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148. いつもの魔物がいなくなりました(本編)



その日ネアは、しとしとと雨の降る外を、窓から恨めし気に眺めていた。

今日はお客さんが来るのだが、門の外で会おうとしているので雨模様が憎いところだ。


「それにしても、イブリースさんが何の用事でしょう?とうとう、我々の作戦に気付いてしまったのでしょうか?」

「どうして、またここに来るんだろう……」


「何か厄介なことを言い出すようであれば、すぐに連絡を下さい」


そう言ってくれたのはヒルドで、明後日に行われるリーエンベルク前広場での演奏会に向けて、ウィームの代表者達と最終調整があるらしい。

街付きの騎士とリーエンベルクの騎士で連携も取るし、楽器などの搬入準備も最終確認に入る。



「お弁当でしょうか」

「お弁当なのかな」


(お弁当には、みんな必死だからなぁ……)


ネアが懸念しているのは、今回イブリースが“物申したいことがある”という、少し強めの理由でこちらを訪れるからだ。

通信で済ませろとヒルドに叱られていたのだが、何だかわからないが証拠を持ってゆくときかなかったそうだ。

リーエンベルクに入れるのも困ったものだと考える上のご意向により、ネア達は、門のすぐ外にある騎士達の休憩小屋で火薬の魔物に会うことになった。


訪問理由には何も思い当たる節がない風の受け答えをしているネアだが、実は一つだけ思い当たる節がある。

ブナの森のお弁当屋さんに買い出しに行くときに、大量買いするイブリースが朝の仕事で来られない時間の内に買いに行くことが多かったからだ。

そんな風にイブリースより早く買いに行った方が安全という情報はリーエンベルク内に出回っており、その情報源になってしまったネアは、お弁当が買えなかったりして逆恨みされたのだろうかと考えていた。


「お弁当の恨みでしょうかね。証拠というのは何でしょう」

「イブリースは、馬鹿なのかな……」


叱られてもまた来てしまう火薬の魔物に、ディノは朝からじっとりとした眼差しになってしまっている。

ヒルドがネアが会わずに済ませようと申し出てくれたのだが、その結果、正式にリーエンベルクに訪問申請を入れられてしまったので、ディノなりに驚いているらしい。


やがてお昼前の約束の時間になり、ネアとディノは待ち合わせの休憩小屋に向かった。

雨は止んだようで、重たい灰色の雲間から青空が見えるのが素敵な色合わせだ。

カチャリと休憩所を開けると、そこにはもうポニーテール姿の美少年が暗い目をして座っていた。


「怖っ!」

「随分待ったのだぞ!他に言うことがあるだろう!」

「いえ、お約束の時間の五分前ですからね」

「イブリース……」

「わ、我が君?!こ、これっぽっちの距離なのに、護衛をされているのですか?!」


驚きようを見ているに、イブリースは、リーエンベルクの前なのでネアは一人で来るとばかり思っていたようだ。


「私が、この子を他の魔物と二人っきりにすると思ったのかい?」

「も、申し訳ありません………」


下を向いて震えているイブリースの前には、一枚の水色の封筒がある。

ネアが首を傾げたことに気付いたのか、イブリースは、まだネア達が椅子に着く前にその封筒を恨みがましい目ですすっと押し出してきた。


「これは何なのでしょう。素早く片付けて、狐さんを起こしにゆく予定なのです」

「この恨みの手紙を送り付けたのはお前だろう。あの弁当ならば、先に並んで買った者のものだ。買い占めるなと責められる謂れはない!」

「…………む?私はそんな心の狭いことはしませんよ?イブリースさんが行くより早い時間を狙ってますしね」

「し、しかしこの封筒は、リーエンベルクの刻印ではないか!」

「本当に嫌がらせの手紙を送るなら、もっと足のつかない封筒で送りますね」


そう言ったネアは既に開封されている封筒を受け取り、イブリースが一度は握り潰してしまったに違いない便箋を広げる。


「“他者の領域を侵すべからず、王都から出てくるな”………この文章で、なぜお弁当問題だと判断したのでしょう」


文面を読んで呆れたネアは、その端的な文句が綴られた便箋を振ってみせた。

むかっとしたのか、椅子から立ち上がったイブリースが便箋を乱暴に掴む。


「こういう文章を好むところが……っ、」


びり、と嫌な音がした。

ネアは幾らでも手放すのはやぶさかではないのだが、手にした便箋をいきなり掴まれたので、そのまま引っ張り合うような感じになってしまって持っている指の横の部分が破けたのだ。

嫌がらせの手紙とはいえ他人様のものだ。

一瞬やってしまったと嫌な気分になりかけたところで、ネアはぺかりと暗い光に包まれた。


「…………え?」


ぎょっとしたその瞬間、思わず見返してしまったイブリースが、正面で驚愕の表情に目を瞠る。

慌てて手を離そうとした便箋はぼうっと黒い炎に包まれ、熱さも感じさせないまま一瞬で燃え尽きてしまった。


ぞっと、血の気がひくような思いで、その一秒にも満たない短い時間の中で色々と考える。

ほんの一歩下がればそこに、頼もしい魔物がいるのだ。


けれど、


「ネア!」


ディノの声がやけに遠く聞こえ、腕を引かれて抱き締められた。

ああ今回は間に合ったぞと安堵しかけて、大事な魔物がネアを自分の向こう側に追いやろうとしていることに気付いて恐ろしくなる。



(こういう体の入れ替えは知っている)


物語で。

過去に庇われたときや、当然の推論としても。

でもそれは、いつだってあまりいい結果を残さない、誰かを損なわれる瞬間の動作だった筈だ。



「ディノっ!」


咄嗟にネアは抵抗したが、抱き締められた体が入れ替わる。

そんなのは絶対に嫌だと踏ん張ったのに、敵わずにくるりと二人の位置が入れ替わってしまった。



黒い大きな光が膨れ上がり、あまりの暗さに目が眩んだ。

体に回されていたディノの手が見当たらなくて、大事な魔物の声が聞こえないのはなぜだろう。


わあっと、泣き叫んで暴れたくなるような、胸が潰れそうなその瞬間。

ばしゅんと光が消えると、そこにはもう、ネアを抱き締めていた真珠色の魔物はいなかった。



「……………ディ、ディノ……?」


息が止まりそうな恐怖の中で、また身体中の血が下がるような感覚にくらりと目眩がする。

そこは先程まで居た控え室のままであったし、壁も床も損傷はない。

それなのに、囁くような頼りない声で呼んだ魔物だけが、どこにも見えないのだ。


「ディノ?!」


ほとんど悲鳴のような声を上げた瞬間、ぽすんと、足元に何かが転がり落ちた。



「ほわ?!ディノ?!」



がばっとしゃがみ込み、半泣きのネアが拾い上げたのは、むくむくとした真珠色の生き物だった。

ムグリスに似ていて、頭の横にちびこい三つ編みがついている。

そのちびこい三つ編みには、ネアの大事な魔物のお気に入りのリボンが糸くずのような細さになって結ばれていた。


「キュ?!」


その生き物も、自分の姿を見て仰天している。

短い自分の両手と自分を抱き上げたネアを、何度も何度も往復で見返していた。



「ディノですか?ディノに似せて入れ替えられたムグリスではありませんよね?ディノなら頷いて下さい!!」


鷲掴みにした人間に必死に問いかけられ、その白ムグリスはこくこくと頷いた。


「………ディノ」


大きく息を吐いたネアは、泣き出しそうになってしまう。

姿は随分と変わってしまったが、怪我をしてしまったり、死んでしまったりはしていない。

記憶も失ったりしていないようだ。


そっと手のひらに乗せて顔を寄せると、つぶら過ぎてよく見えないが、その小さな瞳は確かに澄明な水紺色だった。

ふるふると体を震わせ、涙目になっている。


「大丈夫ですよ、ディノ。ディノが怪我もなくここにいてくれるだけで、最悪ではないのです」

「キュ………」

「どんな姿でも、ディノは私の大事な魔物に変わりありません」

「キュ!」



かたりと、倒れた椅子が鳴った。



「わ、我が君………」


ネアの反対側で、尻餅を着いたまま、呆然とそう呟いたのはイブリースだ。

先程の騒ぎで驚いて後ろに倒れたのだろうが、完全に頭が真っ白になってしまっているようなので、ネアは慌てて思考を巡らせた。


「イブリースさん、これは恐らくあなたを狙った罠だったと思うのです。すぐに王都の方に………ドリーさんか、ヴェンツェル王子の代理妖精のどなたかに連絡して、事情を説明して下さい!」

「わ、わかった!」

「それと、あなたが無事なことは知られない方がいいかもしれません。ディノがこうなってしまったことも合わせて、絶対に、他の王子派の方に露見しませんよう!内紛の可能性もありますからね」

「そうだな。………ドリーに言おう」


ばたばたとポケットを探り、イブリースは通信端末を取り出している。

その隙にネアは、慌てて部屋の緊急用の通信術式からノアを呼び出そうとした。


(…………いない!)


呼び出しに応じないので、すぐさまヒルドに切り替える。

なぜだかわからないのだが、時間がないという気がしてならないのだ。

手のひらに乗せていたムグリスディノには、肩の上に乗っていて貰った。

幸いにも、ヒルドはすぐに応答してくれた。


「ネア様?」

「ヒルドさん、イブリースさんを狙ったと思われる罠にディノがかかってしまいました。空けていただいた見回り用の騎士さんの控えのお部屋にいますので、もし、動けるようであれば、こちらに来て貰えますでしょうか?」

「……っ!わかりました。すぐに」


ヒルドは、あれこれ聞いて時間を無駄にすることはなかった。

短い通信が切れると、ネアはふと理由もない焦燥感に駆られて息を詰める。

この小屋の扉を開けて外に飛び出したいのだが、万が一に有害なものが漂っていたりして、その害をリーエンベルクにまで持ち込みたくはない。

ヒルドであれば、いきなり扉を開けたりはせずに、慎重に調べてから来てくれるだろう。


そう考えても心がざわつくので、肩の上にいたディノを掴むと、おもむろに胸元に突っ込んだ。


「キュ?!」

「……絶対に離れないで下さいね」

「キュ…………」


唐突にご主人様の襟元に押し込まれたムグリスは震えているが、サマーニットのような伸縮性のある生地なので、手足が短いムグリス体型の生き物を肩に乗せているより、安定性は高い。

ネアはそのまま今度は首飾りの金庫から転移門を取り出すと、きつく握り締める。

閉鎖された空間からも飛び出せる、ノア特製の特別仕様のものだ。


「キュ………?」


あまりにも険しい顔をしているのでムグリスディノが首を傾げているが、ネアはその時なぜか、このふくふくとした毛玉の生き物になってしまったディノを守らなければと、酷く神経質になっていたのだ。


ざわざわと、身の毛がよだつような、背筋が冷えるような、そんな感覚がある。



(ブーツは履いてる。指輪もあるし、………ケープ)


あのみんなからの贈り物である最強ケープは、衣装部屋ではなく、灰色に擬態させて貰った状態で首飾りの金庫の中にしまってある。

死者の国に落ちた時、持っていればと何度も後悔したのでそのような保管方法にしたのだ。

首元の金庫があまり目立たないように、ネアは肌寒かったらと念の為に持ってきていた薄手のストールを落した床の上から取り上げると、首に巻いて首飾りを隠した。

ストールの端っこを頭からかぶって、ムグリスディノがキュウキュウと抗議の声を上げる。



部屋の向こう側から誰かと必死に話す、イブリースの声が聞こえる。

ドリーが応じられたのだろうかとひとまず安堵して、胸元で小さく鳴いたムグリスディノを撫でた。


「ヒルドさんが来るまで、警戒させて下さい。あの手紙を広げてしまった以上、まだ警戒を怠りたくないのです。何か変な感じはしますか?」


そう尋ねられたムグリスディノは、じわっと涙目になると、ふるふると首を振った。

それはまるで、もう大丈夫だと言っているのではなく、もっと困ったことを示唆しているようだ。


「………もしかして、あまり魔術が使えないのですか?」

「キュ………」

「………絶対に離れないで下さいね」


そう表情を険しくした時、コツコツと部屋の扉をノックしてから声がかかった。

くぐもって聞こえるが、間違いなくヒルドの声だ。


「ヒルドさん!」


やっと心強い味方が来たとほっとしつつ、ネアはそれでも慎重になる。



「すぐさま助けて欲しいのですが、この扉を開けてもみなさんに害がないでしょうか?」

「大丈夫だよ、ネア」

「ゼノ!」


ガチャリと扉を開いたのは、ヒルドとゼノーシュ、そして二名の騎士だった。

さすが王宮勤めをしていた者だけあり、ヒルドは万全を期したメンバーで来てくれたのだ。

心強い仲間達に、ネアはほうっと肩の力を抜いて座り込みたくなる。

もう大丈夫だろうか。


「良かったです。ディノは、魔術が使えなくなってしまったみたいでしたので」

「…………もしかして、それがディノ様ですか?」

「はい。なくしたり、はぐれたり、連れ去られるといけないのでここに」


ネアの胸元に突っ込まれたムグリスを見て、扉を開けたヒルドとゼノーシュは瞠目する。

慌てて駆け寄ろうとしたゼノーシュが、はっとしたように足元を見た。


「いけない!ネア、手を伸ばして!」

「え………?」


多分ネアは、そう言われてすぐさま手を伸ばしたと思う。

しかし、ムグリスディノを落とさないようにしたので、少しだけ動きが鈍かったのも否めない。

すぐにばしんと見えない壁に遮られて弾かれた。


ざあっと、足元に走ったのは黒く光る魔術陣だ。

そこから溢れる光に視界を遮られて、ネアは必死に見えない壁を叩く。

反対側で、同じように壁を叩いたヒルドの悔しそうな目が悲しかった。


「ネア!かけてあったお守りを発動するから、解くときには解除って言ってね!」

「ゼノ?!」

「すぐに救出に行きますから…」


眩しい光に巻き込まれてゆく中、ゼノーシュとヒルドの声が切れ切れに聞こえる。

でも多分、それはほんの一瞬のことだったのだろう。




「……っ?!」



がくんと体が落ちるような感じではなく、周囲の景色がくるりと書き換えられてしまったような感じがした。


膝が崩れてへたりと座り込んだ床は、ざらついた冷たい石の床。

そこに腰を落して、ネアは呆然と周囲を見回す。


幸運なことに、ネアが床に座り込んだ瞬間の振動で体が沈んだのか、ムグリスディノは服地の奥の方に入り込んでいる。

動いてしまわないよう、そっと上から押さえて宥めた。


(ここは、…………どこだろう)


そこには、沢山の気配があった。

ざわざわと歓談していた人々の、どこか意地悪そうな悪意に満ちた視線がネアに集中する。

魔術を焚き上げたのか、煙のようなものが徐々に晴れて視界が明瞭になってゆけば、部屋は薄暗く、黒いシャンデリアには申し訳程度の蝋燭の炎が揺れていた。


「ほぉ、これが火薬の魔物なのか?」


そう意地悪く呟いたのは、見事な金の細工の椅子に座った誰かだ。

硬質な銀髪に、深く青い瞳をしている。

美しい男性だが、どこか冷酷な目をしていた。

ネアはあまりのことに呆然としたまま、この見世物のような状況に甘んじていた。

何よりも困惑したのは、視線の先にいるのは、多分よく知っている魔物な気がするからだ。



「いや………」


その隣の椅子に座っていたのは、やはり、ネアもよく知っている魔物だった。

ほんの一瞬赤紫の瞳を瞠ってから、美しい口元に残忍な微笑みを浮かべる。

髪色や造作などを擬態していても、その瞳の色と表情の作り方で、ネアには彼だとわかってしまうのだ。


「イブリースの奴も、それなりに図々しかったようだな。使用人に開けさせたか。そんな頭があったのが意外だな」

「…………ふむ。あちらにこんな女中や侍女はいただろうかな。リーエンベルクの歌乞いは、確か灰色の髪の少女だった筈だが」


銀髪の男にそう言われて、ネアは、視界の端に入る自分の髪色が鮮やかな赤毛になっていることに気付いた。

着ていた服も、明るい空色のドレスになっている。

アルテアにすら認識させないのであれば、顔の造作も違うような気がする。


そこで思い出したのは、あのゼノーシュの最後の言葉だ。


(もしかして、これがゼノの言っていたものかしら。お守りをかけてくれたって、………擬態だったんだ)


大混乱の思考を繋ぎ合せて何とか推理を捻り出せば、黄金の椅子の男は、火薬の魔物の名称だけでなく、リーエンベルクの歌乞いとはっきりと口にしたことが気になった。

つまりこれは、火薬の魔物及び、ネアを標的にした罠だったらしい。

恐らくゼノーシュは、ネアが標的にされる可能性を踏まえて咄嗟に擬態させてくれたのだ。

でもいつの間にと思えば、数日前に、嫌な予感がすると話したことを思い出し、ネアはその運命の采配に感謝する。



「おい、まさかそっちを先に狙ったのか?」

「そなたが、歌乞いは守りが厚いので慎重に殺す必要があると言っていたからな。どちらからでも構わないが、一応は火薬の魔物から狙った筈なのだが、どうやらあの罠を仕込んだ手紙を持ったまま、ウィームに向かったようだと報告を受けている」

「おいおい、欲をかくと仕損じるぞ。リーエンベルクは後にしろよ」

「かもしれんが。…………獣の姿もないな。であればやはり、二段階目の罠の発動までに時間が開き過ぎているようだ。残りのものは、少し調整せねばなるまい」


そう頷いた男に、その傍に控えていた青年が首を傾げる。

鮮やかな赤い髪をしており、瞳の青さが際立った華やかな容貌をしている。

黄金の椅子の男が月であれば、こちらの従者の青年が太陽のような組み合わせだ。


「案外、火薬の魔物は予定通りに獣になり、騒ぎを聞き付けた使用人が入り込んだところで発動してしまったのではありませんか?」

「…………そうか。それもありうるな。術式自体が不完全という可能性は低い」

「さて、予想外の獲物ですがどうしますかね。安易に殺しても構いませんが、情報になるものがあれば、如何様にしても聞き出せますよ。なにしろ、火というものは人間の唇を緩めるにはとても適している」

「また内臓を炙って暇潰しか?あれは匂いが酷いからな」

「女ともなれば、他に遊びようもありますよ」


そう笑った青年の向こう側で、様々な人間達がくすくすと笑い合う。

見事な扇を持ったご婦人に、立派な靴を履いた太鼓腹の男性。

司祭の服に、貴族の服。

そして、部屋の壁沿いにずらりと並んだのは兵士達と魔術師達だろうか。


その中の一人の服装に目を留め、ネアは背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。


(…………この人達は、ヴェルクレアの人間だわ)


これが他国の企みであれば、まだどれだけ良かっただろう。

しかし、司祭の祭服に刺繍されたのはガーウィンの教会のものであるし、その他の数人の貴族らしき男女の装いや持ち物にも、幾つかヴェルリアの特徴が見て取れる。

であれば、この手の中に握り締めた転移門を使うにせよ、ただやみくもにリーエンベルクに戻る訳にはいかない。


(罠は、まだあるような発言をしていた)


焦らせて他の罠を発動させる訳にもいかないし、彼等がイブリースが罠を発動させたようだと考えている以上、現状誰だかわからない赤毛の女中を、リーエンベルクに転移で戻れるような立場の人間だと理解させる訳にもいかない。

転移先を捕捉されるかどうかはわからないが、ここにはアルテアもいるのだ。

緊急時には迂回した方がいい。

そう教えてくれたのは、何とも頼もしいウィームの書架妖精だ。



「アージュ、歌乞いの方は、お前が連れ出すことは出来ないのか?」


誰かが、そんなことを言い出す。

アージュと呼ばれた赤紫の瞳の男は、唇の片端を持ち上げて小さく笑った。


「ま、あの人間は迂闊で欲深いから、簡単だろうがな。だが、俺が二度と入り込めなくなるのは困る。これでも、入り込むのはそれなりに苦労してるからな」

「確かに、あのリーエンベルクに潜入するのは難しい。アージュの立場の目を失いたくはないですね」


赤い髪の青年がそう同意し、黄金の椅子の男の方を見る。

胸元でもぞもぞと動く気配があったので、ネアは動悸のする胸を押さえるようにして、またそっと片手で動きを押さえた。


「雪竜の力が弱まる夏こそ好機。この一週間で片を付けたい。あまり時間をかけたくはないが、リーエンベルクの方はアージュに任せよう。まずは第一の力を削ぎ、続いて第二だ。第一のみでは、第二が介入しかねない。あくまでも、どちらからも力を削がねばならないからな」

「アージュ、任せても大丈夫ですか?」

「ああ。貶めたいだけの理由があるんだ。安心しろ」



「しかし、火竜は夏の気候を得手とするのではないのか?」


今度声を上げたのは、司祭服の男だった。


「だから、火薬から潰すんですよ。あの火竜は恐ろしい禍子ですが、とはいえ一頭しかいません。何か所をも守れるものではなく、火薬の全てに加護を与えられる火薬の魔物の方が煩わしい」

「最悪、あの王子までを廃する必要もないだろう。預かった魔物を失わせればいいのだ」

「ウィームは問題ないのか?元婚約者とは言え、歌乞い一人で動きを封じられるだろうか」

「貧弱な歌乞いとは言え、今代の国の顔。預かった手前、損なわせれば責任問題となろう」

「ガレンはどうする?」

「ガレンなど。適当な討伐依頼で手を塞いでおけ」

「じゃあ、私の名前で適当な討伐依頼でも出しておきますわ」


幾重にも重なり合う声を聞きながら、少しでも多く持ち帰るべきその声を、ネアは全て潰してしまいたくなった。


(これは、人間の膿だ)


悪辣で狡猾な、人間の欲望の生み出す醜い声。

国家の中枢であれば決して珍しいものではないだろうし、普段であればふんと聞き流せるそれを、胸元に隠した大事な魔物に聞かせたくなかった。

こんなことに巻き込まれて、この大事な生き物が失望してしまうのが嫌だった。


(……………だから、これ以上ここにいる訳にはいかないわ)


そう判断して。

手の中の転移門をぐっと握り締めると、行き先について思案した。

転移を行う時には、明確に思い描けるどこかでなければならない。

現在ディノの力があてにならない以上、あまり無謀な場所を経由地にする訳にもいかなかった。


(リーエンベルクに足跡が付かないところ。その上で、すぐに身の安全を確保出来るところ)


国内の問題であれば、不用意に国外に飛び火させてもいけない。

信頼に足る仲間の近くに足場を繋げる危険は冒せないし、そうではない者達には不確定要因が多過ぎる。

より守りが固く、ある程度第三者的な機関でも構わない。


そう考えた時に、ネアはやっと適当な場所を一つだけ思いついた。


この身の履歴を固定させない第三者的な場所であり、ある程度の安全を確保出来、アルテアを煙に巻くことも出来る場所が一つだけある。

そして幸いにも、ネアはその場所を思い描くことが出来るのだ。

店内に飾られた写真のような精緻な絵で、各支店の店構えを何度も見たことがある。



「おい?!」


誰かが、遠くで叫んだ。

ぶわっと足元に描き出された魔術陣に、暴れるどころか泣き喚きもしなかった使用人を注視していなかった者達がざわめく。

驚いたようにこちらを見た赤い髪の青年とその隣の男性、そして、赤紫の瞳の魔物を少しだけ見た。


こちらを見てあの魔物は何かを思うだろうかと思えば、その瞳は静かなまま。

だからネアも、すぐに目を逸らしてしまった。




「むぐっ?!」


次の瞬間、お尻から落ちたのは高級感漂う、紳士服店の前だった。

黒と金を基調にした重厚で上品な外観で、ドアボーイをしている青年が驚いたように一歩下がる。

着地が下手過ぎて暫くその場に転がっていたかったが、ネアは地面に手をついてよろよろと起き上がる。

店舗前の階段を黙々と上り、慄くドアボーイを後ずさらせつつ強引に店内に押し入った。

お尻を強打したのは最悪だが、ムグリスな魔物を潰さなくて良かったと思おう。


「お、お客様、当店は…」

「こちらが支店なのは承知しておりますが、アイザックさんに連絡が取れませんでしょうか?ウィームのネアと伝えればわかるかと思います。緊急事態で追手がかかるかもしれませんので、ご依頼を済ませるまで匿っていただくことも注文の一つに加えて下さい」

「あ、アイザック様に……?」


店内はひんやりとした空気が流れている。

それどころではなかったので風景は曖昧だが、外はウィームとは違うむっとするような気温だったのでその涼しさが余計に感じられた。

動揺したドアボーイが視線を巡らせると、すぐさま上品な老紳士が歩み寄り、こちらへどうぞとネアを奥の部屋に案内してくれる。


「暫く、お待ちいただけますか?」

「上等な転移門を使いましたが、追手がかかるかもしれません」

「その旨も承知いたしました。当商会では、お客様の情報は外部に漏らしません。ご安心下さい」


案内してくれた老紳士が部屋から出るとすぐに、ネアは胸元に押し込まれたまま暴れていたムグリスディノを引っ張り出してやる。


「キュ!」


ぷんぷんで引き摺り出されたムグリスディノを見た途端、不快指数がすとんと下がった。

元気そうなだけで、心から安堵する。


「まぁ、怒っているのですね?でも危なかったので、出す訳にはいかなかったんですよ」

「キュ!キュ!」

「荒ぶっても、そのおまんじゅう毛皮で何が出来るでしょう?あの場においては、私だけだと思わせる方が安全だったのです。さ、皆さんにカードで居場所を知らせるので、大人しくしていて下さいね」

「キュ!」

「頭は出していてもいいですが、念の為にまだこの中に入っていて下さい。何かあったときに、落としたりしてはぐれるのが一番怖いのです」

「…………キュ」

「なぜに恥じらうのだ……」


むくむくした真珠色の毛皮は堪らない愛くるしさだったが、これがディノだと思うと胸の痛みの方が勝ってしまう。

この姿では嫌だとかそういうことではなく、こんな無防備な様子ではどんな危険があるのかわからないのが嫌だった。

こんなムグリス状態では、踏まれただけでも大きな怪我をしてしまいそうではないか。

今は他のことを優先するにせよ、早急にこのムグリスディノの安全面に関しても手を打とう。



念の為にまた転移門を手の中にひそませつつ、ネアは素早くカードを取り出すと、手元の狭い範囲でエーダリア用のものを開いた。

案の定、そこには様々な者達からのメッセージが溢れている。

その言葉の暖かさに涙を滲ませつつ、ネアは返信をするのではなく現状を伝えることを優先した。

いつ、先程の老紳士が帰ってくるのかわからない。


“ネアです。取り急ぎ、報告をざっと書きますね。落下先から、ヴェルリアにあるアクス商会の支店まで転移で逃げてきました。敵の目的は、第一王子様の力を削ぐこと。火薬の魔物さんと、エーダリア様の動きを鈍らせる私が標的です。今回、アルテアさんも敵のようですのでご注意を。敵はこの国の方達、親玉は銀髪に青い目の整ったお顔の男性で、参謀っぽい方は、赤い髪に濃い青の瞳の恐らくは竜である青年。他にもガーウィンの教会の司祭や、貴族らしい方達がたくさんいます。罠は他にもある模様ですので、ご注意下さい”


一気にそこまで書き、ネアはふうっと息を吐いた。

胸元から顔を出したムグリスディノは、そのメッセージを読んでネアの作戦を図っているようだ。


“すぐに迎えに行くよ!”


ノアの文字を見て、ネアは安堵した。

アルテアが相手であれば、ノアにもみんなと一緒にいて欲しい。

起きてくれて良かった。


“せっかく擬態して貰ったのに追尾されると厄介ですので、ひとまず、あえてそちらには帰りませんでした。なので、ちょっと待って下さい!まずはアクス商会で、足取りを消せるか見ていただきますね”

“今のところ、追手はいないのだな?”

“はい。それと、判断は皆さんにお任せしますが、折角外に出ているので、このまま動けるようであれば、謎の赤髪の女諜報員として動くのもやぶさかではありません。ただし、ムグリスディノが魔術を使えないようですので、エーダリア様達を守って貰いたいノア以外の人材で、敵の想定外のところで動ける助っ人がいると有難いです”


「キュ!」


そこで抗議の声を上げた毛玉生物に、ネアは困ったように微笑みかけてやった。


「その姿を元に戻す必要もあるので、どちらにせよこのままではいられないのです。……隠れていて下さい」


足音が近付き、コツコツと、扉を叩く音があったので、ネアは穏やかな声で応じた。

またあとでと書き殴ったカードは素早く仕舞い、ムグリスディノをもう一度服の中に押し込む。

不安に動悸がしたが、アクス商会を使うと決めたのだから、ここで動揺しても仕方ない。

どんと腹を据えて、しっかり交渉しよう。



「ご無沙汰しております、ネア様。その節は、質のいい水棲馬を有難うございました」

「………アイザックさん!」

「おや、これまた上等な擬態ですね」

「………む。このままでした。………ひとまず、この姿で失礼させていただきますね」


扉を開けて入ってきたのは、なんとアイザックだ。

ほっとしたネアは、くしゃりとした微笑みを浮かべかけたが、彼がアルテアの友人だと言うことを念頭に置いて交渉するのを忘れないようにと自分に言い聞かせた。



一緒に入って来た男性は、目元に傷のある銀髪の男性で、粗削りだがいい温度のある風貌にはどこか、グラストやドリーに似た頼もしさを覚える。

美しい男性という表現は出来ないが、とても魅力的な男性なのは間違いない。



「ローンだ。アクスの、ヴェルリア支部を任されている」

「ほわ……………」



そう挨拶してくれた男性には、何よりもまず、立派な銀色の尻尾があった。






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