夏至祭の食卓
「刺草が枯れたようですよ。あれは気のいい妖精でしたのに、儚くなってしまうなんて勿体無い」
夏至祭の数日後のことだった。
そう言った部下を、ロクサーヌは冷ややかな目で眺めた。
これは気のいい男なのだが、如何せん想像力が足らない部下なのだ。
「刺草は元々、怨嗟と呪いを司る妖精だわ。あなたはその本分に立ち返ったあの子でも、受け入れてあげられて?」
「いや、それはさすがに。しかし、彼女は優しい刺草でしたから」
「………何の願いも叶わず、それでも高潔でなければ受け入れられることも出来ないというのは、どれだけの苦痛かしらね」
「ロクサーヌ様?」
「刺草は元々、棘と毒を持つ妖精なのに、あの子は王子の手に触れる為に、自分の棘を自ら抜いたのよ」
「やはり、優しい妖精ではないですか。中々そんなことは出来ませんよ」
「そうしなければ、触れることも出来なかったから。そこまでしても、触れることしか出来なかったから、あの子は枯れてしまったの。より多くを持つものばかりの、底辺であれそれなりに美しい者達が集う王宮で、皆に望まれる相手を思うのはどれだけの恐怖でしょう」
自らの体を傷付けることは、かなりの苦痛と傷を残す。
元々異形に近い刺草の肌は爛れ、いっそうに恐ろしい形相になってしまった。
それでもあの刺草が優しい妖精であり続けたのは、その取り柄すらなくしてしまえば、愛されないと知っていたからだ。
苦痛に恨み言を言ったり、自分を思わない王子に泣き暮らしたりすれば、それはただの刺草と言われてしまうだろう。
(それでは嫌だったのだわ。あの子も女だもの)
良きものであり続けるのが、刺草の最後の矜持だったのだ。
そしてその最後の我慢は、友人だった騎士が想い人を得たことで、とうとう決壊してしまった。
あの騎士を彼女が想うことはなかったが、それでも誰からも望まれる美貌の騎士が、自分の容姿に頓着せずに友人でいてくれるのは、さぞかし心強かっただろう。
しかしよりにもよって彼は、刺草に似た境遇の誰かを選んで世界の不平等さを示し、刺草は最後の自尊心を保つ場所すら失ってしまったのだ。
「因果の精霊から、成就の祝福を貰ってきたわ。これで今度は、望むように生まれていらっしゃいね」
真夜中の庭園で、枯れた刺草にその祝福をかけてやる。
せめてもっと早く、因果の精霊の王がこちらに来ていれば刺草を救えたかもしれなかったが、だとしても第三王子のお相手が刺草では、王家は認めなかっただろう。
王家はどこまでも盤石でなければならず、それはこの国を安定させたいロクサーヌも同じこと。
第四王子があの調子なので、実質この国の未来は第一王子と、以下第三、そしてロクサーヌの大事な第五王子にかかっていた。
「だから、生きてあなたが望みを叶える手段を、私は与えられなかった」
愛情を司るロクサーヌなら。
或いは、その他の手段を以ってこの刺草の恋を叶えることも出来たかもしれない。
しかしやはり、ロクサーヌもまた女王の一人。
己の欲の為に弱きものを切り捨てることが出来る、残忍な妖精の王なのだ。
刺草には香草としての需要もあり、薬になったり、植物性の糸を紡いだりすることも出来る。
それなのになぜこの世界は、刺草の妖精を緑色の肌を持つ棘だらけの乙女に象ったのだろう。
しょうもないものを司るくせに無害で小さく可愛らしい妖精など、幾らでもいるではないか。
同じ植物の系譜の妖精としてそう思わずにはいられなかったが、小さく溜め息を吐いてゆっくりと立ち上がった。
「ロクサーヌ、かなしいの?」
「まぁ、王子」
振り返ると、そこに立っていたのはロクサーヌの小さな恋人だった。
むっちりとした手足は短く、まだ騎士と狼に憧れる小さな子供だ。
大きな瞳を瞠って、心配そうに紅薔薇の女王を見上げている。
「いらくさ、いなくなっちゃったね」
「ええ。でも、長く苦しむよりはこの方が安らかなのかもしれません。望んでも手が届かないものを想うのは、辛くて恐ろしいものなのですから」
「うん。………そうだね」
ロクサーヌの小さな王子、ディートハルト第五王子がそう呟いて頷いたのは、この小さな子供ですら愛する者を奪われたことがあるからだ。
乳母や侍女たち、大好きな母親を奪われた王子は、眠りを損ない、笑顔と言葉を失くす程の苦しみを経て、今は安らかな子供特有の笑顔を浮かべるようになった。
『おかあさまの大好きなろくさーぬ。僕が大好きなおかあさまと同じ、みんなが大好きな綺麗な妖精』
あの嵐の夜に、そう言ってこちらを見上げた萌黄色の瞳。
あの瞳の美しさを、ロクサーヌは永劫に忘れないだろう。
王子の母親は、皆に慕われていた側室妃であった。
ロクサーヌですら稀有な魅力だと感じさせた彼女は、アルビクロムの王族の出で、自ら工具を持って作業をしてしまうような一面を持つ、太陽のような艶やかで美しい人間だった。
大きく口を開けて朗らかに笑う。
両手を広げて王子を抱き締めて、振り回して遊んでやる。
その場にいるだけで、みんなを明るくする笑顔の美しい女性だった。
向日葵の妖精や、月桂樹の妖精など、彼女に惹かれて愛を請うていた妖精も多い。
しかし彼女が愛したのは、この国の王と自分の息子、そして姉妹同然に育った侍女たちだけだった。
そんな燦々と降り注ぐ陽光のような愛情を受けて育った王子が、あの夜、たった一人になってしまったのだ。
そして、そんな一人ぼっちになった王子が拠り所としたのは、母親と同じように数多の者を引き寄せるロクサーヌのところだった。
(恐らく、母親の姿を重ねて見たのだろう)
ロクサーヌと王子の母親はまるで気質の違う女性だ。
纏う色彩や言動もここまで違うのに、下位の者達を庇護する役目にある女性というところに、王子は惹かれたらしい。
小さな枕を持ってロクサーヌの薔薇の下で眠ろうとするので、最初は邪険に追い払ってしまおうとしたこともある。
しかし、庇護を与えないものには酷薄な紅薔薇のシーに手荒く追い払われても、小さな子供は懲りずに毎日通い詰めてきた。
(煩わしい子供だこと)
庇護を失った子供が、子供なりの狡猾さで力のある者の庇護を得ようとしたに違いないと、ロクサーヌはそう考えていた。
それくらいに、或いはそれ以上に望まれてきた身であるし、王族というものは得てしてしたたかなもの。
王宮の庭園は良い住処だが、ロクサーヌにはシーとしての城もあるのだ。
あくまでも、請われてこの地に庇護を与えているに過ぎない。
そしてそれも、特定の誰かの物にはならないという約定の下に与えた限定的な庇護であった。
『おばかさんな子ね。どうしてここに来るの?』
温もりの欠片もない微笑みでそう問いかけたのは、嵐の前の風の唸るある晩のことだった。
まだ雨は降りだしていなかったが、既に風は強くなっており、この小さな子供では飛ばされていってしまいそうだ。
それなのにこんなところを出歩いているのは、この小さな子供をどうするべきか、周囲が手を差し出しかねている証拠でもあった。
あまりにも身内に愛され過ぎていたせいで、外の者達に接してこなかったのがその要因である。
この小さな子供は、まだ王子としての後ろ盾を作り始めていなかったのだ。
(ましてや、事故の影響を受けて精神も不安定になっている。難しい子供なのは確かだわ)
母親の親族は本家が先の戦乱で絶えており、この子供には近しい親族が王と兄達より他にいない。
もし善良な誰かが引き受けても、第四王子派からの手出しを回避することは出来ないだろう。
良くて、狡猾な誰かの傀儡の王子として手中に入れられるのが関の山だった。
少しだけ考えてから、小さな王子は地面に木の棒でかりかりと返事を書き始めた。
『おかあさまの大好きなろくさーぬ。僕が大好きなおかあさまと同じ、みんなが大好きなきれいな妖精。だから、いなくなったらおかあさまの時みたいにみんなが泣いちゃうから、僕が守るの』
自分で書いた文字に、大きな萌黄色の瞳から涙が落ちる。
(ああ、そうか………)
目の前の小さな子供は、自分の存在が母親を殺してしまったことを理解していた。
皆に愛された太陽の一つを奪ってしまった自分の罪を贖う為にと、この小さな子供なりに考えて良く似た立場にあるロクサーヌを守ることに意義を見出したらしい。
皆の心と顔を曇らせたその罪を償う為にと、こんな嵐の日にまで小さな体で薔薇の茂みを守ろうとして。
『馬鹿な子ね。人間の子供達は、みんな愚かだわ』
だから、その時ロクサーヌが小さな子供を抱き締めたのは、ただの気紛れだった。
そうすれば満足して帰るだろうと、そう考えたのだ。
一度抱き締めてやろうとした、そこまでの温情が全てだった。
しかしその子供は、抱き締められると大いに暴れたのだ。
子供曰く、それではロクサーヌが守れないからであるらしい。
小さな胸をふんすと張り、いたくご立腹の小さな子供に叱られて、ロクサーヌは何だか笑ってしまった。
そしてそんな風に笑ってしまえば、その小さく愚かな子供が妙に愛おしくなったのだ。
『不思議ね。お前は命がけで私を守ろうとするくせに、私を愛するのは、お前の愛する者が私を愛したからに過ぎないのだわ』
この子供は確かに自分を求めてはいる。
でもそれは、皆に愛されるものを守る為でしかなく、その瞳や心が請うのは、決してロクサーヌの愛などではない。
彼女が健やかにあることだけが、この子供の救いなのか。
そう考えて心を傾けると、案外にたらしであるこの子供の性質がわかってきた。
確かに母親の太陽のような気質を受け継いでおり、そこに無垢さが加わるのだから堪らない。
喪われた母親の分も周囲の者達を守ろうとするその言動に、あちこちでメロメロになる者達が現れ始めた。
ロクサーヌが自分の元に通うことを許したせいで、王子本来の健やかさが蘇り、きらきらと輝き始めたようだ。
『なんとも可愛らしい王子なのですよ。ホットミルクを差し上げたら、頬を真っ赤にして目を輝かせていらっしゃって。でも、飲むと眠たくなるので我慢しようとするのです』
『この前、わたくしのスカートをずっと見ておられるので、どうしたのかと尋ねましたら、お姫様のようで綺麗だねと仰って』
『あら、この前なんて強くなるのだと仰って、あの短い手足で鍛錬をしようとなさっていたのよ。まだよちよち歩きの赤ちゃんみたいでしたわ』
赤子や新芽を慈しむように、その子供の健やかさは多くの生き物達の心を奪い始めた。
そんな話を微笑んで聞き流しながら、ロクサーヌは自分が面白くないのだと認めざるを得なくなる。
あの子供の輝く瞳を独占したい。
まだ誰をも愛していないあの子供が、いつか愛を請うのが他の誰かでは許せない。
そう思った時にやっと、あの嵐の日に彼が自分の心を奪ったのだと理解して。
そして、持てる魅了の力を全て傾けて、あの小さな子供を籠絡したのだ。
「ロクサーヌ、指の端っこを握ってもいい?」
そんな子供は、順調に天性の素質を発揮しつつある。
上目遣いに見上げられ、目が合うとにっこりと微笑まれた。
何でもしてあげたくなってしまうが、ロクサーヌは決して優しいばかりの代理妖精ではない。
「あら、手を繋ぐのは女官長ではなくて宜しいのですか?」
「マリアの手はふかふかなんだよ!でも、ロクサーヌの手が一番綺麗」
マリアという名前のふくよかな体型の女官長は、最近長く交際した騎士に手酷く捨てられたばかりでうつむきがちになっていた。
そんな折に、この小さい浮気者に、マリアと手を繋ぐと世界一幸せな気持ちだと零れんばかりの笑顔で言われてしまい、無垢な王子を生涯守り抜いてみせると泣きながら宣言したとか。
(傷付いている者を見付けるのが抜群に上手いのだから、まったく困ったものだわ)
悲しむ者たちを微笑ませるのが大好きで、自分が愛されることも知っている、何ともあざとく可愛らしい生き物。
そのくせ、刺草については最初からロクサーヌの意見を仰ぐ聡明さも持ち合わせている。
『いらくささんに挨拶したら、悲しくなっちゃうかな?お兄様を待ってるのに、お兄様じゃないから』
そう悲しそうに尋ねられ、惨めな者の心の内までをも思いやれることに感心した。
第一王子は、聡明というよりも末恐ろしいという表現をしているようだが、あの太陽のような女性の息子であり、愛情を司るロクサーヌの守護を受けている子供は、愛情の複雑さにも鋭敏だ。
そうして今も、通りがかった際に短い挨拶を感じよくするのだと教えられてそうしていた刺草がいなくなったことに、大きな目に涙をいっぱい溜めて悲しんでいる。
そのくせ、この子供が案じるのはロクサーヌの悲しみばかりなのだ。
「手を繋いでくれるのは、私が悲しんでいたから?」
「うん」
「それよりも、王子の綺麗な目が、涙に溶けてしまいそうですわね」
「僕は男の子だからいいの。でもロクサーヌは女の子だから、守ってあげるんだ」
「あらあら、まだこんなおちびさんなのに?」
「僕、狼みたいに大きくなるよ!そうしないと、ロクサーヌが勿体ないもの」
「勿体ないのですか?」
「うん。すごく綺麗だから、本当は…………兄上みたいに格好いい男性がいいんだけど」
むちむちした小さな自分の手を見下ろし、悲しそうに溜め息を吐く。
けれど、持てる魔術は潤沢なので、この王子はこれから立派に育つだろう。
夢見るような萌黄色の瞳と淡い水色の髪を持つ、乙女の夢見るような理想の王子として。
「でも、私はディートハルト王子がいいのですわ」
「うん!」
ぼふんと小さな体が抱き着いてきて、幸せな気持ちで体温の高い子供を抱き締めた。
この子供が心を損なって弱り切っていたとき、自分にだけ見せる安堵の表情が好きだった。
この稚く輝く生き物にとって、自分が特別であることこそがロクサーヌの喜びだったのだ。
「僕ね、頑張って背を伸ばして、頑張ってうんとお金も貯めるから、ロクサーヌはやりたい結婚式を全部やってね」
「まぁ、何て頼もしい王子様でしょう」
「兄上より背が高くなるんだ。牛乳も飲んでるし…………」
それはどうだろうと思ったが、ロクサーヌは言わずにおいた。
この骨格からすれば、ある程度身長は高くなるに違いないが、ヴェンツェルには及ばないだろう。
ヴェルリアの王族は、元々長身の者が多い。
(私が踊ったから、妬いているのかしらね)
今年の夏至祭の夜、ロクサーヌは初めてヴェンツェルとダンスを踊った。
毎年しつこいくらいに請われるからでもあるが、第一王子の代理妖精の一人が、ロクサーヌの大事な王子を餌付けしているのが許せなかったこともある。
この可愛い浮気者は、甘いパンケーキに籠絡されてロクサーヌとの散歩に遅刻してきたばかりか、無邪気にその妖精の料理の腕を褒め讃えたのだ。
あまりにも美味しいから、ロクサーヌに食べさせてあげたいのだと言われてしまえば、怒るに怒れないではないか。
その上、あろうことか、夏至祭で顕現した火竜の一人が、あまりにも愛くるしい子供だと王子の守護を名乗り出た騒ぎまであった。
困惑する王子を抱き締めて、火竜らしい鮮烈な美貌の女は、ロクサーヌをあからさまに挑発する始末。
他にも様々な者達が、日差しが弾けるように笑う子供に惹かれて集まってくる。
ロクサーヌが冷静ではなくなったのは、そんな風にあの王子があまりにも手当たり次第に愛されてしまうからだ。
(ヒルドの溺愛している歌乞いとは、少し違う)
ヒルドは、指輪で結ばれた魔物の隙間を奪う者であり、言わばロクサーヌにとってのあの火竜であった。
結局あの火竜は縁を切るにはあまりにも高位ということで、守護を借り、友情を育む相手として王家に承認されてしまった。
正当な立場にありながら、大事な領域が虫食いのように減っていくのを見て、ロクサーヌは自分はこんなことで動揺するのかと思い知らされる。
であれば多分、自分の憂いのそれは、ウィームの歌乞いの契約の魔物と同じものなのだろう。
守る為の糧となるのだからと、許すしかない浸食もある。
それに、格好いい火竜に目を輝かせている可愛い王子に、友達になってはいけないとは言えなかった。
『ロクサーヌをお嫁さんにするのは、僕なんだ!』
だから、第一王子と踊るロクサーヌの手を引っ張って、そう宣言した子供の独占欲が嬉しかった。
求められてきた自分が初めて欲した、脆弱な生き物が自分を選んだ瞬間。
『兄上の方がうんと恰好いいけれど。………ロクサーヌは、僕じゃ嫌?』
そう涙目でこちらを見上げた王子の愛くるしさに、広間にいた者達の多くが心を奪われてしまった。
大事な代理妖精を他の兄弟に取られてしまい、勘気を起こした小さな子供の可愛くて大人びた我儘だと取ったものがほとんどだったが、ロクサーヌはその好機を逃さなかった。
こちらに残って夏至祭の夜を楽しんでいたあの火竜が羨望に歯噛みしているのを見て、誇らしさと安堵でいっぱいになる。
(母親の代わりなどいくらでもしてあげるけれど、母親代わりだけでは嫌なのよ)
それではいつか、この大事な子供を手放す立場になってしまう。
だとすれば、もっと永続的な存在として、鎖をかけておきたかった。
『子供の我が儘なものか。立派に男の目をしているではないか』
そう苦笑していたヴェンツェルは、第一王子の自分のダンスを邪魔した弟を罰しはしなかった。
それよりも、みんなが溺愛している末王子が拙い求婚をしたことで、広間で視線を尖らせるご婦人方を見回して呆れ顔をしていた。
『珍しいものだ。そなたが、籠絡するのではなく籠絡されるとはな』
『あら、そういうものですのよ。我々とて、欲がありますもの。与えるよりも与えられる方が、恩寵なのは誰とて同じ。あなたとて、恵まれるが故に欲する階位の者でしょうに』
そう返したロクサーヌに、珍しくヴェンツェルは少し目を瞠っていた。
分け与えるのでもなく、奪うのでもなく、まるで何も持たない赤子が強請るように望む自由があったなら。
この王子も、そう考えたことがあるのだろう。
或いはそんな欲に気付かずにいて、このロクサーヌの言葉で知ってしまったのか。
夏至祭の花びらの舞い散る大広間で、華やかなドレスの女達が躍る。
装いも笑顔も華やかな者達の中で、心の中まで満開の艶やかさの者はどれほどだろう。
小さな幸福に満足したり、己の心の虚しさに気付かない者もいるだろう。
或いは、いつかの誰かのように微笑みながら泣いている女も。
そして今、ロクサーヌは嫣然とした微笑みで、その全てを優しく見つめていた。
微笑みというものは浮かべるものではなく、零れ落ちる歓喜の形だと、初めて知って。
愛を知らない者が哀れだということはない。
だがしかし、望んだ愛を得る者は間違いなく幸福なのだ。
『ロクサーヌ、後で僕と一緒に林檎のケーキを食べてね』
大好きな紅薔薇のシーに手を繋いで貰って、小さな王子は弾むように踊る。
時折ふわりと体を浮かされて、きゃあっと笑い声を上げて擽ったそうに瞳を輝かせる。
『ええ、ご一緒しましょうね。私の大事な王子様』
そう答えれば、小さな瞳に得意げな微笑みを浮かべて、兄王子の方を見るのだから可愛らしいものだ。
ロクサーヌもまた、艶やかな勝者の微笑みを振りまき、可愛い王子と踊れる代理妖精の立場を誇る。
しかし、本当の衝撃はその後に待っていた。
『僕、みんな大好き!みんな元気でいてね』
ディートハルトに連れられてロクサーヌが訪れた部屋には、林檎のケーキを前にずらりと並んだ女達がテーブルについていた。
中にはさっと気まずそうに目を逸らす薔薇の系譜の妖精や、挑戦的にこちらを睨んでくる精霊、あまつさえ、王や王妃の代理妖精達までいるではないか。
無邪気に微笑む王子の向こうで、女達は複雑な作り付けの微笑みを交わし合う。
ロクサーヌは、罪のない子供の言葉だからと自分を納得させようとしたが、さすがにこれは多過ぎやしないだろうか。
これだけの女達が、天性のたらしの素養を持つ幼い王子に魅せられてしまい、この夏至祭の特別な夜に恋のお相手ではなく、可愛い子供の為に時間を空けてしまったのも恐ろしい。
(これはたしかに、末恐ろしいのかしら………)
よくもまぁこれだけの女達の心を蕩かしてしまったものだ。
そう考えて頭が痛くなったが、聞けば騎士達とは昼間に一緒にケーキを食べたらしい。
庭師の老人から、偶々訪れていた異国の外交官までと、どこまでも手広く籠絡している。
やはりそこは、王族の血とも言える稀なる特異さだった。
その夜、ロクサーヌはこの小さな王子と早々に婚約してしまったことを、心から感謝した。
婚約は婚約でしょと笑った火竜とは、長い戦いになりそうだ。