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142. 夏至祭の戦闘が始ります(本編)



夏至祭の夜になった。

夕暮れ前からざわざわとし始めたウィームは、確かに魔術が潤沢な土地であるというに相応しい雑多さで、様々な生き物達の饗宴が始まる。


小さな妖精や精霊達が、人ならざる生き物らしい狡猾さで小さな罠を張り巡らせるようにもなり、リーエンベルクの騎士達でさえ、草を結び合わせた稚拙な罠で躓いたり、扉を開けたら棘のある木の実が降ってきたりと散々なのだそうだ。


因みにネアは、ヒルドの助言を採用して小さな砂糖菓子を持ち歩いていて、悪い目をした妖精がこちらを見ていると下々への施しのような尊大な態度で、砂糖菓子を地面に置いてやることにした。

そうすると、小さな生き物達はきゃあっと歓声を上げて砂糖菓子に群がり、悪戯をしようとした人間のことなど忘れてしまうのだ。

とは言え、砂糖菓子を地面に置く際には、決して卑屈になったり怯えている様を見せてはいけない。

そうすると今度は、妖精達に利用されてしまうらしい。



「すごいですね。エーダリア様が歩くと、妖精さん達が嫌な顔をして逃げてゆきます」

「土地の誓約で損なえないからな。今夜は一番面白くない人間なのだろう」

「しかし、向こうでエーダリア様を拝んでいる綿毛精霊がいましたよ?」

「一方的に近寄らせないだけでも不満が出る。夏至祭になると、リーエンベルクでは森に果物や菓子などを届けて、人ならざる者達を鎮めているから、その恩恵に預かった弱きものなのだろう」


土地の誓約がどんなものなのかを理解出来る階位の者はいいのだが、そうでない小さな生き物達から不用意に恨みを買わないように、毎年各地の王宮や領主の館ではこのような措置がなされるらしい。

特にリーエンベルクでは振る舞い料理なども出すので、ああして感謝に打ち震える生き物もいるようだ。


「昼間とはまるで違う光景になりましたね………」


そしてリーエンベルクの正門を出ると、王宮前の広場には既に多くの生き物達が踊り騒いでいた。

昼間に比べるといっそうに厚く敷き詰められた花びらの上で、人間の儀式の真似をして輪になって踊ったりしている。

かがり火に魔除けの香が投げ入れられるとぱたりと倒れるが、暫くするとまた起き上がって騒いだり踊ったりしていた。


(木の上や、建物の影の中にも沢山いるみたいだわ………)


夜風には囁きが混じり、影の中には人魚に似た小さな精霊がちゃぽんと跳ねていたり、煤毛玉のような生き物が縦に積み上がってこちらを見ていたりする。

街路樹の上からは様々な妖精達が目を光らせ、妖精を頭に乗せていることに気付かない男性を指差して笑っていた。

男性は気付かれないような魔術でも展開されているのか、髪の毛を少しずつ毟られているようなので頭頂部の状態がとても心配だ。


「むぐ?」


ネアがぎくりとしたのは、いきなり剥き出しの肩に魔物に口付けられたからだ。

酷薄なディノ視線の先で赤毛の青年が震え上がっているので、何かネアに悪戯をしようとして威嚇されたらしい。

灰白の衣装の魔物に脅されたからか、涙目になって走って逃げていった。


「困ったさんですね。どうしてディノが隣にいるのに、企んでしまったのでしょう?」

「祝祭だからだろう。浮かれているから、彼等も周囲をよく見ずに悪さをするんだ」

「だから、排除出来るような生き物達でもディノは心配になってしまうのですね?」

「自制出来ない愚かな生き物達が飛び込んでくるのだから、とても煩わしいんだよ」

「せっかく白っぽい服を着ているのに困りましたね」

「このような装いでも、限りなく気配は薄めている。見ようとしない限り、私のことは目に入り難い」

「………矛盾していませんか?」

「それでいいんだよ。あまりにも遠目から目につくと、今度はここに大きな獲物がいると教えるようなものだ。高位の者達は、高位の守りから掠め取ることを好む日なのだから」


今度は弾みながら飛んできた平べったい生き物を手で払いながら、ディノは憂鬱そうに溜め息を吐く。

手で払われた生き物はぼふんと消えてしまったが、儚くなってしまったのだろうか。



そんな混戦状態であるので、夜のダンスの部に参加する乙女達は、戦々恐々とした眼差しであった。

青年達も引き攣った顔をしているが、であれば何故こんなところに出てきてしまうのだろうか。


「このダンスを踊りきって、君のお父さんに認めてもらうからな!」

「ハンス!」

「五人の子供がいたって、君のいい夫になってみせるさ」

「そうよね。再々婚なんて私は気にしていないわ。お父さんもきっとわかってくれる」


「俺がどれだけ頼りになる男か、この危険を乗り越えて君に証明してみせるよ」

「アルノー、素敵だわ………」


心配になって眉を下げていたネアは、近付いたところで聞こえてきた参加者達の会話に、また違う意味で眉を顰める。

夜の部に参加する者達には、色々と複雑な事情があるようだ。

しかしながら、自尊心の為にパートナーを危険に晒すのはやめていただきたい。



不思議にも、まだ夜になったばかりの時間なのに、夜闇が濃いような気がした。

べったりとした黒い闇ではなく、綺麗な濃紺のインクを何層にも重ねたような透明で奥深い美しい夜だ。


濃密な花の香りに、篝火の揺れる影、そんな中をゆったりと流れるワルツの旋律。

その中で綺麗なドレスを着て花冠を乗せて歩くと、夏至祭の女王になったような気さえする。

しゅわしゅわと光の尾を引いて、星の精霊が遊んでいる姿に見とれている内に、いつの間かネアは花輪の塔の前に到着していた。


あくまでも夏至祭の主役は乙女達である。

エーダリアが領主席に着くので、ダリルの弟子だという二人の青年が警護を引き継いでくれた。

ヒルドやグラストがいないのでたいそう警戒しているが、エーダリアの肩の上には居眠りしている銀狐がぶらさがっているので、かなり盤石な警護体制である。

すれ違った騎士が、毛皮飾りではなく生きた狐だと気付いたのかびくっと体を揺らしていた。


「エーダリアが席についたら、ノアベルトもこちらに来るからね」

「と言うか、どうか無事に起きて欲しいですね」


念の為に、ネア達は音の魔術を展開している。

ここまで多くの生き物が入り乱れていると、気を付けて話していても限界があった。

なので調整をかけて思う存分に話せるようにして貰ったのだ。


「昼間も素敵でしたが、夜の色にディノのお洋服が映えてとても素敵ですね」


思わずそう言ってしまったのは、篝火に照らされた花輪の塔を背景にしたディノが、魔物らしい陰影に縁どられた美貌が際立ち、それはそれは美しかったからだ。

こうして見上げればその陰りが不穏なものめいていて、えもいわれぬ美しさに惚れ惚れと見惚れてしまう。


「……………ネア」


思いがけない賛辞にぱっと目元を染めた魔物は、そわそわと視線を彷徨わせた。

夕方辺りから妙に気鬱そうだったが、こうして見るといつも通りにも見える。

ネアがその瞳の澄明さを覗き込み、魔物が何か言いかけた時だった。



「お前だな。やっと見付けたぞ」

「む…………」


もわっと霧のようなものが沸き立ち不意に視界が翳ったと思ったら、横からいきなり声をかけられたネアは視線を持ち上げた。

いつの間にかそこには一人の男が立っていて、驚いたネアは目を丸くした。

厳めしい感じではないのだが、剣闘士のように背が高くずっしりとした体格なので圧迫感が凄い。

男の鮮やかな色彩に息を飲んだその直後、今度はその間に立ち塞がるようにして、また鮮やかな青緑色が揺れた。


「申し訳ありませんが、この方は生粋の人間ですので、そのままの状態であまり近寄られませんよう」

「…………ヒルドさん」


その何者かとネアの間に割って入ったのは、仕事を終えて駆けつけてくれたものか、珍しく髪を下ろしたヒルドだった。

長い髪を結ばずに下ろすと、ますます妖精の王という感じがして艶やかだ。


「っ、周囲の皆さんを!」

「いえ、このままで。精霊方、気配のご調整をなされて下さい」


周囲の人々が頭や口元を押さえているのは、どうやら顕現した精霊の精神圧が強すぎるからのようだ。

このままここで騒ぎになってはいけないとネアは慌てたが、夏至祭では珍しいことではないですからと、振り返ったヒルドは疲れたような微笑みで教えてくれる。

各地で、気紛れな高位の生き物が悪さをしたり、突然顕現して人々を驚かせたりということが起きているそうだ。



そして、そんなヒルドが交渉に立ってくれている隙に、ディノがネアを少しだけそこから離した。


「因果の精霊だ。困ったことに従僕がいるね。私が介入すると、拗れるかもしれない」

「あの方が………。そして、……確かにもうひと方いらっしゃいますね」


ご主人様を抱き寄せた魔物にそう教えられて、ヒルドの体ごしに見える背の高い男性の姿を目で追った。

何かを話しているようだがこちらに声が届かないのは、ディノが展開している音の壁のせいだろう。

こちらの声が届かない代わりに、周囲の音も届き難くなるのだ。


「そう。正面の男がガシュラだよ。その後ろにもう一人精霊がいるだろう?成就の系譜の下位精霊達の思考は少し厄介でね。己の問題は己で解決しなければならないとか、他者の手を借りることを軟弱だと見做すとか、そういう面倒な生き物達なんだ」

「脳筋系ですねぇ」

「のうきん?」

「素敵な意味もある言葉ですが、今回の使用法では、真っ当なようで暑苦しいという側面を指摘しました」

「そうだね。そんな感じだ。………ヒルドが対応しているが、あまり良くはないね。成就であれやはり因果の系譜だから、正当性を主張する為に妙に執念深くなるところがある」

「何かお作法があるのでしょうか?」

「勝負事を好むんだ。その代り、勝負で結果が出れば、自分達にとって不利益であれ決して覆すことはないんだけれどね………」

「ディノの話しぶりを聞いているに、以前何かそういうことがあったのですね?」

「……友人………の問題を私が払ったことがあったのだけれど、結局彼は、勝負を受けるまでの数年間、彼等に付き纏われていた」

「………それはとても困るので、この場で解決してしまいましょう。ひとまずディノは、そのまま擬態して様子を見ていてくれますか?」


ストーカーは兄の方だけでお腹いっぱいなので、ネアは慌ててそう言った。

特に表情を歪めこそしないが、この切実に嫌そうな口調と教えてくれた過去の経緯を見るに、ディノが姿を現してどうこうしても拗れる性質の系譜なのだろう。

だから、ネアが払った手が彼のものだったと聞いた時、あんなに嫌そうな雰囲気だったのだと得心した。

所謂ところの、苦手なタイプなのだろう。


「ネア………」

「恐らく、他者の威を借るということも嫌うのではありませんか?もう一度ディノが出てくると、敏感になってしまうかもしれません」

「………………確かにそういうところがあるが、」

「ではやはり、一度私がお話しした方が良さそうです。相手の要求を聞き出しますので、ちょっとだけ我慢して任せてくれませんか?」

「ネア、今夜は夏至祭だからいけないよ?」

「しかし、私にはディノがいます。それに、拗れて追い回されたら困ります……」

「では、………一度だけ会話をしてみようか。あくまでも話をするだけだよ。勿論私も隣にいるけれど、君の感覚で不愉快なことがあれば、すぐに私の名前を呼ぶように」


渋々了承してくれた魔物は、心配そうにネアの頬を撫でた。

夏至祭の夜は厄介だと話していて、まだ踊ってもいないのにこんな様なので、さぞかしハラハラしているのだろう。

その思わしげな様子も美しく目を伏せ、そこでふつりと音の壁が解ける。



「浸食に相対する為の、拒絶の正当な権利はこちらにもありますよ。そのようなご要望は受けかねるのですが」


壁の向こう側では、ヒルドが交渉に苦戦していたようだ。

ネアはそっとその腕に手をかけて、話してみるというようなゼスチャーをした。

こちらを見たヒルドの目は厳しかったが、ディノが何か意志表示をしたのか、不本意そうに体の位置をずらしてくれる。



「お、顔を出したか!」


そう笑った精霊は、確かにジーンとは正反対な感じがした。


精神圧を隠しても高位の者らしく美しい男性で、オレンジ色がかった短い髪に、檸檬色と赤のまだらの瞳が鮮やかだ。

太陽や向日葵、そして黄金の杯やメダルなどの約束された成果を連想させるような、確かに成就というものの気配のある容姿である。


オリーブ色のケープの裏地は、淡い檸檬色の地色に豪奢な金糸の織り模様があり、裾には赤みがかったオレンジ色の宝石がじゃらりと縫い付けられていた。

人外者らしいと思うのは、本来ならネアにとってあまり得意ではない色合いであっても、その主人に相応しいだけの美しさで目を奪うところだ。

あらためてその色彩が持つ美しさに気付かせてしまうというのも、高位の人外者達の色彩の特徴である。



「お前が、私の手を払った人間なのだな」


因果の精霊の王はそう言って笑うと、頷いたネアを無視して背後に控えた青年を振り返った。

今のところ感じのいい笑顔の男性だが、ちょっと人の話を聞かないところもあるようだ。


「ヘルツ、この少女なのだな?」

「はい。卑しくも御身を汚した、愚かな人間の歌乞いでございます」

「あら、幸せな恋人達にちょっかいをかけようとしたのは、あなたのご主人の方ではないですか」


ネアが言い返せば、ヘルツという青年はふんと目を逸らした。

短く刈り上げた金髪にオレンジ色の瞳をしていて、分かりやすく表現すれば爽やかなイケメンマッチョ風のお付きの精霊だ。


(今まであまりお目にかかったことのない、あからさまな太陽っぽい属性の人達が!)


太陽の下の夏の海が似合いそうな精霊達の出現に、ネアはいささかたじろいだ。

グラストやドリーも太陽属性を感じるが、あちらは初夏の草原や、力強い火のようにまた少し系統が違う。


「いや、すまんな。俺は別にどうでも良かったのだが、部下達が報復をしろとうるさくてな!いやなに、片手を切り落とせば終わるぞ」

「まぁ、片手を………?」

「ああ。すぐに済むから、その後は祭りに戻って構わない」


ネアはそこで一拍間を置き、この精霊は何を言っているのだろうという目を周囲に向けた。

あからさまに高位精霊という気配を帯びて顕現したので、周囲は騒然としていたのだが、精霊らしいと言えば精霊らしい要求まで突き付けてきたので、息を飲むような張りつめた空気になっていた。

少し離れた席で、エーダリアが頭を抱えているのがわかる。


「ネア……」

「ディノは待っていて下さいね。もう少しだけお話ししてみますから」


荒ぶる魔物の爪先を踏んで黙らせると、ネアは剣を抜こうとしたヒルドの腕を掴んでそちらも押さえた。

あらためて因果の精霊王に向き直り、にっこりと微笑む。


「片手を切り落とされたら困ってしまうので、抵抗せざるを得ません」

「そうなのか?人間は不便な生き物だな。なら、俺と勝負でもするか?俺は強いぞ!」

「むぅ。先攻してもいいのなら、やぶさかではありませんが………」


ディノの忠告を思い出して、ネアはその提案に素直に乗ることにした。

噂の通り、勝負事が好きな精霊のようだ。

であれば勝って黙らせるに限る。

さくさくと進行してしまったネアに、後ろに追いやられた魔物がばたばたしたが、こらっと叱ってひとまず落ち着かせる。


「ネア、後は私が引き取るよ。君は下がって…」

「どういう勝負で、どういう流れになるのかを見てから荒ぶって下さい。今はまだ、ご主人様の手腕を観察する段階ですよ?」

「ご主人様……………」

「ネア様、高位精霊との交渉を安易にしてはなりませんよ。言葉の魔術を介して、契約が結ばれてしまいますから」

「むむぅ。………では、まずはお互いにどういう手を取るか表明し合って同意するまで、正式な着地としないということで如何でしょうか?」


ネアがそう提案すればヒルドは短く頷き、すぐさま精霊側にそう伝える。

過保護だなとせせら笑ったお付き精霊に、あなた方がよってたかって虐めているのは魔術師でもない人間ですからねとヒルドが冷ややかに言えば、そりゃそうだなとガジュラは鷹揚に笑った。


(悪い人ではなさそうだわ。何というか、人外者らしいというだけなのだろう)


そう思ったネアは、腕を狙われているにせよ、滅ぼすのはやめようと自分会議に入る。

何かと過激派の保護者もいるので、ここはネアが率先して方針を定めた方が丸く収まりそうだ。

しかし、そう考えていたところで、当の本人があっさり物騒な方向に舵を切ってしまう。


「よし、ではお前が最初に攻撃しろ。後から俺が攻撃しよう」

「ええと、勝負事というのは、武力行使に限られているのですね………」

「お前の手を切り落とすと言って、それにお前が抵抗するのだ。こうするのが妥当だろう!と言うか、他のやり方に変えるとややこしいな」

「むぅ…………」


いざとなれば、後ろで刃物のような気配を溜め込んでいるディノが擬態を解いて放り出してくれるので、ネアはひとまず自力で戦ってみようかなと考えた。

主人であるガジュラがこんな感じに真っ直ぐな気質だと、魔物の力を借りて解決しても、確かにこの暑苦しそうな部下に卑怯だと恨まれそうだ。


(王様が真っ向対決派なので、お前も真っ向から勝負しろという感じなんだろうか)


ネアは少し考えから、ぽんと手のひらを打ち、一つ頷いた。


「では、私からでいいのですね?」

「ああ、お前からで構わないぞ。俺は小さきものには寛容だからな」

「ふむ。ではちっぽけな人間めは、このような攻撃を提案します」


ネアがさっと取り出したのは、グラスト特製の激辛香辛料と小さな銀色のスプーンだ。

眉を顰めたガシュラに、ネアは優しく微笑みかける。

ネアが取り出したものを見た瞬間、ディノとヒルドはあからさまに動揺して、速やかに殺気をしまってくれた。


「この激辛香辛料油は知り合いの方の手作りの調味料なのですが、とても辛くて有名なので、変質者の撃退用の武器としても活用するべく持ち歩いています。辛過ぎて私はとても食べられないのですが、これをスプーン一杯食べて下さい」

「そんなことか。だが、そのスプーンに毒でも塗ってあるのではあるまいな?」

「む。お疑いでしたら、私がスプーンだけ舐めてみましょうか?」

「ネア、それはやめようか!」

「ディノ、浮気の疑いよりももっと重要な局面なのです!」


ここでようやく、精霊達はネアのパートナーの魔物がやけに白っぽいことに気付いたようだ。

微かに目を瞠ったが、まだ白灰色の範疇なので特に騒ぐ様子はない。

ガシュラは、すぐに気を取り直したようだ。


「毒ごときで俺は死にはしないのだが、そういうものの力を借りられると気分が良くないからな。……そうだな、そのスプーンにも香辛料にも、毒は含まれていないと誓え。それならお前の魔物も納得するだろう?」

「構いませんが、土地によっては唐辛子や胡椒を毒だとする文化もあるかもしれません。個人のレシピで私にも原材料が謎なので、誰か味覚に優れた方に味見して判断して貰いましょうか………」

「そうか。言葉の契約というものは、瑣末の調整が厄介なものだな。………それなら、ヘルツ」

「ええっ?!俺は嫌ですよ!仮にも王に勝てると思うくらいの激辛の油なんですよね?!」


(あ、そういうのは断るんだ………)


完全服従のような関係に見えたのだが、案外いい職場なのかもしれない。

いいえと言える関係はとても大事だと思う。


「では、私が舐めてみましょうか?」

「ヒルドさん、激辛香辛料は大丈夫ですか?」

「あまり得意ではありませんが、グラストはその香辛料を何にでもかけますからね。何度か被害に遭ったことがありますよ」

「被害………」


しかし、野次馬の誰かからもっといい手段が提案された。

器を用意してそこに激辛油を流し込み、どんな激辛スープにも耐えうると噂のスープの精を呼び出してスプーンを突っ込むのだ。


「しかし、スープの精さんは美味しいスープにしか現れないのでは」

「何だ、系譜の精霊だな。俺が呼び出してやろう」

「なんと………」


それなら話は早いので仮設テーブルをヒルドが用意して実験が行われ、一応魔術道具なスプーンなのでネアは少し心配だったものの、幸いにもお久し振りなスープの精は、激辛のプールで悠々と泳いでくれた。



「では、この戦法で勝負として宜しいでしょうか?」

「ああ、構わんさ。俺は、お前の片腕を切り落とすべく剣を振るおう。他を傷付けると困るので、ちゃんと手を前に出すのだぞ?」

「切り落とせなかったらどうするのでしょう?」

「そんなことは在り得ないが、その場合は諦めよう。確か、俺の手を払ったのはそちらの手だな」


ガシュラがそう示したのは、魔物の指輪のある方の腕だ。

成就というものを司る精霊の王様なのが不安要因ではあるが、そうそう何ものにも損なわれないという守護のあるネアの肉体である。

いっそのこと、箪笥の角に小指を打ちつけるだとか、守護の届かなくなる死者の国で挑むだとか条件を付けない限り、ネアを身体的な打撃で損なうのは難しいのだ。


「…………ディノ、ヒルドさん、それでいいですか?」


念の為に振り返ってそう聞いてみれば、ディノとヒルドはやけに怜悧な微笑みで頷いてくれた。

この精霊も、よりにもよって守護の要となる二人の目の前で言い出してしまったなんてと、ネアは少しだけ不憫になる。

ふと思い出してエーダリアの方を見れば、その肩の上で銀狐もじっとこちらを見ていた。


(多分、みんなが守護を強化出来るから、切り落とせないだろうなぁ……)


しかもネアには、切り落とされるかもしれないような危険を冒すだけの度胸などない。

最初の一撃でこの精霊を撃破するだけの自信があるのだった。


それを知らない因果の精霊王は、渡されたスプーンになみなみと注がれた激辛香辛料油を興味深く眺めている。

服につくと油染みになるので手つきは慎重だが、所詮はティースプーンの量ではないかと明らかに侮っている。



「それにしても、こんなもので戦おうとするとはな。そう言えば確かに、人間は珍妙な言動をすることがある」



豪快に笑いながら、ガシュラはそう言うとスプーンで激辛香辛料油を口に運んだ。

その瞬間、すかさずネアは小さな声でスプーンに命じる。



「スプーンさん、百万倍で」

「ひゃく……?!」


思わずヒルドが声を上げてしまったそのちょうどのタイミングで、ガシュラはぱくりと激辛油を飲み込んだ。


「ぐはっ?!」

「わ、我が君?!」


そしてそのまま、見る間に真っ赤になると、ぱたりと後ろに倒れてしまう。

どよどよっと騒めいた周囲の観衆の中、精霊王の一人は激しく咳き込みながら、瀕死のご老体のような声で部下に水を所望していた。



悪辣な人間はその光景を冷ややかに見下ろしながら、喉を押さえてのたうちまわって苦しむガシュラに小さく頷く。



「ふむ。斃しました」

「百万倍とは、………想像するだけで恐ろしいですね………」


珍しくネアのことを、ヒルドまでが得体の知れない怪物を見るような目で見ている。


ネアが使ったスプーンは、森の賢者に献上させた加算の銀器という一品で、どんな効果のどんな素材であれ、スプーンに命じたままに効果を倍増するという恐ろしい代物なのだ。


実は以前、このスプーンで惨劇に見舞われたリーエンベルクの面々は、加算どころか乗算も成し遂げる小さな銀器がどれだけおぞましいものなのか、身を以て知っているのである。


「下手に手心を加えて、うっかり生き延びられると困ります。勝つためには手段を選ばないのが、人間の可愛らしいところですから!」

「可愛らしい……?」


思わずそう問い返してしまったのは、ヘルツという名前のお付きの精霊だ。

完全に、凶悪犯を見上げる幼気な子供のような目をしているではないか。


「そう言えば、ご主人だけが苦しむのは不平等でしょうか?あなたも試してみます?」

「い、いい!俺は辛いものは大嫌いなんだ!!」

「あらあら、そんな風に香辛料大好きっ子のようなご容姿で、何を言っているんでしょう!本当は辛いもの大好きですよね?」

「何を言ってるんだ!容姿は関係ないだろう!」

「その体型で辛いものが食べられないなど、見かけ倒しもいいところです。ちっぽけな人間達の期待を裏切らないで下さい」

「き、期待………?」

「はい!凄いなとか、尊敬に値するとかそんな大切な感情を、人間は単純なのであっさり失念してしまったりするのです。例えば、男らしい素敵なご容姿なのに、なんだ辛いものは駄目なんだというようながっかり感が加わりますと………」


ヘルツは、そこでさっと周囲を見回した。

先程までは怯えや崇拝を含む目でこちらを見ていた観衆は、今やどこか人の悪い期待の目でわくわくと精霊達を眺めている。

もう一人も激辛香辛料油の犠牲になるのだろうかと、異様な熱気が辺りを包んでいた。


「……………そうだ。よ、用事があったのだ。仮にも夏至祭にこんなところで時間を割いている余裕はない!」

「わかりやすさが堪らない清々しさですね………」


半眼になったネアに見送られつつ、ヘルツは主人を担いで逃げ出そうとする。

しかしそこで、息も絶え絶えなガシュラがそんなヘルツを止めて、ネアを呼び寄せた。


「に、人間…………」

「はい。お水ですか?」

「いや、…………ごほっ。………さ、先程の調味料を、…………愛用している人間がいるのだな?」

「はい。手作りですからね。お食事なら何でもかけてしまうくらいにご愛用されていますよ」

「そうか。………何とも恐ろしい人間だな。治癒の魔術をかけた今でも、胃の腑は焼けただれ、喉は切り裂かれるようだ。………俺の完敗だ。その勇猛な人間に成就の祝福を授けてゆこう。確か、グラストと言ったな」

「む。私が貰えないのが釈然としませんが、確かに素晴らしい方なのです」

「では、この激辛油を作った者に………」


ぺかりと光が弾け、ネアが簡易テーブルの上に置いた激辛香辛料油の瓶が光る。

ここから作り手を辿るのだろうか、流れ星みたいな光が弾けた。

そしてその淡く美しい輝きを残し、因果の精霊達はそそくさと姿を消した。



観客達はわぁっと声を上げ、よく仕組みがわからないので、ものすごく辛かったに違いない激辛香辛料油を讃えた。

精霊の王も殺しかけたので、試してみようという猛者はいないようだ。

祝祭の夜のいい余興になったようでみんな楽しげに観戦していたが、ひと騒ぎ終わるとさっと話題を切り替えているのは、高位の精霊と不用意に縁を持たないようにする為だ。

境界の緩い夏至祭の夜に縁を繋いでしまうと、今度は自分の腕が狙われる危険がある。

高位の生き物に接する機会の多いウィームっ子達だからこそ、彼等は必要以上に今の話題で盛り上がろうとはしない。


出来事自体をおさらいしたり、その精霊の容姿に触れるなど、口にするだけで繋がりとなってしまう要素は多いのだ。

これは、守護の厚いネアにはない、高位の者と関わることを忌避する人々の知恵であるらしい。



「成就の精霊王の成就の祝福ですか。グラストも、思わぬところからもの凄い力を得ましたね」

「なぜでしょう。私はこういうまっとうなものは貰えないのだなと、少し悔しいです」

「ネアが斃したのにね…………」


ディノにも気の毒そうに見られてしまい、ネアは眉を下げる。

勝負の間中ネアの背中にへばりついていた魔物は、あの惨劇の夜を思い出したのか、ガシュラが激辛香辛料油百万倍で死んでしまったとき、微かに震えていたような気がする。

ディノにとってはトラウマのスプーンなのだ。


「でも、その祝福を得るということは、相手に気に入られるということでもあります。ネア様はこれ以上増やさない方が宜しいかと」

「むむぅ」

「それと、口伝にするには危うい階位でしたので、人々も口を噤むでしょうが、少しだけ立ち会った者達の心象をぼかしておきますね」

「はい。お手数をおかけします」

「いえ、これをなされるのは、ネア様に注視されては困る者達ですので、お気になさらず」



そう笑ったヒルドの言う通り、周囲の人々から精霊王が激辛香辛料で斃された事件の記憶をふわりと曖昧にしたのは、エーダリアの得意とする禁止魔術を拡散したノアや、ご主人様を知らしめたくないディノのようだった。

エーダリアの使ったものは、該当する事象が知らない内にすとんと興味から抜け落ち、余計な執着や詮索を避けるものなのだそうだ。



「ディノはともかく、実はエーダリア様って、ものすごい魔術が使えますよね……」

「禁術の一つなのだそうですよ」


大事な弟子を褒められてヒルドは得意げであったが、ネアは、そんなとんでもない魔術が使えること自体をよく考えた方がいいと思わずにはいられなかった。

感情や記憶を調整する魔術は、その系譜の高位者であっても難しいと聞いていたからだ。


(エーダリア様は、そろそろ自分だけ一般人顔をするのをやめた方がいいような)



ネアはネアで、あまりにも途方もない上司の才能に憮然とした面持ちになってしまうが、こちらを見たエーダリアもやれやれという顔をしている。

いつの間にか背中の銀狐は消えており、代わりに少し離れたところに擬態したノアとおぼしき人影があった。



「さて、ダンスですね」


そう微笑んだネアに、魔物が頷く。

リーエンベルク前の広場は、また先程までの賑やかさを取り戻していた。




後日、ウィームではなぜか激辛香辛料油が魔除けとして空前のブームをみせたが、流行の発端はよくわからないままだった。

売り出した商人達も、効能ありとお墨付きを与えた魔術師達も、なぜそれが効くと思ったのかは思い出せないらしい。

とは言え、投げつければ確かに効果絶大だったので、久し振りのロングセラー商品となったようだ。







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