136. 死者の国で魔物の怪我を労わります(本編)
「ディ、ディノ………」
声が震えてしまって、涙が出そうになった。
はくはくと短い息を刻みながら、困ったように優しく微笑んでいる魔物を見上げれば、まるで安心させるかのように頬を撫でられた。
「理や死者の国の成り立ちを脅かさずに魔物が死者の国に忍び込む為にはね、特殊な薬が必要なんだ。私は少し違う手段を使ってしまったけれど、それでもやはり、この国に入るには対価が必要だったんだよ。地上に戻れば治せるものだから、心配しなくていいからね」
悲しくなって、ディノの手をぎゅっと掴んだ。
人間よりは低いが、ほんわりと温かい懐かしい体温に心が緩む。
「…………それで、目を?」
「通常はね、声を差し出すものらしいんだけれど、声を渡してしまうと君と話せないだろう?手足が欠けても君を守ってあげるのに支障が出るし、心臓は魔術調整が滞ると困るからね」
「い、痛くないのですか?傷は塞がっていますが、すごく……」
焼け爛れた痕は、既に塞がってはいる。
しかし、傷を負った時にはどれだけ痛かっただろうと考えれば、涙が出そうだ。
「もう均してあるから大丈夫だよ。一つ欠けても支障のない目にしたし、すぐに慣れたしね」
「ち、地上に戻れば治せるのですよね?」
「ネア、君がここを出るまでは、私も地上に戻るつもりはないよ?」
「で、でも、万が一治療が遅かったりだとか、何か不具合が出たら……」
「困ったご主人様だね」
そう微笑んだ魔物に、よいしょと膝の上に抱き上げられて、ネアは痛ましい傷が少し覗いている頬に手を当てた。
可哀想で堪らなくて、一刻も早くこの頬を滑らかに戻してやりたいと思う。
「ディノが来てくれて嬉しくて堪らない私が言うには我儘な言葉ですが、私の幸福と、大事な魔物の苦痛を引き換えにしてはいけません」
「ネア、これは私の欲求だよ。だから、君が怖がったり悲しんだりしなくていい。前に怪我をした時には、君にお仕置きされてしまったけれど、それを考えても、これ以上は君をここに一人で置いてはおけなかったから」
「…………むぐ。ウィリアムさんがいるのに?」
「でも、ウィリアムが傍にいる時間は、長くても半日に満たない。どれだけ安全を保障されても、それは心の問題とは別だろう。君が一人でここにいるのだと思うと、我慢出来なかったんだ」
「ディノ………」
「それに、随分長く我慢したんだよ。君が死者の国に落ちて、どれだけ経ったと思っているんだい?ごめんね、こんなに長く一人にしてしまったね」
こんな風に目を失くしてまでして来てくれたのに、ディノは酷く申し訳なさそうにそう言うのだ。
「以前に私が体を損なわないように言ったから、我慢してくれていたんですか?」
「うん。君の安否が知れなければそうも言っていられないけれど、幸いにもカードからの連絡があったからね。それに、身の安全を保障されているのに押しかけたら、君は無駄なことだと怒るのかなと思ったんだ」
そう呟いた魔物はとても悲しそうだった。
ネアの額や頬を撫で、今はもう消えてしまった怪我に思いを馳せているのだとわかる、苦しそうな顔をする。
「………ウィリアムに会えたと聞いて、また少し我慢した。でも君は、安全だからと言いながら、暴れたりはしてないみたいだったし、睡眠もあまり取れていないみたいだった」
「…………む。暴れていないのが問題なのでしょうか?」
「安心していないと我が儘になれないんだろう?たくさん泣いたり、我が儘をあれこれ言ったりしていなかったみたいだから」
「………だから、心配してくれたんですね?」
いつだったか、この世界に来て選択肢が増えたことで、安心して我が儘でいられるのだと話したことがあったのを思い出した。
ディノは、その会話を参考にして、ネアが本調子ではないことを見抜いてしまったようだ。
「君が苦しいと思うと、私が嫌だったからね。でも、死者の国へ入るにしても規則を守って訪れているから、ここが壊れるようなことはないよ。君は、死者の国が破綻するのは嫌なのだろう?」
「…………はい。私は、こんなにも優しい魔物がいてくれて、世界一の幸せ者ですね」
嬉しくなってしまったネアは、魔物を撫で回して褒めちぎった。
本当は体当たりもしてあげたいが、怪我人に打撃系統のご褒美は刺激が強いので、体調が万全になってからだと約束してやる。
「………はむ」
おまんじゅうは、何とも素敵な甘さだった。
とろりとした濃厚な甘さと栗の香りに、食いしん坊らしい残念さでネアは涙が出そうになる。
おまんじゅうが食べたいと考えてしまってからというもの、ずっとこの味に飢えていたのだ。
(どうしよう、床を転がりたいくらい美味しい!)
再会後にウィリアムがハムとバターを買って来てくれた時も、神かなと思って泣きたくなったが、今回はこの特定の食べ物に焦がれてからの、スポンジまんじゅうの絶望を経て、この幸せである。
食べたいものを食べられる幸せに耐性が弱まってしまったネアは、過剰に狂喜乱舞しないように必死に自制した。
「…………どうしよう、ご主人様が可愛い」
その隣では、やはりこちらも耐性が少し弱まってしまったらしい魔物が、おまんじゅうを頬張るネアを見ては、くしゃくしゃになって悶えている。
涙目で震えながらおまんじゅうを食べている人間と、それを見て震えながらおまんじゅうを食べている魔物がいるので、ものすごく奇妙な光景だ。
そんなおかしなおまんじゅうタイムを終えたネア達は、応接間の長椅子に移動してくっついて座っていた。
隣り合って座るだけで心が凪ぐのだから、この魔物の充電力は凄い。
カーテン越しに、揺れる枝葉の影をぼんやり見ていた。
この家はお隣さんとの境目に生垣があるので、来たばかりの日はその枝が風に揺れる影を見ても飛び上がりそうだったことを思い出す。
「…………ディノ。本当はね、私はこの国にいる、見知らぬ死者さん達が怖くて仕方なかったのです。グエンさんは知り合いになったので居てくれるとほっとしますし、実は街で一人だけ心優しい死者さんにも会いましたが、………他の知らない死者の方達を見ると、終わってしまったものや、失われたものを容赦無く見せつけられる気がして、身勝手ですが胸が苦しくて堪りませんでした」
それは、この国に来てからネアが誰にも言えなかったことだった。
ネアは、穏やかな終焉の死を知らない。
家族も、愛する者も、その全てが不当な途切れ方をしてしまった、そんな人生を生きた人間だ。
だから、そんな風に恐ろしい死を身近に見て来たネアにとって、こちらで見かける死者達は、ハッピーエンドにならなかった本ばかりを読まされているような怖さがあった。
(自分の死なら怖くないけれど、他者の死から想像してしまえる不幸はとても怖い……)
例えばそれは、一人でいる子供の死者だったり、結婚指輪をしている単身の若い女性だったりする。
ここで再会出来たり、グエンのように生前の苦しみを和らげる者もいるが、やはりほとんどの死は容赦のない鋭いものだった。
あの死者の向こう側に、誰かや当人の無念や嘆きがあると思うと、かつての自分の慟哭が思い出される気がする。
想像出来るから怖いのだ。
「こちらの死者の国には、ご老人が少ないのです。老衰と言える方がほとんどいなくて、若い方ばかりが目に入って……」
まだ日の浅い死者を見れば胸が痛くなるし、長くこちらにいる死者は、無表情で動きもぎこちなくなる。
今度は死者が感情のある人間というものから遠ざかる工程を見るようで、そちらも怖い。
たくさんの死を見た弊害なのか、自分がここにいる間に大切な誰かが死に攫われてしまったらどうしようという悪夢を何度も見ていた。
「人間は顔のない死者を恐れるものなんだ。それはもう、火が怖かったり毒に触れるのを躊躇うような、当たり前のことなのだろう」
「顔のない死者、ですか?」
「見知らぬ死者は、死そのものの残酷さの事例なのだろう。ましてや君は、その醜悪さを何度も見ている」
「………でも、今はもう大丈夫な気がします。ディノが側にいれば、大事なものが手元にあって心が満腹なので、怖いものを見てもさして怖くないのでしょうか」
「……………可愛い。ずるい」
「ふふ、また狡いって言われてしまいましたね」
沢山撫でられてくしゃくしゃになった魔物は、ネアの睡眠不足を解消するのだと言いながらも狡賢い人間に上手く誘導されてしまい、こてんと膝枕で眠ってしまった。
そんな魔物を膝の上に乗せたまま、微笑みを深めたままネアも居眠りをする。
それは、久し振りに感じる幸福な時間だった。
(そうか、安堵と幸福は違うのだわ……)
夢の淵でそんなことを考える。
夢の中でもネアは大事な魔物を抱えていて、あの死者達に囲まれる夢はもう見なかった。
幸せになったのだと報告したい時には、夢に出て来てくれないのだから、亡くした愛しい者達の夢はなんとままならないものか。
次に目を覚ますと、ゆらゆらと体が揺れていた。
「む………」
「寝台に運んでいるだけだよ。寝てていい」
「疲れているディノに、肉体労働をさせてしまいました………」
「羽のように軽いのに?」
「羽よりどれだけ重いことでしょう……。重たかったら、自分で歩きますよ?」
「ご主人様…………」
「あら、しょんぼりしてしまうのですね………」
魔物がしょんぼりしてしまったので、ネアは慌てて寝台までの移設作業を引き続きお願いした。
途端に嬉しそうな顔をするのだから、相変わらずである。
(そうか、こういう重労働も好きなのか………)
新しく趣味を悪化させないといいなと思いつつ、ネアは寝台に運んでくれた魔物を褒めてやる。
「………ネアの隣に寝る」
「そう言えば、ディノがこちらに来ていることを伝えないと、疲れて帰って来たお父さんの寝る場所がありませんでしたね……」
ネアを寝台に下ろすと、さっと手を毛布の下に差し込んでテリトリー主張した魔物に、ネアは大切なことに気付いた。
時計を見ればもうすぐ十四時だ。
おまんじゅうを食べたりしていた時間を差し引いても、応接室の長椅子で一時間近く寝てしまったようだ。
いつもであれば、そろそろウィリアムが来る頃だが、寝ようとして毛布をめくってディノが詰まっていたら、悲しくなってしまうだろう。
(でも、この時間から他所に行って貰うなんて可哀想過ぎるし、ディノは寝かさないといけないから、私が起きていて、今日はウィリアムさんにはこちら側で寝て貰うしかない……)
そう考えてきりりとしたが、まずは魔物を寝かしつけることからだ。
一枚しかない死者の国仕様の毛布に、個別包装じゃなかったんだと暗い声で呟いている魔物を何とか寝かしつける為に、ネアは自分も寝落ちしてしまう危険を冒して添い寝してやることになった。
他所に気を向けると魔物が荒ぶるので、何とかディノが寝てくれた後で寝台から抜け出し、カードを開いてこちらにディノが来ていることを各方面に報告する。
“やっぱりそこか………”
そう返してくれたアルテアもリーエンベルクに居るらしく、ネアは報告が一度で済んでほっとした。
やはり、姿を消したディノの行動が懸念されていたらしく、声の代わりに片目という対価を支払ってこちらに来ているのだと報告すれば、アルテアでさえかなり驚いたようだった。
“あいつに、周囲を慮って正規の手順を踏むなんていう思考回路があったのか………”
素直に驚いているアルテアに次いで、もはや達観して引き起こされる災厄まで想定していたらしいエーダリアが、安堵の声を漏らす。
“被害があるとすればウィームのことではないが、死者の国が破綻しなくて何よりだ”
“痛々しくて可哀想なのですが、頑張ってくれたお蔭で、こちらの理を乱すようなことにはなっていないようです”
“ディノに礼を言っておいてくれ。最高位の魔物が、己の欲求以外の目的で自身に犠牲を強いることは、まずないことだからな……”
“謝らないといけないのは、私の方です!自分でも気付いていない不調を見抜かれてしまって、ディノを駆け付けさせてしまったのですから。皆さんにも、大変心配をおかけしました”
“ネア様の所為ではありませんよ。元はと言えば、ジュリアン王子の責任ですから”
そう言ってくれたヒルドから、死者の門を仕込んだ飴玉を置いていった魔術師のことが聞かされた。
ディノが姿を消した時に、そちらへの報復も視野に入れ、急ぎノアが犯人を突き止めたのだそうだ。
どうやらディノは死者の門の作り手そのものには矛先を向けなかったようで、当該の魔術師は生きたまま確保された。
“とは言え、ジュリアン王子が死者の国にいる現在、その魔術師は復讐の理由を忘却していましたけれどね”
まっとうに死者となる者達の経緯とは違い、生者が死者の国に落とされると、周囲の者達はその人間のことを忘れてしまう。
それはどうやら、取り返す為の襲撃を避けるようにと組まれた、死者の国の防御システムらしい。
“こちらで調べたところ、以前、ジュリアンが毛皮を目当てに、その魔術師の伴侶だった森兎の妖精を殺してしまったようなのだ”
森兎の妖精は、金色の羽と緑色の素晴らしい毛皮を持つ、知識の探求者を祝福する妖精だ。
夜になると毛皮を脱いで、美しい乙女になるので、魔術師界では伴侶として人気が高い妖精である。
件の魔術師は他国から来た流れの魔術師であったが故に、立場の弱さに付け込まれ妻を攫われた。
朝日が射しても毛皮を取り戻せない森兎の妖精は、身体が溶けて死んでしまう。
溶けて骨だけになった伴侶に取り縋って泣いていた魔術師を、覚えている者がいたらしい。
“………私のせいで復讐が出来なかったのであれば、謝りたい気分です”
“いえ、ネア様がいなければ、無難に生き延びて一月後に戻って来たくらいでしょう。あれでも、悪運は強い方ですからね”
これまで、他の兄弟達の支持派から何度も命を狙われていながらも、ジュリアン王子はなぜか生き延びてしまっていた。
特に大怪我をしたりもしないので、周囲は腹わたの煮えくりかえる思いだったという。
悪巧みはいつも最後の最後で頓挫するくせに、怒りを買って呪われたりもするくせに、一向に反省しない程度の目にしか遭わないジュリアンに腹を立てていたのは、エーダリアやヒルド、ダリルも同様である。
“初めてあの悪運の強さを跳ね除けて、ジュリアンを傷付けた者を見た。………ウィリアムには感謝しかない……”
“今まであの方の周囲の悪行ではレーヌの采配が目立ちましたが、あの方ご自身もそれなりに恨みを買っていますからね”
エーダリアからちらりと本物の感謝を見てしまい、ネアは兄弟だからこその複雑な愛憎の経緯があるのだろうなと考える。
さりげなくフォローしたヒルドからは、もっと露骨に嫌っているという空気を感じた。
“ノア、あちこちディノを探させてしまって、ごめんなさい”
“ごめんね、ネア。僕こそ、熟睡しちゃって取り逃がしたんだ”
“いえ、こちらこそディノを見ていてくれて有難うございました。ノアにも、たくさん無理をさせてしまいましたね……”
“いなくなる前になぜか沢山遊んでくれたから、罠だったのかも………”
どうやらディノは、ボール遊びで疲れさせて監視の目を緩める手段に出たらしい。
決行を決意させたのは、その日、ゼノーシュが仕事だったのもあるだろう。
ゼノーシュは、ああ見えて隙がないのだ。
(それと、おまんじゅう祭りのことも考えてくれたのだと思う……)
わざわざ買って来てくれたのだ。
きっとネアが楽しみにしていたのを覚えていてくれて、それを届けたいという思いも加算されたのではと思う。
“でも、女装した死者さんが手斧で襲撃に来ていたところでしたので、すごく嬉しいところで来てくれたんですよ!”
“…………ネア様、それはどういう状況でしょうか”
“わーお。死者でも女装するんだ………”
“おい、それを早く言え。まさか、切られたりしてないだろうな?”
“む!私とて、手斧を振り下ろされたら死んでしまいます!その方は、私が第四王子様と一緒にいたところを目撃し、愛妾だという非常に嫌な誤解をされていたので、誤解を解かせていただきました。でも、心がたいへんに損なわれる疑いだったので、ディノが来てくれて癒されたのです”
“……………つくづく、ジュリアンがすまなかった”
“このやり取りが定型になりそうですが、エーダリア様が謝る必要はありませんよ。是非とも、本人同士で話し合いをして貰いたいものです……”
“そういうところでは、まだ悪運の強さは続くのだな……。昔から、ジュリアンが悪運の強さを発揮して危険を回避すると、なぜかそのとばっちりが周囲に降りかかるんだ………”
喜ばしくない情報を聞いたので、ネアは今後、是非とも疎遠にさせていただこうと思う。
しかも、そのとばっちりは、なぜかジュリアン派には降りかからないらしい。
関係のない第三者が一番被害に遭うので、そういう意味でもジュリアン王子は友達が少ないのだとか。
“ある意味、そういう生存可能率の高さを知り尽くしているからこそ、リーベルはジュリアン王子についたのでしょうね”
“起こるべくして起こる災厄を祝福で回避している場合、その厄を消滅させる程の守護や祝福じゃないと、弾かれた厄が近くに落ちるんだよ。典型的な感じだね”
“ノア、そうなると、…………もしかして私もなのでしょうか?”
“ネアの場合は、厄を許さない周辺環境だから、都度消滅させる感じだから大丈夫。でも、それが出来るくらいの高位が集まり過ぎてて、場が歪んでる可能性もあるかな………”
“安心しろ。ノアベルトはそろそろ退場させる”
“しないよ!アルテアの使い魔契約の解除が先だからね!”
“…………ヒルドが仲裁しているから、待ってくれ”
エーダリアからそうアナウンスがあったが、ヒルドは見事な手際ですぐに魔物達を大人しくさせたようだ。
とは言え、アルテアとノアは、わかり易く喧嘩はしてもあまり深刻な感じにはならなそうだ。
表面上は問題を解決した風で、意外に根が深いウィリアムとの関係とは違う雰囲気がする。
“でも、薬じゃなくて道を作るなんて、シルは相当頑張ったんだね。何日かはかかったと思うから、影でこっそり準備してたのかな?せっかくだし、こっちにある薬を使って、僕も遊びに行こうかなぁ”
ノアがそう言い出したところで、どうかこの幻の薬を温存させてくれと、エーダリアが拝み倒して塩の魔物を思いとどまらせる一幕を挟み、ネアは少しだけ表情を明るくする。
色々我慢していたつもりだったが、鍛錬が足りずに魔物を駆けつけさせてしまったことで、結局みんなに迷惑をかけてしまったと落ち込んでいたのだ。
せめてこうして、形に残るようなものがあったことで、怪我の功名的な収益になってくれるとほっとする。
“僕も死者の薬を作れたこと、シルに早く言えば良かったね”
“ノアは、凄いんですね!”
“褒めていいよ!……とは言え、アルテアが薬の効果継続の改善が出来なかったから、これがあっても充分じゃなかったんだけどさ”
“本来の薬の効果は、あまり続かないものなのですか?”
“一晩しか効かないんだよねぇ。それとネア、アルテアが虐める”
“使い魔さん、ノアを虐めてはいけません!”
“鬱陶しいから引っ叩いただけだ”
何だか、リーエンベルクは賑やかそうだ。
こちらが落ち着いたところで、また後でと挨拶を交わし、エーダリアとヒルドは別の仕事に出てゆく。
幻の死者の薬を温存出来たエーダリアは、ご機嫌で仕事に向かったようだ。
“そう言えばね、ネアが仕事に穴を開けるのを気にするだろうって、シルが物凄い量の薬を作り置きしてたよ”
ノアがそんなことを教えてくれて、ネアは目頭が熱くなった。
単に駆けつけてくれるだけではなく、死者の国のことを考えていたりと、今回のディノはとにかくよく気がつく。
その喜びをカードで綴れば、思いがけない返事が返ってきた。
“………っていうか、いつものシルはネアに甘えてるからね。わざと出来ない風にして、お仕置きして貰うのも喜んでるし”
“………そうだったんですね”
(…………そう言えば、お仕置き大好きっ子だった)
少しだけお仕置きへの熱意に慄きつつ、ネアはその弊害に溜め息を吐いた。
でも、隣でぐっすり眠っているディノを見れば、何だか微笑みが溢れてしまう。
頭を撫でたいけれど、起こさないようにやめておこう。
“シルはネアに会えていいなぁ。ネア、帰ってきたら、一ヶ月分たくさん遊んでね”
そんなノアにもほっこりして、微笑みが溢れる。
愛くるしい銀狐を思い出して和んだので、そこで楽しくやり取りしてしまったせいか、途中から謎にアルテアが割り込んで来た。
“全部で五種類買っておいたぞ。お前の話してたレモンクリームのと、紅茶と苺のジャム、蜂蜜とクリームチーズ。それに、鶏肉とスパイスのものに、チーズとトマトソースのだな”
(おまんじゅう!!)
アルテアからのそのお知らせには、心からの感謝を伝えておいた。
わざわざ詳細を書いて心を高めてくる仕様は嫌がらせにもなりかねなかったが、本日マロンクリームのものを食べたばかりの心穏やかなネアは、ただ感謝の意を示すばかりである。
「……………ネア、そこにいるのはまさか」
過熱した文通を終えてふうと一息吐いたところで、背後から暗い声がかけられた。
いつの間に来たものか、戸口のところにウィリアムが立っていた。
既に添い寝を終えたネアは、持ってきた椅子をディノの側に寄せてお見舞い付き添いスタイルになっていたので、ウィリアムが寝る方の寝台は空けてあるので安心だ。
「ウィリアムさん!ディノが来てくれたのです!…………きちんと対価を支払い、死者の国を荒らさないように気を付けてくれました」
あの痛ましい目の傷を思えば、後半はやけに暗く低い声になってしまう。
うっかり死者の国の法則への怨嗟が混じったので、ウィリアムがびくりと肩を揺らしていた。
「…………やっぱりシルハーンか」
そう呟いて頭を抱えたので、ネアは首を傾げた。
明らかに今気付いた風なので、ディノのような入り方をすれば、死者の王に気付かれずに死者の国に潜入出来るようだ。
予定ではこれから距離を詰める筈だったんだと呟いているのが謎だが、とにかく、ウィリアムはとてもぐったりしているようだ。
(むぅ、今日もお仕事を詰め込んで片してから来てくれたのかしら……)
「ウィリアムさん、いつもとは反対側が空いてますので、そちら側に寝て下さいね」
「い、いや、さすがにシルハーンの隣は………」
「うちの魔物は寝相も悪くないのです。ウィリアムさんも疲れてるでしょう?まずは休まれて下さいね。起きたらお話ししましょう」
「あ、……いや、…………ネア、本当に俺は…………」
ウィリアムはかなり抵抗したが、体はちゃんと休めないといけないので、ほぼ強引にディノの隣に押し込んだ。
今のネアはディノが来てくれて元気になっているので、とてもパワフルだ。
ある程度本気で逃げようとしたウィリアムを真剣に走って捕まえると、背中を撫でてやり動揺している隙に強引に寝台に詰め込んで、母のような気持ちでぽんぽんとお腹を叩いてやる。
弟が赤ちゃんの頃に、よくこうして寝かしつけたのだ。
(子守唄は、魔物さんが死んでしまう品質なので歌えないけれど!)
やはり疲れていたらしく、ウィリアムは弱々しく眠りについた。
「………寝てる筈。うっかり歌い出しかけた子守唄の所為ではない筈………!」
あまりにもすとんと眠ってくれたので、不安になってそう何度か繰り返し、ネアはまたディノの側に戻って寝台の端に丸くなって眠っている魔物をご機嫌で見つめた。
すぅすぅと眠っているディノを見ているだけで、心がほんわりする。
傷つけた目の方を下にして横向きに寝ているが、痛くはないのだろうか。
(……………幸せ)
大事な魔物が怪我をしているのに言う台詞ではないのだが、それ以外の言葉が思い付かなかった。
(これでもう、怖くないわ)
ディノがいればネアも地下室なんかへっちゃらだし、ネアの見ていないところで、この魔物が悲しんでいたりすることもない。
寂しがっていたら撫でてやれるし、寂しいときには抱き締めて貰えるのだ。
ご機嫌のネアはすっかり聖母な気持ちで、眠っている魔物達を見守る素敵な午後を過ごした。