露草の毒と蛇の手袋
ツベルトの草原での任務の半分が終わった。
夕方になり、たくさんの火の精霊の入った箱を持って、ゼノーシュ達が先に帰ることになる。
ゼノーシュと手を繋いだグラストが、片手でほこりを乗せた乳母車を押して帰っていたので、まるで子供を連れた休日のお父さんのような微笑ましさであった。
そんな二人と一匹を手を振って見送り、ネア達は、オーベルジュの中にいそいそと戻る。
実は、出張仲間が増えることとなったので、急いで合流しようとしていたのだ。
案の定、出張費用で取っておいてもらった部屋に戻れば、寝台の真ん中で銀狐がぐうぐうと寝ている。
ヒルドからの連絡によれば、ゼノーシュ達と入れ違いでこちらに送り込むということだった。
「…………今日は朝帰りならぬ、昼戻りだったようなのでお疲れなのでしょうか」
「これで魔術洗浄なんて出来るかな……」
そう呟いたディノにお腹を指で突かれても、銀狐はむぐむぐと寝息を立てるばかりだ。
「起きないようだね」
「魔物さんではなく狐だとしても、あるまじき無防備さですね」
今回、銀狐も出張となったのには、特殊な事情があった。
ネアが午後の狩りで捕まえた毛皮蛇のような謎の生き物が、エーダリアが作業用の手袋の素材として長年探していた、高位の地精だったことが判明したのだ。
この地精の毛皮はとても優れており、魔術の潤沢な土地の地中で暮らす為に魔術を浸透させないという性質を持っている。
だが、そんな特殊な性質はその土地から離されると崩れてしまうそうで、地精を捕えた場合には、その土地で加工作業までを終わらせなければいけないのだという。
加えて、真夜中に月光の中で加工すると、とびきりの毛皮に仕上がるらしい。
繊細な魔術加工の行程がディノには向いていない作業である為、最初はエーダリア本人が駆けつけようとしたのだが、やはり領主ともなると諸々の承認手続きが煩雑だったので、自由に動けるノアが派遣されることになった。
十年越しの願いが叶うと大喜びのエーダリアは、ネアにボーナスを弾んでくれるのだそうだ。
(ほこりの手柄でもあるから、貰ったボーナスで何か美味しいものを買ってあげよう)
寝惚けたほこりが乳母車から転がり落ち、その衝撃で驚いた地精が土の中からわらわらと飛び出してきたので、追い込み漁の最初のところはほこりが務めてくれたことになる。
「そう言えば、これは貰ってしまって良かったのでしょうか?」
ノアが一人ぼっちだと可哀想だと思って急いで戻ってきたのだが、まだ起きそうにないので、ネア達はひとまずお茶を入れて一息つくことにした。
そこで気になってしまったのが、新しく増えた、透明度の高い水紺色の宝石がついた華奢な腕輪だ。
実はこれ、数時間前のネアの、少し前までは保管用と得体の知れないもの用と金庫が分けられて便利だったという何気ない一言から、魔物が増やしてくれたものなのである。
「この前のものと色が違うから、気に入らなかったかい?」
「今回のものもとても可愛くて、すごく気に入っています!……そうではなくて、ディノのくれる高性能の金庫はとても高価だと聞いたので、少し申し訳なくなってしまって」
「君は時々、不思議なことを気にするんだね」
恥じ入って少し目を伏せたネアに、ディノが困ったように微笑む気配があった。
部屋の中に入っているので擬態を解いたディノの真珠色の髪の毛の端をちらりと見て、ネアは説明し難い悔しさに襲われる。
おかしな話だが、時々、この生き物があまりにも美しいので、そんな美しい生き物からは、出来るだけのものを奪わずにいたいという不思議な欲を感じる。
それは、これだけのものを失うような理由を作りたくないという心の動きなのか、はたまた、とにかく損ないたくないからという心の動きなのかは自分でもわからない。
(ただ、そんな欲求を叶えられずに口惜しいと思うばかりで……)
「自分でもよく分からないのですが、欲しいものを買うはずだったお金で、生活必需品を買わざるを得なくなったような、妙な敗北感があるのです」
「敗北感………か。私には、我が儘を言い難いのかな?」
「世界で一番言いやすいです。…………もしかしたら、だからこそ私は、こんなに優しい魔物がいても尚、そこそこに自立したやつだと自惚れていたいのかもしれません」
「おや、それは困ったご主人様だね」
まぶたの裏にはまだ、死者の国で再会した時の片目を失ったディノの姿が鮮明だ。
魔物的にはそんな風に思うことの方が望ましくないのかも知れないが、その姿を忘れるまでは、少しでも負荷をかけたくないと考えてしまう。
「その困ったご主人様は、困っていたりもするのです。あなたを大事にしたいのに、して貰うことが多過ぎて不憫になってきました」
「そうだろうか。君はなかなか甘えてくれないけれどね」
「あら、それは買いかぶりですよ?」
「最近は、巣から引っ張り出そうともしないしね」
「…………そう言えばあれは、私が甘えているという認識だったのでした」
思いがけない例えを出されてしまい、真剣に悩んでいた心がふにゃりとなったネアは、そのまま横倒しになると隣に座ったディノの膝の上に頭を乗せた。
ご主人様なりに、まっとうに甘えてみようとしたのだ。
かしゃんと、何かの落ちる音がする。
「…………ディノ?」
「ネア……………?」
不審に思って見上げれば、ティースプーンをテーブルに落として、目元を染めてふるふるとしている魔物がいた。
完全に目尻を下げてしまい、犬ならば尻尾を巻き込んでおろおろとしているような有様だ。
あまりにも激しい反応に、ネアはびっくりしてしまう。
「も、もしかして嫌でしたか?!」
「…………どうしよう、ネアが懐いてきた」
「……………むぅ」
これはまさか、かつて手を繋ぐとくしゃくしゃになっていた頃のような、あの現象だろうか。
真相を確かめる為に、ネアは魔物の膝枕に、ぐりぐりと頭を擦り付けてみた。
「むぐ!」
その結果、ぴゃっとなってしまった魔物が体を揺らしたので、ネアは危うく首を違えそうになる。
がくんと勝手に大きく動いた枕をひと睨みすれば、ずるいだの可愛いだの言いながら、魔物は可憐な被害者のように顔を覆ってしまった。
この不条理な制度はいつか改革せねばなるまいと思いながら、半眼になったネアは、よいしょと体を起こした。
「…………もう起き上がってしまうのかい?」
「高低差があるので、実はあまり良い寝心地ではありませんでした」
「ご主人様が虐待する…………」
「首はとても繊細な部位ですので、枕には妥協出来ません」
「ご主人様…………」
そこで魔物はなぜか、奇妙な目でネアをじっと見た。
「ディノ?」
まるで、ハンバーグに刻んだピーマンを入れられた子供のような、どこか傷付いた疑いの目なのはなぜだろう。
「…………もしかして、弄ばれてるのかな」
「嫌な疑惑をかけないで下さい!純然たる、枕の向き不向きの話です!」
叱られた魔物は変わらず頑固にも拗ねた目をしていたが、その視線がふっと背後に動く。
「……もしかして、ノアがやっと起きました?」
「と言うよりも…」
ちょうどネアが振り返ると、ばすんと音がして、寝返りを打った銀狐が寝台から落ちるところであった。
「き、狐さん?!」
慌てて駆け寄れば、寝台の足元に敷かれたマットの上で、なんという虐めだろうという荒んだ顔をした銀狐がいる。
犯人かのように見上げられて、ネアは渋い顔で首を振った。
「ご自身で落ちたんですよ。ほら、そろそろ起きて下さいね」
そう言われてしまって仕事なのを思い出したのか、くあっと欠伸をして、銀狐はよろよろと浴室の方に消えてゆく。
(ちゃんと元の姿に戻れるかしら?)
浴槽で溺れたりしないだろうかと不安になったが、今までも一人で生きてきた筈なのでここはその力を信じよう。
「ディノ、あと一時間程で夕食ですが、少し休みますか?」
「………ご褒美」
「………そう言われてしまうと、腕輪を貰った分、何かをしてあげないとという気持ちになります」
その途端、嬉しそうに恥じらいながら無言で両手を広げられたので、ネアは照れながら魔物を抱き締めてやる。
しかし、魔物は何故か優美な眉を顰めた。
「…………飛び込みじゃない」
「普通の婚約者的な感じではないのですね………」
そう言って嘆いたネアに、ディノは首を傾げる。
ややあって、ふわりと艶麗に微笑んだ。
「おや、そういうことがしたかったかな?」
「………っ?!」
耳元に唇を寄せてそう囁かれて、ネアはぎくりと体を強張らせる。
(と、とんでもない誤解を受けた!)
ネアとしては安らかな気持ちでハグをするくらいの感覚でいたのだが、あらぬ誤解を受けてしまったようだ。
ある程度は手練手管に長けた生き物なので、すぐさま撤回しないと困ったことになる。
「ち、違いまふ!」
「恥ずかしがらなくていいよ。この前の続きを教えてあげようか」
「ほわふ?!どこを触っているのだ!」
慌てて暴れ出したネアに、ディノはどこか男性的なあざとい微笑みを浮かべる。
(しまった、さっきまでは忠犬だったのに、返答を間違えたらいきなりこんなことに!!)
「まだまだ練習が必要なようだね」
「この前練習したばかりです!」
「わーお、いつの間にか凄い進展してたんだ」
「む…………」
面白がるようなノアの声が入り込んだので、ネアは魔物に抱き締められた体勢のまま、首だけ捻って振り返る。
顔を洗ったのか、さっぱりとした様子の塩の魔物が、浴室の扉のところからこちらを観戦していたようだ。
「良かった、目が覚めましたね!」
しかし、ネアがそう微笑めば、何故かノアは首を傾げる。
「ありゃ?………結構、雑に流せるんだね。擬態もしてない魔物とそうなったら、割と人間は夢中になるんだけどね」
「そうなったら?」
「ん?あれ、もしかしてそれはまだ?」
むむっと眉を寄せて考えてから、ネアはノアが言わんとしていることを理解した。
ぼんと真っ赤になると、全身全霊で首を横に振る。
「ま、まだです!!さらりととんでもない疑惑をかけないで下さい!!」
「えー、そこまでべたべたしてて、よくシルは我慢出来るなぁ。僕だったら、絶対無理」
「…………ノアベルト」
「ほら、シルも悲しそうだよ。シル、もう試してみちゃえば?」
「と、とんでもない激励をしてはなりません!!!こちらは、まだほんわか婚約中の身なのですよ?!」
「わーお、シルはのんびりだなぁ」
「…………練習は始めたよ」
「じゃあ、もう少し詰めれば?」
「ディノ?!ここでおかしな負けず嫌い感を発揮してはなりません!」
あまりにも露骨な応酬に、ネアはわたわたと手を振り回して反論する。
それなりに人生経験も積んでいるし、決して無知とは言わないが、このまま老獪な魔物達に議論させるととんでもない結論を出されかねない。
しかし、何とか逃げ出そうとしているご主人様は、未だ魔物の腕の中だ。
こんな会話の最中となると、最悪の場所と言わざるを得ない。
なので、咄嗟にネアは奥の手を出すことにした。
「これでご褒美はおしまいです!」
次の瞬間、ごすっといういい音がして、ディノは目を丸くしておでこを両手で押さえた。
解放されたネアは、慌てて魔物から距離を置く。
「ネア、それって攻撃じゃないの?」
「ふっ、その疑問を呈するのであれば、うちの魔物を見てからにして下さい」
突然の暴行に慄いたようなノアだったが、そう言われてディノの方を見てから、呆然としたまま頷く。
「ネアが可愛い…………」
残念な魔物は、頭突きされたおでこを押さえたまま、うっとりとしているようだ。
ディノの中では遠慮のない頭突きは、飛び込みと同じく最大限の愛情表現の一つとして認識されている。
「シルはこれでいいんだね………」
「まったくもう。ノアが困ったこと言い出すからですよ!」
「いや、普通に男としてよく我慢してるなって思ったからさ。でも、こっちの悦びがあるからいいのか……」
「それはそれで戦慄を禁じ得ませんが、ひとまずはこのままにしておきましょう」
うっとりとしている魔物はそのままにしておき、ネアは地精をどうするべきかノアに聞いてみた。
「お渡ししておきましょうか?」
「うん。預かっておこうかな。中身はいらないから、腐食の魔術を先に敷いておきたいしね」
そこでネアは、一度バルコニーに出てもらい、腕輪の金庫からずるりと地精を引っ張り出す。
「………待って、七匹もいるの?」
「私の足元から這いずり出てきたので、驚いて踏み滅ぼしてしまいました」
「わーお、こりゃ手袋をふた組作れるね」
「なぬ!エーダリア様も喜んでくれるでしょうか」
「元々、手首のあたりは普通の革で補うって話してたから、肘までの手袋をふた組作れるって言ったら喜ぶんじゃないかな」
「まぁ!それなら、さっそくカードに書いてお知らせしておきます!」
その後、飲み明けだというノアは晩餐はいらないということで、地精を預けてネア達は少し早めに晩餐の席に着くことにした。
「わぁ、夕暮れから夜にかけての空の色の、何て美しいことでしょう」
「ごらん、あの星の下を飛んでいるのは星食いだよ」
「もしや、かつて私の歌でお亡くなりになったあやつですか?」
「いや、今回のものは精霊の方の星食いだね。藍色の細長い羽蛇の形をしていて、星食いの精霊が空を渡ると、その夜から翌朝にかけてはよく晴れるそうだよ」
「この辺りの土地は、蛇系が多いのでしょうか?」
リーエンベルクの周囲には、鹿や狼、栗鼠などの系統の生き物が多い。
不思議に思って聞いてみれば、ディノが土地との繋がりを教えてくれた。
「どんな生き物も、己と似ている姿のものには心を開きやすいものだ。ここはかつて、化石で見たあの竜の生息域だったのだろう。階位上頂点に立つ生き物に形状が似ている竜種や、蛇の系譜のものは多いと思うよ」
「そういうものなのですね……」
二人の前に、出来立てのチーズをかけたハムや、焼いたアスパラにクリームソースをかけたものなど、心踊る前菜が並べられる。
「それと、羊の魔物がいるようだから、羊の系譜も強いだろうね」
「ひ、羊の魔物さん!」
「………雌だけどいいのかい?」
「浮気対象ではなく、もふもふを愛でたいだけなのです!」
「人見知りするから、撫でさせてはくれないと思うよ」
「羊さん…………」
ディノ曰く、羊の魔物はおっとりとした女性の魔物であるらしい。
普段は他の羊より一回り大きな羊の姿で群れに紛れているが、羊を襲う害獣が現れると魔物の姿に戻ってぱくりと食べてしまう。
お昼寝が好きで、落雷と狐と狼が大嫌いなのだそうだ。
(ということは、獣耳の雷の魔物さんのことは嫌いなのかしら……)
狐も食べるそうなので、ノアを狐姿で外に出さないように注意しなければ。
そんなことを考えつつ、ネアはふとディノのグラスに目を止めた。
「…………ディノの飲んでいるお酒は、強いのですか?」
珍しく、ディノは見慣れないお酒を飲んでいる。
小さなグラスに入っているのは、透明な赤いシロップのような液体だ。
赤みの種類で言うならば、さくらんぼ色である。
「グラナという、木の実のお酒なんだ。この土地で育てた、グラジュの木の実が材料になっていて甘い香りがするよ」
「わ、本当ですね、味も甘いのでしょうか?」
「強いものだけど、君なら大丈夫だろう。飲んでみるかい?」
「お酒は強いのですが、巨人のお酒の例もあります。出張中の身ですから、今夜はやめておきますね。でも、新しいお酒を知ったので今度、夜の盃で試してみます」
ゆっくりと暮れて行く草原の景色は、じんわりと体に染み入るような贅沢な色をしていた。
その青さと暗さが落ち着けば、きらきらと瞬く星の光が降ってくる。
牧草地の葉っぱの表面をけぶらせる白い光は、大きな満月の落とす素晴らしい月光だ。
メインで運ばれてきた、子羊の香草焼きをほくほくと切り分けながら、ネアはふと爪先に異変を感じてテーブルの下に視線を落とす。
そこには、黄緑色の毛皮のおたまじゃくしのような不思議な生き物が、爪先にへばりついて尻尾を振っていた。
「………ディノ、爪先に得体の知れない生き物がもたれかかっています」
「おや、これは牧草地の妖精だね」
「ゼノが教えてくれた、心を穏やかにする生き物ですか?」
「その内の一種で、たくさんいるよ。この手の妖精は喜びや安堵の感情を好むから、食事を楽しんでいる君に惹かれてやってきてしまったのだろう」
「一匹くらいなら可愛いですが、踏んでしまわないかとハラハラしますね」
「排除してあげようか?」
「む。そこまでの強行手段に出ずとも、少しばかり足をぱたぱたさせて、自ら退いて貰います」
しかし、ネアが足をぱたぱたさせると、妖精はキュウキュウと声を上げて大喜びしてしまった。
最終的には、慣れているのか宿の従業員がバーベキュー用のトングのようなものでひょいと掴み上げてくれて、草原にリリースされている。
すごすごと草原に帰って行く妖精を見送りながらデザートのタルトをいただき、ネアとディノは、蛍のように妖精達が光る幻想的な草原を眺めながら、お部屋に戻った。
そこまでは覚えているのだ。
「ネア、朝だけど露草を摘みに行くかい?」
「ふぁい。………つゆくさ。………むが?!」
次に意識が戻ったとき、ネアはなぜか素敵なキルトのベッドカバーのお布団の中にいた。
がばっと半身を起こせば、窓の外は早朝の爽やかな光に包まれている。
「あ、朝になっています…………」
ネアは呆然と周囲を見回したが、隣の寝台にはうつ伏せで眠っているらしいノアの姿があり、起こしてくれたディノは同じ寝台の隣で寝たようだ。
今は起きていて、ネアの寝台の端に腰掛けている。
「昨晩の牧草地の妖精じゃないかな。君に遊んで貰えたと思って、穏やかさの祝福を与えたのだろうね」
「そ、それでぱたりと眠ってしまったのですか?」
「うん。部屋に入るなり、君は寝台に倒れこんで眠ってしまったんだ」
「ほわ……………」
顔も洗ってなければ、歯磨きもしていない。
それどころか、誰が寝巻きに着替えさせてくれたのかも謎だし、観覧に行く予定であった、ノアの仕事も見れなかったようだ。
(草原をわたる夜風を感じながら、お部屋でのんびりするのを楽しみにしてたのに!)
旅先の時間はプライスレスなので悲しくなったネアだったが、露草の毒を採取出来る時間は限られているので、慌てて身支度を整えた。
牧草地の妖精はとても恐ろしいということがわかったので、次回からは気を付けよう。
幸いにもまだ霧の残る草原に出れば、夜明けにだけ咲くという露草は簡単に見付かった。
保存用のインク瓶に花の部分だけを摘んで入れると、昼の光に当てた途端にとろりと崩れて露草色の液体になるのだ。
本来は朝だけで枯れてしまう花なので、この変質の際に毒となるらしい。
弱い毒ではあるが、記録上残しておかなければならない禁書のラベル類や、荒ぶりやすい魔術書の写本を作る際に、使うインクにこの露草の毒を一滴混ぜると素晴らしい鎮静効果があるのだという。
「朝の草原はとても静かなのですね」
「昨晩はノアベルトが仕事をしていて、随分とここも賑やかになっていたからね。疲れて皆眠っているんじゃないかな」
「…………そんな楽しみを、私だけ見逃してしまいました」
「地精の肉を食べるために小さな魔物や妖精がたくさん集まって、それはすごい騒ぎだったよ」
「…………思ってたより、凄惨な現場の気配を察知しました」
聞いたところ、地精の毛皮の処理は、腐食の魔術で中身を一部腐らせておき、尻尾のあたりを掴んで大きく振り回すのだそうだ。
そうすると、中身がずるりと抜け落ちるらしく、ネアの所感では決して見て楽しいものではないだろうという結論になる。
小さな妖精や魔物達が、高位である地精の肉を食べれることは滅多にないので、辺りは肉を求める生き物達で阿鼻叫喚だったそうだ。
その話だけでもネアは慄いたのだが、朝食の席でも宿の従業員から、昨晩は白持ちの魔物の姿を草原で見たという村民がいると伝えられ、帰り道には気を付けるようにと案じて貰った。
「………なぜに擬態せずにやってしまったのだ」
「月光や星明かりが気持ちよかったみたいで、ノアベルトも羽目を外してご機嫌だったからね」
「もしや、二人で飲んでました?」
「ご主人様…………」
昨晩、すぐに寝てしまったネアのせいで寂しくしていた魔物は、晩酌に誘ってくれたノアと一緒に随分とお酒を飲んだそうだ。
その結果深酔いし、ご機嫌で擬態もしないまま、外に飛び出して行ったのだとか。
「白持ちの魔物の振る舞いだからと、下位の者達は余計に喜んでしまってね」
「ディノはその時どうしてたのでしょう?」
「ご主人様の頭をずっと撫でてたよ」
「だから、脳天の髪の毛がこわこわになっているのですね……」
即ち、昨晩の阿鼻叫喚は、お酒で羽目を外した塩の魔物の不始末でもあったらしい。
リーエンベルクに戻ったネアはそのことを素直に説明し、管理責任の不始末をエーダリアに詫びたが、思いがけず肘までの手袋ふた組分の毛皮を手にしたエーダリアは、ご機嫌でそれどころではなかったようだ。
後日、ツベルトの草原には満月の夜に踊る白い魔物が現れるという、新しい伝承が生まれていたので、ネアはとても申し訳ない気持ちになった。