鴉の精霊と前触れの雨
「…………ネア様?」
その日ネアが会食堂でせっせと作業に励んでいると、通りかかったヒルドが眉を顰めた。
「死んでしまった魔物を埋めているのです」
「…………お亡くなりに?」
「ええ。ですのでこうして埋葬していますが、また会えることを信じています」
「…………ディノ様は、なぜお亡くなりになられたのでしょうか?」
ヒルドが見下ろしているのは、床に倒れたまま動かなくなった魔物だ。
床はさすがに可哀想なので、ネアは家事妖精にお願いして取り寄せて貰った毛布をかけてやり、クッションを頭の下に押し込んでやった。
「頬っぺたに生クリームがついたので、指でひょいっとやって食べてしまったら、悶死しました」
「生クリームを、………ですか」
「クリームパフの食べ方を知らなかったみたいで、二層になったところの生クリームを噴出させてしまいまして」
「ああ、成る程」
起きた時に悲しくならないように、籠の中で眠っている銀狐も隣に配置しておいた。
それを眺めてきりりと頷き、ヒルドを振り返る。
「生贄です」
「生贄…………」
「私はこれから、リーエンベルクの前の広場に花輪の塔が建てられるのを見に行きたいので、魔物のお墓をここに残してゆかねばなりません」
「もしや、お一人で出られるのですか?」
「むぅ、本当は門の近くから見たかったのですが、安全面を考慮して正面門向きのお部屋から眺めようと思います」
厳しい顔でそう宣言するネアに、ヒルドは少し考え込むような様子を見せた。
「ちょうど仕事が一区切りついたところですし、ご一緒しましょう」
「いいんですか?!」
「花輪が飾られる時には、誰かと見た方がいいですからね」
「そういうものなんですか?」
「ええ」
そう微笑んだヒルドが一緒に来てくれるということで、ネアは正門のところからリーエンベルク前広場に建てられる塔の、花輪の投げ入れ儀式を見れることとなった。
「わぁ、なんて素敵なんでしょう!淡い水色の花輪なんですね!」
「夏至祭の花輪は、色の淡い水色と決まっていますからね。儀式やダンスの際にかぶる花冠は、守護の厚い王族だけ白いものを使います」
「と言うことは、エーダリア様はどうなるのでしょう?」
「王族から既に除籍されておりますが、ガレンエンガディンとして白い花冠となります」
「きっと、お似合いでしょうね」
「ネア様もですよ」
「私も、白い花冠なのですか?」
「エーダリア様の下の、国の歌乞いという扱いですからね」
広場に建てられている花輪の塔は、まず、軸となる彫刻を施した木の塔を設置して、そこに輪投げのようにして一つ一つ祝福をかけた花輪を通してゆくのだ。
本来なら今日は安息日なのだが、この花輪の塔を建てる作業だけは前日にやらなければならないのだそうだ。
しかし、この作業に関わったものは夏至祭の厄を避けると言われており、人気のある仕事らしい。
「朝の行事の時には、花輪はご覧にならなかったのですか?」
「朝帰りの狐さんが、どこかで水溜りに足を突っ込んで帰って来て騒ぎになったのです。お風呂に入れたりしていて、最初のところしか見れませんでした」
「………一応塩の魔物なのですから、水溜りくらいは避けていただきたいですね」
「人型で戻ってくればいいのに、なぜか狐さんで戻って来てしまったのが敗因でしょうか……」
エーダリア達も立ち合った木の塔の建て始めの時には魔物とも見たのだが、殷々と響く祝福の詠唱がとても素晴らしく、ネアはまだまだ見足りなくて今に至る。
最初の時にはまだなかった花輪は、既に中央よりも積み上がっていてなんとも華やかだ。
聖歌のような詠唱が途切れると、ばさりと花輪が投げ入れられる。
祝福が結ばれるからか、ぷんと甘い香りが強まり、また詠唱が始まる。
「…………おや、鴉の精霊ですね」
爪先をぱたぱたさせて見入っていたネアの横で一緒に作業を見守っていてくれたヒルドが、ふっと顔を上げた。
つられてネアも顔を上げれば、確かに花輪の塔を組む魔術師達の向こう側に漆黒の影がある。
長い漆黒のコートを着ていて、つば広の帽子をかぶっているので、ネアの生まれた世界の定型的な魔法使いのような出で立ちだ。
「鴉の精霊さんは初めて見ました」
「悪しきものの一つです。夏至祭が始まると犠牲者も出ますから、そのおこぼれに預ろうとする死肉喰らいですよ」
「まぁ、こちらの世界では鴉さんの印象はそこまで悪くないと思っていたのですが」
「ネア様の世界では、悪しきものだったのですか?」
「お伽話や聖典の印象では、あまり良いものとしては描かれていませんでしたね。悪魔の……悪い魔物の使い魔として表現されていたりもします」
「ネア様の世界では、翼のある人型の者が、聖なるものとして信仰の対象だったのですよね?」
「はい。黒い翼は堕落した方として魔物の範疇ともされましたが、一般的には翼のある方は神様の使いでした。鴉の精霊さんには翼があるのですか?」
「精霊にはありません。鴉の魔物は見事な黒紫の翼を持ち、書物の守護者として魔術師達にも人気がありますよ」
「ほわ!見てみたいですね!」
「美しい男性体の魔物ですから、ディノ様がどう思われるか……」
「むぐぅ………」
そして、鴉の精霊とは妖精を非常に敵視する精霊なのだそうだ。
だからこちらを睨んでいるのかと、ネアは得心がゆく。
「おかっぱ頭なのですね」
「鴉の精霊は、男性も女性も皆あの髪型ですよ」
「識別が………。そして、かなりじっとりとした眼差しです………」
「一説では、とある妖精の女王に求婚を断られ屈辱を味わわされた鴉の精霊が、その報復から妖精の島を滅ぼしたと言われております」
「まさかの、ふられた逆恨みでした」
「何しろ、精霊は感情的ですからね」
「………ふと、ジーンさんのことを思い出してぞくりとしました」
少し不安になったネアは、ヒルドの側にすすっと近寄るとこちらを睨んでいる鴉の精霊を威嚇する。
ヒルドに何かをしたら許さないのだ。
しかし、近寄られたヒルドはネアが怖がっていると思ったのか、羽で覆うようにしてくれた。
「ご不快でしょう。凶兆の一種なので、追い払わせます」
「………むぅ。悪さをしてないのに追い払われたら、精霊さんの心が荒みませんか?」
「おや、ネア様はお優しいですね。しかし、あの精霊は、死肉を食べる為にあれこれ策を弄して人間を殺すものですから、念の為に」
「それなら、皆さんの安全の為に致し方ありません」
ヒルドは、門の外の騎士に鴉の精霊を追い払うように指示を出していた。
ここでネアは初めて知ったのだが、鴉の精霊は食事の為に具現化するまでは周囲に姿が見えず、妖精といる者にしか見えないのだそうだ。
一度認識すると見えるようになるので、あえて認識させる為に騎士の側に行ったらしい。
「見えないとなると、かなり危ない存在なのではないでしょうか?」
「妖精の粉を瞼に塗ると、見えるようになるんですよ」
「むむ。妖精さんの粉を………」
「ご不安でしたら差し上げたいところなのですが、シーの粉を瞼に塗ると、見えすぎて視力を無くすと言われていますからね」
「そ、それは困ります!………というか、ヒルドさんが羽を広げる時などに、うっかり激突してついてしまったりはしないのでしょうか?」
「失礼しました、怖がらせてしまいましたね。あくまでも迷信の言い分でして、実際にはそんなことはありませんよ」
自損事故を起こしがちなネアが青くなると、ヒルドは淡く微笑んだ。
「う、うっかり転んだりして突っ込む未来が見えたので、焦ってしまいました」
「実際には、シーの粉を過剰に摂取すると酩酊状態になりますからね。自我がなくなることを暗に示す為に、目が見えなくなると言われているようです」
(いや、それはそれで怖いのでは……)
自我がなくなるということは、どんな状態になるのだろう。
劇物指定なのは変わらないようだ。
「ほっとしました。………目が見えなくなると、怖いですから」
「………そのようなことがあったのですか?」
ヒルドの声が少し鋭くなったので、ネアは苦笑した。
よく事故るので勘違いさせてしまったようだが、こちらに来てからのことではないのだ。
「ごめんなさい、ご心配をかけてしまいました。前の世界にいた頃のことなのです」
「どちらであれ、心配はしますよ。………ご病気で?」
「………とても衝撃的なことが重なって、精神的なところから、体調を崩してしまったことがあるんです。突然、目が霞んだかと思ったら見えなくなってしまって、……とても怖かったんです」
前のことかと表情を緩めることはなく、ヒルドはじっとこちらを見ていた。
すいと伸ばされた指先がネアの頬に触れる。
艶やかな深い湖のような瞳に、ネアは綺麗な水を飲んで心が緩むような不思議な柔らかさを覚えた。
「ネア様は、その時お一人だったのですね」
「………ええ。でも、幸いにも一晩だけで治ったんですよ。暫く目は霞みましたが、見えるということはとても素敵なことだと、あらためて実感出来ました」
あの夜、がたがたと震えながらネアは一人で眠った。
誰もいなくなった家で、何とか眠ってしまえと自分に言い聞かせながら、けれど目が見えなくなるかもしれないという事があまりにもショックだったのか、頭がぐらぐらとして思考が繋がらないという弊害まで出てしまった。
思えば、体が急激な心の変化にひび割れてしまった瞬間だったのだろう。
怖くて意識を他所に向けたいのにパニックで思考の制御すら出来なくて、はくはくと早い呼吸を刻み続けていた。
その日以来、ネアはどんなひどい状況でも、金銭的に無理をしてでも時々はしっかり美味しいものを食べ、テーブルに庭で咲いた花を飾ったり、素敵な物語を読んだりと、心が軋まないようにして体を労った。
復讐の前に動けなくならないようにする為だったが、本当はただ怖かっただけなのだ。
しかし、その日々の扱い方が今のネアを象ったと言ってもいい。
人生から美しさが欠けても、世界は美しく物語は優しい。
気休めでもそこに触れている間は、心が凪いでゆくという、ネアにとってのおまじないのようなものだ。
「しかし、物語もそうですが帳尻が合えば、人生は幸せだったと言って締められるのです。私は我慢強くないので途中で棄権したかったのですが、ここまで来られて良かったです」
「………私としても、あなたがここまで来てくれて良かった」
「ふふ。ヒルドさんにそんな風に言って貰えるなんて果報者です。湿っぽくなりましたが、私の生まれた世界では、妖精さんに会えると言われたら、人生を引き換えにするくらいの方もいたでしょう。そんな素敵な世界に来られたのですから、どんでん返しで勝ち組なのです!」
「おや、では私はネア様に喜んでいただけるように、これからはずっとお側にいなければですね」
美しい妖精の羽に、きらきらと陽光が透けてステンドグラスのように光る。
あの真っ暗な夜のその先に、こんなに美しい光が見られると思いもしなかった。
あの世界ですらないその先に、こんな幸福が用意されているなんて。
「エーダリア様のおこぼれで、ヒルドさんが歩いているのを見かけるだけで幸せです。子供の頃から、物語の中の妖精さんにも憧れていましたから」
「エーダリア様の権利から溢れるものではなく、あなたのものとしても思っていただいて構わないのですが?」
「ふふ、勿論、ヒルドさんはもう家族のような大切な方ですよ。なので、もし鴉の精霊さんがヒルドさんに悪さをしたら、私が懲らしめてやりますね」
「それは頼もしいですが、どうか危ないことはされませんよう。私にとってはあなたが、幸福な結末へと向けて運命が帳尻を合わせてくれて得た恩恵の一つなのですから」
「むぐ。ヒルドさんに泣かされそうです……」
ヒルドはきっと、エーダリアの側に留まれる要因となったことでネアを贔屓目で見てくれるようになったのだろうが、とても特別な存在のように大事にしてくれると胸が熱くなる。
庇護を与えてくれたことでも思ったが、この妖精はとにかく愛情の懐が深いのだ。
大事にして貰うということが、どれだけ胸をほかほかにするのか、それをあらためて知ったのもこの世界に来てからだった。
「ヒルドさんを大事にします………」
「ネア様……」
感極まったネアがそう宣言すれば、ヒルドは目を瞠ってからふわりと微笑んだ。
「身に余るお言葉ですね。私はどうやら幸福な男のようです」
ばさりと広がった羽は、深く豊かな森の色をしていた。
その豊かさに畏敬の念を覚え、美しさに魅せられる根源的な森の色。
こんな風に美しいものがいる世界で、魔術可動域が蟻レベルの人間がのうのうと生きてゆけるのだ。
その恩恵には感謝せねばなるまい。
(具体的にはどうしよう。肩揉みとかしてあげればいいのかな?)
そもそも、妖精は肩揉みを喜ぶのだろうか。
うっかり羽に触れて苦痛を与えたら一大事だ。
「ヒルドさん、私にして欲しいことがあったら遠慮なく言って下さいね」
「…………あなたは、時々危険な橋を渡りますね」
「む。………それはもしや、かなり危険な願い事を抱いていらっしゃるとか……」
「さて、どうでしょう」
「ヒルドさんこそ、危ないことをしないで下さいね!もしどうしてもというときには、きちんと相談して下さい」
ネアが慌てて言い募れば、そうですねとヒルドは微笑んでくれた。
ほっとして笑顔になると、花輪の塔を指差されて視線を戻す。
「ほら、花輪が上まで届きますよ」
「わ!なんて素敵なんでしょう!お花の塔になりました!!」
「花輪の言い伝えは本物でしたか…………」
「む?」
「夏至祭の花輪が積み上がるところを誰かと見ると、その相手の心に触れられるのだそうですよ。思いがけず、ネア様の過去のお話が聞けましたから」
「では、私がヒルドさんの優しさにあらためて触れられたのもそのお陰でしょうか!花輪に感謝しますね」
「それから、」
次の瞬間、ざあっと雨が降り出した。
「むぐ…………」
ヒルドがさっと魔術を展開してくれたので濡れずに済んだが、あまりにも突然の集中豪雨にネアは愕然とする。
ばしゃばしゃと音がするくらいの激しい雨だ。
「これは、夏至祭の前触れの雨とされます。花輪が積み上がるとその周囲にだけ降る雨で、祝福の花輪に対する、夏至祭の怪物たちの宣戦布告だと言われています」
「宣戦布告……………」
突然の暑苦しい展開に、ネアは半眼になる。
あなたに会えて良かった的なほかほか家族のやり取りから、まさかの宣戦布告の土砂降りになるとは。
その上、宣戦布告という血の気が多い感じのものなのがとても怖い。
「お花は大丈夫なのでしょうか?」
「この雨にも対抗できる祝福をかけてありますから。逆に、前触れの雨で花輪が散るようであれば、その花輪の塔を組み直す必要があるんですよ。夏至祭の歪に対抗出来ないと危険ですからね」
「ぞくりとしました……」
視界がすっかり灰色になってしまったので、ネアはヒルドに手を繋いで貰い、リーエンベルクの中に帰ることにした。
「魔物は生き返ったでしょうか」
「蘇られているといいですね」
しかし、二人が部屋に戻ると魔物はまだお墓の下に横たわって、お腹の上に銀狐を乗せてすやすやと眠っていたので、ネアはヒルドと素敵な午後のお茶をいただくことにした。