135. 死者の国で逆恨みされます(本編)
その日ネアは、ウィリアムが地上に帰った後少しだけ眠り、お腹が空いて起きるという情けない状況に見舞われていた。
市場を歩いた時に、ふかふかおまんじゅうならぬ、もそもそスポンジまんじゅうを食べてしまったせいで、美味しいおまんじゅうへの憧れが爆発したのだ。
試しに保存用のクッキーを食べてみたが、何だか違うという結論に達する。
大事にとっておいて食べているものなので確かに美味しいのだが、欲しているものとの食感の差が激しい。
そして、妙な時間に起き出してしまったせいで、再びホラーな目に遭うことになったのだ。
「ほわふ!」
変な声を上げて廊下で転倒したネアに、階段下の暗がりで丸まって寝ていた墓犬が起き出してくる。
心配そうに覗き込まれて鼻先で頭をつつかれたネアは、廊下にうつぶせに倒れていた。
何もない筈の廊下で謎に転倒したのだ。
「…………墓犬さん。ものすごくびっくりしましたが、何かに躓いただけですよ。驚かせてしまってごめんなさい。……………む、何もない…………」
しかし、廊下はつるりとしたフローリングのようなものが続くばかりで、絨毯も敷いてなければ、躓くようなものが落ちてもいないのだ。
躓いたからには何かが落ちていたのだろうと楽観視していたネアは、その事実に震え上がる。
そろりと視線を持ち上げれば、恐ろしいことにネアが転んだのは地下室への扉の正面であった。
「……………き、気のせいでしょう。ウィリアムさんが、素敵な頑丈結界をかけてくれたのです。死者の国で、死者の王さんがかけた封印ですよ!悪い奴が出てくる筈などないのです」
自分なのか誰かになのかそんな風にぼそぼそと言い訳をしつつ、ネアはむくりと起き上がって目的だったキッチンに向かった。
グラスにお水を注ぎ、こくりと飲みこむ。
もやもやしながら起きているより、少しだけ動いてみてからまた寝ようと思ったのだが、まだ脈拍は早く心臓がどきどきしている。
何でもない筈だと自分に言い聞かせながら、よろよろと二階に戻る行程に入る。
「………むぅ」
そして、廊下の向こう側から心配そうにこちらを覗いている墓犬を見ながら、問題の廊下を歩き始めた。
意図的に地下室への扉は見ないようにして、ぎくしゃくと歩く。
「ふっ。やはり、大丈夫そう……むぎゃふ!」
その直後、ばすんとネアは転んだ。
ふるふるしながら起き上り、まずは一度二階に駆け上がって、こちらに落とされた日に着ていた持ち込みのワンピースに着替えると、猛ダッシュで一階に降りてくる。
件の地下室に向けて、どすんどすんと階段を上り下りする振動をかけているが、この際それはもうどうでも良かった。
「ガウ?」
「墓犬さん、私は少しだけお日様の光を浴びて心を浄化してきます!玄関前にいるだけなので、どうか寝てて下さいね!」
「ガウ?!」
どたどたと早足でネアがそう言い残して扉を開けると、墓犬は慌てたように駆け寄ってきた。
「墓犬さん、この扉のすぐ前にいるので寝てて構いませんよ?ごめんなさい、地下室の呪いを打ち破るべく、日光浴をしないといけない気分なのですが、屋内からだとこの時間の稀少な太陽光に触れられないのです」
「ガウ!」
「まぁ、一緒に居てくれるのですか?」
「ガウ!」
墓犬があまりにも頼もしくて嬉しくなってしまったネアだったが、玄関を出たところで、墓犬はキャフンとなってしまい、へなへなと玄関横の暗がりに避難してしまった。
弱っているというよりは、へべれけの酩酊状態のようなふらつき方だ。
「も、もしやお日様の光が苦手な体質なのでは……!」
慌てたネアがそう尋ねると、口惜しそうに小さく頷く。
(私が出てると、中に入れないのかもしれない)
ネアがどう言おうと、この墓犬の上司はウィリアムである。
だとすれば、無理をさせてしまうのは可哀想なので、ネアは一瞬浴びたお日様の光で満足することにして、屋内に引き返そうとした。
「ガウ!」
その瞬間、通りの方に背中を向けていたネアの横を擦り抜け、墓犬が何者かに体当たりする。
わぁっと声を上げて不審者は玄関前の階段を踏み外したが、体当たりした墓犬はかなりのへべれけ具合になってしまい、また慌てて日陰に引っ込んだ。
(て、敵襲?!)
墓犬が排除するような誰かが、いつの間にか後ろにいたようだ。
慌てて自分も日陰に駆け込んで墓犬の隣に移動したネアは、振り返って気付かぬ内に忍び寄っていた訪問者の姿を見て絶句する。
「………………ホラー映画の、定番的な精神異常者が具現化しました」
墓犬が体当たりした喜ばしくないお客様は、おじさまとでも呼びたくなるような上品な紳士だった。
口髭がふんわりしており、素敵なスーツ姿である。
そしてなぜか、女性もののつばの広い帽子をかぶって顎下のリボンで結び、白い婦人用の手袋した手にはギラリと光る手斧を持っていた。
あまりにも異様な恰好に震え上がったネアは、青ざめながらその紳士を凝視してしまった。
まじまじと見つめられた紳士は、灰色がかった死者の肌と隈の濃い目元を歪めて、猛然と反論する。
「精神異常者などではない!死者には陽光が毒なのだ!!それなのに日中動くには、こうするしかないではないか!」
「…………それは、大変失礼いたしました。………その、我が家に何かご用でしょうか?」
「悪く思うなよ。お前を殺しにきた」
「悪く思うしかない悪いやつですね。武力行使で排除するしかありません!」
「ふん、あの王子の連れだけある。何ともふてぶてしい女だ!」
突然の殺害予告から、またしても突然けなされてしまったネアは、その死者が口走ったことに目を瞠った。
(あの、王子の連れ………?)
嫌な予感がした。
現在、死者の国で誰かの連れ疑惑をかけられるとしたら四人程しか対象者がいない上、王子となると一人しか該当者がいない。
そして、あの王子とやらがジュリアン王子であった場合、あまり行いが良い気もしないのだ。
「もしや、……………ジュリアン王子のことを仰っていますか?」
「それ以外に誰がいる。この前の夜、お前達が一緒に掃除婦から逃げているのを見たんだ!!」
「………ええと、一緒に逃げたのではなく、遭遇してしまった結果囮にされそうになったのですが。……そして、あなたはあの方に恨みを持っていらっしゃるのですね?」
そのネアの問いかけに、死者の男はがちがちと歯を鳴らして頷いた。
しかしその度に顎先でピンク色のリボンがふわりと揺れるのが、何とも複雑な気分にさせる。
「………そうだ。私の一族が第三王子派であったのを許さずに、私を失脚させ、ヴェンツェル様に嘆願書をお持ちしようとしたその道中に、夜盗の仕業にみせかけて殺されたのだ」
「それは、………確かに恨みを抱かれて当然の仕打ちですね。もし、報復されたいようであれば、街の中心の壁の崩れ…」
「だからこそ、あの王子の仲間を殺して、愛する者を奪われる悲しみを思い知らせてやる!」
「…………話を聞いていただきたい」
げんなりしたネアの横で、へべれけ状態を回復させている墓犬も渋い顔をしている。
勘違いも甚だしい上に、人の話を聞かないので、これは確実に困ったお客であった。
(手斧を持っているし、暴れ出したらどうしようかしら)
扉を開けて、中に滑り込むだけでいいと思いたいが、あの手斧で扉を破壊されたらどうすればいいのか。
墓犬にもう一度頑張って貰い、共闘してネアが蹴り倒してもいいのだろうが、不憫な死因を思うとただ力づくで排除するよりは、きちんと事情を理解して貰い、正しい復讐相手のところへ行って欲しい。
(あの日のことを見ていたなら、ご近所さんだろうしなぁ………)
そう悩んでしまったネアの向いで、素敵な婦人帽子の男性は徐々にヒートアップしていた。
「こちらは、一人で死者の国を彷徨っているというのに、あいつは優雅に女連れときた。それも女には家を買い与え、自分では付き人と街の中心地で暮らしているそうじゃないか」
「…………正確に言えば、私は死者の国落としに巻き込まれた他人ですし、この家は自分で買いました。おまけに、何度か掃除婦さんから逃げる為の囮にするべく酷いことをされています。寧ろ、あなたと近い立場の側におりますので、どうぞ復讐につきましてはご本人にして下さい」
「もう二度と騙されないぞ。あの王子の所為で、三年前には私の娘も殺されたんだ!王子の愛妾がのうのうと生きているというのに、私の可愛いベッティーナは………」
どうやら、身内の恨みもあるらしい。
父親が殺された娘の復讐を抱えているとなると、かなりの重症になるだろう。
しかしネアは、あらぬ疑いをかけられたことであっさり冷静さを失ってしまった。
「あ、あの王子めの愛妾と思われるのは、大変に不愉快です!私にはちゃんと婚約者がいますし、他に誰もいなかったとしても、あの方だけは嫌です!」
「口からの出まかせを。貴族の女は悉く王族というものに惑わされる。あれが、どれだけ冷酷な男であるのかどれだけ説得しても、ベッティーナは………」
(どれだけベッティーナなのだ!)
恐らく、ベッティーナ嬢はあの王子に夢中になった上で悲劇に見舞われたようだ。
完全に他人事なのに、どうしてここまで責められるのかと、ネアはぎりぎりと眉間の皺を深くする。
もはや、ベッティーナに謝って欲しいくらいだ。
墓犬が太陽光でへべれけになっているので、一刻も早く屋内に戻ってやりたい。
ネアは少し焦り始めていた。
「お嬢さんと私を、同じものだと考えないで下さい。女性には、各自の趣味というものがあるんですよ」
「何が嫌だと言うんだ。あの男は、言うのも忌々しいことだが、容姿も美しくあるし、魔術の覚えもめでたい。有力者との伝手や代理妖精にも恵まれ、第二王子と第三王子が継承権を放棄している以上、事実上は第二継承者ではないか」
(どうして、全力で良いところを見付けてきたのだろう………)
案外、この父親も娘と同じ目線で人を判断してしまうタイプなのかもしれない。
熱く王子の魅力を説かれたネアは、半眼になる。
「生理的に嫌いです。人格ですとか、行いですとか、色々物申したい部分はありますが、残念でも残忍でも魅力的な方というのはたしかにいます。しかし私は、ジュリアン王子が生理的に嫌いなのです。これはもう、本能的な嫌悪感なので、あの方にどんな良さがあろうと、どれだけ整ったご容姿だろうと、生理的に嫌いなのです!!」
「……………生理的に」
ネアがあまりにも横暴な嫌悪感を熱弁し過ぎたのか、死者の男は若干たじろいだようだ。
或いは、同性として生理的に嫌いだと熱弁する女性の姿に、何やら胸に来るものがあったのかもしれない。
生理的にと何度か繰り返し呟き、しおしおとなってしまう。
(たたみかけるのなら、今しかない!)
ネアはここぞとばかりに、ジュリアン王子へのヘイトをぶちまけた。
「だいたい、道連れになったか弱い女性を、斜面から内臓破裂を見込んだ力で蹴り落とす王子様です。おまけに、悪いことをするときに、都度斜め上から目線で、目を細めて微笑むお決まりの決めポーズを見せつける有様。あの表情はちっとも素敵ではありませんし、寧ろ底の浅い愚か者という感じがします!」
「そ、そうなのか………。確かに、そんな表情を見たことがあるな……………」
「その上、一度近くで見て判明したのですが、あの方は目元にちょっとお化粧までしてます!!!」
「化粧………」
「あのお化粧を見た瞬間から、私は地上に戻ったら、ジュリアン王子にお尻が痒くて死にそうになる、一番恥ずかしい呪いを投げつけてやろうと心に決めました!それくらい嫌いなのに、愛妾と間違えられるだなんて、何たる屈辱!!!」
荒ぶるネアに、目の前の死者はすっかり怯えてしまったが、手に持った手斧を取り落したりはしなかったことで、更なる不幸に見舞われることになる。
男は知らなかったことだろうが、本日のネアのご機嫌は最下層である。
地下室の扉前転倒事件の不安に耐え切れずにお外に出たところで、まさかのこの仕打ちである。
もう目の前の男性が戦意を喪失しているのはわかっていたが、怒りを抑えきれなかった。
(斧で襲ってくるなんて、どれだけホラーな攻撃なことか!!)
女性ものの帽子を被った顔色の悪い死者が、手斧を持っていたのだ。
あまりにも定番的な絵面で、腹が立ってきた。
ネアはこの日、学んだことが一つある。
我が儘で心の狭い人間はどうやら、小さなストレスが溜まり過ぎるとちょっと泣きたくなるらしい。
ずっと、ほかほかのおまんじゅうが食べたくて悶絶しているところに、地下室からの精神攻撃があり、そこからの女物の帽子姿のおかしなおじさまの襲撃に合わせて、謂れのない言いがかりと、このセット技を受けたネアの精神はボロボロになっていた。
(……………おまんじゅう)
蒸しパンのようなふかふかの生地に、食事系からデザート系まで、素敵な具材がつまったお祭り特製のおまんじゅうを思えば、涙がじわっと滲んでしまう。
腹立たしくて悔しくて泣きたくなるのは、子供の癇癪のようなものだ。
分かっていても、なぜだか歯止めが効かなかった。
「…………ふぎゅ」
唐突に半泣きになったネアに、死者の男は怯えてしまった。
その反応が、明らかに様子のおかしい相手に遭遇してしまった一般人の反応であり、ますますネアは暴れたくなる。
なにゆえ、手斧を持って襲撃してきた女装の死者から、異常者扱いされなければいけないのか。
あまりにも世界の全てが理不尽な気がしてしまって、大声で泣き喚くか、地団駄を踏んで大暴れしたいと思ったその時だった。
「ネア」
懐かしい声が聞こえて、ネアは胸が潰れそうになった。
とうとう幻聴まで聞こえてしまったかと、ふすんと鼻を鳴らして唇を噛み締める。
そうして、声がした方を振り返った。
「………………ディノ?」
そこに立っていたのは、見慣れた擬態のネアの大事な魔物だった。
いつもの素敵な服ではなくて草臥れた濃紺のロングコートを着ているが、間違える筈もない。
大事な大事な、たった一人の魔物だった。
ぽかんと見つめていたら、いつの間にか目の前にいて、ぎゅっと抱き締められる。
きつくその胸に抱き締められて、それが幻覚ではないとわかり、呆然としたまま、お腹の中から強張った息を吐いた。
(…………やっと、)
やっと息が出来る気がする。
そんな訳はないのに、なぜかそう思って、ディノの体にしがみつく。
安堵した筈なのになぜか、すぽんとコルクの栓を抜いたみたいに、ぼろぼろと涙が溢れた。
「………ふぐ」
顎先に手をかけられて顔を持ち上げられ、子供のように泣いている頬に口付けられる。
涙を啜るその行為は酷く背徳的な筈なのに、福音を授けられるようなおかしな神々しさがあった。
「………その斧を持った人間が、君に悪さをしたんだね?」
底冷えするような艶やかな声に、ふるふると首を振る。
「その方は、思い込みの激しい勘違いのお客様です。私が、第四王子様の愛妾だと勘違いして、復讐心から襲撃に来てしまったのです」
「…………君が、あの王子の愛妾、……ね」
その一言で魔物の微笑みは鋭くなり、死者の男は蒼白になって手斧を取落すと、その場で蹲って震え始めてしまう。
擬態していても何某かの精神圧をかけられるのか、震え方が尋常ではない。
「普段なら笑い飛ばせる勘違いなのですが、………なぜか今日は心がいっぱいいっぱいで。………上手く飲み込めませんでした………」
ただ静かに涙腺だけ大崩壊させているので、傍目には静かに泣いているように見えるかもしれないが、ネア的にはかなりえぐえぐとしながらそう訴えれば、魔物はふわりと頭を撫でてくれる。
「そうなって当然だよネア。一人でよく頑張ったね。君の苦手な怖いものばかりの土地で、裏切られたり傷付けられたりするのは、どれだけ辛かっただろう。それなのに君は、我慢してしまっただろう?だから、…………すごく、心配だったんだ」
「…………ふぐ」
それは、思ってもいなかったディノの言葉だった。
こうして駆けつけてくれた魔物を見ても尚、ネアは、ディノ自身が我慢出来なくて飛び込んで来てくれたとばかり考えていたのだ。
(でも、ディノは私を心配してくれたんだわ)
「…………もっとです」
「ネア?」
「もっと、頭を撫でて下さい。私は、大事な魔物を抱き締めるのに専念します」
「……………可愛い」
「それと、あの女装のおじさまにはもはや何の用もないので、虐めたりせずに放置して、お家の中に入りましょう。きっと、前のガゼットの時のように、無理をして来てくれたのでしょう?」
そう言えば、ディノは少しだけ困ったように微笑んだ。
その微笑みにふと違和感を覚えたが、まだ泣き止めていないネアには理由まではわからなかった。
「これが、君が買った家なんだね」
「グエンさんが手配してくれたお陰で、安心して防壁に出来ています。………ただ、地下室が怖いのです」
またじわっと涙目になるネアを持ち上げて、魔物は玄関の扉を開けて家の中に入ってくれた。
陽光で若干へべれけになった墓犬もついて来て、玄関の中に入るとほっとしたような顔をしている。
「墓犬さん、太陽光が苦手だとは知らず、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。このディノは、私の大事な魔物なので安心して、どこかで休んでいて下さいね」
「ガウ」
ディノが現れても一度も警戒する素振りを見せなかったので、墓犬はある程度状況の把握と解析に長けた存在であるようだ。
言われるがままに、ディノにネアを預けたまま、靴箱の影の中に入っていく墓犬を見送りながら、ネアはその空気の読み方にも感謝する。
「墓犬さんはおりこうですね」
「相手を識別する知恵があるのだろう。この犬達は魔物だからね」
「まぁ、魔物さんだったのですか?」
「死者の国に適応し、場を荒らさない固有種の魔物だね。ウィリアムが作り上げたものだが、魔物である以上は私の影響も受ける。ここまで人間に擬態していてもわかるのは、優秀なのだろう」
ディノがそう墓犬を認めてくれたので、ネアは何だか嬉しくなった。
この墓犬がいなければ、ネアはグエンに会えなかったのだ。
だから、カードを介した会話の中でも、墓犬こそが生命の恩人だと何度か話していた。
ディノに内鍵をかけてもらい、玄関ホールを抜けてすぐの、階段下の扉を指し示した。
今日はウィリアムの結界で封鎖されている、ネアの苦手な扉がある。
「ここが地下室の扉なのです。地下には恐怖の絵がたくさんあり、私の宿敵である蜘蛛がいたりもしました………」
あの日のことを思い、ぞわりと背筋が寒くなってしまったネアに、ディノがしっかりと抱き寄せてくれる。
「大丈夫だよ、きちんと封鎖出来ている。それにもう、私がずっと傍にいるから安心していいよ」
「…………ずっと」
「君がここから出るまではずっと」
「…………ディノ」
そんな一言で、またほろりと涙が溢れてしまった。
(でも、ウィリアムさんもいたのにどうして?)
頼りになる人には再会していたのだ。
孤立無援ではないし、家もある。
限られた時間ではあるが、一日に一度はウィリアムにも会える。
それなのにどうして、こんなにくしゃくしゃになるのだろう。
(ディノは、私が我慢しているって言っていたけれど…………)
不測の事態に見舞われたのだから、我慢をするのは当然のことだ。
だからネアは、食べ物以外のところでは少しずつこちらに馴染んでゆくつもりであった。
「それと、ウィリアムは気付いていなかったみたいだから、コートも持ってきたよ」
「コート…………」
小さく息を飲んだ。
そう言えば、ここの死者の国は秋だった。
それなのに、ネアは上着を着たことがなかったのだと、今更ながらに思い出す。
確かに今着ているワンピースでも凍えたりはしないが、贅沢を言えば軽めのコートがあれば嬉しかった。
「…………コートが必要だと、自分でも気付いていませんでした」
「気が張っていたんだろう。ただでさえ、あまりよく眠れていないんだ。ウィリアムは、君が起きている時に来る方が多かったみたいだね」
言われてみれば確かに、ネアが眠りにつく頃にはウィリアムはいない。
仕事帰りである彼は、ネアがあと二時間くらいで起きるかなという時間になってからこちらに来て、ネアが起きた後も二時間くらいは眠っているようだ。
そして、その重なり合う二時間くらいが、ネアにとって唯一ぐっすりと眠れる時間であった。
その前の時間は、一時間おきくらいにはっとして目が覚めてしまうのだ。
その度に、周囲を見て異変がないのだと安心してからまた寝ていた。
起きる度にディノからのカードに返信したりもしていたので、あまり眠れていないとわかったのかもしれない。
(でも、ウィリアムさんが来てから、睡眠不足だと思ったこともなかったわ………)
ディノを応接間に入れてから、床に下ろしてもらい、ネアは、あらためて自分が何と不健康な生活だったのかを噛み締める。
「…………お茶を淹れますね。あまり美味しくはありませんが、ひとまず体は温まりますから。お茶をしながらゆっくりと、どうやって私を見付けてくれたのか教えて下さいね」
「うん。ネアの楽しみにしていた、おまんじゅうがあるよ」
「……………ほわ」
「ウィームを出た時間が早かったからね、まだ一つの店しか出来上がりがなかったんだ。ネアの食べたがっていたジャムのものと、鶏肉のものはなかったけれど、栗のクリームが入っているそうだ」
「マロンクリーム!」
喜びのあまり、ネアは倒れそうになった。
濃厚なマロンクリームのおまんじゅうも、無難に美味しそうだったのでお土産用に買う気満々でいたのだ。
微かにお酒の風味のあるふかふか生地に、とろりとしたマロンクリームを想像しただけで、幸せでいっぱいになる。
「………どうしましょう。ディノが傍にいるだけで幸せで息が苦しいくらいなのに、おまんじゅうの喜びも加わってしまいました。嬉しくて嬉しくて、お部屋の中を駆けずり回りたいくらいです」
「……………うん。やっと、いつもの君の表情に戻ってきた」
「む。さっきまでは違ったのですか?」
「悲しそうだし、疲れていたよ。でも今は、…………にこにこしてて可愛い」
「九割は大事な魔物が来てくれたからです!一割はおまんじゅうに使わせて下さい」
「可愛い」
幸せそうに微笑むのは、ディノもだ。
ふわりと微笑まれて頭を撫でられて、ネアはかさかさのスポンジが水を吸い込むようにその感触を堪能する。
「疲れたでしょう?座っていていいですよ」
「ネアが虐待する…………」
「あら、へばりついていますか?」
「…………うん」
「私もディノが傍にいてくれると嬉しいですが、お湯を沸かすので、火傷しないように気を付けて下さいね」
ケトルに水を入れて火にかけると、無骨なマグカップを用意した。
魔物はマグカップに慣れていないからか、こんなに重たいカップしかないなんて可哀想にとしんみりしている。
一気にたくさん用意する時にはいいのだと教えてやれば、不思議そうに無骨なマグカップを見ていた。
やがて、お湯が沸いてお茶がはいると、二人は食卓のテーブルに並んで座った。
擬態中だからか、ディノが自分用の金庫から、状態保持魔術をかけられたほかほかの茶色いおまんじゅうを出してくれる。
それを渡されて、ネアは大興奮で足をばたばたさせた。
すぐに食べられるように紙袋の簡素な包装だが、おまんじゅうの皮にくっついたりはしない素敵なコーティング紙の紙袋だ。
(よ、四個も入ってる!)
「君にカードで食べたいものを聞いただろう?それも全部持って来たし、他にも食べ物をたくさん持っているから、好きなだけ食べていいからね」
「むぐ!……でも今は、再会の祝賀会として一個ずつにしましょう。また一緒に食べましょうね」
「全部食べていいんだよ?」
「ディノと一緒に食べると、幸福感が増すのです」
「ご主人様!」
はしゃいだ魔物にぐりぐりと体を擦り付けられ、ネアはこそばゆい幸福感に微笑んだ。
(…………あ、)
そこでようやく、ネアはディノに感じていた違和感に気付いた。
擬態していることに加えて、髪型がいつもと違うのだ。
長い髪をふわりと片方に寄せて三つ編みにしているのだが、右側の半面に前髪がずいぶんとかかってしまっている。
前髪といっても、側面の髪と馴染ませられるくらいには長いので、編み込めずに崩れてしまったのだろうかと心配になった。
道中で苦労をしたりして、乱れてしまったのかなと可哀想になる。
「ディノ、そちら側の目に髪の毛がかかっていて邪魔じゃありませんか?…………っ!!」
はらりと顔にかかった髪をどかしてやろうとして、ネアは息を飲む。
「ごめんね。少し見苦しい状態だから、隠しているんだ」
そう困ったように微笑んだ魔物が、ネアが手でどかそうとしてしまった髪の毛を元通りにする。
ネアは言葉を失ったまま、目を瞠って大事な魔物の美しい水紺色の瞳を見上げた。
もう片方の目がある筈の顔の右側。
今は髪の毛で隠されてしまったその右目の部分には、焼け爛れたような酷い傷があった。
そして、対である筈の片方の瞳が失われていたのだ。