四つ辻の呪いと藤の館 1
グリシーヌの地には、藤の館と呼ばれる見事なお屋敷がある。
ヴェルリアとウィームとの境界となる山々の麓にある、水路と橋の街の辺境伯の屋敷だ。
かつて、ヴェルリアとウィームが別々の国であった頃、このグリシーヌが最後の経由地として栄えた。
食料や物資を仕入れる商人の為に様々な商店が立ち並び、山から流れてくる幾筋もの川を渡る為に幾つもの橋がかけられたそうだ。
そしてこの街には、それは見事な花をつける藤の古木が何本もある。
藤の妖精達が古くから住む土地でもあるので、今はその花を目当てに訪れる観光客達を上手く誘致し、グリシーヌの街は相変わらず賑やかであった。
「素敵な街ですね。藤の花はずっと咲いているのですか?」
「魔術の結晶石を根元に置くことで、養分を蓄えさせて通年咲いているそうですよ」
そう教えてくれたのはヒルドだ。
今回の仕事には、ヒルドとネアとディノ、そして現地でのアテンドをしてくれるエゴンというガレンの魔術師が行動を一緒にする。
このグリシーヌの街はヴェルリア領にあたり、とある事件の発生によりガレンへと調査依頼が入ったそうだ。
「辻毒ではないかという見立てなんですがね……」
そう教えてくれたエゴンは、ガレンで人間が組み立てる呪いと、その効果などの研究をしている。
主に人間の魔術に特化しており、その手の争いの多い王都では高名な魔術師の一人だ。
今回は、王都で発生した無差別殺人事件を追いかけてきて、ネア達と共同捜査とあいなった。
鮮やかな青い髪に茶色の目の人懐っこそうな顔立ちの男性で、ネアの前の世界基準では四十代後半くらいの雰囲気だろうか。
髪の青さは水の系譜の守護であり、彼の専攻魔術には必要不可欠な要素なのだそうだ。
「辻毒というのは、集めてゆくものなのですよね?」
エーダリアに俄か仕込みをして貰った知識はあるものの、ネアは専門家にも説明して貰うことにする。
話す相手によって切り口が違うので、思いがけない新情報が手に入ったりするからだ。
「はい。まずは呪いを封じた品物を、四つ辻に置いてゆき、誰かに拾わせるのです。拾ったものが呪いに殺されると、その品物には被害者の怨嗟が混ざり呪いが深くなる。一つの場所が収束するとその品物を回収し、繰り返してゆくことで強力な呪物に仕上がるというものです」
「被害者に人外者がいれば、その呪物は更に奥行きを増します。多くの国に古くから伝わる古典的な呪いの一つですが、今回は大きくなり過ぎたようですね」
ヒルドも補足してくれ、ネアは頷いた。
呪物が云々という厄介なものでは、最近似たような話を聞いたことがある気がする。
「煤顔の魔物さんも、元は呪物なんですよね?」
「あれはね、呪いが破れたことで人の手を離れ、自立して彷徨ったので魔物に成ったというものなんだ」
ディノが教えてくれたので、ネアはふむふむと頷いた。
この煤顔という魔物は、最近ネアの辞書に加わった魔物の名称だ。
無事に死者の国から戻ってきたジュリアン王子にディノが添付した報復で、煤顔の魔物の獲物だという印を魔術的につけると、じっとりとした目で隙間や物陰から窺ってくる地味に嫌な魔物なのだとか。
その種のストーキングが恐ろしいのか、エゴンは青くなっている。
呪物に関わる魔術師としてその知識はあるが、決して関わりたくない魔物の名前であるのだという。
そんなものを、さして特異性もない平凡な面持ちの歌乞いが話題に出したので、びっくりしてしまったようだ。
「煤顔の魔物のようにどこかの種族に偏れば、或いは意識があるものならば、まだ扱い易かったのですけれどね」
そう眉を顰めたヒルドに、エゴンは煤顔は決して扱い易くないですよと言い返して項垂れている。
名前を出すだけでも恐ろしいとさかんに周囲を見回しているが、そんな煤顔の魔物が現在王都に常駐していることは知らないようだ。
「つまり、今回の辻毒は、まだ道具のままなのですね」
「そこが厄介なのです。道具のままなので、使役者が隠してしまえば探すのにも苦労してしまう。魔術探査を遮蔽する箱かなにかに入れてしまえば、簡単に隠せますからね」
「わざとその呪物を移動させている、悪い奴がいるのでしょうか?」
眉を顰めたネアに、エゴンがヒルドの説明を引き取って続けた。
「最初の術者は、半年前の捕り物で死んでおります。ただ、なぜか道具だけが戻ってきてしまって、新たな人物の手に渡ったようでして」
「………それはもう、生きている感じなのでは」
「ネア殿、ところがそうでもないんですよ。先週までは王都で被害が出ていたのですが、一度だけその呪物を目にした代理妖精の言葉によれば、確かに呪物のままであったと」
まず、今回の事件は半年前の辻毒の被害に端を発する。
辻毒を作り出したのは、とある貴族の家のお抱え魔術師であったそうだ。
そんな魔術師が、第三王子の妃候補争いに名乗りを上げた主の為に、目障りな対抗貴族のご令嬢を抹殺するべく作った呪物である。
名家のご令嬢ともなれば、護衛の者も勿論のこと、生まれながらに持つ祝福も大きい。
そんな守護を突き崩すべく、精度の高い辻毒が必要だったらしい。
結果、アルビクロムやヴェルリアの西側にある商業都市などで幾つかの事件を経て、その呪物は贈り物を装ってご令嬢の屋敷に届けられてしまった。
「………そのご令嬢は…………」
「狙われたご令嬢だけでなく、妹君までお亡くなりになる事態でした。男性には効果を及ぼさない呪いでしたので、難を逃れたご当主とご子息が我々のガレンに駆け込まれ、事態が判明しました」
狙われたご令嬢は、その美しさから手のひらサイズの人型を持たない森竜を手懐けていたそうだ。
主を守ろうとした森竜までも食い殺され、名家の子供達を喰らった辻毒の呪物は大きく膨れ上がった。
辻毒に殺された被害者は、その呪物に飲みこまれてしまう。
呪物に成り果てた伯爵家の姉妹も討伐せねばならず、ガレンだけではなく、王都の衛兵も共闘しての大変な事件になったらしい。
「僕と、浄化を得意とする魔術師も加わり、辻毒の中に囚われた被害者の全てを解放するまで三日三晩かかりましたよ。最後に姉妹の侍女をしていた女性が解放され、あの呪物も灰になって崩れた筈だったのですが……」
あらましを語ったエゴンは、ひどく憂鬱そうだ。
被害者達を滅ぼさねばならないのだから、それは気の滅入る仕事であったに違いない。
「なぜか先週を境に、ふっとまた王都に現れましてね。王都にある劇場の歌姫を呪い殺し、有名な織物商人の細君とそのご実家の女達を全滅させた後、どうやらこのグリシーヌに流れたようなのです」
「………前に犠牲になった方々は、どうなったのでしょう?」
「織物商人の家にいた代理妖精の証言によれば、中身の人数からすると解放されたままかもしれませんね」
「確実に、と言う訳ではないのですね?」
「僕達が調べた被害者より、一人多いようなのです。とは言えその妖精が中の被害者達を見たのも一瞬のことでしたので、確かな数とは言い切れませんがね」
エゴンがそう言うのは、呪いが発動する瞬間になると、呪物に取り込まれた被害者たちが攻撃に転じるからだ。
その時に人数確認をしたらしい。
ヒルドが、小さく溜め息を吐いた。
「どこかで、人知れず犠牲になっている女性がいるかもしれませんね」
「でも、その代理妖精さんは、ご無事だったのですね」
「…………ええ、代理妖精自身は。咄嗟に呪物を掴んだ主人の手を切り落として、呪いから切り離そうとしたようですが、間に合わなかったようですね」
「望んだ主を失った妖精程、悲惨なものはないでしょう」
そう呟いたヒルドの横顔に、ネアはそっと目を伏せる。
その苦痛が想像出来る彼には、きっと辛い話に違いない。
「呪物が女性にしか害を及ぼさないのであれば、男性に回収させれば良かっただろうに」
それまで黙って聞いていたディノが、当然と言えば当然のことを口にした。
少しだけ険しい眼差しをしたヒルドが、その言葉にまた新しい情報を重ねる。
「それについては私も反対したのですが、呪物の呪い自体を弾くような者でない限り、運び手にされる危険もあるのだそうですよ」
「………運び手?」
「呪い殺すのは女性だけなのですが、呪物の移動を行う者は性別を選びませんからね。運び手にされないだけの守護や備えのある者というのは、意外に少ないんですよ」
首を傾げたネアに、エゴンがそう教えてくれた。
そもそも、相手が品物であるということは、うっかりポケットやズボンの裾に紛れて運び屋にされる可能性があるのだそうだ。
該当呪物を管理をする者がいない場合は、その品物に条件付けされた“出来る限り呪いを蓄える”という魔術を実行する形で、品物が勝手に彷徨い出すらしい。
(それはもう、生きているような気がしなくもないけれど、まだ道具なんだ……)
そう言う場合は、対処にあたった者がうっかり運び屋にされ、自宅や職場に持ち帰って被害を拡散させることが懸念される。
エゴンのように元々対策をしている専門家や、ヒルドのように王族の代理妖精としてその手の免疫魔術を施している者、そしてディノのようにそもそもこの程度の呪物の影響を受けない階位の者が必要になる。
ところが今度は、あまりにも全員が呪物を弾いてしまうようだと、逆に問題の呪物を見付けられないという問題が発生する。
そこで、ネアのような、引き寄せるけれど害を受けないという存在が必要になってくるのだ。
(完全防御の囮のような感じなのかしら………)
「それと、このグリシーヌ自体、少し特殊な街でして」
そう溜め息を吐いたのはヒルドだ。
「街そのものにも、癖があるのですか?」
「街そのものに呪いがかけられており、ウィームに籍を置く者でなければ自由に魔術を振るえないのですよ」
「…………むぅ」
「高位の人外者が、ウィームに災いを呼ぶ者達を足止めしたという、古い伝承があるようです」
「そうなってくると、ますます適合者が少なくなってしまいますね」
だから、最初に紹介された時に、エゴンが自分はあくまでも案内役なのだと申し訳なさそうに言ったのだ。
そこが腑に落ちて、ネアは頷く。
「ええ。更に言えば、グリシーヌの谷には沼の系譜の竜が住んでいるそうで、その竜は人間や妖精を食べるとか」
「…………私を向かわせるしかなかったエーダリア様の苦悩が、手に取るようにわかります。……ディノ、これはもう私がどうにかするしかない事件のようなので、がっちり守って下さい」
「…………あまり気乗りはしないけれど、君がそう望むのであれば仕方ないね」
憂鬱そうな魔物にひょいっと持ち上げられ、ネアは心配になった。
ディノ程の魔物がここまで不安を訴えるだけの、厄介なものがあるのだろうか。
「ディノ、………今回のお仕事は、厄介なものなのでしょうか?」
なのでネアは、エゴンが離れている隙にそう尋ねてみた。
「グリシーヌは、妖精が多い土地なんだ。ヒルドが同行しているのは、それでだろう。加えて人型でないような精霊や魔物の固有種も多い。古くから、境界と呼ばれる土地には様々なものが凝り易いんだよ」
「ディノ、このお仕事の間はべったりで構いません」
「勿論だよ。君も、決して一人では行動しないことだ。ただでさえ、今回の呪物とは縁が出来ているのだから」
「……………なぬ」
「死者の国で、道に落ちていた櫛を覚えているかい?恐らく、あれが問題の呪物だと思うよ」
「…………そんな大事なことはもっと早く知りたかったというのもありますが、この前の復活祭でお外に出てきてしまったのでしょうか?」
「いや、呪物は死者には運べない。持ち出したのは生きている者だろう」
「そうなるとあれを地上に持ち込めたのは、私達でない三人しか容疑者がいません」
「おや、ウィリアムも加えてしまうんだね」
「ウィリアムさんは、うっかり天然なところがありますから」
「ウィリアムが触れれば壊れるだろうから、持ち帰ったのは人間だろうね。枢機卿が、十字路の呪物を知らない筈もない。持ち帰ったのはあの王子だろう」
「………やっぱり煤顔さんだけでなく、お尻が痒くなる呪いも送り付けましょうか」
遠い目になったネアは、ひとまずヒルドとエゴンに声をかけて、問題の呪物を知っているかもしれないという話をした。
途端に、それぞれ違う意味で顔色が悪くなる。
「し、死者の国に………!」
まさかの死者の国帰りのネアの履歴に慄くエゴンの隣で、ヒルドは刃物のような目で微笑んだ。
「おや、あの方はどこまでも愚かで煩わしいのですね。煤顔ごときでは足りなかったかも知れません」
「す、煤顔と申されますと……」
「エゴン、もしジュリアン王子から、煤顔の魔物の駆除要請を受けたら、拒否して結構ですよ。エーダリア様はガレンでは依頼を受けないと仰ってましたし、ジュリアン王子もガレンには依頼を出さないでしょうが、あなたは貴族達と懇意にしてますからね。個人的な依頼が舞い込む可能性があります」
「…………今の話の流れで、その駆除要請を受けるほど、僕も愚かではありませんよ」
「それが賢明です。どうやらあの方は、最高位に等しい魔物の恨みを買ったようでしてね」
「………また何かしでかされたんですね」
ヒルドがそう補足するのは、この話が表立ってウィーム側からの攻撃であると認識されると厄介だからだ。
エゴンを含め、話しても構わないと判断された者達は上手くやるだろうが、依頼を断る際に今の話を口にすれば断りやすくなる。
(うっかり失言しないように、さりげなく会話の中で言い訳の仕方を教え込んだんだ)
「………しかし、そうなるとあの櫛を意図的に誰かに渡したのでしょうか?」
「いや、確か亡くなった歌姫は、ジュリアン王子のお気に入りだった筈ですよ」
ヒルドのその言葉に、エゴンはうわぁという顔になった。
「うっかり………ですか。仮にもあの方は王子ですし、触れれば呪物だとわかるでしょうに」
とても遠い目になってしまったのは、そんな厄介なものをジュリアン王子が持ち帰らなければ、この事件が起こらなかったからだろう。
「さて、これからグリシーヌを治める辺境伯であるグリシーナ家に挨拶に伺います。ネア様は初対面ですが、少し独特な方なのでご注意下さいね」
「ヒルドさんが思わしげな顔をする程に、独特な方なんですか?」
「この土地は代々女性が治めるのですが、………何と言うか、我欲が強い方々でして」
「むぅ、我欲の強さでは負けませんよ!」
ふんすと胸を張ったネアに、ヒルドはふっと微笑みを深めた。
先程までの冷やかな目とは違い、リーエンベルクでいつも見かける優しい目だ。
(…………でも、辺境伯の話をしたときにも怖い顔をしていたってことは、あんまりいい方ではないのかしら?)
「ネア様の可愛らしい我欲とは大違いですね。…………ディノ様、この地の女伯爵は、女性としての欲がいささか強い方なのです。不用意な介入を避ける為に、そのご容姿が目に留まらないようにする回避策はありますでしょうか?」
「成程、そういう類の人間なんだね。であれば、姿を視認させないようにしよう」
「まぁ、そんなことが出来るんですか?」
「死者の国でウィリアムがやっていただろう?特定の者以外には、姿を見せない魔術があるんだよ」
「む。私には、ウィリアムさんはいつものウィリアムさんと、擬態している普通の男性にしか見えませんでした」
「君には本来の姿や、無難な擬態が見えるようにしていたからね。恐らく、死者達には靄のようなものに見えていたと思うよ」
「…………もしや、ウィリアムさんと買い物に行くと、ものすごく街の方々が怯えていたのはそれだったのでは」
ネアは、てっきり自分が生者だから怖がられているのだろうと、寂しい気持ちで考えていた。
しかし、そんな靄と一緒に歩いていたらかなり怖かったに違いない。
そして、ネアはふと心配なことに気付いた。
「ヒルドさんは、………大丈夫ですか?」
「私は、調整役でもありますからね。それに、そのような方は王都で慣れておりますし」
「何なら、見張ってないと凶暴な歌乞いが何をするかわからないと言って構いませんので、いつでも使って下さいね」
ネアとて、その手の誘惑に無知なわけではない。
主に、復讐の為に華やかな社交界に潜入していた頃に見聞きしたものや、映画や本の中の知識ではあるが、相手の女性伯爵が匂わされたような感じの女性で、ディノの姿を変える必要まであるくらい危ないのだとすれば、見るからに美貌が際立つヒルドが心配だ。
そんな心配をしたネアの提案に、ヒルドは目を瞠ると一瞬無防備な顔になる。
すぐに鉄壁の微笑みで覆い隠してしまったが、その一瞬の表情に、ネアは彼も王都では随分嫌な目に遭ったのだろうと考えた。
彼のような人がそこを推察されてしまうのも嫌だろうが、察せるからこそ二度とそういう目に遭わせたくはない。
「では、身の危険を感じたら避難させていただきましょう」
「幾らでも理由として悪用して構いませんからね」
「それは心強い」
「……………浮気?」
「ディノもですよ!今回はその靄演出をするのだとしても、特殊な趣味の方もいますから。身の回りに注意して、離れないようにして下さいね」
「ご主人様!」
「…………あの、僕は」
可愛い奥さんが家に帰らない夫への不満で大爆発し、二人の息子と一緒に出て行ってから女性に恐怖を抱くようになったという魔術師は顔を青くしていたが、ヒルドはにべもなく、あなたは大丈夫でしょうと切り捨てていた。
気にかけられても恐ろしいが、見向きもされなくても悲しいと項垂れたエゴンは、ここの女伯爵は特に人外者を好むのだと教えられて少し復活している。
(うーん、妖精さんが多いという問題がなければ、ヒルドさんよりノアの方が得意そうな感じだったかな)
そう考えながら、問題の屋敷まで歩いてゆく道中、確かに川の畔や、橋の下などに多くの妖精を見かけた。
ヒルドが際立って高位の妖精であるのがわかるので悪さをしてはこないが、基本的に階位が低く人型の妖精は邪悪なものが多いのだそうだ。
上手く仲良くなれば良い隣人になるが、人間を騙したり、籠絡したりすることを好むらしい。
街の中はこの土地のシンボルであるらしい藤の花が、あちこちに咲き乱れていた。
中には見上げる程の大木もあり、噂の一本だろうかと感嘆の思いで見上げる。
淡い藤色の霞がかかったようなえもいわれぬ美しい景色だ。
切妻屋根の淡い砂色の煉瓦造りの家々が立ち並び、その家壁には藤の色彩がなんとも映える。
小さな水色の小花を咲かせた下草は青々としており、そこをゆるやかな川の流れが横切ってゆく。
あちこちで、石造りだったり木造だったりするアーチ橋がかかり、お伽噺の可愛い街並みそのものだ。
「ネア様、全ての家の窓に鉄の装飾柵があるでしょう?あれは妖精避けなのですよ」
「むぅ。ヒルドさんは大丈夫なのですか?」
「悪意と共存の線引きが出来ない、小さな妖精用のものです。私は普通に入れますよ」
本来であれば迎えが来るべきなのだが、今回の事件では伯爵家の家人が狙われている可能性が高い。
迎えは辞退させていただき、代わりに自由に街を見て歩ける猶予を稼いだ。
運び屋となるにはこの街を訪れねばならず、人の出入りに制限のある伯爵家に危険が及んだということは、近しい者が運び屋になってる可能性も高い。
関係者のいないところで、街の様子を見る良いチャンスなのだ。
観光客も多い土地であるのでさして目立たない筈なのだが、ヒルドの際だった美貌に目を惹かれるのか、住人達がこちらを見てはびくりと体を揺らしている。
さっそくディノが靄的な擬態を施したのか、ディノの方を見てさっと目を逸らしていた。
「お家に藤の木があるのは羨ましいですね。窓から見えたら素敵です」
「どうだろう?家に藤の木があるところは、妖精の系譜なのかもしれないね」
可憐な家の風情にそう呟けば、魔物がどこか呆れたようにそう答えてくれる。
「妖精さんの、系譜?」
「藤の木は美しいけれど、ここまで立派な木になると人間には手に負えなくなる。そんな木を添わせている家は、藤の障りを受けない血筋の人間の住処だと思うよ」
「と言うことは、普通の人間では障りが出るのですね?」
「藤の木の本分は、誘惑と浸食だからね」
「ウィームにも藤の花は多いですが、ウィームとこの土地とでは成り立ちが違いますからね」
そう教えてくれたのはヒルドだ。
元より魔術の濃い土地であるウィームの場合は、人ならざる者達と彼等に愛された人間が共存していた。
このグリシーヌの場合、妖精の住処を人間が開墾し、その障りを受けながらも上手く落ち着いた土地なのだそうだ。
共存を安定させる為に妖精が好むような人間を揃え、彼等の寵愛を受けることでも便宜を図らせているので、人間と妖精の間に生まれた子供も多い。
今ほど人間の力が強くなる前までは、必ず双子が生まれ、その内の一人は妖精の世界に取られてしまうという風習もあったとか。
「………連れていかれてしまうと、どうなるのでしょう?」
「妖精の国で妖精になってしまうか、気に入られなければ食べられてしまいますね」
「……………むむぅ」
「妖精は種族によって性質がだいぶ違いますが、この土地の妖精は本来人間との共存には向かないような種族です。そう言う意味では、よくここまで街を盛り立てたものですね」
シーですらそんな風に呆れた様子なのだから、人間はなんと強欲なのだろう。
その不便さを飲みこんでも余るくらいに、この土地は価値のある場所だったに違いない。
「そう考えると、呪物も難しい土地に運ばれましたね」
恐ろしそうに橋の下から覗いている生き物達を眺め、そう言ったのはエゴンだ。
確かに人間の作った呪物であるので、また違う営みを持つ土地に運ばれて上手く作用するのだろうか。
「使うのが人間であればいいんだけれどね」
そう呟いたディノに、ネアは目を瞬く。
過保護に持ち上げられているせいで、街の人々がネアに向ける目は驚愕に満ちていた。
「人間でない方が使うと、問題になりそうなのですか?」
「手を加えて悪用する場合があるからね。人間の呪物に手を出すのは、魔物もそうだが、妖精も好む手法だ。人間を損なうことを喜ぶ種族であれば、尚更用心した方がいい」
「………その櫛は、やはりこの街にあるのでしょうか?」
「うん、この街にあるようだね。擬態をしているから完全に場所までは特定出来ないけれど、確かに山に近い土地からあの陰の気配を感じる」
魔物が足を止めた。
「……………ほわ」
ネアが思わず声を上げてしまったのも仕方ない。
壮麗なグリシーナ伯爵家邸のその横には、左右対称の典型的な貴族の館をひどく異様なものに塗り替えてしまうような、館の半分を飲みこんでしまいそうな程の大きさの藤の木があった。
窓の位置からすると、三階建てなのだろう。
その屋根の部分まで枝を伸ばし、からみついて、ずっしりと重たげな見事な藤の花を満開にしている。
それは、美しいばかりの藤の花という風情ではなく、明らかに力を持った異質なものの存在を誇示するような光景であった。
「ようこそ、おいで下さいました」
大きな観音開きの扉が開かれ、待ち構えていた家令だと思われる初老の男性が、慇懃に頭を下げる。
その奥で、一人の女性が嫣然と微笑んだ。
春霞のような淡い藤色の髪を結い上げ、どこか酷薄な輝きのある鋭い緑の瞳。
女性らしいふくよかな美貌を持ち、言うならば女帝とでもいうべきオーラのある素晴らしい美女だ。
「お待ちしておりましたわ、ヒルド様」
エーダリアの倍以上の年齢だという女伯爵は、少女のような弾む声でそう告げる。
ヒルド以外の者達には視線を向ける手間もかけず、まるで見えないかのような振る舞いだ。
ヒルドの気配が、ふっと冷やかなものになり、エゴンが青ざめるのがわかった。
ネアは、何だか嫌な予感がした。