からないと言ってくれたお陰で、ネアは自分の価値観と竜の価値観が違うのではないかと考え直せたのだ。
「やっぱりそうだったのですね。……私も昨日まですっかり王冠目当てだと思っていましたし、うっかり周囲の方をそちらに思考誘導してしまいましたが、ディノから新たにヒントを得まして、竜さんは人間のように品物にそこまで執着するのだろうかと、疑問に思っていたのです」
そう納得したネアに代わり、バーレンを睨め付けたのはアルテアだ。
「おい待て、じゃあ何で、さっきまで集中魔術保管庫にいたんだ?」
どうやらそこで、アルテア達はバーレンと遭遇したようだ。
もしやここを突き止められたのは、尾行でもされていたのではと、ネアは半眼になる。
「調べたいことがあり、ずっと王冠の側で答えを探していた。今日のことに手を貸したのもその為だ。しかし、驚いたことに俺が探していた答えは、君達が持っていたようだ」
「は?」
「君達が、先程の会話で俺に答えをくれたのだろう?そもそも、王冠を手に入れることが目的ならば、俺はここに来る必要はない」
そう笑ったバーレンは、どこか寂しげだ。
ネアは訳もわからずにはっとして、なぜか体を強張らせてしまう。
思考が追いつかないだけでその時にはもう、何かが終わってしまったのだとわかっていたのだろうか。
しゅわりと淡い光が部屋で弾けた。
テーブルの上の食器がガチャリと揺れ、窓硝子がカタカタと鳴る。
「ディノ!」
ネアが声を上げたのは、ネアの前に出てそのバーレンの攻撃を払ったディノが、ぞくりとする程の鋭利な気配を放ったからだ。
「君は下がっておいで」
今、攻撃を受けたのは多分ネアだ。
でもそれはディノが容易く防いでしまったし、ネアはどうしてもこの竜が自分を殺したがっているようには思えない。
それよりも、彼はこの場で、必死に何かを確かめようとしている気がした。
(まるで、………)
まるで、この中の誰かの反応を試しているみたいに。
そして次の瞬間、一瞬で全員の立ち位置が変わった。
「ネア?!」
「おい、馬鹿か?!」
「ネア!」
前に出たディノに代わり、後ろに下がらせようとしたアルテアの手をすり抜け、ネアはあえて前に飛び出した。
幸いにもアルテアは護り手から逃げ出す人間に慣れていないし、対するバーレンは、それをわかっていたかのようにその場所に飛び込んだのだ。
「………っ、」
手首を掴まれて体を反転させられる。
人質か何かのように抑え込まれて、ネアは初めての体勢に足をもつれさせた。
「冷酷なくせに我々に目を奪われ、心を奪われ易い。君ならば、俺に時間を稼がせる為に前に出るだろうと思った」
愉快そうにそう言うくせに、なぜかバーレンの声はちっとも嬉しそうではない。
その声を受けて凄艶に微笑んだのは真珠色の魔物だ。
擬態を解きこちらを見る眼差しには、微かな怒りもある。
「ネア、少しだけ我慢してくれるかい?」
「ディノ!待って下さい!!」
ディノが怒っているのは、わざわざバーレンの間合いに飛び込んだネアのことだろう。
あれだけこの魔物を大事にすると話していたくせに、どうして守りの外に出てしまうのかと、そう責めたいのだ。
だけどネアにも、今回はこうした理由があった。
「この方は、ディノと話したいようなのです。だから、せめてその話を聞いてあげて下さい!」
ネアのその言葉には、ディノだけでなく、ネアを拘束したバーレンも小さく体を揺らした。
それがわかったから、ネアは前に出たのだ。
捕獲が難しいという光竜なのだから、この場にいる過激派の魔物達であれば、ネアへの攻撃を口実にして、これ幸いと殺してしまうだろうと考えて。
(でもさっきの攻撃は、何かを確認する為だった。殺意も悪意も全くなかったから)
「………なぜ、わかった?」
その低い声に、ネアは少しだけ首を捻って、後ろにいるバーレンに向けて微笑む。
「今日のバーレンさんは、私を見るふりをして視線を少しだけずらしていました。それは、真っ直ぐに目を見る今迄とは違う対応でしたし、視線を辿れば、こっそりディノを見ているとすぐにわかりますよ」
「…………そうか」
また小さく苦笑を滲ませた声に、ネアは昨晩聴いた竜の歌を思い出す。
胸を締め付けるような、悲しげな声だった。
バーレンがディノの方へと視線を巡らせる気配がして、ディノが困惑したように目を瞠る。
「竜の王冠を、あの精霊の宝物庫から奪取したのは君なのだな」
その質問こそ、こんな陰謀に加担してまで、ずっとバーレンが追いかけてきたことなのだろう。
でもネアには、まだ、彼がそう問う理由はわからない。
「そうだね、それは私だよ。しかしそれが、君にとって何の意味を持つと言うのだろう?」
(あ、…………)
誰かが泣いているような気がした。
涙を流してなくても、声を上げてなくても、誰かが、失望に心の底で泣いている。
そんな気がして、ネアは胸が苦しくなる。
「………意味ならばあった。長年竜の外套を探していた俺は、やっと辿り着いた場所で、その外套を所有していた精霊の王が誰かに滅ぼされたのを知った。残された宝物庫の番人は怯えてしまってまともに会話も出来なかったが、……王を殺し宝物庫に残されていた竜の王冠を奪った者が、白い髪に青い瞳をしていたことだけは覚えていた」
背中に触れているバーレンの胸が深く息を吸い込むのがわかった。
その動きにまた、この竜がどれだけの苦痛を持って語ろうとしているのか、伝わってしまう。
「俺はその襲撃者を、光竜の王族の生き残りだと思ったのだ」
窓の外で風の音が聞こえた。
こうしてお店でバタバタしていても店員が駆け付ける気配もないのだから、空間を上手く閉ざしているのかもしれない。
バーレンの言葉が部屋に落ち、その響きが浸透する頃には、ただ、諦観に満ちた静けさだけが残る。
「君は、光竜ではないのだな」
「見ればわかるだろう。私は魔物だよ」
「まったくその通りだ。瞳の色も、………我々とは違う。あの番人はよく見えていなかったのだろう。それに、こうして振るわれた魔術を受ければ簡単にわかってしまう。君は魔物だったか」
その告白に、額に手を当てて苦い表情になったのはアルテアだ。
今回、この光竜に一番振り回されたのは彼だが、ネア的には自業自得である。
暫定ネアの魔物であるので、今後はあまり心配をかけるような不祥事を起こさないでいただきたいところだ。
「もしかしてお前は、それで竜の王冠を追っていたのか?」
「そうだ、アージュ。君を見付けてその報復に酔いしれるよりも、俺は生きているかもしれない仲間を探したかった。この地を訪れたのは、へクセルの巡礼者からガーウィンに竜の外套があると耳にしたからだが、外套を譲ってくれた女性から、今度はこの国の王妃があの精霊王の島を制圧したのだと聞き、王冠を奪取した者の情報がないかと外套を纏って近付いてみた。するとどうだ。あの王妃の息子から竜の王冠の気配がするではないか」
(…………偶然のことだったんだ)
彼が辿った経路がわかり、ネアは驚いた。
まずは外套を探していて王冠のことを知り、今度は外套を追いかけてヴェルクレアを訪れ、そこで王冠の情報どころか、竜の王冠そのものがこの国の王宮にあることに気付いたという訳だ。
けれども彼が言うように、それが誰の手で奪取されたものなのかを突き止めるまでには、今日の今日までかかったのだろう。
王宮の恐らくは王冠のある部屋で、アルテアとウィリアムとの間に何があってどんな会話をしたのか、それはヴェンツェル以下、王宮の関係者は知ってのことだったのかも気になったが、後で誰かに聞いてみよう。
「だから君は、竜の質を裏切ってまでして人間達と手を組んだのだね。あの王子の周囲で事件を起こせば、王冠を持ち込んだ者が現れると思ったのか」
「そうだ。大国の王族を巡る事件が起きれば、その理由も人々の口に上る。王冠を持ち込んだ者がここにいなくとも、俺が現れたことが耳に入ると思ったが……」
「それでアリステル派に手を貸したんだな」
アルテアの苦々しい声に、バーレンは小さく笑ったようだ。
「理由は他にもある。迷いもせずに竜の外套を俺に返した者に報いたかったこともあるし、王冠を持ち込んだ者が不明である以上は、それを探すしかない。少し調べれば、どうやらウィームから納められたものだとわかったが、人外者の多いウィームに入り込むのは困難だった。であれば、あの王冠を授けるぐらいに買っている第一王子の周りで動乱があれば、贈り主が姿を現わすかと思ってな」
(そうか。だからこの人は、ウィームについても調べたんだ)
自分について知ったのはその時だろうと、ネアもやっと安心した。
「………しかし、残念ながら、君は光竜ではなかったが」
「だとすれば、ここへ来たのは無駄足だったようだね。確認するべきことは済んだのだろう?その子を離したらどうかな」
「どうだろうな。同族が生き残っていないとなれば、やはり俺は仮面の魔物に復讐するべきなのかもしれない。アージュは随分と、彼女を気にかけているようだ。因縁があるので自分が手を下したいと主張しながら、君はいつもウィームの歌乞いを守ろうとしていたからな」
「ほお。また他の生き物と入れ替えて欲しいのか?」
「或いは、ここで国の歌乞いが死ねば、俺の目的はともかく、アリステル派の望みの一端は叶うかもしれない。……おっと、」
ずばんと音がして、ネアは自分の足が空振りしたことに驚いた。
やはりこの竜は、ネアのことをよく知っている。
しかし、狩りの女王の異名は伊達ではないのだ。
「甘いですね」
「………っ?!」
ブーツを遠ざけようと不自然な体の離し方をしたバーレンに、ネアは後ろ跳びでごすっと頭突きをしたのだ。
「これで、……ふきゃっ?!」
バーレンが苦痛の声を上げた瞬間にネアは抜け出そうとしたのだが、彼は掴んだ手を決して緩めずに、ぐいっと引き寄せたのだ。
がくんと揺れた視界の中で真っ青な瞳と視線が絡む。
北方の海のような青い瞳はその時までは酷薄に見えたが、真っ直ぐに見上げたネアに、諦めたようにふつりと緩んだ。
「ネア!」
「ディノ!待てですよ!」
「お前な!」
「そちらも待てです!」
体勢の入れ替えがあってぜいぜいとしたネアだが、決して手荒な拘束ではなかった。
またしても膠着状態かと思ったところでばたんと音がして驚けば、風を通す為に少しだけ開けてあった窓が、強い風に煽られて開いてしまったようだ。
ついさっきまでは、真っ青な青空のいいお天気だったのに、今にも雨が降り出しそうで水の匂いがする。
「………ああ。海嵐達との契約時間が切れたのだろう。今日は元々、嵐の予定だったからな。それと、君はなぜ、俺を恐れないのだろうな?」
バーレンも窓の外に気付いたのか、一瞬で天候が変わってしまった絡繰りを教えてくれる。
契約で一時的に天候操作していたのなら、牛追い祭は目玉となる牛追いの部分が終わったのだろう。
(もうみんな、捕まってしまったのだろうか)
そうなればこの竜は、一人ぼっちなのだろうか。
「なぜだかよく分からないのですが、あなたはずっと怖くはないのです。最初に皆さんのいた部屋に引き落とされた時は不安でしたが、それ以降お会いした時はいつも、あなた自身は怖くはありませんでした」
「楽観的だと言われことはないか?それとも、誰も自分を傷付けられないと考えているのか?」
「怖い目をしても無駄ですよ!」
少しだけ声音を低くしてみせたバーレンに、ネアはふんすと胸を張った。
今度は向かい合うようにして押さえ込まれたので、お互いの顔がよく見える。
ネアに頭突きされた顎は、少しだけ赤くなっていた。
「あなたにはなぜか、敵意がないのです。脅しのように取れる言葉を発しながらも、ちっともやる気が見えません。だからうちの魔物も大人しく待ってくれているのですし、ウィリアムさんに至っては、途中から観客になってしまいました」
「はは、ばれてたか」
「っていうか、お前は何で座ってるんだ……」
「いや、この広さの部屋で俺まで動いたら狭いだろう」
そちらの緊張感が瓦解したので、ネアはふうっと息を吐く。
見返したバーレンの表情は、なぜだかとても透明に見えた。
とても疲れていて、寄る辺ない感じがして、ネアはどうしても声を柔らかくしてしまう。
「ですので、ひとまず落ち着きませんか?」
ふっと、歪んだ微笑みが落ちた。
諦めても尚、どこか救いのない暗さを感じる、疲れた微笑みだった。
「やれやれ、また君を殺し損ねてしまった」
青い瞳にえもいわれぬ感情の織りが揺らめき、その奥で閃いたかもしれない本音を覆い隠してしまう。
「どうして俺はいつも、君を殺せないのだろう」
ネアは目を瞠って、その諦観に満ちた告白を聞いていた。
嵐の前の風に銀色の髪がたなびき、窓の向こうからは、微かな雨の音が聞こえる。
「君という要素がなければ、俺が手を貸した者達が立てた、今回の作戦は成功したかもしれない。君を殺しておけば、俺の人生を狂わせた魔物に復讐が果たせたかも知れない。………君が敵だと知ったその時から、殺すべきだとわかってはいたのに」
そう微笑んだ瞳を見返して、ネアは眉を顰める。
「あなたは、…………一体いつから私を知っているのですか?」
そう言えばバーレンは、どこか投げやりな微笑みを深め、微かに体を捻る。
少しだけ窓の方を見たようだ。
「運命の分岐は不思議なものだ。俺は、………こんな風にもう一度君に会うとは思わなかった」
「申し訳ないのですが、私は今回のことでお会いするまで、あなたを存じてはいなかったと思うのですが……」
「君はきっと、忘れてしまうだろうと思っていた。………もうずっと、前のことだ」
ネアから手を離し、コツコツと数歩下がって行く靴音がやけに無情に響く。
片手で乱れた前髪を掻き揚げ、バーレンはまた薄く苦く笑った。
「………君はいつも、冴え冴えと輝くナイフのようだ。気紛れに目をかけ、敵となれば躊躇いもなく傷付ける。心のどこかで俺を破滅させるものだとわかっていても尚、君を殺すことは出来なかった」
そう言ったバーレンが、指先を襟元にかけた。
はらりと開かれたその首元には、なぜかネアにはいつも見えなかった、痣のような不思議な模様がある。
「………っ!」
ネアが鋭く息を飲んだその瞬間、ご主人様を腕の中に取り戻した魔物が、骨が軋みそうなくらいにぎゅっと抱き締めてくる。
「ネア?」
こちらの美しい声はまた、人間を容易く屈服させる魔物らしい凄艶さで。
その傲慢な問いかけに短く首を振って、ネアは真っ直ぐにバーレンの青い瞳を見つめた。
「私のたった一つは、ディノだけです」
向かい合ったその先で、バーレンが苦笑して小さく頷く。
「そうだね。………きっと、そうなのだろう」
「ですので、私にそういう感情を向けられるのは迷惑です」
青い瞳が微かに揺れた。
きっぱりと言い切ったネアに、なぜか魔物達の方が驚いたような顔をする。
人間らしく短絡的に好意の振り分けをするネアが、こんな風に苦しげな拒絶の姿勢を見せるのは珍しいからだ。
物問いたげなディノの視線も感じたが、ネアは、それだけ言うとぴっちりと口を閉ざした。
「…………そうか」
ばさりと広がった翼は吸い込まれそうなくらいに柔らかな淡い黄金色だった。
あの海の神殿に行った時に見たブルーを思い出し、ネアはぞくりとするような青い瞳を最後に一度だけ真っ直ぐに見据える。
この瞬間こそが、今回ネアの関わった事件の最後の場面になるのだろうと感じて、決して忘れないように。
(どうか………)
どうかもう二度と、巡り会うことがありませんように。
そう考えて視線を引き剥がすと、ぼすんと後ろにいたディノの胸に顔を埋める。
その直後、背後では羽ばたきに幾つかの声が入り乱れ、誰かが交戦するぞっとするような物音、何かが落ちて割れる音に、また一つ羽ばたきが聞こえた。
(…………あのひとが、誰なのかわかってしまった)
ただディノだけは、自分の胸に顔を埋めたネアを抱き締めたまま、静かに立っていてくれる。
ネアが語らないことに納得していないのはわかったので、ほんの少しだけ顔を上げると、はっとしたように綺麗な水紺の瞳を瞠った。
「後で、ディノには話しますね。心の整理をつけるので、少しだけ待って下さい」
「ネア………」
くすんと鼻を鳴らして、涙目のまま、ネアはもう一度頼もしい魔物の胸に顔を埋める。
大好きな魔物の香りがして、ここにいれば世界一安心だという気がした。
(まさかと思ったのに、私はわかってしまった。………わかりたくなった。だってそれは、怖くて悲しいことだったから)
これが運命の采配だというのなら、運命はどうしてこんなことをするのだろう。
そう思うと悲しくなって、ネアは目の奥が熱くなる。
(たったひとつでもう、私は充分なのに)
ネアにはもうディノがいるのに、どうしてバーレンはあの時のことを思い出させるようなことをしたのだろう。
あの夜。
大勢の人達の中で、邂逅はほんの一瞬だけだった。
花の香りがして、女性達の笑い声が聞こえた、そんな夜。
あの夜に一度だけ。
そしてネアには散々な目に遭わされた筈なのに、どうしてこんな風にまた出会ってしまったのか。
そう考えながらその先の顛末を見ようとしなかった狡い人間に、ややあってディノが小さく溜め息を吐いて教えてくれた。
「………逃げたようだよ。やはり、光竜の拘束は難しいね」
「………そうなんですね」
振り返ると、部屋はくしゃくしゃになっていたが、危惧したように凄惨な様子ではなかった。
このくらいであれば、ウィリアムがすぐに直してしまえるだろう。
ただ、憮然とした面持ちで大きく壊れた窓を見つめるアルテアと、どこか不愉快そうな眼差しの観客ウィリアムがいるくらいだ。
暫くして、エーダリアからエルウィンは花火になってしまったと連絡が入った。
どうやら、ヴェンツェルがいる場所に再びエルウィンが姿を見せたことにドリーが激怒したらしく、あの火竜は一瞬で消し炭にされてしまったようだ。
竜は穏やかなことも多いが、自分の大事なものを傷付けられると容赦しない。
普段は温厚なドリーのその姿を見た者は少なくなく、激怒した伝説の火竜の苛烈さに王都は震え上がったそうだ。
作戦が失敗し、捕らえられた謀反人達も震え上がってしまい、その後で口を割らせるのは簡単だったとか。
それを聞いたネアは、もう少しエルウィンの説得をすれば良かったと落ち込んだが、ダリルからは、ヴェンツェル王子の政治的なパフォーマンスとして必要な一幕だったのだと、どちらにせよ、ネアの権限では変えられない顛末であったことが知らされる。
ドリーは、ヴェンツェルの専用棟にある王冠の部屋に、バーレンが侵入するのを黙認したアルテアに対しても少し怒っていたそうで、次に会った時に問答無用で一発殴られることになるのだが、その日、竜の王冠のある部屋でどんな邂逅があったのかは、結局ネアに知らされることはなかった。
その部屋で、バーレンとアルテアとウィリアムが対面している間、恐ろしいことに隣の部屋では、ヴェンツェルが公務に備えて盛装に着替えていたらしい。
ドリーに叱られてしまうことをまだ知らない選択の魔物は、リーエンベルクに帰ろうかとディノに持ち上げられたネアを訝しげに見ている。
ちょっぴり泣いていたネアは、落ち着いたらザハのケーキを暴食すると心に決めたところであった。
来週は海に遊びに行くと決めてるのであまりウエストを甘やかすことは出来ないが、今は心の方も宥めてやりたかった。
「むぐ。………もう、お家に帰れますか?」
「そうだね。帰ろうか。今から帰れば、ネアの大好きなリーエンベルクのお茶の時間に間に合うよ」
「クロテッドクリーム!……は!その前にお料理の残りを……」
「やれやれ、戻ったら少し寝るか」
「おや、何で君は一緒に来る前提なのかな?」
「確かに。アルテアは、事件の後始末があるんじゃないですかね?」
「ウィリアム、お前こそ今回はさして働いてないだろうが。リーエンベルクに入り浸る前に、少しは貢献してきたらどうだ?」
「参ったな。誰かさんが誓約で縛られてネアを悲しませていた間、俺も少しは役に立った筈ですけどね」
「下心ありだろうが。でなけりゃ、俺と王宮で鉢合わせするのはおかしいだろうが」
「うーん、竜ごときに負けっぱなしのアルテアに言われても」
「さっきバーレンを取り逃がしたのは、お前の失態だった記憶だが?」
「その代わり、今はアルテアが逃しましたけどね」
「座ってた奴が言う台詞か?」
こちゃこちゃと口論を始めたアルテアとウィリアムを横目で見つつ、ネアは自分を持ち上げている魔物の真珠色の髪の毛をそっと撫でた。
「きっとこれで着地なのでしょうね。バーレンさんはもう、目的がなくなってしまったので姿を見せないような気がします」
「光竜が死ぬのは凶兆とされる。第一王子側でも、あの竜は追わないだろうね。………ネア、怖い思いもさせてしまったね」
「複雑なところなのです。うっかり落としてきてしまったり、寝返りで潰さない今のディノのままでいて欲しいのですが、もうムグリスディノに会えなくなると思うと、胸がきゅっとなります」
「ご主人様…………」
遠くで船の汽笛が聞こえた。
壊れた窓から、雨に備える港の賑やかな声が聞こえてくる。
波音とヴェルリアの人々の営みの音を聞きながら、ネアは、またぼすんとディノの体に抱き着いた。
柔らかな雨のヴェールの向こうで、バーレンはどこに向かうのだろう。