143. 乗り越えられたのか謎です(本編)
その後ネア達は、無事にダンスを終えた。
ノアと踊るのは初めてなので少し緊張したネアだったが、人垣の中に知り合いを発見してしまった塩の魔物は、擬態で他人になっていながらも終始震えながら踊っていた。
どうやら、かつて刺されたことのある精霊の女性が、人間に擬態して見物していたらしい。
よく似合う漆黒の盛装姿も艶やかに、夏至祭のダンスで恋に落としてみせるよと甘く囁いていたのに、自分の持ち時間が終わるとすぐさまリーエンベルクに逃げていってしまったノアに、ネア達は生温い眼差しを送る。
「やれやれ、ネイは寧ろよく今まで無事に生きてきましたね」
「心臓はありませんけれどね」
「おや、確かに」
「この前も、偶然会ったと話していたよ。性格の不一致で、体には戻したくないそうだ」
「心臓のことでしょうか?」
「ああ。難しいなら戻してあげようかと言ったのだけど、嫌いだから戻していないだけなのだそうだ」
「心臓とは………」
ネアは釈然としない気持ちになったが、そういう事は稀にあり、決別した自分の右目と殺し合った精霊や、家出した右手が敵方についてしまい、殺された魔物もいる。
「ちょっとよくわからないので、私は一般人で良かったと思うばかりです」
「お前が一般人なのかは難しいところなのだがな」
「あら、エーダリア様に言われたくないのです!…………そして、キュモキュモ鳴いている狸さんが現れました」
分かりやすく狸!という配色の動物が現れ、二本足で立って両手を擦り合わせながら鳴いている。
「それは踊り狂いの精霊だ。決して手を取ってはいけないよ?」
「パーティ大好きな夜の民ですかね」
「夜行性なのは確かだけれど、ほら、ああいう風になるからね」
ディノが指し示した方では、狸の群れに囲まれて輪になって激しく踊る男性がいた。
あまりにも早くて目で追いきれないので、つむじ風のようだ。
「ああして巻き込まれてしまうと、踊り勝つまで抜け出せないのですよ」
「いつ終わるのでしょうか?」
「夜明けまでには。しかし、夜明けまであの調子で踊れば大抵は死んでしまいますから何とも……」
「おや、あの人間は踊り勝ちそうだね」
「む。………凄いです!確かにあの男性の方がステップが早いですよ!」
「ハツ爺さんだ。毎年ああして、踊り狂いの精霊に打ち勝つことを生き甲斐にしている」
「まぁ、何ともお元気ですね………」
万象の魔物すら困惑させる健脚で、ハツ爺さんは見事に精霊達を打ち負かした。
その途端、狸達はぽこんと音を立てて見事な宝石の山になった。
「ほわ!財宝になりましたよ!」
「ハツ爺さんは、踊り勝つことで生計を立てているからな。ウィームの夏至祭の風物詩だが、今年はこの広場だったのだな」
「ディノ、偶然とは言え楽しいものを見てしまいましたね」
「人間は凄いね………」
「私も、あの精霊に勝った人間は初めて見ました………」
ディノとヒルドは呆然としていたが、狸のひとチームを全て財宝に変えてしまい、ハツ爺さんは自分で引いて持ってきていたらしい荷車にその財宝を積み込んでいる。
積み荷の宝石の一つにそろりと手を出した妖精は、容赦なく叩き潰された。
この様子なので、誰もハツ爺さんの財産には手を出せないのだとか。
「さて、後は…」
エーダリアが仕切り直してリーエンベルクへ逃げて戻ろうとしたところで、ネアは無言で足元を見た。
隣の魔物も、同じように下を見る。
「何か踏みました」
ギュッという声がしたのだ。
「………なにやつ」
「竜の幼体ですね。……下から手を出そうとしたのでしょう」
「足元をちょろちょろされたので、こうなって当然です。私の過失ではありません」
「ご主人様、どこかに捨ててこようか」
「………生きていますよね?」
「生きているよ。海竜の子供だね。ヴェルリアあたりに戻しておこう」
「初めて見ましたが、水掻きがあります!」
うっかりネアに悪さをしようとした子竜は、ぽいっとヴェルリアに捨てられてしまった。
目を覚ましたら困惑するだろうが、女性のスカートの下に入り込んで命があるだけ有難いと思っていただきたい。
「エーダリア様、前。……あ」
今度はその直後、飛んできたもふもふ兎がエーダリアの顔面にばすんと衝突した。
土地の誓約が発動し、じゅわっと消えてしまう。
「………前を見ずに飛んでいたのだろう。餅兎の精霊だ」
「もちうさ!」
「ざ、残念ながら、誓約に焼かれてしまったな。哀れなことをした」
「もちうさは、どんな精霊さんなのですか?飼えますか?」
「ネアがまた毛だらけに浮気する……」
「ネア………。餅兎は、その、………暴食を司る精霊だ。契約すると餅兎の体型よりも丸くなるぞ」
「…………おのれ、もちうさめ。あの豊かでもふもふの体で誘惑されてしまいました。何と恐ろしい生き物でしょう」
優しいピンク色のふわふわな生き物にテンションを上げたネアは、何を司るかを知り、一瞬で興味を失くしてしまった。
素敵なおまんじゅう体型だったので、あの体型に寄せられてしまったら、アルテアに苛められるに違いない。
「もちうさは諦めましたが、こんなにも沢山の生き物がいるのですね」
リーエンベルクの門をくぐる前に、ネアは万感の思いでそう呟いて後ろを振り返った。
あの後も、夜の一番賑やかな時間に外に出ていたからか、正門まで戻るだけの短い時間で色々な妖精や精霊に出会ってしまった。
これが、夏至祭というものなのかと少しだけ不思議な愉快さを感じて、ネアは屋内に入るのが名残惜しくなる。
(まだ篝火が燃えてる。音楽が聞こえてきていて、人ではないものの笑い声や歌声も聞こえる……)
遊び足りない子供のように駆け出したいけれど、ネアには大人としての責任があるのだ。
側にいる人達をこれ以上ハラハラさせてはいけない。
(でも、花輪の塔の周りで踊ったし、金鉱脈の妖精の国を見て、精霊の王様と戦った!)
ふつりと唇の端が持ち上がる。
この世界は本当に、万華鏡のような忙しさだ。
「ネア?」
「あれこれありましたが、面白い一日でした。金鉱脈の妖精さんがお気に入りです」
「ご主人様…………」
ちょっとした勝負事もあったが、夏至祭はつつがなく終わりそうだ。
そう思って清々しい思いで頷いた瞬間のことだ。
「ほわふ?!」
すとんと体が落下して、何か柔らかいものを踏んでしまう。
「ミュ?!」
踏み潰された何者かは、自分に何が起きたのかわからないままお亡くなりになったようだ。
魔物にひょいっと上に持ち上げられる時に、ネアはその生き物も拾い上げてゆく。
「大丈夫かい?落とし穴だね。繋いでおいた影があって良かった」
「まさか、魔術に頼るのではなく、実際に地面を掘るとはな」
「びっくりしました!エーダリア様、………もしかしてこれは下から掘られたのでしょうか?」
「そのようだ。夏至祭の隙を縫うにしても、かなりの手練れだな。………ネア、それは何だ?」
「穴掘り名人です。真下から掘り上げた為に私が落ちてきてしまい、踏まれてお亡くなりになりました」
「…………土熊か!」
「これは随分と高位の精霊ですね」
ネアが見せたものに、エーダリアとヒルドは目を丸くしてしまう。
この土熊が出現すると、騎士達が何人か命を落とすくらいの獰猛な生き物なのだとか。
とんでもなく魔術を蓄えており、五年に一度地上に出て狩りをする、人間を喰らう生き物だ。
「強かったのかもしれませんが、今回は計画性のなさで滅びましたね」
「そうか、掘り上げた瞬間に落ちてくるとは思わなかったんだね」
「………いや、普通は足に食らいついて動けなくするのだからな?」
「だとしても、真下から掘ったら必ず一度は踏まれるのでは………」
ネアの手の中にいる土熊は、一般的な熊の形態ではなく、ドロップ型の毛皮の塊だ。
猫のような尻尾があり、熊っぽい耳もあるが、手足は短過ぎて体に埋まっている。
またしても謎めいた生き物だ。
土熊はとても良い術式を蓄えているそうで、欲しそうにしていたエーダリアにあげることにした。
例の手袋をしてご機嫌で土熊を持って帰る領主を見かけた騎士達が、驚いたように振り返っている。
さすがエーダリア様だと呟いているので、ネアはそのまま言わせておくことにした。
上司が尊敬されるのは良いことではないか。
「そして、夏至祭の晩餐は質素なのですね」
リーエンベルクに戻ったネアがそう見下ろしたのは、スープとパンに果物のゼリーだけの簡素な食事だ。
テーブルの中央には花輪の塔を模した可愛いオーナメントがあり、まだどこか高揚したままの心をふわりと浮き立たせる。
「すまないな。夏至祭の夜は、家事妖精達を休ませているのだ」
「それは素敵なことですね。こういう食卓の風習なのかと思ってしまいましたが、寧ろ私はこのお料理だけで幸せいっぱいです。暖かいパンと冷たいガスパチョがあれば、一週間くらいは楽しく生きていけそうです!」
「がすぱちょ?」
「冷たいトマトの濃厚なスープのことですよ!こちらでは、何というスープなのですか?」
「こちらでは、夏の晩餐によく飲むので夏茜のスープと呼ばれているな」
「まぁ、綺麗な名前ですね。夏茜のスープ………」
ネアは目をきらきらさせて、素敵な硝子のスープボウルに入ったスープを見た。
大好き過ぎるので、出来れば三日三晩飲みたいくらいだ。
「ネアは、このスープが好きなんだね」
「はい。お味的に、ディノも好きだと思いますよ?」
「夏茜………」
どろりとした赤いスープをじっと見下ろし、魔物は目を瞬く。
どうやら飲んだことがないようだ。
こちらの世界では、このスープはあまり貴族や王族の間では飲まれないそうで、労働のある階層の民達が、夏バテを防ぐ為に飲むスープらしい。
逆に徹夜で体ががたがたになる魔術師は好むそうだが、領主の館で出されることは滅多にないとか。
「エーダリア様が、このようなお食事も好きな方で良かったです」
「それは私も同意見ですね。何種類も分けて料理をさせるのは効率的ではありませんので、過度な美食好みの主人でなくて助かります」
「私は、魔術師として働いていた期間も長いからな。寧ろ、お前達がこういうものを好むのが意外だ」
魔術師達は一般的に、素朴だが美味しいご飯を好む傾向がある。
あまり込み入った料理だと研究室では食べられないし、コースものはそもそも時間がかかる。
「しかし、味も悪いとなると、やはり研究の意欲が下がるのだ」
「お食事は、人生の彩りであり、一日の楽しみですから!」
「その通りだな。それと、魔術師となればやはり祝祭の代表的な料理や、その季節を示す役目を持った食事にも興味がある。だが、お前はどうだろうかと少し心配だったが……」
「魔術師さんの専門的な興味とは違い、一般人としては、そういう特別さが単純に楽しいのです。素朴なお料理が元々好きですし、祝祭のお料理や季節のものを食べると幸せな気持ちになりますので、私はここに来られて良かったです」
あらためてお互いの食の好みが合った喜びを語り合っている内に、ネアは隣の魔物のスープボウルが空になってしまったことに気付いた。
これはかなりの大好物発見の予感だ。
「ふふ、さてはディノも、このスープが大好きですね?」
「………初めて飲んだよ。美味しいものだね」
「大好物がお揃いだと、嬉しくなってしまいます。おかわりしますか?」
「うん………」
給仕もお休みなので、スープのお鍋はワゴンでこちらに運んで来てあった。
ネアがおかわりを持ってくると、魔物は嬉しそうに唇の端を持ち上げた。
パンはテーブルの上のパン籠に焼き立ての状態保持がかけられており、ブリオッシュ、香草と岩塩のパン、無花果と蜂蜜のハードタイプのパン、もちもちとした黒パンがあった。
「ゼリーは、林檎のゼリーなのですね」
「ああ。夏至祭に林檎を食べると、生涯の伴侶や、生涯の友人と出会えるそうだからな」
「あら、ではここにいる皆さんがそうなることを密かに願い倒しますね!」
「おや、密かになのですか?」
「ええ。内心は面倒がられていたとしても、がっちり掴んで逃さない方式なのです」
「私としては、嬉しいお言葉ですよ」
「それなら、公にお願いしてしまいますね!……む、ノアが来ました」
「はぁ。あまりに怖くて、夜のデートはやめにしたよ。一緒に食べていい……?」
お家にいることにしたらしいノアも合流して、ネア達はヒルドが倒した鴉の精霊の話を聞いたりしながら、家族のようなのんびりとした団欒を楽しんだ。
時折ヒルドには伝令が入り、遠い目をしたり、溜め息を吐いたりしているのが心配だったが、夏至祭の被害報告が上がってきているそうで、てきぱきと指示を出していた。
とは言え、ほとんどの仕事はダリルに褒めて欲しい門下生達が死に物狂いで片付けてしまうらしく、この程度の忙しさで済むのだそうだ。
上手くいってお気に入りに昇格出来れば、来年の夏至祭でダリルとデートが出来るかもしれないので、彼等も必死なのだとか。
やがてエーダリア達は最終確認の為に執務室に戻って行き、ノアはなぜかボールを隠し持って付いて行く。
ネア達は各自お風呂に入ったり、今日の仕事の記録をつけたりして、就寝前の時間を過ごした。
「さて、寝る前にディノにお話があります」
寝室に入ったのは、日付が変わった直後のことだ。
ざざっと夜の色味が変わり、途端に窓の向こうが静かになる。
夏至祭の最盛期を超え、あとは夜明けまでゆっくりと時間をかけて街は静かになってゆくのだという。
今日から夏いっぱいこちらに残る生き物達は、夜明けと共にこの夏を過ごす巣を探してあちこちに散らばってゆくらしい。
「ネア………?」
「寝る前に話し合っておかないといけないことがあるのです。ここに座ってくれますか?」
ネアがそう言った途端、ディノは静かに瞳を揺らした。
ネアが用意した向かいの椅子にきちんと座り、両手を軽く握り合わせている。
「やはりね。………君は、気付いてしまうと思った」
微笑んだ筈なのに瞳には虚ろな影がある。
ネアは、今日の夕方にこの魔物が見せた悲しげな苦痛の眼差しを思った。
だから、余分を省いていきなり本題から切り出す。
「これは、ディノの血ですよね?」
首飾りの金庫から取り出したのは、夕方にディノから取り込んでおくように言われた小さな赤い結晶石だ。
それを見た途端、ディノは小さく息を飲む。
「………飲んでいなかったのだね」
震えるような沈黙を挟み、魔物はぽつりと呟いた。
「はい。飲みませんでした。夏至祭の日には、魔物の血を取り込むと、婚姻の扱いになると聞いていましたから」
「…………そうだね、ネア…」
「これを、私に飲んで欲しかったですか?」
静かな目でそう尋ねると、ディノは小さく微笑みを深めた。
「不思議なんだ。少し前までなら、君がそれを飲めばただ満足しただろう。でも、今はもうそう言えないんだ」
悲しそうに微笑むので、ネアは手を伸ばしてその頭をそっと撫でてやった。
はっとしてまた瞳を揺らした魔物を安心させるように、穏やかに微笑みかけてやると困惑したように眉を下げた。
(良かった。そう考えてくれて)
そういうものでは嫌なのだと感じられるようになったことは、とても大きな進歩だと思う。
「では、お返ししますね。私はもう安全ですから、これはまた今度で良さそうです」
「また今度………?」
「いつかの夏至祭では、必要になるかもしれませんから。その時にはもう、それを飲み込むことに支障はないかも知れませんね」
「ネア………、君は嫌だから取り込まなかったのではないのかい?」
「今はまだ違うから、そうしなかったのです。嫌であれば、この結晶石を渡された段階で蹴り倒しています」
「蹴り…………」
「でも、あの時は仕方ないと思ってしまったのでしょう?」
「ネア………」
少し甘さを孕んだ囁きの後、ふわりと抱き締められた。
「君は、…………怒るかと思った」
「あんな風に悲しそうに渡されたのですから、怒りませんよ。しめしめと微笑んでいたら、婚約破棄してぽいしますけれどね」
「ご主人様……………」
「でもディノは、嫌で堪らないのに私がまた事故るかも知れないと、自分の立場を危うくする覚悟で守ろうとしてくれたのでしょう?」
小さな吐息が溢れ、色めいた男女のそれとは違う、切実な抱擁の中で微笑んだ。
こんなに震えてへばりついてくるのだから、さぞかし怖かったことだろう。
怖がるくらいならなぜ相談しないのだと、不器用な生き物の背中を撫でてやった。
ここでぽんぽんと背中を叩いてやると死んでしまうので、やはりおかしな生き物だ。
「君は時々、不思議なくらいに赦してくれるんだね」
「あら、私は心の狭い人間ですよ?今回のことは、ディノの本音がわかりやすかったのと、そのせいか気にならなかっただけです。因果の精霊さんのこともありましたし、心配をかけてしまいましたね」
「…………君が、いなくなることだけは耐えられない」
その心細さを滲ませた弱々しい声に、ネアはまた微笑みを深める。
これはしたたかで邪な生き物なので、果たしてどこまでがディノの本当の弱さなのかはわからない。
それでも確かに、魔物の本音でもあるのだ。
「あら、それは私に失望されてしまうよりも?」
「君がいなくなるよりはいい………」
ぺそりと項垂れた魔物を撫でてやると、不安そうにこちらを見たのでまた微笑みかけてやる。
「この頃は死者の国やら何やらと色々あったので、不安ばかり育ててしまったのでしょうか。でもこの通り、死者の国に落とされても無事に帰って来るくらいには頑丈なのです。ディノもいつだって間に合ってくれますし、いつだって助けてくれる心強い方達がいますよ」
「…………うん、………そうだね。そんな風に選択肢が広がってしまったから、私は複雑なものが欲しくなったのだと思う。………君には、君が知っているような当り前の形で受け入れて欲しいんだ」
ネアは少しだけ、普通も何もあの趣味が駄目なのではと思わないでもなかったが、賢明にもそのことは口にしなかった。
なのでただ、そんな自由さを与えてくれようとする魔物の優しさに微笑んで頷き、短い言葉に丁寧に温度を込める。
「有難うございます、ディノ」
やっと安らかになった微笑みを深めて、魔物は艶麗な眼差しに、安心に緩んだ男性的な独占欲を滲ませる。
欲しても尚、待つことが出来るくらいに安堵したのだと思えば、それはここまでに築き上げてきた二人の時間のお蔭なのだろう。
この魔物はもう、逃げないかどうか確認する為にネアを脅したりはしないだろうし、ネアが元の世界に帰りたがっていると不安になることもないに違いない。
多分。
(私が自分を見捨てないという見通しが立ったから、ディノは緩められるようになったんだわ)
もし、客観的にネア達を見ている誰かがいたら、こんな状況を怖いと思うのだろうかと少しだけ考えた。
寄る辺ない土地に落とされ、姿さえも変えられたその先で、強制的に面倒を見ることになった魔物に結局絡め取られてほだされてしまったのだから。
(でも私は、この魔物が堪らなく可愛いのだ)
それは情愛のその鋭さとはまた違う、もっと手当たり次第の愛情だった。
駄目なところも慈しむことが出来る、無償の愛情に近しい、狡いくらいに丈夫なもの。
(だから私は、きっと………)
ふと、きらきらと優しく光るディノの腕輪が気になった。
いいことを心の中で宣言しかけたところだったが、思考散漫な人間らしく、そちらに気を取られてしまう。
(新しいアクセサリーを買ったのか、何かの道具なのかしら?)
そんなことを考えていたら、ディノがもじもじとしながら声を上げる。
「ネア、」
「はい。まだ不安なことがありますか?」
「念の為に、この石を持っていて欲しいんだ。何かあったときには飲み込めば、私に繋がるものになるから、もう安心だよ」
「むぅ。………確かに、万が一の事件や事故の際には、あると安心かも知れません。備えがあるというのは、いいことですものね。しかし、こんなに大事なものを預かっていて、もし首飾りや金庫を奪われてしまったら、もっと困ったことになりませんか?」
「心配しなくていいよ。私が君に与えたものは、君以外の誰にも使えないようにしてあるから」
「…………もしかして、第四王子様に持ち逃げされた腕輪もそうなのですか?」
「あれもそうしてあるよ。金庫としての奥行きがあることはわかるけれど、実際に使うことは出来ないようになっている」
「まぁ、…………可哀想ですが、何だかすっとしました!」
と言うことは、ジュリアン王子は取り出すことの出来ないままの星渡りを入れた腕輪を持ち続けているのだろうか。
それもそれで少し心配にもなったが爽やかに忘却することにして、ネアは大事な魔物を見上げて落ち着いたかどうかの最終確認に入る。
老獪な生き物なので本音を隠されてしまうこともあるが、どうやらもう心配ないようだ。
「そういえばディノ、綺麗な腕輪をしていますね」
安心してそう指摘したのは、先程目に入った華奢な灰色の鎖のブレスレットだった。
水晶のように透明で、青みがった灰色の素材を細いチェーンブレスレットにしており、小さな動作でも繊細に光るのが美しい。
「……………お揃い」
「ふふ、私もディノに貰った腕輪をしていますものね。しかし今、なぜにぎくりとしたのでしょう?」
「ご主人様……………」
怖い目でじっと見上げられ、魔物はあからさまに狼狽えた。
ただのお喋りのつもりで始めたが、まず間違いなくまっとうなものではないようなので、ネアはもう一度その腕輪を凝視する。
「…………ディノ?この鎖の素材は、どうも私の差し上げた宝石と同じような色合いなのですが?」
「ネア…………」
「もしかして、私から何か紡ぎましたか?」
そして辿り着いたのは、そんな恐ろしい結論だった。
ネアがその言葉を発した途端、魔物はぴゃっとなって逃げてゆき、あっという間に巣の中に逃げ込んでしまう。
「待ちなさい!」
怒ったご主人様は、獰猛な獣のように魔物を追いかけると、巣からぴょこんと飛び出していた三つ編みを鷲掴みにした。
「逃げようとしてもそうはいきませんよ!この腕輪の素材が何なのか、吐くのです!!」
「ネアが甘えてくる。……ずるい。…………可愛い」
巣から引っ張り出されるのは甘えられている行為という謎の認識をしているので、ディノは甘えられつつ叱られているという状況に混乱気味の様子だ。
三つ編みの尻尾をぐいぐい引っ張られても、痛いよりは嬉しいようで埒が明かない。
「あれ程、勝手に抜け毛を集めてはいけないと言ったのに、また約束を破りましたね!」
「でも、君の欠片がゴミ箱に捨てられるのは、勿体ないだろう?だから、色だけ紡いだけれど、髪の毛を拾ったりはしていないよ」
「…………一瞬それならいいのかなとも思いましたが、やっぱり背筋がぞくりとします!抜け毛から何かを得るのは禁止します!!」
「酷い、ネアが虐待する………」
「何ゆえいつも、綺麗に落着すると思った最後の最後でしでかすのだ!こらっ!出て来なさい!!流石に今回はお仕置きですよ!!」
「…………お仕置き?」
「…………巣の中から期待に満ちた目で見られると、戦慄を禁じ得ません」
ネアはとても背筋が寒くなったので、やはり安易にこの魔物を甘やかしてはならないという気持ちになり始めた。
「ディノ…………先程までは何だか、婚約期間を短縮してもいいかなと優しい気持ちで思っていましたが、やはりしっかりとお互いの齟齬を埋めてゆきましょうね」
「え……………」
その夜、魔物は巣の中で泣いていたようなので、ネアは寝台を広々と使い、質の良い睡眠を得た。
やはり独り占めした寝台でごろごろするのが素敵だったので、長めの婚約期間も悪くないと実感する。
魔物が隣にいるとやはり気になるのか夜くらいしか眠れないが、一人で伸び伸びと寝転がっていると十二時間くらいは眠れそうだ。
そんなネア自身の精神年齢的にも、まだ先を急ぐには熟成が足らないのかもしれない。