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128. 死者の国に落ちました(本編)



その日のネアは、つくづく災難であった。


ディノと初めての旅行でシュタルトに来ており、楽しい最終日を過ごす筈だったのだ。


それなのに、楽しいトロッコ列車に乗って楽しんでいれば、空からハリネズミ姿の政治犯が落ちてきて、尚且つそれを追ってきたらしいあわい妖精に唐突に殺されそうになり、そちらが解決したかと思えば、昨日に人違いで絡まれたガーウィンの枢機卿リーベルとの接触から、彼を監視していたらしい第四王子ジュリアンに興味を持たれてしまった。


おまけに、朝にアルテアから貰った飴玉は、そのジュリアンを狙い仕込まれた死者の門であり、発動させてしまった結果よく知らない人達と一緒に死者の国に落とされたのだ。



(そして、死者の国は一ヶ月後の死者の日にならないと、出られない模様)



魔術の理で隔絶された世界なのであれば、理ものに弱い魔物達はまず助けに来れないだろう。

色々な事があって現実を学んでしまったネアは、もう既にそんな気がしてならない。

この世界では、万能のような魔物も万能ではないのだ。

それがまたいいところなのだが、こうしてトラブルに巻き込まれるとかなりの弱点となる。


(それにしても、昨日から少しものんびり旅行じゃない…………)


実はネアは、ジルフに出会ったあたりから気になっていることがあった。

昨日に事故で狩ってしまった、星渡りだが、確かあの生き物は凶兆になるので人間にはあまり喜ばれないと魔物が話していなかっただろうか。


「……………むぅ」


そう考えると腕輪の中の獲物は道端に捨てて行きたかったが、今はよく分からない土地にいるのだ。

どんな利用価値があるのかわからないので、ひとまず持っていよう。



「……………地味だな」


そうして、ネアがそんなことを思案している内に、こちらをじろじろと見ていたジュリアンはそんな結論を出した。


「お前の魔物は使えないのか?」

「呼んでみましたが、やはり来れないようです」

「………使えんな。私の使い魔も、何の返事もない。あれは、戻ったら廃棄だな」

「ジュリアン様、ここではどんな魔術契約の生き物でもそうなりますよ。隔絶された場所なのですから」

「であれば、お前達が私を守るといい。歌乞い、お前の魔術可動域は幾つなのだ?」


淡い金髪に緑がかった灰色の瞳をした美貌の王子は、遠慮なくネアの瞳を覗き込む。

開始早々から嫌な質問に遭遇してしまったネアは、虚ろな目のままぽそりと答えた。


「六です」

「六百か。良くはないが、使えはするか」

「いえ、六の下には何もつきません。ただの六です」

「いや、そんなことはないでしょう!仮にもあのような魔物と契約されているのですから!」


焦ったのはリーベルである。

ネアが、ジュリアン王子を邪険にする為に言っていると思っているようだが、彼はダリルからネアのスペックを聞いていないのだろうか。


「魔物が何でもしてくれるので勘違いされがちですが、蟻程度の魔術可動域なのは事実ですよ。ただし、抵抗値はとても高いそうです」

「馬鹿な!それではお前は何の役に立つのだ!抵抗値など高くても、魔術は編めないではないか」

「…………申し訳ありません」


そう頭を下げたネアに、男達は何とも言えない空気を纏った。

あからさまに見下すような目になったジュリアンもそうだが、リーベルですらどこか酷薄な計算をしているような気配を漂わせている。


(自分達を牽制する魔物もいないし、足手纏いになるのなら、素早く切り捨てようと判断しそうな人達だわ……)


何だかこの空気は懐かしいぞと思いつつ、ネアは脳内で幾つかの試案を組み立てる。

ここがもし死者の国であれば、真っ先に頼りたいのはウィリアムだ。


彼だけでなく、他の知り合いの名前も一通り呼んでみたい。

しかしながら、ここではそんな風に知り合いの名前を気安く出せないというのも問題なのだ。

ジュリアン王子が共にいる以上、ネアの持つ危うい情報や技術は見せない方がいい。


そうちらりと視線を向けて、作戦会議している男達から死角になるよう、持ち物確認とその調整に入る。

実は今朝、少しだけ警戒心を強めて打っておいた手があるのだ。

まさか死者の国に落ちるとは思っていなかったが、うっかりジルフの本体に遭遇したり、鍵盤の魔物に遭遇してしまったり、リーベルが思い直して荒ぶったりと、幾つかの事故パターンを想定してはいた。

何事もなかったのであれば油断もするが、不安要因の端っこが見えた以上は用心しておくに越したことはないからだ。

何しろ、ネアは圧倒的な事故率を誇る。


(あまりにも高位の生き物達に遭遇し過ぎて、魔術的な場になってるからだと言われたこともあるけれど………)


何とも言えない理不尽さにもやもやしつつ、呆然としている風のまま周囲を観察した。

地面の乾き方を見るに、雨は降っていなさそうだ。

この曇天も湿度は高くないので、しばらくは傘の心配がなさそうなのが有難い。


(死者の国仕様の曇り空なのかも?)


何となくだが、爽やかな晴天の死者の国というイメージはない。

少しだけ風があって、ジュリアン王子の羽織った深緑に金糸の刺繍が美しいケープを揺らしていた。


ネアが見る限り、各王子にはそれぞれのイメージカラーのようなものがあるようだ。

どんな色彩も着るには着るのだが、自身のイメージを大きく逸脱しない感じなのである。

ヴェンツェルは赤で、エーダリアが青であり、謎に包まれたままの第三王子を飛ばし、この王子は緑であるのだろう。

因みに、ロクサーヌが溺愛している第五王子は黄色がイメージカラーであるのだとか。



「ジュリアン様、緊急時用の魔術道具はお持ちですか?」

「幾つかな。だがあまり多くはない。お前が前衛をやれ」

「先程の、強制転移の転移門はまだありますでしょうか?」

「あれはかつてネイに持たされたものなのだ。白持ちの魔物の結界でも侵入出来ると言われていたからな、試してみたかった」

「そうであれば、あの転移門を使えば或いは……」

「もうないぞ。使えるのならまた作らせればいいと思っていたからな」

「…………それは残念です。となると、戦闘にならない内に、避難場所を確保出来ると良いのですが。………かつて、死者の国から戻ったという教区の魔術師がおりましたよね。あの方は、この地で上手く生活を組み立てられたようです」

「となると、資金と伝手か」

「幸いにも、俺は信仰の僕ですからね。あの教会まで辿り着ければどうにかなるかもしれません」

「死者も信仰は失わないそうだな」

「ええ。死者達が教会に通うのが良い例ですよ。成り立ちが変わっただけで、元は人間ですから。………しかし我々は、この手で殺めた人間に出会わないように注意もしなければなりませんね」

「私の立場でもどうにもならないものか?」

「ここが、ヴェルクレアであれば。…………しかし、建築様式などを見ていますとどうもそうでもなさそうです。……と言うか、様々な土地が混ざり合っているような。……ジュリアン様」

「……………ああ、墓犬だな」



そこで二人がさっと視線を背後に向けたので、ネアはぎくりとした。

ジュリアン王子は軽薄で迂闊なだけではなく、それなりに有能でもあるらしい。

良く考えれば、王子としての教育を受けているのだから、優秀でない筈もないのだった。

こちらの世界では、才能だけでなく、王子だからこそ受けられる祝福や守護も多いと聞く。


「どちらの道だ?」

「大通りは避けたいところですが、狭い道も考えものですね。臨機応変に参りましょう」

「うむ」

「…………ネア様、墓犬の襲撃を躱わしますので、逸れないように注意されて下さい。申し訳ありませんが、俺も今は余裕がない」

「はい」


(…………もっとも無力な人材ながら、しんがりに配置されてしまった)


ここはリーベルもしたたかだ。

気を配っている風ではあるが、決してネアを手を引いてやろうとか、守ってやるというような発言はしない。

それどころか、ついてこられなければ切り捨てる気配が満々である。

置いていかれてしまっても、多分彼等は振り返らないだろう。


(でもまぁ、リーベルさんも最悪だと言っていたぐらいだし、実際にかなり余裕がないのだろう)


目指すであろう教会へも、辿り着ければという言い方をしていた。

なのでネアは、変に返事を躊躇ったりむくれたりはせずに、簡単に頷いておいた。

リーベルとて、ダリルの意向を汲んでネアのお守りをするにしても自身の安全とは引き換えに出来ない筈だ。


(最悪の場合はあのチケットを使うとするなら、まずは金庫が使えるかどうか)


こっそり腕輪の金庫を展開してみたところ、どうやら金庫魔術は生きているらしい。

それならば、落ち着いてからでも厨房への鍵を使えるかどうか試してみよう。

単純に外には出られないとしても、この世界から他の空間に繋げられれば違う場所に出られる可能性もある。


そこでネアは、まずはこっそりと首飾りを外して服の内側に隠した。

先程の資金が必要だという発言をとても警戒したのである。

物語の嫌な定番だと、目に止まるような貴金属を身に付けていると、強引に取り上げられてしまったりするのだ。


既にこちらを切り捨てて止むなしと判断をした人達を、安易に味方だと思わない方がいい。

道具を分け合うのは理想的な選択だが、相手がジュリアン王子のような人間だと、危うい綺麗事になりかねない。


しかし、こんなネアの判断でも、まだまだ随分と甘かったのである。





「…………むぐぅ」


その暫く後で、ネアは一人で街の中央にある森林公園のような緑地に転がっていた。

これだけ空が曇っているので、木々が茂る土地など壊滅的に暗いのだが、幸いなことに牙を剥いて追いかけてきた墓犬はもういない。


「…………っ、」


立ち上がろうとしたネアは、びりっと腹部に走った鈍痛に顔を顰める。

成人男性に容赦なく蹴られたのだから、そこそこに痛い。

あの完全防御の白いケープを羽織っていれば良かったのに。

じくじくと痛むお腹をさすりながら、そう思ったらじわりと涙が滲みそうになった。


(……………首も痛い)


首がひりひりするのは、爪をひっかけられた擦り傷があるからだ。

ネアはあまり大きな怪我はしない分、細やかな怪我を排除しないという守護を展開している。

その結果、ネアの首にかかっていた筈の首飾りを乱暴に毟り取ろうとした、ジュリアンの爪が抉った掻き傷はしっかりと残ってしまっている。


手を伸ばして目星をつけていた首飾りを奪おうとした第四王子は、掴むものがそこになかったことにおやっという目をしていた。

ネアは小狡いので、首元に手を当ててえっという驚愕の表情を作ってある。

ネアが隠すよりも早く首飾りに目をつけていたくらいなのだから、あの渾身の表情も目に留めてくれると嬉しい。


(手首の傷はそこまででもないかな。紙で切ったくらいの薄いものだから)


標的を変えたジュリアンが狙ったのは、腕輪の金庫だった。

ぶつりと華奢なチェーンを引き千切って奪っていったせいで、ネアは手首にも薄い傷がある。

戻り時事件の際にディノが用意してくれた新しい獲物用金庫は可愛い乳白色の宝石がお気に入りだったので、ある程度の予測はしていても奪われるのは悲しかった。


(あまり高くは売れないと言っていたけれど……)


奪われた金庫に入っていたのは、シュタルト旅行で捕まえた星渡りだ。

その前に捕まえたリズモはキャッチアンドリリースであったので保管はしていないし、幸いにも他には何も狩っていなかった。

これで他に珍しい獲物でも入っていたら、ネアは悔しくて眠れなくなっただろう。


「………っ!っう」


またじくじくとお腹が痛んだ。

守護があるので、内臓などは無事だと思うが酷い打ち身になっているのかもしれない。

人間とは不思議なもので、痛みがあると惨めさが倍増してしまう。

またしても、胸がぎゅっと苦しくなった。



(…………やっぱりか。と言うか、もうなるべくしてなった)



目を瞑れば、悪意どころか罪の意識も感じていない美しい男性の冷やかな目を思い出す。

あの後、墓犬という黒くて大きな犬に追い回されて走っていたネア達は、この公園の外周になる閑静な石畳の歩道に出たところだった。


『リーベル、あの路地を見て来い。ここで、………そうだな、息を整えてからすぐにそちらに向かう』

『……………わかりました』


一瞬何とも言えない顔をしてから、リーベルはこちらを見ることもなく指差された路地に向かっていった。


(…………あ、ここでお別れなんだわ)


気付いていないふりをして、リーベルが自分を見限ったのがわかった。

前評判では残忍だとも聞いていたので、決して意外ではない。

でも、少しだけ寂しいと思ってもしまう。


大きな街路樹の影に身を潜めながら、華美なケープ姿の王子はまだ息を弾ませているネアを見下ろす。

この時、ジュリアンは木の幹に体を添わせて立っており、へろへろになっていたネアはその足元に蹲っている構図だ。


『墓犬に見付かったのは厄介だった。あの獣は、死者の国の門番だと聞いている。地上にもいるが、あそこまで獰猛ではないな。…………お前の足では、この先もあの犬たちを振り切るのは厳しい』


冷やかに指摘されたことは、ネアも薄々感じていたことであった。

ネアとて足が遅い方ではないのだが、やはり実戦慣れしている男性の、それも魔術的な補助を得られるリーベルやこの王子には敵わない。

既に何度か足手纏い感が出てしまう場面もあり、寧ろよくも見捨てずにここまで一緒に走ってくれたものだ。


だから、そろそろこの辺りで、安全なところで隠れて待つようにとかいう体裁で、置き去りにされたりするのだろうかと密かに案じてはいたのだ。


『………はい。ご一緒させていただくと、お二人の邪魔になりそうです』

『ネアだったな、立てるか?』


危険な場所なのだから、見知らぬ人に自分の命や安全を背負ってくれとは言えない。

素直に敗退を申し出ようとしたネアに、なぜだかジュリアンは立つように言った。

首を傾げて立ち上がった瞬間、ネアは首元にがりっという嫌な感触を覚えたのだ。


『………………え、』


絶句してしまってから正面のジュリアンの眼差しに気付いて、慌てていつの間にか首飾りがなくなっているというような演技をかぶせる。

しかし、こうもあからさまに手を出されると思っていなかったので、その後にどんな反応をすればいいのかは思いつけなかった。

そういうところで、やはり経験則の少ないネアの企みは浅いのだ。


見捨てられるとしても、彼等も上辺を取り繕うと信じていたのだから。



『使えない女だな。そうなると、これしかないではないか』


躊躇いもせずに次の行動に出たジュリアンに、手首の腕輪を引き千切られる。

鎖の切れる音がやけに大きく聞こえ、手首にちりっとした痛みが走る。

何かを言おうとしても言葉を選べないまま、鋭く息を飲んだネアが見たのは、道に落ちた石ころでも見るような冷やかな眼差しだった。


(考えをまとめるだけの、一拍の猶予もなかった)


妙に冷静に、その瞬間はそんなことを考えていた。

ネアは、首飾りを手に入れられなかった瞬間、彼は動揺すると思っていた。

不意の略奪だからこそ、そこに幾許かの罪悪感や躊躇いが揺れると思ってしまったのだ。


けれど、ジュリアンはそのどちらにも時間を浪費しなかった。

ああそうか、彼は王子様なのだからとネアはそんなことを考える。


『だが、墓犬が追い付いてきたな。餌としては悪くない』

『…………っ?!』


ぞっとしたネアが行動を起こすより早く、がつんとした鈍い痛みを腹部に感じて、ネアは後ろに突き飛ばされる。

お腹を蹴り飛ばされたのだと理解するよりも早く、どすんと地面に叩きつけられ、斜面を転がり落ちるものすごい衝撃と覆いかぶさるような墓犬の鳴き声に、もみくちゃになった。




「…………避難場所と、資金。それから私の場合は、情報も欲しいかな」


お腹を押さえてよろよろと立ち上がったネアは、自分を勇気づける為にもそう呟く。

そろりと体を動かしてみたが、首の筋肉や骨などは損なっていないようだ。

結構な距離の斜面を転がり落ちてきたので、そこはやはり魔物の守護が効いているのだろう。

追いかけてきたらしい墓犬は、さすがに斜面の下まで来るのは嫌だったようだ。

気を失っていた自覚はないが、ネアが気付いた時にはもう、犬達の姿はなかった。



「……………ディノ」


その名前を呟いてみたが、何の応えもなかった。

またじわりと悲しくなってしまってから、守られることに慣れ過ぎた不甲斐なさに溜息を吐く。


「エーダリア様、ヒルドさん、ノア、ゼノ、ダリルさん………アルテアさん………ドリーさん」


死者の国であればと、ウィリアムの名前は既に何回も呼んでから諦めていた。

助けを求めていたら心細さが爆発しそうになったので、他の、助けに来れるだけの力があるのかわからない存在や、微妙な知り合いの区分の名前も呼んでみる。


「ほこり、……ダナエさんに、アイザックさん」


全ての名前を呼んでみても、周囲は静かなままだ。


「…………ディノ」


風に揺れる木の葉がかさかさと不吉な音を立て、遠くでは鐘の音が続いている。

狼の遠吠えに、差し迫った夕闇の気配。


(…………動こう。夜の森は危険だわ。どれだけ気温が下がるのかもわからないし、この国の生き物達が本格的に動くのは、夜からかもしれないから)


しっかりと落ち葉を踏みつけた白いブーツが頼もしい。

このブーツがあるだけでも、ネアにとってどれだけの助けになるだろう。

そう思って心を奮い立たせたのに、自分が転がり落ちてきた斜面を見上げたら、その角度の急さにネアは一瞬で心が挫けそうになってしまった。

深い溜息を吐くだけで、心が零れ落ちそうになる。


「…………公園ではある訳だから、どこかに出口はある筈」


先程までネア達が走っていたのは、この斜面の上にある高台の住宅地であったようだ。

そちら側から蹴落とされ公園の中の緑地に転がってきたわけだが、やはり滞在出来るような宿泊施設がある商業区画等は、上の住宅地に戻ってから探した方が良さそうだ。

と言うか、この街の地図がどこかにあれば有難いのだが。


しかしその地図がない以上、少し急いで行動する必要があった。

ネアは服の内側にしまい込んでいた首飾りを出すと、その金庫から薬入れを取り出して中の傷薬を空ける。

飲み薬になっているので、ちびりとだけ口に含み、腹部の痛みの具合をチェックした。


「……………少し、良くなったみたい?」


まだ少しだけ鈍痛が残っているが、先程よりはましになった気がする。

首と手首の傷も治したかったが、そちらは後からでもいいだろう。

まずは、今夜の宿の確保から済ませなければならないし、どうなるかわかるまでは傷薬も温存しなければ。


本当は、こんな目に遭って傷付いたのだと、木の陰に蹲って現実逃避でもしていたいが、もっと不愉快な状況に陥るのだけは避けたい。


「……………寧ろ、あの人達よりも早く、安全なところに避難したい」


そんな獰猛な欲求を口に出せば、背筋がしゃんと伸びた。

そうだ。

この世界にはもう、何一つ優しいものがないわけではないのだ。

それどころか、今のネアには大事なものが沢山あるのだから、こんなところでくよくよしている暇はない。


ふんすと胸を張るとお腹と首元がピリリと痛んだが、ネアはこれ以上気分が挫けないようにと歩き出した。

まずはこの森林公園を出ること、そして誰か話の出来るひとに出会い、今夜の宿を押さえることだ。


「……………む」


しかし、数メートルも歩かない内に、ネアは気になるものを見付けてしまった。

何やら大きく薙ぎ倒された草木があり、その下の草むらからもそもそと黒い生き物が這い出てきたのだ。

先程とは雰囲気が変わってしまっているが、どこをどう見ても墓犬である。


よく見ればこの草木の薙ぎ倒された跡は、明らかにネアが転がり落ちてきたところだろう。

どうやら、墓犬が一匹、追いかけてきてしまったらしい。



「一対一であれば、負けません!」


さっと戦闘モードに入ったネアの向いで、正面のネアに気付いてしまった墓犬は、なぜか垂直に飛び上がった。

きゃふんと鳴いてけばけばになると、お尻にぴっちり尻尾を巻きこんで耳も寝かせてしまってぶるぶると震えている。


「……………むぅ」


不審に思ったネアがじりっと間を詰めると、あろうことか墓犬は恐怖のあまり腰を抜かした。

草むらでぶるぶると震えている墓犬を見下ろしながら、ネアは首を傾げる。

よくわからないが、どうやらネアが怖いようだ。


(特別に、怖がりな個体に出会ったのだろうか………)


あるいは、首筋にそこそこの傷をつけているので、荒くれ者のようで怖いのかもしれない。


また少し近付くと、懇願するような黒い目に見上げられた。

先程までは凶悪な印象しかなかったが、こうして見れば毛むくじゃらの牧羊犬めいていて、可愛くないこともない。



「お手!」


言うことを聞くかどうか試してみれば、墓犬は全身全霊の伏せを披露してくれた。

要求と違うのでネアが眉を顰めていると、お気に召さなかったのはわかったのか、ごろんとお腹を出して最上級の服従姿勢を見せる。


(これは、…………もはや掌握したという判断でもいいのだろうか)



「………良いことを思いつきました。墓犬さん、私が今夜の宿を確保するまで、この街で護衛をして下さい。横を一緒に歩いてくれるだけで貫録がつきますので、戦ったりはしなくても良いのです」


ネアが横暴にもそんな提案をすれば、やはりある程度の言葉はわかるのか、墓犬はぴしりとお座りをした。

どうやら、お手をする文化がないだけで意思疎通は可能なようだ。


少しだけ躊躇ってから、ネアはその頭を撫ででみた。

ふりふりと尻尾が揺れたので、これはもう墓犬を調伏したという判断にしておこう。


「こうなった経緯は謎ですが、頼りにしてますね。私に噛みつこうとしたら、今晩の夕食にしてしまいますよ」


とんでもない脅し方をされ、墓犬は震えながらお腹を見せてくれた。

まだどうしてこの仕上がりなのか不明なので、定期的に飴と鞭で調教してゆこう。



「さてと、リーベルさんと第四王子様を見返してやりましょう」


まだ蹴られたところは痛んだが、少しだけ状況が好転したことが嬉しくなって、ネアはそう宣言した。

街に出たいと言えば、墓犬はきりりとして先導し始めたので、どうやら野宿だけは免れられそうである。







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