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雨音と対価



その夜、ふと歩こうと思ったのは、何とも言えない煩わしさがあったからだ。

こうして感情が揺れることは珍しい。


なので、穏やかに受け止めるというよりは別のことで誤魔化そうとしたのだった。

そして、そんな思いで歩いていれば、同じように廊下を歩いてきたシルハーンと遭遇した。



「こんな時間に徘徊か?」


そう問いかけたアルテアに、万象の魔物はどこか気鬱な微笑みを浮かべる。

かつて見慣れた、感情ではなく装いの一つとして浮かべる微笑みだ。


「ネアがノアベルトと会っていてね、迎えに行くところだよ」

「おい、何で一人で行かせてるんだ」


その返答に思わず顔を顰めてしまうのは、相手が相手だからであり、このリーエンベルクに気軽に出没しているらしい杜撰さに呆れたからであった。



晩餐の少し後に、リーエンベルクでノアベルトの気配を感じた。

それをそのまま口に出せば、ヒルドから今日は来訪の予定があると告げられる。

その口調から、ノアベルトが何度もここに来ているとわかり、無防備さに頭が痛くなった。


塩の魔物は人間が嫌いだ。

それはもう、憎悪に近い形で弄んできた人間が主導する土地に、あの魔物を容易く呼び入れて構わないのだろうか。


そう言えば、食えない顔で代理妖精はかつては自分もそうでしたよと微笑む。


『かつては私もそうでしたよ。誓約の枷がないところで、私と会うことを忌避する人間は多かったでしょう。でもそれを変えた一人の子供がいました。そのように、心や嗜好が変わることもありますからね』


成る程それがリーエンベルクの見解なのだと思い、是非はともかく雑に頷いておく。

本来であれば、彼等が受け入れたのならば問題のないことだが、なぜか少しばかり不愉快にも感じた。



そしてそれは、今日のあの少女の言動もなのだ。




途中まではやれやれと思っていたことなのだが、ふと、脱がせて洗われても警戒一つしていなかった無防備さが鼻についた。

それは許容でもあるが、浅慮にも等しく、自分を手懐けたのだと考えているのであれば、愚かしいにも程がある。


そう考えて歩いていたのに、今度はノアベルトなのか。



「ノアベルトから話があったようだし、私は彼を害とは考えていないからね」

「だけど、不愉快なんだろ」

「さて、どうだろう」

「でなけりゃ、そんな目をするか。さっさと回収して、ノアベルトはここから追い払えよ」

「おや、君がそう言うのもおかしな話だね」

「俺は一応は統括だからな」


そのまま流れで途中まで一緒に歩いてきたところで、小さなサロンの一つからネアの声が聞こえてきた。


大雑把にも程があるが、部屋の扉を閉めていないようだ。



(ん?いや待てよ、あえて閉めてないのか?)



人間の貴族には、未婚女性が異性と二人っきりで部屋に籠らないように、このような場合は部屋の扉を開けておく風習があるという。


そこでふと、聞こえてくる会話に興味を惹かれた。

ネアもそうだが、ノアベルトはどんな様子で無知な人間を誑かすのだろうと考えたのだ。

どうせ使い古された言葉を使うのだろう。

ネアは引っかからないだろうが、盗み聞いて手札にするのはアリかもしれない。


「気配の選択をかけてやるよ。何を話してるのか聞いておくのも一興だぞ?」

「ふぅん。興味津々だね」

「寧ろ、お前が興味を持て」

「どうだろうね。私はあまり聞きたくないこともあるかもしれない」



その言葉のらしくない愚かさに目を瞠って、けれども愚かさというのもまた、万象の素質であったのだと思い起こした。

けれどそれは今迄、誰かに向ける心の動きによるものではなく、子供のような興味や、老人のような諦観によるものだった。

だからこそ、こんな風に目新しく唖然とするのだろうか。



けれども結局、扉の左右の壁にもたれかかってその場所に止まったのは、シルハーンも興味を惹かれたからなのだろう。



そして漏れ聞こえてきたネアの声は、想定していなかったような話題を選んでいたようだ。



「さらさらと美しい雨音を聞きながら、なんと美しい夜だろうと幸せな気持ちでいました。でもね、夜が明けて朝が来ると、現実が訪れて、その幸福は死んでしまうんです。だから、その前に死ねたらいいのになぁと考えていました」


ざあっと風に揺れる枝葉の音が聞こえる。

禁足地の森を抜ける風の音や、雨音をあえて取り入れる作りになっているのが、このリーエンベルクの王宮だ。


瞠目してから、これはどんな会話の切れ端だろうと首を傾げる。

あのノアベルトと、なぜこんな会話になったものか。

でもこれは、あの人間の深淵に触れる言葉なのだと、ふつりと心の縁が揺れる。


ネア本人は決して隠しはしないが、自分とこんな風に会話をすることはないだろう。

そんな言葉を選ぶ声の静謐さに、悪夢の中で見た穏やかな墓地を思い出す。



「世界が自分だけで閉じていれば、あの夜が永遠に続けば、私は決して不幸ではありませんでした。でも、生活というものはそれだけでは成り立たないのです。だから、外に出ると正常な社会の落伍者に違いない私は、息を吸うたび荊を飲むようでした」


ノアベルトが何かを返したようだ。

その言葉に小さく微笑む気配がする。


「ほらね、だからノアと私は一緒にお喋りするとその内側を覗いてしまうのです。とても良く似ていて、なんと破滅的な相性でしょうね」


「僕もね、君と同じものを見付けたと思ったんだけどなぁ」


立ち位置を変えたのか、シルハーンが音の魔術を調整したのか、今度のノアベルトの言葉は明瞭に聞こえた。


「ふふ、私が見付けたのが命綱のようなものなら、あなたが見付けたのはお家のようなものなのでしょう。たった一つのものを起点にする私と違い、幾つものものを愛せたノアの方が心が広いようです。悔しいですが、そんなノアももう家族の一員なので、とても頼もしいですね」


柔らかな声で家族の一員だと言われ、塩の魔物が笑う声。

そんなものが幸福だというのなら、それは欠片も理解出来ない感情であった。

扉の反対側にいるシルハーンを見れば、どこか遠くを見るようにして静かな目で考え込んでいる。


「だから、君は安心して狭いままでいていいよ。僕は、君も大好きだからね」

「ノアは頼もしくなりましたねぇ。心が豊かになるというのは、凄いことでした」

「僕さ、心が豊かになるとか、少し前までは馬鹿みたいだと思ってたんだよね。薄っぺらくて、何て安っぽい言葉だろうって。でも今は、わかる気がするんだよ。心が豊かになるってことは、自分の心が満たされるから、多くのことが出来るようになる贅沢さなんだってね」

「ええ。誰かに向ける喜びではなく、自分の贅沢さを満たされたからこその、己の為だけの穏やかさの充足を示す言葉なのでしょう。それを対外的な良さとして周知してしまう風潮なのは、確かに馬鹿みたいですね」

「だよねぇ。心が豊かになっても、何で自分の心を誰かの為に切り分けなきゃいけないんだろうって、それは疑問に思うよ」



カチャリと食器の触れ合う音がして、その背後に穏やかな雨音が聞こえた。

小さく息を吐く音と、ひたりと落ちる鋭利な闇の足音。



「あなた方が、魔物さんで良かったです」


そう呟いたのは、えもいわれぬ暗さを滲ませた静かな声であった。

訳もわからずにはっとしてシルハーンを見たが、既に知っている暗さなのか特に驚いた様子はない。


「私が殺したことのある、私を落伍者に分類したことのある、まっとうな人間ではなくて良かった。誰かを殺したり、滅ぼしたり、価値観を違え、恐ろしくて残忍で、そして途方もなく無垢な生き物で、本当に良かった」


「うん」


きっとその言葉を、微笑んで言っているのだろう。

穏やかに返答したノアベルトにとっても、この闇の残響は見知ったものなのだろうか。


「私は牙を生やしたことのある人間です。異形となり、選択によって普通から外れ、普通とは違う嗜好を得た人間です。そんな私は、心を豊かにしても一般的な人間では決してない。それはきっと、こちらの世界では珍しくはない価値観なのだとしても、やはり私は異邦人なのですから、生まれた世界の基準でしか育てない狭量な人間なのです」



ネアがそう告白したのは、その前のノアベルトのあけすけな身勝手さへの賛歌だろうか。

或いは、元の会話の本筋に立ち返ったものなのだろうか。



「だから、君は人間以外のものしか愛せなかった?でも、ネアはエーダリアにはかなり気を許しているよね」

「エーダリア様は、私の内側を覗き込んでも逃げ出さない方だと知りましたから。私一人では知り得なかったことですが、今はこうして幸せにしていますので、幸いにもエーダリア様ときちんと向き合えたのです」

「扉を開けてくれる人がいたから、外に出れたってことだね。………じゃあさ、今ならエーダリアと恋も出来る?」

「ディノと出会わなければ、開ける術もなかった扉ですが、…」

「だけどシルと会って、その扉を開けられたわけだよね。その結果、割と好きな人間だった今なら、どうなのかな?」

「うーん、異性として好意を持つ感じではないような。身の程をわきまえない言葉で言うのなら、友人としてはこの上なく、好きな方ですよ?」


小さく笑う、ノアベルトの声。


「わーお、思ってたより踏み込んだ返事だね。シルがいなければ、そもそも心に栄養が行き渡らないとか、そういう返事かなって思ってた」

「あらあら、ノアは私に近い思考回路の人ですから、そんな前提はご承知の上で話したのですよ!でも、その言葉の通り今はこうして大好きな人間の方もたくさんいるので、誰かを大事に出来る幸せにすっかり有頂天なのです」


でも、それは多分魔物としては喜ばしくない余禄なのだ。

選んだものを悦ばせるのだとしても、その目が他者に向くことまでを尊べる魔物などいない。

だから魔物はいつも人間の伴侶を殺してしまうのだと、うんざりとした気持ちで考える。



「グラストにはさ、少しだけ緊張するよね?」

「む、………それは、憧れるような素敵な人格の方なのですが、私のような人間を好まないような気がして、向き合うといい子ぶりたくなってしまうからですね。死者さんが太陽に憧れるような、そんな感じでしょうか」

「あはは、何それ。太陽を浴びると、目が焼けちゃう?」

「そんな感じですよ。理想を言うなら陽光を浴びられる健やかさが欲しかったのです。その、優しくて強くてとても綺麗な人間らしさの象徴のような頼もしい方ですね」

「そうかなぁ。彼も彼で、そこそこに複雑だと思うけど?騎士団長なんてえげつないし、男だしなぁ。男だってことは…」

「おのれ、やめて下さい!そんなのは承知の上で、憧れの素敵なお父さん像のように思う方なので、夢を壊すような意地悪な発言はしないで下さい!」

「あはは、ネアって変なところで純情だ!」

「異性関係が爛れ過ぎているノアから見たら、殆どの方が純情なのでは……」


あの仏頂面が思い浮かぶような声音だった。

その温度で表情が測れるようになったのだと知り、ふと落ち着かない気持ちになる。


「でもさ、すべすべの肌に触れてると気持ちいいよ。女の子はみんな可愛いし、気持ちいいことも好きだしね。でもまぁ、他にも好きなことが沢山出来たよ。今度の週末にはさ、ヒルドと餅菓子を食べに行くんだ。女の子なしで、同性でも恋愛対象じゃない単純に友達となんて、信じられる?」

「…………それをヒルドさんに言うと、叱られますよ?」

「ありゃ、前にも言わなかったっけ?僕、君と出会った頃は、男も女も人間も魔物も何でも平気だったんだ。勿論、女の子が一番だけど、退屈してた時は楽しければ良かったし、深く考えたこともなかったからね」

「いえ、そういう意味ではなく、ヒルドさんは、……何て言うか、ご友人には健やかに幸せでいて欲しい方だと思うのです。だから、悪い遊びをしてると、叱られてしまいますよ?」


驚いたように息を飲む音がして、ノアベルトの言葉が少し途切れた。

ややあって、ふっと笑うような吐息の音がする。


「僕、ヒルドと友達になって良かったなぁ。君に会って、君だけじゃなくてたくさんいいものが見付かったんだ」

「そう言うところも、我々は同志なのですねぇ。お互いに、違う色をした暗闇の怖くて寂しいところから、やっと大切なものを見付けられましたね」

「…………そこに、シルも加えてあげてよ。シルもさ、君が来てからとても幸せそうだよ。悩んだり悲しんだりもしているけど、それってきっと幸せなことなんだよね。僕も、今はそれがわかるんだ」

「ふふ、私の裁量でそこにディノを加えてしまうと、それは私の願望も入ってしまうので自分の口からはとても。でも、ノアがそう言ってくれて、ディノがそう思ってくれていたら、とても幸せですね」

「…………ウィリアムは、もう少し自分勝手な感じかな。君のことを好きだと思うけれど、案外普通に自分の為なら悪さもするから、頼るのも程々にね」

「まぁ、刺々ですね」

「…………僕個人の感情もあるけどさ、注意しておいて欲しいんだ」

「そういう部分は、何となく分かってきた気がします。でも、そういう部分を踏まえても好感が続くくらいには、遠い方なのかもしれません」

「そうだ、君ってそういうところがあった!」

「あらあら、人間はとてもしたたかで薄情なのですよ?」

「アルテアも?」


その問いかけに、思わず息を詰める。


「アルテアさんは、もう少し難しいですね」

「もしかして、最近油断してない?」

「してませんよ。アルテアさんがと言うより、魔物さんの生態として、隙を見せたら雪食い鳥さんの巣に放り込まれるかもしれないとは常に思っています」


(まだそう思ってたのか………)


それは少し意外であった。

死者の国にネアが落ちた時にも思ったことだが、最近少しばかり寛容に接し過ぎていると自分でも呆れていたのだ。


捕らえたいという興味のそれも確かにあるが、同時に自分の領域のものだと安心されるのも不愉快なのだ。

だから、最近ネアが気を緩めていることに苛つく部分もあった。


しかし、本人はまだそんな認識であるらしい。


「……魔物が全部そんなんじゃないけどね」

「でも、特定の資質が変わらないのが魔物さんなのでしょう?であれば、アルテアさんはそういう資質の魔物さんなのです」

「じゃあさ、アルテアのことは警戒してる?」

「そこが難しいのです。………何というか、アルテアさんと一緒にいると意外に楽だというか、アルテアさんのお料理やお家作りには感動しかないというか。有り体に言えば、とても好きな要素もあるので、危険動物でもまぁいいかなという所存なのです」

「………そう言えば、ネアって猛獣が好きなんだっけ?」

「そうなのです!これが、猫さんが好きな方であれば、アルテアさんなんてとんでもないでしょうが、私は猫さんよりも獅子さんや豹さんが好きなのです。となると、猛獣がガォーとやっても、あらあら可愛いやつめという感じでしょうか」

「え、待って。………もしかして、アルテアのこと可愛いと思ってる?!」

「む。アルテアさんの可愛い度はかなり低いですよ」


その言葉に心からほっとした。

可愛いなどと思われていたら、恥辱以外の何物でもない。


「ただ、残忍さや気紛れさもまた、あの方の美しさなのです。それは獅子に牙と爪があり、それが美しいと思うのと変わりません。魔物さんが魔物さんらしくあるその個性の中で、私にとって、アルテアさんは結構好きな種類だというそんな感じでしょうか」


微かな間が落ちた。

シルハーンは、そしてノアベルトはどう思うのだろうかと考えながら、その前に自分自身はどう思うのだろうかと眉を顰める。



「………これから、とても陳腐でつまらないことを聞くよ。もし、僕とアルテアと、どちらかしか泥沼から引っ張り上げられないとしたら、どっちにする?」


(…………よりによって、泥沼か!)


今日の逃げ沼の話を聞いているのかも知れないが、実に嫌な設定に顔を顰めた。



「さて、私はとても嫌な奴なのでどちらも助けないかも知れないですね」



しかし、目を瞠ったのはその思いがけない返答のせいだ。



「………ありゃ、どっちも助けてくれないの?」

「ノアの聞こうとしている質問の本質を読むのなら、私はそのどちらも通り過ぎて、私の大事な魔物が沼に落ちないように守ることに徹します」


空気が揺れ、扉の反対側にいるシルハーンが身じろぎしたのがわかる。

それくらいに、ネアの朗らかな声は刃のようであった。


「私は善人ではありません。やっと見付けた唯一無二のものを守る為になら、その他の大切なものを犠牲にも出来る冷たい人間なのです。それに、……やはり私は一度歪んだものです。心を豊かにして元気になったからといって、他のものをディノの次にと慈しむ力は残っていないのです」



(…………そうか。だからなのか)


その言葉で、やっと理解した。

きっと、シルハーンはそのことを知っているのだろう。

鎖で繋いだ鳥があちこちを飛び回っても、自分が手を離せば死んでしまうことを知っている。


だから、赦すのだ。



「…………何だ。僕、またお節介した?」

「ふふ。ノアがこうしてお喋りしてくれたのは、今日のことで、ディノの心配をしたからですね?」

「そうなんだ。アルテアに懐き過ぎてるってシルも心配してたし、それと、君達が擦れ違うとハラハラするからだね。僕もさ、こう見えて結構えげつないから、君が不安定になると攫いたくなるんだよ」

「あら、攫われたら困りますね」

「でしょ。だから、隙を見せたら駄目だよ。君は多分、シルじゃないと駄目だから」

「ええ、存じています」

「それに、シルにもそう言ってあげればいいのに」

「人間はずる賢いので、それを知られて我が儘魔物になられても困るのです。私の方が我が儘なのですから、我が儘勝負では負けたくありません!それに、ディノがいなければ死んでしまうというような、甘い言葉も言えませんしね」


声に滲んだ苦笑の響きは、少しばかり切実であった。


「言ってあげなよ。歯止めが効かなくなるかもだけど、喜ぶよ?」

「いえ、実際にそうではないから、言えないんです。ディノが立ち去っても、私は生きてはいけるでしょう」

「ありゃ…………」

「でも、もう誰かを愛するのはうんざりでしょうし、世界がきらきらして見えたり、安心して明日を迎えられたりはしないでしょう。ぱたんと扉を閉めて引き篭もり、ほら、やっぱり願い事は叶わないのだと思う僻みっぽい嫌なやつになって…」

「うわ!ネア、その話はもうやめようか!凄い目が暗い!気持ちまで滅入っちゃうよ!」

「………むぅ。確かに今、こんな世界なんて滅べばいいのにというくらいまで、凶悪な気持ちに突入していました」

「わーお。それは怖いからやめようか……」

「自分でも反省しました。しかし、となるとそうなる前に、ていっと一発終了した方が心に優しいので、こちらにある素敵な一発終了魔術を生かして、案外あなたがいなければ死ねるという甘々な言葉を実践出来るかもしれないのでしょうか………?」

「うわ!やめて!想像しただけで泣きたくなるから、やめて!!」

「そうですね。それもそれでむしゃくしゃするので、やはりディノには逃げられないようにします」

「………あ、いい話になった」

「そして、ディノから逃げ出したくなっても結末は同じなので、そちらにも気を付けます」

「…………え、まだそっちの可能性もあるんだ」

「人間は、破滅するとわかっていても自我を優先する、我が儘な生き物なのです」

「そうだよね。ネアって、セーターを着なかった人間なんだもんね」

「ノアとはよくこういう話をしますが、最近はその例えが浸透してくれて、セーターで通じるのが有難いですね……」



(つまりこれは、シルハーンの感情を慮ったノアベルトが、ネアと話そうとしていたのか?)


知り馴染んだ塩の魔物らしからぬ行動に、ヒルドの言葉を思い出した。


もし、誰かがそれを変えたのだとしたら。



(もしそれが、ネアであるならば)



己を変えたものへの執着は、如何程だろう。

そう考えてそんなノアベルトがここにいることに、えもいわれぬ不快感を覚えた。



「あれは気にならないのか?」


音の魔術を遣り繰りしてそう言えば、シルハーンが薄く笑う気配がする。


「不愉快な場合もあるけれど、大抵は気にならないよ。ノアベルトが自分を紐付かせたのは、あの子だけではないからね」

「ああ、…………そういや、家がどうこうとか話してたな」

「そうだね。それなら、私が気に病むようなものでもないだろう」


その言葉には揺らぎはない。

淡々と、もう既に飲み込んでしまったことをなぞるだけ。

それに会話の様子を伺っていれば、ノアベルトがこのように話し合って場を調整するのは初めてではないらしい。


「それと、あいつがお前なしでは成り立たないのを知ってるからか」

「いや、それを確かだと思うには、あの子は複雑なんだ」

「は?確証もなしに、ふらふらさせてるのか?」

「あの子はいつだって、自分で選ぶか、選ばずに捨てるかのどちらかだ。そして、本当の意味ではたった一つしか手元には残さない。だからこそ、私はあの子が欲しいんだよ」


その感慨について理解する必要はない。

それはシルハーンの嗜好であり、彼の決断だからだ。

けれどもそれならば何と拙く、愚かしいことか。


「…………それで、お前を選ばないとしてもか?」

「それはとても不愉快だが、そういう事もあるかもしれないとは思うよ」

「選ばれなかったら手放すつもりだとしたら、とんだ酔狂だぞ?」

「まさか手放さないよ。どれだけ丁寧に手折っても、私を愛さないこともあるだろう。でも、例えそうなるとしても、あの子はずっと私のものだ」

「疎まれても?」

「勿論。………でも、その執着も今はもう私のもののようだけどね」

「さぁな。心は変わるらしいぞ」

「だから、こうして嫌われないように閉じ込め過ぎないようにしているんだ。困ったことに、あの子は手当たり次第だから」

「春の系譜は然程でもなかったな。個性が強いから、あいつを好まない属性もはっきりしていそうだ」

「君が随分と気に入っているのとは、正反対だね」



ひたと視線が合って、小さく溜め息を吐いた。



「さてな。だが、俺がどう思おうと、あいつは今の所俺の主人でもある。使い魔の契約でも、対価が必要だとあいつは知ってるのか?」

「どうだろう。あの子もあれで、とても謎めいているからね。だから面白いのだけれど、君との契約は破棄するつもりだと思うよ?」

「それこそどうなんだ?あいつは強欲だからな」




その夜は、それ以上の会話も収穫もなかった。

しかし、翌朝の朝食の席で、ネアがさらりととんでもないことを言い出した。



「アルテアさん、そろそろ使い魔の契約はやめませんか?」

「…………対価の支払いが嫌になったか?」

「と言うよりも、不相応な品物を持つのはやはり危険ですから。重たい荷物を持って坂道を歩くのは嫌ですし、アルテアさんもごろんと地面に落とされるのは嫌でしょう?」

「お前が結んだ誓約だ。最後まで責任を持てよ?」


微笑みを深めてそう言ってやると、ネアは目を瞠って鳩羽色の瞳を瞬いた。


「どうしましょう。檻を開けて野生に帰そうとした動物が、こっちを見て尻尾を振っている感覚です!さては懐きましたね?」

「……………やめろ」

「しかし、ご主人様はそろそろ餌代が心配なので、森に帰っていいのですよ?」

「お前な、あれだけ食べたいものを注文しておいて、もういいのか?それに、家周りの買い物に付き合わせたいんだろ?」

「…………むぅ。しかし、時として人間は欲を捨てざるを得ないこともあり」

「じゃあ、タルトもいらないんだな?」

「………タルトを作ってくれるなら、使い魔さんでいても構いません」

「じゃあ、それでいいだろ」



そう言ってネアを頷かせてから、何かがおかしいぞと眉を顰めた。

何か返答を間違えた気がする。


テーブルの向かいでは、ネアがエーダリアに報告をしていた。



「エーダリア様、使い魔さんがすっかり懐いてしまいましたので、対価と引き返えに使い魔さんでいて貰っても構わないことにしました」

「見事なくらいに食べ物に籠絡されたな」

「…………ご主人様が浮気する」

「ディノ、ごめんなさい。使い魔さんの差し出してくれた対価が魅力的過ぎたのです」

「アルテアなんて…………」

「む!私のタルトと葡萄ゼリーを脅かしてはなりません!!」



ふと視線を感じて隣を見ると、銀狐がやけにじっとりとした視線をこちらに向けている。

しばし睨み合ってしまってから、くすりと笑ったネアの微笑みの気配に視線を戻した。



「銀狐さん、アルテアさんはお料理上手の素敵な使い魔さんなので、虐めてはいけませんよ?」

「…………おい、言い方がおかしいぞ」

「あら、狐さんは家族のようなものです。身内に対して、使い魔さんを大事にするように周知するのは間違いではないのでは?」

「おや、ネア様宜しいのですか?その使い魔の契約がある限り、竜は飼えませんよ?」

「は!…………竜さん…………」



そこで嫌な口の挟み方をしたヒルドは、こちらを見てゆったりと微笑んだ。

ネアは少しおろおろとした後、きりっと眼差しを険しくしてこちらを見た。


「アルテアさん、やっぱり………」

「俺とペット枠と比較するのをやめろ」

「む…………?」

「おいこら、何で首を傾げた?!」



その日は半日程、使い魔というものの説明に時間を費やす羽目になった。

昼にせがまれて葡萄ゼリーを作ってやれば、竜よりもこちらの方がいいと考えを固めたようだ。


ただし、葡萄ゼリーの効果は一週間で切れるらしい。




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