失恋と偽装結婚
その日、ミンクは珍しく溜め息を吐いているアイザックを見かけた。
艶々とした美しい黒髪を背中に流して、眼鏡を外して目頭を揉んでいる。
(こ、これは…………!!)
その姿だけで、今夜は手帳を一冊埋められるなと思い、ミンクはほくそ笑む。
そして何食わぬ顔で歩み寄ると、そっと声をかけた。
夏至祭に会えなかったので、少し寂しかったのである。
「アイザック様、夏至祭明けの注文が芳しくありませんか?」
「いえ、そういうことはありませんよ」
薄い唇の端を歪めて、アイザックは小さく微笑む。
相変わらずの漆黒のスーツは、真夏であれ変わることはない。
この前、謎の鳥を連れて南国に出かけていた時が異例だったのだ。
「しかし、随分と憂鬱そうですが……。いえ、出過ぎた質問でした。忘れて下さい」
「構いませんよ。私もただ、人並みに失恋したというだけです」
「そうだったのですね。それは、……………失恋?!」
あまりにも衝撃的な言葉を聞くと、一度勝手に体がその事実を聞き流そうとするらしい。
流してしまいかけてから、ミンクは愕然として代表の横顔を凝視した。
手帳は五冊に変更せねばならず、後で買い足しておかないといけない。
「ええ。久し振りに愉快な存在に出会ったと思っていたのですが、伴侶を得られていたそうでして」
「そ、そうですか。………あの、差し支えがなければですが、どのようなお知り合いで?」
「古い知人の養い子だったのですよ。やれやれ、この歳で失恋とは、やはり堪えますね」
「思ってたより普通の出会い方で驚きを隠しきれませんが、……その、どうか気落ちなさらないで下さいね」
「おや、私らしくない出会い方ですか?」
どこかおかしそうにそう聞かれて、ミンクは素直に頷いた。
「アイザック様らしくないですね。もっとこう、壊滅させた国から拾ってきたですとか、殺した友人の忘れ形見だとか、暗殺者を捕まえたら魅力的なご婦人だったとか、そんな感じかと思っていました」
「あなたが私をどんな風に考えているのか少々気になるところですが、そのようなことはなく、いたって普通の出会い方でしたから」
(そうか、だから昨日の夏至祭には珍しく仕事を休まれていたんだ)
アイザックが仕事を休むことは稀である。
しかし、休んだ体で職場を離れていても、その出先で駒にする者を捕らえてきたり、探していた亡命者の首を持ち帰ったりするので、事実上仕事の延長線上の休暇と言ってもいい。
心底そういうことが好きなのだなと感じさせる上司だった。
そんな上司が、夏至祭に失恋しただなんて。
(恋か………)
そう考えると、泣き叫んで暴れたくなったが、その衝動を打ち消して無表情を保つ。
手の中の通信端末を握り潰してしまったが、これはミンクの執務室に置き忘れられていたヴォルフのものなので、別にどうでもいい。
「お相手の方は、その、……きっと後で後悔しますよ。アイザック様は、魅力的な……魅力的な?……方ですから」
「ミンク。無理をした結果、言葉が苦しくなっていますが」
そう言われて恐縮したが、自分は魅力的だとか思ってはいても、他者から見たらどうなのだろうかと考えてしまうのは、商売人の性のようなものだ。
影のようにひっそりとしたいささか淡白な容姿だが眉目秀麗には違いないし、暗い瞳は夜の谷底よりなお暗い。
そして、欲望の醜悪さを好み、貪欲で悪辣な生き物を愛でている、困った趣味の上司。
(聞けばジーンはまた顧客の女性をつけ回したそうだし、何しろ以前に上客としてお気に入りだったのはレーヌ様だ……)
そんな相手にばかり興味や友情を向ける困った人なのだが、ミンクはそんなところも含めてこの上司がとても好きだった。
「また良いお相手が現れますよ」
「特別変異体でしたので、今後あれだけ愉快なものが現れるかどうか」
「特別変異…………。もしかして、以前預かっていた鳥ですか?」
「ええ。成鳥になりましてね、それはそれは強欲な美しい星鳥になりましたよ」
「そうでしたか。あの丸い生き物が………」
実はその後、ほこりという不思議な名前の星鳥に、ミンクも会ったのだった。
アクスに預けられた時に部下に誘われて見にいってみたのだが、ヴォルフのところの部下を一人食べてしまったそうで、ふくふくとした毛玉のような体を咀嚼に合わせて揺らしていた。
ヴォルフは悲しみのあまりに寝込んだが、中々に珍しい鳥だと感動したのを覚えている。
(あの鳥…………)
どうしてもその姿しか思い浮かばないので、アイザックと円形の毛玉鳥の姿を並べて考えてしまうものの、思い返せばアイザックはその鳥の抜け毛をハンカチに挟んでポケットにしまっていた。
あの時から少しばかり、恋だったのだろう。
「ほこりさんは、どのような伴侶を得たのですか?」
「選択の魔物の城にある、見事なシャンデリアだそうですよ」
「シャンデリア…………?」
「あまりにも私とは違いますからね。そうなってしまうと、張り合うことも出来ません」
「…………はぁ。シャンデリアに負けてしまったのですか」
「………ミンク」
結局その日は六冊の手帳を使い切り、アイザックの失恋に纏わる考察や感想などを一晩書き続けた。
そして翌日、またしても執務室にやって来た同僚をぎろりと睨む。
「よお、ミンク」
「出て行け、犬め」
「俺は犬じゃなくて、狼だけどな」
「毛むくじゃらの粗野な獣に用はない。こらっ!勝手に私の執務室で寝ようとするな!お前の持ち場はヴェルリアだろう?!」
「なんでぇ。会いに来てやったのに、茶もなしか」
「よし。煮えたぎる茶を頭からかけてやる」
「お前は本当に、竜と精霊の嫌なとこ取りだなぁ」
ヴォルフは、海に住む狼の精霊だ。
狼の姿も持つが、普段は褐色の肌に白銀の髪で鮮やかな瑠璃色の瞳をしている、高位精霊の一人。
船乗りに扮して遊び呆けていたところをアイザックに引き抜かれたそうだが、なぜこのような仕事をしているのかは謎に包まれている。
白ではないが、白銀は限りなく白に近い。
系譜の王であっても不思議はない姿なのだ。
「それと、何だその隈は」
「触るな!貴様、両手を削ぎ落とされたいのか!」
「綺麗な肌が台無しだぞ、ミンク」
「ええい、下がれけだものめ!」
「未来の花嫁だからな。心配くらいするだろう」
「は、花嫁なものか!私は生涯、アイザック様の記録をつけながら生きてゆくのだ!!」
「それは俺の嫁になってからでも出来るだろ」
「ならん!」
このけだもの用にデスクの横に立てかけてあった水竜の剣を手に取れば、慌てて部屋の端に逃げてゆく。
最近はこのような不届き者が多いので、その性質に応じた武器を取り揃えてあった。
「それとも、ローンと何か約束でもしたか?昨日は夏至祭だっただろう」
「あれは疫病の魔物だぞ?!」
「お前の大好きアイザック様だって魔物だろうが」
「あんな陰険黒コートと一緒にするな。今度アイザック様をあのコートと並べたら、お前の首を刎ねてやる」
「…………俺の方が百倍強いけどなぁ」
「それとお前は、五人も子供がいるだろう?!そちらに集中して、私には構うな」
「あ、一人増えたぞ。六人だな」
「六人なのか…………」
港町の男らしく女遊びに目がないこの精霊は、知り合った女達と深い関係になるのが異様に早い。
このけだもののどこがいいのかわからないが、そんな生活でも誰かに恨まれたりすることはなく、別れた女達からも慕われているのが不思議だ。
そして、着々と子供を増やしている。
「まだ伴侶はいないんだから、構わないだろ」
「伴侶もまだのくせに、六人も子供がいるろくでなしではないか」
「仕方ないだろ。伴侶にならなくてもいいからって強請られるんだ」
「けだものめ!」
頭に来たミンクはけだものの髪の毛を一部切り落としてやり、愚かな精霊を執務室から追い払った。
すぐに駆けつけてくれた部下達も、ヴォルフが去った後に嫌な客を追い払う薬草の粉を撒いてくれる。
「災難でしたね、ミンク様」
「まったく、ミンク様はアイザック様と手帳にしか興味がないってのに」
「そういや、そのアイザック様ですが、お元気がなさそうですね」
「………ああ。あの方も色々あるのだろう?」
「もしかしたら、夏至祭周りで魅力五倍増しのミンク様にくらりときたのかもしれませんよ?」
部下の一人がそう言ったのは、アイザック大好きなミンクの為だろう。
精霊の魅力が最大限に引き出される夏至祭だというのに、アイザックが休んでしまったことで落ち込んでいたのを知っているのだ。
「いや、………そうではなさそうだ」
「そうですか?」
「その、気を使わせてすまないな。…………ええと、ポ………ポチ?」
「僕の名前はポーティですよ。お仕えして六十年ですからね?」
「す、すまない………」
「相変わらず、アイザック様と顧客以外の名前を覚えませんねぇ」
「ヴォルフとローン、ジーンも覚えているぞ!」
「アイザック様に近くて嫌いな、幹部の奴らだけじゃないですか………」
部下にも呆れられてしまい、ミンクはしょんぼりした。
こんな有様だから、あの丸い鳥にすら勝てないのだろうか。
そんなことを考えながらご指名ということで店の方に顔を出せば、珍しい顧客が訪れていた。
「久し振りね、ミンク。あら、酷い顔よ?」
「ロクサーヌ様………」
この紅薔薇のシーに指名をされたことなどない。
驚いて目を瞠ると、向かいに座っていたアイザックが薄く苦笑した。
「ロクサーヌ様は、今回は私が担当ではお気に召さないようでして」
「な、そんな!アイザック様に引き受けられない仕事を、私などが……」
「いいのよ。今回はね、暖かな心と繊細な感情がある方に頼みたかったの」
そう微笑んだロクサーヌは美しい。
婉然と輝く愛情を司る者を見るのは、今日ばかりは辛いことだった。
「しかし、私は本来、このようにしてお客様と直にお会いする立場でもないのですが……」
「これでも相手を見極める力は持っていてよ?今回はね、妖精の花嫁衣装を作る職人の手配をお願いしたいの」
「ご、ご結婚されるので?!」
「ふふ、私はまだ婚約したばかり。結婚をするのは、今回の夏至祭で愛を誓った私の系譜の妖精達よ」
「薔薇の妖精の間には、結婚が決まった者が他の者の結婚の支度をすると、自身の結婚が上手くまとまるという風習があるのですよ」
そう教えてくれたアイザックに、ミンクは一つ頷いた。
(と言うか、ロクサーヌ様も婚約したのだ………)
だから輝くように美しいのだと思い、ちらりとその向かいのアイザックを見た。
彼は、失恋したばかりでこんな幸せそうなロクサーヌを見て、苦しくはないのだろうか。
(私は苦しい。………あの星鳥にすら敵わなかったことを、あらためて知ったばかりだから)
失恋したアイザックという初めての状態の彼を記録しきれば、後に残ったのはそんな惨めな自覚だけだった。
それとも、ミンクでは到底敵わないくらい、あの星鳥は美しくなったのだろうか。
(まん丸のクッションのような、愛くるしい生き物だったくせに!)
可愛い生き物とアイザックの組み合わせに感謝していた自分を殴りたいくらいだ。
あの状態の生き物にすら敵わないだなんて、なんという屈辱だろう。
「では、婚礼衣装はシシィのデザインで。縫製まで任せますと金額が予算を超えてしまいますので、縫製はガーウィンにおります有能な裁縫妖精をご紹介いたします。王妃様の御衣装も、この妖精が手がけているという噂ですよ」
「では、それでよくてよ。婚礼衣装に合わせる宝石の手配が上手いわね。そのような配慮は、やはり恋をしたことのある者でなければ。私の時も、貴女に頼もうかしら」
「それは!……その、ロクサーヌ様のご婚礼ともなれば、是非、当商会の代表にご依頼下さいませ」
「アイザックに頼むとすれば、それは彼が結婚でも経験していたらかしらね」
「経験……ですか?」
「あの男に結婚生活が続くものですか。したとしても、一月保てばいい方だわ」
お客が帰りその会話をそのまま報告すれば、アイザックは小さく微笑みを深めた。
余談だが、ミンクの大好きなこのアイザックの表情集は、他の者達が見ると仮面のような表情に見えるらしく、心の動きが読み取れないのだそうだ。
(こんなに、こんなに苦しんでいらっしゃるのに!!)
その言葉を聞いて、アイザックは細い煙草の煙を薫せながら、几帳面な仕草で小さく頷いた。
通信用の端末板を閉じたのは、依頼を受けていた他国の政局操作が終わったからだ。
まず間違いなく戦争になるが、戦争は良い収入源となる。
その国の穏健派の貴族を殺し、砂で作った身代わりの妖精を擬態させてそのように仕組んだのだとか。
その妖精自体が祟り物であるので、益々戦争へ真っしぐらという訳だ。
「それは困りましたね。ロクサーヌ様の婚礼ともなれば、数多の欲望や感情が動くでしょう。是非とも堪能させていただきたい」
「はは、私と偽装結婚でもしますかね」
そう笑ったのは、ミンクも少し自棄になっていたからだ。
元々精霊の血を引いているミンクは、とても感情的な生き物だ。
なので今回の一件を発散出来ていないことは、かなりの心労となっていたのである。
「ふむ。悪くないですね」
「へ…………?」
「顧客のご要望に応える為に、私の知見を増やすのは当然のこと。そして、このような形でそれを実行すれば、滅多にないくらいの愚かな体験が出来ますね」
「…………アイザック様?!」
その後、六十年仕えた部下が失恋などという恐ろしい理由で一月も休んだのには辟易としたが、ヴォルフが悔しがって泣いたと聞いてミンクは気持ちがすっとした。
業務講習としての結婚期間は僅か一週間ばかりであったが、世間一般どころか、ミンクが血を引く竜と精霊、そしてアイザックの魔物としての婚礼の儀式も全て執り行い、尚且つ新婚の夫婦がやるべきことも全て済ませた。
機会を逃さず今後の為に試しておこうと、全ての儀式を執り行うのがアイザックらしい。
特に結婚式周りは女性の欲望が最も顕著になるということで、アイザックはいたくお気に召したようだ。
アクスでの結婚式周りの業務拡大にも、大いに意欲を見せている。
「どうして私を選んで下さったのですか?」
そう尋ねたのは、離婚する日の朝のことだった。
生真面目な顔で新聞を読みながら、朝食の席でアイザックが小さく笑う。
「婚姻の破棄が評価に響かない種族は、案外難しいですからね。それとあなたなら、当社の従業員として保証が出来ますし、職場の同僚が相手という、最もありがちで需要の多い経験を得られるのも良かった」
「職場結婚の顧客を想定されているのですか?」
「いえ。それが破れた場合の復讐や、お相手の暗殺など、当社には様々なご依頼がありますから」
「確かに、貴人からの結婚生活の破綻に纏わる報復依頼は多いですね……」
「加えて、あの時であれば失恋からの愚かな衝動での流れだと言えましたし、そのような履歴ともなれば、対外的な理由も立つでしょう」
「…………念の為に言っておきますが、私はアイザック様を暗殺したりはしませんよ?」
「さて。あなたも半分は精霊ですからね。そうなるとしてもそれもまた興味深いですが、今回のことも中々に面白い体験でしたよ」
夏至祭から縁を得た花嫁は幸せになるという。
ミンクはそう笑ったアイザックを見ながら、幸せな気持ちで小さく頷いた。
この変わり者の上司から“面白かった”という感想を得られることは、アクスの社員にとっては、人生に一度あるかないかの喜びだ。
最後にこの言葉を得られたのだから、それだけで満足だ。
これは他の幹部達にはない、自分だけの特権である。
「それと、部下の想い人を奪う役目というのもなかなかに愉快でした。この形もまた、様々な欲望が絡みますからね」
「…………え」
「ヴォルフから決闘を申し込まれましたよ。決闘を申し込まれたことなど、初めてのことだ。これもまた愉快でしたね」
そう楽しそうに語るあと数時間は夫であるアイザックを見ながら、ミンクはぎりぎりとパンを食い千切った。
最後の最後で上司の興味を横取りしたあのけだものは、いつか尻尾を燃やしてやろうと思う。
後日、妖精の花嫁の仮縫いに立ち会っていた時、わざわざ足を運んでくれたロクサーヌになぜか謝られた。
アイザックとの偽装結婚のことが自分の責任だと思っているようだが、良かったのだと言っても理解はして貰えないようだ。
「なぜ謝るのだろうな。これで私は、一生アイザック様の記録をつけて生きてゆけるのに」
「いやもう、ミンク様が特殊なだけですからね。普通は想う相手との偽装結婚なんて嫌ですよ」
「そうか?一生分の書くことは出来たし、これで伴侶すらいないのかという同僚からの嫌がらせにも返す言葉がある。何しろ、私しか知らないアイザック様を知っているという強みでもあるのだ!」
「はぁ………。あなたは多分、そういう趣味だったんですね」
「ポチ…………?」
「ポーティです」
「すまない……」
ひとまず、離婚したことで部下のご機嫌は直り、また六十年仕えてくれるそうだ。
あちこちよく分からないこともあったが、ともあれミンクの日常はとても幸福である。
因みに、手帳は百冊を超えたので、今年分の手帳の保管は場所を取りそうだ。