140. 夏至祭が始まります(本編)
夏至祭の日となった。
夏至の日の美しい朝に小鳥の声が響き、柔らかな木漏れ日に花輪の塔が可憐な色合いを添える。
ウィームの街のそこかしこで聞こえるオーケストラや楽団の奏でる音楽は、夏至の日に現れる魔物や精霊、妖精達を鎮める効果もあるのだという。
この日はナナカマドの枝とライラックを家の門に飾り、水辺には篝火をたく。
時折火の中に魔除けの香木を投げ込むので、辺りにはいい香りが焚き染められていた。
怪物達が姿を見せるのは、黄昏の時間から夜明けまでなので、この時間はまだ人々は夏至の祝祭の雰囲気を楽しんでいた。
朝のミサを経て正午にリーエンベルク前の広場でも大きな儀式があり、それが終わると人々はその後の危険に備えて防衛準備に入る。
一部の人々がそわそわしているのは、この日の夜の祭では、人ならざる者達に見初められることがあるからだ。
恐ろしい拉致であることも多いが、異類婚姻の多いウィームの土地では、純粋な思いを実らせる者もいるのだそうだ。
思いを寄せた妖精に口付けされるのを待ち詫びている少女達にとっては、或いは心奪われた精霊に攫われるのを期待している青年達にとっては、恐ろしいばかりの日でもない。
「しかし、そこで両思いになれるものと信じてついて行ってしまい、食べられてしまう者達も少なくないからな………」
双方の思いが重ならない場合や、餌として捕らえる為に恋を囁く場合も多く、エーダリアは憂鬱そうだ。
どれだけ領民に危険を訴えても、恋を原動力にしてそこからすり抜けていっていまう人々は守り切れない。
「ネア様には、正午のダンスと、夜のダンスに出ていただきますが、くれぐれも決まったお相手以外とは踊りませんよう。さも踊り手を交換するところだという気配で手を差し出してくる者もおりますが、断って構いません」
「木の葉や草花の道、水の輪など、元々あったものではないところで不自然に輪の形をしたものを見付けたら、決して足を踏み入れてはいけない。お前はこれが一番危ういな」
「その輪に踏み入れると、妖精さんに連れ去られてしまうのですよね?」
「ああ。今日はヒルドの耳飾りを外さないようにな」
「妖精と魔物に関してはまだどうにかなりますよ。心配なのは、精霊ですね………」
儀式の合間に戻ってきたエーダリア達が、何度目かになる注意事項を言い含めてゆく。
外出せずに済ませられるのであれば構わないが、夏至祭は未婚の女性達の婚姻を司る祝祭でもある。
よって、ネアはリーエンベルクからの代表選手として、公務としての夏至祭のダンスに出る必要があった。
(白い花冠をつけて、淡い水色のドレスで花輪の塔の周囲を踊る………)
女性であれば夢見るようなロマンチックな祝祭だが、踊っている最中に二、三人減っているのが通常仕様なので、この世界での夏至祭は命がけだ。
「お昼の会では、ディノと、ヒルドさんと。夜の会でも、ディノとヒルドさん、そして参加者があまりにも減っているようであれば、擬態したノアとも踊りますね」
「ああ。………今年は花輪の塔の娘達がどれだけ生き残るかにもよるがな………」
「踊り手を変える際に、もっとも用心して下さいね」
「そして、踊ってくれる筈のノアが、無事にお昼のダンスから生きて帰ってくることも大事だと思います!」
ネアがそう言えば、ヒルドが遠い目になった。
人外者達にとっても夏至祭は恋の祝祭だ。
今迄ノアが刺されそうになった率としては、イブメリアに引き続きこの夏至祭の日が抜きん出て高いらしい。
「刺されたとしても、大丈夫だろう」
そう言ったのはディノだ。
ご主人様をその他の不埒な生き物達に取られないよう、今日は特に気合が入っている。
伴侶がいない未婚の男女や、まだ幼い子供達が狙われることが多い日なので、特にネアは危ないのだそうだ。
「しかし、血だらけで帰ってこられたら、踊る時に痛そうで困りますよ……」
「ノアベルトも案外線引きはしているようだよ。自分を損なう程のものとは、関係を深めないようだから」
「破局前提なのはなぜなのだ………」
ここでネアは、本日誰よりも鋭い目をしているゼノーシュの方を見た。
時折暗い目で何かを呟いており、グラストを心配させている。
(グラストさんも奥様とお子さんを亡くされて、未婚扱いだから………)
うっかりグラストを狙った愚かな生き物は、狂乱したクッキーモンスターに滅ぼされてしまうに違いない。
昨晩からゼノーシュは、精霊と妖精の殺し方のおさらいに余念がなかったのだ。
「ゼノ、プティングはいただきました?」
「うん。五個食べた。今日はたくさん動くから、いっぱい食べたんだ」
「そ、そうですよね。力をつけておいて下さい」
「うん!」
ネアは衣装合わせもあり、遅めの朝食を摂りながらここにいる。
エルダーフラワーのシロップをかけたプティングを食べながら、暗い眼差しのゼノーシュを痛ましく眺める。
また妖精と戦うためのおさらいに入ってしまったので、そっと目を逸らした。
「こちらの世界の夏至祭は、六月の最後の日なのですね」
「前の世界では違かったのかい?」
「ええ。日にちではなく曜日で決まっていましたが、大体二十五日前後でした」
「ふうん。よく似てるけれど、やはり少しずつ違うんだね。それとネア、今日はダンスの時には影を繋いでおくよ」
「影を…………?」
「手が離れても、君が迷子にならないようにね」
「まぁ、そんなことも出来るのですね!」
「夏至祭だから出来るやり方なんだ。他のものに繋がられ易くなる分、こちらも繋ぎやすい」
「輪郭が曖昧になるんですよ。だからこそ、簡単なことで鎖をかけられてしまう」
「………ヒルドさん」
ゼノーシュ程ではないが、今日はヒルドもピリピリとしている。
微笑んでいても目が笑っていないので、ネアは、何もしてないのに何度謝りたくなったことだろう。
(守護や結界も曖昧になるけれど、それは社会や権力を脅かすことはない……)
夏至祭に緩められる境界線から侵食が成立するのは、生き物の範囲に限られていた。
また、王や領主などの特定の権威を持つ者は土地の誓約から損なえないようになっている。
しかし、どちらにせよその曖昧になる境界線から侵入者があるという状況なので、テリトリー意識の強い高位の人外者達は皆気が気ではないのだ。
(逆にしたたかな人間だと、寄ってきた生き物を捕まえてしまったりするそうだけど…)
そんな理由から、使い魔を欲する魔術師達や、契約の相手を探している未熟な王族達は、夏至祭に狩りの罠を張るのだ。
「エーダリア様は、今年の夏至祭では何も捕まえないのですか?」
「ネア、………私には現在、充分すぎる程の備えがある」
「あら。世間では、いかに高位の生き物を捕まえるかの特集記事が組まれた読み物が発行されていたので、てっきり参加されるのだと思っていました」
「その風潮も嫌なのだ。お陰で、愚かな者達が己の力量を踏まえずに無茶をし、どれだけ被害が出ることか……」
あまりにも心労が多いのか、エーダリアはそう言い残してふらふらと部屋を出て行った。
甲斐甲斐しくヒルドに耳飾りをつけられ、魔物に首飾りと指輪の最終チェックを受けながらネアはそんな上司を見送る。
今朝の朝食は十時からだったので、食事の後すぐにダンスの会場に向かわねばならない。
「………腕は、出す必要があるのかい?」
「このような服装は、これから夏場にかけて日常化します。慣れて下さいね」
ディノが難色を示したのは、ノースリーブのドレスだ。
舞踏会ではこのようなものを着るのだが、そのような機会とは別の認識となるらしく、不愉快そうにネアの剥き出しの腕を気にしている。
「ネア様、もし不埒な輩がいたら、容赦なく殺して構いませんからね。後で、私がどうとでもします」
「ヒルドさん…………」
ディノもヒルドも、一緒に踊るのだからそこまで厳戒態勢でなくてもいいのにと思いながら、ネアは会場となるリーエンベルク前の広場に向かった。
本日の装いは、淡い水色のドレスである。
胸下切り替えで少女めいたデザインだが、肩を剥き出しにするデザインなので、魔物はたいそう警戒している。
くるりと回った時にスカートが綺麗に広がるように布地がたっぷり使われており、祝福を込めた透けるような淡い水色の布地は繊細にきらきらと光る。
(靴は水色か白、とは言え白を纏える人はほとんどいなくて、装飾品は色味を意識させるものは一つまで)
なのでネアは、ディノの首飾りを乳白色に寄せて擬態して貰い、スカートの裾に隠した戦闘靴の中の足首に腕輪をはめている。
あえて色味を残して牽制としたのは、夏至祭に悪さをしやすい妖精避けとなるヒルドの耳飾りだ。
しゃらりと揺れて光る小さな宝石を寄せたシャンデリア型の耳飾りは、瑠璃色から青緑のヒルドが紡いだ宝石から成っているが、透明度が高いので肌にも馴染む。
対するディノの盛装姿は、白にほど近い淡い青灰色のもの。
貴族的な装いだが、刺繍も、淡く光を宿す結晶石などの装飾もその色彩しかないことで、どこか人外者らしい服装となる。
ヒルドは濃紺に近い深い青色で、艶消しの淡い金色の装飾が美しい。
「ディノの今日の擬態は、いつもの髪色ではなくて白に近い灰色なのですね」
「その他の者の記憶には残りにくい魔術を敷いているから、これで問題はないよ。視覚から避けられる危険もあるからね」
(成る程、牽制の意図があって白寄りにしているんだわ)
わあっと歓声が上がり、楽しげな音楽が聞こえてくる。
途中で体を屈めて花冠を乗せて貰い、ネアはディノの腕をとって会場に向かった。
「ほら、今日は随分と世界が揺らいでいるだろう?」
「…………むぅ、よくわかりませんが、色んな音が混ざったり、嗅いだことのない匂いがしたりします」
民衆の生活に馴染んだ祝祭独自の賑やかな喧騒に混じって、くすくすと笑う声や、誰かが囁き合うような声が聞こえた。
はっとして注意を傾けると、それは水音や木々の枝葉が風に揺れる音だったりするのだが、果たして本当にそうなのだろうか。
「でも、グリシーナで感じたような、どろりとした濃密さはありません。どちらかというと、不思議で怖いけれどうきうきするような感覚です」
「祝祭だからだよ。その代わり、その高揚感に足を踏み外すと戻れなくなってしまう」
「………それが、夏至祭の怖いところなのですね?」
「人も人ならざる者も巻き込んでの、色々な意味での饗宴と言われる日だからね」
(この音楽は何だろう……)
夏至祭のダンス曲なのだろうが、華やかで踊りだしたくなるような曲が聞こえてくる。
花吹雪や歓声の中踊る曲にふさわしく、しかし耳に残る旋律は情感があり胸を打つ。
上手く言えないが、お城の舞踏会で流れていた音楽と言うよりは、お伽話の妖精のお城で演奏されている曲という感じがした。
(バイオリンに、フルート、……チェンバロ……それから)
きちんと特設の舞台があり、楽団がいる。
指揮をしているのが妖精なのは、楽団員が妖精に攫われることも多いから見張りも兼ねてなのだそうだ。
「わ、…………素敵ですね」
王宮前の広場には、水色の花びらが敷き詰められていた。
詠唱の声がオーケストラの音楽と絡まり複雑で美しい旋律となる中、花輪の塔の周囲には術式陣も敷かれ、足元が淡く光っている。
そこに可憐な乙女達が集まり、お相手の男性と目を輝かせて微笑み合っているのは、乙女達が本当の恋人達と踊るからだ。
そうしておけばせめて、儀式中に乙女が攫いに来た妖精と恋の逃避行に出るということは防げるのだとか。
「生還率七割なのに、どうして皆さんご機嫌なのでしょうね」
「踊りきると、生涯離れずに済む祝福が得られるからだそうだよ」
「まぁ、そのような理由があるなら、とても素敵です。みなさんが無事に踊りきれますように」
ネアはちらりと魔物を見てそう言っておいたが、魔物はご主人様を攫われないようにするのに夢中で、他人の心配どころではないらしい。
気象性の悪夢と同じで、浸透や侵食を防ぎ難い夏至祭では、高位の生き物の護りが手薄になる瞬間として、毎年各地で被害が報告されている。
誓約に守られる立場ではない貴人達にとっては、とても危険な日でもあった。
「どうぞ、宜しくお願いします」
挨拶をしてネアとディノが輪に入ると、隣のカップルが微笑んで会釈をしてくれた。
ネアのお相手があまりにも白っぽいので一瞬ぎくりとしていたが、愛想が良くて可愛らしい若者達だ。
「なんて可憐なお嬢さんでしょう。恋人さんは、鼻が高いですね」
「有り難うございます!セラスティアは、街一番の美少女だと言われているんですよ!」
「ヨハン!やめて、恥ずかしいから……。ごめんなさい、彼の言うことは無視して下さい!」
素朴な顔立ちの青年はネアの言葉に大喜びしてしまい、少女が慌ててその口を塞ぐ。
真っ赤になっている姿が可愛くて、ネアはこの二人がいなくならないように見ていてあげようと密かに心に誓った。
「ネアだって…」
「いけませんよ、ディノ。恋人同士はどこでもお互いが一番なのです。張り合うのは無作法ですからね」
「ネアがいい………」
一番という言葉に反論しようとした魔物は、叱られてぺそりと項垂れてしまう。
艶麗な魔物がせっかくの盛装姿なので、ネアは背伸びしてその顎を持ち上げてやると、微笑んで頷いた。
「私にはディノが一番ですので、そういうものなのです」
「ネア…………」
「さぁ、そろそろですよ。私は大事な魔物の素敵な姿を見たいので、一緒に踊って下さいね」
「ずるい。…………可愛い」
「あらあら」
ここでネアが驚いたのは、後ろの先程の二人も同じようなやり取りをしていたからだ。
青年の方がぱっとしない己の容貌を恥じて項垂れており、励まされて恥じらっていた。
案外どこにでもあるやり取りなのだろうか。
詠唱が途切れ、音楽が変わった。
わっと控えめな歓声が上がり、エスコート役の男性が女性をホールドする。
手を取り腰に手を当ててこちらを見下ろした魔物に、ネアはこんな風に衆目の中、嫌がりもせずに祝祭のダンスを一緒に踊ってくれる魔物に感謝した。
そして、ダンスが始まった。
「ほら、足元が淡く光るのがわかるだろう?」
「まぁ、踏む度にきらきらします!」
「魔術が弾けているんだ。その煌めきの数だけ干渉があり、それを花輪の塔の魔術で排除している証なんだよ」
「可愛らしいものではないのですね……」
「ダンスの中で失踪者が出るのは、この干渉を取り零した瞬間にその部分を踏んでしまうことがあるからだね」
「む。………そして心なしか、私とディノが踊った後はあまり光りませんね」
「私も地中を均しているし、君のブーツもあるからだろう」
「一気に凄惨な気配を帯びましたが、後ろで踊る先程のお二人の安全度を高めているようなので、良しとします」
くるりと回され、ネアは淡く光る地面と、重なり合う二人の影を見つめる。
実際にどうやって影を繋いでいるのかはわからないが、さっきちょこちょこと紐を結ぶような作業をしていたので、それなのだろう。
またくるりと回り、スカートがふわりと広がる。
魔術ではらはらと降り注ぐ花びらが舞い落ち、同じように花の中で踊った春告げの舞踏会を思い出した。
「む………」
そこでネアは、ダンスの振り付けを無視して手を伸ばすと、後続のカップルの少女の肩に触れようとしていた手をばしりと叩き落とす。
ぎゃっという声が聞こえて、はっとしたように少女がこちらを見た。
男前に頷いてやると、じわっと涙目になってぺこりと頭を下げる。
「ネア、どうして君はまた変なものに関わってしまうのだろう?」
「あの女の子を狙っていました。幸せな恋人達を引き裂こうなど、ゆるすまじ」
「王宮前広場の花輪の塔に、ああして手を差し込める階位のものだよ。君に何かあったら困るだろう?」
「ディノが助けてくれるのではないのですか?」
「勿論、君を傷付けさせたりなんかしないけれど、夏至祭に誰かに触れたと思うだけで不愉快なんだ」
「ふふ、それなら先程の手は、あとでディノが手を繋いで下さいね。それで綺麗に上書きします」
「…………ずるい」
未来のある若者達を守れた安堵から微笑みを深めてそう見上げれば、ディノは目元を染めて恥じらった。
先日のクリームパフ事件では思いがけず死んでしまったりしたので、こんな日には不用意に殺してしまわないように気を付けよう。
そう考えていると、ふっと花輪の塔の周囲が陰ったような気がした。
目を瞬いて周囲を見回したが、特段変わった様子はない。
(………でも、踊っている人達の間は、こんなに開いていたかしら?)
「一組攫われたね」
「ディノ……………」
「止めて欲しかったかい?」
そう言ってこちらを見た水紺の瞳には、労りではなくて不思議そうな色がある。
「いえ、………エーダリア様からも、残酷に思えてもこういうこともまた、自然の摂理だと伺いましたから」
人間達が花輪の塔で攫われないようにと対抗策を打つように、人ならざる者達にとっても、夏至祭は獲物を狩るためのとても大切な日だ。
人外者と共存してゆくウィームでは、人外者にもあまり負荷をかけ過ぎないようにバランスを取る。
隙間を縫うだけの力と知恵のあるものを、軒並み殲滅したりはしない。
(でも、やはりこういう部分では、わからないのだわ)
魔物は、ネアが消えてしまった参加者を気にしているのだろうかと考えることは出来ても、見ず知らずの他人の為に進んで手を貸すことの意味はわからない。
そこは種族的な価値観の違いなのだ。
わあっと拍手がおきて、踊っていた男女は一礼をする。
魔物は観衆に頭を下げないが、それはウィームの民達も勿論知っていることだった。
「ネア様、」
「ヒルドさん」
ここで、ネアはパートナーチェンジをし、一緒に踊っていたカップル達は次の一団に入れ替えになる。
美しい羽はきっちりと畳まれてしまっていたが、ヒルドは妖精らしい美貌を際立たせており、観衆からほうっと溜め息が漏れる。
ディノがそうであったように、ネアの容姿もまた観衆の記憶には止まり難い仕様だ。
しょんぼりした魔物は外側の輪に下がり、ネアは視線でまた後でと微笑みかけてやる。
一度手を離したりはせずに、ネアは慎重にヒルドに手渡された。
「先程までのダンスで、異常はありませんでしたか?」
「はい。後続のお二人を狙った手が見えましたので、はたき落したくらいです」
「ネア様…………」
ここでヒルドは、ネアにきっちり自分の腰に手を回させておいて、ネアが不埒者の手をはたいた指先をどこからか取り出した濡れタオルで丁寧に拭う。
周囲がざわざわしているのは、まるで前のパートナーの痕跡を消そうとしているようで、そこはかとなく猟奇的な感じがするからだ。
短かい詠唱を挟み、また二度目のダンスが始まる。
これが終わったら夜までは一安心かなと考えていると、ぺかりと光った下草が円形の形に線を走らせた。
「ほわ?!」
一瞬がくりと垂直落下しかけて、ふわっと体が持ち上げられ、ヒルドにしっかりとホールドされる。
「なかなかに狡猾でしたね。大丈夫でしたか?」
「け、毛皮鞠達の王国を見ました………」
一瞬の目眩にも似たくらりと陰って揺らいだそのあわいの向こうに、何百という数の弾む毛皮の鞠のような生き物達が見えたのだ。
ミューミュー鳴きながら大はしゃぎしていたので、怖いと言うよりは触れ合い動物王国的な感じであった。
(それと、近過ぎるような……!)
一度落ちかけてから抱き寄せられたので、ヒルドのホールドは随分と力強い。
ぐっと寄せられた体に、ネアは少しだけ狼狽してしまう。
怜悧な美貌で目を細めて微笑むヒルドは、どこか男性的な艶かしさがある。
剥き出しの妖精らしさが覗き、清廉な筈のものが淫靡に感じるのもまた、夏至祭の魔力のようなものなのだろうか。
「む………。ヒルドさん、今何か……」
「ああ、気付いてしまいましたか」
そう微笑むシーは、明らかに足元で何かを滅ぼしていた気がする。
踊っているとネアも自然に踏んでしまうので、恐らくあれこれと滅ぼしてはいるのだが、明確な殺意を感じて震え上がりそうになった。
「妖精でありながら、シーである私のものに手を出すなど、許してはおけませんからね」
(目が!目が殺戮に向けるそれになってる……!!)
先程のゼノーシュのような眼差しで優しく微笑むのだから、怖さは倍増だ。
さらりとダンスのターンで揺れた長い孔雀色の髪に、ふよふよと飛んできた淡い光がきらりと瞬く。
ヒルドは煩わしそうに払ってしまったが、そうして彼に手を伸ばす妖精もいるようだ。
(そうか。夏至祭は人間達だけではなくて、人外者同士にとっても恋の日なのだわ)
境界が揺らぐ夏至祭だからこそ、普段は見ているだけだった誰かに手を伸ばすこともあるのだろう。
そういう意味では、ヒルドのように望まれてしまう側の妖精も大変だ。
「ヒルドさんと踊れるなんて、贅沢ですね」
何となく人気者の身内がいるような誇らしさで、ネアが微笑んでそう言えば、ヒルドが微かに目元を染める。
「ですから、あまり私を煽りませんよう」
「む…………?」
「とは言え、その無防備さが可愛らしいのですがね」
「こ、子供的な………?」
「いえ、私は魔術可動域でネア様を判断したりはしませんよ」
「なぜでしょうか。その言葉の優しさが、身に沁みます…」
最近何度も子供だと言われてしまったネアは、ヒルドの言葉に嬉しくなった。
ほわっと微笑みを深めたネアに、ヒルドは一瞬だけまた、妖精らしい捕食者のような目をした。
(夏至祭の妖精さんは、野生の獣っぽい感じが揺らいで、虎さんのようで綺麗だわ……)
魔物の持つ美しさと、妖精の美しさは趣きが違う。
せっかくの近距離なので、ネアは普段はここまでじろじろと見られないヒルドの瞳の色や髪の色などを、じっくりと堪能することにした。
「ネア様………」
しかし、あまりにも熱心に観察し過ぎたのか、目元を染めたヒルドに窘められてしまった。
「失礼しました。ヒルドさんをこの距離でじっくり見たいという欲求に負けてしまい…」
「そう言うことでしたら、いつでもどうぞ。ただし、私にも世間体というものがありますので、どうぞ二人きりのときに」
「二人きりの時に……?」
「公の場で箍が外れると困りますからね」
「む………?」
よく分からないが、あまり見つめられ過ぎて苛々が爆発すると、対外的なヒルドの柔和なイメージが崩れてしまうからだろうか。
ネアはこくりと頷き、見惚れてしまうにしても不快にしないようにと心に留めておくことにする。
そこで音楽が終わった。
(正午のダンスは無事に終わった模様!)
ほっとして周囲を見たネアはぞっとする。
一緒に踊り出した筈の七組だったが、五組しか残っていないではないか。
今回は念の為に事前に出場組を数えておいたのだが、やはり攫われてしまうようだ。
(ここはリーエンベルク前の会場だから、他のところよりも守りが厚いのに……)
であれば他では、どれだけの不明者が出ていることか。
何とも言えない気持ちでヒルドに手を引かれ、待ち侘びていたディノのところに戻して貰う。
ダンスの後は自由解散なので、午後の戦闘準備に向けて観衆はわいわいしながら散らばってゆき、貴賓席で見ていたエーダリアもこちらにやって来た。
「今年は残った組が多かったな。やはり、お前達が少し減らしてくれたからだろう」
「むぅ。私が見た限り、最低でも四組は失踪していますが、これでも良かった方なのですか?」
「ああ。いつもなら半数になる」
「踊る場所の防衛を、もっとしっかりしていただきたい………」
「生き残ってダンスを終えられることで得られる祝福がありますからね。ある意味、篩い落されることも前提なのですよ」
「前途有望な若者たちが………」
ネアは失踪した若者達を思い悲しい目をした。
やはりこの世界は危険に満ちているようだ。
「ネア、途中で落ちそうになっていたよね?」
「ディノ、ヒルドさんが持ち上げてくれましたよ」
「飲み込まれかけたものを、あのように持ち上げられるのだな」
「同じ妖精同士ですから、あの程度の階位でしたら削ぎ落とせますからね」
「淡い黄金色の毛皮毬の集団が、ミューミュー鳴いている世界を見ました」
「おや、金鉱脈の妖精ですね。珍しいものでしたか」
「き、金鉱脈様………」
「ネア、浮気は駄目だよ?」
思いがけず一攫千金な妖精だったかもしれず、ネアは悔しさに歯噛みする。
いっそ一度落ちて何匹か拾ってくれば、金鉱脈の恩恵にあずかれたのだろうか。
と言うか、この地下には金鉱脈があるのだろうか、掘削したら叱られるだろうかと、強欲な考え事に夢中になっているとすっと視界が翳った。
広場にまばらに残っていた人々や、撤収準備をしていた楽団員達も空を見上げて声を上げている。
ばさりと翼を打ち振るう音が聞こえ、鮮やかな青い翼が目に入る。
その翼の主を見上げたネアは、目を丸くした。