134. 死者の国でお留守番します(本編)
ネアは傷だらけで持ち帰られ、何とか目下の自宅に戻ってくることが出来た。
しかし、まずは鍵を開けっ放しで不用心だと怒られ、その後不用意に一人で外に出たことも叱られてしまう。
今夜のウィリアムは怒りっぽいぞと、思春期の娘のように考えながら素直に謝っておいた。
頼もしかった墓犬は、ネアが追いかけっこで散々な目に遭っている頃は、この街に入ったウィリアムを迎えに出ていたらしい。
なまじネアが手懐けてしまったのが、門番長であったのが裏目に出たようだ。
「グエンさんのケープも、回収出来て良かったです」
ネアがそう言うのは、ジュリアン王子に魔術陣で吹き飛ばされた際に紛失していたグエンのケープだ。
ウィリアムにその一角に立ち寄って貰ったところ、うまい具合に取り落したようで、さしたる汚れや傷もなく地面に落ちていた。
これは魔術師用のケープらしく、死者になった時に持ち込んだであろう大事なものだと思うので、無事でほっとした。
何だか不思議な気分でウィリアムを応接間に通すと、どこか満足げに部屋を見回している。
「この家を買ったのか。確かに、手配した者は好意的だったんだな」
「そういうものですか?」
「家を見ればわかる。これは、死者の国でも恵まれた方の屋敷なんだ。死者はやはり生者を疎む者が多いから、ここまでの家を用意してくれるのは珍しい」
「グエンさんは、生前エーダリア様のご友人だった方なのです。でも、お互いのその繋がりがわかる前に、この家を紹介してくれたいい人なんですよ」
「グエンか。………もしかして、ガレンにいた魔術師かな?」
「まぁ、ご存知なんですか?」
「一応、死者の国に入り込んで生きて戻った生者だからな。この国から誰かや何かを盗み出すことは出来ないが、念の為に調べたことがあるんだ」
ウィリアム曰く、当然のことと言えば当然であるが、死者の国から親しい者の魂を連れ帰ろうとする者もいるのだそうだ。
元々、人間の力では死者の国の門は破れないのだそうだが、万が一そこを突破出来たとしても、死者の日以外に地上に連れ戻された死者は、土くれになって崩れてしまうらしい。
「さて、まずは治療だな」
長椅子の上に下されるや否や、ウィリアムはそう微笑むとコートを脱いで袖を捲った。
微笑んだ目がちっとも笑っていないので、ネアは祭壇の上の子羊な気分になる。
「むぐ、転がされたのと、転んだのと、弾き飛ばされたのとの三段活用です」
「手のひらを見せてくれるか?………酷いじゃないか」
「なぜだか、こちらに来てから怪我の上限が上がったような気がします……」
「シルハーンの守護が揺らぐんだろう。ここは、人間の為の国だから、魔物の力が及び難い。長くいればいる程に薄まっていくぞ」
「むぅ。………それなのに、爪先を滅ぼした筈の第四王子様は、割と丈夫でした」
「君と違って祝福が万能ではない分、祝福や守護で織り上げられた布や丈夫な素材を使ったものを身に着けているんだろう。衣服や道具にかけられた魔術は薄れないんだ」
「………そう言えば、今日はこちらで買った服を着ていました。そのせいで、あちこち痛いのかもしれません」
「よし、脱ごうか」
「…………脱ぐ」
ネアは目をぱちぱちさせてウィリアムを見上げた。
なぜかお医者さんモードだが、我儘な人間としては、魔物なのだからぺっと一瞬で治して欲しいと思っている。
「まずは肩かな。患部を見る必要があるからな」
「背中とお尻も痛いので、あまり見られたくありません………」
「ネア、手当が第一だろう?」
「かつて、ディノもそういう罠をしかけましたが、実際には一瞬で治せたのです……」
「ここは死者の国で、地上とは魔術の作用が違うんだ」
「むぐ………」
なぜか逆に叱られてしまったので、ネアはその後、心を無にして粛々と手当を受けた。
とは言え涙目でぶるぶるしているので、ウィリアムはくすりと笑っていたようだ。
年齢的にはウィリアムもお年寄りのようなものだから気にしなくてもいいのだと、心の中で呪文のように繰り返して正気を保っていたネアだが、こんな淑女としてあるまじき辱めにあったので、よりいっそうにジュリアン王子への憎しみを募らせる。
ウィリアムから何かをされてしまったのは知っているが、ネアからも嫌な呪いを送りつけておこう。
「そう言えば、ジュリアン王子はどうなってしまったのでしょう?お仕事は継続出来そうでしょうか」
「心配しなくていい。半身を死の領域に入れただけだ。機能が失われる際には激しく痛むが、その後はまぁ、どうにかなるだろう」
「…………そこそこに激しいお仕置きでした。と言うことは、歩けなかったり……?」
「この国の死者と同じで、動かすことは普通に出来る。地上に戻っても土くれになったりはしないが、肌の色は劣化するし、肌の感覚はないだろうな」
ついでに補足すれば、そちら側の目は明るい光に耐えられなくなり、舌は濃い味を受け付けなくなる。
物凄く不便な半分仕様なので、ネアはさすが魔物のお仕置きだと遠い目になった。
危うく何度か殺されかけてはいるのだが、じわじわと精神を抉る系の罰に少しだけ可哀想になる。
「残りの半分は、シルハーンに残してあるから安心していい」
「むぅ。もはや、その半分で充分な気もしなくはありません」
「ネア?ある程度報復をさせてやらないと」
「お仕事が出来るように調整してくれればいいのですが………。ところで、ウィリアムさんが話していた、第四王子様の祝福というのは何か特別なものなのですか?」
「ああ、彼はどうやら因果の精霊の祝福を欲張って受けさせられたみたいだな」
「欲張って?」
こてんと首を傾げたネアに、甲斐甲斐しく紅茶を淹れてくれながらウィリアムは教えてくれる。
すっかり病人扱いだが、弱ってしまっているのはお医者さんの触診が精神を蝕んだだけであり、擦り傷や打ち身はすっかり回復している。
全てが終わってから、ディノの傷薬を飲めば良かったではないかと気付いた時には、悲しくて死にそうになった。
「ジーンを知ってるだろう?あの弟に、因果の成就を司る精霊王がいる。そんな最高位の精霊の祝福を強請れるくらいには、良い庇護者に囲まれて生まれたんだろう。でも、よりにもよって成就の祝福の後から、終焉の祝福を受けてしまってるからな。………何と言うか、得られるものが大きい割には何一つ成功しないという仕上がりになるんだ」
「もはや、それだけで充分に呪われた生涯だという気がしてきました………」
「同等の守護の場合は、順番がものを言うからな………」
おまけに、ロクサーヌからは愛を得られないという呪いもかけられているそうで、そうなってくると捻くれても仕方ないのではと思わざるを得ない。
何もかもが上手くいきそうで上手くいかない人生など、ネアであれば投げ出したくなるだろう。
「すまない、お湯を沸騰させ過ぎたから火傷しないように」
「いえ。お茶を淹れてくれて有難うございます。あのケトルは、大きさの割に妙にお湯が沸くのが早いんですよね」
「誰かの持ち込んだものなんだろう。火の妖精の祝福がかけられてる」
素朴なマグカップを渡して貰い、ネアは家の中に頼れる知人が居る安堵感にほっこりする。
この家に用意されていた食器は割と機能重視のものが多く、華奢なティーカップなどはないようだ。
お砂糖やミルクも使わない家主だったのか、ティースプーンなどもないので難儀していた。
そんな応接間にすらりと立っているのは、悪夢の中でネアを少しは自分ごとにしてくれた見込みのウィリアムだ。
彼ならば、グエンや墓犬と違って、ネアが自分の責任と領域で頼れる相手である。
時給を払う必要もないし、もう帰ると言われた時には、もう少しいて欲しいと言うことが出来る人だ。
「それにしても、いい街に落ちてくれた。十の国の十三区は教会が少し厄介だが、過ごし易いところなんだ」
「とおの国、というところなのですね。死者の国に落とされてしまう場合は、どこに落ちるのか決まってないのでしょうか?」
「死者の場合は、その魂の履歴に紐付いて分類される。大抵は、生まれた土地か、死んだ土地を基準にして振り分けられるから、ヴェルリアからはこの国の十三区と十四区、零れた一部は十二区だったかな。でも、生者が落ちるときはその決まりがない。一番厄介なんだ」
「一つの国が、更に区で分けられているんですね」
「ああ。国が十三、各国がその上で六十四区に分かれているんだ。何しろ死者は多いから」
「ろ、ろくじゅうよんく………」
ネアが驚愕してしまったのは、ウィリアムがネアを見付けるまでに九か国を回って来たと聞いているからだ。
それを踏破してきたのなら、さすがに終焉の魔物と言え、疲れてしまうだろう。
「…………ウィリアムさんは、私が死者の国に落ちた気配を感じてすぐに、地下に下りてくれたんですよね?」
「さすがに、核を与えた相手が死者の国に落ちればわかるからな。だが、地下にいるとしかわからないのが難点だな。たまたま死者の国にいる内に落ちてくれれば、場所の特定も大まかに出来たんだが」
そう話しているウィリアムは、万が一のことを考えて治安の悪い国から優先的に探してくれたらしい。
一から四の国は、死者の国の中でもネアの感覚で言うところの煉獄に近い凄惨な土地なのだそうだ。
「もしかして、ほとんど寝てないのでは………」
「ああ。そう言えば久し振りに座った気が…」
「ね、寝て下さい!!お茶を飲んだら少しでもいいので、二階で休んで下さい!!」
「はは、そうさせて貰おうかな」
そう笑った顔がいささか虚ろだったので、ネアは恐怖の地下室問題と、この屋内に他にも蜘蛛が居ないか問題は後回しにすることにして、お茶を飲んだウィリアムをすぐに二階に上げた。
「ネア、………この寝室はどうしたんだ?儀式かな?」
しかし、ネアの使っている寝室に案内されたウィリアムは、入るなり立ち竦んだ後、何かまずいものを見たという顔をしてこちらを振り返った。
「儀式ではなく、シダ―ウッドですね。地下室で蜘蛛めに出会いましたので、寝台には近付かないようにぐるりと周りを囲ったのです!」
「そうか、………蜘蛛避けなんだな」
ウィリアムを呆然とさせてしまった寝室は今、シダ―ウッドの枝でぐるりと寝台の周りを囲まれている。
壁に面したヘッドボードの方は壁に飾りつけ、臨時の物理的結界にして蜘蛛の侵入を阻むしかけだ。
シダ―ウッドの香りを蜘蛛が嫌うことは知っていたので、こちらで見付けた虫よけの枝の束をそのまま購入し、製油にする余裕もないままに床に敷き詰めてある。
とても野生的な部屋にはなるが、背に腹は変えられない。
死者の国にも虫がいる仕様を、どうにかして欲しいのが本音だ。
「屋内に蜘蛛が入らないように調整するから、この枝は後で片付けるぞ」
「ほわ!蜘蛛がいないのであれば、この、跨ぐ度に足がちくちくする枝ともおさらばです!!」
「…………何だか、早く見付けられなくてすまなかった」
謎に少し落ち込んでしまったウィリアムを寝室に残し、ネアはとてとてと階段を下りてきた。
さっきまではこの階段も真下に地下室への扉があると思って怖かったのだが、今はもう普通に歩ける贅沢さに胸がすっとする。
そして、今度は祝杯用になるクッキーを首飾りの金庫から取り出して、ネアは三枚のカードを広げて同じメッセージを書いた。
“ウィリアムさんと合流しました!悪い王子を懲らしめて貰い、蜘蛛を家から追い出して貰って一安心です”
すぐに反応があったのは、ディノのカードだ。
ネアは最近、魔物は、常にこのカードを見つめて過ごしているのではないかと不安になることがある。
“ウィリアムが来たんだね、良かった。今も側にいるかい?”
“私を捜索して九ヵ国踏破してくれたそうで、今はお二階で仮眠をとっています”
“起こしていいよ。私がそちらに行けるよう、調整しよう”
“ディノ、せめてひと眠りさせてあげて下さい。私は同じ屋根の下にウィリアムさんがいるので、もう安全ですからね”
“ネアが虐待する………”
“なぜなのだ…………”
すっかり荒ぶる魔物に引き続き、エーダリアからも返信が来た。
“それは良かった。一安心だな。………ところで、ジュリアンはまた何かしたのか?”
“偶然道で会った私を、転ばせたり、魔術で吹き飛ばしたり、掃除婦さんへの生贄にしようとしました”
“……………何と言うか、本当にすまない”
“エーダリア様のせいではありませんし、その現場に来てしまったウィリアムさんに、すごいお仕置きをされてしまっています。因みに、いなくなってしまうのも困るかもしれないと考えましたので、お仕事は出来る体にしてありますよ”
“おや、そろそろ処分してしまっても良かったかもしれませんが、どうなられたのでしょう?”
ヒルドのその言葉には、エーダリアがいつものように、ヒルド……と呟いて遠い目をしている光景が想像出来たので、ネアは何だか懐かしくなって唇の端を持ち上げる。
何度も説明すると大変なので、ディノにもエーダリア達と合流して貰った。
“体の半分が死んでしまったそうです。具体的には……”
そこでネアがウィリアムから教えて貰ったことを説明すると、カード越しにも伝わる、うわぁという雰囲気になった。
少し、とは言え兄であるエーダリアの反応が気になったが、特に心を痛めた様子はないのでほっとした。
“ある種の異形の呪いだね。勿論呪いなのだけど、その相手に怒りを向けたことが明白になり過ぎるから、繋がりを残すことを嫌がる魔物は、普通はそこまで面倒なことをしないんだ”
そう教えてくれたのはディノだ。
エーダリア達のカードを覗き込み、自分用のカードから返事を出してくれているらしい。
“わーお、どれだけウィリアムを怒らせたんだろう。ネア、具体的にどれくらい怪我したの?隠し事なしで全部教えること!”
そう追及を入れてきたノアもその場にいるようだ。
アルテアのカードからは、今のところ返信がない。
“ええと、頬っぺたと両方の手のひらをばりっと擦り剥きました。おでこがちょっと切れていたのと、肩が裂傷と重めの打撲、背面が打撲、足首に裂傷と捻挫を……”
どうせウィリアムが言ってしまうだろうと諦めて、ネアは正直に告白する。
今回の場合は手荒に扱われたことに加えて、毎回着地点が石畳だったのがよろしくなかったのだが、二枚のカードは冷気が漂ってきそうなくらいの沈黙をたたえる。
“あの、でもウィリアムさんが治してくれましたよ?今は傷一つありません!”
“…………ネア様、肩の重めの打撲とは具体的にどんな感じだったのでしょう?”
“…………具体的にでしょうか?”
“ええ、具体的に”
やっと返事をしてくれたのは、怖いお母さんモードが全開のヒルドだ。
“…………吹き飛ばされた時に肩で着地してしまったらしくて、脱臼しかけていたそうです。内出血がそこそこにありました”
“ジュリアン王子は、もういらないかもしれませんね”
素晴らしく達筆な恐ろしい返事がすぐさま返ってきたので、ネアはぎゃっとなった。
せっかく頑張って交渉したのだから、何とか今後もジュリアン王子を計画的にご利用いただきたい。
王子が五人もいる大国なのだから、一人ぐらいは害にならない程度にヘイト勢専用となって欲しいのだ。
王子と悪巧みするだけで溜飲を下げる輩も案外多いので使い勝手がいいと、以前にダリルから聞いたような気がする。
“で、でも、自分で転んだりもしたんです。敵と交戦する際に、ヒルドさんに教えて貰った素敵な蹴り技を披露したのですが、体が硬くて足が綺麗に上がりませんでした。その反動でも転倒してしまって情けなかったです”
因みにその際に地面に激突させた後頭部は、見事なたんこぶになっていた。
ディノの髪の毛だったものを溶け込ませた場所なので思ってたより損傷はなかったが、就寝の際に困る悲しい位置だったので、治して貰えてほっとしている。
そんな風に自分の残念エピソードを披露して空気を和ませようとしたネアだったが、残念ながら特に効果はなかった。
“可哀想に、酷いことをされたね。その王子には私がきちんと話をしておこう”
こちらはこちらで、沈黙の長さで怖すぎる雰囲気作りをしてから、ディノはそう返事をくれた。
寧ろ荒ぶっていないのが非常に恐ろしい。
だが、ウィリアムからはきちんと発散させるようにと言われているので、ネアは今後も第四王子が国の為に働けるようにというお願いだけを、控えめに伝えておく。
(何だかもう、初回の一撃が一番被害甚大だったのだけれど、それを言えない雰囲気になった!)
内部破損を想定した蹴りを受けたと言ってしまったりしたら、あの王子はどうなってしまうのだろう。
どうか、被害者のネアにも報復する余地を残しておいて欲しい。
後にこの秘密は、リーエンベルクに謝罪に来たリーベルより露見してしまい、ジュリアン王子が真夜中に寝所に侵入した妖精に頭皮ごと髪の毛を毟り取られたという凄惨な話を聞いたが、ネアがその後に見かけたときには、頭部に髪の毛らしいものが乗っかっていたのでデマかもしれない。
しかし、少しだけこめかみあたりの毛が浮いていたので、鬘だったのだろうか。
行いが酷すぎてすっかり失念しがちではあるが、彼の容姿がジークに似ているのは確かなので、ネアは悲しい気持ちになった。
ウィリアムが眠っている間、カードのメッセージを読んだりお返事したりしながら、ネアは久し振りの心の余裕を楽しんでいた。
もう一人ぼっちではないのだ。
それに、ウィリアムが起きたらディノがこちらに来れるように手配して貰えると思えば、無駄にばすばすと椅子の上で弾んでみたりもしてしまう。
明日あたりには、大事な魔物の頭を撫でてやれるだろうか。
そう考えるとついはしゃいでしまう。
(一か月はこの家に一人ぼっちかと思ったけれど、案外に早くディノと合流出来そうで嬉しいな……)
そう浮かれていたネアが、驚きの事実を伝えられたのは数時間後のことだった。
「ああ、シルハーン達に話をしたんだな。ただ、ネアにはもう少し我慢して貰わないといけない。今はここに余計な調整をかけられないんだ」
「…………ディノはこっちに来れないのですか?」
「今回は、少し特殊な人間が落とされ過ぎてるだろう?ネアは高位の守護や契約が多過ぎて魔術基盤を揺らすし、それはあの王子や枢機卿も同じだからな。この上でシルハーンまで受け入れるのは無理だな」
「……………そうなのですね」
四時間程仮眠を取って、少し穏やかになって一階に下りてきたウィリアムは、そんな衝撃の事実でネアを呆然とさせてしまう。
目を瞠ったまま悄然としたネアに、少し申し訳なさそうに微笑んで頭に手を乗せてくれた。
「すまない。死者の国というのは特殊な場所だから、あまり安易に揺るがすことは出来ないんだ」
「…………いえ、そういうことでしたら仕方ありません。こうしてウィリアムさんに一度会えて、ほっとしました」
「そのことだけど、鳥籠を一つ出しっぱなしにしてあるので一度は地上に戻らないといけないが、俺が、一日に一度はこちらに下りてくるようにするよ。そうすれば、ネアも少し安心だろう?」
「そ、そんなことが出来るのですか?」
やっぱり一人ぼっちの生活に逆戻りかと項垂れていたネアは、思いがけない提案に長椅子の上で小さく弾んでしまう。
確かにグエンもこちらにはいるのだが、やはり彼は身内と言う感じではない上に、死者である。
地上でネアの側にいてくれた、或いは友人関係のある誰かが一緒にいてくれるのとは大違いだ。
「スールの鳥籠自体は、そろそろ中も終わってるだろう。………と言うか、そろそろ出してやらないと死に過ぎるな。そこはすぐに片付けるとして、他の予定も上手く消化してこよう。出来るだけ夜に戻れるようにすれば、買い物やなんかも付き合ってやれるし、不便がないんじゃないか」
「ウィリアムさん!」
安堵した後に落とされてからの救済案であったので、ネアは涙が出そうなくらいに喜んでしまう。
ただの安心感のある知り合いなだけではなく、死者の国はウィリアムの領地だ。
ディノ以外であれば、これ程に頼もしい保護者はあるまい。
そして、ネアの安全を確保したということで、ウィリアムはひとまず一度地上に戻ることになった。
その前にと、カード経由でディノ達への事情説明を買って出てくれる。
“これ以上、死者の国を不安定には出来ませんよ。ネアがこちらにいるんですから、もしもがあってからでは困るでしょう。それに、あまり無理を言って彼女を不安がらせないで下さい”
とは言え、当然だがディノとノアが大騒ぎしたので、最終的にはそうぴしゃりと叱りつけている。
カード内ではまだ魔物達が荒ぶっていたが、ウィリアムは仕事に出るからと素っ気なく無視する方針のようだ。
もしや、この荒れ狂う魔物達の後始末をするのは自分なのだろうかと、ネアは少しだけ気が遠くなる。
「もしかしたら、シルハーン達とも少し話をしてくるかもしれないな。でも、早く帰ってくるようにするから心配しなくていい。何か欲しいものはあるか?」
「むぅ。…………ウィリアムさん、出勤してゆくお父さんのようですね」
「うーん、お父さんか……………」
「そして、ハムとパンとバターが欲しいです!普通の味のご飯が食べられれば、心が元気になります!」
「わかった。食糧を揃えてくるよ」
しかし、ネアは出勤するお父さんに大事なことを頼み忘れてしまった。
地下室の問題の根本解決をお願いする筈だったのを、ころりと忘れて行ってらっしゃいと送り出してしまったのだ。
ウィリアムが去って行き、今後のウィリアムがいない間の警護策としてネアの家の一階に常駐することになった墓犬がやってきた頃、ネアはまたしても問題の地下室への扉の前で慄いていた。
「ガウ?」
「…………墓犬さん、とても恐ろしいことが発覚しました。なぜか、グエンさんがかけた地下室の封印が破られています」
それはとても厳重な封印だったのだ。
しかしなぜか、ばりんと壊されている。
扉はきちんと閉まっていたが、ネアはまたしても泣きそうになった。
「もはや、あの王子様とリーベルさんを我が家で預かって、あの地下室に住んで貰いたい気分です。誰かを囮にする気分がとてもよく分かってしまいました」
「ガウ……」
「おのれ、ここに来て映画のどんでん返しのように、助かったと思ったところで滅びたくはありません!」
「ガウ?」
その後ネアは、お風呂や着替えなど、無防備そうなところでは必ず墓犬に側にいて貰った。
着替えの時などとても必死に顔を背けてふるふるしているが、そう言えばこの墓犬の正体は何なのだろう。
元が人間であったりしたらセクハラになってしまうので、後でウィリアムに尋ねておかなければ。
やがて就寝時間になった頃、ネアは妙案を思いついた。
ウィリアムが寝室に敷き詰められていたものを片して部屋の隅に積み上げてあったシダーウッドの枝を、これでもかと地下室の扉の前に並べてやったのだ。
これでせめて、蜘蛛っぽい系統のお化けが出現しても追い返せるだろう。
墓犬は、階段の踊り場のマット上で眠るようだ。
地下室からの不届き者が寝室に上がらないようにしてくれるようなので、心から頼もしい。
(そう言えば、この家って寝台は一つしかないけれど、死者の国でも寝台って売ってるのかしら?)
寝転がりながらそんなことを考える。
寝台には、微かに終焉の魔物の香りが残っていた。
ディノとは違うけれど、淡く記憶の中に残っていて、ウィリアムのものだと分かる程度には知っている香りにほっとする。
(でも、…………)
ディノに会いたかった。
そう考えてじわりと涙が滲む贅沢さに、苦笑して、ネアは目を閉じた。
こうして、ネアの死者の国での六日目は、若干の進展を見せ、過ぎて行った。