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133. 死者の国で遭遇します(本編)



結論から言うと、あの日のネア達は無事に掃除婦から逃げ切った。

グエンは逃走経路を熟知しており、尚且つガレンの第二席だったという素晴らしい魔術を披露してくれて、それはもう簡単にひょいっと掃除婦の追撃を躱してくれたのだ。


自分を抱えてくれたまま逃走してくれたグエンにネアは恐縮したが、彼曰く、ネアくらいのサイズの生き物を抱えて走るのには慣れているのだそうだ。



“グエンの契約の魔物はな、お前くらいの背格好の少年だったのだ。気が強くてあちこちで喧嘩をしていて、よくグエンがユルルを抱えて逃げていた”


そう教えてくれたのはエーダリアで、ユルルと言うのが、先代の蔓草の魔物の名前だそうだ。


魔物を得る前のグエンは、特等の魔術師の一人だが、ずぼらで勤務態度もよろしくなく、呑んだくれては行方不明になりがちな魔術師だったのだそうだ。

そんな彼が、エーダリアの前のガレンエンガディンを追いかけて死者の国まで下りたのは、事故で失った妻子を探す意味もあったのだと言う。


しかし、死者の国では誰にも巡り会えなかった。

目的の魔術師長も見付けられず消沈して地上に戻った彼が、たまたまその任務明けで深酔いして歌っていたところに現れた魔物の一人が、ユルルだったらしい。


“すごい騒ぎだったのだぞ。五人もの魔物が、グエンを巡って大騒ぎだ”


そう教えてくれたエーダリアは、グエンは魅力的な男だからなと付け加えた。


それは、ネアにも何となくわかる。

グエンの魅力は、いい加減そうに見えるのに情深いところだったり、親程の歳のくせに妙に子供っぽいかと思えば、ぞくりとするような酷薄さを見せる特等の魔術師だったりするところだ。

ネアの嗜好範囲ではないし、女性によっては面倒なお相手だと回避してしまいそうだが、同性であるエーダリアから見れば、憧れの大人の男性という雰囲気なのかもしれない。


そしてそれは魔物にとっても例外ではなかったらしく、彼の歌に惹き寄せられたのは、伯爵位からなる五人の魔物であった。


世にも美しい赤髪の女性の魔物や、忠義の犬になりそうな無骨な騎士姿の魔物、玲瓏たる美貌の大きな蝙蝠の翼を持つ青年に、虎の姿の獰猛な魔物。

そんな様々な魔物の中から、グエンが選んだのは一番階位の低い蔓草の魔物だったのだ。

グエンがその魔物を選んだ理由はとても単純で、生意気な物言いの少年姿の魔物が、亡くした息子にそっくりだったからだそうだ。


(グエンさんにとっては、きっと家族のような魔物さんだったのだろう)


ネアにもよくわかる感覚なので、お互いが歌乞いだと知った二人は、たくさん契約の魔物の話をした。

カードを使ってディノに尋ねてみたところ、新しい蔓草の魔物はお転婆な少女だそうだ。

すると、性別が変わっていて良かったとグエンは言う。

新しい蔓草の魔物があまりにもユルルに似ていると、未練が残ってしまうからなのだそうだ。


『最後までな、ずっと俺はユルルを契約の魔物だとしか思ってなかったのさ。ところが、あいつが職務範囲外でジュリアン王子に近付きやがって、あの黄昏のシーに殺されたとき、ユルルは二番目の息子だったんだと気付かされた』


蔓草の魔物は、レーヌを失脚させる為にジュリアン王子に近付いたのだそうだ。

当時のレーヌは、エーダリアやダリルの周囲を削ぐのを楽しんでおり、グエンも一時的にその標的にされたことがあったのだ。


『俺は自力でそのレーヌの刃を躱したってのに、ユルルの奴は、あの女が俺を標的にしたことを許さなかった。………あれはな、俺がもっと早くあいつを家族みたいに扱っていれば、防げた擦れ違いだったんだ』


踏み込めば話し合えて止められたのに、職務以上にはと考えて踏み込まなかった。

だからグエンは、契約の魔物を亡くした後すぐにガレンを退職し、まずは、ガレンの魔術師という肩書きを払拭する為にガーウィンの教会魔術師になったのだそうだ。

そこで二年間勤め上げてから、晴れて復讐に出かけたのだと。


『ま、負けちまったけどなぁ』


からりとそう笑うのは、もうレーヌもいないからなのだそうだ。

新しい蔓草の魔物も生まれたのだから、自分達の章が終わり物語が次の頁に入ったのだなと笑うグエンに、ネアはエーダリアがこの魔術師を信頼していた理由がわかる気がした。

強くて豊かな弱い人を見ていると、心まで逞しくなるような気がする。




その後五日間、グエンはネアの様子を見に来てくれた。

地下室の絵も運び出してくれたが、どうやらあの絵は前の住人が描いただけのものではないらしく、翌朝には元の位置に戻って来てきてしまうので、震え上がったネアは地下室への扉を封鎖結界でがちがちに固めて貰っている。



死者の国でのネアの生活は単調だ。

出来るだけ家の中で過ごし、買い込んだ食料は一週間分あるので、あの日以降買い物には行っていない。

グエンに連れて行って貰った服屋で、部屋着用に簡素なワンピースのようなものを二枚と、セーターにズボンを買って、元の服と合わせて着回している。


夜のどこかで、グエンがふらりとやって来て一時間ほどお茶を飲んでゆく。

その間はカードを一枚貸してやり、グエンはエーダリア達と楽しそうに筆談をしていた。

応接室の長椅子でだらりとしているグエンを見ると、休日のお父さんのようだ。

お茶を出し、カードを貸している間なら、無償で仕事を受けてくれるので、ネアは地下の封鎖魔術を毎日点検して貰っていた。


墓犬もよく遊びに来てくれたが、何度も仕事で駆け出してゆくので相当に忙しいらしい。



「そう言えば、王子様達はどうなったのでしょう?」

「あいつ等は運が悪かったなぁ」


グエンがそう笑うのには理由があった。

三日目にしてようやく、ジュリアン王子とリーベルは手持ちのものを売り払って家を手に入れたようだ。

しかしながら、タイミングが悪かったようで、何軒か残っていたまともな家は新参者の死者に売れてしまい、利用した仲介業者が悪かったのか、お金をケチったのか、あの二人は街の中心にある壁の崩れたお宅を買わされたらしい。


なかなかに逞しく生きているので、ネアは手持ちの宝石を恵まずに済んでほっとしている。




そんな感じで死者の国での生活が整い始めてきた六日目の夜、今夜もふらりと立ち寄ってくれたグエンが、仕事の約束を忘れていたと慌てて帰った後、ネアが扉を開けて前の通りに飛び出したのは、グエンがケープを忘れて行ったからだ。


咄嗟にケープを掴んで家の前の歩道の少し先まで追いかけたのだが、グエンの家の方に向かう曲がり角を覗いても、残念ながらその後ろ姿はもう見えなかった。


真っ暗な通りには、ぽつぽつと街灯が光を落としている。

その暗さに我に返ってぞわりとしたので、ネアはそれ以上は追いかけずに渋々と引き返すことにした。


「………むぅ。エーダリア様とのお喋りにすっかり夢中で忘れてゆきましたね。寒くないといいのですが」


追いかけるまでに少し間が空いてしまったが、目立つ場所に置いてあったのでもう少し早く気付いてやれば良かった。

がっかりして肩を落としたネアは、がしゃんと何かが落ちて割れる音に顔を上げる。


(………喧嘩?ううん、ぶつかっただけかな?)


ホラー展開ではなく、揉め事だろうか。

向かいの並びの家から出てきた住人が、路地から急に飛び出して来た二人連れにぶつかって荷物を落としたようだ。

更に、何事かと振り返ったネアも、今度は通りを横切って突進してきた彼らを避ける間も無くどすんとぶつかられてしまう。


「ふぁっ?!」


理由はわからないが、わざとすれ違う通行人を転ばせていっているような動きではないか。

荒っぽく激突されて歩道に尻餅をついたネアがその不審さに犯人を見上げれば、ぶつかってきた内の一人がばっと振り返るところであった。


「ネア様?!」

「…………しまった」


ネアがとても嫌な顔になるのも致し方ない。

振り返ったのは、リーベルだったのだ。

驚いたように目を瞠ったリーベルは立ち止まりかけたものの、背後を見てから小さく顔を歪めると長い髪をひるがえして走り去ってゆく。

はっとしてそちらを見たネアは、飛び上がった。



「そ、掃除婦さん……!」


(どうして通行人を転ばせてるのかわかった!)



ばたんと扉が閉まる音は、最初にリーベル達にぶつかった死者が慌てて家の中に引っ込む音だ。

しかし、最悪なことに、ネアが安全な家に戻るとなると、そちらの方向から掃除婦がやって来ているので鉢合わせになってしまう。

真っ青になったネアは慌てて立ち上がると、結果的にはリーベル達と同じ方向に逃げる羽目になった。


(しまった、よりにもよって、家から初めて一人で離れた時に!!)


墓犬を呼びたいくらいなのだが、そもそも呼べば来るものなのかもわからないし、その場合には漏れなく掃除婦も呼び寄せてしまう。

グエンのコートを掴んだまま走りながら、ネアはすぐ次の路地を曲がって直線コースを外れた。

二度も囮になどされたくないので、最短ルートでUターンして家に戻るつもりだったのだ。



「むがっ?!」


その結果、またしても誰かにぶつかった。


「………お前」


そう声を上げて目を丸くしたのは、細い路地に隠れていたらしいジュリアンだ。

奥には壁に身を寄せたリーベルもいるので、どうやら最後尾についてくれたネアを囮にして、ここで掃除婦をやり過ごす計画だったようだ。


「なぜこちらに曲がったのだ!表の通りに戻れ!」

「おのれ、忌々しいくらいに理不尽な言いがかりです!追われていたのはあなた達ではありませんか!」

「ほお?生意気になったものだ……ぐっ?!」


ずばんと爪先を踏み付けられたジュリアンが悶絶する。

蹲ったジュリアンの横を駆け抜け、ネアは呆然とするリーベルの横もすり抜けて、強引にその場を押し通ろうとした。


「ふざけるなよ、小娘!」

「………ぎゅっ?!」


リーベルは呆然としているのでそのまま通れそうだと思った瞬間、手に持っていたグエンのケープの裾を掴まれ、ぐいっと引き戻される。

ネアとしては通り抜けたつもりだったが、グエンのケープのかさを把握しきれてしなかったのだ。

力一杯引き摺り戻されてよろめいた瞬間に、ぱっと虚空に弾けた魔術陣のようなものを叩きつけられ、ばちんと勢いよく弾き飛ばされた。


「ジュリアン様!」


遠く、責めるような響きのリーベルの声が聞こえた気がする。

しかしネアは、小さな爆発に巻き込まれたような衝撃で、表通りの方まで吹き飛ばされ地面に転がっていたのでそれも定かではない。

もし今日の服装がパンツスタイルでなければ、視覚的にも大災害だ。

硬い石の地面をごろごろと転がってから、何とか上半身を起こした。


「痛っ………」


立ち上がろうと地面に手をつけば、ぎしりと肩が悲鳴を上げ、あまりの痛さに思わず声が漏れてしまう。


(…………思ってたより、頑丈だった)


ネアとて、さすがにジュリアンの爪先を挽肉にする勇気はなかったので、少し加減して踏んでしまった。

ところが思ってたよりも守護が厚く、ダメージが少なかったらしい。

微妙な加減を間違えてしまった結果、反撃されてしまい、ネアはまたしても怪我をしてしまった。

前回の怪我から考えるに、対するネアの守護の方は、どうも地上よりも薄くなっている気がする。


「…………っ、肩が…………」


魔術で弾き飛ばされた時に、肩を強打したようだ。

手のひらと頬っぺたも擦りむいたようで、ひりひりする。

額にも濡れるような感覚があるので、少し切ってしまったのだろうか。


(でも、掃除婦さんが…………!)


傷だらけでも何とか立ち上がったのは、追いかけてきている掃除婦の存在があるからだ。

ディノの推論通りであればネアは大丈夫なのかもしれないが、それを試せる距離になってから駄目だった場合には確実に食べられてしまう。


「……………いない?」


しかし、歯を食いしばって立ち上がった通りのどこにも、追いかけてきていた筈の掃除婦の姿はなかった。


(となれば、………もしかして家の方に戻れる?)


はっとして家に目をやれば、不審な影のない素敵な歩道が見えるばかりだ。

今の内にと目を輝かせて駆け出そうとした時、うわっという声がして路地からジュリアン達が転げ出してきた。


「くっ!こっちに回り込んでいたのか!」

「下がって下さい!」


どうやら、掃除婦達は家の屋根を踏み越えて反対側の通りに回り込んでいたらしく、背後から追い立てられるようにしてジュリアンとリーベルが表通りに飛び出してくる。

ネアは生還の安堵に緩んだ表情を、一瞬で死んだ魚の目に戻した。


「おのれ………」


とは言え今度はネアが一番先頭にいる。

もう最後尾になる訳にはいかないので、慌てて走って逃げようとした。


「むがっ?!」


しかし、その直後に足首に何やら細いものが巻きつき、ぐいっと引っ張られて転倒してしまう。

はっとして足首を見れば、ジュリアンが魔術で展開した鞭のようなものに、足首を絡め取られて引き摺り倒されたようだ。


「食うならその娘からにしろ!」


(おのれ!ジュリアン王子許すまじ!!)


今回の攻撃で、咄嗟に路面に手を突いてしまい踏みとどまろうとしたネアは、無事だった方の手のひらまで擦り傷だらけにしてしまったではないか。

おまけに、魔術の鞭めいたものに絡みつかれた足首も服地が切れて血が滲んでいる。


呪わしい二人組が、無様に転がったネアの横を駆け抜けてゆく。


「………ネア様っ、」


かと思ったら、通り抜け様にリーベルが倒れたネアの手を掴んで助け起こしてくれた。

びっくりして見上げた先でリーベルの目線が完全に泳いでいたのと、引き起こしてすぐに手を離されたので、罪悪感に苛まれてちょっとだけ見過ごせなくなっただけらしい。


(そして、とは言えまたしても最後尾!!)



ぐっと、冷気が強まった。


幸いにもグエンと一緒にいる間にも一度遭遇して予習出来ているので、この冷気が掃除婦接近の予兆だということはネアも知っている。

その冷たさが、怖いくらいに近くないだろうか。


(…………ま、まさか、)


ぞわりと背筋が寒くなった直後、ジャキンという鋏の音がすぐ背後から聞こえた。


「…………っ!!」


本能的に振り返ったのは、ここまで近いと背中を向けている方が怖かったからだ。



「…………ぎゃっ?!」


そのお陰で攻撃を見ることが出来たネアは、咄嗟に体を折って背後に飛び退ることで、横薙ぎにされた枝切り鋏を避ける。

あのまま走っていたら、背中を切り裂かれていたところだ。


(でも、一人しかいない?!)


初撃を躱された掃除婦が、空中で鋏を持ち替えて次の攻撃に移ろうとする。

目に映る掃除婦が一人しかいないことにぞっとしたネアだったが、背後からはジュリアン達の小さな悲鳴が聞こえたので、片方の掃除婦は前方に回り込んだようだ。


とは言えネアも、もはや逃げるどころではない状況であるので、覚悟を決めて地面を踏み込んだ。

片方の手で鋏の一撃を受け止める覚悟で、正面に向けて渾身の蹴りを打ち出す。


(ヒルドさんに鍛えられた成果を、今こそ見せる!)


「………はぎゃ?!」


この時、ネアにとっての想定外だったことは、一般人であるネアには、そこまで格好のいい蹴り技を決めるだけの才能がなかったことだ。

すなわち、奇跡的に掃除婦にひと蹴り入れたものの、己の力量を超えた勢いで蹴り出した足にバランスを崩してしまい、奇声を上げて無様に仰向けに転んでしまったのである。


ごつっという鈍い音がして、路面に打ち付けた頭に一瞬意識が遠くなる。


(……………死んだ)


あまりにも情けない最後だったと、ぎゅっと目を瞑って覚悟を決めたが、なぜかいつまで経っても刺されたり切られたりする様子はなかった。




「…………む?」


ややあって、恐る恐る目を開くと、ものすごく困惑した感じの掃除婦が、手をだらんとさせて呆然とこちらを見下ろしていた。

思わず見つめ合ってしまい、兎そのままの頭部なのでつぶらな瞳が案外可愛いかもなんて思ってしまう。


「…………ぐっ!」


しかし、背後からリーベルの短い苦痛の声が上がったことで、ネアは掃除婦との見つめ合いを解除してそちらを振り返った。

すぐ背後に倒れていたのは、前方に回り込んだ方の掃除婦に投げ飛ばされたらしいリーベルだ。

近くまで転がってきて呻いており、向こう側では一人で掃除婦に相対したジュリアンが立ち竦んでしまっている。


「…………む?!」


そしてなぜか、うっかり余所見して無防備になってしまったネアに、お向かいの掃除婦が体を屈めて、おもむろに脇の下に手を差し込んできた。

そのまま、枝切り鋏を小脇に挟んだ掃除婦によって、転んだ子供のように持ち上げられて立たせて貰う。


きょとんとして見上げれば、掃除婦はまだかなり困惑している。

ネアがこてんと首を傾げると、掃除婦も首を傾げているようだ。



(…………これは)



もしや、ウィリアムの守護のお陰だろうかとネアが思案していると、先程とは違う苦痛の声が上がって、今度は、投げ飛ばされたジュリアンがネアの隣に落ちてくる。

振り返れば、箒と籠を背中に背負った掃除婦が、男前にぱんぱんと手を払っており、競り負けたのだろう。


いつの間にかリーベルは立ち上がっているようだ。

王子は生きているのかなともう一度視線を下に向けたネアは、ぎりっとこちらを鋭く見上げたジュリアンと目が合う。

その瞳に浮かんだのは、明らかな悪意だ。

その直後、しつこく手を伸ばしてネアの足を掴もうとしたジュリアンだったが、ネアはがくんと後方に引っ張られて難を逃れた。


「王子、ここまで来たらこの方を囮にしようとしまいと変わりませんよ」


そう低い声でジュリアンを窘めたのは、リーベルだ。

ネアはどうやら、後ろから手を伸ばしてネアの服を掴んで引き寄せたリーベルの腕の中にいるらしい。

まだ事態がよく飲み込めず仰ぎ見れば、リーベルは少しだけ決まりが悪そうに唇の端で微笑んだ。


「囮にして逃げられる段階であれば、俺もそうするかもしれませんけどね。囲まれてしまった以上は、ご婦人を差し出すような真似はしませんよ」

「………と言うか実際囮にされましたし、今更感が酷いですね」

「俺自身もそう思いますが、まぁ、死に際くらいはさすがに……っ?!」


リーベルの言葉がそこで途切れたのは、ものすごい勢いで踏み込んできた掃除婦の、枝切り鋏の切っ先が顔面に向かって突き出されたからである。

仰け反ってそれを避けたまでは良かったが、その隙に緩んだ手から、ネアはあっさり掃除婦に奪い取られてしまう。


(つ、冷たい!!)


なんて冷たい体だろう。

体の部分は豊満でしなやかな女性のそれである掃除婦だが、ネアは軽々と小脇に抱えられてしまった。

ネアを抱えた掃除婦は、ふわりと優雅に後退すると、リーベル達から距離を置く。


「………掃除婦さん?」


そしてなぜか、ネアをきちんと地面に降ろしてくれた。



「ファービット」



場違いなくらいに穏やかな男性の声が割って入ったのは、その時だった。



コツコツと、夜の石畳に靴音が響く。

はっとして振り返ったネアだけでなく、その場にいた全員が思わずそちらを見てしまったのは、声に潜んだ静かな怒りのようなものに、身が竦んでしまったからだ。



「何をしている?」



街灯の切れ目の闇間を縫い、背の高い男がこちらに歩いてくる。

しばらく歩いてから街灯の光の輪の下に入れば、小綺麗な漆黒のトレンチコートのような服装と、特徴のない砂色の髪の男性が見えた。


ずざっと音がしてそちらを見れば、掃除婦達が臣下の礼を取り跪いている。

何とか立ち上がったものの地面に崩れ落ち、膝をついているジュリアンに、もっと精神圧の影響を受けてしまっているのか、地面に蹲って両手までついているリーベル。



何ともないままにぽかんと立ち尽くしているのは、ネア一人だけだ。



(この人は…………)



その見知らぬ男と目が合えば、特徴のない端正な顔の、黒い瞳が細められるのがわかった。

少し足早に歩み寄って来るとネアの正面に立ち、また少し顔を歪める。


カタカタと耳障りな音が聞こえて下を見れば、跪いた掃除婦が震えていることで、石畳に触れ合う枝切り鋏が音を立てているようだった。


「…………もしかして………」

「傷だらけじゃないか。……ネア、これは誰にやられたんだ?」


そっと伸ばされた手が、ネアの頬に触れる。

相変わらず見たこともない男だが、確かにこんな気配をした者に一度だけ会ったことがある。

冷たい指先が、ひりひりしている頬をそっと撫でれば、途端に痛みが消えてなくなった。


「ファービットにやられたのか?」

「ファービット………?もしや、掃除婦さんのことですか?」

「そうだ」

「いえ、これは生存競争の中でそちらの王子様にやられたものでして、掃除婦さんは途中からお姉さんのように優しくなり、転んだ私を立たせてくれたり、私を怖い人間から守ろうとしてくれたりしました」

「………成る程」


短く呟いた低い声が、研ぎ澄まされた刃を連想させる。

白く艶やかで、どこまでも死に近しい容赦のないもの。



「あ、あの、…………ウィリアムさん?」


あまりにも酷薄なその気配に、ネアはついつい伸び上がって、名前を呼んでしまった。

何となくだが、このまま放置しておくと、この場で大量虐殺でもしかねない雰囲気を感じたのだ。


「すまない、見付けるのが遅くなったな」


こちらを見下ろした冷たい黒い瞳が、困惑したままのネアの表情に気付いたのか、淡く唇の端に微笑みを浮かべる。


「そんなことはないですよ!寧ろ、ものすごく嬉しいところで来てくれました。そして、…………ええと、そちらの王子様ですが、やはり殺してしまうと諸々問題が出てきそうですので、どうかお手柔らかに」

「困ったな。ネアを傷付けたのは、この男なんだろう?」

「やっぱり殺してしまう気満々でしたね!因みに、髪の長い方のリーベルさんは、最後に改心して守ってくれようとしたので、ひとまず釈放して下さい。実際に手を下したのも、リーベルさんではないです」

「ネア、…………俺はシルハーンとは違うぞ?」


静かな声でそう笑って、こちらを見下ろしたのは死者の王だった。

契約の魔物ではない自由さがあり、そして冷ややかさに震えが走りそうなくらい、………多分、激怒している。


「しかし、これだけしでかしていらっしゃるのに生かされているのです。私の所見ですが、生き延びているというよりも、生かされている感じがする迂闊な方ですので、これはもう、駄目な奴なりのお役目があるのではないでしょうか?」


ここで取り繕っていると手遅れになりそうだと感じたネアは、そんな身も蓋もない本音をウィリアムにぶつける。

その言葉に微かに目を瞠って、ウィリアムは少しだけ瞳に温度を戻した。


「じゃあ、仕事が出来るようにはしておこう」

「む、それなら構いません。そもそも、庇ってやる義理もないのです」

「そこの男も王子の仲間じゃないのか?」

「一緒に行動している遭難者仲間のようですが、ダリルさんのお弟子さんですので、同じ派閥の方ではないと思います。その方についてはダリルさんが叱ってくれる筈なので、そちらにお任せした方が凄惨なことになると思いませんか?」

「………全く。君の気配が死者の国に落ちたから、何事かと思えば」


(…………あ、少しだけいつものウィリアムさんに戻ったかな?)


転んだり引きずられたり、今のネアは酷い格好だろう。

そんな姿を一瞥して目を細めてから、ウィリアムはひょいとネアを抱き上げた。

肩が痛んでネアの顔が引き攣れば、擬態したままの黒い瞳が鋭く細められる。

でも、ウィリアムはすぐには何も言わなかった。


「鍵の気配がするけど、家を買ったのか?」

「はい!初めて一軒家を買いました」

「………事情は後でゆっくりと。今はまず、これをどうにかしてしまおう」


ウィリアムが何かを命じたのか、掃除婦達は素早く立ち上がると建物から落ちる影の中に溶け込んでゆく。


「兎さんは、ファービットさんというのですね」

「戒める者という意味だ。死者の国とは言え、ある程度の危機感で抑制をかけないと、規律が乱れるからな」


さらりとそう言うが、人間の言い分からすればあんまりな怖さなので、やはり魔物である彼の感覚は少しずれているのだろう。


「さて、何にしようか」


その言葉は、歌うような軽やかさと、魔物らしい愉悦混じりの穏やかな声だった。


「どの終焉がいいか、少し悩むところだな。が、…………驚いたな。因果から、生誕の祝福をかけられているのか。両方とは馬鹿なことをしたものだ。それも、よりにもよって終焉を後からにするなんて」


(………ジュリアン王子には、因果の祝福がかけられているんだ)


両方とは何だろう。

よく分からなかったが、今のウィリアムは悪夢の時に怒らせてしまった彼並みには、慣れないウィリアムの一面を全開にしてきているので、ネアは大人しく持ち上げられていた。

しかしながら、ジュリアンにどんなお仕置きをするのか、とてもひやひやする。



「ロクサーヌの呪いもかけられているのか。………ある意味ではものすごい逸材かも知れないが…………俺は“片側”にしよう」


ざわりと、空気が揺れた。


これだけ近くで見ているネアにさえ、ウィリアムが何をしたのかは分からなかった。

しかし、くぐもったようなジュリアンの声が響き、為されたことには苦痛が伴ったのは理解する。

そして、ヴェルクレアの第四王子に目で見る限りはわからない終焉を与えた魔物は、ぞっとするくらいに柔らかく微笑んだ。


「俺が半分にしたのは、まだ彼女の契約の魔物からの報復が済まされてないからだ。あの方が何を罰とするかはわからないが、あまり愉快なものではないだろうな」


(…………これは、私が知らなかったウィリアムさん)


蹲って体を抱えているジュリアン王子を睥睨するのは、微笑みを深くした終焉の魔物だ。

いつだったか、死者の行列の先頭に立つ彼は笑っているのだとアルテアが話していたのを思い出し、ネアは今、その顔を見ている気がする。


「君は、ジュリアン王子を連れて帰るといい。門が開けば君達はここから逃げ出すのだろうが、それまでは君が責任を持って彼の面倒を見てやってくれ。………リーベル?」


(むぅ、すごい意地悪な!)


ネアがそう感心してしまうのは、敵意を向ける高位の魔物に名前を知られることは、魂を握られていることに等しいからだ。

それまではおくびにも出さなかったくせに、ウィリアムはこの二人の名前まで知っていたようだ。


「御身のお言葉の通りに………」


消えてしまいそうな声で、そう魔術定型の承服言葉を返し、リーベルは何とか体勢を整えて丁寧に頭を下げる。

それを冷ややかに一瞥すると、ウィリアムはふわりとネアの頭を撫でた。



「まずは、ネアの目下の家に帰ろうか。俺も、さすがに九ヶ国越えは疲れた」

「九ヶ国?」

「死者の国は広いんだ。ネアがそのどこに落とされたかまでは、特定出来なかったからな」

「もしかして、探してくれていたのですね………!」


微笑みかけてくれたウィリアムは、いつもの穏やかな目をしていた。

擬態姿で見慣れない容姿だが、それでもウィリアムだと分かるような眼差しだ。


そこでようやく緊張が緩み、ネアはやっと再会出来た頼もしい味方の到着にほにゃりとなる。

今までこの国で触れられた相手は、グエンや墓犬、ファービットと全て冷たい体をしていたが、ウィリアムは暖かい。

ジュリアン王子が何をされてしまったのかという慄きはひとまずぽいっとして、まずは大いに喜ぼうではないか。



ネアは、久し振りに安堵のあまり、締まりのない微笑みを浮かべた。

まずは、あの恐怖の絵を捨てて貰うのだ。











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