19. 報復措置を取ろうと思います(本編)
アルビクロムの森林公園は、柔らかな午後の日差しに溢れていた。
明らかに乗馬用のコースを徒歩で辿りつつ、ネアは目を光らせる。
木立が深いので、あのもやもやした生き物を見逃さないようにしなければならない。
「待て。……………何で丸腰の可動域四が、魔物狩りしようとしてるんだ?!」
「何を仰っているのか、さっぱりわかりません。どうぞ、淑女の散歩を邪魔しないで下さいね」
「お前、自分の顔を鏡で見てみろ。…………完全に、狩人の顔だぞ…………」
途中、鹿の置物の横に水盆があったので、ネアは慌てて駆け寄り、ポケットに隠し持っていた真鍮の水筒に水を入れる。
どうも馬用の水飲み場であるようだが、この際出所は気にしない。
先程バスルームを探していた用件が達成出来て、少なからずほっとした。
「………そのドレスのどこに、収納があるんだ」
「食いしん坊な可愛い魔物の為に、特別デザインで作って貰っているんです」
「………あいつが?」
「いえいえ、違う子ですよ。その子の為に、常にクッキーを持ち歩く必要があったので」
アルテアの表情はどんどん曇ってゆくばかりだが、そもそも勝手に付いてきているのだ。
出来れば、そろそろ静かにして欲しい。
さくさくと、石畳の上に降り積もってしまった落ち葉を踏む音が響く。
森の入り口の常葉樹の一帯を抜けると、目にも楽しい落葉樹の一帯に入った。
紅葉し色付いた木々の足元には、丁寧に手入れされた花々が咲き乱れていて、幸いにも周囲には人気がないようだ。
だが、鳥達や小動物の気配もないので、話に聞く魔術汚染が起こっているという可能性もある。
ネアは、ちらりと後方を見て、小さく溜息を吐いた。
「付いてきてもいいですが、用心して下さいね。これから向かう先に居るかもしれない方は、非常に特殊な思考回路を持ち、同性は全て敵とみなす凶暴性の高い変質者です」
「確実に、さっきの話に出た魔物だな」
「危ないのであまり近付かないことを推奨します」
「お前は、その注意事項を、全部自分事として考えてみろよ………」
「あら、私はこれでも武装していますよ?」
「………は?」
さらりと告白したネアに、アルテアは目を瞠る。
人間臭い彼の表情は、驚きだけではなく疑いや呆れなど、様々な感情を過らせるのだが、表面的に整えられたものであることも多い。
しかし今、鮮やかな赤紫の瞳は、確かに困惑していた。
アルテアからはかなりの疑惑の眼差しを向けられているが、実際にネアは、そこそこ武装しているのだ。
まず第一にディノの指輪が防御を司ってくれるのは間違いないのだし、この指輪が、固有結界を無効化することも、少し前にウィームの町中で起きた髪喰い事件で確認済だ。
第二に、先程出掛けてゆくゼノーシュからもらった向日葵の種のようなものが、ポケットの中にある。
こちらは投擲された相手を積極的に呪ってくれる品物で、綺麗な花が咲くらしい。
元はゼノーシュのおやつだったところが凄まじいが、心配だからと持たせて貰った大事な武器だ。
(そしてこの水筒があれば…………!)
冷やかな微笑で水筒をじゃかじゃかとシェイクすれば、アルテアが更に嫌そうな顔をした。
水筒の中身がどれだけ混沌としているかは、まだ秘密なのだ。
ネアは基本的に平和主義だが、とても心が狭いので、やるときは徹底的にやる主義である。
更に最終兵器をこの体に忍ばせているが、そちらについては、ネアの心も死んでしまうし、アルテア諸共滅ぼしてしまうので、最後の切り札であった。
「だいたい、その魔物は腕を落とされているんじゃないのか?等価値以上の報復をされただろう」
「私は、その黒煙の魔物さんを知りません」
「……ん?………ああ」
「加えて私は、博愛主義ではないので、知らない方と身内とでは、明確に好意の順列をつけます」
「……………ああ」
どうしてだろう、アルテアの顔色は更に悪くなるらしい。
「なので、ディノの傷を治す手立てを得るまでは、私は一切の慈悲をかける予定もありません!」
「普通に考えれば、あの魔物の方がお前より、数段上の力持ちだからな?」
「武装……」
「はいはい。武装してる、武装してる」
「くっ、黙って下さい!」
子供をあやすような物言いにされたので、前述の通り心の狭いネアは、少しだけ不愉快になった。
これはもう、この魔物もを巻き込むような感じに、最終奥義を披露しても良いだろうか。
更に暫く歩くと、ぷんと緑の香りが濃くなった。
誰かに踏み荒らされた花々は、ラベンダーのような独特の強い香りを放つ。
そうして踏み荒らされた花壇に目的地が近付いてきたことを察すれば、その先の広場にある、柔らかな水音を響かせる大きな噴水台に、煙が凝ったような何かがうずくまっていた。
少しだけ怯んでしまったが、ネアは足を止めなかった。
こちらの足音に気付いたのか、のろのろとこちらを振り返るのは、奇妙な塊だ。
「……………マタ、……お前達か」
声はしわがれて、男性のような、老人のような、不思議なひび割れ方をしている。
振り返った煙の頭部に当る位置には、ぼんやりとした光が見えるので、目なのだろう。
今回は唐突に攻撃をしかけては来ず、失った片手を抱き締めるような恰好で、敵意だけを向けるこれは、確かに異世界の生き物である。
「私の魔物の、傷の治し方を教えて下さい」
「………イやだ。治らないなら、勝手に死ねばいい。相応しい報いだ」
「そうですか」
「は?!おい!いくらなんでも…」
ずかずかと黒煙との距離を詰めたネアに、アルテアが抗議の声を上げる。
だが、流石は魔物らしく、口は挟むが手を貸すようなそぶりはないし、ネアを引き留める労力も省かない。
そんなことは想定済だったので、ネアは迅速に攻撃を開始した。
そこから先は、黒煙も初めて遭遇する、一方的な蹂躙だったのだろう。
静かな景勝地に響き渡る悲鳴は、そんな事は想定済みであったネアの手を緩める材料にはならなかった。
邪魔な人間を排除しようと、残った片手を振り捌くようにした黒煙は、その衝撃波がネアを一切傷付けなかったことにとても動揺したようだ。
だてに、魔術可動域が四ではない。
魔術の脆弱さを気取らせておいたのだから、守護があるとは思わず油断したのだろう。
ネアはその隙に、指輪のある方の手で、てやっとゼノーシュから貰った種を投げつけてしまう。
当った部分の煙が濃緑に変色すると、見る間に種が芽吹き、細い蔓性の植物をぐいぐいと絡みつかせてゆく様子は、相手が気体だろうがお構いなしの獰猛さで、細く鋭い棘が生えているのが秀逸である。
(もともと、実態のない亡霊に寄生する植物ですからね!)
ゼノーシュ曰く珍味となるそうだが、咲いた花は菖蒲のようで美しいものの、ネアとしては異世界の危険植物といった印象だ。
続けざまにネアは、噴水の台座から転げ落ち、蔓に身動きを取れなくなった黒煙の目の前に立つと、真鍮の水筒をひっくり返し容赦なく中身を浴びせかけた。
因みに、悲鳴はここで上がっている。
「さぁ、あの傷の修復方法を吐くのです。最終手段を講じますよ?」
「………ものすごく勇気を振り絞って聞くが、その水筒の中身は水じゃなかったのか?」
そう尋ねたのは、ちっぽけな人間が黒煙の魔物を虐め抜く様を、後方から観察していた魔物だ。
「水を主体として、塩と聖灰と、グラストさん特製の激辛香辛料油が入っています!」
「………悲鳴の原因は、塩と香辛料だな」
「まぁ。塩と聖灰を目玉にした筈なんですが、香辛料も有用なのですね」
「単純に考えろ。目や傷に沁みる」
そう聞けば、魔物も激辛油は目に沁みるのかと、ネアは目から鱗の心持ちだった。
なお、グラストは極端なほどの辛党で、彼が持ち歩く香辛料はハバネロ超級の唐辛子油があるのだ。
様々な民族の様々な見解で、魔除けというのは実に幅が広い。
以前に、香辛料は魔除けにもなるという記述を本で読んだことがあるので、あくまでも保険として混ぜ込んだだけだったが、効果ありでご機嫌になる。
「他に、結び目をつくった紐と、針もありますが有効ですか?」
「針はやめろ、針は。と言うか、もう充分だろうが」
そう窘められて、ネアは、動かなくなった黒煙の魔物の顔を覗き込む。
もはや煙姿ではなく、黒髪の骨ばった男性姿になって転がっているのだが、濃い隈や頬のこけ具合を除けば、やはり魔物らしく端正な顔立ちの男だ。
しかし、情念深い恋をしそうな面立ちなので、残念ながら、ネアの評価は上方修正されなかった。
「さぁ、傷の治し方を教えるのです」
「…………知らない。あれはただの傷だ。治らないのなら、その魔物の責任だ」
「……………そうですか」
「水筒を投げつけるのはやめろ!」
「なぜ阻止するのですか。頑固者には、こちらも強硬手段を講じる必要があります。時には、物理的な攻撃にも意味はあるのですよ?」
「いや、本気で知らないだけだろ。と言うか、確実にシルハーン自身の問題だ」
「まぁ、アルテアさんは、私の魔物が、傷一つ治せない軟弱ものだと言いたいのですか?」
すっかりむしゃくした人間は、目の前の魔物を冷ややかに見下ろした。
自己責任とは言え、恋が不完全燃焼なのは気の毒だし、腕を失くしたのも哀れだ。
けれども、借り物にいっただけのネア達を攻撃してきたのは彼自身。
ひとえに黒煙自身の社会性のなさと、暴力性がもたらした結果である。
なおここで、場合によっては月の羅針盤を奪い取ったかもしれない人間の邪悪さには、不都合なので触れないようにしておこう。
「治し方がわからないと言うのであれば、自分でも治せないような怪我を、あなたは、私の大事な魔物に負わせたんですね?」
ただ、心の欲望の赴くまま、加害者を糾弾するのだから、ネアとて卑劣な人間なのだ。
しかし、その行為が醜くても残虐でも、ネアは恥じ入るつもりもさらさらなかった。
(私にとって大切なものなど、片手の指くらいしかない)
この見知らぬ世界で、ネアに紐付く、ネアが触れられるものはとても少ないし、この世界に来る前にネアの手の中にあった大切なものは、皆、理不尽に奪われてしまった。
やっと、また大事に出来るものを手に入れたのに、その為にすら必死になれないのなら、どこで心を動かせと言うのだ。
「お仕置きです」
黒煙は口を噤んだままであったので、すうっと息を吸い、ネアは微笑んだ。
一瞬、背後が不憫になったが、彼は一応は仮面の魔物なので、今回の任務の不手際の挽回も兼ねて、諸共狩ってしまおう。
組織に属する人間としては、そのような狡賢さも必要であった。
そうしてネアは、身勝手な理由ばかりを抱え、口を開いた。