139. 復活祭には辛いスープをいただきます(本編)
その日、本来であればネアとしても待ちに待った筈の、復活祭の当日となった。
地下にいたネアからすれば、死者の門が開く死者の日の一つという認識になってしまったが、実際には鹿角の聖女が亡くなった後に、その信徒達が教会組織を再編成した信仰の復活の日にあたる。
よって、この日の死者の門は、ヴェルクレアの中ではガーウィンと王都の一画でしか開かないのだそうだ。
勿論、ただの死者の日というものもあり、そちらではヴェルクレア各地で死者の門が開くので国中が厳戒態勢となる。
這い出してきた死者達はともかく、悪ノリで死者の門をくぐろうとする若者や、気に入らない伴侶を死者の門の中に投げ落とす夫婦喧嘩など、懸案事項が各所勃発するのだ。
「とは言え、今回も資格のある死者さんはみんな出て来られるのですよね?」
「ああ、死者達は切符で運ばれるからな。ただし、復活祭となると、鹿角の聖女の信仰のない土地では、帰れない死者も多いそうだ」
「という事は、お国によって、死者の方々の出て来られる日が違うのですね」
「そうなるな」
そんなエーダリアは、先日ネアが狩ってきた地精の手袋の仕上がりが待ち遠し過ぎて、何と大枚をはたいて仕立て妖精に頼んでしまい、一枚分だけ既に手袋を仕上げていた。
本来であればきちんと魔術工程を踏んで作られるものだが、階位の高い仕立て妖精の手にかかれば、二日程で仕上がってしまうのだ。
(ヒルドさんの伝手だというから、シシィさんかしら……?)
綺麗に鞣された革は薄っすらと緑がかった灰色につやつやとしていて、とても使い勝手が良いのだという。
ヒルドが糸を紡いで提供してやったそうで、僅かながらネアのブーツのような効能もあるそうだ。
「ヒルドさんは、素敵な糸も紡げるのですね」
「死の舞踏ではないのですが、似たようなものですから」
「死の舞踏だと、靴紐の太さになってしまうのでしょうか?」
「いえ、死の舞踏が紡げるのはあくまでも羽の庇護のある相手にのみなのですよ。女性のシーが編むヴェールは、もう少し汎用性が高いのですがね」
「ますます、あの靴紐を大事にしなければと思いました!」
ネアはそう言ったが、その上からウィリアムの守護もかけられてしまった靴紐は、ほとんど無敵素材と化していた。
以前に見立ててくれたアイザック曰く、あの靴紐を切れる者はそうそういないだろうということだ。
「でもこれで、面倒な方が地上に出てきてしまいますね」
ヒルドがそう呟くのはジュリアン王子のことだろう。
今回、ジュリアン王子の不在は、お付きの妖精が忘れずにいたこともあり、完全な失踪とはならなかった。
事情を説明して、ある程度はエーダリアを始め王都の方でも不在を隠す手立てを打ってあるが、それでも混乱をきたすのは間違いない。
何しろ、戻ってきた当人が一番騒ぎそうなのだ。
「でも、リーベルさんも戻られるので、ゼベルさんやダリルさんは一安心でしょう」
「ダリルは、すぐにでも制裁を加えると話していましたけれどね」
「………せめて、二日くらい休ませて差し上げては…………」
ネアとしてはそこまでよく知らないリーベルはともかく、実兄がダリルに怖いお仕置きをされてしまったら、ゼベルが悲しむのではなかろうかと考えたのだが、そこはまた複雑な事情があるようだ。
「ゼベルはああ見えて、周囲のことをよく見ている男でな。兄の行いを昔から案じていたらしく、道を踏み外さないようにダリルに徹底的に管理されているのが望ましいと考えているそうだ。リーエンベルクに派遣されてすぐ、兄をどうダリルの傘下に置くか相談していたくらいだ」
「…………ゼベルさんは、よく考えたら第二席の騎士さんでしたものね」
「趣味は偏っているが、よく出来た男だからな」
「確かに、リーベルの嗜好を的確に見抜いてダリルに託したあたりは、さすがに兄弟ですね」
所謂名門の出であるゼベルは、気弱に見えてもエリート育ちには違いなく、頭の回る策士の一面もあるそうだ。
「ただ、如何せんあの内向的な性格ですから、交渉ごとには向かないので、あくまでも立案の役割でしょうが」
実際に矢面に立ち、交渉や工作にあたる人材が不足していると嘆くヒルドだったが、エーダリアは若干引き気味にダリルで充分だと呟いていた。
(世間的には天才だと言われているリーベルさんの方が、人間臭い感じに見えてきたような……)
天才とされる兄を手のひらで転がす弟も悪くないが、やはり一番怖いのはダリルなのだろう。
貰っている幾つかの呪いの品といい、ネアはあの書架妖精がウィームの守護神に見えてきた。
(そして、そんなダリルさんを何だかんだできちんと留め置いておける、エーダリア様の魅力なんだろうな)
そう思って微笑んで頷いたネアの視線の先で、エーダリアは出来たばかりの手袋をまたはめてしまい、ヒルドに叱られている。
ネアとしても、向かうのは魔術的な作業をするような場面ではないのだから、つけていたらおかしいと思う。
「これから我々はガーウィンでの復活祭の儀式に出席して参りますので、ネア様はリーエンベルクをお願いしますね」
「はい!お任せ下さい。アルテアさんも来るようなので、悪さをしないように見張っています」
「…………ガーウィンでの儀式を欠席するくらいだから、心配なのだろうな」
「欠席?」
首を傾げたネアに、エーダリアはアルテアがガーウィンでの儀式に統括の魔物として招待されていたのだが、今回は用事があると辞退した経緯を教えてくれた。
「お前は、死者の国に落ちたばかりだろう。心配しているのだと思うぞ」
「………アルテアさんが」
「ネイが話していた。あれでも、らしくなく責任を感じているのではないかとな」
「むぅ。もしやだから、地上に戻ってきてからは会えないのでしょうか」
(という事は、頼んだおまんじゅうは、忘れられてしまった訳ではないのだろうか……)
死者の国からアルテアに頼んだおまんじゅうは、実はまだ配達されていなかった。
地上に戻った後、一瞬くらいなら姿を見かけたこともあったのだが、会うという形で会えてはいなかったので、おまんじゅうはもう食べられてしまったのだろうかと、催促もせずにいたのだ。
(しかし、状態保持の魔術があったとしても、賞味期限的に安全なのだろうか………)
持ちっ放しならそれも怖いが、まずは久し振りに会えてから、おまんじゅうの真相を確かめようではないか。
「よく考えたら、半月程度姿を現さなくて珍しいというのもおかしな話だがな………」
「その言葉に頷きかけてしまいましたが、現状はまだ私の使い魔さんでした」
選択の魔物の出没頻度がおかしいという話から、実はまだ使い魔であったという事実に行き当たり、ネア達は顔を見合わせた。
事件続きだったので失念していたが、アルテアが使い魔なのはあくまでも暫定的な措置だった筈なのだ。
「ネア…………」
「そ、それも話し合ってみますね」
「くれぐれも拗れないようにするのだぞ」
「嫌な予言を与えられました………」
儀式に出るエーダリア達を見送り、ネアは部屋の前で銀狐と遊んでいたディノの元に戻る。
直線の廊下はうってつけの遊び場で、ボールを遠くまで投げて貰える銀狐は大はしゃぎだ。
廊下をしゃかしゃかと駆けて行く銀狐の後ろ姿は、ボールに夢中なあまり不恰好で可愛いことになっている。
咥えて持って帰ってきたボールをきらきらの目で渡そうと跳ねていたが、ディノにもうおしまいだと叱られて固まってしまう。
「狐さん、今日は復活祭ですので、リーエンベルクの結界に綻びがないかどうか、きちんと見張っているようにエーダリア様にお願いされたのを覚えてますか?」
尻尾をけばけばにして去って行く後ろ姿を見ながら、ネアは少しだけ不安になった。
「………ボール遊びに夢中で事故がおこらないように、今日は我々も少し注意していましょう」
「投げる相手がいなくてもかい?」
「あら、狐さんは、ボールを噛むだけのひとり遊びも出来るんですよ」
ウィームの大聖堂での儀式には、ダリルに、グラストとゼノーシュが出席予定だ。
いつもならエーダリア達が全てを回るのだが、今年はジュリアン王子の帰還でガーウィンと王都が荒れそうなので、大事を取ってその二箇所に訪問を絞っている。
ダリルの公式行事出席時には、正装の絶世の美女風ドレス姿の妖精見たさに、門下生の立ち見が出るのだとか。
そういう意味では、ダリルの周囲はいつも鉄壁の守りなのだ。
「使い魔さんは、そろそろでしょうか」
「アルテアなら、もう来ているよ」
「あら…………」
(いつもみたいに、すぐに顔を出してはくれないのかしら)
そう思ってしまったが、よく考えれば元々は自由気儘な魔物だったのだ。
こちらに来ても好き勝手にうろうろしているのだろう。
「むぅ…………」
「ネア?」
「こちらで好きに過ごせばいいやと思ってしまいましたが、そもそも、アルテアさんは外部者なのでした。慣れとは恐ろしいものですね」
「安心していいよ。誓約がある以上、リーエンベルクを損なうことは出来ないからね」
「アルテアさんのことなので、その隙を縫うような悪さをしてしまいませんか?」
「統括の魔物としての枷の一つなんだ。ここは、アルテアの治める土地の領主の拠点の一つだからね」
「と言うことは、ガーウィンとアルビクロムの領主さんのところもなのでしょうか?」
「そうなるね」
そこでふと、ネアはそちらの領主がどんな人物なのかを知らないことに気付いた。
「ディノは、その二つの土地の領主さんをご存知ですか?」
「ガーウィンを治めているのは、ゼベル達の伯父だよ。アルビクロムは第三王子の系譜ではなかったかな」
「ゼベルさんが思いがけないご血統で驚くばかりです!」
「あれは、生粋の人間だけで鍛え上げられた珍しい魔術の系譜だ。ここに来るまでは目に留めたことはなかったが、よく見ると面白いね」
「エーダリア様とは違うのでしょうか?」
「ウィーム王家には、何度か人外者の血が入っているんだ。そうなると、人間だけであの魔術を練り上げ、それを維持する一族は珍しいんだよ」
「それは、そこまで増やせないとか、そういう意味ではなくて?」
「魔術を潤沢に持つ人間は、やはり人外者にも好まれるからね。どこかでそういう伴侶に恵まれがちだし、人間側も無理がなければそれを取り込んで一族を栄えさせることに抵抗がないのが殆どなんだ」
つまり、ゼベルの一族は人間の純血種に拘るお家柄らしい。
そうなると、夜狼の伴侶を貰い、もう実家には戻れないかもしれませんねと笑っていたゼベルの言葉は、いささか重いものとなる。
「ゼベルが心配になったかい?」
ネアが考え込んだからか、魔物がそう尋ねた。
「いえ。以前に狼さんの話をした時に、自分だけいつも周囲と馴染めなくてとても居心地が悪かったと、ゼベルさんが話してくれたことがあるんです。そんな方が、ご自身できちんと愛する方と居場所を見付けたのですから、ゼベルさんは凄いなぁと尊敬してしまいました」
「尊敬…………」
「ディノ?」
今度は魔物が考え込んでしまい、ネアは少し嫌な予感がした。
格好いいという単語にもだいぶ過敏に反応した魔物なので、またおかしな荒ぶり方をしなければいいのだが。
(………窓の外が、ほんのりと陰っているような)
明るい晴天の日でも、死者の門が開く日というのは、見えない翳りが落ちるのだそうだ。
その仄かな暗さを感じ、ネアは前の世界にいた頃の自分を考える。
(もし、あの国にもこの死者の日があったなら、私は死後も一人ぼっちだったのかしら)
せっかく門が開いても、帰る当てのない死者はどうすればいいのだろう。
やっとゆっくり眠れると思っていたのに、その先があるということは怖くはないのだろうか。
そう考えてようやく、花売りという存在の必要性がわかった。
あれはきっと、我慢が出来ずに個を手放したい死者達の救済策なのではないだろうか。
チリリとどこかで鈴が鳴る。
復活祭には、銀色の鈴に黒いリボンと、銀色に塗った松ぼっくりの飾りをかけるのが習わしだ。
そして、死者を迎え入れる家では、玄関先に風などで火が消えない特殊な蝋燭に火を灯す。
逆に、王宮や特殊な施設など、死者に立ち入られては困るところでは、先日ネア達が捕まえてきた火の精から貰った色付きの火を焚くのだ。
火の精がその季節に纏う色の火が灯された建物には、死者は入ることが出来ないのだという。
「お昼にはまたあの辛いスープが出るそうですよ」
「………人間は不思議な風習を持つよね」
「あの辛さで、己は生きているのだと再認識するそうです」
復活祭には、鈴飾りとはまた別に、全ての食事の時に辛いスープを飲む風習がある。
これは、鹿角の聖女を失い消沈していた人々を、後に聖人として祀り上げられる一人の男性が、辛いスープで元気付けたのが始まりだ。
落ち込んでいないで、生を謳歌しろという物理的な激励である。
どろりとした真っ赤なスープは、リーエンベルクの料理人の腕を持ってしても、どうにもならない辛さなのでなかなかの苦行だった。
そんなことを話しながら歩いていれば、外客用の区画の一つで、お客の気配を感じた。
ディノを振り返れば頷くので、ネアはこつこつとノックをしてから扉を開ける。
「アルテアさん」
そこには、珍しく仕事を持ち込んでいるような、書類と資料に囲まれた姿のアルテアがいた。
本日の装いは紫がかった艶のある灰色のスリーピースで、帽子とステッキは椅子の上に置かれている。
ボリュームを抑えたシンプルなクラヴァットは、白いシャツに映える深い紫色のものだった。
「…………元気そうだな」
「特に病気などもしておりませんよ。今日はお忙しいのですか?」
振り返ったアルテアは、どこか他人行儀な目でネアを一瞥すると興味もなさそうにまた視線を書類に戻してしまう。
(エーダリア様の話とは、随分と様子が違うのでは……)
しかし、冷淡な雰囲気とは違い、体調の心配が第一声であったので、これは分かり難くもじもじしているだけなのだろうか。
「アクスの方での、幾つかの残務処理だ。………どうした?」
じっと見られているのが気になったのか、もう一度こちらを見た赤紫色の瞳を見返せば、その鮮やかな奥深さに、人外者らしい鋭さを感じる。
「旅行から帰ったら、飼い犬に忘れられてしまった飼い主の気分を味わってました」
「……………は?」
「使い魔さんが、会うのは三回目くらいな感じのつんとしたご様子です」
「…………妙に具体的な数字を出してきたな」
「実例と合わせて考えたのです。とは言え、お忙しそうなので、どうか今日はゆっくりしていって下さいね」
ネアがぺこりと頭を下げて退出しようとすれば、つんつんしていたくせにアルテアは驚いたようだ。
「おい、それだけか」
「む。それ以上に何かあるでしょうか。………その節はお世話になりましたとカードでお礼も言いましたし、…」
「まさかお前、あれはただの言葉通りの謝礼だったのか?」
「カードでお送りしたメッセージですか?あの一文で、言葉通りの以外にどんな意味を深読みしてしまったのか謎めいています…………」
ぎりぎりと眉を寄せたネアに、アルテアはなぜかとても嫌そうな顔をしていた。
上手く表現出来ないのだが、嫌そうな表情ではあるが拒絶のそれではなく、困惑混じりの無防備な目をしている気がする。
「…………ったく」
「むぅ。なぜか呆れた風なのですが、呆れられる理由が分かりません」
立ち上がったアルテアが目の前まで歩いてきて、ぼすんとネアの頭の上に片手を乗せた。
「む!体重をかけられると縮んでしまいます!さては意地悪ですね!!」
「…………お前は相変わらずだな」
「ディノ、アルテアさんが私を圧縮しようとします」
「アルテア、ネアを少しでも減らしたら許さないよ」
「そうそう減るかよ。………死者の国はどうだった?」
目を瞠って、ネアはアルテアを見上げる。
あれだけカードでやり取りをしたのに、どうしてもう一度感想を求められたのだろうか。
「食べ物が美味しくありませんでした。それと、ウィリアムさんの画策で、ホラーハウスに住む羽目になったくらいでしょうか」
「怪我はもういいのか?傷だらけだったんだろ」
「もしかして、ウィリアムさんから聞いてしまいました?」
こちらを見下ろす瞳には特に不安の色はないが、やはりこれはエーダリアの言うように心配してくれているようだ。
「さてな」
「私は頑丈なので大丈夫ですよ?ご心配をかけてしまっていたのなら、元気な姿を見せに行けば良かったですね」
カードでお礼を言っただけで済ませてしまっていたことを反省しつつ言えば、なぜかアルテアはまたしても嫌そうな顔になる。
(心の動きが不明過ぎる……)
さっぱり考えていることがわからないが、魔物なのだしまぁいいかとネアが一人で頷けば、更に嫌そうな顔を強められた。
「…………俺に他に言いたい事はないのか?」
「……………おまんじゅう」
謎の問いかけを受け、ネアは悲しい声でその一言を付け足した。
その途端に、なぜか目を丸くしたアルテアが、片手で目元を押さえて天井を仰いでしまう。
「…………むぐ、お腹が空いて食べてしまったのなら、それでいいのです。怒っていませんので、食べてしまったと話してくれればいいのですよ」
「お前が腹を立てていたのは、それが理由か」
「アルテアさんに対して、今回のことで怒っていた記憶はありませんが、こっそり何か悪さをしたのでしょうか?」
「………俺が渡した飴で、お前は地下に落ちたんだろう」
「しかしあれは、元はと言えば第四王子様が恨みを買ったからのものです。加えて、ディノも存在を察知出来なかった代物ですよ」
「ご主人様…………」
思い出した魔物が背後でぺそりと項垂れてしまい、ネアは慌てて手を繋いでやった。
「…………成る程、と言う事はウィリアムの嫌がらせだな」
「と言うことは、ウィリアムさんから、何か誤解されるようなことを伝えられてしまったのでしょうか……」
「かもな。………とは言え、お前は死にかけたんだろ。呑気過ぎやしないのか」
(あらあら………)
そんなことを大真面目に言うので、ネアは何だか不思議な気持ちになってしまう。
ウィリアムがどんな話し方をしたのかは謎だが、つまりこれは、アルテアは自分の渡した飴が死者の門であったことを、ずっと悔いていたような意味にも取れるではないか。
「呆れた目で見られてしまっても、私を散々な目に遭わせたのは、ジュリアン王子ですから。あちらの方を恨みはしても、うっかり運び屋にされたアルテアさんを恨んだりはしませんよ?」
「………シルハーンから聞いてないのか?」
「まさか、罠だったのですか?!」
「そうじゃないが、あの時、シルハーンを引き止めたのは俺だ。それがなければ、お前が一人で死者の国に落とされることもなかった」
「…………それはまさか、意地悪で私を孤立無援にする企み…」
「そんな訳ないだろうが」
速攻で却下され、ネアは微笑んだ。
「ふふ。であればどうして、アルテアさんに腹を立てるのですか?いつもの悪いアルテアさんならいざ知らず、今回の件ではご心配をおかけしてしまったくらいでしょう?」
やはり魔物は案外に純粋なのだなと微笑みを深めたネアは、何ともいえない顔をしたアルテアに、乗せられたままだった片手でぐりぐりと頭を撫でられて慌てて抗議する。
「むが!髪の毛をくしゃくしゃにする悪巧みですね!許すまじ!」
「お前の髪質なら、すぐに元通りになるだろうが」
「くしゃくしゃにする意図は否定しませんでしたね!確信犯です!」
「それと、お前の依頼したおまんじゅうとやらは、とっておいてあるからな」
「ほわ!……………悪くなってませんか?」
「あのな、何の為の状態保存魔術だと思ってるんだ」
「保温………?」
ネアが大真面目でそう答えると、アルテアは頭を抱えてしまった。
腐ってしまったかもしれないおまんじゅうを持ち歩いているという疑いをかけられたことは、とてもショックだったようだ。
「と言うことは、私はあのおまんじゅう達を食べれるのですね!」
「シルハーンにも買わせたんだろ?」
「ディノは、自分で考えてマロンクリームのおまんじゅうを買ってきてくれたのです!私はその日、おまんじゅう食べたさに癇癪を起こしていたので、とても素敵なお土産でした」
「それで満足したんじゃなかったのか」
「中身が違うので、違う食べ物として認識して下さい!しかも、あれから一週間以上経っているので、再びおまんじゅうが食べれるなら、弾む思いです!」
ほくほくとして両手を差し出したネアに、アルテアは呆れ顔で唇の端を持ち上げる。
何だか見慣れた表情になったので、ネアは内心ほっとした。
(さては、依頼だけしておいて、おまんじゅうの引き取り要請がないので拗ねたのでは………)
ネアとしても、気を使って催促しなかったのだから、言ってくれればいいのにと思わないでもないが、思いがけず時間差でおまんじゅうが食べれるので幸せいっぱいだ。
はしゃぐネアの背後から、じっとりとした気配が漂ってきたので振り返れば、おまんじゅう案件では抜きん出たと自負していた魔物が拗ねたような目をしている。
「ネアが浮気する……」
「ディノ、アルテアさんにもおまんじゅう確保のお願いをしていたと、話しましたよね?」
「…………弾んでる」
「弾むばかりが喜びの基準ではありませんよ!あの日のディノのおまんじゅうは、私を死者の国の憂鬱さから救ってくれましたし、本日のアルテアさんのおまんじゅうは、復活祭の辛いスープの苦しみから救ってくれるのです」
「…………ずるい」
「…………おまんじゅう、半分こします?」
狡猾な人間に半分こ案を出されてしまったディノは、また新しい形で食べ物を分け合う喜びに誤魔化されてしまい、ぱっと目を輝かせて頷く。
しかし、視線を戻すと今度はアルテアの目が死んでいた。
「………アルテアさん?」
「…………ウィームでも、ガーウィンのスープを飲むのか」
「もしや、以前にお仕置きで呪い化したあの激辛スープは、本日のどろりとした辛いスープと同じものなのですか?」
「復活祭にはとろみをつけるが、味はほぼ同じだな」
「とろみがついた方が、辛さの攻撃力は高いのでは。………もしや、ガーウィンでの儀式を欠席されたのは、スープが嫌だったからなのですね!」
「あれを避ける為にこっちに来たのに、死者の門が開かないウィームで、あのスープを飲む必要があるのか?」
「まぁ。………すっかり荒んだ目になってしまいましたね」
激辛スープと帆立がトラウマ化しているらしいアルテアは、その後すっかり元気をなくしてしまった。
可哀想なので、ネアは、アルテアにもおまんじゅうを分けてあげることにする。
ガーウィンの儀式を欠席までして逃げてきたのに、ここでも遭遇してしまうのだから、ある意味激辛スープと縁があるのかも知れない。
その日の昼食は、風習にのっとりなんと激辛スープとパンだけという地獄絵図であったので、アルテアが渡してくれた五種類のおまんじゅうは、おやつ系のレモンクリーム、紅茶と苺のジャム、蜂蜜とクリームチーズを、三人で分け合って食後にいただくことにした。
激辛スープを飲んでもけろりとしている銀狐とは違い、激辛スープで喉をやられた三人は、おまんじゅうは偉大だという共通認識で心が一つになる。
鶏肉とスパイスのおまんじゅうと、チーズとトマトソースのおまんじゅうについては、ディノに貰った厨房の状態保存庫で、小腹が空いた日の夜食用にキープしようと思う。
アルテアは、ふかふかまんじゅうが気に入ったようで、今度作ってくれるそうだ。