魚料理と竜の歌
その夜、ネア達はヴェルリアにあるアルテアの屋敷に泊まることになった。
立派な屋敷なので使用人がいてもおかしくないのだが、そういうものを好まないアルテアらしく、屋敷の中はしんとしている。
「お掃除とか、どうするのでしょうね」
「……自分でするのかな」
中に入って進めば、アトラクションのホラーハウスのように勝手に経路順に扉が開くので、使わせて貰う部屋への誘導は的確だ。
しかし、やはりホラーハウスなのでネアは渋面になる。
この屋敷は、深い色合いの琥珀のような石材と、孔雀色の壁が美しいアルテアらしい内装の屋敷だ。
家具は全て黒曜石のような素材で作られており、部屋には色鮮やかな織り柄の絨毯が色合いを添えている。
大きな円卓の上には青磁の花瓶があり、溢れんばかりの花が活けられていた。
瑞々しい赤紫色の花の艶やかさに、ふっと心が緩むような美しさがある。
(南国の、高級リゾートホテルのような……)
椅子の上にかけられたジャケットなど生活感もあるが、かなり綺麗に整えられていた。
揃えられたクリスタルのグラスは磨き上げられ、真っ白なリネン類が爽やかだ。
ここは公園などのある山側の貴族達の土地だが、高台に面しており、窓の向こうには煌々と明るい港が見えた。
「………晩御飯はどうするのでしょうか。何なら、厨房に繋いで作りましょうかね」
「今夜は外に出ない方がいいだろうね。海嵐の精霊達が随分と騒いでいる。明日の祝祭の為に天候の調整をしたのだろう」
「海嵐の精霊さん………。お、狼さん!もふもふ!」
「ほら、駄目だよご主人様。今夜は大人しくしている約束だろう?」
「くっ、おのれ!先程の港で光竜さんを倒しておけば、少しくらい海嵐の精霊さんを撫でられたかもしれないのに、悔しい限りです!」
「海嵐の精霊は、豪胆で情深いが奔放な精霊だ。君は近付かない方がいい」
「狼さん…………」
しょんぼりしたネアをひょいと持ち上げて、魔物はゆっくりと窓辺に歩いていった。
自分を抱き上げている魔物の、どこか悄然とした横顔に気付いて、ネアは目を瞠る。
「………君は、そういう生き物が好きなんだね。私にも、毛皮があれば良かったのかな」
「愛くるしい生き物は大好きですが、ディノはディノのままで、私の大事な魔物ですよ?」
「そうなのかな。……時々思うんだ。毛皮の生き物と一緒にいる君はとても幸せそうなのに、…………私は君に何を与えられるのだろうって」
「まぁ、…………」
あまりにも悲しげに言う魔物に、ネアはそっと頭を撫でてやった。
ここで間違っても、実は海の精霊の女王を誘拐しようとしたことや、今夜もムグリスディノになって欲しいという真実は告げてはならない。
「ディノが私にくれているものは、ディノがいてくれるということに尽きます。私にとって同率一位に大切なものなのですが、それでもまだ何かをくれようとするのですか?」
「同率…………」
「私はやはり、私のことも大切ですから。しかし、以前のディノは二位でしたので、順調に順位を上げていますよ?」
「うん…………」
自分大好きの残念な主張が強過ぎて、ネアの説得にはいまいち効果がなかったようだ。
眉を寄せて思案したネアは、今は擬態のない美しい真珠色の髪を丁寧に撫でる。
「私にとってのふくふく毛皮は、ディノにとっての大好きな毛布のようなものです。とても好きだとしても、それはやはり嗜好品であり、自分にとっての一番とは違います。ディノは、私より毛布の方を大事にしてしまいますか?」
「しない。君より大切なものなんてないよ」
「では、私が巣材を、ごわごわの布っ切れにしても幸せでいられますか?」
「ご主人様……………」
ふるふると体を震わせた魔物に、ネアは微笑みかけてやる。
「ふふ、それじゃ困ってしまいますよね。つまり、私にとっての毛皮もそういうものです。ふかふか毛皮に触れたいという欲求はありますが、大事な魔物と比べるには違う領域のものなんですよ」
「では、君の好むような毛皮を持った者に側にいて欲しいと請われたら、君はどうするのだろう?」
「む……………」
「ご主人様…………」
「………一瞬、どんな毛皮さんなのか夢想してしまいましたが、……そうですね、そう言われたらまずは毛皮生物を撫で回します!」
「撫で回すんだね…………」
「ええ。好意を向けてくれている内に撫で回しを堪能し、満足したところでぽいです!」
「ご主人様…………」
あまりにも残酷な人間の本性に、魔物は震えているようだ。
とても怯えているので、またよしよしと頭を撫でてやった。
「私にはディノがいるので、他のものに乗り換える気はありませんよ。それに毛皮生物など、この世には沢山いますからね。次の獲物を見付ければいいまでです」
「………私を他の誰かと変えようとは思わないかい?」
「あら。随分と心配性になってしまいましたね。ディノは特殊過ぎて、代わりのどなたかは存在しないと思います。万が一何か重大な問題が発覚してちょっと婚約者としては無理かなと思っても、他の誰かを代わりにすることはないでしょう。私の一番大切なものは、ディノのままですから。………む、なぜに落ち込んだのだ」
「…………無理かもしれないこともあるのかい?」
「………むぅ。それは本能的な回避反応や、生理的な回答ですので何とも言えませんが、双方の合意に至らない可能性というのは、無いとは言えないものです。でも、私は大事な魔物を手放したくはないので、ご主人様のご主人様感が足りなくても、少し我慢してくれると本当は嬉しいのですが…」
「足りないことなんて、何もないよ。私は君がいいんだ」
「足りないことがないと言われるのも、少しだけ不本意なのはなぜでしょう………」
「ご主人様…………」
結果として魔物は安心しきれなかったらしく、どこからかさっと縄を取り出してきてネアに握らせた。
ご主人様の目は死んだ魚の眼になったが、読書の時に大人しくさせる為に重宝しているご褒美なので、廃止する訳にもいかない。
渋々腰に縄を結んでやり、凶悪犯の護送のように引っ張ってやると、やっと幸せそうな微笑みが戻った。
こういうところが躊躇わせる所以なのだが、本人が理解していないのが何とも不憫である。
「………おい、人の屋敷で何をやってるんだ」
そこに家主が戻ってきた。
珍しく薄いマスタード色のスーツ姿で、生成り色の麻のシャツが洒落た感じである。
ポケットチーフが深い紫なのがまた素敵な感じだ。
「アルテアさん!お腹が空きました!!」
「いや、その前にそれをやめろ」
「うちの魔物は、こうして捕獲しておくと、ご主人様がとても懐いている感じがして大喜びなのです」
「………シルハーン、お前の伴侶候補が暴走してるぞ」
「代わってはあげないよ?」
「…………そうか、本気でその趣味なんだな」
「そして、腹ペコなのです!今夜のお食事は何でしょう?」
「………お前も揺らぎないな。………体調は問題ないのか?」
「お腹も痛くなりませんでしたし、至って健康でした。結晶石も粉々になれば、消化に問題はないようです」
「待て、何で得意気なんだ?二度とやるなよ!」
「むぅ。せっかく会得した最終奥義なのですが………」
「またやったら、二度と食事は作らんぞ」
「おのれ、何という脅迫でしょう。逆らえないと分かっていて、悪辣にも餌付けしたのですね!」
「いや、普通は逆らえるからな」
アルテアは呆れ果てたようだったが、上着を脱いで袖を捲ると、ヴェルリアらしい魚料理を作ってくれるそうだ。
厨房で料理をする周りで、喜んだ人間が歓喜にぴょいぴょいと弾むのと、そこに縄で引かれた魔物も付いてくるのでとても嫌そうにしていたが、仕事から帰ってきたお母さんのように手際よく料理をしている。
「事件の捜査はもういいのですか?」
「俺はあくまでも、統括の魔物だ。不手際で少し荒らした分の借りは返したからな。後は、自分達でどうにかするだろ」
「ふむふむ。………それは、茹でるのですね」
「………お前、まったく気にしてないな」
呆れ顔で言われ、ディノと一緒に、海老のすり身をもちもちパスタで包んでお鍋で茹でている何かを眺めていたネアは、視線をアルテアに向けた。
「私には、美味しいご飯が約束されています。あとは、もう皆さんに悪さをしないのであれば、特に気にすることはありません」
「この状況で俺が手を引いても、不義理だとは思わないのか」
「あら、私だけでなく皆さんとて、野生の魔物さんにそんなに多くは望まないと思いますよ?しかし、有益な情報や、緊急時のお手伝いはいつでも募集中です」
「…………野生ね」
「む?なぜにディノと視線で会話をしたのだ!」
「さぁな。ほら、一品仕上がるぞ」
「アクアパッツァ!!」
大はしゃぎのネアの頬を、アルテアがなぜか指の背で撫でる。
「む!喜ばせておいて攻撃する企みですね!」
「なんでだよ」
「………そして、常備菜のある魔物さんに驚きを隠しきれません」
「味を整えるのに時間がかかる料理もある。作っておいた方が便利だろ。ほら、向こうに行け」
「お皿を並べましょうか?」
さすがにここはと手伝う姿勢を見せたネアだったが、もう済んでいると言われて驚いて振り返る。
料理には手間暇をかけるが、こういう準備には魔術を使うらしい。
流線的なレース模様を凹凸で表現した真っ白なお皿のセットは、ザルツの有名な高級陶磁器メーカーのものだ。
リネン類や食器類などの白は許されているが、それでも特等の白と呼ばれる青みがかった純白の陶磁器を焼ける釜は限られており、また生産が許された数も少ないのだそうだ。
「………魚」
初めて見る料理に目を丸くしているのはディノだ。
珍しい料理ではないのだが、ディノが食事をするような場所には出なかったのだろう。
「丸ごと揚げた小魚と千切りのお野菜を、お酢を主体とした唐辛子などの漬けだれに漬け込んだお料理です。ヴェルリアのように暑い土地では、とっても美味しく感じると思いますよ」
「………これは何だろう」
「タルタルですが、爽やかな香りがしますね」
「アボカドと青林檎、ラディッシュに干し鱈だ。アーモンドと香辛料のクリームのソースだな」
「は、早く食べましょう!!」
「ほら、席につけ」
美味しそうな前菜に打ち震えたネアを座らせると、アルテアはなぜかシュプリのコルクを開けている。
明日は大事な仕事があるのにとネアは悩んだが、良く考えればムグリスディノ事件のお陰で、首飾りの金庫に酔い止めの薬を常備しているのを思い出していただくことにした。
「ほわ!このお魚は味がしっかり染みていて美味しいです!」
「昼から漬けてあるからな」
「………お昼はお仕事ではなく、お料理をしていたのですね」
「魔術基盤の調整と、どこぞの守護精霊の排除くらいなら片手間に出来るからな。お前こそ、今日は食べてばかりだろ」
「ふっ、私とて成果は上げております。ディノが演奏会に悪さをしに来た不埒もの達を捕縛してくれていますし、私も光竜さんの毛髪を毟り取りましたから」
「…………待て。最後のそれは何だ」
「飛びかかって、自棄になって押さえ込んでいる風にして頭を押さえ、えいやっと毟り取り取ったのです。というかあの方は、どれだけ擬態していても私だと見破ってしまうのです」
「…………そんなことをするのが、お前しかいないからじゃないのか?」
「むぐぅ」
あれこれと会話をしながら食事をしていると、念の為に開いておいたエーダリアのカードに、なぜ通り魔になったのだという不本意な質問が来ていた。
渋面になって返信をしていると、アルテアがふと妙なことを言い出した。
「今夜も竜の歌が聞こえるな」
「竜の歌………、ですか?」
「ほら、ゆったりとした旋律が聞こえるだろ?」
「………これですか!王都なので、どこかの歌劇場から漏れた音が、無料で楽しめているのかと思っていました」
アルテアが帰ってから、窓を開けて夜風を取り込んでいた。
そのカーテンを揺らすその夜の向こうから、微かな歌声が聞こえる。
それは、オペレッタの悲しい旋律のような、豊かで物悲しい不思議な歌声だった。
遠くから聞こえる歌声に似て、しかし、鯨の歌声のような不思議な響きでもある。
耳を澄ませて聴いていると、なぜか胸が締め付けられる感じがする。
(…………なんて心を震わせる旋律なのかしら)
竜というものは、こんな素晴らしい歌を歌うのかと思いながらうっとりと聴いていれば、なぜかバーレンの青い瞳を思い出した。
追われている竜がこんな風に歌う訳もないのだが、なぜか彼が歌っているような気がしてしまう。
「……この歌には、意味があるのですか?」
ネアにそう尋ねられ、ディノが唇の端で微笑む。
「仲間を呼ぶ歌や、求婚の歌だと言われている。待ち人がいるのだろうね」
「これだけ素敵な歌なのですから、会えるといいですね」
「ここ一月程、毎晩聞こえているらしいぞ。そういや、夏至祭には聞こえなかったな」
アルテアのその言葉に、ネアはふと考える。
毎晩こんな風に歌い、この竜は誰を待っているのだろう。
会いたい。
会いたいと願うその期待のどこかに、思い出すべきことと、思い至るべきことがあるような胸の痛みを覚えて、ネアはそっと胸を押さえた。
「何だ、食べ過ぎたんじゃないだろうな?」
「台無しです!」
「ネア、………これは何だろう?」
「む。…………アルテアさんが踊り食いを推奨しているのでなければ、スープの精さんでは?」
ディノがネアの袖を引いて見せてくれたのは、小ぶりなスープボウルの中であぷあぷしている小魚だった。
小粒なお魚のつみれが入った透明なお出汁のスープに、いつかどこかで見たことがある生き物が蠢いている。
「気のせいだ」
かぱりと、スープボウルに蓋がされた。
厳しい顔でなかったことにしたアルテアに、ネアとディノもこくりと頷く。
(…………しかも、こやつが現れたということは、スプーンの魔物もいたのだろうか)
幸いにも、スープの精は一定時間で姿を消すらしく、再び蓋を開けた時には影も形もない。
そのスープをもう一度出されたディノは、とても複雑そうな顔だ。
「ご主人様………」
「交換はしませんよ」
「うん………」
しょんぼりした魔物は、それでもスープが美味しかったからか、黄金色のスープをスプーンでちびちびと飲んでいた。
万象の魔物にスープの精が現れたスープすら飲ませてしまうなど、アルテアの料理の腕はとんでもない領域なのかもしれない。
あまりにも悲しげに飲むので可哀想になり、ネアは自分のスープボウルと交換してやった。
「む………」
そんなネアのスープボウルは、今度はアルテアにさっと交換される。
無言でそのスープを飲んだ選択の魔物に、ネアは目をぱちくりする。
「つみれが三個も残っていたからでしょうか」
「お前な…………」
竜の歌は、ネアが眠りにつく頃までずっと聞こえていた。
柔らかな歌声の中に揺蕩うようにして瞼を閉じながら、ネアはその竜が待ち人に出会えるように祈っておいた。
「………お前ら、出しておいたものを使わなかったな?」
翌朝、渋面のアルテアの前でネアとディノは項垂れていた。
「同じ香りとか、死ぬ程不愉快だからな」
本日は淡い水色がかった灰色のスリーピース姿のアルテアは、まだ支度途中なのか少し湿った前髪を掻き上げている。
そしてとても残念なことに、朝食の席で顔を合わせた三人は同じ香りを纏っていた。
浴室で前面に置かれていた石鹸やシャンプーではなく、奥に鎮座していた高級そうな小瓶の液体を使ってしまった意地汚い人間がいたのだ。
貴重そうだからと手を出したネアと違い、ディノの方はあまり深く考えずに使ったらしい。
「素敵な硝子瓶に入った高級そうなシャンプーでしたし、いい匂いでしたのでつい」
「強いて言えば、あれは体を洗うものだ。お前は、髪を洗ったんだな」
「むぐ?!あんな小瓶の液体で、贅沢にも体を洗っているのですか?!」
「服地を損なわず、気温変化を抑える便利な祝福がある。お前の場合は、毛髪だけに適応されるんだろうな」
「頭皮がすっきりしていいかもしれません。ディノはきちんと体を洗ったのですか?」
「浴槽に入れた………」
「泡風呂に………」
アルテアは片手で顔を覆ってしまい、ネアはだから今朝のディノはいつもとは違う匂いがしたのかと、ネアはあらためてくんくんする。
「ご主人様……」
魔物は恥じらってしまったが、ヴェルリアのような土地に合った夏らしい複雑で素敵な香りだ。
「いい匂いです!雨上がりの薔薇園のような、微かに香草めいていて、でも少しだけ梨のような。ぎゅっとしたくなります」
「少しだけだぞ。因みに、マグノリアの香りもあるな」
「なぜにそちらの方に名乗り出られたのだ」
残念ながら、その香りは太陽光に当たると祝福が体に定着するので消えてしまうそうだ。
地肌が素敵にひんやりしたので、ネアはどこかでお値段を調べてみようと心に誓う。
鮮烈な夏の日差しに照らされたヴェルリアの街は、牛追い祭りの朝ともあって賑やかだ。
ネアは、明るい街並みを見下ろして昨晩の歌を思い出したが、眩い太陽の光の下ではなぜか上手く思い出せなかった。