144. 魔物が家出しました(本編)
「うちの魔物が家出しました」
ある日ネアがそう言うと、エーダリアは驚愕の見本のようにグラスを取り落とした。
床に落ちる前にヒルドが受け止めたので割れはしなかったが、そんなヒルドも驚きのあまり羽が少し開いている。
「ま、待て、…………まさか、記憶がまたなくなったりしたのだろうか?」
「いえ、残念ながら記憶もある状態で自分の意思で出てゆきました」
「おい、お前今度は何をしたんだ?」
かなり嫌そうにそう聞いたのは、ネアのご要望の葡萄ゼリーを持ってきてくれた使い魔だ。
ネアは遠い目をして、最後の瞬間のことを思い起こした。
「あれは、お庭でココグリスの背中を撫でた時のことでした」
「ココグリス………」
ココグリスとは、偽コグリスと言われるお餅毛玉な木の皮の妖精だ。
コグリスに似ているが尻尾がなく、ニャーンとではなくミーンミーンと鳴く。
そんな妖精がお庭にいたので、可愛い奴めと背中を撫でていたら、背後に暗い顔で立っていたのである。
「おい、とうとう木の皮にも嫉妬し始めたのか」
「その時に予兆はあったのでしょう。しかしその後も、私は読書に夢中だったのです」
「何の本をお読みになられていたのですか?」
「愚かな塩の魔物が、心の綺麗なお姫様を残虐に捨て、その結果あらゆることが上手くいかなくなり、最後に乞食となるお話です」
「え、ちょっと待って!何でそんな話読んでるの?!」
「犠牲者のどなたかが憎しみを込めて書いたのでしょう。転がり落ちるように破滅してゆく過程が、とても面白いのです」
「ネア、いい笑顔で言わないで!」
「そ、その本を読んでたら家出したのか………?」
「そうなんです、エーダリア様。突然、その本とホールケーキの話をされまして」
「ホールケーキ?」
そこでネアは、魔物の例え話をそのまま再現した。
『ネアの持ってるケーキがあったとして』
『………………ケーキ』
因みにこのときまだネアは話半分にしか聞いていない。
塩の魔物が足を滑らせて下水管に落ちる場面が秀逸だったのだ。
「おい、お前は魔物なのに下水管に落ちるのか?」
「落ちないよ!誰がそんな無茶な物語書いたの?!」
『その本が面白いと、そこから一欠片取られてしまうんだ』
『……………ケーキ』
『またココグリスが出てきたら、半分くらいなくなって…………』
『ココグリスは愛くるしいですよね!』
『……………私の分は残るのかな?』
しゅんとした魔物に、ネアはまだ本に夢中であった。
塩の魔物が新しい危機を迎えていたところだ。
「え、今度は僕どうなったの?」
「食あたりで、お腹を壊して倒れました」
「変なもの食うなよ」
「アルテア、本の中の話で実話じゃないからね…………」
「しかもその後で、雷に打たれました」
「打たれないよ!向こうの方が階位が低いんだよ?」
「というかお前は、ココグリスのところだけ普通に反応したのだな………」
「それで、家出を…………?」
「私は、究極の質問に間違えてしまったのでしょうか?」
『ネア、君は私のことと、その本とどちらが好きなんだい?』
『元々、私自身の時間の区分は譲れないと話していた筈なのです…………』
『ネア…………』
ふらりと立ち去った魔物は、この後で家出するのだが、ネアはこのときはまだ気付いていなかった。
「しかし、己を削って慈しんでも、いつかはあなたの所為だからと破綻してしまいます」
「確かに私も術式本を取り上げられたら、己を律することが出来るだろうか」
「エーダリア様…………」
「いや、さらっと綺麗に纏めたが、お前はそもそもどれだけその本を読んでたんだ?」
「え、僕の本そんな長い話なの?」
「塩の魔物が破滅するお話は、全十五巻でした」
「………わーお、僕って十五巻もかけて破滅するんだ」
「お姫様との馴れ初めは一巻だけで、残り十四冊は抱腹絶倒の転落話です」
「あなたは、その著者に何をしたんでしょうね」
「ヒルド、これはもう僕が被害者だよね?!」
「因みに、笑いあり涙ありの冒険活劇的な有名な児童文学ですので、お子さん達の間で流行の物語ですよ?」
「その子供達が大きくなったら、僕のこれから先の評価ってどうなるんだろう………」
「どうやって、その手法で魔物の転落話を書いたのだろうな………」
「とても才能のある作家さんですよ。面白くて、昨晩から夢中で読んでます!」
「そうか、お前は昨晩からシルハーンを放置してたんだな?」
「あら、平素であれば、うちの魔物は放置プレイも大好きなのですよ?」
ところが今回に限って、魔物は書き置きを残して家出してしまったのだ。
「これが、そのお手紙です」
ネアがその書き置きを提出すると、アルテアとノアが顔を見合わせた。
ヒルドは小さく溜息を吐いているし、エーダリアは顔が引き攣っている。
「…………家出先に行く為の地図がついてるぞ?」
「どうしたら帰りたくなるか、具体的に書いてあるねぇ」
「というかこれは、人間の力で行ける場所なのか?」
「恐らくですが、ディノ様の城なのでは?」
それこそが、ネアが身内の恥を忍んでみんなに魔物の家出を相談した理由だった。
アルテアの来訪で外に出ようとしたノアに留まって貰ったのは、ノアならディノのお城を知っているかなと考えてである。
「はい。私一人の力では明らかに辿り着けないところなので、知恵を貸していただこうと思いまして」
「その前にお前、反省はしてるんだろうな?」
「む…………?」
「してないのかよ」
「エーダリア様、今回私に反省するべき点はありますか?」
「いや、ないのではないか?」
「ネア様、今回の事例ではエーダリア様のご意見は参考になりませんよ?」
「まぁ、………そうなると、徹夜で読書して魔物を蔑ろにしてはならないということでしょうか?」
「その前にまず、ネア様のお身体のことを考えていただき、徹夜は控えて下さいね」
「はい。ごめんなさい……」
しゅんとしたネアに、ヒルドは徹夜明けの体に優しい疲労感を消す薬草茶を頼んでくれた。
頬に手を当てて瞳を覗き込んでから、眼精疲労を癒す魔術もかけてくれる。
「で、どうするんだ?迎えに行くのか?」
「はい、勿論です。寂しい思いをさせてしまいましたし、ディノのお城を見てみたいです!」
「お前、本音は後半だろ………」
「なので、休日とはいえ遠方かもしれないので、報告も兼ねてエーダリア様の許可をいただき、ノアかアルテアさんに連れて行って貰おうと思いまして」
そうぐっと拳を握ったネアに、また魔物達は顔を見合わせた。
「うーん、無理じゃないかな」
「まぁ、無理だろうな」
「なぬ?!な、何故ですか?!」
思いがけない返答に、ネアは愕然とした。
椅子から立ち上がってふるふるしていると、呆れ顔で溜息を吐いたアルテアが教えてくれる。
「魔物の城は、その魔物の排他領域だ。手放した土地ならともかく、そうではない城にその城の主人を伴わずに入るのは至難の技だぞ?」
「ほわ……………」
「おまけにネアは、可動域が低いからちょっと危ないかな」
「むぐ…………。では、私は一体どうすれば……」
縋るように見つめた先で、ノアは困り顔で首を傾げた。
「僕も昔なら入り込めたけど、………どうにかなりそうなのは、ウィリアムくらいかな」
「いや、あれが第二席だとしても万象との差は大き過ぎる。さすがに城は無理だな」
「悪さに長けたアルテアさんでも無理ですか?」
「入り込めたとしても、お前は死ぬぞ」
「………では、入り込んでディノを説得…」
「悪いが俺は、お前達の痴話喧嘩の為に命を削る気はない」
「つまり、命を削るぐらいに難しいのだな………」
「…………そこまでしていただくのはさすがに。諦めるしかありませんね」
「っていうか、お前カードで呼びかけろよ」
「先んじて、お返事はしませんという可愛く不貞腐れたメッセージをいただきました」
「………可愛いか?」
「寂しいですと書けば、ずるいとは返ってくる始末です」
「ぐだぐだだろうが」
「しかし、家出中ですし迎えに行く手段が………」
眉を下げたネアがぽすんと椅子に着地し、周囲は何とも言えない空気になる。
地図はあるのだが、入れないのであれば仕方ない。
「と言うかこれはもう、どうせ入れないけれどな!という、ディノなりの最後の嫌がらせだったのかも…」
「そうじゃないと思うから、早まった結論を出すのはやめようか!」
「どうせ一晩もすれば戻ってくるだろ。俺は用事があるから帰るぞ」
「むぐぅ」
「今週の慈善事業は、葡萄ゼリーでおしまいだ」
「おかしいですね。勝手に都合よく変換されていますが、葡萄ゼリーはアルテアさんが使い魔でいる為の条件だったような」
そう言ってやると、使い魔は微妙な顔をして逃げて行ってしまった。
ひとまず、エーダリアとヒルドには仕事があるし、暇だというノアがどうにか手はないかどうか調べてくれる間、ネアは自室待機となる。
しょんぼりしたネアは、塩の魔物の転落物語の十四巻を抱えて、斜めがけの鞄に荷物を詰めてブーツを履いた。
おとぎ話とかだと、こうしてきちんと取り戻しに動いた主人公だけが成果を得られるのだ。
普段であれば放置することで済ませる堕落した人間なのだが、塩の魔物の冒険活劇を読み通した後なので、やる気に満ちていたりもする。
そして幸いにも、本日と明日は休日なのだった。
(ウィームの南西部にあるブナの森の中にある、小さなお城が接点としては近くて、そこからは影絵の中を通る……)
ふむふむと頷き、まずはその土地へのルートを考えた。
ウィーム中央駅から列車に乗れば、公共の転移門のある街に着く。
そこから転移門を使い、残りは手持ちの転移門で距離を詰めよう。
魔物が家出中という状況なので、ネアは念の為に節約モードである。
ネアは、ちょっとお外に出て来ますという書き置きをカードに残し、すたすたとリーエンベルクを出た。
これは、家出中とは言え監視はしているかもしれない魔物の為に、迎えに行こうと努力はしたのだとアピールする為の小さな冒険である。
最寄りまで行ってから駄目だった風の言動をし、夕方までにお家に帰る算段だ。
(ノアに一緒に来てもらうと、家出の理由的には嫌がりそうだから)
もそもそと通りを歩きつつ、そんな理由をあげつらう。
何となく冒険気分なのでリーエンベルクから脱走している訳では決してない。
「ネア?!」
しかし、ネアはウィーム中央駅でノアに捕獲されてしまった。
いつもの黒いコート姿で、灰色の髪に擬態しているが美しい塩の魔物の容貌のままだ。
「捕獲されましたが、私とていい大人。ブナの森の駅まで一人で行けるのです」
駅で路線図を調べてみると、なんと今年の春からブナの森駅までの経路が開通しているのがわかった。
それまでは遠回りしていた路線を、ブナの森の一部を突っ切るように線路を敷いたのだ。
何とも嬉しい驚きに、ネアは俄然やる気になっている。
「その駅って、ここから一時間もかかるよ。それに、何で一人で出かけちゃうかな?!」
「何となく、魔物は私が一人で頑張った方が喜ぶ気がしまして」
「うーん、………だったらその十四巻は置いて行った方がいいんじゃない?」
「やっと、塩の魔物を破滅に追い込んでいた黒幕が出て来たところなのです」
「わーお。黒幕がいるんだ…………」
「お姫様の恋人ですよ。実はお姫様は、その恋人のことが好きなのに上手くいかなくて、当てつけで付き合い始めた塩の魔物に酷い目に遭わされたのです」
「ねぇ、そのお姫様って本当に心の綺麗なお姫様かな?」
「確かにその設定は怪しいですね………」
ネアはノアと少しだけ話し、ひとまずブナの森の駅まで一人で行く了解を貰った。
ノアは魔物なので大雑把なのか、案外気付かれないように擬態でもして、こっそりついてくる気なのかもしれない。
それでも一人移動は一人移動なので、ネアは切符と飲み物を買い、二等階級の座席を押さえた。
個室やボックス席ではなく、二人がけの椅子が進行方向に並んでいて、隣の席は自由に使える車両だ。
隣や向かいに相席がない分、ある程度のプライベート感は保てる。
(石炭の結晶を燃やして動く、魔術仕掛けの列車なんだ)
魔術仕掛けの列車が無い土地もあるので、発車前にそんな説明がある。
石炭が結晶になるとすると、そもそも石炭とは何なのだろうという疑問を感じないでもないが、細かい疑問はさて置き列車の旅を楽しむことにした。
「ディノ、取り敢えず列車で最寄りの駅まで行きますからね」
そう指輪に囁き、発車のベルに足をぱたぱたさせる。
やがてゴトゴトと動き始めた列車に、ネアは顔を輝かせて窓の外の景色を眺めた。
円筒形の紙パックのような容器に入ったミルクティーを飲みながら、瀟洒な建物や豊かな森の景色を楽しみつつ、膝の上に置いた本を撫でる。
風景に飽きたら本を読めばいいし、唐突なひとり旅気分で中々に楽しい。
(でも、今回は地図を残してくれたけど、いつか本気でいなくなる時には、何も残さずにただ立ち去るだけなのかしら)
ほんの少しだけ、そんなことを考えた。
これがもし試すようなことをされたのであれば、ネアはもう少し深刻に将来のことを考えたのだろう。
しかし、今回の家出は寂しがり屋が拗ねてみせただけなのがよくわかるパフォーマンスなので怖くはなかったし、然程怒ってもいない。
小さな子供が、家の近くの公園に家出するあれだ。
面白い本を読みだすと止まらないのは、ネアの悪癖だ。
しかし、変えてゆける部分と、押し殺すと後で爆発しそうになる頑固な部分の性質があり、読書については後者である。
最初にきちんと説明した筈なのだが、最近はあまり読書で箍を外してなかったので魔物が知らずにいた部分なのかもしれない。
帰ってきたらたくさん撫でてやって、またそういうこれからの話をしよう。
(これから、か…………)
これから。
それは、かつてのネアが永遠に無くした幸せな言葉。
誰かと分け合うこれからという言葉に、ふと、胸がおかしな音を立てる。
それくらいに大切だけれど、やはり自分の欲も譲れないのだから、ネアの性格も大概だ。
「ねぇ君、どこまで行くの?」
考え事をしている間に少しだけ賑やかな街を通り、そこで乗り込んで来た貴族らしい青年に声をかけられた。
僅かではあるが個人の空間を大事にする車両なので、ナンパはマナー違反だと思いながら余所余所しい微笑みを貼り付けて返答する。
「もう少し先です」
「ザルツまで乗ってるなら、同席しないかい?可愛いお嬢さんが一人なんて、時間が勿体無いよ」
「いえ、一人が好きなのでどうかお構いなく」
「あ、僕は悪さなんてしないよ?真っ当なお知り合いになりたいだけ。君、家業は何をしてるの?貴族の家の女の子が一人で出かけるなんてあり得ないけど、いい身なりだよね?」
「さて、居候ですかね。それと、本当にお構いなく。一人が好きなのです」
「女の子が強がっちゃいけないよ。僕はさ…」
「放っておいていただけますか」
微笑んだまま、静かな口調で鞭のような声を出すと、青年はぎくりとして、いい加減な言い訳をしてからそそくさと立ち去っていった。
怒っているときのヒルドを参考にしたので、怖かったに違いない。
(うーん、おやつでも食べようかしら)
お行儀良く座っているからいけないのだと、ネアは気付いた。
がさがさバリバリおやつでも食べていれば、まともに軽薄な男性は倦厭するに違いない。
なので、あえてバリバリと音の出るクッキーを取り出して貪り食いながら座っていると、その後の駅で乗り込んで来たお客達はネアを見ないようにしているのがわかった。
若干目障りな客になるが、淑女の一人乗車なので自衛をしなければならない。
「む…………」
しかし、そんな風に地道に頑張っているネアに、大きな影が落ちた。
そろりと視線を持ち上げると、謎の牛頭の男性が通路側に立ってこちらを見下ろしているではないか。
「なにやつ」
「お嬢さん、私の膝の上に座りませんか?」
「唐突な変態の出現に動揺が隠せません………」
「美味しそうなお嬢さんだ」
嗄れた声は、あまりいいものには思えない下卑た気配を帯びる。
車内の他のお客がざわりとしているのは、この男が明らかに人外者だからなのか、性質としても良くないものだからか。
「私が椅子にするのは、私の魔物だけだと決めているので、ご辞退させていただきます」
「しかし、魔物などいないではないですか」
「大事な魔物が見ていないところで、羽目を外す浮気者ではありたくないのです」
「同意いただけないとなると、同化するのではなく、頭から齧り取るしかありませんな」
「何という無作法者でしょう!変態の上に荒くれ者なのですね!」
すっと立ち上がったネアは、牛頭の男性の胸下までしか身長がない。
か弱い獲物だと牛頭はにやりと笑ったようだが、次の瞬間、凄まじい悲鳴が車内に響き渡った。
「牛肉は大好きですが、あなたの場合頭しか食べるところがなさそうです。それとも、体の方も牛肉味なのでしょうか?」
「こ、小娘、人間のくせに我を食わんとするのか!四肢を切り落として…」
「牛さんのくせに生意気なのです」
「ぎゃぁ?!」
爪先を踏み滅ぼされて倒れていたところに、殺戮仕様のブーツでていっと飛び乗られてしまった牛頭は、ぱたりと床に伸びてしまった。
「お、お客様………」
騒ぎを聞きつけて現れた車掌は、倒れた牛頭の男をじっと見下ろしている冷酷な人間に目を白黒させた。
片目に傷のある屈強そうな男性車掌は、ぱっと見とても脆弱そうな女性からあまりにも残虐な質問をされることになる。
「この方は美味しいでしょうか。膝の上に座れという破廉恥なお誘いを断ったら、齧ると脅されて滅ぼしたのですが、牛肉扱いしてもいいかどうか判断しかねています」
「轢死の精霊は祟りものですので、駆除していただきましたことには、車掌として心からの感謝させていただきます。ただ、食用に出来るかとなると前例がありませんので………」
「まぁ、この変態さんは祟りものなのですね!では、悪くなっていそうなので食べるのはやめますね」
「そ、そうしていただけますと、私としましても一安心です」
ネアが大人しく諦めたので、轢死の精霊は集まった乗務員達に引き摺られて回収されていった。
この精霊は、気に入った女性を膝の上に乗せて癒着させ養分にしてしまうか、気に入らない女性を頭から齧り取って殺してしまうのだそうだ。
同じ精霊でも、女性の方が出現すると標的は男性になる。
列車に轢かれて死んでしまう小さな生き物達が凝り、この祟りものになるらしい。
ネアは大人しく席に戻り、暫くは代わり映えのしない風景が続くと判断して、本を読むことにした。
ごとんごとんと、規則的な振動に唇の端を持ち上げる。
列車に乗って誰かに会いに行くのは初めてだ。
あの魔物そのものが特別なものだということは充分に理解しているが、それとはまた違う新しい感慨があった。
こうして時間をかけると、寄り添う事そのものも当たり前のものではなく、とても特別なものという気がするのだ。
(でも、ディノはとても大切だけれど、私は私なのだわ)
だからこそ、先程の祟りものになった精霊のように、気に入ったものを取り込んでしまうような交わり方ではなく、お互いを理解しあって隣に立つような、そんな末長く楽しい関係でありたい。
案外譲れたことも多かったが、ネアにとってとても大切な自分のための時間をどう説明するべきだろうか。
(そう言えば、ディノって趣味とかないのかな………)
そういうものを持てば、またお互いの時間のやり繰りが変わるような気がする。
同じ部屋でお互いに自分の時間を楽しむことが出来れば、もっと生活の幅が広がる気がする。
今は住み込みで働いており、午前中で終わってしまうことが多いが、一応は他に仕事があれば引き受けるフルタイムの勤めだ。
その生活時間の大きな区分を占める仕事がいつか定年になったら、二人で楽しめる趣味などがあればいいのだが。
(今はまだお互いに初めてのことが多いけれど、この先は当たり前の生活になっていくのだから……)
そう考えて窓の外をちらりと見たところで、近くの席の乗客が小さな悲鳴を上げた。
はっとして振り返れば、ちょうどネアの席の横に、しゅたっと小さな生き物が着地する。
サッカーボールサイズの小さな仔馬で、青くて艶々としていた。
足元がけぶるように青白い炎を纏い、綺麗な生き物だ。
しかし、鬣と尻尾が長くて綺麗なのだが、人間の指のようなものを咥えてもぐもぐしていた。
「さては、また悪い子ですね?」
「ギャオウ!」
背後の騒ぎは、うっかり窓を開けていて水棲馬の幼体が入り込んでしまい、指を齧り取られた誰かの悲鳴のようだ。
簡易魔術では傷が塞がらないと叫んでおり、この車両にある緊急連絡管から、またしても車掌が呼び出されている。
仔馬は誰かの指を飲み込むと、貪欲にネアに目星をつけた。
かぱっと牙だらけの口を開けたので、ネアは小さく溜息を吐いて、がすっと踏み滅ぼしておく。
思ったより頑丈なのか、踏みつけられたまま暴れているので、その状態で車掌を待ってみた。
「お客様…………」
すぐに駆け付けた車掌は、またしても同じお客の足の下に駆除対象がいることに狼狽していた。
「こやつはまだ生きているようですが、どうしましょう?何度か踏めば、滅ぼせますよ」
「た、たいへんに獰猛な生き物ですので、もう一度踏んでいただいても宜しいでしょうか?」
「ええ。そうしますね」
もう片方の足でもがすりと踏まれた仔馬は、ぱたりと床に伏したがまだぴくぴくと動いているようだ。
車掌は恐縮しきってその仔馬を回収してゆくと、ネアに深々と頭を下げた。
怪我を負った乗客も乗務員と出て行き、専門魔術師に治療をして貰いつつ、窓開け禁止のアナウンスがあった区間で窓を開けてしまったお叱りを受けるようだ。
そのアナウンスはネアも聞いていなかったので、車内アナウンスはきちんと聞こうという戒めになった。
「さてと、…………」
いよいよ次が、ブナの森駅だ。
少し見てみたかったウィーム中央に比較的近い規模だという大きな街、ザルツはまだ先のようで少しだけがっかりする。
切符の準備をして、結局読めないままだった本を閉じて降りる支度をした。
本当に一人きりなのかはよく分からないが、今のところ旅は順調なようだ。