140. 復活祭には逃げ沼が出没します(本編)
復活祭も残すところあと僅かになった頃、リーエンベルクでは凄惨な事件が起きていた。
復活祭で開く死者の門は、日の入りと同時に閉まってしまう短い解放の門だ。
時間が短いことで不満が出そうなものだがそこは上手く運用されていて、いつもなら陽の光に目を射られる死者達が、短い時間を太陽の下で過ごせる恩赦の日ともされる。
短い時間ではあるが、明るい地上の太陽の元で過ごせることが、死者達のモチベーションになるのである。
エーダリア達からも無事に一報が入り、死者の国から戻ったジュリアン王子は、死者の王から逃げ延びた奇跡の王子として何とも寒々しい演説を繰り広げ賛否両論であったとか、リーベルは帰るなり早々と復活祭の儀式に追われてとても苛々していたとか、何だか大変そうではあるが上手く着地はしたようだぞという様子を知れて、ネアも一安心していた。
しかしそうなってしまうと、激辛スープの試練からのアルテアの差し入れのおまんじゅうですっかり気が抜けてしまい、そんな心の隙間を狙ったかのように事件が起きたのである。
久し振りに会うアルテアとお喋りをしながら外客用の客間で寛いでいると、ムギャーというすさまじい悲鳴が廊下の方から聞こえてきて、ネアは椅子の上で飛び上がった。
「な、なにごとですか?!」
どう考えても銀狐の悲鳴なので、慌てて廊下に飛び出そうとしたネアは、さっとアルテアに捕獲されてしまい、ディノの膝の上に放り出される。
すかさず拘束してきたディノといい、新種の連携技が生まれてしまったようだ。
「ディノ!狐さんが一大事です!」
「一緒に見に行ってあげるから、一人で飛び出してはいけないよ」
「お前は迂闊過ぎだ。死者の門が閉じるまで、まだ半刻はあるから大人しくしてろ」
「ということは、まさか狐さんは………」
廊下に出た三人が見たのは、とても奇妙なものだった。
扉を開けて悲鳴が聞こえた方に歩いてゆけば、廊下の真ん中に泥まみれでびしょびしょになった銀狐が、けばけばになって涙目で固まっていた。
駆け付けたネア達に気付くと、こてんとお尻をついて座り込んでしまい、涙目でぶるぶると震えている。
「どうしたのですか?!」
びっくりして抱き上げようとしたネアに、ディノが慌てて大きなバスタオルのようなものを取り出して、銀狐にふわりとかけてくれた。
どうしてこんなところで泥まみれになっているのかがわからないので、素手で触らないようにと注意される。
「…………狐さん」
幸いにもバスタオルはぶ厚く、それで包んで抱き上げてやればすっかり惨めな姿になってしまった銀狐がふすんと鼻を鳴らす。
「…………おい、まさか逃げ沼か?」
「かもしれないね。注意して周囲を見ておいた方がいいだろう」
「逃げ沼というのは何ですか?」
魔物達が酷く嫌そうに言葉を交わしているので、ネアは怖々と尋ねてみた。
そうすると、意外な返答を聞くこととなる。
「死者の門が開く日になると現れる、幻の沼なんだ。人間達が死者の国を恐れる心が生み出した幻のようなもので、特に害はないが、この通りうっかり踏み入れてしまうと泥まみれになる」
「泥まみれになるのは恐ろしく有害だと思いますが、一番気になるのは、現状、リーエンベルクの本棟には私しか人間がいないところです。もしや私が生み出してしまったのでしょうか?」
「あちこち移動するし、派生する場所は選ばないものだから、君がと言う訳ではないのだろう。強いて言えば、君は死者の国から戻ったばかりだから、沼が引き寄せられてしまったのかもしれないけれど、それも不確かだね」
「それを聞いて、少しだけ安心しました。でも、この中に現れるなんて、結界に問題があって入ってきてしまったのですか?」
「結界で弾けない階層のものなのかもしれないね。風や雨を受け容れるように、リーエンベルクは全てを排除する結界を敷いてはいないから」
「とても危ないやつなので、是非に立ち入り禁止にしていただきたい!それと、………不思議ですね。絨毯は汚れていません」
「あくまでも、沼に踏み入れた者だけを汚すんだ。床や装飾品は汚さないが、足元に突然出現するから気を付けろよ」
「もはや、嫌がらせに近い存在ですね」
出現方法と効果を知れば、魔物達が嫌そうにしていた理由も、一応は中身が塩の魔物である筈の銀狐が被害者になった理由もわかる気がする。
何と迷惑な代物なのだろうと思いながら、ネアは魔物達と連れだって銀狐を浴室に運んだ。
さすがにノアの自室はまずいので、お散歩帰りの銀狐の足を洗う為に使っている浴室に連れ込むと、大急ぎでディノに浴槽にお湯を溜めて貰う。
(………まずい、泥が固まってきているような気がする)
びっしょり泥まみれの銀狐は、その泥が固まってきてしまっていることで、体が動かなくなってきてしまっているようだ。
哀れっぽく鼻を鳴らしているので、ネアは大急ぎで暖かなシャワーの下に入れてやる。
袖は捲って挑んでもこちらも汚れてしまうが、今は救助活動が第一だ。
お湯はすぐさま真っ黒になり、どろりとした沼の泥水が嫌な臭いを放つ。
あまりにも可哀想なので、まずは顔を重点的に洗ってやり、銀狐はようやくしっかりと口を開けられるようになった。
ぺっと何かを吐き出しているのは、叫んだときに泥が口に入ってしまったかららしい。
(………おのれ、役立たずどもめ!)
そんな洗浄作業でネアが荒ぶっているのは、魔物達が嫌な臭いのする泥の洗浄を露骨に敬遠しているからだ。
先程までは、あんなにネアに過保護だったくせに、銀狐を洗っているネアからは一定の距離を置いて、怖々と浴室の扉のところからこちらを覗いている。
スカート姿でしゃがみ込んで銀狐を洗っているネアとしては、どんどん心が棘っぽくなるのも致し方あるまい。
綺麗な琺瑯のタライに何度もシャワーのお湯を入れ、浸からせながら洗い流し、やっと毛皮が見えてきたところで犬用シャンプーを投入する。
スカートがびしょ濡れで煩わしかったので、ネアは豪快に膝上まで捲り上げて狐を洗い続けた。
何度洗い目かになると、ようやく汚いお湯が流れなくなり、安心した銀狐は自分の鼻の頭を安心してぺろりと舐めることが出来るようになる。
中腰に疲れたネアは浴槽のふちに腰掛けて作業を続け、やっと綺麗な毛皮になった銀狐を膝の上に乗せた。
ぐったりしていた銀狐は、お礼のつもりかネアの足を舐める。
「続きは私がするよ」
その途端、なぜか焦ったようにディノが飛び込んできて作業を引き取ってくれた。
「…………後は仕上げ洗いをして、湯船につからせるだけですね」
「それはやっておくから、君は…………着替えておいで」
仕上げだけとは狡いではないかと思ったネアが見上げると、なぜか魔物は目元を染めて恥じらってしまう。
(確かにぼろぼろだけど、………)
救助活動をしたのだから、ひどい格好とは言えこれは名誉の勲章だ。
「ワンピースが汚れているといけないので、上だけ脱いでから移動しますね」
「え……………」
「そんな目をしても、この下にもアンダードレスを着ていますよ。水着よりは遥かに着込んでいるので、安心して下さいね」
洗浄作業で疲れたネアは面倒臭くなり、男前にがばっと上のワンピースを脱ぎ捨てた。
疲労困ぱいした銀狐はすっかり伸びてしまっているが、正面のディノと、その奥にいるアルテアがなぜか驚愕の表情になる。
(淑女云々が面倒臭い場面なのだろうか)
前の世界では、この下のアンダードレスでも充分に外出に足りる格好なのだ。
ましてやびしょ濡れでとても疲れているのだから、ひとまずは放っておいて欲しい。
しかし何故か、ネアは無言で大判のバスタオルを取り出したディノに、簀巻きにされてしまった。
「むぐぅ。過保護過ぎる気もしますが、ほかほかして安らぎます」
「すぐに行くから、濡れたものを着替えておいで。今は逃げ沼を呼び寄せるといけないから、水回りの魔術は使えないんだ。手間をかけさせてごめんね」
「あの沼めを呼ぶのはとても嫌です!そういうことなら、ぱっとお部屋に戻って、すぐに着替えてきますね」
「………と言うか、お前も風呂に入れ」
「アルテアさん、それは、暗に臭いと言われているのでしょうか」
「それはないが、また体調を崩すぞ」
「…………確かに、今は暑いくらいでも、冷えると怖いので、そうしますね」
「うん。こちらはすぐにどうにかするよ。アルテア、部屋までこの子を見ていてくれるかい?」
「当たり前だ。目を離すと、絶対にこいつも沼に落ちるぞ」
「何という言い掛かりでしょう!」
腹を立てたネアは言い返したが、アルテアにはふんと鼻先で笑われてしまう。
しかし、そんなネアの悔しさを晴らしたのは、問題となった逃げ沼であった。
リーエンベルクの防衛上、部外者のアルテアには転移の範囲に限界があった。
本来ならディノがこちらを引き受けるべきだが、アルテアは銀狐の正体を知らないので、必然的にこの役割分担となる。
なのでまずはその部屋を出て、ネアの部屋のある棟の近くまで転移したのだが、そこで悲劇は起きた。
「ほら、ここからは歩きだ。転ばないように運んでやる」
「簀巻きでも、脚は自由なのでちょこちょこと歩いてゆけますよ?私を持ち上げると、アルテアさんも濡れてしまいます」
「おい、スカートを捲るな!」
「しかし、簀巻きなのでこうしないと歩き難くて……」
「だから言ったんだ、大人しく…」
アルテアの言葉はここで途切れた。
あろうことか、その真下に逃げ沼が出現したのだ。
ぼしゃんと垂直落下したアルテアに、ネアは蒼白になった。
「ほわ!アルテアさん?!」
慌てたネアはバスタオルを脱ぎ捨てて、沼に落ちたアルテアを救出にゆく。
しかし、泥だらけで体格も勝る男性をネアが救出出来るはずもなく、その手を引っ張ろうとして、ネアはつるりと沼に落ちた。
「ふぎゃ!」
「おい、暴れるな!!二次災害もいいところだぞ?!」
結果として、泥だらけになった悲惨な姿のアルテアが、それ以上に悲惨なことになり泥人形と化したネアを抱き上げたところで、沼は逃げていったようだ。
真っ黒になって廊下に取り残された二人は、ちょっと泣きたい気持ちになる。
アルテアはどうやら怒ってもいるようだが、少なくともネアは泣きたい気持ちだった。
「くそ、お前の部屋より、近くの客間を使うぞ」
「…………むぐふ」
もはや泥人形はお喋りもままならないので、ささやかな動きで意思を伝えるしかない。
横抱きにされてどこかに運ばれると、ぽいっとシャワーの下に立たされた。
「ほぐぅ?!」
そのまま、かなりの勢いでお湯を出され、泥混じりのお湯が目に沁みたネアは悶絶する。
そこで完全に心が折れたので、ネアは泥人形らしく微動だにせずに、ただお湯に打たれるに任せることにした。
「……おい、生きてるんだろうな」
「…………むぎゅふ」
途中で心配したアルテアが声をかけてくれたが、ネアは直立でお湯に打たれるばかりだ。
さすがにまずいと思ったのか、一緒にシャワーの下に入っていたアルテアが、ごしごしと顔の泥を落としてくれた。
しかし、銀狐よりもアルテアよりも泥を含みやすい、髪も長くスカートも重たいネアは未だ泥人形なのである。
「…………脱がすぞ」
何かを言われたようだが、シャワーで頭頂部からお湯を浴びているのと、まだ耳が泥で詰まっているネアにはぼんやりとしか聞こえない。
泥人形に徹して心を無に、お湯が出てくるシャワーの叡智に縋っていると、突然体が少しだけ軽くなった。
ベタベタしている泥の層が減ったようで、ネアはシャワーの神に感謝する。
「…………むぐ」
その直後、今度は大きな手で頭をわしわしと洗われて、髪の毛の泥を刮げ落として貰う。
泥を纏うあまりに、ずしりと重たくて上げられなかった頭がやっと正常な位置に戻せて、ネアは泣きたい程に安堵した。
まだ泥だらけの髪の毛を掻き上げてもらい、視界も何とかクリアになりつつあるようだ。しかし、ぺっと泥を吐いて鼻をかみたいので、女性としての尊厳は地に落ちたままである。
べしゃっと床に濡れたものが落ちる音は、髪の毛から泥の塊が落とされる音だろう。
(…………何か踏んだ)
足元にタイルではない感触を覚えて下を見ると、脱ぎ捨てられたアルテアのジャケットが落ちている。
綺麗なスーツだったのにと思えば、ネアは悲しいような惨めな気持ちになった。
「ほら、顔をこっちに向けろ」
「…………アルテアさんの素敵なジャケットが………」
「………お前は、妙なことで落ち込むんだな」
「綺麗なものを駄目にされるのは、とても悲しいのです」
「ほら、目を閉じてろよ」
「むぐ!」
またしてもばしゃばしゃと顔にお湯をかけられ、ネアはぎゅっと目を閉じる。
そこでふと、喋れているし、耳も聞こえるようだぞと泥人形からの解放の予感に明るい気持ちになった。
しかし、あたたかなお湯に溶け出した泥はまだ足元にずしりと溜まってて、とても嫌な臭いなのだ。
体の表面もぬるつくし、これから何度も石鹸で洗わないと綺麗にならないことは、先程の銀狐の洗浄作業で嫌という程にわかっている。
(そう言えば、室内履きはどこへ行ったのだろう)
いつの間にか裸足でいるし、もしどこかに残っていても、あの柔らかな山羊革の室内履きがとうてい無事だとは思えない。
「…………指輪!」
そこでネアは、ぎくりとして慌てて指輪の有無を確認した。
胸が潰れるような思いで見た手の指には、綺麗なままの魔物の指輪がきらきらと輝いていた。
その流れで首元を確認すれば、首飾りも無事なようだ。
「魔術を重く含むと、ああいうものを弾きやすい。お前や狐がここまで汚れたのは、魔術階位の低さだろうな」
アルテアがそう教えてくれたので静かに見上げれば、確かにネアの洗浄をしていた割には、アルテアは随分と小綺麗になっている。
濡れた前髪をオールバックに撫で付けると、見知らぬ人のように見えた。
「………指輪や、首飾りを失くしたら、大泣きして大暴れしました」
「………もう、少し泣いてるだろ」
「むぐ、激しく汚いというのはとても惨めで泣きたくなるのだと、初めて体験しました」
「ったく、後ろを向け。髪を洗ってやる」
「…………ぎゅう」
「それと、全部脱がされたくなければ、体は自分で洗えよ」
「…………全部?……おふ………」
そこでネアは、どうやら泥の温床となっていたアンダードレスは脱がされたようだと知ったが、水着程度には着ているので泥を落とす方が優先だとすぐに頷く。
石鹸を取ってわしわしと泡だて始めたネアに、背後からなぜか困惑したような声が聞こえた。
「…………お前、動じなさ過ぎだろ」
「む。変に意識するからこそ恥ずかしいのです!今回は災害現場でしたし、最低限は着ています」
「まさか、どこでもこの調子の無防備さなんじゃないだろうな」
「爛れた私生活を送っていらっしゃるに違いないアルテアさんはこの程度のものは見慣れていそうなので、プールの従業員さんの横を、水着で通るようなものです。それに、髪の毛を洗ってくれる素敵な魔物さんなのです。……むぐ?!」
その途端、ネアはぐいっと背後から抱き寄せられた。
アルテアも上の服を脱いでいるので、ぴったりと寄り添った肌の温度にどきりとしたが、次の瞬間にもっと嫌なことに気付いてしまう。
「お前、危機感のなさ過ぎも大概にしろよ」
「は、離して下さい!!」
「今更焦っても…」
「まだ髪の毛が臭い筈です!泥沼臭い頭を嗅がれたら、一生の不覚!!」
「…………お前はいつも、何なんだろうな」
なぜかアルテアはとても脱力したようで、すぐにネアを解放してくれた。
やはり近付いたら頭が臭かったのだろうかと、ネアは悲しみのあまり涙が出そうになる。
自損事故のくせに、乙女心をなんだと思っているのだろう。
傷心のネアが半泣きで体を洗っていると、ばたんと浴室の扉が激しく開いた。
「ネア!!」
焦ったような声を上げて飛び込んできたディノは、ネア達の有様を見てふっと責めるような眼差しになる。
「…………ディノ、泥沼に落ちたアルテアさんを助けようとして、力及ばず泥沼に落ちました」
「どうして君は、私を呼ばないんだろう?」
困ったように微笑んだディノの目は、刃物のように鮮やかな水紺色だ。
しかしこの魔物はいつもそうなのだが、怒りどころが悪く、ネアの方が気持ちが荒んでいる時にばかり怒るのである。
「…………ディノは、泥人形になったことがありますか?」
地を這うような低い声に、扉を開けた姿勢で立ち尽くしていた美しい魔物が目を瞠る。
「ネア?」
「身体中を臭くて油っぽい泥に固められて、動くことも喋ることもままならなくなったことは?」
「それは、………さすがにないかな」
「清潔に戻る為の道のりがとても険しいと知った時、人間は体裁や羞恥心などどうにでもなるのだと、私は今日初めて知りました。そして、汚れていて惨めな時に綺麗な人を見ると、とても荒んだ気持ちになります。あと一歩でも近付いたら、そして万が一今の私の匂いを嗅いだりしたら、私はそこのボディソープの瓶を投げつけて家出します」
「ご主人様……………」
人は、自分よりも取り乱した相手がいると冷静になるという。
魔物もそうであったらしく、或いは深刻な破局の危機を察したのか、ディノは途端にしゅんとした。
「………ただでさえ、アルテアさんから、勝手に頭の匂いを嗅いで勝手にどん引きするという嫌がらせを受けたばかりなのです!」
「おい、俺はそれで呆れた訳じゃないぞ?!」
「そんなアルテアさんも今は臭い筈だし、このべたべたした髪の毛を洗ってくれるのだからと思うことで、何とか冷静さを保っていたのに、一人だけ綺麗なままの人に責められてむしゃくしゃします」
「ネア、髪の毛なら私が洗ってあげるよ?」
「今の綺麗なディノが私の髪の毛に触れたら、きっと内心は臭くてべたべたすると気持ち悪く感じるに違いないのです。家出して、どこか遠い北方の海辺の国で一人で暮らしたくなるのでやめて下さい」
「ご主人様…………」
おろおろした魔物に視線で助けでも求められたのか、アルテアが溜め息を吐く気配がした。
「お前は外で待ってろ。磨き上げてから渡してやるから、その後の面倒を見ればいいだろうが」
「………ネア、やはり自分で洗えないようであれば、私が…」
しかし、薄着すぎるネアの姿を見て気持ちが揺らいだのか、そこでまたディノがそんなことを言い出してしまい、キシャーと唸り声を上げた人間に驚き、飛び上がって逃げていった。
「………お前、今のはレインカルの威嚇の声そのままだぞ」
「この浴室の扉を開けた瞬間に、ディノはとても嫌そうな顔をしていました。きっと、臭いと思われたに違いないのです。もう、あのまま泥人形として朽ち果てたかった……」
「あのなぁ………」
人間になど戻らなければ良かったと項垂れてしまったネアを、アルテアは丁寧に洗髪してくれた。
あまりにも匂いが落ちなくて、足裏用の硬いブラシを無言で掴んだネアに、慌てて説得にかかったりと波乱続きであったので、一番疲れたのはアルテアなのかもしれなかった。
「ほら、後は自分で仕上げろ。それと、このブラシは没収だからな。くれぐれも皮膚ごと落とすような真似はするなよ?」
一時間ほどして、ようやく洗浄係から解放されたアルテアは、膝の上に乗せていたネアをよいしょと下ろす。
意外にも丁寧な洗い方に焦れていたネアは、さっそく手を伸ばそうとした足裏ブラシを取り上げられて、絶望の声を上げた。
「ひ、皮膚の表面をもっとごしごししたいのです!」
「もう充分だ」
「なんたる仕打ち!まだ少し臭いではないですか!」
「だから、全部脱がせてもいいなら洗ってやると言っただろうが」
「………むぐぅ。確かに残った着衣が原因かもしれないので、後は一人で乗り越えます。念の為にブラシを…」
「俺は隣の客間を使う。終わったらシルハーンを呼べよ」
「あっ!ブラシ!!」
アルテアは足裏ブラシを持ったまま転移で姿を消してしまったので、ネアは一人取り残された浴室で地団駄を踏んだ。
悔しいので、あらためてきちんと下着まで脱いでから体を洗った際に浴室にあった自然派素材の麻のタオルを固く絞ってごしごしとしたが、爪の間などもあるのでブラシには使い心地が遠く及ばない。
更に少し洗ってからよろよろと浴室から出てきたネアは、分厚いバスタオルに包まってそこにつけられたラベンダーの香りにじわりと涙を滲ませた。
「ネア…………」
怯えたまま、そっと扉の陰から姿を見せた魔物にちらりと傷付いた視線を向ける。
「足裏ブラシで体を擦りたかったのに、アルテアさんに盗まれました」
「あんなもので体を擦ったら、傷だらけになってしまうよ?」
「ディノ、私が臭くないとどこかで証明されるまで、私の側での鼻呼吸は禁止です」
「………ネア、君を臭いだなんて思わないし、そうだとしても気にしないのに、どうしてそんなに気にしてしまうんだろう?」
「生きているだけでいい香りのする魔物さんには、この苦しみはわからないのです」
「ほら、こっちにおいで。髪の毛を乾かしてあげよう」
「じ、自分で乾かします!離れ給え!!」
自分の嗅覚はすっかり麻痺しているので、まだ髪の毛の匂いに自信がなかったネアは大暴れしたが、疲労困ぱいしていたのですぐに捕まってしまった。
膝の上に抱え上げられて、髪の毛を拭かれながら、すっかり心がへしゃげてしまったネアに申し訳なさそうな魔物の呟きが落ちる。
「ごめんね、ネア。あの時、君をきちんと部屋まで連れていっておけば、こんなことにはならなかったのに」
「…………ディノは、ノアの面倒を見ていたのですから仕方ありません」
あの時、恐らくディノはノアを元の姿に戻して自分でも体を洗わせたのだと思う。
狐姿のままでも良かったが、一度人型に戻れば自分で自分の面倒が見られる筈なので、そうするのが手っ取り早く安全だからだ。
アルテアがリーエンベルクにいるので、その作業にはディノの魔術的な調整の手助けが必要だろうし、ネアとしてもそのつもりで二人を残した。
「………それに、私も焦ってしまって、自分の出来ることを見極められなかったのです。溺れるものではないので、アルテアさんは見捨てておけば良かったのでしょう」
しかしそれを認めてしまうと、自損事故という感じが強まってしまい、ますます惨めな気持ちになった。
「お気に入りの室内履きも駄目にしましたし、着ていたものも燃やすしかないとアルテアさんに言われました………」
「それは悲しかったね。君が気に入っていた室内履きは、ゼノーシュが買ってきた店のものだろう?同じものをまた買ってあげるよ」
「肌馴染みのいい革だったので、何年も大事に履くつもりだったのです。あの沼め、絶対に許しません」
「安心していい。家事妖精が見付けて燃やしていたから、もう現れない筈だ」
「…………燃やせるんですか?」
「とても微弱ながら、災厄の一種なんだ。火で浄化するのが一番なのだけど、自然現象に近いくらいに脆弱なものだから、私達では逆に捕捉出来なかったんだよ」
「家事妖精さんなら、見付けられるのですね?」
「小さな家事妖精は、埃の気配や小さな汚れを見付けるのが得意なのだそうだ。さて、綺麗に乾いたし、部屋に帰ろうか」
「アルテアさんは大丈夫でしょうか?素敵な洗浄職人を一人には出来ないので、一緒に連れ帰ります」
「…………浮気」
「共に死地を乗り越えた仲間になりました。今はまだ失いたくないです」
その後、ディノは嫉妬の鬼になり、逃げ沼に落ちたメンバーは皆一様に目が死んでいたので、帰ってきたエーダリア達を困惑させてしまった。
逃げ沼に落ちたことを告白すれば、エーダリアから、季節の風物詩のようなものでリーエンベルクでもこの日にはよく目撃されていたが、落ちたという話は初めて聞いたと言われ、被害者達はなんて無神経な言い方なのだろうと荒んだ面持ちになって身を寄せ合う。
「………でも、よく考えたら、私はアルテアさんを助けようとして落ちたのでした」
「お前、全身洗ってやったのは誰だと思ってるんだ………」
その夜、アルテアはとても疲れていたらしくリーエンベルクに泊まっていったようだ。
エーダリアは、初めて身近で沼落ちした者が現れたということで、仏頂面のネアから、魔術師らしいほくほくとした笑顔で、沼の感想を聞き出していった。