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ロギリオス



初めて彼女を見たのは、国境域での不法越境者の取り締まりの時だ。



「ロギリオス様、今度は女達ですね。どうしますか?」


どこかの貴族の子女達が密入国の業者を頼って、劣悪な環境下で越境したのだろう。

小さな箱馬車に詰め込まれた女達は、怯えており、ひどく汚れていた。

とは言え元々は美しい令嬢達である。

部下達の中には、手を貸したそうに見ている者も多い。


「不憫だが、正式な手続きを経なければ。王子が戻るまで時間があるから、ひとまず身綺麗にさせてやってくれ」


そう言えば感謝の眼差しが注がれたが、それはあくまでも王子の目を汚さない為である。

本来、騎士たるものが法を犯した不法入国者に情をかけるべきではない。



それに、こういう状況はとにかく嫌な予感がするのだ。




「ロギリオス様!この度は情けをかけていただきまして、有難うございました!」


数日後、そう言って駆け寄って来たのは、その時の箱馬車にいた少女であった。

他の騎士達が噂をする程、美しく可憐である。

ガゼット国境域にある伯爵家の令嬢でありながら、肩口までで揃えられた髪は闊達な印象を与え、内乱を警戒して市井で隠し育てられたという親しみやすさもあるのだとか。


夢見るような青い瞳に木漏れ日のような金髪。

子鹿めいた体躯だが、女性らしいまろやかさもある。



(これは、騎士達が放って置けなくなるのもわかるな)



「助けていただいたお礼に、お菓子を焼きました。あの、こんなもの庶民じみているとお思いでしょうが、騎士様達には甘いものがいいかなと思いまして」


そう微笑んで差し出されるのは、受け取ってもらえると微塵も疑わない無垢な好意だ。

恐らくこの少女は、どれだけ劣悪な環境下にあっても、己の善意というものを見失わない人間なのだろう。


或いは、そう信じていられる人間なのか。



「申し訳ないが、俺はその手のものは摂らないので」

「………っ!そ、そうですよね。こんな得体の知れないもの、困っちゃいますよね。私ったら、ご迷惑も考えずに失礼いたしました」


じわっと涙目になると、子リスのようにぺこりと頭を下げ、少女は駆け去ってゆく。

隣に居る副官から責めるように見られたが、小さく溜め息をつくばかりだ。


「メルジナちゃんが可哀想ですよ。あの子は、助けてくれた、金髪に青い瞳の妖精の騎士様に憧れて、やっとあなたに話しかけたんですから」

「仕事に支障が出るから、ああして調和を乱されると困るんだ。あの女性達は皆、職業支援を受けてヴェルクレアで受け入れられるのに、一人が突出してこちらと関わりを深めようとすると不満が出る」

「まぁ確かに、亡命先で少しでも優遇されたいという女達の壮絶な駆け引きは感じますけどね。だからこそ、あの子の駆け引きのない爽やかさに救われてますよ」

「俺は王子と、歌乞い殿との様子を見てくる。お前は、午後から面談する受け入れ先との調整を頼む。くれぐれも、私情で差をつけるなよ?」

「へいへい。うちの隊長はお堅いなぁ」



(私情を挟むならば、それは最後まで引き受ける覚悟がある時だ)



気紛れに与える好意や楽観的な展望は、かえって受け取る者の心を殺すことがある。

王宮にいれば、あんな端的な無垢さよりもその方が身に染みるだろうに。



「そう思うのは、俺が奴隷上がりだからかもしれません」


そんな本音をぶつけたのは、第一王子の代理妖精達だった。

本当はヒルドに会いたかったのだが、彼は姿を見せないことも多い。

見目がいいだけの第一王子の付き人として周囲を欺いてはいるが、彼がシーであることは、知る者は知る秘密であり、ロギリオスは幸いにもその秘密を分け与えられた妖精の一人だった。


「あら、随分と高慢な言葉ね。己の不幸はあなたの愛情の価値観をそこまで変えやしないわ。それはただ、あなたの心を動かすものがないだけよ。自分の心が未熟なことを、自分の過去のせいにしてはいけないわ」


「ロクサーヌ様」


慌てて首を垂れたのは、部屋の奥に紅薔薇のシーが紛れていたからだ。

気付かずにいた自分の迂闊さにげんなりとする。

仮にも剣の役目を持つ代理妖精でもある自分が、こうして気配を読み違えるなどあってはならない。


ましてや、彼女は脅威になどならないとは言え第五王子の代理妖精筆頭。

数多の代理妖精達を統べる、その王の一人なのだから。


「かもしれません。生意気なことを言っていられるのも、俺が安住の地を得られたからですから」

「そうね、あなたの第三王子は善人ですものね。それはもう不思議なくらい、あの兄弟達の中にあって異質なまっとうさだわ。でも、だからこそ少しあなたは、堅苦しいわね」

「………そうでしょうか」

「まっとう過ぎるものを支えるのは、案外酷なことよ。例えそれをあなたが望んでいてもね。だから、せめて恋をする心くらいはもう少し柔軟になりなさいな」

「柔軟に…………」

「ロギリオスの想像力は、偏っていてよ。上に立つ者としてもう少し視野を広くしないと」




それは暗に、未熟な対応だと窘められた会話であった。

しかし、であればどうしろというのだろう。

したくもない会話をしてお世辞を言い、あの不幸で獰猛な少女達をもてなしてやれとでもいうのだろうか。

それとも別のことを示唆していたのに、自分は気付けずにいたのだろうか。



そんな疑問を抱えていた時に会ったのは、少女達と同じ箱馬車に詰め込まれていた一人の女性だった。



「彼女達は皆、拙いながらに必死なのです」


あのメルジナという少女から、刺繍をしたハンカチを押し付けられて困惑していると、その部屋の窓際にいた女性にそう話しかけらた。

ぎょっとして視線を上げたのは、彼女が喋るのを初めて聞いたからだ。


「どういうことだろうか」


視線を合わせると、彼女は目を伏せた。

そこにあるのは恥じらいや駆け引きではなく、まして嫌悪ですらない。

ひどく不可解な諦観のような苦しみが覗き、なぜだろうと不思議になる。



「彼女を選ぶのなら、他の子達を刺激しませんよう。誰だって、夢を見て自分がそこにつきたいという場所があります。不当な目に遭ったと思う者は、我慢が擦り切れていますから。例えば、自分が欲しかった幸せを取られると、とても残酷になるのです」

「………あの子が攻撃されるということか?」

「かもしれませんし、その矛先は自分達を選ばなかったあなたに向くかもしれません。だから、あの子を拾い上げるのであれば、せめて職業見習いで皆がここを離れるまで待つべきですね」

「後でこっそりと手に入れればという訳か」


実は既に、忠告めいた言葉で違う歩み寄りを見せた他の少女もいた。

更に言えば、王族の慈善活動で複数名の異国の少女達の面倒を見ていることに、妙に親身になって不憫がるヴェルクレアの女性達も。


なのでその時、また同じような手合いかと思って少なからずうんざりとしていた。


「あなたは立派な人ですが、惨めさというものを甘く見ていらっしゃいます。惨めな思いをした人間は、とても愚かなことをしますから」


その言葉には幾らでも言い返せたのだ。

王宮務めをしているのだからそんなことくらいわかっているとか、そもそも、あの少女のことは気にかけていないとか。


でもその時に見過ごせなかったのは、その女性の声に滲んだえもいわれぬ落胆であった。


「…………君もそう思うのか?」

「いいえ。望むことが出来るというのも、限界がありますからね。私はもうとうに大きな子供がいてもおかしくない歳です」

「ガゼットにご夫君が?」

「それも、いいえと。私はこの通り不器量でしたから、そのようなご縁はありませんでした。自分に関係のないことだから、あちこち目にとまるのでしょう」



それだけ言うと、女はすぐに部屋を出て行ってしまった。

政治的な喧伝を助ける為に受け入れた亡命者達には、いくつかの部屋を貸し与えている。

彼女はいつも、その中の壁際に佇んでいた。




確かに美しくはなく。

切れ長の目は不機嫌そうで怖いと倦厭されているし、女性達のお喋りに混じるには一人だけ年齢が離れ過ぎていて、積極的に他者と関わるような気質でもなさそうだ。


女性としては大柄で、俯きがちなので姿勢も良くはない。

縮れ毛の赤い髪が気になるのかきつくまとめているが、零れたその後れ毛が目立ち、さっぱりとした面立ちを悪目立ちさせていた。



それなのに。



それなのになぜか、彼女達がばらばらの職業見習先に送り出されるその時まで、そんなぱっとしない女性が気にかかった。



惨めさすら門の外であるという諦観の境地を初めて知ったということもあるし、その疲れたような声に滲んだ微かな痛みが、思いがけず抜けない棘のように心に残った。




その数週間後のことである。



「あの亡命者達の中にいた、メルジナという少女と関係を深めたことがある?」


そう問いかけたのは、主人である第三王子だ。

一瞬質問の意図がわからずに呆然としてから、短い言葉で否定した。

すると王子は小さく微笑んで、やっぱりねと呟いた。


「そうか。君が好きな感じの子ではなかったからまさかとは思ったけれどね。どうやら、君にとても、……必要以上によくして貰ったとあちこちで言っているみたいなんだ」

「…………どうしてそんな」

「私の婚約者殿の友人が言うにはね、君が、世慣れている風なのに無防備だからだそうだよ」

「俺が、無防備………ですか?」

「うん。今回はこちらで対処しておく」

「も、申し訳ありません」

「君は美しい妖精だから仕方ないさ。それと、その婚約者殿の友人から伝言だ。嫌いなら嫌いで望まれない努力をしなさいだって。真面目にあちこちに顔を出すから、社交好きで手に入りやすそうに見える。そのくせに堅物だなんて、一番相手の引き時がわからなくなるからって」

「…………それを言ったのは黄薔薇ですね」

「彼女は君を心配しているんだよ」


王子の婚約者とそんな話をしたらしいのは、同じ代理妖精の黄薔薇の妖精だ。

跳ねっ返りで気性が激しく、少年のようだが美しい妖精で、王子の婚約者が大好きだ。


ただ清廉で真っ直ぐな、その歌乞いを好む人外者は多い。

不器用と言えば、歌乞いの彼女に勝るものはいないだろう。

善良でたおやかで、小さな小鳥の死一つで涙を流す美しい少女。

一部の貴族達が鹿角の聖女の再来だと噂するのもわかるくらい、あの澄んだ微笑みは優雅で柔らかい。

第三王子の生母がガーウィンの貴族の出身であることも影響してか、そんな風にもてはやす風潮は強く、今の彼女は国境沿いの兵士達の士気上げや、様々な慈善活動に精を出している。


そんな完璧な少女を一人知っていれば、ロギリオスがあのメルジナという少女に心動かされる可能性などなかった。

あの少女もよく完成されてはいるが、特出した者に溢れたこの国では埋没してしまう。

主人の婚約者の方が、よほど魅力的で好感が持てる。



「…………気を付けましょう」


口に出せばいずれ真偽を問われる。

なぜそんな愚かなことをするのだろうと悩んでいて、その答えを得たのは翌週のことだった。



「惨めさの中で、人間は愚かな夢を見るものです。美しく若いあの子達が惨めな思いをして、こんなものは不相応な苦痛だと思ったその時に、あなたは眩し過ぎて目が眩んだのでは?」


そう話したのは、あの赤毛の女性だった。

遠征先のアルビクロムの食品店で偶然再会したので、呼び止めてその話をしてみたのだ。


「だから、君は忠告めいたことを?」

「あの時に伝えたかったことは、他の騎士様が防いでいましたよ。メルジナを陥れてあなたの注意を惹く企みがあったのですが、幸いにもメルジナには信奉者達が多くいましたから。………でも本当は、あの罰せられた子達だって不憫でしたけれどね」


確かに、メルジナの周りで悪意を持って彼女の評判を落とそうとした騒ぎがあり、内々に処理された事件があったそうだ。

やっぱりそういうことが起きたのかと呆れて、それ以上は関与しなかった。


そして、ここでもまたロギリオスは、そんなことぐらい予期していたとは言えなかった。

そう言ってしまえば、会話は終わってしまう。



「さて、こんなおばさんに聞きたいことはもうないですね?」


彼女がそんな風にまた一つ諦観を重ねたことが、なぜだか苦痛だった。

質素なエプロンをつけて、指先は水仕事で傷付いている。

他の少女達は、歌劇場の受付やカフェ、宝石店や衣料店に見習いに出されたのに、彼女を引き取ったのは野菜の下処理をする食品店だったのだ。


抱いていた望みを捨てるのとは違う、諦観の奥でまた諦めてゆく姿に、ふと終わってしまったあの国を思う。



ロクマリアは、ゆるやかな滅びのその最後の百年で転がり落ちるように腐り果てた国だ。


元より、地脈の妖精の生活域というのは過酷なものである。

剣の腕を磨き、その生活を耐え忍んだその先で、今度は故郷となるべき土地と国までも失われてしまった。

最初から恵まれた環境ではなかったが、多くの仲間達が死に絶え、生き延びて檻に入れられたあの日のことは決して忘れまい。


屈辱はなかった。

剣の腕は立つとは言え四枚羽であるし、あの国の惨状を見ている限り、いつかこの手の不幸に見舞われることは想定内であったからだ。


だから、諦めからしか生きていないその惨めさは、ロギリオスも知っている。

目の前の赤毛の女は、内乱が凄惨さを極めた頃のロギリオスの仲間達と同じような暗い目でこちらを見ている、心を揺さぶるものだった。


どこにも行けないと知っている目だ。




「君は、俺から見たらまだ子供のような年齢だが」



思わずそう言ってしまったロギリオスに、彼女は目を丸くして言葉を無くした。

そんなことは言われたことがなかったとでも言いたげな眼差しに、また少し焦ったくなる。


よくわからないが、これでは駄目なのだ。

これでは不愉快だと、よくわからないままに奥歯を噛みしめる。


「それと、…………また来る」

「…………は?」


しかしその日は言葉をまとめられず、そんな一言だけを残してその店から逃げ出した。

よく考えれば、ロギリオスは最初からその店に彼女が働いていることは知っていたのだ。

だからあえて立ち寄ったのに、ロギリオスを見た彼女は、喜びでも驚きでもなく、なぜか傷付いたような暗い目をした。




「あなたがどんな履歴だろうと、美しくて力のあるあなたは、彼女よりは遥かに恵まれているの。自分が諦めてきたものを持つ相手、それも、もし自分が別の誰かだったら望めたかもしれない相手を見るのは、とても惨めよ。でも、女だからこそのその惨めさは、ロギリオスにはわからないわね」


そう話したのは、刺草の妖精だった。

第三王子に焦がれていたが、歌乞いに恋をした王子に心破れて、王宮の庭園の隅で刺草の姿に戻ってしまった妖精だ。

今は棘だらけの植物の姿をしていて、ロギリオスが行き詰ると気付いて庭の端から声をかけてくれるので、時折こうして話をする。



「男の持つ惨めさとはまた違うわ。そして多分、あなたのような生き物には永遠に想像出来ない」

「それは、………俺の視野が狭いからか?」

「ううん。それはもう、蟻に竜の気持ちがわからないのと同じ。もし今からあなたが醜くなっても所詮男だし、かつては美しく生きていたという記憶も残る。そのくらいに違う世界の苦痛なのよ。だからもう、その子に会いに行っては駄目よ」

「…………彼女の気持ちがわからないから?」

「その人間にとっては、あなたを見るということもきっと苦痛でしょう。自分がどういうものなのかの真実を知っているということ、そしてそれまでの履歴。私にはその子の惨めさがわかる気がするわ。他の子達がそれを欲してテーブルについて争った中で、自分だけはそのテーブルにつく資格すらなかったのに、そのテーブルの上のご馳走だけまた見せられた感じでしょうね」


刺草の妖精は、第三王子に愛を請うた他の女達とは違い、自分の醜い容姿で王子を怖がらせないようにと、遠くから見ているだけだったという。

それでも、王子が婚約した時に、こうしてただの刺草に戻ってしまうくらいに心を壊したのだ。


(…………では、彼女はずっと俺を苦痛だと、そう思って接していたのだろうか)



ロギリオスには、その惨めさとやらはわからない。


「よくわからないな。俺には、彼女がテーブルにつけない理由もよくわからない」


そう言った途端、刺草の妖精が小さく唸った。



「…………そう、ロギリオスはそう思うの。だったら、彼女のところに言って、そのままの言葉を言ってやりなさい。そして、その子に捨てられでもしない限り、もう二度と私の前には現れないで」

「刺草?」

「自分には最後まで訪れなかった奇跡が、他の誰かに与えられるのを見るのも酷なことよ。どうかわかって」



その日以来、刺草は喋らなくなった。

通りかかって声をかけても、ただの刺草のままだ。

ロクサーヌにも相談してみたが、厳しい表情で首を振るばかり。




なぜ友人まで失う羽目になったのだろうと、そんな鬱屈とした思いで休暇に入った日の朝のことだった。

その日は朝まで国境域で大掛かりな祟りものの討伐があり、酷く疲れていた。

やっと座れたというだけで、そのまま崩れ落ちそうになるくらいに疲弊しきって、仕事を終えて執務室を出ようとしたときにその一報を聞いたのだ。


「ロギリオス様、アルビクロムで大火だそうですよ」

「……………アルビクロムで?」

「ええ。市場の方で、火竜が暴れたらしいですね。ドリー様が鎮圧に向かったそうで、若い騎士達は朝から伝説の竜が飛んでゆく姿を見れて興奮し通しです」


それは大火そのものよりも、第一王子の契約の竜を見た若者たちを微笑ましく思う言葉だったのだろう。

けれど、その言葉を聞いたロギリオスは、矢も盾もたまらずに飛び出すと、すぐにアルビクロムの市場に転移で飛び込んだ。



「…………これは」


焼け落ちて見る影もなくなった市場の姿に呆然としてしまう。

ガレンから魔術師達が派遣され、修復自体は迅速に進むだろう。

しかし、犠牲者の数を思えば甚大な災厄だ。


途中で経由地の転移申請を無理に突破してしまったので、後から担当部署に抗議が入るに違いない。

第三王子の騎士というだけでは、他の領土に無理矢理転移をかけるには弱い立場だ。

アルビクロムに大きな権限を持つ、第五王子の代理妖精に後で頭を下げる必要があるだろう。


でも今は。

そんなことなどどうでも良かった。



「………っ、」


彼女の名前を呼ぼうとして、知らないことに気付いて愕然とする。

そうだ。

彼女の名前を覚えてしまうことが癪で、決して名簿を見ようとは思わなかった。

見てしまえば忘れられなくなる。

それがわかっていて、ロギリオスは彼女の名前だけは決して見なかったのだ。

そして彼以外の誰も、あの女性の名前を呼ぶことはないままだった。



昼近くまで被害地を駆けずり回ってやっと安否の確認が取れた頃には、ロギリオスは立つのもやっとという有様だった。

よろめきながら避難場所になっている小さな教会の扉を開ければ、そこには家族や友人を案じた人々の喧騒に満ちている。

泣いている子供や、抱き合って喜ぶ恋人達、蹲って泣いている老女に、そこに寄り添う青年など。


そして、やはり彼女は一人ぼっちで壁沿いの暗がりに座り込んでいた。

火傷でもしたのか頬に包帯を当てていて、煤に汚れて真っ黒になっている。


王都の騎士服姿の妖精が入ってきたことに気付いた人々にぎょっとされながら、細い通路を歩いて、彼女の前まで歩いていった。



(………誰かが自分の元を訪れるとさえ思わないのか)


目の前に立っても、彼女は顔を上げようとはしなかった。

目は開いているので意識はあるのだろうが、足を止めた誰かが自分の客だとは考えもしないのだろう。

そのことがとても不愉快になって、ロギリオスはどすんと彼女の隣に座り込む。



「………ロギリオス様?」


驚いたように声を上げてこちらを見たのがわかったが、彼女の顔を見ることが出来なかった。



「仕事でアルビクロムにいらっしゃったのですか?休息を取るのなら、通りの向いの商館の方が、裕福な方々や兵士の方の休憩所になっていますよ?」

「…………私用だ。今朝からは、半月ぶりの休暇だった」

「…………では、休暇中に火事に巻き込まれてしまったのですね」

「いや。王都でこの火事の話を聞いて、………………君を探しに来た」


ぐふっと変な音がした。

顔を上げてそちらを見れば、驚きのあまり呼吸が詰まってしまったのか、煤けた赤毛を持つ女性が喉を抑えて赤面している。

まじまじと見ていると、惨めそうに視線を逸らされた。


「………騎士の方々は、お優しいのですね。お気遣いをいただきまして、有難うございました。私はこの通り無事ですし、しばらくはこの教会が家や仕事を失くした人々の面倒を見てくれるそうです」

「義務で来たんじゃない。君が心配だから、ここに来たんだ!」


あまりにも邪険にされて思わず声を荒げてしまい、自分でもどうかしていると項垂れる。

周囲の者達まで黙り込んでしまったので、辺りには居心地の悪い沈黙が落ちていた。



「………言い直します。騎士だからというのではなく、あなたが優しい方なのでしょう」

「……………君のそういう部分は嫌いだ」


思わず言い返したその言葉に、彼女はふっと泣きそうな目をした。

そこに滲んだ傷深い魂の輝きに、はっとして慌ててその手を掴む。

愚かなロギリオスにでも、今はそうしなければならないとわかった一瞬だった。


「そんな目をしないで下さい。嫌われることには慣れていますから」

「…………すまない、そういう意味ではなくて」

「無理をしなくてもいいんですよ。疲れていらっしゃるようですし…」

「よくわからないが、君が諦めるのを見ているのが嫌なんだ。暗い顔をしてるのも、いつも一人だけ隅や外側にいるのも、………俺を見る度に顔を顰めるのも」


また小さな沈黙が落ちた。

おもむろに手を引き抜こうとされたので、ぎゅっと握れば体を強張らせている。

上手いやり方ではないどころか、最悪の状態だった。

騎士であればこそ、まずは彼女の怪我を治してやるのが先決だろう。


でも、今、もしそんなことを優先してしまえば、大切な何かを失くしそうなのだ。


「…………顔を顰めるのは、目が悪いからです。もういい歳ですから、心をざわつかせるものでも凝視出来るくらいには図太いですから」

「と、とにかく!………よくわからないが、君が…………」


そこでロギリオスは言葉を失った。


確かに、己の境遇が価値観を変えたりなどしない。

そんな高慢なことを言える程に愛情を知っていた訳でもなく、おぼつかないまでの不器用さに泣きたくなる。

ロクサーヌの言う通り、ここにあるのはただロギリオス自身の欲求でしかない。

自分の過去も今の立場も関係なく、もっと単純なただの欲求なのだ。



「………俺は、君が好きなのだと思う。かつての仲間達に似た目をしているからではなく、それ以外ならその理由が特にあるという訳でもなく、よくわからないが君が好きなのだ」


ぼそぼそとそう付け加えると、今度こそ彼女は絶句した。

何かを言おうとして口をぱくぱくとさせ、やがて諦めたのか小さくすすり泣く声が聞こえる。

返事をもらえなくてやきもきしたが、手を振り払われないのだから大丈夫だろう。


(まずは、王都に連れて帰ろう。こちらで不明者扱いされないように役所に伝達を入れて、………俺は騎士舎住まいだから、王都での彼女の部屋を借りないと………)


そんなことをあれこれ考えたが、結局ロギリオスの権限では足りないことばかりであったので、主人と知人であるロクサーヌの伝手を借りて、何とか彼女を連れ帰ることが出来た。

やっと彼女の名前を教えて貰ったのは、あの日の夜のことだった。




「王子は婚約者を亡くしたばかりだ。国としても喪が明けるまでは、色々と支障が出る。もう少しだけ待ってくれ」


そう言って赤い髪を撫でたのは、どれくらい前だろう。


「やっと婚約の見通しが立った!同僚の知人宅で、侍女として雇い入れてくれて、そのまま遠縁の娘だということで、養子扱いにしてくれるそうだ」


決して平坦な道のりではなかった。

その上で、やっと訪れた明るい未来の気配に笑い合って抱き合い、朝まで色々な話をした日。


彼女に買い与えたドレスや、密かにお揃いにしてある羽根つきのペン。

たわいもない可愛らしいものや、眉を顰めていた軽薄な愛の言葉。

それまで彼女が望むことも出来なかったたくさんのものを、これからもずっと捧げよう。


微笑んで幸せそうにこちらを見てくれるならば。

あの瞳が安堵にほころぶ様を見れるのなら、どんなことだって。




「ご令嬢を狙った呪物だったのでしょう。お気の毒ですが………」


エゴンと名乗ったガレンの魔術師からそう告げられたのは、ある朝のことだった。

夜の内に伯爵家の女達は皆殺しにされ、彼女もまたその呪物の犠牲となったのだ。

仕事で三日ほど王都を空けていて、戻るなりそんなことを聞かされた。



彼女が伯爵家を出てロギリオスの元に嫁ぐまで、あと、四日のことだった。




「こんなところまで、私に似なくても良かっただろうに」


泣きそうな目でそう言ってくれた王子に頷いたのは、空っぽの棺を運ぶ葬列でのこと。

その翌週の死者の日に、なぜか彼女は地上に戻って来なかった。



(多分、死者の国に落ちたばかりで、それどころではなかったのだろう)



そう思って指折り待ち続けて、復活祭になった。


やはり彼女は戻って来ない。

せめて一目会えるだけでも構わないのに、守れなくてすまなかったと詫びたいのに、どこにもいないのだ。




「ロギリオス、明日あたりにガレンから良い報せが入るかと思いますよ」


ヒルドから久し振りにそんな連絡を貰ったのは、復活祭の少し後のことだった。

わざわざ連絡を貰ったことに恐縮しつつ、その内容に思い当たる節があることに胸を躍らせる。

王都では最近、死者の国から生還したという第四王子の話があちこちで囁かれていた。

疑わしいと言う者達も多い中、あの半身の呪いが死者の王のものであることは、その気配に触れたことのあるロギリオスには明白もいいところで、第四王子が落とされたそこに彼女もいたのだろうかと落ち着かない日々を送っていたのだ。


そんな折のヒルドからの連絡に、ロギリオスは微かな期待を膨らませていた。


(きっと、彼女には地上に戻れないような理由があって、その伝言を王子が受けたのではないだろうか?この時期にガレンから連絡が入るなど、他に理由なんて……)



そしてその日、ロギリオスが伴侶と住む為に購入した家の扉を叩いたのは、あの悪夢のような日に対面したガレンの魔術師であった。

青い髪に茶色い瞳の、呪物を専任とする魔術師だ。

頭を下げて挨拶を済ませると、彼は期待していたような言葉ではなく、よくわからないことを話し出した。


「……………呪物が妖精になったということが、俺に関係があるのですか?」

「ええ。あまりいい履歴の品物ではないので、引き取り先に困っていたところ、ヒルド様から是非にロギリオス様ならと」

「…………ヒルド殿からであれば、お受けしますが。………その妖精の面倒を見ろという話でしょうか」

「ロギリオス様が遠征で王都を離れていた時期に、再び、あの時のような呪物での事件が起きたのはご存知ですか?」

「……………はい。戻ってからの報告で」


正直、期待外れの訪問の上、その時のことを思い出すのは堪えた。


「その呪物が、グリシーヌの妖精達に渡りましてね。詳細はガレンの守秘義務に触れるので言えませんが、変質した結果、妖精となった次第なのです」


(…………だからか)


だからなのかと、座り込みたいような思いでその言葉を噛み締めた。

以前の呪物事件で愛する者を失った自分に、今回の呪物事件で変質したものから派生した妖精を預けて、心の傷を緩和しようとでもしてくれたのだろう。

恐らく変異したのは呪物の被害者だ。

お互いの傷を舐め合い、双方で支えになれと。


(でもそれは、あまりにも酷な仕打ちではないか……)


もしそれが彼女ならばと、ロギリオスが考えない筈もないというのに。



「実は今日、その妖精を連れてきているのです。櫛の形をした呪物ですので、少し小さな妖精になってしまいましたが、今日からお世話いただければと思うのですが」

「………ガレンの方々は、仕事が早いですね」


彼女が亡くなった日もそうだった。

ロギリオスが駆けつけたときにはもう、被害者達は浄化されてしまっており、術師も死んで呪物すら残っていなかったのだ。


奥歯を噛み締めて意識して羽を畳み、エゴンという魔術師が差し出した銀色の鳥籠を受け取って布の覆いを外す。


「ゲルタと申します」


美しい銀色の篭の中で、そう名乗って優雅にスカートの裾を摘まんでお辞儀をしたのは、赤い縮れ毛に切れ長の目をした小さな妖精だった。

藤色の小さな妖精の羽があり、おさまりの悪い赤毛は誰かが手を加えたのか、綺麗な編み込みにされていて藤色の小花を飾っている。



「……………ロギリオス様?」



こちらを見上げていた妖精が驚いたように目を瞠って初めて、自分が泣いていることに気付いた。

首を振って涙を止めようとしたが、上手くいかずに何度も頷いた。



「ロギリオス様、そちらの妖精の引受人となる旨、ご契約のサインをいただいても?」


エゴンの声には穏やかな微笑みが滲んでいる。

気の利いたことを言おうとして、また、ただ頷いて、ペンを取ろうと籠を片手で持ち直した。

サインをするまでは籠を開けることも出来ないので、それこそ書き殴るようにサインを済ませる。



「…………呪物派生は特異種扱いだと聞いたことがある。ガレンに異種族婚姻の許可証を取りに行く必要があるだろうか?」


サインした紙を持って帰ろうとしたエゴンを呼び止め、ロギリオスは慌ててその質問をした。

慎重に籠を開けて出して貰いながら、ゲルタが涙目で微笑むのがわかる。


「残念ながら。ただ、ヒルド様からの結婚祝いだということで、既に許可証は発行されておりますよ。昨日あたり、郵送で届いている筈なのでご確認いただければ」

「ヒルド殿が…………」

「今回、この呪物の柱となっているのはゲルタ様であると気付かれた方がいましてね。変異が始まってすぐに、ヒルド様はこの日のことを見越して手続きを進めておりましたから」

「し、しかし変異が始まってすぐでは、どんな生き物になるのかすら……」

「ええ。それでも、例え何になろうと、そこに彼女の魂があるのなら、妖精はそうするものだと仰って」


ぱたんと、床に涙が落ちる音でまた我に返る。

心配そうに見上げるゲルタを撫でようとして、彼女が首を痛めてしまわないように慎重に触れた。

以前のように抱き締めることは出来ないが、この大きさだと常に一緒にいられると考えて笑みが零れる。



「ああ。妖精ならそうする」



その翌日、二人は結婚した。


生まれて初めて可憐だと言われるようになったと、ゲルタは今の姿をとても喜んでいる。

砕けた小さな結晶石を大事そうに首飾りにしているのは、ガレンの誰かが失せもの探しの結晶石を呪物と一緒に封印してくれたからなのだそうだ。


「もう一度、あなたの人生を取り戻せますようにと、そんな言葉が聞こえたの」


きっとそれはヒルドだったのではないかと思い頷く。

それから、春になると休暇を取って、二人で失せもの探しの結晶石を探しに行くようになった。

もしまた離れ離れになっても大丈夫なように、その結晶石をお守り代わりに持っている。



これからもずっと、二人は毎年春になるとチューリップ畑に旅をするのだろう。

あの日の喜びが、色褪せることはないのだ。





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