153. 船は本当にいまいちです(本編)
「………お前、酷い顔だぞ」
アルテアにそう言われたのは、マグメルリヤの島に向かう途中に乗った船の上でのことだ。
深緑と金飾りのとても素敵な船なのだが、如何せん、船室に入るような距離でもないので若くて元気そうなお客様は甲板に立たされている。
しかし、半刻は辛いと二時間にも感じる地獄の時間だった。
「お船には飽きました。私は陸地の民です」
「………酔ったな?」
甲板には一応手すりがついており、乗客はそこに捕まって海を見れるのだが、風景を見れるような位置なので勿論波飛沫がかかる。
「酔ったりはしておりません。ばしゃばしゃと飛んでくる、磯臭い水飛沫がもう限界なのです」
「ほら、海豚がいるぞ」
「海豚ごときにはしゃいだのは、開始三分の間のことですね。なぜに転移をしないのだ」
「なんだ、人魚もいいのか?」
「先程小舟に乗った時に、すぐさま追いかけ回されて目玉を差し出されました。たいへん猟奇的なので好きではありません」
「…………求婚されたのか」
「やはり、私の海の癒しは白もふの精霊さんだけ。もう一度抱っこしたいです」
憧れの白モフを思い起こして荒んだ心を癒していると、船の乗員達が何か騒ぎ出した。
海の方を見ながら騒いでいるのでそちらを見ると、やけに大きな赤系統の飛影が見える。
ネア的には遠いと思うのだが、船員達の言葉からすると近過ぎるらしく、接触の危険がありうるので航路を変更するべきか揉めているようだ。
「……竜さん」
「くそ、エルウィンか。よりにもよって、この航路かよ」
「さてはお知り合いですね。私の乗り物になってくれるでしょうか」
「擬態を解いているとは言え、万が一あいつに見付かったら、裏切り者扱いだな」
「………と言うことは、私の敵なのでは」
救いのタクシーではないと知り、じっとりした目で飛影を眺めたネアは、さっとアルテアに抱えられて何回か転移を踏まれた。
追跡防止の経由地を設けたのだろうが、だから最初から転移をすれば良かったのだとネアは仏頂面になる。
(しかし、敵の名前が一つわかったので、共有するべし)
「………お前、よくも俺に抱えられたままそのカードを開けたな」
「揺らさないで下さいね。あの竜めの名前を、仲間達に共有するのです」
「お前な…………」
ネアはそそくさと敵一名の名前をエーダリアに告げ口し、ふっと勝ち誇った微笑みをみせる。
「さぁ、この調子で敵の情報をぽろりと零すが良い」
「その要求を隠しもしないのかよ」
「そして、ヴェルリアの美味しい夜ご飯が食べれる場所を幾つか教えてくれても構いません」
「随分と余裕だな。言っておくが、海の涙は俺が持ってるんだぞ?」
ネアをどこぞの地面に下ろしながら、アルテアは目を細めてそんなことを言い出した。
そう言えば受け取っていなかったので、ネアはさっと手を差し出す。
「む!そうでした。さくさくとそれを引き渡しなさい!」
「…………おい」
「収穫物はご主人様に差し出すのが使い魔の定め。嫌なら、海の涙を差し出して去り給え」
「結局渡すことになってるぞ」
「………むぐ!何故ばしりと叩かれたのだ!」
ネアをおもむろにぺしりと掌で叩いたアルテアは、叩かれた頭を抑えて唸る人間を眺め、ふうっと深い息を吐いた。
「何かの冗談かと思ったが、やっぱりあいつが呪いにかかったのか」
「確かめ方が原始的過ぎます。私の頭頂部に謝って下さい」
「ったく。ほら、痛くないだろ」
「むが!何故今度は髪の毛をくしゃくしゃにするのだ!…………むぅ。擬態を忘れていました」
「あの赤毛はやめろ。誰の仕事か知らんが趣味が悪いぞ」
「ゼノがやってくれたのですよ。ブーツを見るまでアルテアさんも気付かない、安心と信頼のお仕事です」
そう言ってやれば、アルテアは暫く黙ったようだ。
悔しくて黙ったのかなと思っていたが、ややあって、こちらを見ると赤紫の瞳を細めて訝しげな表情をされる。
それはなぜか、和らいだ筈のものが再び強張ったような不思議な変化であった。
「ゼノーシュなら確かに緻密な擬態を編めるだろうな。だが、その場では無理だ。どこから準備を始めた?」
(…………おかしな質問だわ)
上手く言えないが、尋ね方はもっとあるような気がする。
それなのに、アルテアがそんな風に質問したことこそが、とても重要なことのような気がした。
「数日前からでしょうか」
「成る程、元々備えていた訳ではないんだな。………切っ掛けはどこだ?」
ここで一つ、質問の意図が知れた。
アルテア的には、この備えが今回のことに対して用意されたものであるということは、問題になるようだ。
(でも、もう一捻りして情報を引き出す会話をする頭がない………)
もしここに居るのがウォルターなら、彼はもっと上手に情報を引きずり出しただろう。
一緒に過ごしてみて初めて、そんな才能の違いにがっかりする。
自分の脳細胞の至らなさに悲しくなると、心が現実逃避を始めたのか、周囲の風景が気になり始める。
(それに、ここはどこなのだろう?)
遠くから街の喧騒が聞こえた。
ここはどこかの島の高台にある教会の近くのようで、綺麗に整えられた石畳の道が街まで続いている。
道沿いには見事な檸檬の木が茂っており、キラキラと遠く輝く海が見えて何ともいいコントラストを見せている。
ジャスミンの香りもするので、どこかに木があるのだろう。
「切っ掛けと言う程のことかわかりませんが、
お弁当を買いに行った日にあそこまで怪しい行動をしておいて今更です」
「…………は?………あの日なのか?」
「アルテアさんが挙動不審でした」
「いや待て、おまけにそう考えたのはお前なんだな?」
「そしてエーダリア様やダリルさん、更にはゼノに、アルテアさんの様子がおかしいと伝えておいた次第です!」
「シルハーンにもか?」
「…………む。言った筈ですよ、………多分」
首を傾げてしまったのは、まず第一にエーダリアとダリルにと思ってしまい、結果的に情報を共有したヒルド、ゼノーシュから注意喚起して貰ったグラストと、すっかり周知しきったつもりでいたからだ。
しかしよく考えてみれば、ディノやノアとこの問題を議論したことはない。
(で、でも!ダリルさんに報告している時に、ディノも隣にいたし、狐さんだって膝の上に…………)
「…………一生の不覚」
「言い忘れたんだな」
「きっと、気付いてくれただろうと考えていたのですね。信頼からなる落とし穴です」
「いや、お前が言い忘れたんだろうが」
「意地悪使い魔め!海の涙を寄越すのだ!」
「お前の言うように裏切り者なら、俺がお前にこれを渡す必要はないだろうな。諦めろ」
ネアは思わぬ答弁に目をぱちくりさせた。
こんな状態であれほど懐いている様子だったので、てっきりアルテアは、なんだかんだ言いつつも渡してくれると思っていたのだ。
(………渡す気がなさそう?)
そうなると、こうして同行している理由がまた変わってくるし、ネアがアルテアをどう扱うべきかも変わってくる。
(宝石を渡すつもりがないのなら、一緒に居て、全部先に取り上げるつもりなのかしら……)
であればそれは何故だろう?
ディノが被害に遭ったのは想定外だったようだが、となるとイブリースを余程排除したいということになる。
(排除…………ではないのかも。殺してしまう呪いではないのだから、無力化しておきたいということ?)
しかし、そんな中途半端なことをしたい理由がわからない。
力を削ぐだけであれば、他にやりようがある。
今回のことがアルテアの単独犯ならまだしも、主犯が別にいる上でそのような仕上がりで良いとされたのなら、尚更謎だ。
(無力化されている間にそのポジションが空くから?……それとも、無力化された火薬の魔物が扱い易くなるから?)
「さて、次の収穫は夜か。少し時間があるな。………昼食でも食べるか?」
「なぬ。時間が空くのであれば、私はうちのムグリスと遊んでやらなければなりません。別行動にしましょう。……むが?!」
「確か、港近くに店があった筈だからな」
「おのれ、離すのだ!素晴らしいトルテッリを食べたばかりなのに、食べ物ごときで私が籠絡されるとでも思っているのですか?」
「そうか?いつも食べ物ごときで籠絡されてるだろ」
邪悪な魔物に引き摺られながら暴れていたが、ネアは途中から自分の運搬を魔物に任せて、考えたことをカードに書く作業に入らせて貰った。
エーダリアのカードに連絡したが、運良くダリルも側にいたようで、幾つかの可能性が提示され、ネアはちらりと自分を運搬する魔物を振り返った。
癖のある白い髪に鮮やかな赤紫の瞳。
可憐にもなりうる色合わせだが、如何わしく艶めいた夜の暗さを纏う魔物だ。
いつの間にか、見慣れてしまった特等の魔物の一人。
「………何だ?密談は終わりか?」
「私は、頭脳戦に長けた方々のようにはお喋り出来ないのでさらりと聞いてしまいますが、アルテアさんは我々に宝石解毒をさせたくない理由があるのですか?」
「………本当にそのまま聞いたな」
「この通り、何の捻りもありません。そして我々は、あの金の椅子の方に対して、少し前から警戒するべきだったのですか?」
「…………お前には、少し自分で考えようとする謙虚さはないのか?」
その反応が見たかったからだとは言えず、ネアは微笑んで首を傾げる。
「あら、私ごときの人生経験で魔物さんの悪巧みに敵う筈もないので、素直に問い返してしまうのが一番です。なんと素直な人間でしょう」
「自画自賛かよ」
「そして、きりきり吐くか、海の涙を渡してお昼ごはんをご馳走してくれた後去るのか、どちらかです」
「おい、ちゃっかり昼食が増えてるぞ」
ふわりと、風が変わった。
港が近くなり、港町の生活の香りがしてきたようだ。
「それと、ここはどこの島なのでしょう?」
「マグメルリヤだ」
「まぁ、ここが最後の目的地でした。夜になって最後の宝石を手に入れたら帰宅出来ますね」
「残念ながら、海の涙が入手済みの前提になってるぞ」
ここでネアは、持てる少ないカードを切ってみることにした。
「あら、本当はそうなのかもしれませんよ」
その返答に、アルテアはぴたりと足を止め、露骨に嫌な顔をした。
「言っておくが、果ての薔薇は使えないぞ?」
「むぅ。使いませんよ!」
「…………海の涙は、確かに一定期間毎に生み出されるものだ。過去に出回ったものを手に入れたのか?」
「ふっ。黙秘権を行使します」
地面に降ろされ、尋問なのか頬っぺたを左右にぐいっと摘まれたが、ネアは唸るだけで口を割らなかった。
ややあって、乙女を不細工にする拷問を終えたアルテアは、小さく溜息を吐く。
「………お前は、あいつのことを覚えてないのか?」
「………あいつ?」
「お前の言うところの、金の椅子の奴だ」
「覚えているも何も、種族さえわからない、あの時が初対面の方ですが」
「あいつは、お前の事を知ってるぞ?どうせまたどこかで手を出したんだろう?」
「…………むぅ。なにやつなのだ」
「今回の事を起こした理由ではないが、とは言え、お前を個人的に知ってるのは間違いない」
「ふむふむ。その事を起こした理由とは」
「さらりと聞き出そうとするな!理由と目的を知りたけりゃ、ヴェンツェルあたりに解析させろ」
「と言うことは、第一王子様周りのご事情絡みなのですね。そして、アルテアさんはあの方に夢中と……」
「…………は?」
「私を力いっぱい蹴り飛ばすくらいに、あの方と仲良くしています。よりによってディノがいない時でしたので、それはもう大変な目に…」
狡猾な人間にその時のことを持ち出され、アルテアは少し嫌な顔をした。
その時、そんな顔をしてくれたことが、ずる賢い人間は少し嬉しかったのだけど、勿論そんな素振りは見せない。
「すぐに治癒をかけたぞ」
「………治癒?」
「それに気付いてないなら、元々何の損傷もなかったってことだな」
「だとしても、蹴り飛ばす仕打ちには変わりません。私とて女性の身ですが、まさか男性の魅力に負けて使い魔さんを奪われてしまうとは思いませんでした。しかし、あの男性もなかなかに綺麗な方でしたので…」
「おい、やめろ。何でその方向に下世話な推測を深めた?!」
「あら、ノアから誰かの為に全てを捨てる行いは、もう恋なのだと聞きましたよ。私はそういう恋にも偏見はないので、敵対するとしても生温く見守って差し上げます」
「やめろ」
かなり獰猛に嫌な顔をした魔物に、ネアは口元に手を当てて、うふふと微笑んでやった。
「アルテアさんでも照れるのですね」
「よし、お前はもう夜まで黙れ」
「ウィリアムさん、アルテアさんが虐めます」
「おや、それは困ったな」
艶麗な選択の魔物が、悪戯を親に見付かった子供のようにぎくりと振り返る。
「ウィリアム…………」
ネアの後方に立ったウィリアムは、約束の時間より少し早く来てくれたようだ。
砂色の髪の男性に擬態しているが、穏やかに微笑んだ好青年そうな微笑みの瞳はまったく笑っていない。
「可哀想に。ネアは、蹴り飛ばされたのか」
「苛めっ子です!海の涙も返してくれません!」
「おい、それは元々俺が受け取ったものだぞ?!」
「わかった。懲らしめておこう」
「はい!」
ぴょいと飛び上がったネアの手を掴んで自分の方に引き寄せると、ウィリアムはもう一度にっこりと微笑んだ。
それだけでかなり嫌な顔をしたアルテアに、一つ嫌な情報を投げ落とす。
「それと、港の方でアルテアのことだろうなという男性を探していた火竜がいたぞ?何なら合流するか?」
「……おいおい、あいつは俺を探してるのかよ」
「一緒に、もう一人竜がいたな」
「…………何だと?」
その言葉を聞いた途端、アルテアの表情が変わった。
刃物のような目をしてなぜかネアを一瞥すると、一度周囲を見回してからさっと擬態をする。
そして、ぱちりと指を鳴らした。
「ほわ!黒髪になりました!」
「その擬態は今日いっぱいは解くなよ?………それとウィリアム、くれぐれもそいつから目を離すな。あの竜はなぜか、こいつにえらくご執心だからな」
「言われなくても」
「…………おい、くれぐれも俺が術式を最後まで解くまで、結晶解毒はするなよ?呪いが取り返しのつかないことになるぞ?………くそ、保険の為の機会をここで使う羽目になるとはな……」
「む?」
それだけを言い残し、アルテアはふわりと姿を消してしまった。
残されたネアは、ぎりぎりと眉をひそめる。
「海の涙を持ち逃げされ、お昼ご飯の約束を反故にされました………」
「うーん、単純に悪さをしてるというよりも、何だか裏がありそうだな。ネアは、あの竜と何かあったのか?」
「むぅ。今のアルテアさんの投げやりな感じの告白を繋ぎ合わせると、そのもう一匹の方とされる竜さんは、正体不明だった今回の事件の首謀者のようです。そして、私に会ったことがあるようなのですが、記憶にありません」
「ネアのことだから、狩ったりもしてないのか?」
「………確かにそうなると、殺しかけているので恨まれている可能性もあります。しかし私が手にかけてまだ生きている竜となると、どこの誰だか判明しているか、ちびこいものばかりでしたので、あのような立派な方がいたでしょうか?それよりは、春告げの舞踏会などの不特定多数の方に遭遇するような場所で、すれ違っている可能性の方が高そうですね」
そう推理したネアに、お兄さんモードのウィリアムがよしよしと頭を撫でてくれる。
いやに優しいのは、アルテアに虐められて傷付いていると思ってくれているからだろう。
「にしても、あの竜種が生き残っていたのは驚きだ。もう少し早くわかっていれば、咎竜の時に切り札になったんだが」
「…………珍しい竜さんなのですか?」
「ん?ネアは聞いてないのか?」
「実は先程ウィリアムさんが竜だと言ってくれるまで、アルテアさんはあの方の種族も秘密にしてました」
「そうだったのか。………しまったな。そこまで情報がないなら、もう少し調べておけば良かったか。………ネア、あれは光竜だ」
「…………光竜さん」
思いがけない言葉に、ネアは愕然とした。
確かそれは、最後の一匹まで絶滅したとウィリアムが話していた竜種ではなかっただろうか。
「で、でも光竜さんは絶滅したのでは?」
「ああ。正確には混ざりものだな。だが、先祖返りに近いんだろう。ほとんど光竜と言ってもいいくらいに、その気配が濃い」
「なんと!そんなことまでわかってしまうなんて、さすがウィリアムさん……」
「いや、……ああいう、滅びた種の残滓は終焉の気配が濃いんだ。だから目を引いたということもある。一緒に居た火竜も混ざりものだから、そういう意味で共にいるのかもしれないな」
「……あの光竜さんは、どんな生き物との混ざり物なのですか?」
「光竜の資質が強すぎて俺にもそこまでは分からなかった。だが、とりあえず魔物の気配はなかったな」
(随分沢山のことがわかったけれど、そんな光竜の血を引く竜さんが、ヴェンツェル様と因縁があるということなのかしら………)
「ウィリアムさん、そんな竜さんがこの国の第一王子様と因縁があるらしいのです。私には推理をする材料すらないのですが、何かご存じだったりしますか?」
ネアがそう聞いてみれば、ウィリアムは少しだけ考え込んだようだ。
本日の服装は、シンプルな白いシャツに、砂色のズボンに何やらお仕事仕様のベルトのようなものを巻いた、休日の騎士か冒険者のようなラフな服装でちょっと格好いい寄りである。
「ヴェルリアの第一王子か………」
何も思い至らないのではなく、ウィリアムのような立場の魔物の場合、見知ったことが多過ぎて情報の精査に時間がかかるのだろう。
「……各種族の竜との因縁なら、他国の戦乱に噛んだことかもしれないが、個人的な理由なら、契約の竜がドリーになったことかもしれないな」
「……ドリーさんになったこと?」
「ああ。本来、ヴェルクレアの第一王子の契約の竜は、海竜の予定だった筈なんだ。代々第一王子は最も優秀な海竜を相棒にするのがヴェルリアの習わしだったし、ドリーは王都の塔に幽閉されていて、国の有事以外では目を覚まさないとされていた伝説の竜だからな」
「………そうだったのですね」
思いがけない話を聞いてしまい、ネアは目を丸くした。
ドリーは凄い竜だと聞いてはいたが、今は普通に出歩いているので、まさかそんな扱いだとは思わなかったのだ。
「そのような扱いだったのには意味がある。ドリーの竜としての資質は確かにずば抜けた力だが、それ故に彼は自分の為に最大の力を使うことを禁じられているし、人間側もドリー程の竜と契約するには命を削り過ぎるからな」
「となると、まさかヴェンツェル様は……」
「いや、それは大丈夫だ。唯一例外的に、竜は己の宝とした相手からは何も奪わないとされている。ドリーは余程ヴェンツェル王子のことを気に入ったのか、まるで自分の子供のように竜の宝として溺愛してるだろう?」
「まぁ、素敵な関係ですね!確か、第一王子様は子供の頃にドリーさんと契約した筈です。ドリーさんから、小さな子供の頃は本当に可愛かったと聞きましたから」
小さな子供が自分を怖がらず手を差し出したことに感動したのだと、ドリーは嬉しそうに話していたことを思い出す。
どういう事情があるのかは知らないが、ずっと幽閉されていたのなら、それは納得の上であれ寂しいことだろう。
小さくて可愛い生き物が大好きなドリーにとって、幼い王子が差し出した手は宝物に思えるだけの救いの手だったのかもしれない。
「つまり、その時に本来の候補から用無しとされた竜がいるのは確かだ」
「………そうなると、その竜さんも悲しかったのかもしれませんね。その方が犯人なら、本当なら相棒になる筈だったヴェンツェル王子の活躍を見ている内に、心根が捻くれてしまった可能性もあります」
(ふむ。それなら、第一王子様が預かっている火薬の魔物を無力化するのもわかるかも?…………一つ、空座を作ろうとしたのかしら?)
でも、自分だったら狙うのはドリーなのになと、心が荒やすい狭量な人間は考える。
どうせ事を起こすなら、狙うのは自分の役割を奪ってしまった嫉妬心の矛先のその人の方がいい気がした。
「今聞いたことを、ひとまずエーダリア様たちに共有してもいいですか?それとも移動します?」
とりあえずここは道の真ん中なのでそう尋ねると、ウィリアムは少しだけ不思議な微笑みを浮かべた。
「ネア。取り急ぎ、アルテアとの使い魔の契約を破棄しよう」
「…………む?」
「アルテアが自身の潔白を証明する為に、俺達を売り渡したのかもしれないな。先程の竜達が、こちらに向かっているみたいだ。恐らく、既に位置は特定されているぞ」
「…………え」
「光竜は魔術に長けた竜なんだ。遭遇して、せっかく擬態をしているのにアルテアとの契約の糸を察知されたら厄介だろう?まずはそれを解いてしまおうな」
「……………むむ」
それより逃げた方がいいのではと思ったが、ウィリアムなりに、折角の機会だからと接近して情報収集をしようとしてくれているのかも知れない。
「…………と言うことなのですが、どうしましょう?」
「キュ!」
ご主人様の質問に応じて勇ましく鳴いてネアのポケットから顔を出した生き物の姿に、ウィリアムがぎょっとする。
少し前まで、そのポケットはぺたんこだった筈なのだ。
「…………ネア、それはまさか」
「はい。うちのムグリスディノです!最近、試行錯誤の結果、ポケットに転移が出来るようになりまして」
「…………ムグリス」
「キュ!」
そして、会話に参加したふくふくのムグリスディノ的には、使い魔の契約解除には大賛成のようだ。
早くやれと短い前足でたしたしとポケットの裾を叩いている。
「むぅ。せっかくよく懐いているのに勿体無いという気持ちでいっぱいですが、うちのムグリスディノも賛成してしまったので、やむを得ませんね」
まだケーキが未回収のネアは渋面になったが、あれこれ欲張るよりも今は問題の解決を優先するべきなのだろう。
その竜がネアを知っているのなら、関係性によっては、巻き込まれただけという立場も取れなくなるかもしれない。
国家に纏わる重篤な問題に関わる以上、そうなれば、もっと迅速な解決を問答無用で求められる可能性もあるのだ。
自分の都合で状況を悪化させてしまってから、ごめんなさいと言っても遅いということもある。
(それに、ウィリアムさんの言うように、アルテアさんにも身動きの出来ない事情があるのなら、絡まった糸を解いて自由にしてあげた方がいいのかもしれない)
ネアは少しだけ、先ほどのアルテアの意思確認面談のようなものを不審に思っていた。
アルテアはアルテアなのでと答えるしかない問題をあんな風におさらいされると、初めてではないだけに、そこまで切羽詰まっているのかと考えてしまう。
(だとすれば、あえて怖がらせて使い魔の契約を破棄させたかった場合。もしくは、自分の意思ではないのに加害者にされて、みんなに嫌われないかちょっと不安になってた場合)
でもそうなると、一つだけ腑に落ちない受け答えが残る。
(あの時アルテアさんは、まるで私を責めるような言い方をしたけれど、それはなぜだろう?)
考えたけれど、ネアの頭脳では答えは出なかった。
だからひとまずは自分より経験を積んだ魔物達に従い、せっかく懐いた使い魔だが野生に返す方向で受け入れるしかない。
「………仕方ないですね。あらためて、今度こそ竜さんを使い魔にする好機だと思い、美味しいご飯の使い魔さんは諦めましょう」
しかし、ネアが厳しくそう宣言すると、なぜか満足げに微笑んでいたウィリアムとムグリスディノが、さっと顔を見合わせた。
(…………こんな状況だから、諦めるけれど)
繋いだ糸が切れてしまうのは、何やら悲しいことだとネアは思った。
アルテアには、こちらで契約を切られたことはわかるだろうか。
わかるとしたら、彼はどう思うのだろう。
「では、切るぞ」
「はい………」
ウィリアムが司る終焉であれば、主となるネアの同意さえあれば使い魔の契約は解除出来るらしい。
小さな詠唱のようなものと、見えない空中の糸を切るような仕草に、ネアはまた胸が苦しくなる。
「あ、…………」
魔術可動域六のネアには何も見えなかったが、確かにそこにあったものがぷつりと切れる感じがした。
形のあったものが壊れる余韻にネアがしょんぼりしていると、ポケットの中のムグリスディノがじっとりとした目をしてこちらを見上げてくる。
「大丈夫ですよ。捕まえた獲物を逃がされてしまったようで、勿体ない気持ちになったのと、ご本人がいなかったので少しだけ後ろめたいばかりですから」
「キュ」
「ふふ。そうですね、私にはディノがいるのでもうそれで充分な筈なのです」
「キュ!」
「劇薬酔いは治りましたか?元気になったみたいで一安心です」
「ギュ…………」
ウィリアムが不思議そうな顔をしたので、加算の銀器で効果を倍増した薬品をあれこれ飲ませたのだと説明すれば、若干毛羽立ってこちらを威嚇をしているムグリスディノを終焉の魔物は不憫そうに見やった。
「ネア、どんな薬にも、効果の高い同じ系譜の上位の薬品がある。中堅階位の薬を加算の銀器にかけるよりも、上位の薬品を買った方が安全かもしれないぞ」
「なぬ。………薬の魔物を使役しながらも、そういうことは知らないでいました」
「キュ!」
「ごめんなさい、ディノ。そういうものがあると知らずに、あの薬も五百倍にしてしまいましたね」
「キュキュ!」
「しかし、上手くいったので…」
「上手くいった?」
ネアの言葉にウィリアムが目を丸くする。
裏切り者期間中だった元使い魔が離れたので晴れて事情を説明しようとしたネアだったが、そこでウィリアムの人差し指を唇に当てられた。
「む………」
「俺がいいと言うまで喋らないように。光竜は、調整魔術に長けた厄介な竜だからな」
こくりと頷いたネアを背中の後ろに隠すようにしたところで、ようやくネアにもこちらに近付いてくる人影が見えた。
最初は一人しかいないように思えたが、さあっと太陽が翳ったので見上げれば、片方は竜の姿に戻って上を旋回しているらしい。
嫌な布陣だ。
「随分と遠くまで逃げ出したものだ」
そしてその直後、ゆっくりと坂道を歩いて姿を現したのは、銀髪に深い青の瞳をした男性であった。
明らかに擬態しているネアを認識している風の言動に、ウィリアムの背中ごしに眉を顰めた。
身の安全と引き換えに売られたのであれば、そこまで切羽詰まってしまったアルテアは大丈夫なのだろうか。
或いは元々差し出す予定だったとすれば、そこまでこの竜達と仲良しということになる。
(………………しまった)
しかし、一番の懸念点は、ムグリスディノの稼働時間がとても短いことだった。
この姿のディノは、ムグリスの習性にとても引き摺られるらしく、こんな日向ぼっこ日和の空の下でご主人様のポケットに入っていると、眠気に誘われてしまうらしい。
そしてこの生き物は、一度寝るとなかなか起きない困った生き物なのだ。
かくりと頭を揺らした毛玉に、ネアはさっと青ざめた。
ネアには、ムグリスディノが起きている内に事態を収拾しなければいけない理由があるのだ。