四つ辻の呪いと藤の館 2
藤の館の内部は、よく使い込まれた飴色の木の床を持つ、壮麗なものだった。
ウィームの建築とは違い木造のお屋敷だが、壁縁や柱を飾る彫刻にも、花瓶やその他の調度品にもふんだんに金があしらわれており、こちらの世界に来て初めて知ったお伽噺の色彩のそれよりは、ある意味ネアにもわかり易い貴族の屋敷の内装だ。
(でも、この壁の色が………)
屋敷に入るなり、ネアがぎくりとしたのが壁の色だった。
屋敷中の壁は、べったりとした藤色に塗られており、どこか異様な重苦しさを纏っている。
藤の花を意識するのであれば、ウィームや他の土地であればもっと透明感のある装飾にするだろうにと思ってしまうくらいに、その藤色の壁はべたりと塗られており、屋敷の内部はどこか黄ばんだような薄暗い空気を漂わせていた。
「ヒルド様のお部屋はこちらですわ。それと、どうかテレーゼとお呼びになって下さいな」
「そういうわけにはまいりませんよ、グリシーナ伯爵夫人。私は、公人としてお伺いしています身ですから」
「堅苦しいことを仰るのね。私の命を守って下さる方なのですから、もっと打ち解けて下さらなくては。私の心に触れるくらいでなければ、この身を守ることなど出来ませんわ」
うわぁと小さく呟いたのはエゴンだ。
微笑みを交わし合っても、何やら壮絶な駆け引きが見えるヒルドと伯爵夫人を見ながら、ずりずりと後退しているので、ネアはその背中に手を当てて逃走防止を図る。
「よく怖気づきませんね。ヒルド様の方が、目上の方ですのに」
「ああいう方は、そのあたりを壁と思わないのでしょうね」
「………擬態しておいて良かった」
しみじみとそう言ったディノに、ネアは心の中で少しだけ意地悪な気持ちになる。
気紛れであろうと、かつて彼の寵愛を受けたというレーヌと、良く似たタイプではないか。
長い睫に目尻の下がった妖艶な美貌、そして右目の下の泣きぼくろが色香をさらに濃密にしている。
きらきらと輝く耳飾りや首飾りは、どれも最高級に違いない藤の花の結晶石で、僅かな動きでも星屑のように煌めいていた。
色合いが藤色なので妖艶だがどこか儚げな雰囲気もあり、何とも魅力的な女性だ。
(そして、ヒルドさんのお部屋は、後で変えられそうな気がする………)
ネアの観察眼が錆付いてなければ、伯爵夫人はヒルドに用意された客間がネア達の隣の部屋であることに気付いたとたん、たいそう不愉快な顔になった。
ちらりと家令の方を見たので、お部屋変更が発生しそうで恐ろしい。
女主人と家令の目配せを見て、ヒルド自身も嫌な予感がしたのか疲れた顔をしていた。
後で確実にヒルドを労わなくてはと感じつつ、ふと視線を窓の方に向けたときだった。
「わ、竜さんが飛んでいますよ」
「…………竜ですって?」
窓から見えた光景に、思わずそう口にした途端、ばっと周囲の空気が冷え込むような錯覚を覚えた。
上品な初老の家令も、伯爵夫人も、どこか嫌悪の滲んだ驚愕を示して窓の外に目を奪われている。
ネアが声を上げてすぐに竜は雲間に入ってしまったが、その飛影はかなり大きい。
しかし、あまりにも極端な反応に、ネア達は思わず顔を見合わせてしまった。
(この土地では、竜は歓迎されていないのかしら?)
そう思わざるを得ないくらい、伯爵夫人は顔の血の気まで引いている。
しかし、ネア達が思わず眉を顰めてしまう程の反応をしてしまったことに気付いたのか、すぐに気を取り直したように艶やかな微笑を張り付け直した。
「おおいやだ。谷に竜が戻るのは凶兆だと言いますのよ。ヒルド様、わたくしの側にいて下さいまし」
「申し訳ありませんが、我々はすぐに呪物を追わなければなりませんので。取り急ぎ、被害が出たと思われる部屋を見せていただけますか?」
「外に出る必要なんてありませんわ。きっと、その恐ろしい呪いの品物は、まだこの館の中にあるのでしょう。昨晩も、誰もいない部屋から足音が聞こえたですとか、厨房に小さな黒い影を見たですとか、そんな恐ろしい話ばかり。使用人達も、すっかり怯えてしまいましたわ」
あの手この手でヒルドの気を惹こうとしつつ、伯爵夫人が案内してくれたのは時計の間と呼ばれる小さな部屋だった。
この部屋で昨日、その呪物の犠牲者だと思われる者が死んでいたのだ。
部屋の扉を開ける際に少し伯爵夫人の肩が震えたような気がして、ネアは眉を顰める。
「亡くなったのは、この部屋の管理をしていた女中ですの。………イルメという名前で、詳しいことは知りませんわ。あの子は、向こう側の使用人でしたから」
(…………向こう側?)
不思議な言葉に首を傾げたネアに、ディノがこっそり教えてくれる。
ヒルドの要望でこの場は任せているので、ネア達はさしたる質問もせずに後から付いてゆくだけだ。
「この伯爵家のように、人外のものと共存する家にはね、人ではないものを世話する為にそちら側の使用人も住んでいるんだ」
「と言うことは、このお屋敷には人ではない偉い方もいるのですか?」
「藤の花のシーだろう。実際にこの屋敷に住んでいる気配はないが、この屋敷に自分の城と繋ぐための扉を設けている筈だよ。その扉周りの世話をする為に、こちら側にも使用人を置いているんだろう」
「まぁ………」
時計の間は、壁一面に作りつけの棚を設置し、びっしりと時計を展示した異様な空間であった。
何重にも重なったカチコチと時間を刻む針の音に、時報のオルゴールや小さなベルの音。
せわしなく動く歯車の音はどこか、大勢の人間が嗤っているような奇妙な居心地の悪さを覚える。
ふと、ここは人間の為の蒐集部屋ではないのだと思った。
壁一面の棚にびっしりと時計を押し込む様は、人間の美的感覚とはまた違う、どこか異様な執着を感じる。
重なり合って飾られた時計は盤面が見えないものすらあり、この伯爵夫人の趣味とも思えない。
(確か、このグリシーナ伯爵家では、男性はほとんど長生き出来ないとか…………)
グリシーナ家では、伯爵家の跡継ぎになるのは長女だ。
その長女がお年頃になると、伯爵家では婿取りをする。
家名を継いだ男性は長くこの土地に留まると死んでしまうことが多いので、大抵の場合は、貴族の四男あたりが様々な便宜や密約を餌に送り届けられ、ささやかな結婚式の後に子供が産まれるまでの短い時間を滞在する。
子供が産まれると婿達はそそくさと逃げ帰ってゆき、夫として父親としての短いお役目に相応しいだけの恩恵を手にするのだ。
不思議なことに、生まれるのは女の子ばかりで、稀に男の子が生まれてもすぐに死んでしまうらしい。
(エーダリア様は、哀れな一族なのだと仰っていたけれど……)
グリシーナ伯爵家の興りは、グリシーヌの土地に住まう藤のシーに気に入られた乙女が始まりで、寵愛を受けた乙女が力を持ち、その子孫代々に庇護と責任が受け継がれている。
これだけ特殊な環境下で育てば、外を望む者には確かに息苦しい運命だろう。
とは言え、美しいシーに見初められると、そこから逃げ出そうとする者もいないらしい。
藤のシーは美しい男性と女性がいる。
この土地に住むシーは男性であるらしく、出発前に珍しくヒルドが嫌いな妖精なのだとこぼしていた。
「確かに呪物の気配がありますね。どうですか、エゴン?」
「あの呪物がこちらに持ち込まれたのは間違いないようです。しかし、証跡が残っていませんね」
「その、イルメという女中はどんな女性だったのですか?」
「…………綺麗な子でしたわね。母親が藤の妖精の系譜でしたの。でも、笑い声がやかましかったことぐらいしか、私は存じておりませんわ。当家では、向こう側に仕える女中達の雇用は、妖精達にお任せしております。妖精が気に入らなければ、ここで働かせることも出来ませんから」
「出入りの行商人などはおりますでしょうか?」
「宝石と、織物の商人の方が。ガレンへのご依頼の際にも申しましたが、その織物商というのが先日お亡くなりになったイェシカ様のところでしたのよ」
イェシカというのは、王都で呪物の被害に遭った商人の妻の名前であるらしい。
しかしながら、王都での被害の後にこの街に行商があったわけではないそうだ。
王都での事件の二日後に、ここでその女中が亡くなっている。
「となると、王都からこちらまでの転移の記録も調べる必要がありそうですね」
「街でも転移門の記録はつけておりますわ。この通り、この土地には貴重なものや、生き物達がたくさんおりますから。でも、個人転移となりますとどうにもなりません。それこそ、人間ではない生き物達に尋ねてもそこまではわからないでしょう」
そこは、伯爵夫人にとっては笑うところであったらしいが、思わずネアとヒルドはディノの方を見てしまった。
「小さなものは沢山動いているようだけれど、あまり高位の生き物や魔術の移動の気配はないようだ。転移であるとすれば、王都からよりは遥かに短い距離か、或いはこの土地に住む者の仕業だろうね」
「そこまでおわかりになるのですね」
聞いてはみたもののさすがに驚いた様子のヒルドに、ディノはなぜそこまでの詳細がわかるのかを説明した。
「ここは、土地そのものの色が強いんだよ。そういう場所は、足跡が目立ちやすい。私の目を晦ませられる存在というものもいるけれど、彼等が関わっていれば別の意味でわかりやすい」
「歩いて持ち運ぶには、遠い距離なのでしょうか?」
ネアはここでようやく議論に参加した。
伯爵夫人の存在感が強すぎて、そちらの目がある場所では空気になることを選択していたのだが、そろそろ仕事をせねばなるまい。
靄にしか見えない筈のディノがさらりと答えたことに瞠目している伯爵夫人には、ひとまず気付かないふりをした。
「水害の季節ですからね。ヴェルリアとこのグリシーヌの間には、この二日間で強雨害の警報と、小規模の悪夢の警報が出ております。徒歩で持ち込む場合はやはり、そこを渡りきるだけの力を持つ人外者か、或いはある程度高位の魔術師でなければ」
そう首を振ったヒルドに、ネアはもう一度窓の外に視線を戻した。
先程は淡い色合いの美しい竜の姿が見えたが、今はもうその姿は見えない。
「或いは、翼のあるどなたか、とか?」
そのネアの言葉に、ヒルドとエゴンが小さく息を飲んだ。
ディノのお蔭で転移の線を排除出来ている今、綺麗に残された一筋に行き当たったのだ。
「我々の羽では、雲の上までは飛べません。となると、翼を持つ種族で、尚且つこの土地に足跡を残さない程度の階位のものか、この土地に元より痕跡のある存在、或いは配送などで使う使い魔かもしれませんね……」
「その中でも、警報の出ている土地を超えられるだけの個体。……狭まりましたね、ヒルド様!さっきの竜も調べてみますか?」
「この地の竜は悪食だそうですので、あまり気は進みませんが必要があるでしょうね」
その時まで、息を潜めるようにして事の成り行きを窺っていた伯爵夫人が、またはしゃぐような声を上げたのはその時だった。
「まぁ、谷に住む竜を退治して下さるの?」
「………竜の討伐は、ガレンの依頼対象ではありませんよ」
「でも、人間や妖精を食べるのですわ。何という残忍な生き物でしょう。観光客などが被害に遭った場合は、大変な騒ぎになります」
「この地に古くから住む者です。ヴェルクレアでは、土地の権利は入植の時期を基準とする法があります。グリシーヌの場合は、人間の入植が一番遅いですからね。この土地では有名な話ですので、観光客にも自衛していただくより他、ありません」
「そんな、ヒルド様はわたくしを憐れんでは下さりませんの?この女の細い腕で治めるには、あまりにも乱暴でおぞましい生き物ですわ」
「さて、法を犯す程に他者を優先するとすれば、仕える主人と、羽の庇護を与えた者だけでしょうね」
そのヒルドの返答に、グリシーナ伯爵夫人はいささか怯んだような目をした。
薔薇色の唇を薄く開き、どこか失望したような色を、鮮やかな緑の瞳に浮かべる。
「…………庇護を与えた方がいらっしゃるのね」
「私も、それなりに長く生きておりますからね」
ヒルドはそう微笑み、家族相当とは言え、匂わせているような感じではないと知っているネアは心を無にすることで、内心の動揺が顔に出ないようにした。
またしても、このような女性の爪とぎ板にされるつもりはない。
そう思って遠い目をしていたネアに、伯爵夫人の強い視線が向けられる。
「あなたは、伴侶がいらっしゃって?」
「…………いえ、まだ。ただ、契約の魔物と婚約はしております」
「……………契約の、魔物と?」
何某かの目的があっての質問だったようだが、思いがけない返答に伯爵夫人はぎょっとする。
ディノの姿がどう見えているのかはわからないが、対面してからあまり見ないようにしているのはわかった。
相当嫌厭しているのか、興味すらないのか、視線を向けられてもディノは身じろぎひとつしない。
「この通り困った魔物ですが、とても大事な魔物なのです。あなたにも、とても大事な方がいらっしゃるのですね」
「…………どうしてそう思うの?」
「その手袋は随分と昔から大事にされているのだなと思って。そういうものをお持ちになっているというのは、とても素敵なことですね」
ネアの指摘に、伯爵夫人ははっとしたようだった。
片手にだけ嵌めている手袋を、さっと隠すようにもう片方の手で隠してしまう。
魔物が大事にし過ぎたリボンの表面を見慣れているので、ネアは撫で過ぎてしまって表面が擦り切れた天鵞絨の見分けがつくのだ。
それに、素晴らしく扇情的で華美なドレスや、宝石をふんだんに使った首飾りや耳飾りの中、使い込まれた藤色の手袋は異色であった。
「おや、それは妖精からの贈りものですね」
そう言ったヒルドに小さく肩を揺らして、伯爵夫人は手袋をはめていない方の手の下に隠した手を、ぎゅっと守るように握りしめる。
「こ、これは、………たまたま、誤って古いものを持ち出してしまっただけです。こんなみすぼらしい手袋を見て、どうして私に大事な方がいるなどと仰るのかわかりませんわ」
「似たようなものを大事に持っているひとを知っていたのです。だから、もし、あなたもその手袋を同じように扱われているのであれば、その手袋を贈られた方は、そこまで大事に持っていて貰ってとても幸せだろうなと思いました。私の早合点でしたら、お騒がせしまして申し訳ありません」
「……………何でもない手袋です。たまたま、髪の色に合ったものをと引っ張り出しましたの」
夫人との会話はそこで終わってしまった。
ネアは内心、案外可愛らしい人だったなと思っていたが、丁寧に誤解を詫びておく。
人の内面は噂では計れない。
噂がそのまま噂通りであったとしても、それだけがその人の全てではないだろう。
であれば、なぜ。
「どうして、伯爵夫人は女中さんを殺してしまったのでしょう?」
ネアがそんな疑問を口にしたのは、件の竜を探しに街外れの谷の方まで離れてからだ。
「ネア様?」
「は、伯爵夫人が?!」
驚いて振り返った前の二人に、ネアは持ち上げを解除しない魔物の頭を撫でてやりながら首を傾げる。
現在、ネアが何かと縁を作り易い竜の方へと向かっているので、魔物はすっかりご機嫌斜めだ。
今迄の竜より遥かに警戒している様子なので、解せない気分ながらも定期的に撫でて不満を殺す運用としている。
「私でも、どうしてという部分のその理由までは何となく想像がつくのですが、ではなぜそんな風になってしまったのかまでは、さすがにわかりません………」
「…………ネア、どうしてそんなことがわかったんだい?」
魔物の質問やヒルドとエゴンの表情に、ネアは眉を下げた。
共通認識だと思って先の言葉を言った訳だが、どうやら彼等はそう考えていないようだ。
彼等の方が百戦錬磨であるし、違う推理なのだろうかと申し訳ない気持ちになる。
「む。…………もしや、みなさんは、違う考えなのでしょうか?先程の振る舞いは、演技だったり……?」
「それ以前に、我々は伯爵夫人のその様子に目を留めておりませんでした」
「ネアには、そう見えたのかい?」
「私には、とある事情で人間の表情を学んだことがあります。元の世界では、あらゆる歯に衣着せぬ物語娯楽がありましたし、実際にそのような現場に居合わせたこともあります。それを踏まえて先程のように受け取っていましたが、ちょっと不安になってきました」
「ネア様、………グリシーナ伯爵夫人が、女中を殺したのだとすれば、その動機をどのように考えられているのですか?」
ヒルドのその質問に、ネアは少し躊躇した。
良い理由ではないのだ。
しかし、人間には何と多く持ち合わせた感情であることだろう。
「あくまでも、私が受けた印象ですが、羨望や、嫉妬………のような心の動きだと思ったのです。あの方は、女中さんが、何某かの理由で自分の領域を侵す者、或いは自分の取り分を奪う者、もしくは、自分が欲しかったものを得ている者だと思えてならなかったのだろうかと考えていました」
「………ええと、伯爵夫人はそのようなことを匂わせる発言をしてましたっけ?」
やや懐疑的にそう言葉を挟んだのはエゴンだ。
しかしそうなると、ネアとしてはこの質問を返さざるを得ない。
「………と言うか、あそこまで百面相されていたことを、みなさんはどう思われたのでしょう?」
「百面相………?」
ネアがそう渋い声を出すと、男達は困惑したように顔を見合わせた。
困ったことに、誰も異変を察していないし、表情の変化を見てもいないという目をしているではないか。
(なぜだ。みんな優秀そうなのに、どうしてあんな怪しい一人芝居的なじたばたを見逃しているのだ!)
あの、時計の間でのグリシーナ伯爵夫人の表情はとても特徴的であった。
まず、部屋に入るなりある特定の場所をじっと見つめて、満足げな微笑みを浮かべる。
殺された女中の話の後で、いい気味だとでも言いたげな悪い顔をし拳まで握り、更にその後で今度は、切羽詰まったような後悔と怯えの目をして小さく首を振っていた。
これは何か関わってるぞという表情だったので、ネアは可愛らしい人だなと思ったのだが。
「ですので、いかにもな表情でしたがあれは違う意味だと思うとか、わざと我々を欺く為に演技したと指摘されるのであれば、そうかもしれないと考えますが、………そういう感じでもないのですね?」
とても不思議そうに言うネアのせいで、反論したエゴンは項垂れてしまった。
「………ネア様、……エゴンだけではなく、私もそれなりにあの女性の表情を見ておりましたが、気付きませんでしたよ」
「むぅ、ヒルドさんについては、会話の合間にヒルドさんが他を見ている隙にやられていましたしね」
「伯爵夫人に何か疑わしいところがあって、注視していたのですか?」
ネアは少しだけ考えた。
もし、ネアが受け取ったサインから組み立てた推理が正しいものではなくても、あの瞬間の眼差しは本物だったのだ。
「…………あの方は、時計のお部屋に入る瞬間、とても安堵されていたんです」
「………安堵?」
「ええ。ものすごく不快なことから解放されると思わず、ふぅっと安堵の息を吐いてしまうでしょう?そんな仕草が、とても………親近感を覚えて、目に留まりました」
「ネア?」
持ち上げに甘んじていた魔物が、そこで声を上げて、ネアの視線を引き戻す。
魔物にとって放置出来ない話であるらしい。
「私もそうやって、たくさんほっとしたからです。お腹の底から肩を震わせて静かな息を吐いて、目を閉じてから安堵の喜びに微笑みを浮かべる人の目が、とてもいつかの私に似ていました」
ざあっと風が揺れる。
竜の住む谷が近く、花の香りがした。
そこは、見事な花々の咲き乱れる不思議な谷なのだそうだ。
「だとすれば、あの方はどれだけ怖く、不愉快で苦しい思いをしたのだろうかと、不謹慎ではありますがお気の毒になってしまいまして………」
ネアをじっと見返す魔物の目は静かだ。
水紺色の瞳に不思議そうな色を浮かべて、どこか納得がいかない顔をしている。
「君は、あの伯爵夫人が気に入ったのかい?」
「いいえ。どちらかと言えば苦手な方ですね。ただ、不愉快で怖いというのは、………とても辛いことなのです。火に触れて火傷してしまった方が痛々しいように、その痛みが気の毒に思えました」
「そして、あの人間が犯人だと思えるのだね」
「ええ。………もう少し身も蓋もない言い方をすると、あの場での表現ではそうだと思いました。それすらも演技であるという可能性を承知の上で付け足すなら、私の見るあの方は、箱入りのお嬢様だったのだなぁと思える、ある意味不器用で可愛らしい方でしたので、演技ではなく本音なのかなと思った次第です」
「可愛らしい…………」
そこで絶句してしまったのは、エゴンだ。
悪女っぽいけれど内面は不器用かもしれないという人格設定が、よくわからない人もいるのだろう。
ネアも、そもそもレーヌに似ている雰囲気の伯爵夫人は、かなり苦手なのだが、垣間見えたその拙さはおやっと目を惹いたのだ。
そこまで丁寧に説明すると、ようやく男性陣もほっとしたようだった。
「………申し訳ありません。ネア様は、伯爵夫人のような女性が好ましいのかと、少し驚いてしまいました」
そんな風に、ヒルドにまで心からほっとしたように言われると弁解したくなる。
「むぅ、それはちょっと心外なのです。でも、私があの方を嫌厭してしまうのは、同じような雰囲気の方に痛い目に遭わされたからで、上手くあの方の良さを引き出すようなところにぴたりと嵌れば、あの方は可愛らしい方なだけだったような気がするのですが、そこまで汲み上げて好感度を維持出来るほど、出来た人間でもありませんでした」
きっと、ノアあたりなら、彼女も可愛らしいよねと笑って済ませてしまいそうな気がする。
レーヌとは違い、悪意ではなく、苦しみの発露で荒ぶったようなものだと思うのだが。
「幾筋かの推論を追いかけるとしてになりますが、…………ネア様は、あの方がどのような事情でその不愉快な状況になったと思われますか?」
「あくまでも推理になりますが、………女性特有の嫉妬心絡みであのご気質となると、一般的なものとしては、愛情にまつわるもののあたりが気になります。権力やお金、という感じでもなさそうな……」
(血筋で継ぐ爵位であるのなら、それは脅かされない。であれば、あの伯爵夫人が恐れるものは愛情の略奪なのではないだろうか)
あんな風にお守りみたいに一つの手袋をつける人が、妖精に選ばれた妖精の血を引く使用人を害したのであれば、それは寵愛や興味が女中に傾いたから、或いは傾いたと錯覚してしまったからではないだろうか。
熱心にヒルドを口説いていたのは、そういうものが彼女にとって意味のあるものだからだ。
(…………なんてね)
少しだけ推理を我が儘に暴走させたネアは、表情に纏わる表現についてこつこつと学んだことがあった。
素人調べではあったが、仕草や表情で滲み漏れてしまう本音を隠すための鍛錬をしたからだ。
駆け引きや嘘に慣れたその道の手練れ達に混ざり、その中でも王座のような目立つところにいたとある人を破滅させる為には、まずは自分の抱えた嘘を隠し通すだけの鍛錬が必要だったのである。
笑うなと思えば笑わずに済ませることは出来る。
なので、疑いを抱かれるような仕草や表情を徹底的に取り込み、その全てを排除するように心がけた。
(私はあの時、最悪の嘘つきだった)
もしかしたら、だからこそ伯爵夫人の表情の無防備さが幼く目にとまるのかもしれない。
隠してのけたネアの冷たさより、よほど彼女の方が人間らしく素直である。
「確かに綺麗な娘だったと言ってましたね。あの一族を事実上治めるのは藤のシーとその従者達ですし、男絡みですかね」
うんざりとした顔を見せたエゴンに、ネアは少し困って唇の端だけで微笑んだ。
「エゴンさん、現状はただの私の妄想ですので、思考を偏らせてしまったらごめんなさい」
「いやぁ、当ってるかもしれませんよ。僕が研究している呪物も、人間がそれを作り出す動機なんて、いつも単純なものですからね」
「もしかして、………ネア様はそれであの手袋に目を留められたのでしょうか?」
「ええ、一連の百面相の流れで、あの手袋を撫でていらっしゃったので。ヒルドさん、あれは妖精さんからの贈り物なのですよね?」
「………恐らく、あの伯爵家を庇護する藤のシーからのものでしょう。そうなると確かに、向こう側の使用人が殺されたことと繋がる可能性もありますね………」
「でもまぁ、男絡みの方がまだ可愛げがあるんじゃないですか?」
「むぅ。何とも言えませんね。こういう場面では善悪の言及を出来る立場にはないのです」
その言葉に、ヒルドは少しだけネアを窘めるような目をした。
ネアが人を殺す為の道筋を立てたことがある過去を、ヒルドは知っている。
こちらの世界は、人が死ぬと言うことに対する敷居が遥かに低い世界だ。
復讐や報復のような行為であればとさして問題視されないのは、こちらには魔術といういささか残忍な基盤があり、人外者達の行いも含めて、異なる倫理観の世界だからこそ。
そのせいなのか、種族的なものなのか、ヒルドは、ネアがジークのことでこういう言い方をするのを快く思っていないようだ。
(でも、罪は罪なのだ)
ネアは図太く残忍で、何とも身勝手な人間であるが、その区分だけは変えようとは思わない。
それは弱さでもなく、良心の呵責でもなく、ただの事実として。
「彼がそれを厭うのは、君がそう自分を律することで、その男を引き摺り続けることが気に入らないのだろう。相手の罪すら自分のものとして欲する。妖精はそういうものだからね」
ヒルドは何も言わなかったが、道中でディノがそうやって教えてくれた。
もしかしたらそう思うのはディノもなのだろうかと考えながら、ネアは生真面目に頷いておく。
肩を微かに震わせて、安堵と歓喜に口角を上げた伯爵夫人の横顔を思い出した。
そしてその表情に、かつての自分を見てしまった愚かさに、胸の淵がチリリと焦げる。
単純な呪いの解除というだけではなく、そこに厄介な人間の心が絡んでいそうだと気付いてしまったからだろうか、少しだけ心がこわこわした。
(私は、人間というものが実は不得手なのかもしれない……)
リーエンベルクで関わる人間が素敵な人達ばかりなので、その至らなさを失念していたようだ。
そう考えてしょんぼりしたまま、ネアはディノに抱えられて谷底の竜の巣に入っていった。