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152. 海の神殿を訪れます(本編)



王都に戻るとその港付近ではちょっとした騒ぎが起きていた。

寄港予定の他国の商船を狙って、隣国の海賊が追いかけてきていたのだ。

遠洋での殲滅は煩わしいということで、王都の魔術師がその海賊船を強制転移させてしまい、港から見える位置に呼び落としたらしい。


そこまで来ると王都の海軍がいるので、あっという間に囲まれて一網打尽にされてしまう。

気付いたらいつの間にかヴェルリアの海軍に囲まれていた海賊達は、呆然としたまま圧倒的な武力の前に倒れていった。


わあっと、港に詰め掛けた民衆達が声を上げて喜んでいる。

この海賊は近隣の海で悪名を轟かせた一味らしく、被害に遭ったことのある船乗り達もいるようで大騒ぎだ。

燃え上がる船を眺めながら、ネアはウォルターからの依頼でヴェンツェルが手配した犠牲作りのしたたかさに舌を巻く思いだった。


(処刑や暗殺ではなく、あえて捕物にしたのだわ。周囲が不安定な時だからこそ、受動的な手段とした気がする)


勿論、あえてこの手駒を用意したのではなく、偶々こんなカードもあったので切っただけかも知れない。

しかし、偶然軍の演習を見学に来ていたというヴェンツェルが迅速な指示を出したそうで、今回の捕り物で大喜びの血の気の多いヴェルリアの住民達だけではなく、海賊達を蹴散らして貰った商船の船長からも、その国からも、ヴェルクレアの第一王子が良い心象を得られるのは間違いない。


(国というものを支え動かすのは、大変なことだ)


その手腕に感嘆するからこそ、ネアはしみじみそう思う。

自分が属するのがこの目まぐるしい王都でなくて、本当に良かったと思ってしまった。



そして、港から野次馬達がいなくなった頃を見計らって、ネアは小さな巡視船からざぶんと海の中に飛び込んだ。

心配そうに見送ってくれたウォルターとはここまでだ。

戻る頃にはウィリアムが来てくれる予定なのと、ここから先はウォルター達の手を借りなくてもいい算段を立てている。



「確かにお洋服のままでも濡れませんね。何と便利な祝福でしょう」

「この真下から続く、珊瑚の道があるらしい。そこを真っ直ぐ進めば、海の神殿がある。それと、擬態は解いてゆけよ」

「そうでした。赤毛だと、海の精霊さんは火の系譜だと思って嫌がるのですよね」

「海のシーの祝福があれば、海の中でも話せるそうだ。念の為に、海の中で解術をかけるといい」

「はい。そうしますね。………それと、今更なのですがこの海に鮫さんはいませんか?」

「鮫が見たいのか?しかし、男が海に入らないと、鮫は出てこないだろう」

「むぅ。私の知っている鮫さんとは違うようです……」


こちらの世界での鮫は全て雌で、人間は男性しか食べないのだそうだ。

女性が海に入ると、鮫は水が苦く感じるそうで嫌がって隠れてしまうのだとか。


(またしても、不思議なお作法が………)


そんなことを考えながら手を振って海に沈めば、そこはただひたすらに穏やかで力強い青の世界だ。


ゼノーシュのかけてくれた擬態を解くと、海の中に広がった髪が見慣れた青灰色に戻る。

少しだけほっとして、意識をまた海に戻した。


(わぁ………………)


深い深い青の中に、より暗い濃紺の影とぼうっと光るパライバグリーン、滲むような水色の彩りが光の影を揺らめかせる。


こぽこぽと海底の白い砂から湧き上がる泡に、色とりどりの珊瑚。

こちらの明るい水色の中を泳いでいった鮮やかな色の魚の群れが、今度は奥の影深い濃紺の海で不思議な光を発する。



(青い…………)



青くて、その青さに溺れそうだ。

ふくよかな紫がかった青に、怖いくらいの瑠璃紺。

軽薄な水色と、清廉で深海の中で光るような水色。

色付けしたかのようなエメラルドグリーンに、さらに蛍光色の色を強めたパライバグリーン。

水面からの光の筋が差し込み、そんな数多の青がオーロラのようにゆらゆらと混ざり合う。



(みんな、この海の底にいるのかしら)


先ほど沈んだ海賊船は、この海に眠るのだろう。

こちらの世界の海は、前の世界の海より過酷だ。

毎日多くの人々が、海の魔物や精霊達の犠牲になるという。


けれどもそれは、恐ろしく暗い海の底ではなく、宝石箱の中みたいな万華鏡の色の中。

過酷ではあるが、信仰にも似た荘厳さがある青い神殿のよう。


一歩踏み出せば、さくりと靴底の下が沈む。

重力だけなら足首まで沈みそうだが、水の中なので体がふわりと浮かぶのか、僅かに砂が舞って足元をけぶらせただけだった。



海の精霊は、どんな姿をしているのだろう。

あの港にいた海のシーのように、排他的な鋭い目をした青色の美しい生き物なのだろうか。

それとも、先程小舟に乗るなり追いかけてきて、ネアやウォルターに目玉を差し出した人魚達のような奇妙な生き物なのだろうか。


そんなことを考えながらゆっくりと慎重に珊瑚礁の森を歩いてゆき、その奥にそびえる真っ白な神殿に目を丸くした。


円柱の並ぶ古代の神殿のような建物は、どういう仕組みなのか、門の前には見事な松明を燃やしている。

人の気配はなく、入り口より先は暗くなっていて何も見えないが、魚達の群れが泳ぎ抜けてゆくのが見えた。


(不思議だわ。門の前には灯りがあるのに、魚の群れが泳いでゆく様を見るとまるで廃墟のよう)



意を決して浮力で軽い体を進め、神殿の階段を上がり、衛兵の影もない無人のアーチをくぐる。


その途端、水に広がっていた髪の毛がぱさりと落ちた。

体はどこも濡れておらず、地上にいるかのようだ。


「…………ほわ」


こつりと、見事なモザイクタイルの床に踵が鳴る。

見上げればフレスコ画の素晴らしいドーム状の天井があり、壁の一面は海を描いた絵で埋め尽くされていた。

重厚な金の装飾額縁がレリーフのようで、真っ直ぐに続く回廊のところどころには、珊瑚が生えている大きなシャンデリアが下がっていた。



「静かでしょう?この季節になると、皆は表の海に出てゆくので、神殿には私くらいしか残らないのですよ」



暗闇の中から聞こえた声に、ネアはびくりと体を揺らした。

鈴を鳴らすような聡明な女性の声で、世にも美しい美女を彷彿とさせる透明で美しい声音だ。


「あなたも、絵を奉納されに来たのですか?それとも、海で死んだ者達を探しに?或いは、このヴェルリースの海の秘宝を奪いに来たのでしょうか?」


声を辿ってゆっくりと歩いたネアは、途中で視線を随分と下に下げることになる。

たおやかな美女姿の精霊を探していたので、床から僅かの高さの位置に顔があるとは思ってもいなかったのだ。



「……………む」



そこにいたのは、真っ白なふわふわの赤ちゃんアザラシのような生き物だった。

しかし、きらきらと光るダイヤモンドのような宝石をふんだんに使った、見事な王冠を頭に乗せている。

真っ青な瞳は愛くるしいものの、理知的で静謐でもあった。



「あら、わたくしが恐ろしいですか?人間の子よ」


思わず言葉を無くしたネアに、精霊の女王はそう微笑みかける。


「あ、あまりの可憐さに、心臓がおかしくなりました。可愛い過ぎて倒れそうですので、暫し呼吸を整えさせて下さい」


そう詫びてから胸を押さえてぜいぜいとした人間に、精霊の女王は目を丸くしたようだ。

綺麗な目がまん丸になると、可愛さが五倍増しでネアはますます息が止まりそうになる。



「…………わたくしが、………可憐?」

「は、はい。綺麗と可愛いが同居するふわふわの最高峰を見ました。神聖な感じがするのに愛くるしいなど、何という破壊力でしょうか。一目見ただけで死んでしまうところでした………」

「可愛い…………」


胸を押さえながら重々しく頷くと、女王はなぜかぷるぷるとしている。

ふわふわの赤ちゃんアザラシが震えているので、ネアはまたしても倒れそうになった。


(あ、愛くるしい!!)


これはもう、理性が決壊したら腕輪の金庫に詰めて持って帰ってしまいかねない。

ネアは己の善意を信じるしかないところまで追い詰められていた。



「…………人間は皆、わたくしを恐れるのですよ。それを可愛いなんて……。お前、どうして震えているの?」

「精霊さんを誘拐しないように、自分と戦っています。私の住処は森の近くなので、海の方を連れて帰ったら弱ってしまいますから。しかし、多大な努力が必要なくらいに精神がボロボロになっています………」

「そ、そうなのね。…………わたくしは、そんなに可愛いの?」

「寧ろ、そのもちもちふわふわの姿の、どこが可愛くないのでしょう!神聖な感じがまた、新雪を見るようないけない気持ちになります。不浄な欲望のままに撫で回してしまいたくなるので、非常に恐ろしい方だとわかりました」


欲望にギラギラとした眼差しが怖かったのか、精霊の女王は少しだけずりずりっと後退した。

むちむちの赤ちゃんアザラシが後退する姿に、ネアは悶え暴れたくなる。


「何という力でしょう!可愛さの暴力ですね!」

「可愛さの暴力…………」

「目を煌めかせて首を傾げたりしたら、ほとんどの人がめろめろになってしまいます!」


ネアがそう力説した途端、精霊の女王は何とも言えない目をした。

悲しそうで苦しそうなその眼差しに、ネアは抱きしめてあげたくて危うく駆け出すところだったので、試練だったのかもしれない。



「そんなことはなくてよ。想うものはいつも、海の外ですもの」

「想う方がいらっしゃるのですか?」

「ええ、そうね。でもあの方が海底に来ることなど、百年に一度あるかしら。………お前、どうして床を踏みつけているの?」

「こんな最強のもふふわさんに想われるなど、羨まし過ぎます!見付けたら滅ぼしてくれる!」

「ほ、滅ぼさないでちょうだいな。………と言っても、あの方は高位の魔物よ。お前の力では到底……………」



そこで精霊の女王がぴたりと黙ったので、ネアは首を傾げた。

なぜだか、ネアの背後を凝視しているようだ。

嫌な予感がして振り返れば、薄暗い神殿の回廊の中でぼうっと光るような、これまた特等の生き物が優雅にこちらに歩いてくる。


擬態を解いたその姿はその白さを際立たせ、凄艶な美貌を誇示する。


ゆっくりと歩いて来ると、その魔物はこちらを見て呆れたような歪んだ微笑みを浮かべた。



「くっ、悪いやつめ。もしもこの方に手を出したら、酷い目に遭わせますよ!」

「…………何で籠絡されてんだよ」


そううんざりと目を細めたのは、漆黒のスリーピース姿のアルテアだった。

珍しく帽子も被り、正装に近い格好である。

この姿で海底を歩いて来たのだろうかと、ネアは少しだけ考えてしまった。


「こんな可憐な生き物を見て、心を奪われないことなどある訳がありません」

「………魅了の魔術でもかけられたか?」

「失礼なことを言ってはいけませんよ!見たままの魅力で充分ではないですか!白もふ万歳です!誘拐してお家に持って帰りたいという欲望と、先程から戦い続けているくらいなのです」

「仮にも、海の精霊王だぞ?」

「その肩書きが憎いです!ただのもふふわさんであれば、襲い掛かってぎゅっと抱きしめてから逃げるという犯行が可能でしたのに」

「通り魔かよ…………」



そこでアルテアは、ネアは放置することにしたのか、精霊王に向き直った。

酷薄な赤紫の瞳が薄闇を切り裂くように鮮やかで、よくわからずに息が止まりそうになるくらい。



「久しいな、セレスティーア」

「…………………ええ。こうして神殿を訪れるのは、三百年ぶりかしら」

「さぁ、いつだったか」


アルテアの言葉に、精霊の女王はふっと悲しげに微笑んだ。

その眼差しの雄弁さに、ネアはまさか想い人というのはこの魔物なのだろうかと歯噛みする。

そう疑うだけでもう、羨望と憎しみでいっぱいだ。



「ゆるすまじ」

「…………おい、殺気をしまえ。さっきより殺意を感じるのは何でなんだ……」

「己の幸福に気付けない嫌なやつは、箪笥の角に小指を強打するような目に遭えばいいのです。地味な痛みで滅びるべし」

「あのなぁ………」


酷く嫌そうな顔をしたアルテアは、すいっと顔を背けてしまった。

心の狭い人間は置いておいて、訪問の理由を果たそうとしているらしい。


「セレスティーア、海の涙を分けてくれないか」

「まぁ、久し振りに会うなり、海の秘宝の無心ですの?三百年前にあなたは、わたくしを欺き、わたくしの部下達を沢山殺したというのに」

「だったか?そうだとしても、あれは、王が愚かにも欺かれたからこそ起きた災厄だ。今度は上手く立ち回れよ」

「わたくしを脅すおつもり?今はもう夏ですのよ?この神殿の者達は、海の上に出払っております」

「なら簡単な話だ。お前を殺せば済む話だな」

「愚かなのはどちらでしょうか。例えわたくしを殺せても、精霊王の呪いがあなたを殺すでしょう」

「あの………」


とても込み入った話をしているようだが、おずおずと話しかけたネアに、アルテアが振り向いた。

心なしか涙目の精霊の女王は、愛くるしさ百倍の猛威を振るっている。



「お前は口挟むな。あっちに行ってろ」

「お知り合いのよしみで、もふふわさんを撫でられたりしませんか?」

「…………は?」

「アルテアさんも撫でれば、私も撫でられる気がするのです」

「…………おい、お前はその前のやり取りを聞いてなかったのか?と言うか、今の状況でよく俺にそう言えたな?」

「む!愛くるしさ百倍の、もふふわさんをじっと凝視していました。そしてその為なら、悪い魔物さんを利用することに躊躇いなどありません」

「…………聞いてなかったんだな」

「アルテアさんは、己が持っている有効カードに気付いていないのですね。何という宝の持ち腐れでしょう!そのカードを切って、私の活路を切り開いて下さい」

「おい待て、お前は自分の用事をどこに置き忘れてきた?撫でる以外の目的意識が感じられないぞ?」

「………他の理由?」

「…………よし、もう黙れ」

「くっ、狡いです!自分だけこっそり撫でるつもりですね!」

「………なんでだよ」



その時ふと、地団駄を踏んで精霊王を困惑させているネアに、アルテアはひたりと視線を当てた。


「大人しくこの先の解呪に俺を同行するなら、撫でさせてやらないこともないぞ?」

「むぐ?!」


さっと顔を上げた人間は、ぎりぎりと歯噛みしながら嫌な条件を出した魔物を睨みつけた。

しかし、そちらを見ると、どうしても角度的に白いふわふわの赤ちゃんアザラシが目に入ってしまう。


「ぐぬぬ。なぜに私の目的を知っているのだ!」

「そりゃわかるだろ。幾らでも理由は思い当たるが、お前がここに居るのが決定打だな。………やっぱり、最初の罠にかかったのは、お前の契約の魔物か」


そう特定してこちらを見たアルテアの眼差しは、作り物のように平淡だった。

その突き放した眼差しを睨み返そうとして、ネアはまたしてもうっかりふわふわのアザラシを目に入れてしまう。

やはり自分の意思で害をなしており、その行動を撤回するつもりもない魔物が相手なのに、愛くるしいアザラシの破壊力が大き過ぎる。


「…………何という屈辱でしょう。己の欲望に勝てません」

「よし、決まりだな。……っつーか、撫でられるのか……?」

「簡単ですよ。アルテアさんが撫でれば、隙が生じます。その隙に私が襲いかかって撫で回します」

「………あの、聞こえていてよ?」

「大丈夫ですよ!私とてもはや対価を支払った身。引くに引けませんが、悪いようにはしませんから」

「お前な、完全に暴行魔の台詞だぞ…………」



そう言ったアルテアが、じっとセレスティーアを見下ろした。

考え込むように見つめられて、海の精霊王はぷるぷると身を震わせる。



「あなたに撫でられるだなんて、冗談ではないわ。その手に触れられるくらいなら、………ふきゃ?!」



おもむろににしゃがみ込んだアルテアにわしわしと撫でられ、精霊の女王はけばけばになって固まった。

素早く駆け寄ったネアが、その隙に背中のあたりのふわふわを撫で回す。



「も、もふふわの極地!!我が人生に悔いなし!!」

「………お前は清々しいくらいに、欲望まみれだな」

「こんな枕があれば、どれだけ幸福でしょう」

「もう一度言うが、これは海の精霊王だからな」

「愛くるしい精霊王さんです!この愛くるしさがわからないやつは、私が滅ぼします!」

「ああ、そうだな。愛くるしい、愛くるしい」

「ほわ?!」


その瞬間、ぼふんと音を立ててもふふわの精霊王は倒れてしまった。

全身を真っ赤にしているので、淡くピンク色になったもふもふが、また可愛さを倍増する。



「た、大変です!死んでしまいました!」

「…………気を失っただけだろ」

「となれば、この隙にたくさん撫でておかねば!」

「お前、そろそろ自分の発言の非情さに気付けよ?」

「む?」

「無自覚なのか………」


アルテアが天を仰いだ隙に、ネアはさっと赤ちゃんアザラシを抱き上げた。

あまりのもちもち具合に、ぷつんと心の善良な部分が決壊してしまう。


ぱっと駆け出したネアに仰天したのはアルテアだ。

どこか超然としていた余裕を突き崩され、思わぬ人間の奇行に愕然とする。


「お、おい?!ちょっと待て!」

「誘拐犯になる覚悟を決めました!見逃して下さい!」

「はぁ?!おい、…………やめろ、馬鹿!」


ネアは、すぐさま追いつかれ、至高のもふふわは取り上げられてしまった。

悲痛な叫びを上げて抵抗したが、アルテアは容赦なく結界まで張って邪魔をするではないか。


「ゆるすまじ!独占禁止法です!やはり、独り占めしたいだけではないですか!」

「そんな訳ないだろうが………」

「…………わたくし、何が…………きゃ?!」


そんなタイミングで意識を取り戻してしまったセレスティーアは、自分を抱き抱えているアルテアと目が合い、凍りついていた。


「狡いです!独り占めするなんて、アルテアさんももふふわさんが大好きではないですか!」


結界の向こうでは、欲望まみれの人間が荒ぶっている。

しばし無言で見つめ合った後、アルテアは小さく溜息を吐いた。



「………あの獰猛な人間を駆除してやる。海の涙をよこせ」

「………アルテア」


少しもじもじした後、もふもふのどこに収納スペースがあるのか、セレスティーアは懐とおぼしき部分からさっと小さな青い宝石を取り出した。

一瞬躊躇い、そっと差し出す。



「………わたくしは、やはりまだ愚かな王ね」

「どうだかな」

「ふふ、貴方は、どこまでもわたくしに興味がない冷たい方。………でも、もう充分だわ」


ぽすんと弾むと、セレスティーアはアルテアの腕から飛び出して床に落ちた。

そのままずりずりと、背中を向けて回廊の向こうに消えてゆく。



「その人間の子供は殺さないで頂戴。……わたくしを、可愛いと言った初めての者だもの」

「ただの通り魔だけどな………」


そう呟いたアルテアに小さく笑うと、ぽすんと音を立てて海の精霊王は消えてしまう。

悲痛な声を上げたネアに、アルテアは少しだけ頭を抱えた。

しかし老獪な魔物らしく少しだけ悲嘆に暮れてから気を取り直したのか、結界を消すと飛びかかってきた獰猛な嫉妬まみれの人間を小脇に抱えて、悠然と回廊を歩いてゆく。



「次は、マグメルリヤの小島か。喜べ、お前の大好きな船に乗れるぞ」

「船が大好きだと言ったことは一度もありません。おのれ、離すのだ!」

「いい子にしてろ。お前はもう、対価を支払ったんだからな」

「むぐ!もふふわさんを餌にされました。何という狡猾な手口でしょう!」

「………ったく」


ひょいと抱えて直され、ネアは手荷物扱いから生き物扱いに昇格する。

はっと視線を巡らせば、そこはもう海底の神殿ではなく、地上の港町のどこかであった。

頑固な眼差しで睨め付けたその美貌はどこか余所余所しい。

冷酷で残忍な魔物らしい温度で、そのくせに少しだけ寄る辺ない気配がある。


「随分な歓迎ぶりだな。自分の使い魔だろう?」

「まぁ、昨日からの自分の行いを忘れてしまったのでしようか?」


午後の光の差し込む路地は、生活感のある街並みの路地裏のようだ。

建物と建物の間には洗濯物を干したロープが張られ、どこか遠くで子供達が遊ぶ声が聞こえる。


「シルハーンなくして、お前一人で何が出来る?」


そう笑うのは、挫く為なのか、ただのお喋りなのかどちらだろう。

これだけ近くにいるのは見慣れた魔物だが、今回の事態で悪意ある者達に手を貸したのは間違いなかった。


「ディノがああなった術式は、アルテアさんが用意したものだったのですね?」

「イブリース用だし、俺一人から成るものじゃないがな。だから、あいつ仕様の術式展開条件にしたんだが、よりにもよってシルハーンがかかるとはな」

「偶然でしたが、あの罠にかかったのは私でした。ディノは、私を守ろうとしてくれたのです」

「だから、お前はご機嫌斜めな訳か」


ネアがぐっと黙ったのは、ご機嫌斜めの理由の一部分に、楽しみにしてた野外演奏会のことが含まれる自分の残念さを恥じていたからだった。


「それとも、思い通りにならなかったことが、不愉快なのか?」

「………不愉快だとすれば、それを私の責任にされることです」

「俺がお前に紐付くから?」

「元々こういう気質のアルテアさんがしでかしたくらいで、なぜにその感想を、さも特別な感じで本人から求められるのかがわかりません。面倒なのでとても不愉快です」



そう言い返したネアに、赤紫の瞳がふっと見開かれる。



「……どうだと問われるのが、………不愉快なのか?」

「強いて言えば、個人的にはいつかやると思っていたので特に感想はありません。ディノや知り合いの方に暴力を振るったら、叩きのめします。以上なので解散して下さい」

「いつか裏切るだろうと思うなら、その芽を摘めばいいだろう」

「そこまで大仰なものでしょうか?個人的には、狐さんに絨毯に爪を立てるなと言うようなものだと思いますよ。そして私は、そんな生態まで奥深く管理を徹底する程に、アルテアさんと親密な訳ではないのです」

「使い魔にしておいて、よく言えたものだな」

「まぁ、他人のせいにしてはいけませんよ。アルテアさんは、私は当初、竜が欲しかったのをご存知ですし、そもそもこんな契約なんて、とっくに破棄出来たでしょうに」


そう言ってやれば、アルテアは唇の片端だけを歪めて冷ややかな微笑みを浮かべた。


「成る程な、俺が望んだからという訳だ」

「ええ、その通りです。あなたにとっては、それも暇潰しの一つだったのでしょう?確かに私は策を弄しましたが、それはあくまでも最初のことだけです。その後は、あなたの暇潰しでした。だからこそ、使い魔でいる代わりに、美味しいお料理の配達を義務付けられたのでは……」


視線の先で、選択の魔物の何かを捨てて何かを選んだ心の動きで鮮やかな瞳が揺れ、ほんの少しだけ愉快そうな輝きを強めた。


「…………やっぱりお前は、俺はいらないんだな」

「あら、当然のことではないですか。既に容量を超えた変態の魔物を一人抱えているのです。本来であれば、その魔物も手に負えないので手放そうとしていた私が、また違う意味でやんちゃな魔物さんを、どうやって飼うというのでしょう?是非に、程よく野生のままでいて下さい」

「シルハーンだけなら、まだしも……と言えたんだがな」

「む?飼って欲しいのですか?しかしもう、手が回らないので……」

「そんな訳あるか。何でペット枠なんだよ」

「振る舞いの責任を問うというのは、そういうことだと思うのです。婚約者はもういますし、養子を取るつもりはないので、残りはペット枠しかありません」


そこでアルテアは、持ち上げたままのネアの瞳を覗き込んだ。


「とは言え、お前にはやめろと命じる権利があった筈だ。どうしてそうしなかった?」

「むぅ。アルテアさんこそ、私を害するおつもりなら、私にそう言わせないだけの準備があるのでは?」

「だとしても、抵抗すらしないのか?」

「あなたはそういう生き物です。野生の獣が牙や爪があることで美しいように、あなたも魔物らしいあなたのままが一番でしょう。生涯お世話をするだけの予定もないのに、その爪や牙を折れと言うだけの覚悟は、私にはありませんでした」

「今回のことは、いつか話したようなもしも論とは違うだろう。お前のその甘さの所為で、お前の大好きなお仲間とやらが死んでそう言えるのか?」


その言葉にネアは小さく微笑む。


「実は少しだけ、アルテアさんを殺してしまうか悩んだりもしました」

「いや、殺せる前提なのがどうかしてるからな?」

「あなたが悪戯に傷付けるものが、私の大事なものならば、勿論ぺしゃんこにします」

「それが可能だとしても、振るえない覚悟程、手にしていても無意味なものはないぞ?」

「あら、だってアルテアさんは、ディノが罠にかかったのをご存知なかったのでしょう?」

「相変わらずの身勝手さだな。シルハーンが標的じゃないならどうでもいいとでも言いたげだが」

「正直、イブリースさんはほとんど他人です。この国の安定を脅かされるのは困りますが、それを考慮しても他人事感がまだあるので、アルテアさんを殺す程ではありませんでした。そう言う意味では、少しばかりアルテアさんの方が自分事なのかもしれません」

「………こんな目に遭っておいて呑気なもんだ」

「と言うより今回のことは、私はムグリスディノが可愛いに尽きますので、最初の時のどうなってしまうのだろうという不安感が吹き飛べば、アルテアさんが他の方達にかけているご迷惑という話なのでは?」

「まさかお前、………本当にその程度の認識なのか?」

「あら、アルテアさんが本気でディノをどうこうしようと考えたのかなと誤解していた時は、抹殺する気満々でしたよ?しかし、そうではないとわかれば、人間は案外現実的な生き物ですから」

「誤解………か」

「も、もしや、私の可愛いムグリスディノに悪さをしますか?」

「興味ないな」

「であれば、いつもの悪さをする、いつものアルテアさんなのでは?」



こてんと首を傾げてそう言えば、アルテアは暫く無言でいた。



「………あの、先を急ぐので動くか、解放するかして下さい」

「お前は馬鹿な奴だな」

「なぜに馬鹿にされたのだ」


不意に、わしわしと頭を撫でられた。

何の攻撃だろうと眉をひそめると、微かに笑う気配がある。

それはまるで、この事件が起こる前のアルテアのもののようだった。


「おまけに、たった一つの例外として選ぶのが、よりにもよってのあいつなのが心底哀れだな」

「むぅ。腰縄をつけるのが最後の壁です。これ以上の高い壁が出て来なければ、何とか乗り越えられる見込みとなっております」

「……あくまでも、そこの問題なのか」

「あら、他の問題もその恐ろしさに比べたら、どれだけ瑣末なことでしょう」

「かもしれないな」


呆れ顔で溜め息を吐き、なぜかしっかりと抱え直された。


「降ろして下さい。同行するとは言いましたが、持ち上げまでは許可していません」

「自分の使い魔だろ。もっと活用しろよ」

「裏切り者期間中の使い魔さんを重用するのは、お料理と家作りの時なのです。それと、魔物の変態性について相談する時以外は、ぽいっとしていますので、素敵に野生でいて下さい」

「却下だな」

「なぬ?!なぜに懐き度が上がったのだ。解せぬ」

「だから、何でペット枠なんだ」

「懐くなら懐くで、寝返って下さい。敵の情報を寄越すのだ!」

「何だ?寝返ったら俺に得るものでもあるのか?」

「むぅ。撫でて差し上げましょうか?」


そう言えば、アルテアはこちらを見て無言で片眉を持ち上げる。


「ほお、どこでも?」

「………嫌な予感がしました。この提案は取り下げます」

「お前が、俺が望むだけの対価を支払えれば、寝返ってでも何でもしてやるが」

「おのれ、何という業突く張りな使い魔なのだ!野生に帰り給え!」

「それでお前に竜を飼わせてやるのか?それは御免だな」

「竜でもなく善良でもない裏切り者の使い魔を、このまま飼っている必要などあるのでしょうか………」

「そうか。この前頼まれた、夏の果実のタルトはいらないんだな」

「タルト…………」


がくりと項垂れたネアに、選択の魔物が小さく笑う。



「本当に馬鹿だな、お前は」

「むぐ!勝手に懐いた上にご主人様を餌付けしておいて、何たる暴言!許すまじ!」

「要するに、お前の食い意地が張り過ぎているってだけだろうが」



じたばたするネアを抱えたまま、アルテアは小道を歩いてゆくと、小さな港に出た。

なぜかご機嫌になったようで、楽しそうに微笑みを深めている。

荒んだ目をしたネアはあえて、あと一時間ほどでウィリアムが合流すると教えるのをやめた。




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― 新着の感想 ―
アルテア絶対に1人でいるネアといる方が楽しいから来たよね!!!尊
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