四つ辻の呪いと藤の館 5
夜半過ぎになると雨が降り出したようだ。
夜はいっそうに暗くなり、窓から見る藤色がどこか陰鬱な景色に見える。
藤の花は大好きだったのになと思いながらネアが外を見ていると、お風呂上りの子供を捕まえるお母さんの要領で、魔物に毛布で捕獲されてしまう。
「ネア、もう寝た方がいい」
「ヒルドさんとエゴンさんが帰ってきていませんが、大丈夫でしょうか?」
「あの二人が戻って来ていないのは、戻れないのではなく、彼等の事情だ。仮にも辺境伯の屋敷の守りを損なったのだから、何か方策を敷いているのだろう」
「もし困ったことになるようであれば、ディノも手助けしてあげて下さいね」
「…………君の大切な里親だから?」
「ふふ。ディノにとっても、ヒルドさんは同じ屋根の下の家族のようなものですよ」
かさりと音がして目を瞬くと、背を向けた窓の方に何やら小さな影がある。
何だろうと思って視線を向けようとすれば、ディノにひょいと抱き上げられて体の向きを変えられてしまった。
「窓のところに何かいました!」
「言っただろう?この土地には、形も歪な小さな生き物達がたくさんいる。害はないが、あまり見て楽しいものでもないだろう」
「………窓の隙間から入ってきたりはしませんか?」
「ある意味、館そのものの遮蔽はしっかりしているよ。あえて外向きの窓の部屋をあてがわれたのは、嫌がらせかもしれないけれどね」
「街の方が見ていて楽しいので、私はすっかりいいお部屋だと思ってはしゃいでいました……」
こういう土地では、部屋も窓も、内側に向かっているものの方が良いのだそうだ。
階数であれば地上より遠く、部屋向きは敷地の中央が最も堅牢である。
外から雑多なものが入り込み難いということで、唯一例外的に劣悪な環境となるのが地下室だ。
「本来であれば、こういう土地の場合は君のような人間が一番安全なんだ」
「………私のような?」
「抵抗値が高く、魔術可動域が低い。浸食を受けずに、見向きもされないのが一番だからね」
「そこはかとなく悲しいですが、確かに一番安全そうですね」
「小さな生き物達は、より価値がありそうなもの、そしてより環境の良さそうなものを目指す習性がある。今の守護の厚い君が一人でこの土地を歩くと、虫が明かりに集まるようなことになりかねない」
「…………ディノ、これ以上何も言わなくても、私はディノの側を離れません。なので、さっきみたいに一人でお留守番させるのも禁止ですよ!」
「…………竜も厄介なんだよ。あまり君に会わせたくないな」
そう呟く声が悲し気だったので、ネアは膝の上に抱え上げられたままぼすんと魔物の胸に激突してやる。
ふっと嬉しそうな微笑みの気配に、ほんの僅かに老獪な魔物らしい計算の気配。
ネアはネアで、ヒルドが戻って来るまではこっそり寝ない覚悟で、ディノとお喋りをしながら時間を潰そうとする姑息な手段に出る。
けれども、少しだけ寝落ちしていたようだ。
夢の中で、女性が血溜まりのある床に倒れ伏して泣いている。
どうしてと囁く声は喘鳴に近く、ごぼりと血の泡が混じる吐息は弱々しい。
どうして、やっと結婚が決まったのに。
これから幸せになって、やっと私の人生を取り返す筈だったのに。
どうして。
その嘆きの激しさに涙が零れそうになって、ネアはその女性の手の中に見たことのある鼈甲の櫛が握られているのを目にした。
あっと思った時にはもう、その女性の姿は掻き消えて、床に残った血溜まりの中には傷一つない綺麗な櫛が落ちていた。
『この中に戻れば、もう一度あの人のいる地上に戻れるかしら』
「…………っ、」
「…………ネア?」
その女性の呟きが耳のすぐ側で聞こえた気がして、飛び起きたネアはいつの間にか魔物に寝かしつけられていたことに気付く。
ばくばくする胸を押さえて、すぐ側にいるディノの体温にほっとした。
「あの櫛の夢を見ました」
「呼ばれている可能性がある。念の為に守護を深めておこう」
暗がりでそう微笑んだ魔物は、雨の打ち付ける窓辺の影の中でぞくりとする美貌を際立たせる。
息を飲むほどに暗く、身を切る程に美しい。
儀式なのか罠なのかわからなくなるような口付けを受けながら、ネアはけだものの様な水紺の瞳を見上げた。
菫色や白銀の虹彩が強まる時、今までこの魔物がそんな目をした時のことを思い返す。
(これは、単純に呪物を警戒しているからなのかしら?)
それとも、何か悪巧みをしているのだろうか。
そんなことを考えていたら、控えめに扉をノックする音が聞こえた。
「………ヒルドさん達ではなさそうですが、こんな時間に誰でしょうか?」
扉の向こうからは声は聞こえない。
しかし、ヒルド達であれば声をかけてくれそうだと考えてしまうが、深夜だから遠慮しているのかもしれない。
「ヒルド達ではないね。離れないよう、君は私の後ろにおいで」
「はい」
ディノはそう言うと、背中にネアをへばりつかせる形で扉を開けに行く。
誰何の声をかけないので、ネアはひやりとした。
ガチャリと、扉が開く。
「良かったです、ディノ様、実はヒルド様が怪我をしまして」
「ヒルドさんが?!」
エゴンの声だ。
驚いたネアが声を上げて前に出ようとした途端、ディノがぐっと背中でネアを押しやった。
後ろに手を伸ばされて、片手をしっかりと掴まれ、その手をディノの腰に回すように配置される。
「私の名前を呼ぶには資格がいるんだよ。さて、君は誰だろう?」
「ディノ様、……このような時に何を……」
「妖精の匂いがするね」
「…………ギ!」
次の瞬間、扉の前の何者かは、軋むような鳴き声を上げるとばらばらと散らばった。
ディノの背中越しなのでよく見えなかったが、エゴンだった筈の人影が小さな生き物になって崩れ落ちるのはわかり、ネアは短く息を詰める。
ざあっとそれを飲み込むように温度のない風が揺れ、陽炎めいた白い炎が揺れる。
そうすると、そこにはもうひとかたまりの灰が落ちているばかりだ。
「…………ディノ、」
「作りものだ。君の嫌いな虫だったから、燃やしてしまった」
「虫…………」
「飛蝗だよ。寄せ集めたものを形代にして、誘い込む為の囮にしてあった。………このくらいのことが出来るくらいには、まだ元気なようだね」
「ヒルドさん達は大丈夫でしょうか?あの藤の妖精さんの仕業だとしたら合流した方が良い気がしてきました……」
「害虫の魔術は藤のものではないよ。これ以上、ここに囚われた他の者達が押しかけてきても面倒だから、そうしようか」
「他に囚われた………?」
驚いて目を丸くしたネアをひょいと持ち上げ、ディノはまず着替えをさせた。
念の為にアンダードレスなどは着たままであったので、隣に魔物がいても着替えに支障はない。
ブーツも履いてしっかり靴紐を結ぶと、戻らないことも考えて荷物は全て首飾りの金庫にしまう。
その際には、ディノに言われてうっかり呪物が忍び込んでいないかも丁寧に調べた。
生き物と違い品物でしかない呪物なので、魔術遮蔽の符に包まれてしまうと、ディノにも探知が難しいらしい。
「それと、外に出るから雨避けの魔術もね」
「雨足が強まってきましたね」
「呪物が歪むと天候が荒れることがある。すぐにわかるかと思ったけれど、気配が不思議に曇っているんだ。ヒルド達が回収を仕損じたと考えれば、他にも要因があるのかもしれないね」
「そうなると、ヒルドさん達は………」
「どこかを損なった感じはないから安心していいよ。先程から随分と動いているのは、呪物を追いかけているのか、あの藤の妖精を駆除しているのかもね」
どうやら、ヒルド達の魔術可動域であれば容易く追跡と捕捉が出来るらしい。
そのことにほっとして、ネアは魔物と部屋の外に出た。
「…………雨音しかしませんね」
悪意のあるお客と、ヒルド達が動いていることも踏まえれば、この屋敷は静か過ぎないだろうか。
まるで誰もいない廃墟の中で彷徨っているような、不思議な気持ちになる。
ディノと手を繋いでこつこつと静まり返った廊下を歩き、中央の大きな階段を下りて一階に向かう。
しかしそこにも、こんな広い屋敷であれば誰かは必ず見かけるであろう、使用人の姿さえなかった。
「やはり面白い作りだね。こちら側は、生活の為に常設された影絵のようなものだ。ここはね、人間の領域と妖精の領域が二重になっていて、裏側には妖精達が随分といるよ」
「…………もしかして、だから視線は感じるのでしょうか?」
「ほら、あそこに鏡があるけれど、決して覗いてはいけないよ。今の君の守護ならば弾くばかりだけれど、この場所は、本来ならば裏側を侵食されてしまうようなところだからね」
「その説明だけでもう怖くて見られないので、大丈夫です……」
侵食を司る妖精は、人間の皮を被って悪さをする。
その皮をどこで仕入れてくるのかといえば、勿論人間から剥ぎ取ってくるのだそうだ。
そんな妖精達との共存を図った最初の人間の入植者たちは、一体どんな心の動きだったのだろう。
それだけこの土地が魅力的だったのか、或いはそんな妖精達すら魅力的だったのかもしれない。
ぎいっと正面玄関の扉を開けると、ディノはこつりと踵を鳴らした。
その途端に一枚ヴェールが剥がれるようにして、風景の色が鮮明さを取り戻す。
そこには館の中に入る時に感じたべったりとしたくすみがないので、ネアはあの壁の色ももしかしたら、影絵の効果の一部だったのだろうかとあらためて驚く。
そして、
「………晴れています」
「おや、あの雨も餌箱の中の仕様か。だとすると、問題の呪物はあちら側にあるようだね」
「む。………こちら側にはないのでしょうか?」
「だからヒルド達が苦労しているのかもしれないね。やれやれ、また餌箱の中に君を入れるのは嫌だな。藤の木の方から入ろうか」
「ディノ、………その餌箱というのは何でしょう?」
「先程、虫の系譜の妖精がいただろう?恐らくこの屋敷の客間と、そこに繋がる経路の一部は、本来のこの屋敷と切り離した影絵になっている。そして私達のように招き入れた者をふるいにかけて、帰るだけの力を持たない者は閉じ込めたままなのだろう」
「………閉じ込めたままということは、中に遭難者がたくさんいるのですか?」
ぞっとしてそう問い返したネアに、ディノは頷く。
「中にはもう、自分が死んでいることに気付いていないお客もいるのだろう。これもまた、妖精版の辻毒のようなものだよ。貯め込んでその怨嗟を糧にするものだ。スリジエもそうだが、藤はそういうものを養分として好む木だから、古くからの仕掛けかもしれないね」
「わ、私達のことも養分にしてしまう気だったのですか?」
「いや、あまり巧妙に隠してもいなかったから、あの空間が影絵だと気付く者も多いと思うよ。けれど、わかっていて入っても、出られない者もいる。出られるものは閉じ込めの意志に気付かないまま、そのような造りの屋敷だと思うだけだ」
元々、グリシーナ伯爵家は藤の妖精達の門ともなり、その使用人達を受け入れて生活をしている一族だ。
なので外客を招き入れてそのお客が空間が二重になっていることに気付いても、妖精と生活空間を分けている仕組みなのだろうと感心するくらいで済んでしまうそうだ。
しかし、そう油断させておいて、力の弱い者は出られなくなってしまうという恐ろしい罠なのである。
あの屋敷自体が、藤の妖精達の餌箱であるのだ。
「先程の魔術師に扮していた妖精は、そうして捕えられたものの一人だ。私達が外に出られそうなので、上手く騙して一緒に出して貰おうとしていたのかもしれないね」
「むぅ、素直に助けて欲しいと言えば良かったのに、困った飛蝗さんでしたね」
「本来、他の人外者が無償でそういうものを助けることはない。だからだと思うよ」
振り返った伯爵邸は壮麗な外観にやはり今も、巨大な藤の大木を添わせている。
ネアはふと、その大きな藤の木の枝が一本も欠けていないことに気付いた。
「ディノ、藤の枝が揃っているようですが、ヒルドさんが削いでしまったのは治ったのでしょうか?」
「いや、藤の木に関しては、こちら側から見えているのはあくまでも表面だ。ヒルドは本物の方の枝を落したのだろう」
「ややこしくなってきましたね………」
「でも、外側からでも表皮を剥げば内側に入れるよ。そこからヒルド達を回収に行こうか」
「若干、その入り方はあの妖精さんがどうなるのだろうかと考えずにはいられませんが、ヒルドさん達が優先なので気にしないことにしますね」
ネアがそう大雑把に肯定してしまったせいで、魔物は容赦なく見事な藤の大木の幹を剥いでしまった。
実際に枝の皮を剥ぐというよりは、枝部分の空間を剥ぎ取ったような感じではあったのだが、その途端にすさまじい悲鳴が上がり、ネアは少し後悔する羽目になる。
「…………ネア様!」
しかし、その向こう側にいたヒルド達がどこかほっとしたような顔をしたので、こうして無理をしても追いかけてきたのは良いことだったようだ。
ヒルドは無傷だが、エゴンは片手を負傷しているようで、巻かれたハンカチに赤い血が滲んで痛々しい。
「エゴンさん、怪我を見せて下さい!」
慌てたネアが傷薬を取り出す前に、ディノがすいっと手を振ると簡単に治してしまった。
抵抗した妖精から、呪いごと受けた傷だったのにとエゴンは目を丸くしており、寧ろ慄いている様子すらある。
(…………もっと早く合流すれば良かった)
そう思ったネアに、エゴンはくしゃりと微笑みかけてくれる。
ヒルドが活躍しているので自分もと張り切ったら、思いがけず怪我をしたのだそうだ。
「それに、ここが騒然としているのは、苦戦してた訳じゃないですからね」
いつの間にか、こちら側の激しい雨は上がったようだ。
それとも、先程までの場所とここもまた違うのだろうか。
そう教えてくれたエゴンの視線を辿れば、雨に濡れた地面に華やかなドレスのまま座り込んでしまっているグリシーナ伯爵夫人の姿があった。
丁寧に結い上げた髪も乱れており、呆然と瞠った瞳には涙の痕がある。
崩れた化粧がその涙の痕を黒く残しているのが、彼女の絶望を現しているかのようだった。
「…………何があったのですか?」
恐る恐るそう尋ねたネアに、エゴンが小さく首を振る。
「籠絡した人間を使役して呪物を手に入れたのは、妖精達でした。小さな飛竜を使って運んだみたいですよ。……そしてその呪物であの沼地の竜を殺して餌にすることで、自分たちの力を強めてこの地から去ろうとしていたようなんです」
「藤の妖精さん達は、ここから出たかったのですね………」
「華やかな王都に出たかったようですよ。………でも、そうなればこの土地も藤の妖精達を愛する者達も、彼等を失ってしまう。伯爵夫人は、わざと事故を起こして呪物を我々に回収させることで、妖精達を逃がさないようにしたかったようなのです」
ヒルド達が藤の木の枝を落したときに、何事かと動転して飛び出して来てしまった伯爵夫人は、真実が露見したのかと思ってしまい、全てを告白してしまった。
運悪くそれをグリオに聞かれてしまい、自分の足枷になった伯爵夫人を妖精達が糾弾しているところだったのだ。
ネアは、あらためて地面に座り込んでさめざめと泣いている美しい人を見る。
その膝の上には、泥で汚れたあの藤色の手袋があった。
(……………あの人が想っているのは、グリオさんだったんだ)
こちらに来てから姿は見ていないが、伯爵夫人には既に子供が三人いるという。
あくまでも跡継ぎとしてもうけた子供達にも父親はいるだろうが、グリシーナ家の女達の夫は、いつだって藤のシーなのだという。
だから哀れな一族なのだと、出がけにエーダリアは憂鬱そうな声で呟いていた。
邪な者に魅入られた人間は哀れだと言われた言葉が、ぼんやりと思い出された。
あんな風に美しく、そして女性としての欲が深くとも、それは或いは本当に欲するものの代役なのだろうか。
「計画に気付いていないふりをして、家令に手伝わせて呪物の入った箱を開けておき、呪物の管理を任された妖精側の使用人を殺したところまでは良かったのに、事故に気付いた妖精達に呪物は回収されてしまった後だったようです。本当なら、問題の呪物も押さえた上で、我々を招き入れる算段だったようですが………」
「だから、あの方は竜も討伐して欲しかったのですね」
「みたいですね。食べる竜がいなければ、妖精達も移動を可能にするだけの養分など蓄えられませんから」
藤の木は無残に枝が落ちた部分も見えたが、やはりけぶるような満開の藤色がなんとも美しい。
惑わされる程に美しい者に身を滅ぼすのも、人間の特権の一つなのだろうか。
座り込んだまま泣いている伯爵夫人の向こうには、何人ものお付き妖精達の姿が見えた。
剣を持ったヒルドを警戒しているようだし、争って敗れたのか地面に倒れたまま動かない妖精もいるようだが、見上げる程にそびえる藤の木にもびっしりと様々な形の妖精達がいて、じっとこちらを見下している様は悪夢のような光景だ。
そして、その中でもあのシーだとおぼしき影が、ヒルドの向かい側で部下達に支えられ、苦し気に膝をついている。
グリオはこちらを見て、またあのおぞましい憎悪の表情をした。
「…………よくも、私の体に傷をつけたな」
怨嗟の声が軋み、そこに滲んだ憤怒はどす黒く体にまとわりつくようだ。
その直後、ヒルドが優美な剣を一閃し、エゴンが結界魔術を展開する。
ぞわりと足元の草が枯れ落ちたことで、精神圧に毒素のようなものがあるのだとわかった。
ネアは思わず息を飲んでしまったが、隣の魔物は愉快そうに微笑みを深めた。
「おや、私の領域を冒したのは君が先だろう。まさか妖精でありながら、魔物が報復しないとでも思っていたのかい?」
「なぜ俺達が、お前のような下位の魔物の報復を恐れなければならない?姿もなく彷徨うような、卑しい魔物が人の真似をしているだけの階位ではないか」
小さな溜め息を吐いたのは誰だろう。
少なくとも、ヒルドは自滅まっしぐらのグリオに呆れた目になっている。
「やれやれ。藤の妖精達はとても聡明だと思っていたけれど、君達はこんな感じなんだね」
「何だと?!シーであればいざ知らず、低階位の魔物ごときが!」
そう言って牙を剝いたのは、グリオの隣に立っている背の高い女性の妖精だ。
その妖精が手を振ると、何人もの妖精達が弓をつがえる。
「ディノ様…」
「ヒルド、擬態を解いて均してしまうよ。端から壊してゆくのも面倒だからね」
「…………お手数をおかけします」
「ネア、君に弓を向けている者もいる。危ないから離れないようにね」
「皆さんもお仕事なのでしょうが、除草剤を持って来れば良かったという気分です」
キンと、氷が割れるような硬質な音が響く。
どろりとした藤の妖精達の領域の凝った空気が、途端に清涼なものになった。
視界の端でふわりと揺れたのは、やはり何度見ても目を奪われるような真珠色の長い髪。
青灰色の髪に見えていたネアだけでなく、周囲に対しても擬態を解いたのだとわかった。
そうして、ふつりと歪んだのは、魔物らしい暗く艶やかな微笑みだった。
「さて、私の指輪を持つ者を餌箱に通し、不愉快な訪問をしたばかりか、今もまた、この子に触れようとしたね?」
ざわざわと、藤の木が大きく揺れた。
そこだけ強風に晒されているようにざわめき、木の枝の上にいた人型でも二枚羽の幼い妖精達は、口々に悲鳴を上げて散り散りになってゆく。
白い魔物が一歩前に進んだ。
何とかそのままの位置に踏み止まっていた四枚羽の妖精達も、体を揺らしてよろめいてゆく。
ヒルドは複雑そうな表情で道を空け、エゴンは尻もちをついたまま真っ青になって縮こまっている。
あの藤のシーはすぐに謝れば良かったのにとネアは苦い思いだったが、あまり大騒ぎはしないようにと魔物の腕を引いて押し留めるべきか少しだけ悩んだ。
その時、
「お、お待ち下さいませ!」
まろび出るようにして、魔物とグリオの間に立った者がいた。
はっとしたネアは、繋いだままの魔物の手を引いて、その人を傷付けないように無言で訴える。
「この方を罰するのであれば、どうぞわたくしを!お探しの櫛は、昨晩に妖精達が竜の巣に放り込んできてしまったそうですわ。もうここにはありません」
「おや、それは不思議だね。呪物の気配はまだここにあるようだけれど?」
「………なんですって?」
どこか傷付いたような眼差しで振り返った伯爵夫人に、無力な筈の人間に盾になられてしまったことで呆然としていたグリオがふるふると首を振った。
すっかりディノの精神圧で挫けてしまっているのか、呆けたように立ち尽くしているような有様だ。
実際に肉体的な影響もあるのか、髪の毛もぱさぱさになっている。
「あ、………あの櫛は、竜が喰らうようにと死んだ妖精の子供の髪に飾り、………ハンナとハルフィが竜の巣に投げ込んだ筈だ」
「ではなぜ、この土地の中にその気配があるのかな。その妖精達に欺かれているのかい?」
「そ、それは………」
のろのろと背後を振り返ったグリオは、いつの間にかお付きの妖精達が皆、木の方に逃げて行ってしまったことに今更ながらに気付き、ひどく傷付いたような顔をする。
よろりと体が傾いだシーを、駆け寄った伯爵夫人が素早く支えた。
「………マリエッテ」
「………その名前はもう、伯爵となった際に捨てましたわ。私はもう、グリシーナなのです」
途方に暮れたように伯爵夫人を見返すグリオは、一人ぼっちで王座に取り残され、初めて世界に触れたような無防備さで目を瞬いている。
純粋な力の前には老獪なシーとて無力だとしても、こういう場合こそ人間はより頑丈だ。
ましてや、愛するものを守ろうとする女は、周囲の環境などおかまいなしに、場違いなほどに頑強である。
その姿を見てネアは、何だか誇らしいようなすっとしたような、不思議な昂揚感を覚えた。
「グリオ、あなたがきちんと協力的になれば、契約の魔物のお怒りは歌乞いに鎮めていただくことも出来るでしょう。あなたがたがどうであれ、我々は法に触れず、領外を煩わせないのであれば関知しません。それにもう、…………その体でこの地を離れるのは、難しそうですからね」
ネアがディノを一度引き留めたので、ヒルドがすかさず割って入る。
ヒルドが払ったという枝が無残に落ちている以外、ディノが剥がしたという皮の様子はぱっと見ではわからなかったが、間違いなくこの妖精の力を削いでいるのは確かだ。
ある程度お仕置き出来たのなら、ガレンという組織としても、この土地の守りを損なうのはリスクが高いのだろう。
「ほ、本当に知らないのだ。あの櫛は、確かに竜の巣に………」
そこでグリオが声を詰まらせたのは、ディノのせいではなかった。
はっとしたように空を仰いだ彼は、弱っていてもシーらしい素早さで伯爵夫人を掴んで飛び退る。
直前まで彼等が立っていた場所に空の上から落ちてきたのは、無残にへひゃげた何かの塊だ。
ネアは、その落下物に目を凝らす前に、ディノにさっと抱き込まれて目隠しされてしまう。
(すごい、…………まるで鳥の巣のようだわ)
妖精達が、何か危険を察したのかいっせいに騒ぎ出した。
ネアが魔物を引っぺがして顔を上げる前に、ヒルドがエゴンを叱咤して立たせる声が聞こえ、何か巨大なものが上空を横切ったように影が落ちる。
ばりばりっと凄まじい音がしたのは、またどこかで藤の枝が折れたからだろうか。
そう思ってネアが空を仰げば、見事な純白の翼を広げて、大きな竜が羽ばたきをするのが見えた。
ばりばりという音は、藤の木ではなくその竜が止まり木代わりにしてしまったお屋敷の屋根がめくれた音であるらしい。
「ほわ、……………竜さんです」
ネアが呆然と見上げている内に、エゴンを引き摺るようにしてヒルドが隣に駆け付け、まるで、みんなで一緒に身を守るようにして体を寄せた。
「ネア、悪食が来てしまったようだから、ひとまず君は……」
焦ったようなディノの声を耳にしながら、ネアはその屋根の上の見事な竜を見上げる。
体全体は白から淡い桜色のグラデーションになっており、長い尾だけが途中から綺麗な紺色になっている。
きらきらと淡い金色に光る鱗も見えたが、全体的には雪竜と同じような毛皮の竜だ。
鉤爪のついた鷲の翼のような真っ白な翼に感嘆の溜め息が零れそうになるのは、見慣れた雪竜や風竜よりも、この竜が大きいからだ。
(ドリーさんと同じくらい大きい!)
それでいて、淡い色の瞳と鹿の角のようなものがあるので、力強いというよりも神秘的な姿に見える。
あまりにも美しい竜の姿にすっかり夢中になったネアを、魔物が慌てたように揺さ振った。
鑑賞の邪魔をされてむむっと視線を戻せば、なぜか今までにないくらいに動揺している魔物がいる。
「ネア!ここから安全なところに移すから、」
「……………ディノ、さては知っていましたね?」
たいそうな緊迫感を出したが、そんなことでネアは騙されなかった。
微笑んで穏やかにそう問いかけたネアに、魔物はぴっとなって叱られた犬のように首を竦めた。
出現した竜を警戒して臨戦態勢になっていたヒルドが、何かをネアの声に感じたのかそろりと振り返る。
「ご主人様…………」
「異常に竜さんを警戒しているので、どうしたのだろうと不思議に思っていたのです。確かに悪食の方は危ないと言いますし、そのせいかなと思っていたのですが、今の反応を見てようやくわかりました。いち早く、この街にいる悪食の竜は、あの竜さんだと気付いていたのですね?」
「……………知らな」
「嘘を吐いたら、お部屋を別にします」
「………………ネア、悪食の竜は厄介なんだよ。それに、あんなに大きいものを、どうやってリーエンベルクで飼うんだい?」
「むぅ、飼う問題は、お料理上手な使い魔さんがいるので今は難しいと知っていますよ!でも、久し振りに会うのですからご挨拶ぐらい………。む、……………もしかして、あの妖精さん達が呪物を食べさせようとしたのは………」
がすっと音がして、魔物が震え上がる。
怒り狂ったネアが地面を踏み鳴らしたのだとわかり、ヒルドとエゴンは呆然とした。
まだ状況が飲みこめないらしく困惑した顔でこちらを見ているヒルドとも目が合ったので、ネアは険しい顔のまま男前な仕草で頷く。
「ヒルドさん、あの竜さんは大丈夫です。寧ろ、あの妖精さんを引っ叩きたくなりました」
「ネア、ずるい………」
「ディノ、それは暴行であって、ご褒美ではないのです。羨ましがってはいけませんよ!」
「ネア様、そちらには……!」
怒りに任せてずかずかとそちらに歩いて行こうとすれば、先程竜が投げ落としたものがそのままだったのか、すかさずヒルドに引き止められる。
またしても拘束されてしまったネアは、捕獲されたムグリスのように荒ぶってばたばたとした。
そしてその隙に、竜は、大きな咢を震え上がったシーに向けていたのだ。