151. 再会は夜明けのことでした(本編)
その日の夜明け、ネアは王都の中央から少し西側にある港町を目指していた。
王都の港には本日、他国からの商船が来ており、この騒々しさだと海のシーは逃げてしまうということで海のシーの行方を探って貰ったところ、その港町で目撃情報が上がったのだ。
(とは言え、目撃されたのって深夜なんじゃ……)
ネア達が屋敷を出たのが夜明け前だったので、その情報を精査したウォルターは寝ていないのではないだろうか。
ネア自身も、夜には狩りやムグリスディノにあれこれ飲ませたりとあったので睡眠時間は三時間強というところなのだ。
しかし、ネアとは立場も仕事も違う人なので、少し身体が心配になる。
あえて転移ではなく、コモという大きな駝鳥のような生き物の引く馬車で到着した港町は、見事な糸杉の並木道を抜けると現れる城壁の町だ。
この城壁は、陸からの敵ではなく港から侵略があった際に町ごと海の玄関口を塞ぐという意味で造られたものらしい。
その場合住民達は転移で町を出るそうで、王都のように正規海軍のいない港には、このような他国からの侵攻などを想定した守りがあるのだとか。
「海に入るのだろう?それも連れてゆくのか」
「はい。囮ですから」
ウォルターがさかんに心配しているのは、ネアが斜めがけした籠の中のココグリスだ。
ダナエ風に魔術染色されたココグリスは、唯一自分の味方だと感じるらしいウォルターをつぶらな瞳でじっと見ている。
今日のネアの髪色はオレンジがかった金髪で、これは士気向上の為の戦勝祈願色である。
眠たいので明るくて元気な色にしたのだ。
「排他的な町、という感じではないのですか?」
「平原と海に面し、町が小規模で物流がいいウルメラは、料理人の卵に人気の町でな。他国の調味料や食材も手に入れやすいと、質のいいレストランが多い。最近では人気の観光地の一つだ」
国が豊かで平和になると観光業が盛んになる。
そのようなことで発掘された町の一つで、宿泊施設が少ないので近くの大きな町から訪れるという観光客で日中は賑わうのだとか。
「最近では、行列が出来る有名レストランの朝食ツアーもあり、朝でも外部からの出入りがある」
「良かったです。であれば、こんな時間に乗り込んでも悪目立ちはしませんね」
「だから、観光客がよく使う乗り物にしたのだ」
ヴェンツェルはこの町のトルテッリが大好きで、時折お忍びで食べに来ているらしい。
その際には道連れにされるというウォルターは、実は竜騎士の階位やガレンの籍を持つ有能な男だった。
だからダリルはネアと組ませたのだとわかり、ネアはますますこの書架妖精の弟子に尊敬の念を抱いている。
(頭が良くて強くて、絵が上手くてお裁縫も出来る動物好きとか、確かにご婦人方に人気があるのもよくわかるな)
ネアの考える宰相職からすれば非情さという部分が足りないような気もするが、彼のような多面的に有能な人であれば、宰相を目指すのは最もという気がした。
ヴェンツェルが王になれば良い組み合わせになるだろう。
因みにネアがまったく知らないこの国の王様は、冷酷とされるが、実際にはただの現実主義者であまり起伏のない性格をしているそうで、温厚そうに見えて最高に腹黒いウォルターの父親とはいいコンビなのだそうだ。
「現王はあまり我欲のない方なのだ。先代の王は大陸統一を望んだ豪傑でな。残虐さと聡明さ、武勇にも秀でた最も優秀な王とされた。そのような方だからこそ統一戦争では勝利出来たが、次代の王まで同じような気質であれば恐らくまた争いが起きただろう」
「いい意味で、危機感を持たせない王様なのですね?」
「先王程の力を示す王となるのは難しい。そうなると、国を平定させる力は充分にあり、その上で意味のない圧政や力の誇示などに興味のない方が合う時代だったのだろう」
「知り合いから、ヴェンツェル様は先代の王様に似ているのだと聞いたことがあります」
ネアがそう言えば、ウォルターは少しだけ微笑みを深める。
「かなり似ていると言われる。だが、あれは無駄な領土拡大に欲を出す程血の気が多くはない。祖父と父親の良い面を取ったと私は思う。更なる次の時代に合う王族だな」
「ヴェンツェル様が治める頃には、確かに少しの強さも必要な頃合いかもしれませんね」
そう言ったネアにウォルターは驚いたようだが、世界史というものの知識としての事例を学んでいれば当然のことだ。
大国を侵略して統一した次の時代には、その纏めたものの平定が必要とされ、その安定の先には、育った新しい国の中での内乱や、豊かさを羨む外からの介入が始まる頃合いなのだ。
恐らくヴェンツェルが王になる時代には、ヴェルクレアという国を、やはり揺るぎない大国なのかと周知せしめる強さが必要になるだろう。
「……そしてそんな風に、ヴェンツェル様のこれからが想像出来るくらいに安定しているので、不満のある方は焦るのかもしれませんね」
「まだ幼い第五王子も、己の立場を盤石にしつつある。あの王子は幼いが己の欲をしっかり理解していてな。王位などには欲を示さないだろう。それは即ち、現状予測されているものを受け入れているという印でもある。廃嫡された王子とされたエーダリア様も中央との確執を見せない今、全てが踏み固められる前にと焦る者は確かに多い」
ウォルターの口ぶりであれば、第一王子を狙う陰謀は他にもたくさんあるのだろう。
「今回の方達はなぜ、今なのでしょう?ウィームの力が弱まる夏だとしても、本命のヴェルリアは夏が有利なのでしょう?」
「恐らく立場を定めていない者もいるのではないだろうか。今回の件は、単純に他の王子派の動きでもなさそうだ。……となれば、彼らとてヴェンツェルを陥れることで、国が立ち行かなくなる程の危険は冒せない」
さすがにその言葉からは全てを理解しきれなかったのでネアが首をかしげれば、統一されていない理想の者達が不満を溜め込み、決行に踏み切るだけのきっかけとなり得ることを並べてくれた。
「ヴェンツェルは最近、他国の戦争にも上手く介入して成果を上げている。これは内外共に誇れ、牽制になる偉業だ。ウィームは国内でも独立した動きが強くあまり動向が読めないが、魔術の守りが薄くなる夏を迎えている。第三王子は相変わらず公の場から身を引き立場を明確にされないことで不満が出てきているし、第四王子は参謀役の女達を失って少し求心力が落ちただろうか。そして御し易いと考えられ易い幼い末王子が、今回の夏至祭で火竜の王女の守護を得た。邪魔な上物を排除しても、国力を弱めては元も子もない。だがやっと、末王子を傀儡にすればこの国は安泰という目算も立った訳だ」
(なる程…………)
タイミングであり、バランスなのだ。
どの立場の者からしても、ある程度手を出しても安全そうだという目算、或いは今しかないという後押しや危機感を募らせる全てのタイミングが、うまい具合に合わさってしまったということなのだろう。
その全てを踏まえて盤面を見ている人達というのは、どれだけの頭脳や心なのだろう。
ネアはひたすら頭が下がる思いだった。
「あの金の椅子の方は、どうして今回の件の指揮を取られているのでしょう?人外者の方は国取りなど興味がないのかなと思うのですが……」
「ああ。だが、その代わりに暇潰しでそれに手を貸すからな。………アルテア殿もその可能性が高い。ヴェンツェルは呆れていたが、呆れるだけで済ませられるものだといいのだが………」
「第一王子様は落ち着いてらっしゃいますねぇ」
「あれは、単に図太いだけだ」
そんなことを話しながら、ネア達は馬車を降りた。
まだ淡い朝の光の中、海辺の町は清々しい空気に包まれている。
暑くなりそうだなと予感させる日差しの欠片と深い色の海は、あわいの列車で訪れた海辺のリゾートとは違い力強い海という感じがした。
カモメの鳴き声に、檸檬やオリーブの木の畑が見える。
入江の向こうに見えるのは海沿いを走る細い山道だ。
その光景にふと、この世界にあるはずの無い海沿いの細い道を走って行く黒い車が見えた気がした。
(この町は、………ジークが死んだ海沿いのリゾートの町に少し似ているわ……)
でもそれは余分な感傷なのでぽいっと投げ捨て、ネアは地元の人達が行き交う港を目指して、まだ観光客の姿は見えない砂地の細い道を歩いた。
道は入り組んでいて、町全体が見通せる町の外周からこちらに入り込んでしまうと、途端に視界が狭くなり、海も見えなくなる。
土地そのものの形もあるが、海沿いから真っ直ぐな道を設けないのも、土地勘がないと迷いやすくする町としての自衛の手段だ。
(でも、襲撃も受け易い道の細さだわ)
ネアはふと、この狭い道を歩くことが不安になる。
その才能に感服したばかりのウォルターに、もしものことがあれば困るのだ。
こんな風に手間をかけていることに対し、春告げの舞踏会のチケットを使わないことへの罪悪感が渦巻いたが、とは言えネアにだって一番大事なものがある。
これはまだ、巻き込まれてしまっただけの権力闘争の陰謀の図式であり、あれは、あくまでもネア個人の最後の手段なのだから。
細い路地を、ウォルターはまるで勝手知ったる地元民のように歩いた。
並んで歩くのではなく、一列にもならずに少しだけ前後して並ぶのは、ウォルターなりに意味を持たせているようだ。
それに気付くと、ネアはその位置関係を維持するように自分でも気を付けた。
まだ朝日の差し込んでいない路地裏は、空気がひんやりとしている。
時折よぎる影は、ゆったりと鳴いて飛ぶカモメのものだ。
開け放した窓から子供の声が聞こえ、朝の早い港町では家族が起き出す時間なのだろう。
“ネアには、きっとわかるよ”
ふと、そう言ってくれたゼノーシュの言葉が耳の奥で蘇る。
それはもしかしたら、予兆だったのかもしれない。
「下がれ!」
いきなり、振り向いたウォルターが鋭く声を上げた。
後退しようとしたネアは、ぞくりと背筋が寒くなる。
咄嗟に体を捻ったのは、ネア自身の能力ではなくウォルターが腕を引いてくれたからだ。
がしゃんと、硬質なものが砕ける音がする。
小さな悲鳴が上がり、ネアはほとんど無意識にその上に飛び込んだ。
その直後、物凄い衝撃を感じた。
「………っ?!」
一瞬、何が起きたのか理解出来ないままぐっと詰まった息を吐き出せば、ばすんと石壁に当たり体が弾む。
小さく噎せってからやっと冷静になり、いきなり誰かに蹴り飛ばされたのだとわかった。
ぱらぱらと落ちるのは、叩きつけられた石壁にこびりついていた砂塵だろうか。
壁に激突した衝撃の大きさを物語っている。
(でも、蹴り飛ばされるのは二回目!動じるものですか!)
幸い、飛び込んで救出した囮のココグリスも無事なようだ。
鼻を鳴らしてネアの手にへばりついている。
確かにこのココグリスは囮だが、あくまでそれは大事な魔物の安全との引き換えであって、むざむざと犠牲にするつもりはない。
そして、悠々と近付いてきた誰かを、ネアは動けないふりをして充分に距離を狭めてから、力一杯蹴飛ばした。
「くっ………」
恐らくその誰かは、こんな小娘の蹴りなど気軽に受けてやろうとしたのだろう。
しかしネアには最高峰の戦闘靴があり、その目論見は霧散したようだ。
拙いばかりのか弱い蹴りの筈が、反対側の壁に叩きつけられかねない勢いで衝撃を受け、しかしぐっと踏みとどまる。
そして、こちらを見て、赤紫色の瞳を微かに見張った。
「……………お前」
ネアはその相手を睨みつけてから、鬘を毟り取られて痛めたこめかみを揉んだ。
あまりにも一瞬過ぎてよく分からなかったが、ココグリスを拾うためにしゃがみ込んでいたので、髪の毛を掴むようにして体を持ち上げられてから蹴られたらしく、強引に止め金具ごと引き剥がされたのだ。
その結果、ネアは現在ぼさぼさの赤髪の女に見えているに違いない。
だから驚いているのだろうかと思えば、彼がじっと見ているのはブーツであった。
「フキュ」
ネアの手の中で、ウォルターがかけた守りが頑強だったのか、無傷だったココグリスが震えながら声を上げる。
今回の襲撃でネアが無事だったのは、初回の攻撃がこのココグリスを狙ったものだったからだ。
でなければ、ウォルターが気付いてくれたとしても、アルテアの攻撃を躱すことなど出来なかっただろう。
(ウォルターさんは……)
そちらを見たネアは唸りそうになった。
ウォルターと相対しているのは、あの赤い髪の竜の青年だ。
よりにもよって、敵戦力のそれなりに最強部隊に遭遇したらしい。
しかし、いつもは姿を消しているウォルターの代理妖精が出現しており、何とか二対一の構図になっている。
「…………やれやれ、ここで遭遇するとはな」
そう呟かれた声に、ネアは視線をアルテアに戻した。
こちらを見た瞳には理解があり、魔物らしい暗い悪意と愉悦が滲んでいる。
ここにいるのがネアだとわかったからといって、彼の中で何かが変わる訳ではないようだ。
「そいつを寄越せ」
ひたりと、背筋が寒くなるような冷たい声に、ネアはぴくりと体を揺らした。
「殺す為にですか?」
「さてな。とは言え、お前には関係のない話だ」
「まぁ………」
それ以上、ネアは何も言えなかった。
ただ、すっと心が冷えるのがわかり、見慣れない造作の赤紫の瞳の男を見据える。
黒髪で涼やかな面立ちの影のある容貌だが、その瞳の色だけで彼だとわかるのが不思議だった。
「よりによってイブリースのお守りかと思ったが、その毛玉の色はまさか、あの竜なのか?」
「黙秘します」
さっとココグリスを背後に隠したネアに、赤紫の瞳に苛立ちが混ざる。
「しょうもないものを庇って、俺の楽しい余暇を邪魔するなよ?」
「あら、なんて不愉快な暇潰しでしょう」
「これから、俺に動けない体にされることの方が、お前には不愉快だと思うがな」
「いいえ。これ以上に不愉快なことなどありません。あなたは、私の大事なものを傷付けようとしたのですから」
自分でもよく分からないままに、ネアの声からは抑揚が剥がれ落ちた。
手の中で震えているのは見ず知らずのココグリスだが、もしネアがここにムグリスディノを入れていたら、こうして震えているのはネアの大事な魔物だったのかもしれない。
目の前の人間が激怒しているらしいぞと気付いたのか、アルテアが微かにまた瞳を揺らすのが分かった。
それはネアが彼を良く知っているからこそわかることで、彼が驚くのはネアがこんな風に怒るのは稀だと知っているからだろう。
「………待てよ、お前、………あいつはどうした?」
その時だった。
「……っ?!」
物凄い轟音がして、ネアは思わず竦み上がってしまう。
はっとしたように顔を上げたアルテアに、その向こうで赤い髪の青年がよろめいて片膝を突いている。
細い路地の上のその空に、鮮やかな真紅が陽炎のように揺らめいていた。
咆哮一つで辺り一帯の者達を震え上がらせると、人型に転じてふわりとこちらに降りて来たのは、剣呑に細めた瞳がぞくりとする程に鋭い、王都に住む伝説の火竜だ。
「……くそ、囮か」
さっと身を翻したアルテアが、転移で立ち位置を変えるとすっかり萎縮してしまった赤い髪の青年を掴んでふわりと姿を消す。
あえてそれを追いはせず、ドリーは彼らが去った方向を一瞥して小さく頷いた。
「ドリーさん!」
「ネア、…………まさか、怪我をしたのか?」
明らかに乱れた様子のネアを振り返り、ドリーは少し慌てたようだ。
ネアの擬態についてはエーダリア経由で連絡が行っているので、すぐに判別してくれ、獰猛な表情を消し去ると傍まで来てくれる。
「大丈夫ですよ、アルテアさんに蹴り飛ばされただけです。蹴り返しましたので、報復は果たしましたが、この子がすっかり怯えてしまって。…………む、死んでる?」
「ココグリスが怪我をしたのか?!」
その一言を聞きつけ、慌てて駆け寄って来たのはウォルターだ。
ネアの手のひらからココグリスを毟り取ると、気を失っているだけだと安堵に体を震わせて抱き締めている。
あ、これはもう返して貰えないだろうなとネアはその光景を見て諦めた。
「………すまない。その小動物が気を失ったのは、俺の咆哮のせいかもしれない」
「いえ、ドリーさんが来る前にアルテアさんから襲撃されてしまったからだと思いますよ」
来るまでココグリスの意識はあったのだが、ネアは申し訳なさそうに悲しい目をしたドリーの為に、慌ててそう説明しておいた。
「……これは、アルテアが君を?」
そして、ドリーが追求をやめないのは、狭い路地には明らかな暴力の気配が残っており、地面に落ちた鬘や、割れた結界籠の残骸、そしてネアはくしゃくしゃの髪をしてお腹をさすっているからだろう。
「ええ。最初は私だとわからなかったようなので、ゼノの擬態はかなり優秀なのですね」
「そこを蹴られたんだな。見せてくれるか?」
「はい。でも何ともありませんよ?びっくりしましたし、蹴られたという感覚はあるのですが、痛みはありません。守護というのは不思議なものですね」
それはネアも驚いたことなのだが、死者の国の時のようなダメージを覚悟していたのに、体はどこも痛くなかった。
本来であればこういうものなのかと、あらためて驚いてしまう。
そして、相変わらず些細な痛みの方が問題になるらしく、鬘を毟り取られたときに留めていたピンごと髪の毛が引き抜かれてしまった頭皮の方が痛い。
「頭はどうした?」
「鬘を引っ張られた時に、髪の毛が抜けたのです。頭皮は無事に残っていますので、地味に痛いだけでしょうか。私よりも、ウォルターさんは……」
「ウォルターなら、あの程度の竜には傷一つ負わせられないだろう。ガヴィも付いているしな」
「その通りです。坊ちゃんに怪我などさせようものなら、あんな竜は羽を引き千切ってやります」
「……ほわ、ウォルターさんはそんなに強いのですねぇ」
ドリーにもお墨付きを貰うウォルターは、ネアの想像より遥かに強いようだ。
「……まぁ、あの竜はまだ若いようだからな」
褒められてしまったウォルターは、恥ずかしそうにぼそりと呟く。
「流石ですねぇ」
「ドリー殿を狩った相手に言われても嬉しくないがな」
「む。あれは不幸な事故でしたし、ドリーさんはいきなり殴られただけです」
「いや、殴られて倒れたのが凄いのだ。先程も見ただろう?あの程度の竜など、ドリーの咆哮一つで腰砕けだ」
「むぅ」
「ネアは、サラフをも倒しているからな……」
「ドリーさんまで………」
確かにあの赤い髪の青年くらいであれば殺せる自信があるが、ネアはどうやら褒められているのではなく、獰猛だと思われているようなので腑に落ちない顔でぎりぎりと眉を寄せる。
「そして、ご近所さんが誰も騒がないのは、魔術がかかってるからですか?」
「ここは魔術の道だ。普通の道とは違うぞ?」
「ウォルターさん、それは初耳でした」
「………そうか、魔術稼働域が低くて、入ってもわからないのか」
思わずそう呟いてしまったウォルターは、地面を踏み鳴らしたネアにさっとガヴィの影に隠れてしまった。
「ところで、ドリーさんがこちらに来てしまって大丈夫なのですか?」
「ヴェンツェルは、今、母親に会っている」
「ヴェンツェル様の、……と言うことは王妃様ですね」
「ヴェンツェルの母親には、虐殺の精霊と、防壁の精霊、蹂躙の精霊王の加護がある」
「……………無敵な感じがしますね」
ネアがさっと顔色を悪くして同意すれば、その全員が女性なのだとウォルターが教えてくれてドリーも頷いた。
かなり怖い人なのだと想像がついてしまい、ネアは、ヒルドは、よくもそこから逃げ出せたなと思った。
聞けば感情の起伏が大きな女性らしく、精霊に好まれる方なのだそうだ。
王妃のイメージ戦略上対外的には防壁の精霊のみ公表されているが、本来は征服などに向いた加護をたくさん受けているらしい。
「なので、あと半刻程はこちらにいられるので、一緒に海のシーを探すか?」
「はい!ウォルターさんが強い上にドリーさんまでいたら、百人力ですね!……その前に、少し待って下さいね。他所様の邪魔になるので、鬘と籠の残骸を拾ってしまいます」
そちらはガヴィも手伝ってくれ、すぐに片付けることが出来た。
優しい大人らしくネアの手を引いてくれたドリーが、少し不思議そうに尋ねたのはネアの大事な魔物のことだ。
「契約の魔物は連れていないのか?」
「危なっかしいので、秘密空間の厨房に置いてきました。と言うか、ムグリスになってからよく寝る子になったのです。魔術通信の道具を発動したまま置いてきたので、今も寝息が聞こえます」
「……そうか。元気なら良かった」
ネアがそう指し示したのは、魔術通信用の小さな耳飾りだ。
イヤーカフのようなもので、簡単に落ちないようにもなっている。
元々、落ち着いたら魔物は置いてくるつもりだった。
一緒にいるということも大事だが、それはあくまで安全が保障されてからである。
なので、説得に時間がかかるだろうなと考えていたのだが、都合のいいことにムグリスディノが眠りこけていて起きなかったのだ。
魔術通信の道具と手紙を置いて、これ幸いとお留守番させてきてしまった。
(まぁ、野生のムグリスはこの時間帯だと寝ているから、そういうことも影響してるのかしら?)
決して、昨晩にもあれこれ強化薬品を飲ませたから寝込んでいる訳ではない。
「ネア、アルテアとは話せたのか?」
歩いていてふと、ドリーにそんなことを言われた。
そちらを見れば、心配そうに見下ろしている火竜の優しい目に心がふわりと緩む。
「どうしてとか、そのような話をする雰囲気ではありませんでした。今回のことは、お楽しみの余暇のようですから、暇潰しなのでしょう。……ドリーさん、私は取捨選択が出来る冷酷な人間なので、大丈夫ですよ?」
「それでも、知人から傷付けられるということは悲しいだろう」
そう言われて頭を撫でられてから、ネアは少しだけ考えた。
頭には来たが、悲しくはなかったのだ。
でもそれは、アルテアなどもう敵だと許せなくなってしまっているからではなくて、単純に魔物なのだしそういうものだろうと考えているからである。
それでは困るから変わって欲しいと思うには、アルテアはある程度他人だと考えるネアは、やはり自分は冷たい人間なのだと思う。
でも、ずっと一緒だからとお互いの手を取り合うディノとは違うのに、その性質を変えてくれと頼むのは図々しいような気がしてしまうのだ。
(ましてや、私はディノのそういう部分もあまり気にしない人間だから……)
しかし、そういう事なのでネアを傷付けるという事と、身内やディノが損なわれたかも知れないという事は別物だ。
もしそんなことをされたなら、ネアは手元にある使い魔としての彼の鎖を引っ張ってでも、それが無駄なくらいの脆さでも、あらゆる手段を用いて彼の邪魔をするだろう。
エーダリアが言うように、アルテアがその経路の妨害に何か対抗策を講じていれば諸共破滅するかも知れないが、だとしても許せない事もある。
自分のそういう短気さや不安定さも考慮して、ネアはあえて大事な魔物にはお留守番をさせていた。
「ネア、港に着いたぞ」
少し考え込んでいたからか、そう教えてくれたドリーの声は優しかった。
「まぁ!………綺麗な港ですね」
「ああ。ここは、水晶港と言われている。この海域の生き物達は水晶を好むので、彼等の庇護を得る為にと水晶で港を作ったのだそうだ」
古い町なりの趣きがあってそれなりに美しかった町とはがらりと雰囲気を変え、港は透明度の高い水晶をふんだんに使った、おとぎ話の区画になっていた。
足を踏み込むのが少し怖いが、打ち寄せる波の上を歩いているようで素敵な気持ちになる。
時折、酔っ払った船乗りが海との境目がわからなくなって海に落ちるそうだが、ネアはすっかり不思議な足元に夢中になってしまう。
「あそこにいるのが、海のシーだ。火の系譜が近付くと機嫌を損ねてしまうから、俺は桟橋は渡れないな。少し離れていよう」
「まぁ、青々としていていかにも海の方という感じがしますね。清廉で美しい方です」
「どれ、私が交渉してみましょう」
交渉を申し出てくれたのは、ガヴィだった。
彼はシーではないが、かなりの長命者なので妖精達もそれなりに敬意を払う。
丁寧で落ち着いた物腰といい、いかにも交渉官向きだ。
水晶の桟橋を渡って近付いたガヴィに、とある船の穂先に腰掛けていた美しい妖精は、ちらりとこちらを向いた。
「あら、航海の安全でも祝福して欲しいの?」
青い瞳に青い髪をした、銀混じりの青い羽の妖精だ。
足元までの長い髪に、雪のように白い肌が人ならざる者という感じを強く醸し出す。
排他的で冷たい瞳なのがまた、自然のものを司るシーであるという感じがした。
(すっきりした肢体だけど、女の人だったんだ……)
薄い胴回りに男性なのかなと思っていたので、ネアは少しだけ反省する。
しかしこれはこれで、中性的な儚さが素晴らしく美しいという再発見があった。
「この人の子に、海の神殿に行く為の祝福を与えて欲しいのです」
「ふうん。海の神殿に行きたいの。でも、海に願うのであれば、相応しい対価が必要よ。それをお前達は持っているの?」
ガヴィがこちらを見て頷いたので、ネアはさっと森の記憶の結晶を取り出した。
「カインという国の、森の記憶の結晶です。とても豊かな熱帯雨林があり、たくさんの森の色が入っていますよ」
「………それを見せて」
海のシーの反応は顕著だった。
どこか超然とした冷ややかな眼差しが崩れ、ギラギラとした目をこちらに向ける。
人間のような姿をした美しいものというより、この妖精は人外者としての雰囲気が強いようだ。
ぱかりと口を開けたら牙だらけというような、異形という感じの表情に少しだけ怖くなる。
そっと手を伸ばして結晶石を渡すと、海のシーはそれを目の前に両手で持ち上げてじっくりと回し見ていた。
「…………欲しい。森のもの。それも、飛び切りの深い森のものだわ。私はこれが欲しい」
ややあって、そう呟いた海のシーに、ガヴィがまた頷く。
「この人の子は、海の神殿に行きたいのです。その往復の為の祝福さえ与えれば、森の結晶石はあなたのものとなるでしょう」
どこか人間とはまた違う動きでこちらを見ると、海のシーは小さく微笑んだ。
「いいでしょう。人間、お前に海の神殿に行って戻ってくるだけの祝福を授けましょう。ただし、行けるのはお前一人。神殿に辿り着けても願いが叶うかどうかは、お前次第ですよ」
「ま、待ってくれ……」
慌てたウォルターが割り込んだが、森の結晶石を大事そうに持ったまま、海のシーはしゅわりと大気に溶けて消えてしまった。
「坊ちゃん、付いてゆくのは難しいと思いますよ。ネア様がどのような手段で海の涙を手に入れるかもありますし、海と長らく共存しなくてはならない坊ちゃんは、ここで海の神殿に行かない方がいい」
「………ガヴィ、こうなると分かっていてあのシーを引き止めなかったな?」
「ええ。頑強なネア様なら、お一人で大丈夫ですからね」
(…………昨日の狩りのことがあるからかなぁ)
ネアはそう考えて、少しだけ遠い目になる。
よく分からない生き物に一人で会うのはネアでも怖いが、昨日の残虐な狩りを見たガヴィは、ネアがきっと海の神殿でとんでもないことをしでかすだろうと推測して、大事な坊ちゃんを一緒に行かせないように画策したようだ。
暫く代理妖精と口論していたが勝てなかったのか、やや落ち込んだ風のウォルターがこちらに戻って来た。
「すまないが……」
「いえ、構いませんよ。元々、森の結晶石も一つしかありませんでしたし、私が行けるだけでも良いことです」
「海の精霊は、一般的には穏やかで情が深いと言われている。海を汚さない者には優しいそうだから、恐れる必要はないと思うが……」
「であれば、尚更問題ないでしょう。私とて大人です。自分で引き受けた仕事は、きちんと一人でも完遂しましょう」
「くれぐれも注意してくれ。それと、海に死者が出るまではもう一時間くらいかかる。それまで、朝食でも食べるか。………念の為に、ドリー殿にも相談してみよう」
桟橋への入り口で待っていてくれたドリーのところに歩いてゆくウォルターを見ながら、ネアは隣でひっそりと一礼したガヴィに微笑んで首を振った。
「海の神殿への縁は、あまり何度も訪れるものではありません。坊ちゃんがこのヴェルリアで暮らしてゆくのなら、いずれご自身の為に海の精霊と会うことが必要になることもあるでしょう。その時のための機会を残しておいて差し上げたいのです」
「そういう理由だったのですね。であればそれは、是非に取っておくべきものです。ウォルターさんにはお世話になりましたので、もし、そういう必要性がある時に森の記憶の結晶が入り用でしたら、私に言って下さいね」
そう微笑んだネアに、ガヴィは孫を褒められたお爺ちゃんのような目をした。
「では、その時の為にも、今日の朝食はヴェンツェル様お気に入りのトルテッリの店にしましょう。チーズを削ってかける、ジャガイモとチャイブの詰め物をしたトルテッリと、海の幸のスープが絶品ですよ」
「トルテッリ!」
すっかりご機嫌になってしまったネアだが、誰もいない厨房で目を覚ましたらしい魔物の呼び声が聞こえたので、慌てて一度そちらに戻ることになった。
寝てる内にお留守番にさせられたとたいそう荒ぶっていたので、真珠色の頭をたくさん撫でて抱き締めて鎮めてやると、無事に海の神殿に行けることになった報告をする。
ディノはあまり賛成しかねる雰囲気であったが、あれこれと言葉を尽くして説得し、お互いの着地点を見つけたので、無事に海の神殿に行く許可を取り付けることにも成功した。
戻ってくると、勝手に一人で帰ってしまったというヴェンツェルを慌てて追いかけることになり、残念ながらドリーは帰ってしまった後だったが、ネアはウォルター達と美味しく海辺のレストランで朝食を摂った。
一瞬だけこちらに入れて貰ったムグリスディノも、特製トルテッリをちまちま食べてご機嫌である。
時間がないというところでの無駄に優雅な時間ではあるが、こうして英気を養うことも必要なのだ。
深く美しい青い海の底に、美しい真っ白な神殿があるという。
そこには、世にも美しい海の精霊が住んでいるのだとか。
この夏の時期になると、他の精霊達は海の上に出てしまうので、精霊の女王が一人で神殿を守っているらしい。
そんなことをウォルターから教えて貰い、ネアはトルテッリをもぐもぐしながら海に入れる合図を待つことにした。
(今日中に、他の宝石も集められるかしら……)
明日はウィームの野外音楽会なのだと考えて、少しだけ心が焦れる。
こんな思いをさせられたのだから、今度再会したらアルテアの爪先を踏んでやろうとこっそり心に誓った。