四つ辻の呪いと藤の館 6
濁ったような悲鳴に目を向けると、竜の大きな咢に咥えられた妖精の姿が見えた。
(は、羽が六枚ある!)
腰を抜かしてしまった伯爵夫人が取り残されているので、お口に入ってしまったのは、グリオなのは間違いなかった。
それはまずいと驚愕に垂直跳びしてしまってから、ネアは慌てて手を振り回して大声を上げる。
「ダ、ダナエさん!!!いけません。今ここで妖精さんを食べてしまうと紛らわしくなるので、ぺっとして下さい!!ぺっと!!」
その声に、ぎくりとしたように大きな体を揺らしたのは大きな竜だ。
こちらに顔を向け、存在に気付いていなかったネアを目に止めて、淡い桜色の瞳を真ん丸にする。
「その妖精さんは、とある事件の容疑者なのです!お仕事で使うので、今はまだ食べてはいけません!」
駆け寄ろうとしたネアはすかさず魔物に拘束されたので、抱え上げられながら引き続き説得に入る。
体勢に緊張感がないので、せめて下ろして欲しい。
「ぺっと吐き出して下さい!………そう、そうです!………良かった。どこも欠けていませんね」
悪戯をしていて叱られた犬のように、桜色の目をした竜はぼそっと口の中の妖精を地面に落とした。
さっと屋根の上に戻ると四足できちんとお座りの体勢になり、翼も縮こまらせてぎゅっとなっている。
いきなり大きな声で叱られたので怖かったのだろうと思い、ネアはひとまず危険を回避した安堵感もあって、ほわりと微笑みかけた。
見事な藤の木からぼさぼさと妖精が地面に落ちているのは、白持ちの魔物に白持ちの竜の出現に精神が限界を超えたからだろう。
失神して木から落ちているようだ。
まるで食べてくれと言わんばかりの無防備さなので、ネアはその繊細さに頭が痛くなる。
「ディノ、ダナエさんの方に行きたいです」
「ネアが虐待する……」
「我が儘を言ってはいけませんよ、お仕事の現場なのですから」
「………………また毛の多い生き物に浮気する」
「言い方!」
ネアは乗り物になった魔物の三つ編みを引っ張って方向指示をしたのだが、頑として動こうとしない。
ここは働きどころなので、頭にきたご主人様がごすっと頭突きをすれば、魔物は渋々と動き始めた。
魔物が渋っている間に何かなされたのか、経路上にあった塊はいつの間にか見えなくなったようだ。
今度は白い魔物も近付いてくるので、また木から妖精が落下していたが、もうそちらは気にしないことにした。
ネア達が近付いてきたのがわかったからか、竜は屋根の上から飛び降りると、ぶわりと光って星屑のような煌めきを纏い、背の高い男性の姿に変わる。
そして、悲しげにしょんぼりした。
「…………ネア」
「ダナエさん、お久し振りです。お元気でしたか?」
「………うん」
「いきなり驚かせてしまってごめんなさい。その妖精さんは、食べられてしまっては困る方だったので、焦って止めてしまいました。怖くないですからね」
「……………せっかく会えたのに」
そこで項垂れたダナエが不憫で、せっかく会えたのに怒鳴られてしまった竜の頭を撫でてやろうとすれば、乗り物になった魔物が荒ぶって後退した。
「こらっ、ディノ。乗り物になるのであれば、せめてきちんと活躍して下さい。ご主人様の邪魔をしてはいけません!」
「ネアが浮気する………」
「お仕事とは言え、いきなり怒鳴られてしまったのです。ここはきちんと、慰めて差し上げないと」
「ひどい」
ぎゅうぎゅうと絞め技を繰り広げる魔物の姿に、濃紺の綺麗な髪を揺らしてダナエが心配そうにこちらを見た。
「ネア、……困ってる?」
「この困った魔物さんは、私の契約の魔物で婚約者なので大丈夫ですよ。ただ、毛皮のある生き物にたいへん嫉妬深い一面があるので、ダナエさんの出現に荒ぶってしまいました」
「………君の伴侶は、アルテアではない?」
「ええ。アルテアさんは、現状の使い魔さんです。ほら、ディノご挨拶して下さい。春告げの舞踏会でお世話になった方なのです」
「この子は私の婚約者だから、君にはあげないよ」
「こらっ!威嚇するのではなく、ご挨拶です!」
「ご主人様…………」
叱られた魔物がしょげてしまい、ネアは不安定な角度で抱えられたまま、久し振りに会うダナエの懐かしい顔に微笑みかけた。
唇の端に血がついているのが困ったところだが、相変わらず儚げで美しい竜だ。
ネアの視線に気付いたのか、慌ててぺろりと唇を舐めている。
「…………君に指輪を贈ったのは、アルテアじゃないの?」
「ええ、ここにいるディノが私に指輪をくれたんです。あの日はアルテアさんと一緒なので、紛らわしかったですね」
困惑したようにディノとネアを見比べ、ダナエはこくりと頷いた。
その素直な仕草に、ネアはきゅんとする。
きちんと落ち着いた男性であり、高位な生き物であるのは間違いないのだが、ディノに似ているだけではなくゼノーシュ的な愛くるしさを発揮してくるのだから堪らない。
ましてや、あんなに綺麗な竜だとは思わなかった。
しかし、そんなダナエは落ち着かない様子で瞳を揺らして、悲しげな溜め息を吐いた。
「ネア、君の知り合いを食べようとしてごめんね……」
「まぁ、もしかしてそのせいでしょんぼりしていたのですか?」
「君は初めて撫でた人間だから、嫌われたくない………」
「ふふ、そう言うことではありませんよ。なかなかに嫌なやつなのですが、大人の事情で生きていないと困る妖精さんなのです。なので、こちらこそ驚かせてしまってごめんなさい」
その言葉でやっと安心したのか、ダナエは嬉しそうに瞳を輝かせた。
いそいそと近寄ってきたのだが、その分魔物が後ずさってしまうので、逃げられてしゅんとしている。
「ディノ、ご主人様を解放して下さい。ダナエさんと会うのは久し振りなのです!」
「婚約者が浮気する」
「それを言うなら、私の婚約者の社交マナーも酷いですよ。ほら、背中にへばりついていていいので、ひとまず地面に返して下さいね。それかせめて、ダナエさんが近付いただけ後退するのをやめて下さい」
そこまで説得されてようやく、乗り物は勝手に後退するのをやめてくれた。
ふるふるしている魔物に持ち上げられたまま、ネアはひょいと手を伸ばしてダナエの頭を撫でてやった。
魔物にとっては悲しいことに、持ち上げのせいでとても撫でやすい高さだ。
「ダナエさん、大きな声で驚かせてしまってごめんなさい」
「ネア、………沢山探したんだけれど、君に会えなかったんだ。アルテアも邪魔をするし、アクス商会に頼んだら君は地上にいないって言われた………」
「まぁ、探してくれたのですね!確かにここ最近、死者の国に落ちてたのでその時だと思います。アルテアさんのことは叱っておきますね」
そこでネアは、ダナエが人差し指をふるふるとさせながら差し出していることに気付いた。
おやっと思って頭を差し出せば、そろりと指先でネアの前髪のあたりを撫で、激しく恥じらって少し逃げる。
「………また撫でられた」
「はい。どうやら魔術可動域は上がらないようですので、私はまだダナエさんの捕食対象ではありませんね」
「そうだね。小さい子は可愛いから食べないよ。それなのにここの妖精達は、子供の妖精を殺してあの谷に投げ込んできたんだ」
「む。………死んでいたのではなく、殺されたのですか?」
「いや、谷で殺して血を流していたよ。だから、今晩は好きな子じゃなくて、無作法な藤の妖精を食べようと思って………。でも君に、ヴェルクレアでは駄目だって言われてたんだったね」
またしゅんとしたダナエに、ネアはにっこりと微笑んだ。
「食べ物に困っているわけでもないのに、自分達の子供を殺すなど言語道断です。悪い妖精など食べてしまっても構わないと言いたいところですが、社会的な問題が絡んでくるのでどうか我慢して下さいね」
「わかった」
「ネア様、…………その方はまさか」
ここで言葉を挟んだのは、少し引き攣った顔のヒルドだ。
微笑んではいるけれど、なぜか少し目が怖い。
「ダナエさんです!所謂悪食の方ですが、ほこりと同じように愛くるしいですよ」
「…………成る程。ネア様が熱心に飼いたいと仰っていた竜ですか」
しかし、その言葉でぱっと顔を輝かせたのはダナエだ。
「ネア、私を飼ってくれるの?」
「…………ぐ」
欲望と理性の狭間で言葉に詰まってしまったネアの代わりに、じっとりとした声で魔物が春闇の竜の牽制に入る。
「この子は今、アルテアを使い魔にしているから、魔術可動域が限界なんだ。竜を飼う余裕はないよ」
「………では、私がネアを飼えばいいのかな?」
「言っただろう?この子は私の婚約者だ。これ以上、他の者との縁を増やすつもりはない」
「………そうなんだ」
明らかにダナエが落ち込んでしまったので、ネアは慌てて割って入った。
「ダナエさん!うっかり魔術可動域の限界を超えてしまって飼えなくなってしまいましたが、その代わりお友達になりましょう!」
「………友達になってくれるの?」
「ええ、勿論です」
ダナエは少し涙目だったところでほわりと微笑んだが、難色を示したのはディノとヒルドだ。
「ネア様、これ以上に縁を増やすとディノ様がお気の毒ですから」
「むぐ………」
「ネア、君は私のものなのに、どうしてすぐにあれこれ拾ってきてしまうのだろう。どうしてもその竜と友達になりたければ、他のものを捨てられるのかい?」
ここで魔物は、少しだけ一捻りしたようだ。
単純に拒絶してしまうとご主人様が荒ぶるかもしれないので、選択肢を見せたのだ。
「………そ、そうなると、ディートリンデさんのところの獅子さんと交換するしか」
「え…………」
「……………むぅ。涙を堪えて決断しますが、お友達ではなくても、獅子さんにはまた会えますから、ちょっとあれこれ心配なダナエさんの方を昇格させますね!」
「ご主人様……………」
「………ネア様、そもそもメディアと、友人になったのですか?」
「ええ。あまりにも、もふふわなので、クッキーで餌付けして無理やりお友達にしました!」
「…………そうだったのですね」
ヒルドは、なぜかディノの方を責めるように見ている。
ディノはとても愕然としているが、ネアだって時には獅子より優先するものもあるのだ。
「ところで、ダナエさんはどうしてグリシーヌにいたのですか?」
「君を探していたんだけれど、私がいても目立たない土地は少なくて。ここなら、沼地の禍子がいるから」
「沼地の竜さんを隠れ蓑にしていたのですね」
「沼地なら食べても騒ぎにならないかなと思ってたけど、逃げられてしまった。でもなぜか、妖精達が色々なものを放り込んでいくから、食べ物には苦労しなかったよ。そしたら昨日は、毒を染み込ませた牛と子供だった」
「む、牛さんに毒を」
「そう、さっきこっちに持ってきて………、あれ、なくなってるけど誰か食べたのかな」
ネアがきちんと仕事をしているので、ヒルドは気を取り直したようだ。
まずは軽くダナエに一礼して春闇の竜に瞬きをさせてから、同じく事情聴取に入る。
「ダナエ様、その子供は特殊な櫛を着けていませんでしたか?」
「着けていたよ。あれは、普通の竜なら食べたら内側が爛れてしまう」
「なぬ!そんなに怖いものなのですね!」
「歪なものだから、体に障るんだ。私は平気だから食べようかなとも思ったんだけれど、中身がヴェルクレアの人間のようだったから、君が嫌がるといけないと思って」
「ダナエさんは、さすがですねぇ」
ネアに褒められたダナエがもじもじしていると、どこか硬質な態度のままのヒルドに、その呪物の行方を尋ねられる。
「木の上に置いてあるよ。さっきまで、そこで眠っていたから」
「…………その藤の木の上ですか?」
「牛と櫛を返して、ここにいる妖精を食べようと思っていたけれど、眠たくなって寝てしまった。体を曖昧にしていたから、気付かれなかったね」
「…………グリオはどれだけ鈍感なのでしょうね」
ヒルドはとても呆れていたが、自分の上に呪物が戻ってきているどころか、春闇の竜が寝ていても気付かないのは流石に酷い。
しかしながら、春闇の竜は春闇そのものに転じることも出来るようで、持ち帰った牛などを抱えたまま、春闇と化してこの木の上にいたのだそうだ。
妖精の子供は埋葬したと聞き、ヒルドは少し驚いたようだったが、この竜は子供のことは可愛がるのだ。
「それにしても、よりにもよって己の系譜の上位者に手を出すとは………」
「ヒルドさん?」
「藤の妖精にとって、種族は違えど春闇の竜は系譜の上位者ですよ。この場合、全滅させられても文句は言えないですね」
「季節感なしでずっと咲いていても、藤は春の花なのですね」
「ええ。愚かなことです」
ここでヒルドはダナエと少し話をし、少しだけならここの妖精を食べてもいいので、グリシーヌを守護し続けなければならないグリオだけはやめるようにお願いしていた。
「私としてはいなくても構わないのですが、この街には既に妖精と共存する術が浸透し過ぎております。今更その生活を変えるのは得策ではない」
「君は妖精なのに、面倒なことを考えるね。そこまで怒ってないから君に任せるよ。どのみち、夏の系譜が来たら私は違う土地に行かないといけないし」
「ダナエさんは、夏が来るといなくなってしまうのですか?」
びっくりしたネアにそう尋ねられて、ダナエは少しだけ寂しそうに微笑む。
「系譜に季節を持たない資質なら良かったけど、私は春の系譜だから。でも、違う季節に遊びに行くことは出来るから、また会いに来る」
「一安心しましたが、そうなると、もうあまりこちらにはいられないんですね。このお仕事が終わったら、みんなでご飯にでもしませんか?素敵な料理人さんがいるのです!」
「………いいの?」
ネアがその提案をしたのは、以前の戻り時の事件の際に、ダナエの祝福が助けになったのかもしれず、再会出来たらもてなそうと思っていたからだ。
その時にアルテアには言ってあるので、是非にみんなでアルテアの手料理の会をしようと企む。
「ええ。ダナエさんは普通のお食事もされますものね。その席で私の家族のような方達を紹介しますので、食べてはいけない名簿に入れてくれると嬉しいです!」
「わかった。でも、子供と男は食べないから大丈夫だよ」
「…………しかし先ほど、グリオさんを食べようとしていたのでは?」
「あれは噛み砕こうとしただけ。毒を持ち込んだり、嫌がらせをしようとしたから」
「ふむ。反撃だったのですね。…………そう言えば、そのグリオさん達は……。む、死んでいます」
ネアはふと、周囲がやけに静かなことに気付いた。
ダナエに夢中でよく見ていなかったが、この空間の中で現在生きているのは、ネアとディノ、ヒルドにダナエだけのようだ。
他の者達は死屍累々という有様で、地に伏している。
ようやくその異変に気付いたネアに、ヒルドが小さく笑った。
「ディノ様を不愉快にさせ、その後にダナエ様でしたからね。さすがに精神がもたなかったのでしょう。皆、気を失っております。エゴンも含め、色々と繊細な問題も孕みますので、落ちていただいて助かりますよ」
「…………こんな風になるのですねぇ」
ダナエは悪食の竜であり、白持ちの階位だ。
不用意に知り合いであることを周知し過ぎてもいけないのだそうだ。
ディノが白過ぎる問題も含め、一度失神してくれると曖昧に出来るので、ヒルドとしては有難いのだと言う。
「さて、どちらにせよグリオはもう、さして悪さをする力はありませんからね。呪物を回収して、我々は早々にここを発ちましょう」
「厳罰に処すというようなことにはならないのですか?」
「ここは、妖精がある程度の自由を許される土地です。今回グリオ達があれこれと画策したとは言え、観光客や外部の者に被害は出ていない。グリシーナ家で死んだのも同族の妖精の系譜ですから、こちらは身内で処理させる範囲となります」
この世界の特殊なお作法により、グリオ達はお咎めなしとなるのだそうだ。
呪物を返さずに抵抗するのならその為の武力行使は可能だが、餌箱も含めて、それ以上のことはこの妖精の生態に伴う事情として無視される。
あの館で訪問者が閉じ込められて死んでいても、それはここの妖精はそういうものだからと注視されないのだそうだ。
(そこはやっぱり、違う生き物という観点なのだわ)
己の生息域で生き物を狩る獅子は咎められない。
だがもし、人間の街に下りてきて積極的に人間ばかりを狩れば、それは駆逐対処になる。
しかし、獅子の生息域に立ち入って殺された者は自己責任なので仕方ないとなる。
そんな感じの運用であるらしい。
そこには、違う生き物達と共存してゆく人間の営みが見え、ネアは社会的にもその運用で通るのだと、とても勉強になった。
「ネア様、部屋に荷物を置かれていますか?」
「いえ。戻らなくてもいいように持ってきました」
「それであれば、このまま片付けてしまえばすぐに出られますね。では、私は呪物を回収してきますので、少々お待ち下さい」
ふわりと飛び立ったヒルドを惚れ惚れと眺めれば、乗り物の魔物が小さく浮気だと呟いている。
そろそろ魔物の限界が心配なので、ネアは魔物の三つ編みを取り上げそこに口付けを落してやった。
はっとこちらを見た魔物に、綺麗な髪型でいられるようにという意味ではないですよと言ってから微笑みかけてやる。
こちらの世界では、髪に口付けするのは愛情表現なのだ。
「……………むぎゃ?!ディノ、乗り物になるなら、乗客を落してはなりません!」
その途端に魔物が死にそうになってしまい、ネアは慌てて地面に退避する羽目になった。
ご主人様を落して蹲ってしまった魔物の背中を撫でてやりつつ、ふと気配を感じて視線を上げると、ダナエが自分の三つ編みを持ってこちらを見ている。
「ダナエさん、今のは婚約者仕様なのです」
「友達だとしない?」
「ええ。その代りに、お友達なので後で連絡先交換をしましょうね」
「連絡先………」
「もしや、通信端末のようなものは持っていないのですか?」
「使ったことない」
「そうなると、ダナエさんと連絡を取り合うのは難しそうですね………」
「通信端末を買えば、君と連絡が取れる?」
「というか、お金の観念とか大丈夫でしょうか。心配になってきました……」
ネアはすごく不安になったが、お金に関してはきちんと持っているらしい。
春闇の竜は魅了の祝福を持った物を落すので、春闇の結晶を作らなくても、食べ残しの骨や鱗ですらとんでもなく高価になるそうで、そういう意味ではアクスとは日頃から取引があるらしい。
その蓄えを金庫に持っていて、普通のお店でも美味しいご飯を食べているのだ。
良く考えたら、一日五食は普通の料理を食べているので、普通の人よりもエンゲル係数が高い。
「ということは、金庫はあるのですね?」
「うん。だから、通信端末を買う」
「お喋り出来るものは高価なので、文通機能のあるカードでもいいですよ?」
提案したカードはネアが愛用しているその場の魔術を生かす高スペック型のものではなく、通常のカードの方だ。
こちらは通信障害なども起こるし、やり取りの捕捉などもされてしまうが、その分安価に購入出来る。
これまでダナエが必要としてこなかったものなので、出費を抑えてやりたいと思った。
「ネア様、通信魔術の捕捉が危ういこともあり得ます。伝言などで繋いだ方が宜しいのでは?」
しかし、そう忠告してくれたのはヒルドだった。
戻って来ると魔物も死んでいるので驚いたようだが、ご褒美で死んでしまったと伝えればどこか疲れた顔で納得してくれた。
「捕捉されると好ましくないのですね?」
「決して穏やかな気質の方ではありませんので」
さすがにダナエくらいに高位になってしまうと一般的な討伐対象とはならないが、それでも人外者達の中では残虐だとされる個体である。
通信の証跡を追われておかしな恨みを買わないように自衛しろということであるらしい。
その言葉にまたしてもダナエが落ち込んだので、ネアは仕方なく金庫に備蓄してあった葉っぱの残りを考えてみた。
「ダナエさん、では私が魔術追跡を受けない素敵なカードを買いますので、それでやり取りしましょう」
「ネア………」
「ネア様、あの道具はかなり高価ですので……」
「どのみち、前回の文通祭りで自分のカードがないとしょげてしまったディノの為に、一組購入しようとしていたのです。葉っぱはまだ残っていますし、二組買って一つをダナエさんに差し上げることにして、万事解決ではないでしょうか」
反論するべき理由はなくなったのになぜかヒルドは遠い目になったが、ダナエはとても喜んでふにゃりと微笑んでくれた。
愛くるしい竜なので、是非にエーダリアにも見せてあげたい。
竜が大好きな上司に紹介出来る、男性を食べない竜で本当に良かったと、ネアは春闇の竜の食事嗜好に感謝した。
(そして、ディノが復活しないけれど大丈夫だろうか……)
魔物は蹲ったまま震えているので、ダナエには時々こうなってしまうのだと説明しておき、その背中に寄り掛かるようにして椅子代わりにしている。
ダナエは、君の魔物は髪の毛に口付けされると弱ってしまうんだと、残念な方面に感心していた。
「ヒルドさん、問題の呪物は見つかりましたか?」
「藤の葉にひっかかっておりました。この場所は藤の妖精の領域ですので発動しておりませんでしたが、これが外であれば危ないところでしたね」
そう言ってヒルドが見せてくれたのは、艶々とした黒い小箱だった。
どうやらこれが呪物の封印をする為の入れ物であるらしい。
その中に、あの美しい鼈甲の櫛と共に、犠牲になった人達が入っているのだと思えば、少しだけぞくりと背筋が寒くなる。
夢の中で見た、血溜まりの中で泣いていた女性のことが思い出された。
藤の妖精達がダウンしているせいか、或いはその上位存在だというダナエが来てしまったせいか、藤の花を揺らす夜風は爽やかだ。
夜は少しずつ色を変え、そろそろ寝ないとまずいかなという時間だろうか。
しかしながら、ヒルドが、泊まるよりも徹夜でも事件を解決して早々に帰りたいという意向でネアはほっとした。
解放されるのが夜明けになっても、リーエンベルクに戻った方が健やかな気持ちで眠れそうだ。
「そう言えば、エゴンさんが目を覚ましたら聞きたいことがあるんです」
「おや、この呪物に関してでしょうか?」
「実は先程、その櫛の夢を見て、ディノに呪物に呼ばれているのではないかと言われたんです。なので、その呪物の犠牲者に、癖の強い髪をお団子にした、切れ長の目の背の高い女中さんがいるのかどうかを知りたくて」
「……………それは、前回の事件の最後の犠牲者ですね」
「お亡くなりになった伯爵令嬢の、侍女をされていた方ですか?」
「ええ。特徴的な容姿の方でしたからね。ガゼットからの戦争移民で、伯爵家では珍しい雇用だと一時期王都では噂になっていたようです」
「それは、移民の方だからでしょうか?」
「それに加え、その侍女は第三王子の護衛騎士と婚約をしたばかりでしたから。その婚約ありきでの雇用ではないかと、噂だったのですよ」
そこでネアは、夢の中でその女性が誰かに会いたがっていたことをヒルドに伝えた。
思えば死者の国で見かけたときにも、櫛は十字路の真ん中に置かれていた。
あれはもしかしたら、地上に戻りたいという誰かの思いの形だったのかもしれない。
「その方は、私の夢の中でやっと人生を取り戻せると思ったのにと言っていたのです」
もし、やっと手に入れた宝物を失ったのであれば、それはどれだけ悲しく恐ろしいだろう。
そう考えて意識を失って倒れている伯爵夫人を眺めれば、ここに乗り込んだ時に地面に座り込んで泣いていた姿を思い出す。
愛する者を望んで涙を流すそんな姿は、やっと幸せで優しい場所に逃げ延びた者からすると、とても恐ろしいのだ。
それはかつての自分の姿であり、空っぽの手のひらを知っているからこそ恐れるいつかの自分の闇である。
「その櫛の中身はもう、半分くらい人間じゃないと思う」
しんみりしたネアにそう言ったのは、不思議そうに首を傾げたダナエだった。
「………何かおかしなことになってしまっていたのですか?」
「谷底に放り込むときに、妖精達が殺した子供の血が付いてしまっていた。呪物に人ではないものの生贄を捧げると、それはもう変質してしまって新しいものになるんだ」
「そんな…………」
ネアが慌てて視線を戻した先で、ヒルドも小さく頷く。
あえてネアには報告しなかったが、回収した時に櫛がおかしくなってしまっていることに気付いていたのだろう。
「元より、死者の国で櫛の形を成していたことも、少し疑問でした。恐らく、ネア様の見た死者が地上に戻りたいと願うあまり、呪物と化してしまった可能性が高いですね」
「そうなると、この櫛はどうなってしまうのでしょう?」
「魔物や妖精になるようであれば、そのまま経過観察でしょうか。穢れに近ければ調伏されますし、あまり悪いものでなければガレンでの預かりとなります」
「…………あの方が、少しでも楽になるといいのですが」
「ネア様のお蔭で良い情報を得ました。死者の国からその犠牲者が練り上げられた状態で地上に戻ったのであれば、呪物自体が彼女である可能性が高い。もし、変異の後に何か意志を持つようであれば、その侍女に由縁のある者を説得に回しましょう」
「もしかしたら、その婚約者さんがいいのかもしれませんね」
「ロギリオスですね………」
ヒルドが教えてくれたことによると、その騎士は妖精なのだそうだ。
王都にいるときに少しだけ交友があったそうで、華やかに見えるので取り巻きなどが多く派手好みに思われがちだが、実際には実直な青年なのだという。
「彼は、その剣の腕を買われて王都に献上された妖精だったんですよ」
かつて滅びたロクマリアの国境域を住処とする地脈の妖精だったらしく、同じように王都に献上された妖精としてヒルドは何か思うところがあるのだろう。
(きっと、その妖精さんのことは気に入っていたんじゃないかな)
それは多分、ネアが愛する者の為に泣いた女性達を見て感じたように、自分事としても動く心の痛みだ。
王都でも主人を失った代理妖精がいるようであるし、櫛を回収しても起きてしまった事件が癒される訳ではないが、ネアはひとまずこの遠征が無事に終わりそうでほっとした。
よいしょと立ち上がると、ディノの背中をぽんぽんと叩いて、後片付けをしたら帰るので立つようにと声をかける。
いそいそと近寄ってきたダナエにも微笑みかけてやり、まずはヒルドと共にエゴンを起こしにかかった。
夜の風に美しい藤の花が揺れている。
さわさわと鳴るその囁きに、ばさりと羽を振るったヒルドの清廉さがとても映えた。
夜に溶け込むような濃紺の髪を靡かせ、とても絵になる仕草で振り返ったダナエも、きっとどの妖精を食べて帰るか見ているだけなのだろうに、絵のように美しい。
よろよろと立ち上がったディノも、弱ったようなくしゃりとした儚さが妙に艶かしく美しかった。
そんな素晴らしい生き物達を眺め、ネアはこてんと首を傾げる。
「このままグリオさんを起こすと、あまりの羨望に憤死するかもしれませんね」
ネアとしては精一杯の忠告だったのだが、美しい生き物達は不思議そうな顔をする。
結果、無神経な生き物達に叩き起こされた藤のシーは、憤死はしなかったが心がぽきんと折れたようだ。
その後、すっかり大人しくなってしまい、一人だけ逃げずに自分を守ってくれた伯爵夫人にべったりになったそうだ。
なお、エゴンが王都に持ち帰った呪物は紆余曲折を経て可愛い妖精になったそうだが、それはまた別のお話。
ネアは、ヒルドに頼んで、小さな失せもの探しの結晶を呪物封じの箱の中に放り込んだことを、少しだけ誇りに思っている。
小さな自己満足だが、あの泣いていた女性に、最後にもう一度人生を取り戻して欲しかったのだ。