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四つ辻の呪いと藤の館 4


その日の夜になると、幾つかの事件が続けざまに起きた。


まずは懸念の通り、振る舞われた晩餐をいただいた後、部屋に帰ろうとしてからのひと騒動である。

並びでの部屋は不吉だとされるのでという謎の理由から、ヒルドの部屋だけが三階にされてしまったのだ。


ネア達はわかり易い無表情でその弁解を聞き流しつつ、ヒルドの氷点下の微笑みを受け流せた家令の心の強さに感服する。

そしてやはり心配で堪らないのでそんなヒルドの部屋を早々に訪れれば、そこは早くも修羅場の様相を呈していた。


「………こうもわかり易く、女性達は戦うのですね」

「いや、伯爵夫人だけでなく、他の方もいて良かったのでは………」


どうせなら作戦会議でもしようとネア達についてきたエゴンと、ヒルドの部屋の前で睨み合う女達の姿に感心してしまったネアは顔を見合わせる。

そこには、明らかにヒルドの部屋に乗り込もうとしたに違いない伯爵夫人と、妖精の羽を持つ二人組の女中が火花を散らしていた。

扉の前に立ち、その間に挟まれたヒルドの表情は、更に温度を下げて流氷の浮かぶ海よりも暗い。

しかし、こちらに気付くと少しだけ表情を和らげ、一つ頷いてくれた。


「すみません、お約束の時間を過ぎていましたね。すぐに参りますので、部屋で待っていていただけますか?」


その場で逃げ出して女性陣を刺激しない、実に巧みな言葉だなと思いながらネアは頷き、ひとまずはそんな状態のヒルドを一度置き去りにして部屋に戻ってくる。


「ディノ、恐らく今夜はヒルドさんはお部屋に帰れませんので、寝台を一つ貸してあげましょうね」

「え…………」

「先程の様子だと、一度部屋に戻って必要なものだけを持たれてから、こちらに疎開してくるような気がします。やはり、夕食後一時間も待てないだなんて。とても恐ろしい土地でした………」


ネアが危ないと考えたのは、就寝前よりも入浴などに充てる時間帯であった。

ヒルドもとても無防備になるので、押し入り易い時間帯である。


「ネア殿、なんでしたらヒルド様は僕の部屋に……」

「そちらのお部屋には寝台が一つしかありませんし、何と言うか、エゴンさんを押しのけて、そのままなだれ込んで来そうですから。こちらのお部屋なら、ディノがいるので少しは防波堤になるでしょう」

「ネア殿、これでも僕も王都ではそれなりの魔術師なんですよ。それと、藤のシーのこともありますからね、ヒルド様が同室だと心強いですから」

「さては、本音はそちらですね!」


結局判断は疎開してきたヒルドに任せることになり、もしエゴンとヒルドが同室になる場合は、寝台が二つあるネア達の部屋と、泊まる部屋を交換しようという話になった。

魔物が、珍しくここは危ないのでエゴンが一人だと不用心だからと呟いているが、そこは下心が見え見えである。


そして、そんな折に一つ目の事件が起きた。



三人でネア達の部屋でヒルドを待っていると突然ごすんと音がして、ネアはさっと魔物の三つ編みを掴む。

慌ててご主人様を腕の中に入れたディノと、はっとしたように視線を巡らせたエゴンが窓の方を見れば、そこにあったのは、だらりと下がった大きな生き物の尻尾だった。

上の階か、或いは屋根に取り付いた何者かの尻尾がこちらの窓に当ったのだろう。


「………禍々しいですね」


ネアが思わずそう言うのは、その焦げ茶色の尾にべったりと深紅の血が付いているからだ。

この部屋には気付いていないようだが、上の階の方から微かに悲鳴のようなものが聞こえてくるので、そちらで何か起こっているのかもしれない。


「ディノ、上の階にはヒルドさんもいますので、この竜をどうにかしましょう!何の由縁もないお家ですが、滞在中に誰かが食べられてしまったらさすがに問題になるかもしれませんから」

「竜をどかせばいいのかい?」

「ええ。加えて、これ幸いと藤の妖精さんが栄養にしないようにして欲しいです。何となくですが、あまり強化したくない妖精さんだという気がします」

「す、既に呪物を食べさせられていないかも調べないとですね!」


エゴンが慌ててそう付け加え、それは面倒だなと魔物は眉を顰めた。

そうなると、呪物の回収を担当するエゴンも連れていかねばならないらしい。


「ディノが拾ってくるわけにはいかないのですか?」

「人間の呪物は、過剰に人外者の魔術影響を受けない方がいいんだ。恐らく私が触れると中のものが死んでしまうんじゃないかな」

「僕がお供します………」

「では、行きましょう!」


同行する気満々で三つ編みを握っているネアをじっと見下ろし、ディノはおもむろに三つ編みを取りあげると、ネアの周囲に硝子細工のような不思議な鉄柵を作った。


「…………ディノ?謎に檻に入れられました…………」


びっくりしたネアに微笑みかけ、ディノはどこか満足げに頷く。


「妖精避けの魔術だよ。私と、ヒルド以外は鍵にならないようにしてあるから、その中から出ないようにね」

「……………お留守番の方が怖いのでは」

「この屋敷の中は箱になっているから外部侵入はなさそうだけど、その中にいる限り下に落ちることもないし、天井が落ちてきても安心だ。あくまで妖精避けだけど、暴れた竜がこの屋敷を壊しても大丈夫なくらいに頑丈だから少しだけ待っておいで。半刻以内には必ず戻るからね」

「お屋敷を破壊するような行為は慎んで下さい!……は!まさか、お相手が竜さんだからって私を留守番に……!!」

「ヒルドを見付けたら、すぐにここに来るように伝えるよ」

「ディノ?!」


ネアとしては色々なフラグが立ってしまうお留守番だけは避けたかったのだが、なぜか今夜の魔物はそれだけを言い残して、エゴンを掴むとさっさといなくなってしまった。

昼間からネアが竜と触れ合うことを随分嫌がっていたので、その理由が何となく察せたネアはお洒落な檻の中で飛び跳ねて荒ぶったが、部屋の扉が閉まると突然寂しくなった。


(このお屋敷は箱になってるってどういう意味かしら?)


シーの扉にもなっているというから、結界が万全なのかもしれない。

しかし、ネアはある意味豪運なのだ。



「…………おのれ、もう何か厄介なものが来る予感しかしません」


仏頂面でそう呟いたネアは、念の為に今の内に使い魔を呼び出そうかどうか悩む。

少しだけ考えてから、首飾りから取り出した携帯用の転移門をポケットに忍ばせておいた。



ばたばたと、天井の上で忙しない足音が聞こえる。

きっと上では何か騒ぎが起こっているのだと置いてけぼりな気持ちで見上げて、数分経っただろうか。

カチャリと扉が開いて、ぞわりと冷ややかな温度を伴うものが部屋に入ってきた。


(ホ、ホラー?!)


ネアはもうその冷気だけで飛び上がってしまったのだが、扉からの距離が短い客間にいるせいで、その何者かはすぐにネアの前に姿を現してしまった。


ひたひたと足音のない、誰かの歩く気配。

それが目の前でぴたりと止まった。


「……………どなたですか?」


つんと、水に濡れた土のような匂いがする。

何の姿も見えないが何かが確かにそこに居る気配があり、爪先を置かれた部分の木の床が濡れたように色を変え、はらりと小さな藤色の花びらが落ちた。


とても怖いけれど、怖さを見せるということは危ういことなのだ。

ぐっと堪えたネアに応えたのは、ねっとりと甘い年齢不詳の男性の声だった。


「ほお、妖精避けのまじないか。小賢しいが、これでは触れられないな」


淡い靄のようなものが凝り、ぶわりと膨らんで美しい妖精の姿になる。

下から風で煽ったように足元までの長い髪が広がり、そこにはいつのまにか一人の妖精が立っていた。


長い髪は艶やかなというよりは、ふわりとしたウェーブヘアが藤色の霞のようになっており、同色の羽も合わせてけぶるような色彩だ。

装飾過多な装いが似合う淡い萌木色の瞳をした華やかな美貌の妖精で、どこかこの屋敷の壁色のようにべったりとして、幽鬼めいた容貌に背筋が寒くなる。


美しいのだが色合いが暗く、作られたようなくどい美しさなのが妙な閉塞感をもたらすのだ。



(…………この方は、どう見ても………)


ネアを害せないとわかり姿を見せたのだろうが、ネアは、自分の引きの良さなのか、魔物の出て行くタイミングの悪さなのか、とにかく運命に物申したい気分になる。

しかし、ひとつ救いなのは、今回の防御仕様が夜渡り鹿の時と同じようなものなので、この妖精はネアに悪さが出来ないということだ。


「ふむ。新しい餌にしては、良くないな。醜いとまでは言わないが、美しさの欠片もない上に何の取り柄もない。おまけに灰色か」

「…………おのれ、害が及びました」


さっそく心を傷付けられてしまい、ネアは悲しくなる。

今度からは是非に、悪口が聞こえない仕様のシェルターにして貰おう。


「可愛げもないようだな。俺を見ても、跪きもしないか」

「どこのどなたかわかりませんが、妖精さん。初対面の方に跪く仕様は、人間にはあまり備わっておりません」

「そうか、歌乞いなどという職務で情緒が欠如しているのかもしれないな。他の者に下げ渡すか」

「………ご遠慮させていただきます」

「魔術階位が高ければ、内臓を食らうのだがな。それに、あの櫛の餌にするのには美しさが足りない。庭で獣達に引き裂かせるか、子供達の獲物にするか」


(まさかの、呪物を持ってる人が判明した………)


この話ぶりであれば、この妖精が今も櫛を持っているとみて間違いない。


そして呪物の犠牲者にする基準にも満たないらしいネアは、その評価に遠い目になる。

この妖精は、どろりとした本能的な恐怖を煽る気配がありとても怖いのだが、こうして容姿で悲しい評価を下されてしまうと、また別の達観めいたものを覚える。




「これはこれは、グリオ」



(…………っ?!)


ディノは竜をどうこうするまでは帰って来そうにないし、さして身に危険が及ぶわけでもなさそうだ。

とは言え不愉快なのでどうしたものかなと困っていたその時、背後から聞こえた美しい声に、ネアはどきりとした。

抜き身の刃物のようなあまりにも鋭利な声に、触れた肌が切れるような寒々しさがある。



「ヒルドか、王都ぶりではないか」


目の前の妖精の顔が醜悪に歪んだ。

異形らしい憎悪の表情に、ネアはぞっとする。

目が悪意に三日月型に歪み口が裂けたように見え、変わらず美しい妖精の筈なのに、おぞましい怪物を見ているような気がした。


いつだったか、妖精が一番恐ろしいと言っていた誰かがいた。

それは単純に強さというものではなく、こういうところなのだろうか。

じわりと毒が肌に染みるような、そんなおぞましさだ。


その精神圧に圧倒されてしまっていたネアは、背後からふわりと伸ばされた手の中に収まる。



(…………え、)


ヒルドが手を伸ばしたところで、あの硝子細工のような檻はいつの間にか消えていた。

一瞬ディノが戻ってきたのかと思ったが、そうでもないようなので、鍵になるというのはこういうものなのかもしれない。

その代りに、今はもう頼もしい仲間がすぐ側にいてくれる。


「ヒルドさん………」

「まさか女性の部屋に上がり込む程に厚顔無恥だとは。ディノ様と話してすぐに向かったのですが、お一人にしてしまいましたね。ご無事で良かったです」


ちらりとこちらを見て微笑んだヒルドの目は優しかったが、刃物のような気配はそのままだ。

その気配は、怜悧な彼の美貌をこれでもかと引き立てている。


「これは面白いな。人間になど興味がなかったお前が、その小娘にはおかしな顔をする」

「あなたには関係のないことですよ。それよりも、分をわきまえず調伏対象になる行いとは、短絡さを隠すだけの理性すら制御しきれなくなってきたようですね」

「ほお?女王やその侍女達の夜伽相手だった、愛玩奴隷が過ぎた口を」


ふっと、ヒルドの気配が揺れたような気がした。

ネアは視線を落として、じっとブーツを眺める。


「あなたの下品さは変わらずですね。確かに私は奴隷でしたが、己の意思でさして変わらないことをしてる方に言われる程でもありませんよ」

「羽を捥がれ、奴隷になるシーなど前代未聞だ。ましてや、主人たる女王だけでなく、毎夜王宮の女達の褥に呼びつけられ…」


(ヒルドさん?)


そこでネアは、ヒルドの両手で耳を塞がれた。

微笑んでこちらを見た眼差しに決して動揺しているような気配は見せないが、耳を押さえた指はいつもより冷たい。

ここでその手を外す程、ネアは無神経ではない。

ネアがどう思うかではなく、ヒルドはこの先の言葉をただ聞かせたくないのだろう。


(でもこれでは、ヒルドさんの両手が塞がってしまう……)


そう考えて、目だけはしっかりと開いていて、油断なく周囲を見ていた。

これでもし、目の前の妖精がヒルドに危害を加えようとしたら、戦闘靴で踏み滅ぼす所存だ。

踏みつけるくらいなら、うっかり死んでしまっても気付かないで踏んだと言えばいい。

そんなことを考えて胸の内の怒りを宥めていたら、耳を押さえていた手がふっと外れた。


「反撃もなしか。愛玩奴隷となると、矜持すらなくすようだな」


その言葉にはっとして振り返れば、ヒルドの見事な羽に刃で切り裂かれたような裂け目がある。


「ヒルドさん……!」

「子供の嫌がらせのようなものです。このくらいは問題ありませんよ」

「そうさな。お前は慣れてるだろう?傷付けられるよりももっと…」

「なんて幼稚なやつでしょう!いくらヒルドさんの方が綺麗だからって、癇癪を起こすなど情けない妖精さんですね!…………切れてしまったところは、痛くないですか?」


ヒルドの腕の中で体を捻り、ネアはすっかりグリオに背を向けた。

怪我の具合いを見たが、妖精の羽の場合はどうすればいいのかわからない。


「…………いえ、すぐに治せますからね。ほら、もう大丈夫でしょう?」

「ほわ!光って治りました!!」



「…………小娘、なんと言った?」


地を這うような声が聞こえてきたのは、勿論、想定内だ。

先程この妖精の言葉を遮ったネアは、これでも、大事な家族相当のヒルドを傷付けられて怒り狂っているのである。


「確かにヒルドさんはとてもお綺麗ですが、あなただってそこそこにお綺麗なのですから、もっとご自分に自信を持って堂々としていればいいのです」

「…………お前のような醜い小娘が、俺が醜いと言うのか」


声が軋んだので振り返れば、グリオの羽がざっと光るところだった。

淡い紫色の羽が光る様は綺麗だし珍しいので、そればかりはイルミネーションのように拝見させていただく。


(人間は不思議だわ)


先程までは怖い妖精だった藤のシーは、ヒルドを傷付けたことで、途端にただの不愉快な妖精に成り下がってしまった。


「恥知らずの人間は、自分のことを棚に上げて他者をあれこれ言うことにさしたる抵抗などないのです。それに、評価の基準は他の美しい方々ですからね」

「…………ヒルドが、俺より美しいだと?」

「ええ。ヒルドさんもそうですし、もうひと方のお知り合いの妖精さんも、それに、お見かけしただけの春風の妖精さんも絶世の美女でしたよ。今までお会いしてきた白っぽい魔物さん達の方が綺麗ですし、よく考えたら雪食い鳥さんや、竜の王様達の方がやはり綺麗です。綺麗さで敵わないばかりか、人格設定でも表情採点を損なっているのと、強いていうならムグリスのような愛嬌すらないので、総合力はかなり低いのかもしれません」


そこでグリオがどす黒い顔色になってしまったので、少し慌ててネアは黙った。

ちらりとヒルドに視線を戻し、眉を顰める。


「思わずかっとなって本音を言ってしまいましたが、グリオさんは現実を受け止められる強い心を持っているでしょうか?」

「ネア様…………」


ヒルドも、あんまりにも歯に衣着せぬ人間の言葉に呆気に取られているようだ。

悪口もここまであけすけだと、さすがに引かれてしまったかと思ってネアはしょんぼりする。


「グリオさんも間違いなくお綺麗なのですが、言うならば、ご婦人もののレース飾りのような綺麗さです。ごてごてしていて好む方には堪らないかもしれないのですが、私は自然嗜好なので、深い森の中の澄んだ湖のようなヒルドさんの方が綺麗だと思うのです……。人間は高慢ですから、己の嗜好に合わないものが威張り散らして、綺麗なものを傷付けたのでむしゃくしゃしました」


腕の中のネアを見下ろしているヒルドの瞳は、澄んだ瑠璃色だ。

途方に暮れたようなその透明さに、やはりとても綺麗だなと思い、ネアはほんわりする。

綺麗なものを見て心が宥められると、少しだけ自分の行いが恥ずかしくなった。


「しかし、美しいものに憧れるあまり、心が嫉妬でとげとげになってしまう方の気持ちもわかるような気がします。グリオさんも、実はお辛いのかもしれませんね………」


追い詰められた犬が敵を噛むように、そんなやるせない心の動きで攻撃的になっているのであれば、ここは大人になって微笑みかけてあげるべきなのだろうかと思ったネアだったが、振り返るといつの間にかグリオの姿は見えなくなっていた。


「む、逃げました。…………泣いていたりしないといいのですが。しかし、反省するのならそれもまたお勉強ですね」


少しだけ罪悪感で声が細くなったネアに、頭の上で淡く苦笑する気配がある。

視線を上げれば、ヒルドは困ったような複雑そうな微笑みを浮かべていた。


「………あのような話を、あなたには聞かせたくはなかったのですが」


静かな声に滲む吐息は、穏やかだからこそ胸が痛くなるような気がした。

奴隷ならば奴隷で、他にいくらでも彼の尊厳を損なわない扱いはあったのだろう。

けれどきっと、彼が受けた仕打ちはその中でも大きく心を削るものだったに違いない。


「ヒルドさん、私とて決して綺麗な履歴ではないのです。あの程度の話をぽいっと捨て置ける私は、ヒルドさんからしたらがっかりでしょうか?」

「ネア様………」


静かな声が微かに揺れた。

困惑したような瞳に安堵の欠片と、それでも拭えないような傷深さが揺らめく。


「けれど、ヒルドさんを悲しませた人達がいるということに関しては、このブーツで踏み滅ぼしたい気分です。でもそれは、こうしてヒルドさんに甘えている贅沢者が言っていい言葉ではないのかもしれませんね」


ネアは決して言わなかったが、きっとそのような邪な権利でヒルドに触れた者達の中にだって、この美しい妖精に焦がれた者はいるのだろう。

ネアがそうして出会えたように、まっとうに彼に出会い、その健やかな友情や愛情を欲しかった女性だっていたように思うのだ。

でもその全てはもう、ヒルドにとっては心に傷を残す忌まわしい過去なのだろう。


「エーダリア様のお蔭でヒルドさんに会えて、今はこんな風に守って貰ったり出来る、狡い立場なのですから。………でも、私はヒルドさんが大好きなので…………むぐ?!」


いきなりきつく抱き込まれて、ネアは一瞬噛み付かれるのかと思って心臓がばくばくしてしまう。

かつて、寝ぼけて捕獲してしまい、怒らせたヒルドに食べられるかもな事件があったので、いきなり捕獲されると心臓に悪いではないか。

しかし、何かに縋るように抱き締められているのだとわかれば、ネアはヒルドの背中をぽんぽんと叩いてやった。

何だか間違っている気もするが、魔物がよくへばりついてくるので母のような気持になったのである。


ネアがそうすると、ネアを抱え込むようにして首元に顔を埋めたヒルドが、少しだけ微笑む気配がした。

耳元で、甘く切なげな囁きが落とされる。


「…………すみません、もう少しだけ」

「ふふ、どんと来いなのです。大事なヒルドさんが元気になってくれるなら、いくらでも」

「おや、そう言われてしまうと勘違いしそうですね」

「………勘違い?」


首を傾げたネアに、少しだけ体を離したヒルドは微笑み、ネアの前髪を持ち上げるとおでこに口付けを一つ落とした。

額への口付けは守護のそれなので、グリオの報復などを警戒してくれているのだろうか。


「あなたの手を、いつでも取れるような気がすると」


抱擁を解き、ネアの目を覗きこむようにしてそう言ったヒルドの美貌は凄艶であった。

少し乱れた長い髪を背中の方に払い、鮮やかな瑠璃色の瞳を眇める。

体を離す前にネアの指輪のない方の手を取ると、その手のひらにもひとつ口付けを落される。


「苦しい時や困ったとき、そうではないけれど何だか寂しいときも、いくらでもこの手ぐらい貸して差し上げますよ?その代り、ヒルドさんはいつまでも、健やかで側にいて欲しいのです」


ずっとリーエンベルクに住んで構わないと言ったヒルドなのだ。

それはつまり、ネアの寿命いっぱいぐらいは家族のように同じ屋根の下にいてくれる見込である。

そんな風に強欲に手放したくない関係なので、ネアは若干前のめりにそう宣言した。


「…………っ、」


しかしなぜか、ヒルドは片手で口元を覆うとぱっと視線を逸らしてしまう。

良く見れば羽が光っているので、何か嫌がるようなことを言ってしまっただろうかと、ネアは慄いた。


「ヒ、ヒルドさん、………私は今調子に乗って甘えましたが、嫌だったら嫌って言って下さいね?」


慌ててそう付け足せば、どこか困ったようにヒルドは目の色だけで微笑んだ。


「…………ネア様、妖精は欲深い生き物ですので、あまり煽りませんように」

「む?」

「それと、このように望んでくれる可愛らしい方がいるので、私も少し良いところを見せましょう。グリオに関してはこちらで押さえますので、今晩は安心してお休み下さい」

「それはまさか、ヒルドさんが寝れないやつなのでは!いっそもう、同じお部屋でみんなで寝ましょうか?交代制で見張りをすれば、きっと怖くもないと思います」

「いえ、そんなことをするよりも、少しグリオの力を削いでおきましょう。余計な気を回さないように、暫く自分の面倒を見ていて貰うのが一番ですからね」

「え…………」


妙に清々しくそう微笑んだヒルドに、ネアは思わず絶句した。

何だかとてもいけないスイッチを押してしまった気がするが、これは大丈夫なのだろうか。


「危ないことをしては駄目です。せめて、ディノが戻ってくるまで待っていて下さい」

「おや、私とグリオでは、能力的には雲泥の差がありますよ」

「雲泥の差…………」

「ええ。藤のシーは浸食や誘惑などを司りますが、戦いに長けた妖精ではありませんからね」


ここでネアは、かつて、ネアに絡んだ結果羽を失くしてしまったに違いない泉の妖精のことを思い出した。

グリオもあんな風に、羽の付け根を持たれて運ばれてしまうのだろうか。

そう思って困り果てていると、時間通り半刻も経たない内に、エゴンを連れて魔物が戻ってきた。


ネアの手を取っているヒルドに目を留め、悲しげに目を瞠る。


「……………浮気」

「浮気ではありませんよ。意地悪な妖精さんが来たので、ヒルドさんが守ってくれたのです」


ネアがそう言えば、ディノは微かに目を細めた。

こちらもこちらで、背筋が寒くなるような酷薄な眼差しだ。


「困ったものだ。部屋に敷いた、妖精避けの魔術に気付かない筈もなかっただろうに」

「何も出来ないとわかっていても、口先だけで意地悪しに来たのです。そして、私には何も出来なかったからか、ヒルドさんに怪我をさせました!帰り際にこっそりと、べたべたキノコの呪いに処す予定なのですが、ヒルドさんが一人で殴り込みに行きそうで心配です」

「餌箱というだけでも不愉快なのにね」

「えさばこ?」

「ディノ様、これからその藤の枝を少し払ってきますので、ネア様をお願い出来ますか?私としても契約の魔物の逆鱗に触れるような愚か者ではないと思っていたのですが、どうやらグリオも耄碌したようですね」


(容赦ない………)


舌鋒の鋭さにエゴンは青くなっているが、ネアはヒルドがいつもの調子に戻ったようでほっとした。

しかし、あんな話を引っ張り出された日に、伯爵夫人のお部屋訪問などがあったら心が死んでしまうと思うので、やはり今夜はヒルドを部屋に引き取りたい。

そんなことを考えて魔物を見返せば、こちらに歩いてくると、ヒルドが離したネアの手をがっちり握ってゆく。

両手を繋いでくる威嚇方法が、まるで不貞腐れた犬のようで何だか可愛い。


「あらあら、寂しくなってしまいましたか?」

「ネアが虐待する…………」

「ディノが工夫していってくれたお蔭で、藤の妖精さんから身を守れましたよ。それと、竜さんは見つかったのでしょうか?」

「見付けたけれど、沼地の竜の方だった。捕食者から逃げていて、この屋敷の裏の森に姿を隠していたらしい」

「まぁ、沼地の竜さんの方だったのですね?」


もう一匹も出てきたのかと驚いたネアに、なぜかディノはがっかりしているような気配を漂わせる。


(もしかして、白い竜がいると聞いて、過剰に警戒して強引に置いて行かれたのかも?)


目的のものではなかったという風な様子であるので、事故りがちなネアの為に、脅威の大きそうな白い翼の竜を排除しようとしていてくれたのかもしれない。

わかりやすくしょぼくれているので微笑ましくなっていると、エゴンが見付けた竜の詳細を教えてくれた。


「片足を食われてしまっていて、すっかり怯えていましたよ。念の為に、藤の木の餌にならないよう、ディノ殿に少し離れた山中に転移させて貰いましたが、怯えるあまり正気を失って、あのように徘徊していたのかもしれませんね。上で二人程負傷者が出ましたが、軽いものです。それにしても、手負いの竜が、守りの硬い伯爵家に飛び込むなんて」

「可哀想な竜さんですね。そのお怪我は、傷薬で治りますか?」

「ネア、あの沼地の竜は人間を食べるけれど、いいのかい?」

「………そうでした。良い人間として判断する甲斐性はありませんし、思考が迷路に入るので、聞かなかったことにします」


ネアはあっさり可哀想な沼地の竜問題を放り投げることにして、どうしてその竜がそんな有様になってしまったのかを追及することにした。


「となるとやはり、私の見かけた白っぽい竜さんが………?」

「恐らくそうだと思うよ。それから、呪物の櫛はやはり、この屋敷の藤の木のどこかにあるようだ。竜を捕まえた時に、藤の木の方から微かだけど気配の残滓が漂ってきたから、あの木を根元から切り落とすのが一番ではないかな?燃やしてしまってもいい」

「むぅ。嫌な奴ですが、この土地が上手く回っていたのなら、必要な方かもしれません。どうにか櫛だけ欲しいですね」

「枝を削ぎがてら見て参りましょう。エゴン、行きますよ」

「ぼ、僕もですか?!」

「ヒルドさん?!」


さらりと連れ去られていったエゴンと、意気揚々と出かけていったヒルドを呆然と見送りつつ、ネアはひとまず両手を拘束している魔物の手を握り返してみた。


「…………ずるい」

「ディノは、竜さんを追いかけて危ないことはしていませんね?」

「していないよ。ネアは、嫌がらせをしにきた藤の妖精が嫌いかい?」

「嫌いだと言うと、どうされてしまうのか予想出来る質問ですね」

「この屋敷は最初から不愉快だし、君に近付いたんだから当然の報いだろう」

「その基準になると私の社会生活が死んでしまうので、もう少し緩くして下さいね。それと、藤の妖精さんが主に嫌がらせをしたのはヒルドさんなので、そういう意味では怒っています。でも、ご自身でやり返しに行ってしまいましたね………」

「……………君が甘やかしたから、機嫌が良くなったのだろう」


じっとりとした声でそう言われ、ネアはおやっと眉を上げる。

この口調だと、まるで見ていたかのようではないか。

そう思いかけてふと、以前に髪の毛にひそまされたディノの一部のことを思い出した。

しかしそれはあまりにもプライベートを脅かすので、緊急時以外は開いてはいけない回線として、厳しく戒めた筈だったのだが。


「…………さては、あれだけ規制を厳しく設定したのに、覗き見しましたね!」

「危険がある土地に君を残して出たんだ。当然だよ」

「そして、見てた割には救援が遅いです」

「………ヒルドが先に駆けつけてしまったから、竜の方を優先したんだ」


珍しい言葉にネアは驚いた。

よほど、竜のことが気になるらしい。


「まったくもう。今回に関しては怒るまでではないですが、日常生活で覗いたら絶交ですよ?」


捕まえられた両手をにぎにぎしてやると、魔物はまた目元を染めて恥らっている。

しかし、どこか拗ねたような悄然とした目で、ネアをそっと窺い見た。


「君は、…………ヒルドのことが好きなんだね」

「ええ、勿論です」

「…………勿論」

「同じ屋根の下で暮らしている、家族のような方です。ディノに向ける種類とは少し違いますが、やはり大好きな方ですよ?」

「でも、君達は実際に血が繋がっている訳ではないから、それもまた伴侶のようなものなのではないのかい?」

「まぁ、少し深く考え始めましたね!その場合、ヒルドさんは里親さんのようなもので、私はリーエンベルクの養子だと思って下さい。これなら、納得出来そうですか?」

「……………それならいいのかな」


そんなことを話していたら、外の方からばりばりっという重たい音が聞こえた。

俄かに館内が騒がしくなり、ばたばたと窓の方に駆け寄る足音がする。

少し心が落ち着いたのか、ぐりぐりとネアの肩に頭を擦り付けてきた魔物を撫でながら、ネアは遠い目で窓の方を眺めた。



どうやら、藤の木は枝を落されてしまったようだ。







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