教会の女と黒衣の男
死者の国に落とされた。
それは、どんな人間にとっても決して自分に降りかかるとは思わない、最悪の顛末の一つだ。
滅ぼされた国の王族達が死者の国に落とされたと聞けば、その道行への教えを説く聖職者でさえ、顔色を悪くしてそそくさと立ち去ってゆく。
そして、リーベルにとっての死者の国は、もう少し身近な恐ろしさを持つ場所であった。
(俺やジュリアン様のような人間の場合、こちらにはかつての敵も多い………)
それは、自らの手を下さずとも脱落していった敵であり、自らの手で殺した仲間でもある。
(どこかで、ジュリアン様とも別行動に出来ればいいのだが……)
もう一つ、暗黙の了解でリーベルとジュリアンが口には出さずにいることがあった。
それは、リーベルがもはや第四王子派ではないということだ。
かつて、ダリルに籠絡され第四王子派を離脱したリーベルは、仲間の一人とされた貴族の首を持ってそこを離れている。
リーベルはその後、手出しをされないような公の場を選んで近付き、ジュリアンにきちんと決別の挨拶はしてある。
殺す筈だった書架妖精を愛してしまい、第四王子派に与することでそちらに害を為すような呪いを甘んじて受けてしまったので、この身はもう共に理想を追いかけられないのだと詫びれば、いささか白けたような目を向けられた。
これは残酷で幼稚な王子ではあるが、その代わりに面倒なものをすぐに捨ててしまうという扱い易い面もあるのだ。
元々意見の合わない事が多くリーベルを危険視していたレーヌは、この決別をとても喜んだそうだ。
そのお陰で、リーベルはさしたる慰留もなく自由の身になった。
だがつまり、ジュリアンはリーベルが己の味方ではないことを知っている。
その上でお互いに助け合わなければならないのだから、何ともやり難い相手なのだ。
(それでも無理を押してくるのだから、この方は如何ともし難い………)
ヴェルクレアの聖職者には、必ず交わさねばならない厄介な誓約がある。
それは、鹿角の聖女の信徒の暴走を恐れた王家によって制定された約定であり、教会に属する者は、決してヴェルクレア王家の者を傷付けてはならないのだ。
そんな煩わしさに縛られた聖職者を若者達が目指すのは、家柄に纏わる誇りであったり、教会にだけ許された独自の魔術目当てであったりと理由は様々だ。
(信仰の魔物や送り火の魔物など、教会の者にしか接点のない人外者も多い)
その種の者達の庇護を得られれば、王家に縛られるというしがらみから脱することも可能である。
光明があるからこそ、目指す者が多いこともあるが、やはり信仰というものの吸引力は格別でもあるのだろう。
微量な弾圧があればこそ、その信仰が美しく見えたりもするようだ。
枢機卿の中でも突出していると言われ続けてきたリーベルであるが、彼が膝を屈して魂を捧げたのはウィームの書架妖精だ。
ダリルではない誰かを望むことなど決してないのだが、リーベルが選んだ者が、王家からのしがらみから逃れられる守護を与える者ではないことを哀れむ者も多い。
つまり、リーベルは今でも、王族であるジュリアンには容易く逆らえない立場である。
(しかし、そんなジュリアン様を、今回はどうにか上手く操作しなければだな。愚かではない筈なのに、愚かな選択をするのがこの人の欠点なのだ)
先程のネアのこともそうだ。
リーベルも驚いたことに、彼女には魔術汚染を避けられない程度の魔術可動域しかないのだという。
それを聞いた途端、リーベルとて、彼女を切り捨てることを前提で今後の策を立てた。
彼女がダリルのお気に入りであろうが、それは無事に地上に戻ってから考慮すべきことだ。
リーベルは聖職者たれど、力を得る為の手段の一つとしてこの道を選んだに過ぎない。
自分の身を危うくしてまで無能な者を助けようとは思わなかった。
(だが、あのやり口は流石に浅慮というものだ。もしネア様が無事に地上に戻り、自分がされたことを告発したらどうなるのか)
王族であるジュリアンは人間の法では裁けなくとも、契約の魔物は決してその行為を許さないだろう。
他の対抗勢力に足を取られる行いになるだろうし、もっと慎重になるべきだったと思わざるを得ない。
道具として使い潰しても良いのは、やはり道具としての条件を揃えた使い潰し用のものなのである。
(追われているのだから、そのまま引き離してしまうとか、隠れているように言いつけて置き去りにするだとか、幾らでもやりようがあった筈だ)
そんなことも出来ない幼稚な我が儘王子であるので、ズキズキとしてきたこめかみを揉んで、リーベルは壮麗な教会を見上げている呑気なジュリアンに忠告しておくことにした。
「ジュリアン様、中の者達との交渉は俺に任せて下さい。死者との説話については、やはり我々聖職者の領域です」
「当然だ。この先の安全を確保する交渉なのだから、お前がどうにかしろ」
(…………手を出さないのは上々だが、簡単に言われても困る)
「畏まりました。しかし、望むだけの全てを取り付けるのはかなり難しいでしょう。何しろ、相手は死者ですからね」
「お前は他者の心を操るのは得意ではないか。上手く誑かしてやれ」
この王子はそこまでは知らないのかも知れないが、ヴェルクレアで死者との交渉を成功させたのは過去に一人だけだ。
それも、確かに彼であればどうにでもするだろうなと思えるような、いい加減であくの強い男であった。
公にはされていないが、教会でも死者の国への介入は試みている。
しかし、教会から送り込まれた聖職者達は、生きて地上に戻ることはなかった。
死者の日にもこちらには戻って来なかったので、それ以降ガーウィンでは死者の国への降下を禁止しているのが実情であった。
「……………灯りがつきましたね。やはり、こちらでは夜から死者達が動き出すようです」
「お前が謀殺した聖職者がいないといいな」
「幸いにも、この教会建築はガーウィンのものではありませんね。他国の教会ですので、ひとまずは信仰の主を見定めるまで様子を見ます。相反する教えのものもありますので、どうか俺の務めについては言及されませんよう」
「いちいち煩いぞ。そのくらいわかっている」
わかっていなさそうだから説明したのだと心の中で思いながら、リーベルは少しだけ考えた。
もし、ここに居るのがジュリアン王子などではなくあの歌乞いであれば、自分はこんなことで頭を悩ませはしなかっただろう。
彼女の方が、余程状況を理解している風であったではないか。
(俺が、自分のことで手一杯だと話した時……)
ネアは素直に頷いただけで、泣き言も言わなければ、身の安全の確認も取らなかった。
そこには、自分が切り捨てられるのだろうという素っ気ないくらいの諦観が伺え、リーベルは少なからず驚きもしたのだから。
(…………あれは、何か、大事なものを捨てたことのある者の顔だ)
綺麗事を言わず、泥沼を這ったことのある者の目だ。
成る程、ダリルが彼女を気に入っているのは、あの少女がその澱みを覗いたことのある人間だからなのだろうと考え、死なせてしまうのが少しだけ惜しいと思った。
せめて中程度でもいいから魔術可動域があれば。
(………どんなものを送りつけられるのか、見てみたかった気もするな)
そんな風に考えてしまう己の青臭さに苦笑しつつ、扉を鳴らした。
すぐさま、大扉の横にある搬入口が開かれ、無機質な面立ちの門番の男が顔を出す。
少しだけ視線が揺れたのは、こちらが生者だからであろう。
「信仰の門に助けを求めて参りました。訳あって、死者の国に迷い込んでしまったのです。どなたか、教えを説く方の叡智を借りることは出来るでしょうか」
真摯な眼差しと淡い微笑みでそう問えば、門番は少し待つようにと言い残して一度扉を閉めた。
リーベルの言葉を上に伝え、その上で判断を仰ぐのだろう。
(まず、教会というものの性質上、不安要因をそのまま放置はするまい。中で話が出来ればこちらのものだ)
こちらの世界でも身に持った魔術は使える。
使えるのであれば、交渉の場はリーベルの庭といっても過言ではない。
やがてすぐに扉は開かれ、聖職帯をかけた教会兵と共に、こちらとの交渉を任されたらしい聖職者が現れた。
現れた聖職者の姿に、リーベルは短く息を飲む。
(…………これは、信仰の種類が違うかもしれないな)
そう考えたのは、現れた聖職者の身なりと容姿であった。
淡い透ける素材の青い服の上から聖衣を纏い、ヴェルクレアでは見慣れない形の聖錫を手にしている。
浅黒い肌の色に漆黒の髪といい、ヴェルクレアの民とは身体的な特徴も違う。
「あら、生きているお客様は久し振りですね。どうぞ中にお入り下さいな。咎人の話を聞くのも、我々の定め」
柔らかだがどこか鋭さもある眼差しでそう微笑んだのは、世にも美しい女であった。
重たい聖衣からは高位の者だと伺えるのだが、こうして門まで足を運ぶのだから、そもそもの聖衣の区分が違うのだろうか。
「……参りましょう」
名前を出すのはまずいのでそう呼びかければ、こんな時であるというのに、ジュリアンは何とも嫌そうな顔をする。
「そちらの方は王族でしょうか。罪を以って死者の国に落とされたと一概に判断してしまうには、その身なりはおかしいですね。であれば、偶然にこちらに迷い込んだ迷い人なのでしょう」
「そうだ。なので私は、一刻も早く地上に戻らねばならん」
「…………っ、申し訳ありません。我々もまだ動揺しておりまして」
あまりにも横柄な物言いに、どこか感情の読めない女にそう詫びれば、彼女は謎めいた目で微笑むと軽く手を振った。
(………なんて鋭い爪だ)
鮮やかな青に紅で精緻な模様を描き、宝石をあしらった爪は、長く鋭い。
女性がこの種の装いをとるのは、南方の国や、砂漠の国々のごく一部。
せめてもの交渉の武器として、その国さえわかればと思案していると、女がちらりと目の端でこちらを見るのがわかった。
(…………っ、)
婉然と振る舞う優美さと相反するように、あまりにも鋭く暗い瞳にぞっとしてしまう。
よく見れば、その肌には確かに死の気配があり、聖堂の影かと思っていた目元の影は死者らしく落ち窪んだ眼球の影である。
美しい女であるからこそ、その死の跡というものが例えようもなく陰惨であった。
だからこそ、リーベルはジュリアンの言い方にひやりとしたのである。
この女を怒らせたくないと、心の何処かが警鐘を鳴らしているのだ。
(…………このまま、進んでもいいのだろうか?)
ぎいっと、大きな鉄の扉の開く重たい音がして我に返る。
教会兵達は一礼して女を通すと、がしゃがしゃと鎧を鳴らしてどこかへ去って行ってしまった。
随分無防備なのだなと考えかけて、この女は自分の力に自信があるのだと思い直した。
(本当に、ここに足を踏み入れて良いのだろうか?)
じわりと、額に冷たい汗がにじむ。
この言いようもない焦燥感は何なのだろう。
薄暗い大聖堂の扉が開けば、その奥には大勢の信徒達が集っているようだ。
夜の聖堂は暗いというのに、なぜか彼等はその手元や足元に明かりは灯さない。
真っ暗な聖堂に大勢の人々が無言で立ってこちらを見ている様に、本能的な恐怖で体が竦む。
こちらの躊躇いに気付いたのか、隣を歩く女がはっとする程に艶やかな微笑みをみせた。
「ご安心なさいませ、ここは死者の国の安息の家。ほら、御覧なさい。死者たちはみな、どれだけ穏やかな顔をしていることか。主に仕え、主の御許にゆくまでの信仰の道を歩むことこそが、本当の幸福だと貴方方もすぐに理解されるでしょう」
蝋燭の灯りだけに照らされた、薄暗い大聖堂は見上げるほどに高く、ひたすらに暗い。
ようやく、ここで求められる救いの門は、死に向かうそれなのだと理解して、リーベルは青ざめる。
(…………選択肢を誤った!)
得てして、信仰というものは暴力的なまでに頑なでもある。
ここで指し示された指先の向こうに提示されるのは、ただひたすらに死に他ならなかった。
「…………っ!」
「…………リーベル?」
「ここはいけません!」
すぐさま身を翻し、後方から歩いてきていた門番の男を魔術障壁で押し倒した。
視界がふわりと翳ったのを認識する間も無く魔術防壁を展開して聖錫の一撃を受け止めると、ジュリアンを突き飛ばすようにして門に向かわせる。
「門の閉鎖魔術を解いておいて下さい!」
「私に命令をするな!」
「いいですから、早く!!」
「まぁ、どうして出て行こうとされるの?ここは安らかで安全ですよ?」
聖錫でぞっとするほどに重たい一撃を加えた女が、心から不思議そうな目で笑う。
その表情の作り方に明らかな狂気と妄執を見て、また背筋が冷たくなった。
がりりっと音がしたのは、リーベルの結界が削り取られた音だ。
「申し訳ありません、ここは我々の目的にはそぐわないようだ。どうぞ、ご退出のお許しを」
「困った生者ですわね。外に逃れて生きて帰ることが出来るとでも?ここは死者の国なのですよ」
「異なる意志のあるものを拘束するのが信仰ではありますまい。どうか、御心を鎮めていただきたい」
「信仰とは教え導くもの。愚かな子供達を導く親の役目だとは思いませんか?」
応酬の合間にも、手首を返してもう一度錫杖を打ち込まれれば、展開した結界にひびを入れられる程の打撃を受けて、リーベルは奥歯を噛み締めた。
(………ここまでの魔術と、ここまでの技術……どこの国の人間なのだ…………)
せめてこの亡者に紐付くものがわかれば、足を止めるだけの隙も突けるのだが、これだけ特徴的な容姿であっても、どの国の人間だったかすらわからない有様だ。
魔術の領域では、エーダリア元王子に続いて天才だと謳われたリーベルであっても、あまりにも重たい打撃に防戦の一方である。
背後に控える信徒達や、突き飛ばされて倒れたままの門番が何もせずにじっとこちらを見ているだけなのも不気味でならない。
教会兵すら出て来ないのはなぜだろう。
「ほら、苦しそうですわね。大人しく膝を屈し、死は終焉ではなく静謐な祈りの場だと学べば、苦しいことなど何一つありませんよ」
「………ぐっ、」
重たい一撃に横薙ぎにされた直後、リーベルは足元に組んだ結界を蹴り上げて後方に飛び退った。
何とか距離を取ることが出来たが、既に息も絶え絶えではないか。
まだ閉鎖魔術の解除に手間取っているジュリアンを扉から引き剥がしてどかして、すぐさま鍵の魔術を叩き割る。
「出ますよ!」
「お、おいっ!私を後ろにするな!!」
役に立たないくせに煩い王子の方を見ないようにしつつ教会の敷地から転がり出ると、ジュリアンがやっと這い出たところで、教会の門を力一杯閉じた。
こちらからも魔術で封鎖しておき、少しでも時間稼ぎを図る。
しかし、二人が路上に転がり出るのと同時に、ゴーンという教会の鐘とはまた違う鐘の音が響いた。
門の向こう側のすぐ近くまで迫っていた足音が、なぜだかさっと立ち去ってゆく。
(何だ、この鐘は?明らかに警報の響きではないか)
嫌な予感がして周囲を見回したリーベルは、あっという間に屋内に退避してゆく住人達の姿を見ることとなった。
「………これは、何か起こりますね」
「おい、………先程の不敬を上で責められたくなかったら、お前がどうにかしろよ」
「おや、何をおっしゃいます王子。あの女聖職者は、俺達をここから出したくないようでしたよ。門など、何が仕掛けられているのかわからないのに、あなたを先に出せる訳がないでしょう」
「お前らしい屁理屈だな……」
珍しくジュリアンが堪えたような顔をして黙ったので、その隙にリーベルはてきぱきと指示を出した。
別の誰かであればもっと上手く操作するのだが、どうしてもこの王子に対しては扱いが雑になってしまう。
それは決して王子が雑に扱われるだけのことではなく、言う方も、自分でもないなと思わせる発言をしてしまったりするのだから、こちらも無傷ではないのが口惜しい程に。
残念ながらこの王子は、自分をそういう風に扱わせてしまう人間なのだ。
「ですので、背後をお願いしますね。どちらにせよ、どこかの屋内に避難した方が良さそうだ」
「簡単ではないか。どこかの屋敷にでも招待させればいいのだ」
「………王子らしいお考えですね」
ここはヴェルクレアではないのだと言ったのに、それを理解していない訳ではないのに、それでもこの要求なのはどうにかならないものか。
(ネア様の方と組めば良かったかな)
何だか世知辛い気分で足早に移動してゆけば、角を曲がる直前で、ふっと街灯の下に背の高い影が揺れるのが見えた。
「…………っ?!」
(何だあれは…………)
正直、よく見えはしなかったのだ。
黒っぽい影が二つあり、影の一つは大きな籠を背負っているようだ。
そしてもう一つの影が持っているのは、
「…………鋏か?」
姿形すらよく分からないのに、身体中の血がざあっと下がるような気がした。
「…………おい、今のは何だ?」
「ジュリアン様、後方を見て下さいとあれ程……」
ジュリアンも見てしまったのか、真っ青な顔をしている。
例えそれが未知のものであっても、本質的な恐怖を煽るものがいる。
あの街灯の下を通った生き物は、多分そういうものなのだ。
「………出来る限り、あの影から離れましょう。この際選り好みは出来ませんので、どこかの民家に押し入ります」
「わかった。お前に任せよう」
こういう時になると意外に聞き分けがよくなって生存の可能性を上げてしまうのも、ジュリアンの特徴であった。
そしていつも、なぜか生き残ってしまうのだ。
何やら途方もない祝福を生誕の際に受けたそうなのだが、彼の生母である側室の妃は、意味ありげに微笑むばかりでその祝福を誰にも明かさなかったのだと言う。
「そりゃ、無理だなぁ」
「………っ?!」
呑気な声が降ってきたのは、その時だった。
ぎょっとして振り返れば、近くの民家の塀の上に、フードを深く下ろした男がしゃがみこんでいる。
塀の上の細い平面に器用にしゃがみこみ、弄うような笑みを口元に浮かべてこちらを見ていた。
つい本能的にジュリアン王子の前に出てしまったリーベルに、男はにやっと笑いを深める。
到底、好意的な相手には見えない。
「…………そなたは、何だ」
「さてなぁ」
目を細めてそう問いかけたジュリアンに、男はどこか嗜虐的に笑う。
無精髭の顎と、フードから溢れた金髪を見ながら、リーベルは、この男が誰かに似ているような気がした。
髪型や服装の違いなどはあれど、どこかで出会った人間という気がする。
「我々に何か御用でしょうか?」
「そりゃ無理だなぁと言ったのさ。こちらには死者の国の理があってな、住居というものは不可侵になっている。正当な手段で手に入れない限り、あんたらは屋根の下に安息地の地を見出せないぜ?」
「ほお、お前なら、それを用意出来ると言いたいのか?」
ばさりと、男のコートが風に揺れる。
その黒さに切り取られた夜の色が、またしても不穏な気配を帯びた。
あの影が近付いてきているのだと、冷たい汗が伝うその感覚でわかった。
気配のする方に視線を向けてから、リーベルは目の前の男をどうするべきか迷った。
男はなぜか、肩を揺らして笑っているようだ。
「俺が、お前達の隠れ家を手配する?はっ、冗談も程々にしてくれよ。する訳ないだろ」
心から愉快そうに笑いながら、男はおもむろに立ち上がった。
警戒して魔術を編まんとしたリーベルに、こちらを見もせずに伸ばされた指先が、それを造作もなく止めてしまう。
(解除術式か…………!)
「…………やめておけって。言っておくがな、ここは死者の国だ。その作法を知らないお前達が俺を傷付けられると思うなよ?」
「……お前は、魔術師だな」
「さぁねぇ。ただ、俺はこれでも案外お人好しなんでね。一言だけ忠告してやろう」
またざわりと風が揺れ、あの気配が強まった。
こんな男に携わっている暇はない。
すぐにでもここから離脱するべきだ。
それなのに、まだ足が動かないのはなぜだろう。
「お前達が見たのは掃除婦だ。あの鋏で人間をバラバラにして食っちまう、大食漢のご婦人方でな。残念なことに、この国の理で守られているらしく、あの化け物は誰にも殺せない」
絶句したリーベル達を見下ろし、フードの男はまた少し笑ったようだ。
角度的にこの位置からは見えるはずの顔が見えないのは、フードの中に魔術で闇を飼っているからだ。
「………もう一度問おう。お前は、なぜ私達に声をかけたのだ?」
そう尋ねたのはジュリアンだった。
その言葉に、男の、そこだけは辛うじて見えている口元が、ふっと歪み歯を見せて笑った。
その笑みの獰猛さに、リーベルはぞっとする。
灰色に燻んだ死者の肌を持つこの男から感じるのは、こちらが怯む程の強烈な悪意であった。
「いい余興を見にきたのさ。愚かな人間が死者の国に迷い込んだんだ。笑ってやろうと思ってよ。…………おい!獲物はこっちだぞ!」
「なっ………?!」
「貴様…………!」
最後に突然声を張られて、リーベルは目を瞠った。
激昂して摑みかかろうとしたジュリアンの手を躱して、男は身軽に塀の上を走り去ってゆく。
「リーベル!あの男を捕らえろ。あいつにも住処があるのだろう。それを奪えばいいではないか!」
「ジュリアン様、今はそれよりも追っ手を振り切りませんと!」
自分でも追いかけようとしたジュリアンのケープを掴み、慌てて引き摺るようにして無理やり走り出す。
「なぜ止めた?!あの男も避難するのであれば、追った方が我々も効率がいいだろう!」
「ご覧になったでしょう?あの男が我々に向けたのは悪意です。あの場で彼を追いかけること程簡単なことはありますまい。思い通りに動かされるのは危険過ぎます」
「……………くっ、…………………。仕方あるまい、お前に任せてやる」
「恐れ入ります。………あの男の言葉を信じる訳ではありませんが、誰でも入れるような、商店などを目指しましょう」
「死者達が、私達に危害を加えないと言えるのか?」
「わかりません。…………しかし、あの影よりはマシでしょう」
「…………そうだな」
それからは、随分と長く走ることになった。
最初に抜けた大通りと違い、教会近くの通りには閑静な住宅地が広がっており、迂回路を見付けながら、商業区画に戻る必要があったのだ。
走りながら、爪先から震えが這い上がってくる。
あの影が近付くとすぐにわかった。
吐き出す息が白くなり、己を律しようとしても血の気が引いて意識が揺らぐのだ。
声を発さないようにお互いの視線と、手振りだけで人気のない大通りを駆け抜ける。
顎先からしたたり落ちる汗を拭い、足が萎えて膝が崩れそうになるのを必死に押し留める。
(…………これは、悪い夢なのだろうか)
巻き添えになって死者の国に落とされることなど、世界中でどれだけの人間に訪れる不幸だろう。
ジュリアンなら兎も角、なぜ自分までこんな目に遭っているのか。
呼吸の音がやけに大きく聞こえ、その音が通り中にこだましている気がした。
この無様な喘ぎを頼りにあの影が追いついて来てしまいそうで、慌てて音を閉ざす魔術をかけてから、最初から展開していたのだと思い出して頭を振る。
長い髪が煩わしく、魔術を溜め込むものだとわかってはいても切り落としたくて堪らない。
走っても走っても、影はどこまでも追いかけて来た。
「あそこだ!郵便舎があるぞ!」
とうとう、なぜ自分はこの王族を囮にして道に転がせないようなふざけた誓約などに縛られているのだろうとリーベルが嘆き始めた時、ジュリアンの喜びが滲んだ声が聞こえた。
「…………郵便舎?!」
通りを挟んだ向こうに、煌々と明かりのついた大きな石造りの建物がある。
郵便舎を示す魔術記号が扉に刻まれており、赤い木の実をつけた小枝が扉に吊るされているのは営業している証だ。
咄嗟に幾つもの防壁と攻撃魔術を背後に組み立てて時間稼ぎをすると、リーベルはジュリアン共々、目に入った郵便舎の扉を掴み開けて二人で同時に中に転がり込んだ。
中にはお客がいたようだ。
幾つか悲鳴のような声が上がり、建物の中にいた死者達が逃げ出してゆく。
しかし、やはりあの鐘は危ういものが出現したという合図だったのか、誰も外には逃げようとはしなかった。
(………これで、何とか一息つける)
あの影がこの中まで追いかけてくるにしろ、ここには幾らでも他の獲物がいる。
死者の国の災厄であれば、その住人達に対処して貰おうではないか。
そんなことを考えながら床に座り込んでいれば、隣の王子がひどく嫌そうな顔をした。
「おい、………これをどうにかしろ」
「…………今度はこちらですか」
「……………説得は得意なのだろう?」
ゆらりと揺れた影に視線を巡らせると、郵便舎の職員達が、不審者を排除するべく立ち上がったところだった。
とは言えこちらも、もう一度外に出るつもりはない。
「…………さて、説得出来ますかね」
そう呟きながら、リーベルはすっかり上がってしまった呼吸を整えた。
今夜は、随分と長い夜になりそうだ。